第百二十一話『神の言葉』
大海獣マザンが唐突な死を迎えたその瞬間から、時は幾らか過去に遡る。
そこは床に壁に柱、その全てが石造風のコンクリートで象られた建造物の中であった。材質だけならば如何にもな人工物であるにも関わらず、暗く、静かで、厳かで、まともな人間ならば思わず居住まいを正さずにはいられない神秘さがそこにはある。
しかし、残念ながら今現在においては「本来ならば」という枕詞がつく。
理由はたった一柱の女悪魔、この女がいるだけで最早その神秘空間はなんかもう情緒もへったくれも無くなっていた。
「ラン、ラララランランラン、ラン、ラララ、ラーン♪」
業魔王アズ。
天使という存在の頂点に立つ十三王の一角であり、そしてありとあらゆるダエーワの産みの親でもある悪魔の女王。
そんな彼女がこんなところで何をしているのかというと、踊っていた。小脇に一体の仏像を抱え、ときにはそれをダンスの相手に見立てながら、一人で意気揚々と踊っているのである。
彼女はとにかく上機嫌であった。
それもそのはずで、アズは既にヴェンディダート七大魔王の出産を終え、なによりダエーワの最終兵器である大海獣マザンを産み落とすことにも成功した。
戦力の供給は最早これで充分。人類王勢力に碧軍に悲蒼天に後藤機関、人間さんサイドはまだしつこく抵抗を続けているようだが、最早勝負は決したようなものである。
あとは愛しの蟻間くんと子供達が、人間共を絶滅させて帰ってくるのを待つだけ。そうなれば鼻歌の一つや二つくらい歌いたくなる。これまでアズは草壁蟻間の起こした戦争の遂行のために全てを捧げてきた。この戦いが勝利に終われば、きっと草壁蟻間はご褒美にアズ=エーゼットを愛してくれるに違いないのだから。
「えっ」
しかし、それはあまりにも当然のことであった。
アズは小脇に抱えていた仏像を思わず取り落とした。
にも関わらず拾おうとしない。それどころか落としたことに気付いてすらいない。それだけの衝撃的な事実をたっぷり数十秒かけて咀嚼する。
先程までの上機嫌な様子は何処へやら。アズは目を涙に潤ませ、心底悔しそうに口元を一文字に引き結ぶと、
「いやああああああ、蟻間くんが死んだァア〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
業魔王は草壁蟻間の死を確信する。
何か具体的な根拠があるわけではないが、なんとなく分かってしまうのだ。
恐らくは彼のことを心の底から愛していたからなのだろう。愛しているから、互いが運命の赤い糸で結ばれているから、だからこそ分かってしまうのだ。
されど――――、
「よーしッ、切り替え完了☆ そうと決まれば、早速新しい恋を探しに行かなくちゃッ!! ふふふッ、今度はアタシ、一体どんな人をどれだけ好きになっちゃうんだろ〜〜ッ!?」
湿っぽい表情はほんの一瞬だけであった。
最早アズの脳内から草壁蟻間の存在は完全に消え失せている。
当然のことだ。相手が死んでしまったのならば、これ以上叶わない恋に気持ちを回す意味はない。だから全くこれっぽっちも悲しくはない。むしろ、これでもっと良い男の人と巡り合えるかもしれないと思えば、これからの期待に気分は花咲くほどである。
そう、確かに気分は花咲くほどであるのだが――――、
「……うーん、あんま空気読めない人は好きじゃないけど」
にも関わらず、アズの笑顔が不意に固まる。
その瞬間、唐突に得体の知れないものを感じたのだ。
