第百二十四話『理想よりも大切なもの』
ところは緋色の神が破壊の限りを尽くす中央区から、幾らか南へと下った繁華街の片隅。不衛生な裏路地の中を、三十名ほどの武装集団が進軍していた。
彼等が身に纏うのは典型的な現代戦闘服だが、肩に巻き付けられた碧色のスカーフが唯一特徴的である。
それぞれの手元には術式化されたライフル銃が握られているが、区分するならば明らかに軽装歩兵だ。機動性を重視しているというよりかは、単に装備が行き渡っていないという印象を抱かずにはいられない。
その先頭を行くは、この集団の長らしき眼鏡の中年男性である。 彼は慣れた様子で、裏路地の角を曲がろうとする度、その先を入念に確かめる。
――――心配のしすぎならいいんだが。
話は変わるが、天界の規則において、天使が人間界に降りることは原則禁止となっている。天使によって『天骸』や術式が地上に持ち込まれ、世界の形が歪むことを防ぎたいならば、当然の対応だといえるだろう。
しかし、そこで一つジレンマが生じる。
天界の存在意義が人類の存続保障である以上、人間界における危機には当然対処しなくてはならない。しかし、そのたびに天から天使を派遣していては、『天骸』による世界の変質を加速させてしまう危険がある。
そこで、かつて天界の元老達は考えた。
人間界に天使を派遣出来ないのならば、代わりに天界に協力的な人間を駒として用いればいいのではないかと。
そうして生まれたのが天の代行者たる彼ら碧軍の存在であった。
碧軍は世界中ありとあらゆる地域に存在し、末端の構成員を含めればその人員は百万を優に超えるという。
彼等は天界を神として崇拝し、また自らが天使として引き立てられることを切望する。だからこそ、碧軍は天界からの命令に対してこれ以上ないほどに忠実な組織であった。
そして、今回その碧軍に天から下された指令は、人類の滅亡を目論むダエーワなる悪魔の殲滅である。
困難な使命であることは当然のこと、それ以上になんとも奇妙な任務であった。あくまで暗黙上という枕詞がつくものの、普段殺し合いを繰り広げている他勢力と共闘関係を結ぶことになったのだから。
そのおかげか人類の敵たるダエーワは尽く討ち果たされた。
しかし、勝利の喜びも束の間。
なんとか危機を乗り越えた人類を嘲笑うように、既に新たな脅威がこの東京を覆いつつある。
「果たして、共闘関係は未だ継続状態にあるのか……」
男は他勢力の動きに不安を抱えていた。
今回の共闘関係はあくまでダエーワという脅威に対処するためのものである。
しかし、そこに具体的な取り決めはなく、人間同士で争っている場合ではないという暗黙の了解の上に成り立っているに過ぎない。
ダエーワを滅ぼした時点で共闘関係は解消されるのか。
それとも、あの緋色の神を相手取ってる間は未だ有効なのか。
しかし、そこで男は首を横に振る。
組織の末端である自分がそんなことを考えても仕方がない。
いずれは、天の意向を受けた上層部から方針を提示されるだろう。
それまでは何はともかく警戒はするべきだ。
あの現世に現れた神と相対するには、四勢力の団結が最低条件だとは思うが、それでも他勢力から不意打ちを受ける可能性がないとは言えない。
「司祭様ッ!!」
そんなとき、不意に部下から名を呼ばれた。
声を上げたその兵は、恐怖というか焦燥というか、とにかく随分と酷い表情をしていた。
「……最後尾の原田が、先程突然消えました」
「消えた、だと?」
瞬間、集団の中に緊張が走る。
確かに本来そこにいるはずの見慣れた顔がいつの間にか姿を消している。
原田は古参の戦闘員だ。まさかあの緋色の神に恐れをなして逃げ出したとはとても思えない。ならば自然、彼は消えたのではなく、消されたのだという結論に辿り着く。
「敵襲の恐れ有り、総員警戒ッ!!」
ダダダダダと足音が連続し、集団は前方を警戒するものと後方を警戒するものに二分する。皆が皆手元に銃を構え、どこから来るかも分からない襲撃者に神経を尖らせる。
