第百三十話『秦漢華と草壁蜂湖』
雲一つない、よく晴れた日のことであった。
もう六月も半ばだというのに、不思議と日差しはキツくなく、かといって当然肌寒いわけでもなく、まるで春のように過ごしやすい昼下がりであった。
本日、地元港区の大通りは人が多いわけでも少ないわけでもなし。
外回り中の会社員に、昼休みだからとコンビニへと急ぐ学生。視界の端には仲睦まじいカップルの姿が見え、その奥では子供連れが嬉しそうにファミレスへ入っていく様が映る。
当然そこには瓦礫も死体も転がってはいない。
今目の前に映っている人々のうち、本当は何人が死んでいたのだろうとふと思う。
そんな彼等の眩い笑顔や、少なくともとりあえず生きている姿を見れば、やはり自らの行いは正しかったのだと思い込みたくもなる。
これで良かったのだと、自分に言い聞かせるように微かな声で呟く。
「ッ――――――――――――――――――」
そうして一人ぶらぶらと街を歩いている最中であった。
不意に見知った顔が視界に飛び込んできた。
思わず目を奪われる。そのまま視線は釘付けとなる。
まるでガーネットをそのまま埋め込んだような瞳、薔薇ですら恥じらいを覚えるであろう鮮やかな髪。どこぞより温かなそよ風が吹いて、中華風の三つ編みが儚げに揺れる。
その少女は一人カフェの前で佇んでいた。
ツンと冷たさすら感じる表情に反し、所在なげに三つ編みを弄る手は随分と忙しない。やがて少女は周囲をきょろきょろと見渡し始める。微かながら不満の色を浮かべる二つの赤は、ここにはいない誰かを求めて彷徨い続ける。
「あっ」
そんな忙しない視線が不意に停止する。
少女はこちらを見ていた。それどころか互いの目が合っているような気さえする。
大きく目を見開いた少女は嬉しそうな、されど少しだけ呆れたような顔を浮かべていた。
そのまま彼女はこちらに向かって歩き出す。しかし、その歩みはいつのまにか小走りへと変わっていて――――、
「姉さん」
そう言いながら、秦漢華は樋田可成の真横を通り過ぎて行った。
一度はすぐそこまで縮まった距離が、あっという間に開いていく。
当たり前のことだ。今の彼女にとって樋田可成とは赤の他人、或いはただの風景でしかない。
そんなたまたますれ違っただけの人間を、態々気にかけることなどあり得るはずがないのだ。
「ちょっと姉さん、私もアンタがダメ人間だってことは充分理解してるつもりだけど、連絡なし三十分遅れは流石にキレるわよ」
「ごめんって。いやあ私もそろそろ行かなきゃなあとは思ってたんだけどさあ――――って、いやいやちょっと待って、なんか漢華が珍しくお洒落してるんですけどッ。うっわ、可愛い。お姉ちゃんびっくり。流石は私の妹、磨けば光ると信じていた姉は私」
「別にこれぐらい普通でしょ……って、流れるように話題を逸らすな。大体今日誘って来たのは姉さんの方なのに……」
「でさぁ、映画見終わったらそのあとどうする? ラーメンキメちゃう? それとも脳死でスタミナ次郎行っちゃう?」
「本当人の話聞かないわねコイツ……ほら、こんなところで突っ立ってないでさっさと行くわよ――――――――」
背中越しに聞こえる声だけで分かる。
秦周音と秦漢華は実に仲睦まじい姉妹なのだと。
全殺王を事前に殺したことで、人間とダエーワによる絶滅戦争は回避された。
首都が焼け野原と化すことも、数えきれない多くの人が死ぬこともなくなった。秦漢華が笑顔で日の下を歩けるようにするという、樋田が何より望んだ願いも達成された。
ならば、やはりこれで良かったのだ。
「――――――本当に、気持ち悪りぃな。お前」
