第百二十九話『助けてという呪い』
「は、たの……秦おおおおッ……!!」
懸命に地を這い、なんとか血溜まりの側まで辿り着く。
そうして樋田は、そこらに散らばる血肉をまるで抱き抱えるように寄せ集め始めた。
こんなもの見たくはない。
こんなもの触れたくない。
そして何より、こんなものが秦漢華であるとは認めたくない。
それでも樋田は秦の欠片を掻き集める。
たとえ全身が血みどろになろうとも、彼女が生きていた証を掻き集め続けた。
「すまねえッ、すまねえ秦ッ……!! 俺が弱えから、俺がもっと強かったら、助けられたのに、そのせいでお前はッ……!!」
いつの間にか、両の目から大粒の涙が滴り落ちていた。
物心がついてから今まで一度も泣いたことなどない。母親から存在を拒絶されたときも、父親が死んだことを知ったときすら涙腺が緩むことはなかった。
にも関わらず、今回ばかりは涙が止まらない。
唇を噛んで堪えようとしても、次から次へと溢れ出す。
「チクショウッ…………!!!!!!!!」
顔を血沼に伏せ、決して慟哭はせず、まるで押し殺すようにすすり泣く。
泣いて、泣いて、泣き続けて、頭の中が空っぽになるぐらい泣いたはずなのに、それでも後悔と罪の意識だけはこれっぽっちも薄まってくれない。
「なに、やってんだ。俺は――――――」
秦は助けてと言った。
建前も強がりも捨てて、偽りのない心で助けを求めてくれた。
その気持ちを、樋田可成は裏切ったのだ。
口では随分と偉そうな口上を並べておきながら、結局何一つ義務を果たさなかった。弱くて、愚かで、どうしようもなく惨めな男であった。
「いや……、まだだ」
しかし、樋田可成はまだ諦めてなどいなかった。
彼が縋るように取り出したのは謎の白いカード、先程秦の体から引き抜いたものであった。
このカードが一体何であるかまるで検討が付かないが、それでも樋田はそこに込められた莫大な『天骸』に可能性を見る。
天界から『天骸』が流入したことで、この世界から不可能の三文字は消え去った。
ありとあらゆる可能性を内包する『天骸』は、その効果に見合うだけの分量と適切な術式さえ用意出来れば、理論上出来ないことはないのだ。
早速カードから『天骸』を引き出そうと試みるが、何故かどうにも上手くいかない。されど、カードの入手によって莫大な霊的リソースを確保したことだけは確かな事実だ。
まだ泣くときではない。
まだ諦める段階ではない。
まだ可能性が完全に潰えたわけではない。
もしそこに彼女を救う可能性がまだほんの僅かでも残っているならば、その実現のために全身全霊を尽くすだけだ。
「こんなクソみてえな結末……認められるわけがねえだろうがァアアッ!!」
右足は砕けているし、瘴気に犯された身体は今も悲鳴を上げ続けている。
されど、さっきから秦の助けてという声が耳にこびりついて離れない。だからこそ、樋田可成は再び立ち上がることが出来た。
「少し、待っててくれ秦。俺がなんとかしてやるから」
瞬間、虚であった少年の瞳に再び光が灯る。
しかし、それはどうにも歪な色彩をしていた。
諦めないと言えば聞こえがいいかもしれない。しかし、受け入れることが出来ないと言い換えれば、それは現実逃避の裏返しでしかないのだ。
♢
家までの道程は困難を極めた。
杖代わりになりそうな棒切れを調達し、あとはもう時間をかけてゆっくり進んでいくしかないのだが、
「グッ……、うっ……クソッ……!!」
一歩進むだけで砕けた足に激痛が走った。嫌な汗が流れ出るたびに、自分の命そのものが流出しているような錯覚すら覚える。
瞬く間に気が遠くなっていき、実際何度か途中で意識を失った。
その度に起き上がって、また倒れて、それでも少しずつ進んでいった。
完全に焼け野原と化した中央区を脱し、ようやく地元の港区へと至る。