しかし、誰もいない。誰も現れない。
いくら待っても、誰も襲っては来ない。
周囲を見渡しても、耳を澄ませても、人っ子一人の気配すら感じ取れない。
「ん……?」
そのとき、司祭のヘルメットに小さな小石が当たった。
何かと思って、顔を上げてみると――――――、
本来夜空だけが広がっている頭上から、いきなり大小の瓦礫が雨霰と降り注いできた。
「うあああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
絶叫が木霊する。
小さなものだとエアコンの室外機やオフィスデスク、大きなものだと砕けた壁の塊や貯水タンクまで次々と降ってくる。
瞬間、碧軍の面々は死を意識する。
しかし、雑多な質量が彼等を押し潰すことはなかった。むしろその前後方を塞ぐ形で、壁状に積み上げられていく。
「おのれ、我々天の代行者に歯向かうつもりかッ!!」
「オイ待てッ!! 勝手に行動するな――――」
言い切る前に、血飛沫が舞う。
先んじて瓦礫の山を登ろうとした若い男、彼は瓦礫の向こうから突如現れた何者かに全身を串刺しにされたのだ。
「……天使、だと?」
其奴は天使であった。
天使でありながら、悪魔のような男であった。
背格好だけならば高校生くらいの青年にも見える。
しかし、純黒の髪には幾らか赤が混ざり、その背中では猛る焔が如く四翼が危うく揺れている。
そして、何より恐ろしいのは彼の面構えであった。
単なる凶相だからというわけではない。とても未成年のそれとは思えない、暗く淀んだ闇のような瞳がこの上なく恐ろしい。どこからどう見ても話が通じそうな人間ではない――――――、
「は?」
応援を要請しようと無線を取り出そうとするが、いつのまにか右腕の肘から先がなくなっていた。
あまりにも突然で、あまりにも一瞬。
何か鋭利なもので右腕を斬り落とされた。
そう理解した瞬間、耐え難い激痛が男を襲う。
「ぐあああああああああああああああああああああああッ!!」
右腕が切り飛ばされる直前、微かに少女の影が見えたような気がしたが、そんなことはすぐに考えていられなくなった。
天使の姿をした悪魔が迫り来る。
碧軍の面々もライフルを構え応戦しようとするが、悪魔と彼等の間にはあまりにも大きな力の差があった。
炎を象る翼が舞う。
翼からの噴炎が、一瞬で五人を焼き殺す。
槍状に変化した翼の一撃が、瞬く間に三人を突き殺す。
ただ乱雑に翼を振り回すだけで、たちまちに十人を肉塊に変える。
あまりの瞬殺に悲鳴すら上がらなかった。
容赦だとか慈悲だとか、そんな言葉が馬鹿らしく思えてくるほどの残虐酷薄。きっとこの青年は人を殺すことになんの感情も抱かない異常者であるに違いない。
そんな異常者が今度はゆっくりと歩み出す。
足元の血沼を踏み付け、一歩一歩着実に迫り来る。
「やっぱ、ついさっき生えたばっかの翼、手足のようにとはいかねえな」
青年は淡々とした物言いで銃を取り出すと、呆気に取られていた碧軍兵士目掛けて引き金を引く。
続け様に放たれた四発は、的確に四人の急所をそれぞれ撃ち抜いた。
「今まで意識してなかったが、やっぱ俺割と天才だろ。普通なら当てるだけでも結構難しいっつーのに、パパとママから貰った才能は大切にしねえとなぁ」
再び銃声が響く。
青年が現れた方角、その反対側の瓦礫を登ろうとしていた男の後頭部が正確に撃ち抜かれる。
最早この場に残っている碧軍の人間は僅か二人。
この悪魔に抵抗しても無駄に命を散らすのみだというのは分かっている。しかし、白旗を上げるわけにはいかない。碧軍に籍を置くこの身にとって、敵に屈することはそのまま天に対する裏切りとなるのだから、
「我々碧軍は、決して天の敵に屈しはしなぁぁあいッ……!!」
リーダーは銃を構え、あくまで徹底抗戦の構えをとる。
