第百三十一話『忘れたくても忘れられない』
筆坂晴、松下希子、隼志紗織。
見目麗しい少女達の集うリビングは、今緊迫した空気で満ち溢れていた。
机を隔てて睨み合う晴と紗織。そんな二人を横から見守る松下もまた、組んだ手を緊張の汗で濡らさずに入られない。
古来より人間とは闘争する生き物である。例えなんの利益もないと分かっていようとも、己が相手よりも優れていることを証明せずにはいられない。
そして、今この場には女が三人もいる。
ならばやるべきこととは当然、腕力を以て強者と弱者を格付けするアームレスリングしかない!
「紗織いいい頑張って下さああああいッ!! 筆坂テメェ負けろやオラァッ!!」
「ハッ、馬鹿ぬかせ。相手はあのリンヌだぞ。こんな如何にも女の子って感じのメルヘンガールに、このワタシが負けるわけなかろうがッ!!」
「もぉ、晴ちゃん絶対私のこと馬鹿にしてるでしょッ!! 私こう見えて実は結構力ある方なんだからねッ!!」
「ほー、そいつは楽しみだッ!! しからば早速ひと勝負といこう。ほら手ぇ出せい手ぇッ!! よし、行くぞレディーーーーーー、ゴォッーーーーーー!! はい、俺の勝ち。なんで負けたか明日までに――――――ってちょっと待てちょっと待て待て待て待てそんなんおかしいじゃろッあああああ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いィあんぐりはいやわぱああああああああッ!!!!」
筆坂晴対隼志紗織。
まあ多分晴が勝つだろうと思われた戦いは、意外にも隼志紗織の圧勝に終わった。
腕相撲が始まると同時、晴は紗織の腕を半ばまで倒しかける。されど、そこから紗織は一転攻勢。調子に乗っていた晴の腕を一気に押し返し、そのまま手の甲をテーブルの上に叩きつけたのであった。
「はい、私の勝ち。みんなが足を補助に使えること、私は全部腕だけでやってるんだから負けるわけありません」
「……確かに言われればそうであるな。仕方ない、ここは素直に負けを認めよう。これからはリンヌではなく尊敬の念を込めてゴリンヌと呼ぶべきだな。流石はゴリンヌ、そのうち『白い賢人』とか『黒い賢人』とか出せるようになっても不思議ではない」
「…………………晴ちゃん?」
「おいおい何故そう怖い顔をする? 別に馬鹿にしているわけではないぞ。ワタシは本当にリンヌのことを強くて優しい森の賢者として尊敬――――オイ待て待てちょっと待てッ!! 分かった分かったッ!! 前言撤回するゆえ笑顔で握手を求めてくるのはやめろッ!!」
「コイツ本当にうるせえなあ……」
そんな女三人寄れば姦しいを体現するようなやりとりを、樋田は少し離れたところから眺めていた。
あの騒動の終結から十日が過ぎた――正確にはなかったことになったのだが――本日六月二十二日は、サオリンヌこと隼志紗織の誕生日である。
晴、松下、紗織はもうすっかり仲良し三人組になっている。だからこそ晴や松下が彼女の誕生日を祝おうとするのは分かる。
樋田でもそこまでは理解出来るのだが――――、
「なんで会場俺ん家なんだよ……」
そんな樋田のぼやきに答えたのは、いつのまにか隣に寄って来ていた松下であった。
「だって此処会場にでもしない限り、先輩絶対参加してくれないじゃないですか」
「えっ、なに? つまり希子ちゃんは俺に参加して欲しかったの? もしかして希子ちゃん俺のこと好きなの?」
「はい、先輩のことは超愛していますよ。主に御給仕及び後片付け要員として」
「奇遇だな。俺もお前のこと便利なテレポートマシンとして愛してるから相思相愛だ」
そう適当に軽口を叩くと、松下は「先輩マジキモいです。そういうことは紗織になってから言ってください」と嬉しそうにケラケラ笑う。
そうかあ、やっぱ俺もそろそろ紗織にならないとダメかあ。確かに高校生にもなって紗織じゃないとかダサイ通り越して最早恥だからな――――と、クソくだらないことを考えていると、玄関の方からピンポーンとインターホンの音が鳴り響いた。
ドアホンの受話器を取って「はい」と応えれば、「こんにちは、銅の皿でーす」と返ってくる。
「よし来たァッ!! 寿司来たぞ寿司ィッ!!」
「うるせぇな、暇なら皿やら箸やら配膳でもしてろ」
合点承知と台所へ去る晴を尻目に、樋田は真っ直ぐ玄関へと向かう。
配達員から五十貫くらい入ってる寿司桶を受け取り、そのままリビングへと戻る。
