第百二十話『不和を断つアダマント』
空が暗い。異常に暗い。深夜なのだから暗いのは当然だが、本来空に上っているはずの月や星々の輝きすらそこにはなく。
東京は空気が汚くて星が見えないだとか、都会特有の高層建造物が夜空を見上げるのに邪魔だとかそういう次元の話ではない。あまりにも巨大な、高さ二百五十メートルを誇る怪物の巨体が、その背の向こう側に丸ごと夜空を隠しているのだ。
「ギ、ギャグラァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
大海獣マザン。偽神アイコーンの放出した光のかけらが、母なる青と混ざることで産まれた海の怪物。その咆哮は世界の終わりを想起させる。ただマザンが呻るだけで地が震える。海が波立つ。風がどよめき、世界が恐れ慄く。
「はぁ……はぁ……」
そんな何もかもが規格外な生きた災害に、たった一人で戦いを挑んだ少女、陶南萩乃の息は既に荒い。
彼女の対応神格は大天使ラファエル、有する権能は『虐勢破棄』。その能力はありとあらゆるエネルギーを暴力と解釈して没収する。当然少女の体には未だ擦り傷一つすら刻まれてはいない。
しかし、陶南の天使体は交戦開始時と比べ明らかに薄くなっていた。
天使体は『天骸』を原料としながらも、それ自体が確かな質量を持つ物質である。されど、今の陶南の姿形からはまるで幽霊のような印象を受ける。仮に彼女と目鼻の距離まで近付けば、その天使体越しに向こうの景色が見えるのではないかと思えるほどだ。
未だ自らの矛として振るえるエネルギーは底無し。しかし、いくら残弾はが充分であろうと、それを撃ち出すための砲が壊れてしまえば手詰まりとなる。
「……どちらが先に倒れるか。そういう我慢比べになりそうですね」
しかし、現状は大海獣によるワンサイドゲームというわけでもない。
マザンも既に満身創痍だ。全身に五十メートルほどの切り傷を幾つも刻み付けられ、そこから滝のように泥とも血ともとれない液体を撒き散らしている。あの地を震わすほどのおぞましい咆哮も、もしかしたら痛みに耐えかねての慟哭なのかもしれない。
されど、それでもマザンは前進する。
大口をゆっくり開け、その奥から押し寄せる濁流のような業火を吐き出す。その火力は控えめに言っても、一吹きでビルを十本はまとめて蒸発させられそうなほどだ。実際陶南がここまで業火の射線に入り続けていなければ、この人工島はとっくのとうに地図から消えていただろう。
マザンが進撃すれば、陶南が斬撃を飛ばす。
陶南が斬撃を飛ばせば、マザンは業火を撒き散らす。
陶南が業火を打ち消す隙をつき、マザンは再び進撃を試みる。
そんな一進一退の攻防を何度も何度も繰り返してきた。
いくらラファエルが上位の天使とはいえ、正真正銘神話の怪物を単独で相手取るなどほぼ不可能に近い。むしろよくここまで健闘した方だと褒められるべきだろう。されど――――、
「そんなことには意味がありません。結果守るべきものを守れなかったのならば、何も意味がない」
既にマザンはこの学園の中心近くまで到達した。
はじめは水際で食い止めるはずが、結局ここまで戦線を下げずにはいられなかった。
だが、これ以上は引けない。陶南の背後数百メートルには学園の生徒や教師等が避難している地下シェルターがある。いくら土の下に身を隠そうとも、これだけの質量と破壊力に対しては無防備に等しいだろう。
自分が倒れれば多くの人が死ぬ。
その実感が少女の刀を握る手を僅かに震わせる。
震わせて、ひとしきり焦燥して、それら全てを抑えるように強く刀を握るこむ。
「大海獣マザン。その身は正真正銘神話の怪物であっても、決して絶対無敵の存在というわけではない。所詮は神話においても第二次天界大戦においても、一柱の天使によって討ち滅ぼされた悪性の一角に過ぎないのですから」
震えは止まった。
余計な感情は全て消し去った。
陶南萩乃の瞳は今や、月も星も見えないあの夜空よりも暗い黒をたたえていた。
「牡羊座の時代ですら貴方達は当時の人と天に敗北したのです。ましてや水瓶座のこの時代に、悪が栄える道理は――――満に一つもない」
陶南萩乃は左手を前に突き出し、一気に強く握り込む。
これまで多くの敵から没収してきた力の一部を引き出し、周囲の空気に膨大な熱と圧力を加える。二酸化炭素が酸素と炭素に分解される。瞬間的な高圧力に晒された炭素は、極めて小さなダイヤモンドの塵へと変化する。
「大海獣マザンを討ち滅ぼし天使は光のアダマス。その名が意味するは征服されない、最も硬い金属――――即ちは、アダマント」
そうして陶南は生成した微小なダイヤモンドを刀身に集約していく。
たとえ実際に存在する量が電子顕微鏡レベルでも問題はないのだ。史実においてマザンを討ち滅ぼした天使アダマスの記号を、斬撃に付与することこそが重要なのだから。
「その身が神話を基に象られた存在である以上、決して伝承の呪いから逃れることはできない」
漆黒の少女は右方水平に刀を構える。
極小の金剛石が塵の如く周囲を舞うなか、一気に息を吸い、ドッと地を割るような一歩を踏み込む。
「天薙・金剛纏」
その場で袈裟懸けに刀を一閃。
ただの一太刀で五十メートルを切り裂くダイヤモンドの斬撃が射出された。