そう、素直に思うことが出来ない自分に吐き気を覚える。
微かに聞こえる姉妹の声も、彼女達との距離が開くにつれ段々と小さくなっていく。そうして二人の声が完全に聞こえなくなるまで、樋田可成は結局一度も後ろを振り向かなかった。
だからこそ秦漢華がこちらを一瞬振り返ったにも関わらず、彼はそのことに気付かなかった。
♢
まさか自分が墓荒らしのような真似をすることになるとは思っても見なかった。
正義のために草壁蜂湖を殺す決意をしてからおよそ二時間後、樋田は人類王に連れられ都内のとある墓地へと来ていた。
草壁家之墓、そう刻まれた墓石と相対する。死者を騒がすならばせめてこれぐらいはと、両手を合わせ深く頭を下げる。
「なにか手違いがなければ、間違いなくここにあるはずだ」
満身創痍の樋田に代わって、人類王が墓前から香炉を除ける。
王はそのまま蓋石を持ち上げ、カロートに手を差し入れ、そうして中に納められた骨壺を取り出す。
壺を受け取って蓋を開くと、中には石灰のような白い粉が敷き詰められていた。昔は骨片をそのまま入れていたが、最近は壺が小さくて済むよう粉骨するのだと聞いたことがある。
蓋の開いた壺を丁寧に地面に置く。
殺す覚悟を含め、これで全ての準備は整った。
「それでは始めたまえ」
人類王の声には応えず、おもむろに骨粉に触れる。
そうして、『燭陰の瞳』を発動した。
たちまち樋田の左目からは鈍い白の光が生じ、周囲には大小様々な時計の幻影が無数に浮かぶ。
『燭陰の瞳』は過去を現在の時間軸に上書きすることで、擬似的な時間遡行を可能とする力だ。当然そこへ至る過程として、過去を観測する力を兼ね備える。
秦の過去を知るため、樋田は既に一度同じことをしている。
その感覚を思い出し、左目に意識を集中させれば、途端に周囲の風景が下手な油絵のようにぐにゃりと歪んだ。
それまで広がっていた墓地の景色は後方へと流れていき、入れ替わるように前方から過去と思わしき光景が迫り来る。それはまるで高速で走る車の中から外の景色を眺めるような感覚。目まぐるしい景色の変化に吐き気を覚えかけるも、流れ行く景色はやがて少しずつ減速していく。
そうして景色の流れが完全に止まると、そこには見覚えのある土手が広がっていた。
『直接、過去の中に入っているのか……?』
前回は神の視点で過去の情景を観測するだけであったが、どうやら今回は仮初の肉体を以て過去の中を歩き回れるようだ。これも今回は人類王が協力しているおかげなのだろうか。
試しにそこらの草に手を通すも当たり前のように擦り抜ける。やはりあくまでこれは観測であり、過去の世界に直接干渉出来るわけではないようだ。
少し土手の先に目をやれば、川を跨ぐコンクリートの橋が見えた。
その橋を一眼見た瞬間、樋田の頭を渦巻いていた予想は確信へと変わる。
『……忘れる、はずもねえ』
足が重い。それでも意を決して橋の方へと歩み寄る。
橋の下に広がる空間には、バケツの中身を溢したように鮮やかな赤が広がっていた。
手前には下半身のない死体、その奥には顔の潰れた死体が転がっているのが見える。
『……』
驚きはしない。樋田はこの光景を一度見たことがある。
間違いない。樋田は再び、秦が姉の仇である三人を殺害したあの日へとやって来たのだ。
「――――――はぁ、はぁ、分かン、ねえよッ、そんなモンッ……!!」
血溜まりの広がる橋の下、甲高い女の声が上がる。
そちらを見れば、背中から炎の翼を噴き出す天使――――秦漢華が、草壁蜂湖の上に馬乗りになっていた。首を絞めようとする秦の手を、草壁はなんとか押し留めようとする。
『なんで、なんで殺したの、なんで私から奪ったの……教えなさい、いいから早く、私にッ』