テーブルの方を見れば、テンション高めに皿を運ぶ晴、それをテキパキと並べるサオリンヌ、そして全てを二人に任せ優雅にスマホを弄る松下と、それぞれがキッチリそれぞれの役割を果たしていた。
配膳の終わったテーブルに寿司桶を置くと、ふと目の前のサオリンヌと視線が合う。
「樋田さん、今日は本当にありがとうございます。お邪魔させてもらったばかりか、こんなに色々良くしてもらっちゃって」
「別にそんな大したことしてないけど、まあどういたしまして」
「それで、あの、それっていくらくらいでした?」
言いながら紗織は財布を取り出そうと鞄に手をかける。
いい子だなあ可愛いなあ律儀な子だなあと感心しつつも、流石に五つも歳下のJCに割り勘を強制するほど落ちぶれてはいない。
「あははッ、いやいやいいよそんなの全然気にしなくて。強いて言うなら、紗織ちゃんうちの晴と友達になってくれてるじゃん。その迷惑料ってことで」
「よっ、カセイ太っ腹ッ!!」
「先輩ゴチになりますッ!!」
優しくて可愛いサオリンヌに気を遣っていたら、なんか優しくも可愛くもない奴等が便乗してきた。
「俺とお前らで割り勘に決まってるだろッ……」
「はぁあああああなんだオマエ吝嗇すぎじゃろッ!!」
「そうですよッ!! 松下だって頑張って筆坂さんの友達やってるってのに、流石にクソケチすぎませんかねえッ!?」
案の定不満たらたらの合法ロリと違法ロリであるが、そのうち違法の方は「あっ」と突如何かを思い付いたような声を上げると、
「今度先輩が『うわー家帰りたいけど、家帰るの超めんどうくせー』ってなったとき、松下が先輩を家までテレポートで連れ帰ります」
「よーし、契約成立」
「しゃあああああッ、一抜けぇええいッ!!」
松下は心から嬉しそうにガッツポーズを決める。こいつどんだけ金払いたくねえんだよと思いつつも、そのバイタルには呆れるを通り越して逆に感心してしまう。さて、それで残された筆坂さんはというと、
「なっ、なあカセイ……当然我が家のお金は二人の共有財産であるよな。で、あるよな?」
「別にお前と結婚した覚えはねえよ……」
「はあ、なんだキサマァッ!? 折角こんな可愛いワタシが態々オマエなんかと一緒に住んでやってるというのにッ!! もっとワタシを特別扱いしろッ!! FUDESAKA FIRST!FUDESAKA FIRST!そもそも仕送りで奢るとか何もカッコよくないどころか普通にクソダサイからなあッ!!」
「馬鹿言うんじゃねぇ。これは昨日俺に絡んできた清水なんとか君がくれた金だからちゃんと俺の稼ぎだわ」
樋田がそう言って席に着けば、流石の晴も諦めたのか隣にちょこんと座る。
さて、これで隼志紗織生誕祭in2016の準備は整った。
乾杯の音頭をとるのは勿論、紗織大好きレズこと松下希子である。彼女は周囲が落ち着くのを見るや否や、よっと立ち上がってコップを頭上高く掲げると、
「それでは皆さんご一緒に……紗織ィイイ、生まれてきてくれてありがとォオオオオオッ!!」
「いぇーい、我等がリンヌの可愛さは世界一イイイ!」
「ちょっ、ちょっとやめてよ希子ッ。その、はっ、恥ずかしいからァッ……!!」
ノリノリで乾杯する晴と松下、そして横から控えめにコップを当てる紗織。一方の樋田といえば適当に小さい声で「ぇーい」とか言って、一人コップを軽く持ち上げるに止まる。
うーん、場違い。
果たして樋田がこの場にいる意味はあるのだろうか。
仲良しJC三人組の中に高校生のオスが一匹。うん、こいつ絶対いらねえな。むしろ百合に混ざる男として人権凍結されても文句は言えない。場違いすぎてなにこれバチハラなの? って感じであった。
「ちょっと筆坂さん中トロは一人一貫までですよッ!! なにさらっと二貫目行こうとしてんですかッ!?」
「いや、リンヌは多分中トロとか食わんじゃろ。可愛い女の子は卵とイクラしか食わんイメージがある」
「なにその謎の偏見ッ!?」
三人が楽しそう?に騒いでいる姿を、樋田は一人黙って眺める。
彼女達が屈託のない笑顔を浮かべているのを見ると、あの悲劇は本当になかったことになったのだと実感する。
松下や紗織はもちろんのこと、あの晴ですら何も覚えてはいない。
当然と言えば当然だ。過去改変によって世界そのものが変質してしまったのだから。きっとこの世界であのことを知っているのは樋田と人類王だけなのだろう。
