第百十八話『巨悪墜つ』
生存と斃死。
松下からその術式について聞かされたときには正直絶望した。
言葉を発するだけで人を殺すなど、理不尽すぎるにもほどがある。
「ですが手立てはあります。ヴィレキア卿が自らの命をなげうってまで、私達に教えてくれたことですから」
それでも松下希子には作戦があった。
樋田もまたヤツの権能の性質を聞いた瞬間に同じ博打を思い付いた。
どことなく気まずい沈黙が生じる。
松下は如何にも悲しそうに顔を手で覆った。更にはその指の隙間から今にも泣き出しそうな顔をチラチラと垣間見せてくる。
「ですが先輩をそんな危険な目に合わせるだなんて、私にはとてもとても……」
「下手な演技はいらねえ」
「あー、さいですか。すみません嘘つきました。ぶっちゃけ言いますと先輩には是非是非頑張って欲しいですね。ビビらず世界のために命張ってくれると嬉しいです。世界のためっていうか、主に私と紗織のために」
「お前、こんなときになっても本当ブレねえな」
松下本人としてはいつもどおりに振る舞っているつもりなんだろうが、適当ぶっこきつつもその顔には明らかに陰が浮かんでいる。
事実その作戦で死の呪いを必ず乗り切れるという保証はどこにもないのだ。実際に命をかけて試してみるまで、結果がどちらに転ぶかなど分かるはずもなく。
もしかしたら案外意外と上手くいくかもしれない。
その一方、何の意味もなく犬死にする可能性だってありえなくはない。
そんな信頼もクソもない運任せに自らの命をかけようというのだから、それで全く足が竦まなかったと言えば嘘になる。
「まぁ、やるに決まってるけどな。俺の命一つで何もかも丸く収められるかもしれねえってのに、やらねえ道理はねえだろ」
それでも、結局樋田は最終的に首を縦に振った。
その作戦で草壁蟻間に勝てる可能性が一パーセントでもあるならば、そして、その一パーセントで秦漢華を元の光当たる世界へと戻すことができるのならば。
樋田可成は迷いなく、いや例え心の中では迷いまくっていたとしても、最終的には絶対にそちらを選び取る。彼はそういう男であった。
しかし、それでも松下が表情を明るくすることはない。
むしろそこには一種の呆れの感情が浮かんでいた。なんでだよと思う樋田に対し、彼女はその無駄に性能の高い耳をヒクヒクさせると、
「うわあさすがヒダカス先輩頼もしいー! ……って言いたいところなんですが、先輩めっちゃ心臓バクついてますよね」
「うるせぇな。仕方ねえだろ。本当可愛くねえなお前」
♢
死の呪いを発動させてはならない。
とにかくヤツに口を開かせまいと、樋田は果敢に四翼を振るう。
しかし、その焦りが仇となった。樋田の大振りを草壁蟻間は難なくかわすと、悪魔は大仰に樋田の心臓を指差し、
「無駄だ。もう間に合わない。何もかも」
来る。
そう衝動的に理解した。
この術式を食らえば、死ぬ。
生物として完全に死ぬわけではないが、天使化状態で死を付与されれば天使体は確実に崩壊する。
そうなれば最早勝つ手段はない。
世界を救うことも、もう一度秦を日常に戻してやることも出来なくなる。
だから、樋田は名前を呼ぶ。
それまでずっと見えないところから自分をフォローし続けてくれていた少女の名前をだ。
「やれ、松下」
樋田が発したのは隣にいても聞こえるかどうかという微かな声。
しかし、超人的な聴覚を持つ彼女には問題なく伝わった。
『……分かりました』
そうして、そんなどこか躊躇するような松下希子の苦々しい返答が作戦開始の合図となった。
「『暗い日曜日』」
瞬間、樋田の上下左右全方位から不協和音が殺到した。
まるで耳が裂けるような錯覚、今頭の中で血管が破けまくっていると言われても信じられるほどの不快感。
頭が割れると思うほどに痛い。脳が溶けると思うほどに熱い。
気持ち悪い気持ち悪い。
気怠い、辛い、悲しい、苦しい。
女の断末魔や赤子の泣き叫ぶ声であっても、きっとここまで聞き苦しくはないだろう。
「ア、アッ……ァア」
その曲は樋田可成という個人の心を死に向かわせるよう、全てが完璧にチューニングされた悪魔の戦慄。そんな悪趣味極まる音色に、たかが以前一度食らった程度で慣れるはずもなく。
聴覚を介した陵辱は少年の心を瞬く間に削り、貪り、歪ませていく。
『オイ』
幻覚の一種か、いつのまにか目の前に自分が立っていた。
其奴は樋田よりも少し高い位置から、酷く冷めた目でこちらを見下ろしている。
『なぁ、なんでテメェはもっと早く秦漢華に手を差し伸べなかったんだ?』