周囲に人の姿はない。既に区民は全員殺されるなり、都外に避難するなりしたのだろう。
時折血糊こそ見受けられるが、それでも街並みは事件前とそれほど変わらない。見慣れ知った街の姿に、ようやく帰ってきたのだという実感が胸を打つ。
出発してからどれだけ時間が経ったのかは分からない。
気付けば東の空が明るくなり始めていた。
秦が見ることの出来なかった光を、樋田は今浴びている。
そこから更に血の滲む思いで進んで、進んで、遂に辿り着く。
白の大理石で作られた玄関部の上に、黒を基調とした各階層が悠然とそびえ立つ高層マンション。無言のままオートロックを潜り、辛うじて生きていたエレベーターで上へ上がっていく。
40004号室。
その表記を見た瞬間、そのまま眠ってしまいたくなる衝動に襲われる。それでも我慢して扉を開けば、途端に見知った顔が飛び込んできた。
筆坂晴、携帯片手に玄関をうろうろと歩き回る少女の姿があった。
「カセイッ!!」
こちらの姿を確認するや否や、晴の群青が大きく見開かれる。
そこには驚きと、ほんの少しの怒りと、そしてなにより安堵の色彩が滲んでいた。
「オマエ今までどこにッ……って、その怪我大丈夫かッ!? 」
実際今の樋田はかなりの重傷であった。
複雑骨折した右足以外にも、右腕は火傷のように爛れ、体の内部にも瘴気によるダメージが蓄積している。
心配するのも当然だろう。しかしその直後、晴は急にハッと何かに感づいたような顔をする。
「……オマエが一人で帰ってきた、ということは」
しかし、そこで言葉を切る。
口に出すべきではないと気を遣ってくれたのだろう。
そうして普段の晴からは想像も付かない、重苦しい悲痛の表情を浮かべる。それでも、彼女はすぐに元の落ち着きを取り戻して言う。
「……ともかく、今優先すべきはオマエの身体だ。当然救急車など呼べる状況ではないが、ワタシでも簡単な応急処置くらいならば施せる」
「治療は、いい」
「はぁ?」
驚かれるのも無理はない。
確かに治療は大切だ。
だが、今はそんなことよりもするべきことがあるのだ。
困惑するに晴に、樋田は例の白いカードを差し出す。
そこから発せられる淡くも輝かしい光に、晴は再び驚愕の表情を浮かべる。
「なんだ、これは……?」
「知らん。秦の中から出てきた。唯一分かるのは、それがアイツをあんな風にした元凶だってことだけだ」
だがな、と樋田はそこで一声区切る。
「其奴はご覧の通りかなりの『天骸』を内包している。なぁ晴、お前こないだ教えてくれたよな。『燭陰の瞳』はそもそも時間加速を用いて擬似的な時間遡行を可能とする力だが、湯水のように力があれば純粋に時間を巻き戻すことも可能だとよ」
樋田の覚悟ははじめから決まっていた。
自分のやろうとしていることがどのようなことなのかを理解し、それでも怯まずに宣言する。
「俺は過去に飛ぶ。そんでもって、このクソみてえな今をもっとマシな形に改変する」
「カセイ、お前……」
「よく分からねえが、俺じゃ上手くコイツから『天骸』を抽出出来ねえ。だから、お前の力がいる」
そう言って、晴にカードを手渡す。
樋田可成は筆坂晴を信じている。
樋田がこれまで自分の理想を貫いてこれたのは、彼女のおかげに他ならない。その豊富な知識と経験にこれまで何度助けられてきたか。樋田が理想を語り、晴が現実を補強し、そうしてこれまで幾多の困難を乗り越えてきた。
だからこそ、今度も上手くいくと樋田はそう信じていた。
「足りない」
「……は?」
一瞬何を言われたのか理解出来なかった。
それでも、晴は残酷な現実を思い知らせるように続ける。
「確かに膨大な『天骸』があれば、限りなくあり得ない可能性である擬似的な時間遡行に頼らずとも、決してあり得ない可能性、純粋な時間遡行を行うことも可能だ」
「だったらッ――――」