「――――うるせえええええええッ!! 知るかそんなもん、分からねえモンは分からねえんだから仕方がねえだろガアアアアアアアアアッッ!!!!!!!」
溜まりに溜まった負の感情が爆発したのか、草壁は絹を裂くような声で絶叫する。
「畜生、畜生畜生畜生畜生ッ!! ふざけんじゃねえよッ、何なんだよこのクソみてえな人生はよッ!! あたしが何したってんだッ……あたしは普通に生きていけりゃそれで良かったのに、生まれてこの方良いことなんて一つもねえッ!! 本当に一つもねえよッ……滅茶苦茶だ、アイツのせいであたしの人生全部ダメになった。畜生ッ、何でだ、何で、よりによってあんなヤツが、あたしのッ……!!」
はじめは荒々しく怒鳴り散らしていた草壁であるが、次第にその声は小さくなっていき、そのうち泣き出しそうにすらなる。
それに従って彼女の抗う力もみるみるうちに弱まっていく。そもそも天使の腕力にただの人間が叶うはずもなく、秦の両手は完全に草壁の首根っこを捉える。
「ァ、アア……ガハアッ……!!」
仮に喉を塞がれていなければ、草壁はそのとき悲鳴を上げていたかもしれない。
秦の手を通じて、草壁の首に何か黒い紋様のようなものが這い寄っていく。まるで秦漢華という少女の憎悪が形をもって浸透するが如く、あっという間に加害者の全身は黒く塗り潰されていく。
神の炎、四大天使の一角であるウリエルに由来せし権能『殲戮』。その力は、手で触れたありとあらゆるものを爆発物へと変換する。
「ギッ、グ、ァァ、秦ッ、秦秦秦ォォッ……!!」
最期に草壁が見せたのは苦悶の表情であるはずであった。
なのにその頬を伝う涙から、恐怖と苦しみ以外のものを見て取ってしまったのは何故だろうか。
「っん」
最期はあまりにも呆気ないものであった。
草壁蜂湖は、体の内側から全身が弾け飛んで死んだ。
醜い肉片と、穢れた鮮血が雨のように降り注ぐ。その中で秦漢華は独り天を仰いでいた。少女の目尻を、降り注ぐ血液が涙のように伝っていた。
「……」
以前一度見た光景ではあるが、とても慣れるようなものではない。
やるせない思いに拳を握っていると、どこからか人類王の声が耳を打つ。
『うん、どうやら草壁蜂湖の過去を覗くことには成功したようだね。だが、見るべき場面はもっと先だ。次に行くよ』
『――――あぁ、そうだな』
再び樋田は意識を左目に集中させる。すると再び周囲の景色が凄まじい速度で変化を始めた。そうして、またしばらくすると変化は止まり、周囲の世界も次第に安定していく。
今はまだここが薄暗い部屋の中ということしか分からない。
やがて世界の輪郭が明確になるにつれ、樋田はそこが誰かの一人部屋であることを確信する。インテリアを見ても性別は絞り込めないが、見たところ部屋の主人は樋田と年の近い学生であるような気がする。
視界がハッキリすると同時に、聴覚も正常となる。
背後から突如聞こえてきた衣擦れの音に、樋田は反射的にそちらを振り返る。
「ッ」
その光景を目にした瞬間、樋田は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。
意味のない言葉が口から漏れる。驚愕のあまり、もう少しで『燭陰の瞳』を解除してしまうところであった。
一瞬頭の中は真っ白になり、次の瞬間にはドス黒い殺意が溢れ出す。
今までほとんど経験したことがないほどの怒りであった。
彼はまるで獣のように叫び狂うが、それしか出来ない。
目の前の男をこれほど殺してやりたいと思っているのに、仮初の体では過去に干渉することは許されない。