――――だが、何もかもゼロになっちまったわけじゃねえ。
変わった変わったと言っても、変わらなかったものだってある。
実際、樋田と晴はこちらの時間軸においても、学園でのいざこざを曲がりなりのハッピーエンドに収めたらしい。
まあそれでも詳しい話を聞いたわけではない。
あの事件から秦漢華というピースが欠けたことで、どれだけの変化が生じたかについては分からないままではあるが。
「――――ねぇ、可成くん醤油取ってくれる?」
「あぁ」
目の前の少女にそう言われ、何の気なしに醤油を手渡そうとする。
しかし、その直後樋田はギョッと驚いて目を見張る。
「……あの、醤油じゃなくて山葵とって欲しいって言ったんですけども」
しかし、我に返ると其処に座っていたのはやはり松下希子であった。
当然、秦漢華ではない。見た目も背丈も大きく異なる彼女を、何故秦と見間違えたのだろうか。
嫌な汗が流れる。醤油片手に思わず固まる。
そんな明らかに様子のおかしい樋田に、松下はダウナーなジト目を怪訝そうに細めていた。
「あぁ、山葵な。悪い悪い」
「あっ、はい。ありがとうございます」
そう言って、努めて自然に山葵を手渡す。
それでも松下は何か引っかかるような顔をしていたが、そのうち気のせいだと断じたのか、何事もなかったように晴や紗織との会話へと戻っていく。
どうやら自分で思っている以上に樋田可成という男は女々しいらしい。
たかが一人の女に忘れられただけだ。それも恋人だとか、十年来の親友だとかにというわけでもない。
彼女は今も生きている。樋田の知らないところで、樋田の知らない人間と、これからを幸せに生きていく。
何も悪いことなんてない。むしろこの上なく正しい。本来樋田可成こそがこの世界を最も肯定するべきなのだ。なのに、それにも関わらず――――――、
――――アホくせぇ。
正直、食欲はない。
それでもこの鬱屈とした気分を改めようと、おもむろに箸を手に取る。
馬鹿な幻想を見るのは、いつまでも過去を悔やむのは、まだこの新しい世界に心が馴染んでいないからだ。それでも、いつも通りに振る舞っていればそのうち慣れる。思い出は薄れ、別離の悲しみは消え去り、やがて秦と関わらないこの世界の方が当たり前になる。
「おい」
「ッ――――――――――――――」
左方からの唐突な声に樋田は顔を上げる。
この声を、忘れるはずもない。決して、忘れてはいけない。
世界の誰もが彼女のことを忘れたとしても、樋田可成だけはその声を覚えていなければならない。
彼女の怒っている声を聞いた。
苦しんでいる声を聞いた。
泣いて、助けを求める声を聞いた。
にも関わらずその全てを聞かなかったことにしたのだから。
「おい、聞こえてねえのか」
いつのまにか隣に草壁蜂湖が座っていた。
しかし、様子が尋常ではない。透き通るような亜麻色の髪は鮮血に染まり、そのこめかみには銃で穿たれたような穴がぽっかりと開いている。
戦慄する。
強烈な吐き気に襲われる。
金縛りにでもあったかのように身体が動かない。
「手、汚れているぞ」
言われて自らの右手に視線を走らせ――――瞬間、樋田の頭の中は真っ白になる。
見慣れた自分の手は、血で真っ赤に染まっていた。
反射的に左手で拭おうとするが、落ちない。いくら拭っても、何度拭っても、落ちない、落ちない落ちない落ちない、落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない――――――――、
「オイ、カセイッ!!」
自らの名を呼ぶ声に、樋田はハッと我に返る。
恐る恐る隣を見れば、最早そこに草壁の姿はなく、筆坂晴が心配そうにこちらを見上げていた。手にこびりついていた鮮血もいつの間にか消え失せていた。
確かに手は今も汚れてはいる。しかし、それは知らぬ間に着いたであろうただの醤油であった。
「どうしたオマエ、最近なにやら様子がおかしいようだが……?」
机を挟んだ向こう側では、松下と紗織もいつの間にかお喋りをやめていた。
申し訳ないなあと心の中で呟く。折角の楽しい祝い事だというのに、空気を壊してしまって、本当に申し訳がない。
いつかはこの世界にも慣れると言った。
やがて思い出は薄れ、別離の悲しみも消え去ると、
だが、そんなのは嘘だ。
自分の気持ちを誤魔化すための詭弁だ。
忘れるはずがない。忘れたくなんかない。