ここら一帯は完全にダエーワ軍の勢力下にある。こちらと敵対している人間や天使が攻めてくるはずはない。にも関わらず、何者かがこの領域に足を踏み入れた確かな気配を感じたのである。
「ふふふっ、なになに〜? もしかして〜、早速新しい白馬の王子様が来てくれたのかな〜〜〜〜〜ん♡」
扉のない門を潜り、半ば舞いながら建物の外へと出る。
その先に広がっているのは足元一面に石畳が敷き詰められているだけの開けた空間だ。そして、その石畳の上をカツカツと音を立てながら歩み寄ってくる一つの人影があった。
「ど〜ちら〜様〜? 男の子だったら〜、お名前と年齢と身長と学歴と年収とアソコの大きさを教えて〜。でも〜チビ、デブ、ハゲ、ブス、粗チン、おっさん、ジジイッ!! 一つでも当てはまってるなら、そこで今すぐ死んで頂戴な☆」
謎の人物からの返答はない。
しかし、近づいてくるごとに段々とそのシルエットが明らかになっていく。
人数は一人。そして中々に奇妙な人物であった。
夜で暗いのも理由の一つだろうが、一見男なのか女なのか判別がつかない。中性的な顔立ちに茶色の長い髪、男装の麗人と言われれば納得出来るが、男の娘なのだと言われても違和感はない。
黒のマフラーに、裾の長い茶の羽織り。横に膨らんだシルエットは西洋チックであるが、全体的なイメージは中東チックなファッションである。
そのまま彼我の距離が二十メートルになったところで、そいつはおもむろに顔を上げた。
「業魔王アズ=エーゼットか」
そいつの纏う雰囲気は明らかに常人のそれとは異なる。
幾度となく命のやり取りに身を置いてきたものが持つ独特のオーラ。天使かどうかは分からないが、間違いなくプロの異能者だ。個性丸出しな衣装を見るに碧軍や後藤機関ではないだろう。ならば人類王勢力か、或いは悲蒼天の手の物か。
「キャハハッ、見つかちゃったッ!! ねぇどうしてどうしてッ!? どうしてこの場所が分かったの? もしかして〜、アタシとアナタ運命の赤い糸で結ばれてる的なアレだったりして〜〜〜ッ!! キャッ、キャッ、キャ〜♡」
テンションの高いアズとは対照的に、性別不詳者の態度は冷め切っていた。
栗毛は呆れたようにため息を吐く。そうして彼(?)は今自分がいるこの場をチラリと見渡すと、
「築地本願寺。日本では極めて特異な古代インド様式の寺院だが……なるほど、確かにこの場所ならば古代インドというファクターを介し、日本仏教とゾロアスターを結びつけることも可能というわけか」
栗毛は滔々と、されどいくらか自嘲気味に語る。
「そしてダエーワの材料は大方周辺の寺院からかき集めた仏像あたりだろう。仏の一部は古代インドのデーヴァに由来し、加えてデーヴァとダエーワは視点が異なるだけで同質の存在だからな。乾燥アジアは私達の専門分野であるにも関わらず、まさかこんなことにここまで気付くことが出来なかったとは」
「ふーん、ふーん、ふーん?」
図星にも関わらず、アズの顔に焦りはない。
なにしろ彼女は全天使の頂点に君臨する十三王の一角、そこらの人間や天使程度で揺らぐ存在ではない。
「キャハハ、すごーい全部正解〜♡ でも〜、それが分かったからなんだって話だよね。部屋にゴキちゃんが沸いたら叩き殺すだけ、アンタみたいなよっわ〜い人間ちゃんが一体こんなところになにをしに来たのかにゃん?」
しかし、そいつはまるで当たり前のことを言うように、ぶっきらぼうな口調で告げた。
「私達はお前を殺しに来たんだが」
「チッ……はーい、下等生物のくせに調子乗りすぎ。綺麗にバラしてみんなの晩ご飯決定でーす♡」
