第百三十二話『雨と涙のプロローグ』
その日は酷い天気であった。
まるでシャワーみたいな大雨が降っているのに、心にこびりついた苦しみは少しも洗い流されてはくれない。
それほどまでに今の自分は苦しんでいて、悲しんでいて――――そして、穢れているのだと実感する。
「ハァッ、ハァッ……!!」
雨降る街の中を、傘も差さずに走る。
引き止めようとする友達の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。周囲の人通りは決して少なくはないのに、まるで今この世界には自分しかいないような錯覚に捉われる。
雨に打たれながら一人自問する。
どうしてこうなってしまったのだろうと。
いや、違う。
これは問いではない。嘆きだ。
もしも神様というやつがこの世界に実在するならば、その悪趣味を呪わずにはいられないのだ。
別に人に自慢できるような人生を送ってきたつもりはない。
だからといって、他人に迷惑をかけながら生きてきたつもりもない。
あの男が家にいた頃は文字通り地獄の毎日であった。
人としての自由に尊厳、そして最終的には家族までも。全てを奪われて、全てを蹂躙されて、何もかもを失って。
それでも、あの男が刑務所に行ってからは、ようやく人並みの人生というやつを手に入れることが出来た。
例え失ったものは多くとも、この先心の傷が完全に癒えることはなくとも、それでもこれからは自分の人生を生きてやろうと、少しずつ普通の日常というものに慣れていって、最近ようやく生きていることが楽しいって思え始めたのに――――あの男は再び草壁蜂湖の人生を破壊する。
「畜生ッ……!!」
あの男の妹として生まれてしまった。
ただそれだけで、何故こんなにも苦しめられなければならない。
ただそれだけで、何故幸せな人生を諦めなければならない。
そんなこと許せるはずがない。認められるはずがない。
されど、だから何が出来るのかと言われても、何も出来ることはない。
また黙って、絶えて、歯を食い縛って、あのクソ野郎がいなくなるのを待つしかない。
だが、あの男は一体いついなくなる?
また警察が捕まえてくれるのか?
いや、無理だ。詳しいことは何も分からないが、あの男が既に人の領域にないことぐらいは分かる。
きっと、この世界の誰もあの男を止めることなんて出来ないのだろう。今や少女の命は奴の掌の上も同然だ。明日気紛れに殺されるかもしれないし、或いは老人になるまで嬲られ続けるかもしれない。
どちらにせよ、草壁蜂湖の人生には、もう苦しみしかない。
「なんで、こんなァッ……!!」
そんな暗い未来を気持ちだけでも振り払おうと、先に見えた歩道橋の階段を一気に駆け上る。
どこまでも走れそうな気がしていたのに、上り切ると途端に身体が重くなった。そのまま傍らの柵に力無く寄り掛かる。
もう疲れてしまった。
走ることにも、生きることにも。
ふと、柵から身を乗り出し、下を覗き込む。
そこにはたくさんの車が走っていた。
車のライトが濡れた街に反射して、キラキラ光っていて。
凄く綺麗だと思った。思わず手を伸ばす。まるで吸い込まれるように、ゆっくりと手を伸ばす。
「……やっと、見つけたッ」
しかし、そこで草壁は固まる。
突如後ろから聞こえたのは、聞き覚えのある声であった。
「秦……」
振り返ると、やはりそこには秦周音がいた。
彼女も傘を差してはおらず、全身雨でびしょ濡れだ。長い距離を走ったのか幾らか疲れた様子だが、不思議とその顔は笑っている。
「なんで、お前がこんなところに……」
「なんで見つけられたかって意味なら百パーセント運だよ。どうして探しに来たって意味なら自分の友達に感謝すんだね」
「そういう意味じゃ、ねえよ……なんで、お前があたしを態々――――」
「アンタさ、今飛び降りようとしてたよね?」
何を言われているか分からず、草壁は小首をひねる。
しかし、直後に戦慄した。
「……あっ、あたしは」
あの瞬間、確かに草壁蜂湖は死のうとしていた。
にも関わらず、全くそのことを自覚していなかった。
まるで見えないものに背中を押されるように、無意識のうちに死を求めていた。もし、あのときここに秦が現れていなかったら、今頃自分は――――、
「クソッ……!!」
途端に吐き気がこみ上げる。身体が小刻みに震え出す。
不安のあまり、自らの腕で自らを抱き締めずにはいられない。
――――なんなん、だよ。お前はッ……!?