「おい、やめろッ……触るなぁあああああああああああああああああッ!!」
絹を裂くような少女の悲鳴。しかし、男の卑劣は止まらない。
本気で泣き叫ばれているにも関わらず、其奴は少しも怯まないどころか、その口元に嗜虐的な笑みを浮かべてすらいた。
「うるせえなあ。俺はな、やりたいことを我慢するのが一番嫌いなんだよ。俺達家族だろ。ならいい加減理解してくれよ」
「あっ、イッ…………!!」
男は両手で少女の首を締め付ける。
最早彼女は悲鳴を上げることすら許されず、出来ることといえば力なく足をバタつかせる程度だ。
「大人しくしろ。黙って自分の役割を果たせよ蜂湖――――あぁ、そうだ。いい子だ。やればできるじゃねえか。最初からそうしとけよ、馬鹿だなあお前」
しかし、そんな悪あがきもすぐに止む。
少女の瞳から光が消える。もう、こんなのどうしようもない。この瞬間きっと彼女はそうやって全てを受け入れ、そして全てを諦めたのだろう。
『ここも違うね』
また頭の中で人類王の声がする。
それはそれは随分と冷静な声色であった。
此奴も今自分と同じ光景を見ているとはとても思えない。
「……分かってるッ。さっさと次行くぞ」
まるで目の前の地獄から目を背けむように、樋田は再び過去の観測を開始した。前から後ろへ景色が次々と流れていくのを、虚な目で見送り続ける。
♢
『……学校、か?』
此度樋田がやって来たのは、数十人の生徒で溢れる教室の中であった。
これが草壁蜂湖の過去の情景であることをふまえれば恐らくは高校。生徒の学年は樋田と同い年か、或いは一つ上か。ほとんどの生徒が帰り支度をしているのを見るに、時間帯は放課後になった直後と予想する。
草壁蜂湖の姿を探せばすぐに見つかった。
彼女がいたのは教室の前方。友人らしき二人とだらだらお喋りに耽っているところであった。
「ねぇ、悠。今日放課後どうする?」
そう問いかけたのは草壁を含めた三人のうちの一人、猫なで声の茶髪女だ。
悠と呼ばれた背の高い黒髪女は、スマホから目を離さないまま適当に返事をする。
「今日ねぇ、美奈的には?」
「えっとね、今日はわたしカラオケ行きたい!」
ぴょんと跳ねながら嬉しそうに言う茶髪であるが、それを聞いた草壁はハァと呆れた顔をする。
「今日は、ってこないだ行ったばっかじゃねえか。流石に飽きるわ」
「え〜いいじゃん。だって蜂湖の歌ってるところめっちゃかっこいいんだもん。また聞いてみたいなあ〜て」
「あっ、見て蜂湖。今日からデザパラメロン食べ放題だ」
「おっ、マジか悠。はい今日の予定決定、相談終了」
「ちょっとわたしの意見はッ――――――!?」
『……』
そんな三人のやりとりを見ているうちに、樋田はますます草壁蜂湖という人間が分からなくなる。
少し遊んでいそうな雰囲気はあるが、特徴らしい特徴と言えばその程度。普通に仲の良い友達がいて、普通に喋って、普通に笑う。彼女はそんなどこにでもいる普通の女の子でしかない。
果たして彼女は本当に秦の姉を殺したのだろうか。
殺したというのは言葉の綾で、本当は不幸な事故だったのだと言われた方が余程納得がいく――――いや、違う。樋田が本当に気にしているのは、悩んでいるのはそんなことではない。
果たして草壁蜂湖とは殺してもいい人間なのか。
あの地獄をなかったことにするため、彼女一人に全ての負債を押し付けてもいいのだろうか。
一度はそれでも構わないと思った。
一人の命で万人が救われるならば、それが正義だと信じることが出来た。
しかし、その前提が揺らぐ。一度決めたはずの殺す覚悟が、グラグラと足元から崩れていくような錯覚を覚える。