やっちゃいなさいというアズの掛け声とほぼ同時、アズの護衛として寺院内に控えていたダエーワの群れが外へと飛び出していく。人間と大して変わらないサイズのものから、目測三メートルはくだらない大型種まで。そこへ更に飛行種を加えた総勢三十匹が、一心不乱に乱入者のもとへと殺到する。
しかし、それだけの危機を前にして、栗毛はただ懐から取り出した鞭を振るうだけであった。
「『狂狼晩餐』」
栗毛がその場で鞭を振るうと、その軌道に沿って空間に切れ込みが生じた。そのままリズムよく軽やかに鞭を振るい続け、瞬く間に虚空に十の裂け目を刻み込む。
そしてその直後、十の隙間の向こう側から一斉に手が飛び出した。
毛並みは黒で、指先には鋭い爪。肉食哺乳類を彷彿とさせる獰猛な両腕が、その狭い隙間を無理矢理にこじ開けていく。
やがて其奴らは顔を出した。
既に大きく開かれた隙間を突き破り、その奥より見目猛々しい人狼が姿を現す。体長三メートル、毛の色は赤黒い。牙や爪や体毛は明らかに狼のそれでありながら、二本の足で地に立つ様は実に人間らしい。
「ちょっと〜キャラ被りはウザいってッ!!」
視界の先でアズが何かを叫んでいる。
人狼の群れが召喚された瞬間、既に飛行タイプのダエーワは栗毛の懐まで迫りつつあった。しかし、まさに飛んで火にいる夏の虫。慌てて逃げようとするも間に合わず、狼の俊敏な一噛みに命を絶たれる。
「アッハッハッ!! 食べられちゃった面白い〜ッ!! でも、でもでもでも次はどうかな〜???」
そして次の瞬間、業魔王が産み出したダエーワと、栗毛の呼び出した人狼が真正面からぶつかり合う。
しかし、人間サイズのダエーワではまるで話にならない。
どの個体も勢いをつけて飛びかかって来た人狼に押し倒され、そのまま首根っこを噛みちぎられる。
辛うじて数少ない大型種だけが人狼と対等に渡り合っていた。
起点の突進を正面から膂力で押し返され、流石の人狼も攻めあぐねている様子だ。
しかし、その間も飛行種と中型種は瞬く間に殺されていく。今はなんとか持ち堪えている大型種も、このまま数の有利を失えばすぐに殺されてしまうだろう。
「チッ、うっぜぇー」
アズは舌を打つ。
彼女も栗毛も、手駒を代わりに戦わせる戦闘スタイルはほぼ同じ。にも関わらず戦況は向こうが明らかに有利。そのことが堪らなく気に食わないのだ。
「アタシと似たような権能ね。でも〜、でもでもでもすごく残念ッ!! だって、アタシの産んだ子供たちの方がアンタの犬っころなんかよりずっと強くてかわいいんだから!!!」
「ッ……!?」
そうアズが叫んだ瞬間、十匹の中でも一番前に出ていた人狼が即死した。
本当に突然のことであった。アズの方から急に突風が吹いたと思ったその直後、気付けば既に人狼は腹の辺りを横に両断されていたのだ。
「さぁ、やっちゃってぇえ〜〜〜〜〜サ〜ルワく〜〜〜〜〜〜〜ん♡♡♡」
アズの嬌声に応えるように、築地本願寺の中から新たな人影が姿を現す。
其奴を一目見て抱いた印象は偉丈夫。
体躯が筋骨隆々なのは言うまでもなく、軽く三メートルはあろうかという巨大な槍を軽々と担いでいる。
肌は褐色、瞳は赤。橙色の長い髪はオールバックにまとめられ、その毛先はお洒落なのか三つ編みになっている。
そんな筋肉ムキムキの男はアズと正面から向き合うと、
「ママ、オレがあいつらを全部殺したらたくさん褒めてくれるか?」
「もちろん♡ 頭いい子いい子してからぁ、首ギュゥうううってしてあげる」
「分かったよママ。よし殺そうッ!! 今すぐたくさん殺そうッ!!」
魔王サルワ。