「だが、全く以って足りない。どれだけ時間を遡るかにもよるが、この程度では人一人を過去に飛ばすなど到底不可能だッ」
晴は強い言葉で断言する。
この天使はどれだけ可能性が低くても、それが善であるならば全身全霊で貫こうとする。そのかわり、絶対に出来ないことに対してはハッキリ出来ないと言うタイプの性格だ。
思わず言葉を失う。
元々この作戦は樋田の思い付きだ。
実現が難しいことなどはじめから分かっていた。
それでも、可能性があるうちはまだそこに希望を託すことが出来た。
されど、それすら否定された今となっては、最早――――、
樋田は晴の両肩を掴む。
頼むから出来ると言ってくれ、まるでそう縋るように。
「どうにか、ならねえのかよッ!? 別に片道切符になったって構やしねえんだッ!!」
「無理なものは無理だ。そも、オマエの言う通りこの術式には特殊なロックが掛かって――――」
「だったら、そのロックを外してくれよおおッ!!」
「無理だ。見たところ、これは暗号やらパスワードやらが分かれば使える類のものではない。既存のセキュリティで例えるならば、生体認証のようなもの。恐らくは、特定の条件を満たす人間にしか術式を扱えないようにする特殊な細工がある」
「ッ――――」
思わず、黙り込む。
最早我儘を口にする気力すら失われた。
晴の群青が物憂げにこちらを見上げる。
その瞳は言外に諦めろと告げていた。
――――助けてって、そう言われたんだぞ。俺はッ……!!!!
これまで樋田の無茶を肯定し続けてきた晴ですらこう言うのだ。
そこでようやく樋田は実感する。
秦漢華を生き返らせることは既に叶わない。
最早彼女が死んだことを、この最悪極まる世界を、受け入れて生きていくしかないのだと。
されど――――、
「――――――――諦めるのはまだ早い」
唐突に沸いたのは、樋田でも晴でもない男の声であった。
その声を耳にした途端、二人は其奴が誰であるかを即座に認識する。だからこそ二人はそれまでの感傷を即座に捨て、半ば戦闘態勢を整えるように声の方を振り返る。
「災難だったね樋田可成君。いやはや、秦君のことは非常に残念だ」
そこにいたのは銀髪赤眼の紳士、人類王であった。
この国に蔓延る四大勢力の一角、人類王勢力の頂点に立つ男。樋田達は此奴と一応の協力関係を結んではいるが、学園での一件から受けた心象は最悪と言わざるを得ない。
「キサマ、どこから入ってきたッ!?」
だからこそ、晴が激昂するのも当然のこと。
しかし、樋田はそんな彼女の腕を掴んで押し留める。
「オイ、カセイッ!!」
「なあ、どういうことだ……?」
憤る晴の声には応えず、樋田は目の前の王に果敢にも問い掛ける。
その一瞬、人類王の口元に狡猾な笑みが浮かんだように見えたのは、決して気のせいではないだろう。
「……諦めるのがまだ早いってのは、一体どういうことだ?」
「まず第一に」
そう言って、人類王は見せびらかすように白いカードを掲げる。
直前まで晴が持っていたそれを、目の前の王は知らぬ間に奪い取っていたったのだ。
「キサマッ、いつの間にッ……!?」
構わずに王は続ける。
「君たちの予想通り、この『鍵』は特定の血族にしか扱えない。君はその条件を完全に満たしているわけではないし、粗製濫造の量産天使など言わずもながだ」
言いながら、カードを持った手を軽く一振りする。
すると、カードの持つ『天骸』がフワリと朧げに浮かび上がった。
「まぁ、僕は使えるんだけどね」
「だが、それだけでは足りんはずだッ!!」
「確かに人一人を過去へ飛ばすには全然足りないね。だけど、君達の目的は別に時間遡行そのものではない。過去を改変し、秦漢華の死を回避することさえ出来ればそれでいい」
そこで王は一度言葉を区切り、今度は左手で何かをもてあそぶ。
王が手を開けば、そこにあったのは何の変哲もない数発の銃弾であった。
