第百十六話『力さえ手に入ればそれでいい』
そう言って、悪魔は再び左手から噴き出した瘴気の球を乱れ撃つ。
これだけ追い詰めても、向こうは即死の術式を放ってはこない。間違いない。はじめに失落の術式を乗っ取ってやったのが効いている。制御を奪われる可能性がある以上、迂闊に強力な権能は使うべきではないと判断したのだろう。
瘴気の弾幕は恐ろしいが、それでもこれまで何度も見た攻撃である。
しかし此度悪魔は樋田を直接狙わなかった。まるで少年の動きを封じるように、その周囲に満遍なく攻撃をばら撒く。地面との接触と同時、穢れが霧散し、一時的に樋田の視界を奪う。
目を開けると、最早先程の場所に草壁の影はない。
「畜生、何処いきやがったッ……!?」
「こっちだメクラ。喜べ、お前のお望みどうり降りてきてやったぞ」
樋田は慌てて振り向く。
彼の後方七メートル先、そこで草壁蟻間は地に両手をついていた。瞬間、悪魔の左半身を覆う紋章がギュルリと生き物のように蠢く。
言葉のみで事象を歪める理不尽な権能が発動する。
樋田は慌てて身構える。しかし、直後起きた現象は身構えたくらいでどうにかなるものではなかった。
「『腐食と無垢』」
瞬間、床全体にピシリとヒビが入った。
樋田は反射的に足元を見る。
元々この建物は比較的新しいものであったはずだ。
にも関わらず、一瞬で朽ち果てる。
床は黒ずみ、ひび割れ、瑞々しさを失い、瞬く間に数十年放置された廃墟のように古びていく。
ミシミシと床全体が悲鳴をあげる。そして、いざ限界が来れば最後は呆気ないものであった。
「ウッ、クソッ……!!」
瞬間、樋田の立っている床とその周囲がまとめて崩れ落ちた。
内臓が冷たい重力を感じる。
人は所詮地に足をつかねば生きられない生き物だ。
踏み締める大地が無くなれば、あとは自由落下に身を任せるしかない。粉々の瓦礫となった床と共に、樋田は下の階まで真っ逆さまに落ちていく。
微かに見えた下階の床までは明らかに十メートル以上ある。この高さから叩きつけられれば、両足が折れる程度ではすまないだろう。加えて――――、
「――――――――ッ!!!!」
樋田が落ち行く下の階には十匹ほどのダエーワが控えていた。
彼等のほとんどは上から降り注ぐ瓦礫に押し潰されるが、それでも運の良い一匹が少年の直下に辿り着く。
その太い腕に持つ、長槍のようなものを頭上に掲げて。
「ゲギギャギャギャキギャャャャアッッ!!!!!」
「ングッッ……!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
避けられるはずがなかった。
悪魔の掲げる槍先が、上から落ちてきた少年の腹を串刺しにする。
あまりの激痛に今にも気を失ってしまいそうであった。
どうせなら胸を突いてすぐ楽にして欲しかったと、一瞬そんな情けないことすら思い浮かべてしまう。
「………俺ァ、負けねえ」
それでも少年は諦めない。
槍に手をかけ足をかけ、そのまま無理矢理に引き抜こうとする。
こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
自分がやられれば、一体誰が秦を守ってくれるというのだ。
家族を一人残らず失ったアイツを、これ以上孤独にしてなるものか!