しかし、引き金を引くのは悪魔の方が一瞬早かった。
放たれた弾丸は男の脇腹を射抜き、戦闘服を赤く染める。
この後すぐ病院に駆け込めばどうにかなるかもしれない。そういう絶妙な位置であった。
天使はうずくまる男に歩み寄り、右腕ごと地に落とされた無線器を手に取る。そして今度は目の前の男ではない、もう一人の男へおもむろに銃を向けると、
「俺の質問に答えろ、返事ははいだ。三、二、一、――――」
「いや、ちょっと待て」
ゼロ。
そう呟くと同時に天使は引き金を引いた。
即座に物言わぬ肉塊と化したもう一人を捨て置き、其奴は改めて司祭の方に向き直る。
「俺の質問に答えろ。返事ははいだ」
「……」
男は答えない。
それでも悪魔は構わずに続ける。
「アンタらが上と連絡を取る際、合言葉やらコードやら、何かしらのルールがあるなら教えろ。吐けばお前の命だけは助けてやる」
男は答えない。
何をされるか分からない恐怖を堪え、ギュッと口を真横に引き結ぶ。
「――――そうかよ。ならゆっくり死んでいけ」
瞬間、目にも留まらぬ速さで繰り出された悪魔の手刀が、男の腹のど真ん中を貫いた。
想像を絶する痛みに男は絶叫するが、悪魔の非道はその程度に留まらない。
腹の中に突き入れられた右手が、男の内臓を乱暴に掻き回す。しまいには腸の一部を掴みとり、無理矢理体内から引き摺り出そうとし――――、
「は……?」
何故か、唐突に痛みが消えた。
見れば穴を穿たれたはずの腹に一切の傷はなく、赤く染まっていた戦闘服すら完全に元に戻っている。
まるでいきなり時間が戻ったような錯覚に襲われる。
残っているのはあの瞬間の耐え難い恐怖と激痛の記憶だけ。その記憶だけが、先程の地獄が紛れもない現実であったことを思い知らせてくる。
「俺の力は時を操る。たとえ首を撥ねようが、胸を突こうが、俺が望みさえすれば何もかもがなかったことになる」
そして、そいつは男の顔を間近で覗き込むと、
「今やったことを、あと一万回繰り返す」
「…………は?」
「そのままの意味だ。もし一万回腸ブチ抜いて、それでもまだ組織に忠義を貫くってんなら、そんときは敬意を表して見逃してやるよ」
二、という一言と共に悪魔は再び手刀を腹の中へ突き入れた。
先程と同じように内臓を掻き回し、先程と同じように傷口から腸を引き摺り出される。想像を絶する激痛に男は思わず気を失った。しかし、すぐに頬を叩かれて覚醒する。目を覚ますと、また腹の傷は何事もなかったように消え去っていた。
しかし、脳に刻まれた阿鼻叫喚の記憶が確実に精神を破壊する。
時を置かず、男は嘔吐した。まるで子供のように号泣し、ズボンの裾からはタラタラと汚物が滴り落ちる。
「三」
「待ってくれ、もうやめてくれぇえええええッ!! 頼む、知ってることはなんでも教える、から……」
男が叫ぶと、悪魔は直前で手刀を止める。
そして、もう一度同じ質問を繰り返した。
「アンタらが上と連絡を取る際、合言葉やらコードやら、何かしらのルールがあるなら教えろ。吐けばお前の命だけは助けてやる」
悪魔は空いた手で男の髪を掴み、乱暴に引き寄せながら重ねて言う。
「嘘をつけば殺す。人質はお前だけじゃない。二人の答えが一致しなけりゃ、問答無用でブチ殺す」
男は生唾を飲む。
恐らく最初に消えた原田はこの瞬間のために拐われたのだろう。
頼むから正直に吐いてくれと、そう心から天に祈る。
「連絡を入れる際は、まず此方まるまると部隊名を名乗る。あとは敵のなりすましを看過するため――――――」
男が話している間、悪魔は何も口を挟まなかった。
目を閉じ、耳に手を当て、どこからかの通信を聞いているような素振りであった。
男が吐き終えると、やがて其奴はおもむろに目を開く。
元から凶悪極まる眼光が、今は更に明らかな怒気を帯びていた。
「……もう一人と言っていることが違うが、まさかお前」
「違うッ!! 俺の言っていることが真実だッ!!」