業火で迎撃することも、勿論避けることもできず、斬撃はマザンの首元へ吸い込まれるようにズギャアアアアアッ!! と直撃する。
甲皮が弾け、肉が裂け、その下から醜い泥が勢い良く噴き出す。されど、切り飛ばすことは能わず、あくまで表面に太刀傷を負わせたに過ぎない。
それでも弱点であるアダマントを介した攻撃、そこから発生した傷はマザンといえども再生することが出来ない。少しずつだが、確かにダメージは蓄積されているはずなのだ。
「ッギ……ギッ、ギュルギャァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
されど、マザンは止まらない。
全身をズタボロに切り裂かれ、それでもなお、怪物は『叡智の塔』を目指して前進し続ける。
「――――いや、違う。これは」
しかし、そこでようやく陶南は気付いた。
あまりにも巨大過ぎてはじめは分からなかったが、この怪物は今自分の力で前に進んでいるのではない。
最早立つ気力を失い、前に倒れ込もうとしているのだ。
「ッ……!!!!!!!!!」
陶南は反射的に四翼を広げた。
そのまま音速を超える速度で、ドッッッ!! と後方に飛ぶ。
直後、ぐらりと大海獣の体が大きく傾いた。
校舎に食堂、『止まり木』と呼ばれる綾媛の娯楽施設群。周囲のありとあらゆる構造物を押し潰しながら、全長二百五十メートルの大質量がゆっくりと地に倒れ伏す。
まるで隕石でも落ちたのかと思った。
マザンが地と接した瞬間、学園の基礎である人工島すら僅かに傾いた。
一瞬のタイムラグの後、世界の全ては轟音と衝撃に埋め尽くされる。
最早陶南は今自分の目の前で何が起きているのかも分からなかった。ただ一つ分かるのは、今この場に存在するありとあらゆるものが形を失っているということだけであった。
まるで津波の如く押し寄せる衝撃の余波、砂、煙、礫。
陶南は反射的に右手を前に突き出す。ただそれだけでありとあらゆる衝撃は無効化される。飛来物も陶南の肌に触れるやいなや、瞬間的に運動エネルギーを失い、彼女の足元にボロボロと力無く落ちていく。
それからいったいどれだけの時間が過ぎただろうか。
視界全体を覆い隠していた砂塵のベールが晴れるや否や、陶南萩乃はその向こうに目を凝らす。
やはり、大海獣マザンは完全に地に腹をつけていた。
最早二足での進撃はおろか、四肢で立つことすら叶わない。
どうやら既に体を蛞蝓のようにうねらせ、ゆっくりと地を這うのが限界の様子であった。
「流石に、少し肝を冷やしました」
無表情ながら、陶南萩乃はホッと微かに息をつく。
一度右手の日本刀をかちゃりと鞘の中へ収める。
これで大海獣マザンの進撃は事実上停止した。まだ完全に倒しきったわけではないが、あとは最早ろくに迎撃も出来ない大きな的へ、一方的な遠距離攻撃を叩き込み続ければいい。時間はかかるだろうが、それでいつかは削り切れるはずだ。
「……ギィ、グュ、ギャガギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
そんな希望的観測は刹那で消え去った。
力尽きて、地に倒れ伏して。
それでも大海獣マザンは再び大口を開いた。
その口腔の中に、業火が灯る。
「ッ――――!!!!!」
陶南は反射的に右手を前に突き出した。
ここで火を吐かれるのはまずい。これまで見てきた破壊力もさることながら、なにより立ち位置が悪い。
その首が向く先は綾媛の生徒や教師等が身を隠す地下シェルター。ここで陶南が熱エネルギーの全てを没収出来なければ――――仮に僅かでも業火を背後に逃してしまったら――――その時点で数百人の蒸発が決定する。
決してミスは許されない状況。しかし、陶南の能力をもってすれば、十中八九マザンの攻撃は消し切れるはず――――にも関わらず、よりにもよってこんなときに。
その瞬間、陶南の右足、つまりは彼女の天使体の中でも最も薄くなっていた部分が、不意にボロリと崩れ落ちた。
バランスを崩し、仰向けに倒れる。
慌てて手を付いて立とうとするも、今度は両腕が肘の辺りで折れてしまった。
しかし、絶望する暇すら今の陶南にはない。顔を上げると、ひどく眩しかった。マザンの口腔に集積された莫大なエネルギーが、ついに臨界点を迎えたのだ。
「一体、なにが」
しかし、光線が放たれることはなかった。
それはあまりにも唐突で、思わず夢かと思うほどに都合が良い。
マザンが今まさに吐き出そうとした熱エネルギーが、突如暴発したのだ。
そしてボンッと、まるで出来の悪いB級映画のように、怪物の首から上が圧に耐えきれずに吹き飛んだのである。
「グルアァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアッッ!!!!」
すぐさま失った頭部を補うための再生が始まるが、それもすぐに勢いを失った。
再生が止まるや否や、今度は逆にマザンの肉体は傷口からどんどん腐っていく。頭から首、そして首から胴へ。それまでの大型爬虫類を模した姿はどこへやら、気付けば元の肉と内臓をこねて丸めたような醜い姿に戻っている。しかし、やがてそれすら保てず、みるみるうちに形を失い、瞬く間に崩れていく。
苦痛に喘ぐ咆哮が聞こえなくなったとき、大海獣は既にただのグロテスクな泥の塊と化していた。