知り合いが目の前で自殺を図ったにも関わらず、秦周音は別に悲観な表情を浮かべているわけではない。
むしろ、こちらが驚くほどに彼女はいつも通りであった。
いや、正しくはそのように振る舞っているのだろう。
いつも通り気さくで、適当で、自由人で、親しみげがあって。されど、今彼女がこれ以上ないほどに真剣であることは草壁にも分かる。
「だからなんだよ。お前には、関係ねえだろッ」
「関係なくても構うよ。だって、蜂湖ちゃん本当は死にたくないんでしょ?」
「ッ――――――――――――――」
瞬間、草壁の頭の中は真っ白になる。
確かに元々こいつのことは気に食わなかった。草壁蜂湖が持っていない全てを持っている秦周音という人間が妬ましかった。それでも、気に食わないだけで嫌いではなかったのだ。
「死にたくない、だあッ……!? 適当なことほざいてんじゃねえぞクソ野郎がァアアアアアアッ!! 」
だが、今のは本当にムカついた。
心の底から殺してやりたいと思った。
激情の赴くまま、高い位置にある胸倉を掴み取る。
「自殺なんてよくない、間違ってますってか? ふざけんじゃねえ。お前がそんな綺麗事をほざけるのはなあ、まだ死んだ方がマシだと思えるほどの地獄を味わったことがねえからだッ。どうせこれまで何一つ不自由することなく幸せに生きてきたんだろ。そんなお前にッ、お前なんかにッ……!! あたしの気持ちが理解出来てたまるかよおおおおおおおッ!! 」
草壁蜂湖と秦周音は何もかもが違う。
この女は頭が良い。見た目も良い。いつも笑っていて、周りにはたくさんの人がいて、誰からも好かれて、誰からも慕われて。此奴の顔から悲しみだとか苦しみだとか、そういったマイナスの感情を感じとったことは一度もない。
この女は恵まれている。嫌いになるのは当然だ。殺したくなるのも仕方がないだろう。それほどまでに、草壁蜂湖と秦周音は何もかもが違うのだ。
「うん、私に蜂湖ちゃんの気持ちは分からないよ。軽々しく分かるだなんて、言っちゃいけないとも思ってる」
「だったら、偉そうに人の選択に口出ししてんじゃ――――」
「でもね、今蜂湖ちゃんがすごく辛くて苦しんでるってことは分かるよ」
想定外の言葉に思わずハッとする。
気付けば抱きしめられていた。
そのまま彼女はまるで母親が子供をあやすように、優しく、温かく。
「どうしたの?」
そう、囁くように問うてきた。
直前までの怒りなんて、一瞬で何処かへ行ってしまった。
代わりにこみ上げてきた感情の名前は分からない。分からないけれども、自然と涙が溢れ出てくる。
「違うッ、あたしはッ……!!」
そこで草壁蜂湖はようやく気付く。
引き留めようとする友人を振り払って逃げたにもかかわらず、結局自分はこうして誰かに見つけて欲しかったのだ。誰かに見つけてもらって、この胸の痛みを誰かに聞いて欲しかったのだ。
秦はそれ以上は何も言わず、黙って草壁が話すのを待っている。
思わずその優しさを受け入れそうになる。今抱えている全てを投げ出して、寄り掛かりそうになる。
だが、ダメだ。それだけはダメなのだ。
「やめろッ。放せッ。あたしに手を差し伸べようとすれば、きっとお前もッ……!!」
脳裏に兄の顔がよぎる。
秦周音が草壁蜂湖の拠り所となれば、草壁蟻間は絶対に秦を害そうとするだろう。あの男はそういう人間なのだ。だからッ――――、
「放せよッ!!」
秦の両肩に手をかけ、力を込めて突き飛ばす。
そのとき必要以上に強く押してしまったのは、何も悪意があったからではない。ただ彼女を拒絶しなくてはならないという思いが、行動に反映されただけのことであった。
「えっ」
しかし、突然突き飛ばされた秦は、当然のように足を滑らせた。少女はバランスを崩し、真後ろに倒れ込む。このままでは、彼女は頭から階段を転げ落ちる。
「秦ッ……!!」
一気に血の気が引く。
草壁は反射的に手を伸ばす、が届かない。
されど――――、
「ははっ、あっぶないなあ……。流石にビックリしちゃったよ」
正に間一髪であった。
秦は咄嗟に傍らの手摺りを掴み、なんとかギリギリのところで転倒を回避したのだ。
「秦……」
いやあ死ぬかと思ったとヘラヘラ笑う秦に、草壁は心の底から安堵する。もし彼女があのまま階段を転げ落ちていたらと思うと、ゾッとするどころの話ではない。
『なるほどね。いやいや、いけないなあ。これは非常によくない』
「ッ――――――――!!」
その瞬間、背後から突然知らない男の声が聞こえてきた。
反射的に振り返ろうとするが、何故か全く身体が動かない。それどころか声すら出せなかった。
――――一体、何がどうなってるッ……!?