荒ぶる風と無秩序を司るこの悪魔は、アンラ=マンユの直属ヴェンディダート七大魔王の一角でもある。アズがダエーワ軍の兵站の要であることを鑑みれば、草壁から直々に護衛を命じられた此奴の実力は折り紙付きだ。
「やはり魔王の一人や二人くらい忍ばせているか……」
それまで余裕げであった栗毛も思わず息を飲む。
それでも彼(?)は構わず鞭を振るい、一匹の人狼をサルワのもとへ特攻させる。
しかし、サルワは狼の突進をかわすことすらしなかった。
ダエーワを容易に吹っ飛ばした体当たりを喰らわせても、魔王はよろけるどころかびくともしない。
「無駄だ」
サルワの太い腕が人狼の両肩を鷲掴みにする。
あまりの握力に指は狼の毛皮を突き破り、その下の肉にすらグイグイと食い込んでいく。
「虐めるは楽しい、千切り殺すは嬉しいィイーーーーーーッ!!」
そして、サルワはスナック菓子の袋を開けるような気軽さで、人狼の体を容易く左右に引き千切った。そこから悪魔は間髪入れず、石畳が割れるほどの踏み込みをもって勢いよく跳躍する。
「刺し殺すは気持ちィイイイイイイイイッ!!」
空中で槍を構え、サルワは眼下の人狼目掛けて槍を突き出す。
勢いの乗った一撃は、容易く人狼の体を腹から背へと突き破る。わざわざ確認するまでもなく即死であった。
「ハッハッハ、やはりオレは強すぎるッ!! オレは最強、つまりは最も強いぞォオオオオオッッ!!!!」
一対一では話にならない。
そう判断した栗毛は残りの人狼を四方八方からサルワに殺到させる。
「おっ、来るか? 来いよ来いよ、たくさん、まとめて一気にッ!!」
対するサルワは頭上に構えた槍を凄まじい速度で回転させる。
たちまちに周囲を暴風が吹き荒れる。更には槍の回転が風を巻き取り、その引き裂き打ち砕く火力を指数関数的に増加させていき――――、
「まとめて殺すは楽ちィイイイイイんッ!!!!!!!!!!!!!!!」
そんな剥き出しの暴力を、容赦なく横に一閃した。
ビィイイイインッ!!!! という鼓膜が破れると思うほどの高音。あまりにも鋭利な一撃を目の当たりにし、栗毛は空間そのものが斬り裂かれたような錯覚すら抱いてしまう。
少し遅れて悪魔の周囲を血飛沫が舞った。ズルリと、人狼の上半身が下半身から滑り落ちる。直接槍で斬り付けられた個体は勿論、間合いの外にいた人狼も風刃に腹を裂かれて絶命する。
五匹をたった一振りで潰された。
人狼は最早ほとんど壊滅状態、何より今栗毛を守れる立ち位置にある個体はゼロ。そして、サルワがその好機を逃すはずもなく。先程の一閃を振り切るや否や、足元に風を起こし、列車にも等しい速度で迫り来る。
「ぬははっ、あとはお前だけだッ!! 今すぐ殺すぞ、殺して命をなくしてやるぞォオオッッ!!!!」
「……あまり使いたくはなかったが、やはり切り札を温存して勝てる相手ではないか」
しかし、男女は既に手を打っていた。
栗毛が事前に鞭で打ちつけていた場所から、突然メラメラと炎が噴き出上がる。いや、炎だけではない。その不気味な炎の内側から、まるで罪人が地獄から這い出るかのように、一人の人物が姿を現したのだ。
「……」
金の刺繍が施された軍服の上から黒の外套を身に纏い、中折れ帽を目元深くまで被った初老の男。その端正な顔はまるで死体のように白く、しかしそこには一国の王を思わせる確かな威厳がある。
「霊の剣、すなわち神の言葉を受け取れ」
「ッ……!!??」
老人はなにやらボソボソと言葉を溢す。