「確かに人を過去に飛ばすことは難しいだろうが、たかだか十グラムの弾丸ならば充分に可能だ」
銃弾を過去に飛ばす。
その突拍子もないアイデアに、樋田は一瞬怪訝な表情を浮かべるも、
「まさか」
しかし、その直後には氷解した。
「それで、草壁蟻間を殺すってことか?」
確かに筋道は通る。
今回の人間対ダエーワによる戦争は草壁蟻間に起因する。
彼をダエーワの蜂起前に殺してしまえば、当然戦争は起きなくなるし、秦が人類の敵として殺されることもなくなるはずだ。
「理解が早くて助かる。だけどね、残念ながら彼を殺すことは出来ないんだ」
しかし、王は樋田の描いた可能性を即座に否定する。
「草壁蟻間は全殺王を取り込むことで絶対悪としての力を得た。当然二人が接触する前に草壁を殺しても意味はない。現状よりはいくらかマシにはなるだろうが、結局全殺王は似たような悪人を依代に復活して戦争を起こすだろうからね」
「じゃあ、接触したあとに殺せばいいだけの話だろ」
「それも難しい。全殺王を乗っ取った時点で、草壁蟻間はダエーワとしての再生能力を獲得する。彼等が銃弾で頭を吹き飛ばされたぐらいでは死なないことは君が一番よく分かっているだろう。そもそもある程度の実力を有する相手にこの手は使えない。時間を超えて未来から銃弾を叩き込んでも、『天骸』の動きを察知され避けられる可能性すら――――――」
そこで樋田は我慢がならなくなった。
まるで獣のように飛び掛かり、王の胸倉を乱暴に掴み取る。
「御託はいらねえんだよ。テメェはさっきから何が言いてえ。諦めんのが早えってんなら他に方法があんだろ。なら、早くそれを言えよ」
それは本来とるべき行動ではなかった。
そもそも樋田と全殺王の間には虎と兎以上の実力差がある。
人類王の気が変わってしまえば、その方法とやらを知ることは叶わなくなる。しかし、そんな考えてみれば当然のことすら樋田の意識からは消えていた。
秦を助ける。
今の彼は本当にそれしか考えていないのだ。
しかし、王は激昂するわけでも不機嫌になるわけでもない。
むしろ見ようによっては、この状況を楽しんでいるような笑みを浮かべてすらいる。
やがて、銀髪の紳士は根本的な話を告げる。
「全殺王は復活後すぐに草壁蟻間に憑依したんじゃない。はじめに取り憑いた相手は、彼の妹である草壁蜂湖なんだよ」
瞬間、何かに気付いた晴がカッと目を見開く。
しかし、それでも人類王は構わずに続ける。
「草壁蜂湖は全殺王の依代として兄ほど優れてはいなかった。だからこそ彼もまたすぐに身体を乗り換えることにしたんだろうが――――」
「人類王ッ……、キサマァアアアアアアッ!!!!」
そう、晴が激昂したまさにその直後のことであった。
「ギッ」
とても人の声とは思えない呻きを発すると同時、晴がいきなりその場に倒れ伏したのだ。
「オイッ、どうした晴ッ!?」
相棒の危機に否が応でも我に返る。
倒れた晴に寄り添うも、彼女の様子は随分と酷いものであった。
ただでさえ微かな呼吸はやたらと不安定で、大きな瞳は血管が血走って真っ赤になってしまっている。全身はまるで陸にあげた魚のようにピクピクと痙攣しているし、その肌に至っては最早白いを通り越して弱々しい紫色になっている――――と、そこまで見て、樋田はようやく思い出す。
数週間前、晴が綾媛学園の門を潜ったときにも全く同じ現象が起きた。
確かあのときは樋田の『統天指標』で、晴の身を蝕む何かを除去し事なきを得た筈だ。
此度も同様にしてみると、やはり晴は元の健康な血色を取り戻す。しかし、元々衰弱していたのか、此度はそのまま眠るように気を失ってしまった。
「綾媛学園……、人類王勢力……人類王ッ」
流石の樋田でも分かる。
先日の学園での出来事も、今晴が昏倒したのも、どちらも間違いなくこの王の仕業だ。