「ンングッ、ギィ……ガアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!」
両手両足に力を込め、槍を腹から引き抜いた。
即座に『燭陰の瞳』で腹に穿たれた傷をなかったことにする。
これで残りの『天骸』は精々あと一割と言ったところだろうか。
「失せろォオオオオオオオオオッッ!!!!!!!!!!!!!」
槍から飛び降り次第、樋田はすぐさま傍のダエーワに殴りかかった。
助走はわずか、それでも身長二メートルはある悪魔を拳の力だけで殴り飛ばす。間髪入れず倒れた悪魔の胸の上に飛び乗り、その醜い顔面に容赦なく三発の鉛球を叩き込む。ダエーワは脳漿を撒き散らして即死する。
「秦ッッ!!!!」
そこでようやく他人に気を回す余裕が出来た。
半ば縋るような気持ちで床の抜けた上階を見上げる。
幸いなことに、床全てがまとめて崩落したわけではないようだ。
今崩れたのは樋田や草壁が立っていた全体のうちの半分だけ。
あのとき秦が座り込んでいた残り半分は未だ床としての役割を果たし続けている。
そのことに思わず安堵の息をつく。
しかし、気を緩められたのは刹那であった。
再び危機が迫り来る。背中の黒泥が如く六翼を羽ばたかせながら、絶対悪はゆっくりと高度を下げていく。
「完全にガス欠じゃねえか。さっきまでの威勢はどうした。俺様を殺すんじゃなかったのか?」
「……殺してやる」
「あぁ、そうかよ。それじゃあ順当に死んじまいな」
草壁の気障ったらしいフィンガースナップと同時に、四方八方から無数の足音が鳴り響く。それは見る見るうちに大きくなっていき、やがてホールを揺らすほどになっていく。
そしてドババババババババッッ!!!!! と、複数ある出入り口の向こう側から、これでもかとダエーワが雪崩れ込んできた。
数十を超える人型の化物がその手に棍棒や大剣を携え、一心不乱に走り寄ってくる。
一匹ならば樋田でも充分倒せる程度の敵だ。
それでもこの数に一度に来られたらどうにもならない。
そもそも『天骸』すらほとんど残っていないのに、今の彼に一体何が出来ると言うのだろうか。
「畜生ッッ……!!」
それでも樋田は素早く黒星を構え、集団の先頭を走るダエーワの頭部目掛けて銃弾を撃ち込む。瞬く間に七発を撃ち尽くし、それでなんとか二匹を殺す。
まだ距離があるうちに一匹でも多く銃で殺さねば。
そう思って樋田はポケットから予備のマガジンを取り出そうとするが、
「はあ……?」
何故か、取り落とした。
いつのまにか右手に力が入らなくなっていた。
直後、身体を内側から少しずつ削られるような激痛が走る。
痛みに耐え切れず、樋田は思わずその場に膝をつく。
不快な鼻詰まりを覚えた。
触ると、知らぬ間にドバドバと鼻血が吹き出していた。
「なんだよ、こりゃッ……!?」
頭が割れるように痛い。身体が燃えるように熱い。
そもそも正常に思考が働かない。
視界はかすみ、意識もどんどん朦朧としてくる。
今までの人生で風邪を引いたことはないが、まるでいきなり熱病にでもかかったような気分であった。
「ようやく罹患したな」
頭上で絶対悪がほくそ笑む。
悪魔は両手を左右に広げ、まるで謳うような口調で種を明かす。
「『蝕む陰子』。俺様の瘴気はな、目に見える分を避ければ済む程度の代物じゃねえんだよ。むしろ見える方は触れさえしなければ問題ないと思い込んでもらうためのブラフにすぎねえ。ハナからこの建物は全体がくまなく微弱な瘴気で満たされている。テメェが何も知らず馬鹿みてえに息を吸って吐いてる間に、目に見えないくらい微弱な瘴気がゆっくりテメェの体を内側から蝕んでいたんだよ」
「――――――ギッ」
樋田は反射的に草壁を睨めつけようとする。
しかし、首が上がらなかった。
最早自重を支えることすら困難であった。
まるでいきなり電源のコンセットを引き抜かれたように、樋田はそのまま床の上に崩れ落ちる。
遂に地に倒れ伏した少年の姿を一瞥し、頭上の悪魔は至極満足そうであった。
「これが格の差だ。ちょっと異能をかじっただけのガキが十三王に勝てるわけがねえだろ。なに思い上がってんだクソイキリ野郎が」
まさに全殺王の宣言通りであった。
圧倒的に有利な状況で、絶対に負けない手段を取って、一方的にブチ殺す。
最初の優勢は一体何処へやら。
向こうが少し慎重策をとっただけでこのザマだ。
舐めていたと痛感する。
なまじ簒奪王や綾媛の天使に勝ってしまったことで思い上がっていたのかもしれない。
思い返せばこれまでの敵には皆少なからず感情的なハンデを抱えていた。