と、その人物が視界に飛び込んできたのはまさにそんなときであった。
『アイツ、は――――――――』
赤い瞳に赤い髪を持つ少女。しかし、秦漢華ではない。されど、その顔付きは明らかに彼女との類似点を有している。
赤の少女が樋田や三人の横を通り過ぎていく。そこでようやく草壁も彼女の存在に気付いたようで、
「おい、秦ッ!!」
今まさに教室から出て行くところであった少女――――秦周音は「ん、なに?」と笑顔で振り返る。対する草壁はズカズカと大股で周音のもとまで近寄り、なんなら半ば威嚇するように顔を近付けて問う。
「なあ、秦。あたしら今日三人でカラオケ行こうと思うんだけど……アンタも来ない?」
文面は普通だが、その口調はどう聞いても友人を遊びに誘うためのそれではなかった。むしろ「テメェ最近調子のってんな、あとで校舎裏来いよ」的なニュアンスが含まれているようにしか思えない。
草壁蜂湖は明らかに戯れ合いではなく、言い掛かりの意味で絡みに行っている。果たして秦姉はどう対応するのだろうか。
「おぉ、いいねえ行く行く。で、店どこにする? 私的には駅前の大通りから裏に一本入ったあたりのBangBangがオススメ。あそこ存在感なさすぎて全然客いないから、フリータイムでも無限に粘れるんだぜ」
そう、遊びの誘いと解釈して普通にのってきた。
心なしかそれまで仏頂面であった草壁の口元に喜色が浮かんだような気がする。しかし、直後秦姉は「まぁ、でも」と首を横に振ると、
「本当はそう言いたいところなんだけど、試験近いから今回はパスさせてもらうよ。いやあ、折角誘ってくれたのに悪いねえ蜂湖ちゃん」
そう秦に気安く肩をポンポンされ、直前までちょっと嬉しげであった草壁は瞬く間に機嫌が悪くなっていく。
「はあ? なにアンタ。もしかしてあたしに点数負けるの怖いの?」
「実際そうなんじゃない? だって蜂湖超うまいし」
茶髪がクスクス笑うと、草壁もまた秦に得意気な笑みを浮かべてみせる。
対する秦姉はというと、無言であった。特に反応するわけでも、何か言うわけでもない。そうして無言のままスマホを取り出し、おもむろに何かアプリを立ち上げてみせる。
後ろから覗き込んでみれば、それは確か家でも歌を歌って録音したり採点できたりする所謂カラオケアプリというヤツであった。
「えぇ〜と、蜂湖ちゃんたちが好きそうなイマドキのテンプレJPOPはっと」
「おいテメェ、今あたしたちのこと馬鹿にしただろ――――――」
そう突っかかる草壁であるが、その直後には言葉を失ってしまう。
秦のスマホから流れてきたのはバラード風でありながら割とテンポの早い曲。そして秦周音は何と、それに合わせて堂々と歌い出したのだ。
それがまあなんとも美麗であった。
音楽のことなど何も知らない樋田でも、一瞬聞いただけで上手いと感心する。
歌声は美しく、音程にもリズムにも寸の狂いすらない。そして何よりその声量に圧倒される。当然ただ声がデカいというわけではなく、その歌声からはまるで全身を音で押されるような力強い圧力を感じる。
一般人の歌声をラジカセに例えるならば、秦姉のそれは一式揃えられた高級オーディオから奏でられる音色の如くである。
ちょうど教室を出るところであった者も含め、教室の中の全員が秦の歌に聞き入っていた。しかし一番と思われる範囲を歌い切るや、秦姉は呆気なくアプリを閉じる。
「はい、美奈ちゃん。うまいのはどっち?」
「えっ、えっと……」
思わぬ指名に茶髪はあわあわせずにはいられない。
そうしてしばらくあわあわしたあと、彼女はやがて遠慮がちに草壁の方を指さそうとするが、
「……なあ、美奈。アンタあたしに恥かかせたいの?」