「ブチッ、殺してやるッッ!!!!!!」
瞬間的に頭の中が真っ白になる。
気付けば、再び人類王の胸倉を掴んでいた。
次の瞬間には拳を振り上げている。怒りと殺意の赴くがまま、欠片の躊躇もなく振り下ろす。
「…………」
しかし、結局樋田は人類王を殴れなかった。
正確には殴らなかった。
晴は何も殺されたわけではない。なにより、秦を救うためには此奴の力がいる。一度頭に血が上れば何も考えられなくなる彼が、すんでのところでそのことを思い出す。
全ては、秦の助けてという声が導いた結果か。
王の胸倉から手を離し、立ったまま項垂れる。
対する人類王は満足そうにフッと笑って言う。
「良い子だ」
「……なんで、だよッ」
「なんのことだい?」
「俺にこんな話を持ち掛けてくるってことは、テメェあのときどっかで見てたんだろ。秦が、殺されるところをよッ!!!!」
王は答えない。
そして、沈黙とは往々にして肯定を意味する。
「前に晴から聞いた。十三人しかいねえ王の中で、最強はテメェと泰然王の二人だってな……テメェには力があった筈だ。それこそこの国の異能者が総出で秦を殺そうとしても、問題なくアイツを守れるだけの力があった筈だッ!! なのに何でテメェはアイツを見殺しにしたッ!? テメェでも救えたはずだろ、アイツのことをッ!!!!」
「僕は教師だ。救世主じゃない。確かに僕は人間を愛しているけれど、だからといって救ってなんかやるものか。前にも言っただろう。僕の役割はあくまで君達を教え導くことだとね」
「訳わかんねえ屁理屈抜かしてんじゃ――――」
「僕でも彼女を救えたというのは確かに事実だ。だが、別に態々僕が出張るまでもないだろう。今この段階においても、君はまだ彼女を救うことが出来るんだから」
それまで激昂していたのが嘘のように黙り込む。
コイツは今何と言った。まだ秦を救うことが出来る。その前には、諦めるのはまだ早いとも言っていた。
樋田は縋るような視線を人類王に向ける。
この男に対する怒りと憎しみが消えたわけではない。しかし、それを差し引いても、今の樋田はどうしようもなく王の語る可能性に縋っていた。
「話を思い出すんだ。草壁蜂湖だよ、草壁蜂湖。全殺王の依代として不充分な彼女ならば、時空を超えた銃撃には反応出来ないし、ダエーワとしての再生能力も有していない。草壁蜂湖の頭を撃ち抜けば、全殺王もまた死亡し、そのまま四千年の眠りにつく」
「……ハハッ、なる、ほどな」
先程晴が激怒した理由を、樋田はそこでようやく理解する。単純なことだ。筆坂晴は樋田可成に草壁蜂湖を殺させたくはなかったのだ。
樋田は晴と出会ってから、出来る限り正しくあろうと振る舞ってきた。いつだって弱きを助け強きを挫き、そのためならばどんな困難にも迷いなく身を投じた。
草壁蜂湖は確かに秦周音を殺した。
しかし、殺される覚悟を承知で戦場に立っている敵ならばともかく、ただの女の子である彼女を殺すことが正しいことであるはずがない。
晴が怒るのも当然だ。
樋田可成だって、そんな一人に全ての不幸を押し付けるような最悪の提案に賛同はしないだろう。
だが、その樋田可成はこれまでの樋田可成だ。
今の樋田可成は違う。
「この地獄のような現実を受け入れ生きていくか、それとも草壁蜂湖を殺して世界を救うか……君が選べ。そもそも選べるのは『燭陰の瞳』を有する君だけなのだから」
そして、王は最後にこう付け加える。
秦漢華はお前が救え、樋田可成――――と。
樋田は俯いたまま、チラリと眠っている晴の方を見る。
こんなときに言うのもなんだが、本当に綺麗な顔だ。綺麗で、真っ直ぐで、凛々しくて、正しくて、誇らしくて――――されど、樋田可成は最早筆坂晴のようには生きられない。
「ごめんな、晴。俺はな、もう正しく生きるのはやめたんだよ」