動けないのは草壁だけではない。
目の前の秦もその場で完全に固まっている。
歩道橋下の道路を走る車の数々も、空から降り注ぐ無数の雨粒さえも、まるで時間が止まったかのように全てが停止したのだ。
『まさか可英を殺した弊害がこんなところに出てくるとはね。本来死なないはずであった人間が死んだことで、代わりに本来死ぬはずであった人間が死を免れた。うん、確かに話の辻褄は合っている』
男の口調は優しい。むしろ紳士的ですらある。
にも関わらず、なぜか酷く恐ろしい。
その声を聞いているだけで身が竦む。今動くことができたならば、ただ息を吸って吐くことすら難しくかったであろう。
全殺王に身体を乗っ取られたときも、あの兄に嬲られている最中でさえ、これほどの恐怖は覚えなかった。
暴力を振るわれるから恐ろしいだとか、殺されるかもしれないから恐ろしいだとか、そんなレベルではない。
得体が知れない。コイツが何者であるか、それどころか人間であるかどうかすら分からない。
そのことが何よりも恐ろしいのだ。
『でも、すまないね周音くん。君にはこの段階で死んでいてもらわないと困るんだよ』
その直後、止まっていた時間が再び動き出す。
空から雨粒が降り注ぎ、目下の道路でも車の往来が再開される。
当然草壁も例外ではない。
駆け出す体勢で止まっていたせいで、前に倒れ込みかけるのをなんとか堪える。
「はた、の……?」
何故か目の前から秦周音の姿が消えていた。
その直後、まるで肉を木の棒で打つような鈍い音が下の方から響き渡る。
訳が分からない。もう暗くて辺りの様子もよく分からない。
それでも不安に駆られるがまま、音の聞こえた階段の下を覗き込むと――――、
「えっ」
階段を降り切った先の路上で、秦周音はうつ伏せで倒れていた。
草壁は言葉にならない声を上げながら、慌てて階段を駆け下りる。
「オイ大丈夫かッ!? 秦ッ!!」
肩を揺らして呼びかけるが返事はない。
頭を打った衝撃で気を失っているのだろうか。
しかし、そんな希望的観測は即座に否定される。
「――――――――――これ、って」
秦は頭から大量に出血していた。
後頭部の傷口は、人体としては不自然なほどに大きく凹んでいた。
「オイ、嘘だろ……なぁ、起きろよ秦……」
こんなの医学の知識など何もない草壁でも分かる。
それでも彼女は諦め切れず、秦の身体を抱き寄せ、その顔を覗き込む。
「なんで、こんなッ……」
秦の目は開いていた。
しかし、その瞳は最早何も見てはいなかった。
草壁蜂湖は慟哭する。
恥も外聞も忘れて、泣き狂い、叫び狂う。
何度その名前を呼んでも、何度その体を揺さぶっても、最早秦周音は草壁蜂湖の声に応えてはくれなかった。
♢
六月十三日の正午、ところは『叡智の塔』屋上。
頭上に白雲の広がる、見晴らしのいい展望台でのことだ。
周囲を囲む落下防止用の柵に肘を掛けながら、人類王は後ろ目で地上とそこに暮らす人々の姿を眺めていた。
平和な街並み、平凡な日常。
樋田可成が救った世界を一瞥し、王は口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「草壁蟻間、彼は本当に良い仕事をしてくれたな」
呟きながら、人類王は懐から白いカードのようなものを取り出す。
それは『鍵』であった。
天界を満たす莫大な『天骸』を己が力として引き出すことを可能とする、十三王にのみ許された特権術式。
人間対ダエーワの戦争が起きたあの世界線においては、草壁蟻間が秦漢華を天使から神へと昇華させるのに用いたが――――王が今手にしている『鍵』は、まさにその『鍵』である。
「漢華くんは前回同様『一元』に達した。可成くんがこの段階で天使の力に目覚めたのも嬉しい誤算だね」
謳うように呟きながら、王は空を見上げる。
どこぞの方角より強い風が吹き、それまで青空を覆っていた大雲がゆっくりと散らされていく。
天界を憎むものは多い。
彼等は皆、いつかこれを滅ぼすことを望む。
しかし、其の中に本気で天界を潰す筋道を立てている者が果たしてどれだけいるか。
天界は数だけ考えても数千数万の天使を抱える。
其の中には卿天使や王といった一騎当千の輩も少なくはない。
天界の王は『鍵』の恩恵によってほぼ無尽蔵に近い『天骸』を抱え、加えて十三しかない『神権代行』のほとんどを独占する。
冷静に考えて、勝てるはずがない。
むしろ本気で勝とうと思う方が馬鹿げている。
だからこそ地上における反天活動は、たかが碧軍風情との抗争、良くても地上に派遣された天使の討伐に留まっているのが現状である。
だが、人類王は違う。
反天を標榜する有象無象の中で、彼だけは唯一天界撃滅までの確かな道程を歩んでいる。少しずつされど確実に。このまま予定通りに事が運べば、彼が天を地上に叩き落とす日もそう遠くはないだろう。
しかし、彼は教師だ。
分かり切った行動から生じる分かり切った結果に興味はない。
人類の進化を先導する存在としても、常に万事の発展と成長を求めずにはいられないのだ。
「本来の予定からは大幅にズレるが、そろそろ一度仕掛けてみるか。お前もいい加減、平穏な玉座に座し続けるのには退屈してきた頃合いだろう。なぁ、泰然王」
これにて拙作『隻翼ノ天使 〜堕天系美少女と殺伐同棲』の第三章「千年罪歌」は無事完結となります。まずはここまでお付き合い頂いた読者の方々に感謝を。
これより三章における用語集を投稿した後は、次章に向けてのプロット作成及び書き溜め、そして第一〜三章の改稿作業のため、しばらく更新をお休みさせて頂きます。
いつ更新を再開出来るか現時点では分かりかねますが、出来る限り早く第四章の投稿を始められるように努力致します。