問い質され、しかし樋田は唇をキツく噛むことしかできない。
しかし、その程度の苦悩で罪が許されるはずもなく、もう一人の自分は更に荒々しい口調で樋田を糾弾する。
なんで秦の声を聞こうとしなかった。
テメェがもっと早く覚悟を決めていたら、きっと秦の家族は殺されずに済んだだろうよ。
テメェの優柔不断がアイツの家族を殺したんだ。
テメェの無能がアイツを独りぼっちにしたんだよ。
そんだけアイツを不幸にしておいて、まさか救うことが出来ただなんて思い上がるつもりはねえだろうなあ。
あまりの後悔と罪悪感に気が狂いそうであった。
そうだ、あれははじめから樋田可成が秦漢華に寄り添っていれば避けられたかもしれない悲劇なのだ。にも関わらず選択を誤った。
土砂降りの雨が降ったあの夕方、結局樋田可成はあのまま秦漢華を行かせてしまった。あの自暴自棄な背中を追いかけることが出来なかった。いや、きっと自分はそのもっと前から間違えていたのだろう。
いつのまにか全てがモノクロと化した世界の中で、樋田可成は自らの愚かさにとことん幻滅する。果たしてこんな人間に果たして生きている価値はあるのか。罪を償うためにもここで死んだ方がいいのではないだろうか。
気付けば樋田は死を楽な逃げ道として肯定していた。
純粋に早く死にたいと思った。そうして、彼の手は無意識のうちに拳銃へと伸びる。しかし、何故かその寸前で手が止まった。そのまま彼は苦しそうに、それでもその瞳には確かな意志の光を灯しながら、目の前に立つもう一人の自分に自虐的な笑みを見せる。
「あぁ、本当にどうしようもねえ野郎だ。しっかり死にたくなった。ありがとうな。これで一番失くしたくねえモンだけは守れる」
そして、そんな樋田の独り言に割り込む形で、
「絶えろ生存と斃死」
遂に全殺王はその言葉を口にする。
言葉だけで人の命を奪う理不尽な力。
しかし、なぜか術式は発動しなかった。
当然樋田可成の命は奪われず、今も彼は自らの足で大地に立ち続けている。
「……俺の勝ちだぜ、草壁蟻間」
死の呪いはなにも無条件で相手を即死させる都合の良い術式ではない。
その発動には二項対立である生と死のうち、生が善で死が悪であると対象に判断させる必要がある。
普通の人間ならば誰もが生を尊び死を遠ざけたがるだろう。
だが、今の樋田は死による救済を切望している。
つまりは生こそが正義で死を悪とする価値観が反転しているのだ。
だから、殺すことが出来ない。
全ては秦漢華を救うため。再びデストルドーに晒されることを許容した樋田の覚悟が、絶対悪が振り撒く不可避の理不尽を乗り越えたのだ。
『先輩ッ……!!』
草壁が信じられなさそうに何故だと漏らす最中、松下は『暗い日曜日』から樋田を開放する。
途端に精神を蝕んでいた悪魔の旋律がパッと鳴り止む。
今すぐ死にたいというデストルドーもまるでそれまでが嘘のように収まっていく。
しかし、術中で樋田が抱いた後悔と罪悪感は紛れもない本物。術が溶けたからといって、それで完全に心に刻まれた傷が消えるわけではない。
口の中に酸っぱい味が滲む。
一度目で二度と御免だと思いつつも二度目を許容したのだ。
どうか三度目はないようにと切に願う。
もしもう一度あの術を掛けられれば、きっと今度は心が完全にマイナスへ振り切れて最早元の自分に戻れなくなるだろう。
「さてと」
されど、とにかくこれで死の呪いは攻略した。
加えて入れ替わりのように少年の太い腕に黒い蛇の紋章が浮かび上がる。
『統天指標』。ありとあらゆる術式の制御権を奪い取る樋田の特殊体質が、不発に終わった死の呪いを己が支配下においたのだ。
ありえないと、草壁蟻間は譫言のように呟く。
必ず殺せるはずであった。彼は自らの術式に絶対の自信を抱いていた。
しかし、それが打ち破られた。
草壁蟻間は困惑する。こんなことあり得るはずがないと否認する。
そしてやがて、想定外への困惑は怒りへと昇華する。
「……俺様の力は、無敵だ。どんなヤツだろうと言葉だけで殺せるッ!! だから、負けるわけがねえ。ましてやお前みたいな量産モブ野郎なんざにッ……!!」
全殺王はもはや完全に冷静を失っていた。
初めの頃の余裕ぶった態度は何処へやら。
人の本性は追い詰められたときにこそ現れる。
元々コイツに悪人としての誇りや矜恃などは期待していない。
「あぁ、そうだな。間に合わねえさ、何もかも。テメェにはもう、俺に殺される以外の道はねえ」
そうして、樋田は草壁から奪った死の呪いに『天骸』を流し込む。
右腕に刻まねた蛇の紋章が赤く妖しく光り輝く。