そこから何か本能的な危機を感じ取ったのか、サルワは地に足を突き立てる形で急ブレーキをかける。そして次の瞬間、サルワの目の前の石畳がズギャアアアッ!! とやたらめったらに切り刻まれる。
攻撃は一切見えなかった。敢えて言うならば不可視の刃と言ったところか。どのような術式かは分からないが、あのまま吶喊していたらサルワは確実に殺されていただろう。
「貴様ァ……!!」
一方の老人は何故か激怒していた。
しかし、その怒りが向かうのはサルワではなく、自らを召喚した栗毛の方である。
「この簒奪王を駒扱いだとッ……!! ふざけるなッ!! 身の程を弁えよッ!!」
老人の持つ天使としての称号は簒奪王、人であった頃の名はオスマントルコ第二一代皇帝アフメト二世。
人生のやり直しという野望を果たすため、直属の上司である鎮魂王を殺害したのち人間界へと堕天した天界の大罪人である。
しかし、王がそこまでのリスクを犯して追い続けた夢は、二ヶ月前とある深夜の決戦において粉砕された。あまりにも荒唐無稽な話だが、簒奪王はその日、少し術式を齧っただけの人間と量産天使風情に敗北したのである。
そしてその後、その身柄は同時期に簒奪王の討伐作戦を進めていた対天武装戦線『悲蒼天』によって回収されたのだが――――、
「うるせえな、クソジジイ。身の程を弁えるのはお前の方だ」
そう吐き捨て、鞭を軽く一振りする。
本当に栗毛がしたのは、ただそれだけであった。
「そこの魔王の相手はお前がしろ。業魔王の方はこちらで処分する」
「おのれ栗鳥鈴久ァアアッ!! この屈辱、決して忘れはせぬぞォオオオオッ……!!」
簒奪王の怒りは既に限界を越えていた。
まなじりが裂けるほどに目を見開き、まるで狼のように強く歯を食い縛る。その身から滲むのは本物の殺意だ。
しかし、逆らうことは出来ない。
だからこそ、王は不本意ながらも悪魔の方へと向き直る。
喪服を見に纏った女悪魔に、橙髪褐肌の筋肉達磨。例え直接顔を見たことはなくとも、天界出身者で彼等を知らぬ者はいないだろう。
「……業魔王アズと魔王サルワか」
低く声を落とし、威圧的に呼び掛ける。
しかし、対する業魔王はむしろ人を小馬鹿にするような笑みを浮かべると、
「あはは〜、このおじいちゃん誰ぇッ? 」
「……無知蒙昧の輩め。簒奪王アフメト二世と聞いて分からぬか」
簒奪王の声色に明確な不機嫌が混ざる。
ただでさえ人間風情に使役されて鬱憤が溜まっているのだ。
そこへ更に神経を逆撫でするような言葉を浴びせられば当然のことである。
「いや、普通に知らない。聞いたこともない。お前は、誰だ……? もしかして有名人なのか……?」
「んもぉサルワくんアッタマ悪くてバカァ〜。私は知ってるよぉ、超知ってるぅ。えぇと、確かビザンツ帝国を滅ぼした――――」
しかし、残念ながら業魔王は見事なまでに簒奪王の地雷を踏み抜いてしまった。
「それは、メフメト二世だああああああああああああッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
「ッ!!」
簒奪王が振り撒く本気の殺気に、サルワは即座に反応した。
ドッ!!!!!!!!!! と、駆けるというよりかは半ば飛び掛かるような勢いで簒奪王に接近する。
「オレのママに向かって怒鳴るんじゃねえぇえええええッ!!! こんのボケジジイがァアアッ!!!!!!!」
サルワは空中で槍を構える。
冗談から叩き付けるように放たれた鋭い一撃を、簒奪王は腰元の軍刀で迎え撃とうし、
「くッ……!!!!」
しかしまるで間に合わず、そのまま利き手を斬り飛ばされた。