瞬間、心臓が冷たくなる。
唾を撒き散らそうともお構いなく、男は縋るような声で叫んだ。
反射的に青年のズボンの裾に縋り着こうとするが、即座に顔面を蹴飛ばさせる。倒れたところを上から踏みつけられ、そのまま地に縫い付けられる。
それでも男は叫び続けた。
何度も何度も嘘は付いていないと繰り返し、もう一人の男は信用ならないとひたすらに主張する。
「そうかよ」
必死の訴えが通じたのか、悪魔はおもむろに男から足を退けた。
其奴は男の腕を引き、座らせる。そしてまるで親が子を諭すように、男の頭にポンと手を置いて言う。
「冗談だ。ああ、分かってる。アンタは正直もんだ。ほらいい子だ、いい子」
その言葉に、男は思わずホッとする。
実際悪魔は男の頭から手を退けると、そのまま後ろの方へ歩き去り――――、
後ろ手に振るわれた翼の剣が、男の首を横一文字に跳ね飛ばした。
♢
「松下」
碧軍数十人を瞬く間に殺し尽くした悪魔――――樋田可成が名を呼ぶと、裏路地の陰から銀髪の女子中学生が姿を現す。
松下希子。彼女は鮮血に塗れた樋田の姿を一瞥するや否や、やんわり唇を噛みしめる。しかし、それでも樋田は構わずに続けた。
「ツールは無事確保した。通信のルールについても、まぁ、あの様子じゃ多分嘘はついてねえだろ」
樋田は松下に自らのスマホを投げ渡す。
先程の一連のやり取りは、アプリを使って携帯の中に録音してある。
「悲鳴やら切羽詰まった声色やらのサンプルも充分に取れた。これであとはお前が良い仕事をしてくれりゃあ何も問題はねえ」
有無を言わせない威圧的な声色であったが、松下は首を縦にも横にも振らなかった。
暫し気不味い沈黙が続く。
やがて、それまで冷酷を装っていた樋田の表情が、徐々に崩れていく。乱雑に頭を掻き回し、自らに失望するような深い溜息をつく。
だがしかし、それでもやはり、樋田可成は自らの覚悟を貫徹する。
「確かにお前をこんなクソみてえなことに巻き込むのは不本意だが、俺はもう手段は選ばねえと決めた。アイツを救い出してやるためには、どうしてもお前の力が必要になる」
「それは……」
それまで沈黙を貫いていた松下が、おもむろに口を開く。
彼女は今度こそ顔を上げ、真正面に樋田を見つめながら問う。
「それは、お願いですか? それとも……強制ですか?」
「百パーセント強制だ。だから、お前に逆らう選択肢なんてハナからねえんだよ」
間髪入れずに吐き捨てる。
しかし、松下は怯まない。
怯むどころか、内側より溢れ出す不愉快を隠しもしない。
「……うっざ、本当に腹が立つ。そういうのッ!!」
松下は一歩進み出ると、そのまま少女は樋田の胸倉を鷲掴みにする。
「勝手に見損わないでください。先輩は私の一番大切なものを守るために命を張ってくれたじゃねえですか。なら、私も先輩が大切なものを守るために泥を被るのが筋ってもんでしょうッ!!」
一思いに言いたいことを言い切り、松下は樋田の胸倉からやんわりと手を離す。樋田を下から見上げるその瞳は、怒気をはらみながらも、気高い優しさに満ちていた。
「だから、強制なんかじゃありません。これは、あくまで私の選択です」
「……そうかよ」
本来は礼を言うのが筋なのだろうが、樋田はぶっきらぼうに吐き捨てる。
自分から協力を頼み、受け入れられたにも関わらず、彼の表情は複雑だ。
それほどまでに今回のことに松下を巻き込むのは、樋田にとって苦渋の選択であった。
松下希子は極端な性格だ。今はなんとか日の当たる場所に立ってはいるが、なにかきっかけがあれば、瞬く間に闇へと落ちてしまうような、そんな危うさを有している。
「それじゃあ、始めるとするか」
鮮紅に染まった翼を翻す。
樋田可成は最早正義の味方と呼べるような存在ではないだろう。
寂しさはあったが、後悔はなかった。
世界の敵となってしまった秦漢華を救うため、樋田可成は正義の味方であり続けることを諦めたのだ。