秦漢華に忘れられる。ただそれだけのことがどうしても耐えられない。
早く忘れたい。罰を受けて楽になりたい。
それでも、犯した罪だけは絶対に消えることはない。
「いや、別になんでも――――」
そう言いかけ、やめる。
晴はさっきから様子がおかしいではなく、最近様子がおかしいと言った。
結局、何もかもお見通しなのだろう。晴も前の世界のことは何も覚えていないはずなのに、それでも何かあったと思われる程、今の樋田は壊れているのだ。
秦漢華の幸せを守りたいならば、前の世界のことを知ってるヤツは一人でも少ない方がいい。
だから話さなかった。隠してきた。そのくせ誰かに聞いて欲しくて、知って欲しくて、そんな矛盾があって――――だが、例えそうだとしても、
「悪い。ぶっちゃけあんま体調良くねえわ。和室で寝ててもいいか」
「なら早くそう言わんかッ。大丈夫なのか? 熱があるわけではないようだが……」
「いや、そこまでじゃねえよ。経験上ぐっすり寝りゃどうにかなる程度のアレだ。悪いな、折角の日に心配かけるような真似しちまって」
そう言って樋田は席を立とうとする。
松下と紗織が心配そうな視線を向けるなか、晴は樋田にだけ辛うじて聞こえる声で言う。
「いつか話したくなったら聞いてやる」
「……あぁ、いつかな」
それだけ言い残し、和室に入って襖を閉める。
体調云々は方便であっても、正直言って気分はあまり良くない。まだ時間は早いが、今日はもう何も考えずに眠りたい気分であった。だから、樋田は布団を出そうと、奥の物置を開き、
「っ」
そうして、小物をまとめて放り込んでいる箱の中に、懐かしいものを見つけた。
なんの変哲もない焦げ茶のヘアピン。
かつて晴が樋田に押し付け、前の世界では樋田が秦に送ったものだ。結局彼女は一度もつけてはくれなかったが、今となってはこれだけが唯一秦との繋がりを感じられるものである。
だから、捨てることにした。
ベランダに臨した窓を開き、ふらふらと外に出る。
別に何も大したことはない。ただ軽く柵の外へと放ればいいだけだ。
それでも中々決心が付かない。
だから、樋田は大きく右手を振りかぶった。
このまま勢いに任せて、手を離してしまえば、それで全て――――――、
「はあ……、はぁ……はあ……」
力無く、ゆっくりと手を下ろす。
結局、捨てることは出来なかった。
こんなただのヘアピン。
持っていても、再び二人の人生が交わることなんてあるはずもないのに。
「畜生ッ……!!」
樋田はそのまま崩れ落ちるように膝をつく。
何故あれほど苦しい思いをしてまで、秦漢華を救おうとしたのか。
何故、秦の声が耳にこびりついて取れないのか。
何故、秦に忘れられることがこれほどまでに耐え難いのか。
それが正しいと思ったから?
それとも、正しく生きている奴は報われるべきだと信じたから?
違う。
違う違う。
そんなものは、全部建前だ。
嫌われることが怖くて、否定されることが恐ろしくて。そんな臆病な自分を包んで守るための理論武装に過ぎない。
例え忘れられようとも、もう二度と会えずとも、彼女がどこかで幸せに生きているならばそれでいい――――ふざけるな、それで良いわけがないだろう。
あれだけ苦しんで、何度も傷つけられて、心を抉られて。
痛みに慣れるなんてありえるはずがない。本当はそう言って強がっているだけなのだ。
死ぬことだって怖い。刃を突き付けられれば身は竦むし、殺意を向けられれば戦慄する。それでも躊躇すれば本当に殺されるから。殺されたら守りたいものを守ることが出来ないから。
恐怖を飲み込んで、押し殺して。
出来ないことでも出来ると信じて成し遂げて。
そうやって命を懸けて頑張って、何度挫けそうになっても諦めずに頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って――――――――――――――、
「結局……俺はッ……」
そうして、樋田はようやく自らの感情を認めた。
秦の見るものを一緒に見たい。
秦の聞くものを一緒に聞きたい。
秦の知りたいものを一緒に知りたい。
秦の過ごす時間を一緒に過ごしたい。
漢華の、側にいたい。
本当に、自分自身が心の底から気持ちが悪くて仕方がない。でも、ただそれだけなのだ。言い訳じみた建前や理論武装を取り除いてしまえば、動機なんて本当にただそれだけだったのだ。