「自業自得だ。言葉だけで殺される理不尽をテメェも味わいやがれ」
草壁は何やら叫んでいたが、有無を言わさずに術式を発動させた。やはりそこに派手な演出やエフェクトは存在しない。
不可避の死を強制的に付与され、全殺王の天使体は呆気なく崩壊した。
ヘドロのような薄汚い『天骸』が宙に溶けてしまえば、そこにいるのは何の力もないただの青年だ。暴力で法を無視することも、異能で罰から逃れることも出来ない、ただの無力な罪人でしかない。
「――――嘘だ」
草壁蟻間は思わずその場にへたり込む。
嘘だ嘘だと狂ったように叫びながら、何度も何度も激しく肩を揺さぶる。そこに最早翼はないにも関わらず、それだけ今の自分が無力な人間であることを認めたくないのだろうか。
それまでコイツに抱いていたのは怒りと憎しみだけであった。
だが、今になってふと微かな憐みを覚えてしまう。
結局草壁蟻間には力しかないのだ。
きっとコイツには何かこれだけは譲れないという信念も、命に代えてでも守りたいと思える大切な存在もないのだろう。だからこそ強大な力を持っていながら、無意味に人を傷付けることしか出来ないのだ。加えてその力すらも他者からの借り物なのだから本当に救いようがない。
ザリと、殊更音を立てて一歩踏み込んだ。
途端に草壁の身体がビクリと跳ねる。
「やめろ、近付くんじゃねえぇえええええええええええええええええッ!!」
草壁は思わず後退る。
それどころか後ろにバランスを崩し、そのままストンと尻餅をつく。
「畜生、なんで効かねぇんだッ……!! 早く死にやがれ、クソッ、生存と斃死、生存と斃死ァアアッ!!」
最早『天骸』は尽きているにも関わらず、草壁は馬鹿の一つ覚えのように死の呪いを唱え続ける。
樋田はそんなクソ野郎の哀れな様を冷めた目で見下しながら、おもむろに天使体を解除する。ザリザリと足音を立てながら徐々に近付いていき、その目の前で不意に立ち止まる。
「畜生、畜生があああああああああああああああああああああッ!!」
草壁は跳ね起き、樋田に殴りかかる。
しかし樋田は僅かに首を傾けるだけでこれをかわし、カウンターの容量で鳩尾にキツい一撃を叩き込む。そのまま間髪入れず、顔面目掛けて全力の右ストレートを放った。ビキバキッ!!という顔の骨の折れる音と同時、樋田は勢い良く腕を振り抜き、そのまま草壁を地面に殴り倒す。
草壁は顔を押さえながら立ち上がろうとするが、対する樋田はすぐに鳩尾を踏みつけて身動きを封じた。
樋田可成と草壁蟻間。
最後の決着は比較的呆気ないものであった。
樋田は一度しまっていた黒星を再び取り出すと、無言のままマガジンを交換し始める。そこから己の結末を悟ったのか、絶対悪を名乗る小悪党の顔に明確な死への恐怖が浮かぶ。
「オイ、やめろ、待て、冷静になれッ!! そもそも俺は被害者だぞッ!! あの女に妹を殺された、たった一人しかいない大切な家族をだッ!!」
「あぁ、そうかよ。なら俺ァこう答えてやる。そんなことは知らねえってな。なあ、これがテメェの望む世界の在り方なんだろ。気に食わねえヤツは好きに殺していい。ハハッ、いいね、大賛成だ。テメェは俺の気に触った。だから死ぬしかねえ。どうだ、理解出来たか?」
「屁理屈こねてんじゃねえぞキチガイがァァァアアッ!! そんなもんこの俺様は例外に決まってんだろうが――――」
「本当ならなあァッ!! ……頭イカれるまで拷問でもしてからじっくり殺してやりてえ気分なんだよ」
草壁の戯言を封殺するように、樋田は声の圧を強めて言う。
怒りのあまり目を血走らせ、手を震わせながらも、ゆっくり慎重にマガジンの装填を終え、そして何かの区切りをつけるようにカチャリとスライドを引く。
「だが、テメェみてえなクソ野郎を長々嬲ることより、女の涙を拭いてやることの方が余程大切だからな」
そうしてクソ野郎の額に銃口を突きつけた。
樋田可成は不良だ。それでも未だ人を殺したことはない。
そのはずなのに、自分でもびっくりするくらい抵抗感はなかった。
「だからまぁ、大変遺憾だが流れ作業でブッ殺させてもらう」
「オイ、まっ――――」
「じゃあな、クソ野郎ッ」
これぞ正に問答無用。
次の瞬間、樋田は迷いなく引き金を引いた。
一瞬、草壁の甲高い悲鳴が上がったような気もする。
しかし、それもすぐに連続する射撃音に掻き消され、飲み込まれる。
硝煙の匂いと、鉄臭い血の匂いがツンと鼻をつく。
一思いに七発を撃ち尽くしたあとは最早なにも聞こえず、そこにはただ顔面を風穴だらけにされた醜い死体が転がっていた。