「ひぃッ!!」
ドスのきいた声で凄まれ、茶髪は結局正直に秦姉の方を指差す。
「はい、私の勝ち」
「チッ、この完璧超人がッ!!」
「流石にそこまでじゃないって。実際私勉強は普通だし、まあ蜂湖ちゃんたちと比べれば無敵みたいなもんだけど」
「テメェッ馬鹿にしてんのかアアアッ!?」
元気にギャーギャーと喚く草壁であるが、悲しいかな、秦姉はヘラヘラ笑うばかりで、ろくに取り合おうとはしてくれない。
「というかさ、蜂湖ちゃんたちそんな放課後遊んでばっかでいいの? 確か三人とも揃いも揃って赤点オンパレードなんでしょ。嫌だなあ私、春休み明けて学校来たら蜂湖ちゃんが後輩になってるとか」
「流石にそこまで酷くねえよッ!!」
「あっ、そうだ。なんなら一緒に勉強しようよ。四人で誰かん家泊まってパジャマパーティーとかしながらさ。いいねぇ、なんかすっごく青春って感じだ」
「ふざけんじゃねえよッ!! なんで放課後までテメェと顔付き合わさなきゃなんねえんだバァーカッ!!」
「さっきカラオケ誘ってたじゃん」
「悠は黙ってろッ!!」
そう草壁とかいう狂犬がガルルと唸っている最中であった。
その後ろで美奈とか呼ばれていた茶髪女が、遠慮がちながらも賛成の手をあげる。
「……はい、わたしは賛成です。賛成です、勉強会……」
「美奈テメェなに寝ぼけたこと――――」
「ゴメンね蜂湖、わたし実はガチでヤバいんだ……その、ガチで……」
そういう茶髪の目はガチだった。
あまりにも悲壮感が漂っているものだから、狂犬草壁も心なしか口調が優しくなってしまう。
「はぁ? じゃあなんでさっき『ねぇ、悠。今日放課後どうする?』とかほざいてたんだよ」
「いやだって、勉強したいとか言ったらサガりそうだし……ってか、なんかノリ悪いってなって、ハブられたら嫌だなあって……」
「なんであたしがそんなことすんだよ。困ってるなら困ってるってちゃんと言えよ。あたしもバカだけど、まあその、バカなりに助けてやるから」
「蜂湖……」
それきり三人はなんだか照れ臭くなったのか、しゅんと静まり返ってしまう。そんな彼女達を前に、秦周音は腕を組んでウンウン頷きながら宣言する。
「よし、これで話は決まった。安心したまえバカども、心配しなくても私が全員まとめてきっちり面倒を見てあげよう。じゃあ、早速買い出しにでも行きますか」
「おい勝手に決めんじゃねえッ!! そんなに勉強したいなら勉強したいヤツらだけでやってりゃいいだろうがッ!!」
「えっ……蜂湖、わたしのこと助けてくれるんじゃなかったの……?」
「だぁああああッ、もうどうすりゃいいんだよォオオオッ!!」
草壁は頭を掻き毟りながら叫ぶ。
秦姉はそんな草壁の肩に手を回し、そのまま力づくで教室の外まで連れて行こうとする。
「離せテメェッ、気安く触んじゃねえよッ!!」
「ほらほら既に大勢は決した。いい加減堪忍したまえ。別にいいじゃんかお泊まり会。一緒に好感度上げ合って、お互い周音ルート蜂湖ルートに突入しようぜ」
「何言ってるか一つもわかんねぇよッ!!」
負けじとギャーギャー抵抗を試みるも、草壁は結局そのまま秦に連行されていく。その後ろを他の二人が笑いながら着いて行き、やがてその姿は廊下の先へと消えて行った。
『――――ここは草壁蜂湖が全殺王に憑依される以前、つまりは草壁蟻間との再会によって人生が狂う前の時間軸だね。どうやら少し過去に戻りすぎてしまったようだ』
『……』
樋田は既に何か言葉を返す気力もなくなっていた。
草壁蜂湖は人殺しだ。漢華の過去を見て、彼女が秦周音を殺したことを知った。だからこそ、辛うじて世界のために彼女を殺すことを心は許容した。