当然といえばあまりに当然。アフメト二世の立ち位置はあくまで王。国を治めることが本質である以上、戦場で武人に敵うはずもない。
「汝、偉大にして永遠なる主よ、誠に、斯く有れかし」
それでも簒奪王は翼をはためかせ、大きく後ろに飛び退きながら『霊の剣』を発動する。
『霊の剣』。それは「神の言葉はサタンと戦う為の霊の剣である」というエフェソ書の記述を元に組み上げられた術式だ。簒奪王が口にした聖句は不可視の刃へと変換され、四方八方からサルワに襲い掛かる。
「おぉッ……!?」
確かに不可視の一撃はサルワの肉体を引き裂いた。
しかし、ただそれだけだ。ダエーワの再生能力を持ってすれば、ものの数秒で完治する程度の負傷でしかない。
「オイ、今のが攻撃かァアアッ!? ふざけるなッ、弱すぎるぞォオオッ!!!! 斬り裂くとはどういうことか、その身体に教え込んでやるぞォオオオオオッ!!!!!!!」
サルワは再び力強く一歩を踏み込む。
途端に悪魔を中心に突風が吹き荒れた。足元に敷かれた石畳を持ち上げるほどの暴れ風。それらはまるで生き物のように唸り、周囲から押し寄せる『霊の剣』をいとも簡単に掻き消してしまう。
「チッ……!!」
その瞬間が致命的な隙となった。
サルワはすかさず地を蹴り、暴風の推進力を借りて一気に簒奪王を追撃する。
接近戦になれば簒奪王に勝ち目はない。
しかし、王は距離を取り直すこともせず、何やらボソボソと呟いているだけだ。
瞬間、サルワは勝利を確信する。
このまま突撃すれば、間違いなく簒奪王の首をとれる。
「かの悪魔は、かれの追従者たちを、恐れさせるだけである。だからあなたがたが真の信者ならば、かれらを畏れずわれを畏れなさい」
聴き慣れない言語での詠唱にサルワは思わず眉を潜める。
しかし、何を恐れることがある。例え迎撃に『霊の剣』が放たれようとも、先程のように荒ぶる風で全てを薙ぎ払ってやればいい。
「んンッ……!?」
その瞬間、サルワの鍛え抜かれた肉体が袈裟懸けに両断された。
何故と、頭に疑問が浮かぶ。しかし、思考の余裕はない。その様はまるで押し寄せる斬撃の洪水、数十発の『霊の剣』が一気にこちら目掛けて殺到したのだ。
腕が斬り飛ばされる。
足が斬り飛ばされる。
下半身が斬り飛ばされる。
首が斬り飛ばされる。
「ァアッ……!!」
ものの一瞬で、サルワは数十の肉塊へと解体された。
それでもダエーワとしての再生力が肉塊同士を寄せ集め、繋ぎ合わせ、悪魔はすぐに無傷の状態へと回帰する。
「何故、だ……」
当然の感想であった。
初めに食らった『霊の剣』と比べて、先程の攻撃は切断火力、攻撃範囲、射出速度、その全てが桁違いに向上している。
まさか第一波は様子見のために力を抑えたとでも言うのか。
「単純なことだ」
「ッ……!?」
簒奪王はサルワの耳元すぐで囁く。
魔王がバラけた身体を修復している隙に、王はサルワの懐に潜り込んでいたのだ。
問答無用に、簒奪王の右手がサルワの太い腕を掴む。
同時に王の体に刻まれた人狼の紋章が赤く光り輝いた。
「『黄金の鳥籠』」
そこで簒奪王は十八番を繰り出した。
『黄金の鳥籠』。オスマントルコにおける皇位継承者の幽閉制度を、「未来における可能性の剥奪」と解釈し、術式として組み上げられた簒奪王の権能。その力はただ手で触れるだけで、対象から『天骸』を奪い取ることを可能とする。
「力がッ……!?」
『黄金の鳥籠』に『天骸』をゴッソリと抜き取られ、サルワは思わずその場に膝をつく。
「貴方方信仰する者よ、心を込めて平安の境に入れ。悪魔の歩みを追ってはならない。本当に彼は、貴方方にとって公然の敵である」
その隙を付き、すかさず『霊の剣』を叩き込む。
ズギャギャギャギャギャァアアアアッ!!!!! と、押し寄せる怒涛のような斬撃が、再度サルワの身体を滅茶苦茶に斬り飛ばした。
「とても痛いし、治るのが、遅いッ……回復のスピードがゆっくりだッ……!!」
再びサルワは肉体を再生させるも、先程と比べて明らかに回復が鈍く、また傷の治り具合も不完全であった。やはり『黄金の鳥籠』によって『天骸』を奪われたのが効いている。
直前までサルワは勝利を確信していた。
にも関わらず、今悪魔の顔は苦痛と焦燥に塗れている。
何故急に『霊の剣』の威力が上昇したのかと、必死にない頭を働かせている。
そんな哀れで惨めな醜態に、簒奪王は思わずほくそ笑んでしまう。
折角面白いものを見せてもらったのだから、冥土の土産に種明かしをしてやろうと、王は急にそんな気分になる。
「啓典の句を唱え、邪悪を払わんとする『霊の剣』概念は、キリスト教とイスラム双方に共通して存在する。されど、余は基本的にキリスト教式の詠唱をもって『霊の剣』を発動させている。この余はオスマントルコの皇帝であるにも関わらずだ。その理由が何故か、貴様には分かるか?」
サルワは答えない。分からないから、ただ歯を食いし縛ることしか出来ない。対する簒奪王は心の底から満足そうに、大仰に両腕を広げて告げる。
「当然のことだ。自らの穢れた欲を満たすために、真なる神の言葉の力を借りていいはずがないであろう」
イスラムにおいてアラビア語は神の言葉であるとされている。
ギリシャ語に訳そうが、英語に訳そうが問題ない聖書とは異なり、非アラビア語のクルアーンが啓典として認められないもそれが理由だ。
神の言葉を人の言葉に訳して唱えるか。
それとも、神の言葉を神の言葉のまま唱えるか。
そのためキリスト教式の『霊の剣』とイスラム式の『霊の剣』では、後者の方がより強力な祓魔術式となる。特に発動者がトルコ皇帝である簒奪王であるならば尚更のことだ。
「ただし、貴様のような人に仇をなす悪魔を払うためならば、何も戸惑うことはあるまい」
簒奪王は再び神の言葉を紡ぐ。
一本一本が長さ二十メートルを誇る不可視の刃、それら数十本が逃げ出そうとしていたダエーワ達を片っ端から殺していく。
次いで発動するは『未練の奴隷』だ。
簒奪王によってズタボロに斬り裂かれた悪魔の死体。一度引き裂かれた肉塊は独りでに集まりだし、そのままお互いを潰し合うようにして肉団子としての形を整えていく。
そして王が右手を振れば、肉団子達は徐々に人の姿を型取っていく。肉塊が手を生やし、脚を生やし、そして胴体の形を整える。首から上だけは作られないものの、一体どこから取り出したのか、首無し達は既に中東風の赤い衣を身に纏っている。
その姿は明らかにオスマントルコの常備歩兵軍団イェニチェリを模している。
たったの数十秒でダエーワの敗走兵は残らず消え失せた。
そうして代わりに出現したのは、簒奪王に絶対の忠誠を誓う新生トルコ軍の姿であった。
彼等を自らの眼前に整列させ、簒奪王は恍惚の笑みを浮かべる。
臣下を統べ、軍を従えるのは実に二ヶ月ぶりのことだ。例え人間風情に使役されている屈辱を差し引いても、その高揚感は隠し切れないのだろう。
王は嗤う。
先程までの威勢の良さは何処へやら、すっかり大人しくなってしまった魔王サルワを見下しながら、
「さあ、一騎当千の強者よ。このアフメト二世の統べる帝国と戦争をする気概はあるか?」