にも関わらず、過去を遡るにつれてその前提が崩れていく。
♢
再び『燭陰の瞳』を使うと、今度は後ろの景色が前に向かって流れていく。
景色の動きが止まれば、そこはつい先程訪れたばかりの一人部屋――――草壁蜂湖の自室の中であった。
部屋は暗い。灯は着いておらず、カーテンも閉められているため、今が昼なのか夜なのかも分からない。
「……めん」
すすり泣く声が聞こえる。
ベッドの上で一人の少女がうずくまっている。
絶え間ない嗚咽の声に混ざって、彼女は何度も同じ言葉を呟いていた。
「ごめん、秦、うっ……ごめんッ……ごめんなさい、ごめんなさいッ……!!」
『……』
果たして、草壁蜂湖は本当に身勝手な理由で秦周音を殺したのだろうか。
先程と同じ疑問が頭を渦巻く。
そもそも草壁蜂湖だけではない、秦漢華だって人を殺しているのだ。
どちらも人を殺め、そのことを死ぬほど悔やんでいて。
彼女達二人の違いは、単に手を差し伸べられたかどうかの違いでしかない。
にも関わらず、一人は救われ、一人は必要な犠牲として葬られる。
それは、酷く矛盾しているような気がした。
『今度は逆に少し進みすぎたようだね。それともこのままやめるかい?』
王は此方の心を見透かしていた。
されど、くだらない冗談は言うなと吐き捨てる。
確かに、迷いはある。
だが、ここで後戻りをするわけにはいかない。
意を決して、樋田は再び意識を過去へと遡らせる。
♢
『また、ここかよ』
景色の変化が収まる。
そうして目の前に広がっていた光景は、先程一度訪れた例の土手であった。
しかし、季節が違う。あたりを見れば一目で分かる。
雪が降っているのだ。
土の上では僅かに積もるものの、コンクリートの上ではすぐに溶けて消えてしまう。そんな儚い雪の夕暮れであった。
二〇一六年、二月十五日。確証なんてどこにもない。されど樋田は何となく、ここが草壁蜂湖の記憶を巡る旅の終着点だと直感する。
ややあって草壁蜂湖が姿を現した。
今樋田の立っている方向が家の方角なのだろう。亜麻色の少女は適当にスマホを弄りながら、ゆっくりと此方に近付いてくる。
――――これが、草壁蜂湖か。
本当に、普通の光景だ。
普通の女の子が普通の道を普通に歩いているだけだ。
その無防備な横顔は、この平和な日常が永遠に続くことを信じ切っている。
実際下校の時間だとか、或いはどの道で家に帰るだとか、そういったものが何か一つでもズレていれば、彼女はこのまま平和な人生をおくれたのかもしれない。
だがしかし、草壁蜂湖はこの日のこの時間、この場所へとやってきてしまった。そして一体どこから現れたのか、一匹の黒蛇が彼女の足元へと忍び寄る。
そうしてまさに今、黒蛇は草壁蜂湖の足へと噛みついた。
『あの蛇が全殺王だ。こうして彼女の身体に取り憑いた』
『ッッ――――!!』
人類王の言葉に樋田は思わず生唾を飲む。
遂に、この瞬間がやって来たのだ。
『今草壁蜂湖を殺せば全殺王も死ぬ』
『分かってるッ……!!』
それでも樋田は意を決して黒星を取り出した。
球がこもっていることを確認し、銃口を草壁の頭に突き付ける。
そのまま『燭陰の瞳』を発動し、弾丸をこの時間軸へと遡行させる準備を整える。
そこまでは出来る。
そこまでは出来るのに、そこからがどうしても続かない。
『ここで撃つのも撃たないのも君の自由だ。どちらを選ぼうとも、僕は君の選択を尊重する――――――――――』
『うるせえッ!!!』
樋田は声を張り上げ怒鳴る。
元から嗄れた声であるというのに、今は更に掠れていた。
『頼むから、少し黙っててくれッ……!!』
いつのまにか手が震え始めていた。
掌から嫌な汗が噴き出し、ともすれば銃を取り落としてしまいそうにすらなる。
この引き金を引きさえすれば、あの悲劇は全て無かったことになる。
東京の街が壊滅したことも、数万人単位で人が死んだことも、全部全部全部無かったことになるのだ。
何より、そうすれば秦漢華が死なずに済む。
当然彼女の両親や妹が殺されることもない。
むしろ、ここで事前に草壁蜂湖を殺してしまえば、秦周音の死が覆る可能性すらあるのだ。
秦姉が死なないということは即ち、秦漢華が草壁蜂湖を殺さないということ。姉を失った悲しみに、人殺しの罪悪感。そのどちらからも解放された漢華は、きっと日の下で屈託なく笑ってくれるに違いない。
それはなんと素敵で優しい世界であろうか。
頭は撃つべきだと理解している。
たった一人の犠牲で、その世界は現実のものとなるのだから。
だが、本当にそれでいいのか。
草壁蜂湖の記憶を巡る旅の中、何度も浮かんだ葛藤が樋田の決意を鈍らせる。
――――……お願い。私を、助けて。
――――……ああ、そこで待ってろ。
「ッッ――――――――――――――――!!!!」
先刻、秦と交わしたやりとりが脳裏をよぎる。
助けを求める秦。それに答えた樋田。
仮初の希望。守れなかった約束。
助けてと、秦の声が頭の中で何度も響き渡る。
だからこそ樋田はなんとか引き金に指をかけるが、
――――ごめん、秦、うっ……ごめんッ……ごめんなさい、ごめんなさいッ……!!
「あぁッ――――――――――――――――――」
秦の声と入れ替わる形で、今度は草壁蜂湖が涙を流す。
彼女とは別に一度も会話を交わしたことはない。
それでも、彼女から助けてと言われているような気がした。
『どうすりゃ、いいんだよ。俺は……』
誰か彼女の声に応えるものはいたのか。
いや、誰もいなかったのだろう。
或いは秦のように彼女自身が声を上げることを拒んだのかもしれない。
だからこそ、草壁蜂湖の悲鳴を聞いていたのは樋田なのだけだ。
だが、最早彼女に手を差し伸べることは叶わない。
ここで樋田が引き金を引かなくとも、どうせ彼女は秦に殺される。
ならば、その死が二ヶ月早まっても大した違いはあるない。むしろ、ここで殺してやれば、この後彼女が草壁蟻間に嬲られることも、秦姉を殺した罪悪感に苦しめられることもなくなるのだ。
『そうだ、間違ってねえ。俺は今からでもまだ此奴を救ってやれんだ』
そうやって自分を無理矢理納得させていく。
釣り合っていた両天秤が、次第に片方へ偏っていく。
『畜生ッ……!!』
それでも震える右手を、樋田は左手で重ねるように押さえ込む。
殺すべきだ。殺すことが正義だ。殺してやることこそが救いだ。
助けてと言われて、それでも守れなくて。
泣いている女の子がいて、そのくせ見て見ない振りをして。
そこには善があって、悪があって。
何が正しいのかなんて分からない。
自分の中でもまだ答えが出ていない。
一秒前の自分が正しいと言えば、一秒後の自分が間違っていると言う。
もう、正しく生きることは諦めた。
救うべきものを全て余さず救うなど傲慢でしかない。
それでも、今自分が取れる行動の中でこれこそが最善なのだと信じる。
結局最後まで手の震えが止まることはなかった。
息が荒い。上下の歯が上手く噛み合わない。
秦漢華が強さを押し付けられた弱い女の子であったように、
樋田可成もまた強い人間などではなかったのだ。
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「はい、よく出来ました」
そう、王は少年に囁いた。