簒奪王は早く『燭陰の瞳』を回収しようと焦っていた。松下希子は罪悪感を抱えていたし、秦漢華もまた非情になれない人間であった。
だがこいつは違う。草壁蟻間にはそれがない。
この男には人らしい心がない。人間ならば誰もが持っている執着やしがらみがない。あるのはただ人を傷つけ苦しめたいという純粋な悪意だけなのだ。
しからば、本来の実力差がそのまま浮き彫りになるのは至極当然のこと。善を捨て悪を取った絶対悪に、感情的な隙は一切存在しないのだから。
「……畜、生」
それでも樋田はまだ微かに動く左手で、取り落としたマガジンを拾おうとする。
一見、樋田可成はまだ諦めていない。
しかし、仮にここでマガジンを拾えたところでこの状況がどうにかなるはずもなく。それでも手を動かし続けるのは、未だ自分は諦めていないのだというポーズをとりたかっただけなのかもしれない。
「さて、そろそろ終わりにするか」
そのとき、全殺王は再び瘴気の球を形成した。
そして、その標準を目下の少年に定める。
避けることは出来ない。そもそも樋田は体の内側を瘴気に侵され、立ち上がることすら叶わないのだから。
「じゃあな、主人公気取りの勘違い野郎――――――」
しかし、その攻撃が放たれることはなかった。
直前、絶対悪の右腕に赤の魔法陣が突如として浮かび上がり、次いで生じた爆発が、バゴオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!!!!!! と悪魔の肩から先をまとめて吹き飛ばしたのだ。
「なんだ、いきなりッ……!!」
草壁の顔が思わず苦痛に歪む。
ダエーワの群れもまた爆発に恐れ慄き立ち止まる。
樋田は残る力を振り絞りなんとか視線を上に向けた。
未だ形を残している上階の床半分、その淵から身を乗り出す形で秦漢華がこちらを覗き込んでいた。
「可成くんッ!!」
少年の黒い瞳と少女の赤い瞳が真っ向から向かい合う。
贖罪のためと無責任に命を散らそうとしていた彼女はもういない。
未だ瞼を赤く腫らしつつも、彼女は最早主人公に助けを求め、ただ救ってもらうだけのヒロインではない。
真面目で誠実で、面倒見が良くて正義感が強くて、そのくせ不器用で口煩くて誰よりも面倒臭い。そんな樋田も知らぬ間に惹かれていた、本当の秦漢華がそこにはいた。
「お願い勝って、負けないでッ!! アンタは私のためって言うけど、私もアンタには絶対に死んで欲しくないッ!!」
他には何も望まないからと秦は叫ぶ。
そして彼女は更に身を乗り出した。少しでもバランスを崩せばそのまま彼女も下に落ちてしまうのではと思えるほどに。
「だから一緒に戦おう。一緒に戦って、一緒に勝って、そして二人で一緒に生きて帰ろうッ!!」
こんな状況にも関わらず、樋田は思わず微笑みそうになる。
嗚呼、彼女の叫ぶ理想の結末は美しい。そんな風にこのクソッタレな出来事を終わらせられたらどんなに素晴らしいことか。
実際その言葉は嬉しかった。
これまでの苦しみが全てが吹き飛ぶ気持ちであった。
しかし、だからこそ悔しい。
悔しくて、情けなくて、仕方がない。
今の自分には彼女の言葉に一言応と応えてやる余力すらないのだから。
――――無茶、言いやがって。
それでも樋田は今度こそ取り落としたマガジンを握り締める。
女にここまで言わせてしまったならば、もう男は立ち上がるしかないではないか。
樋田も生きたい。アイツのためにも死ぬ事はできない。
二人でこの戦場を生き延び、二人で元の日常に帰りたい。
――――だがな、その無茶に応えてやらなきゃ何も守れねえだろうがッ……!!
そのためには戦わなくてはならない。
だから、腕の皮膚が爛れたことも、体が内側から穢れに犯されていることも関係ないのだ。
二人で戦って、二人で帰ろう。
その言葉を胸に樋田は体に鞭を打つ。
「俺ァ、負けねえ。絶対にだ……ッ!!」
全身に激痛が走るのを無視し、内蔵が悲鳴を上げるのを黙殺し、そうして樋田可成は再びその場に自らの足で立ち上がる。
「だから、一緒に生きて帰るぞ漢華ァアアアアアアアアアッッ!!!!!!!!!!!」
その瞬間、ドクリと心臓が大きく跳ねた。
いや、心臓ではない。もっと樋田可成の根本を司る大切な何かが躍動したのだ。まるでそれまで見えなかったものに急に気付いたようなそんな奇妙な感覚であった。
――――……なんだ、こりゃ。
ドクンと、再び体の奥底の何かが大きく跳ねる。
彼の世界からは既に音と色が消えていた。
急に体が燃えるように熱くなる。
既に『天骸』はほぼ尽きていたはずだったのに、全身にみるみる力が漲っていく。溢れ出す『天骸』は赤雷と化し、少年の周囲を慌ただしく駆け巡る。
「オイ、一体何が起きてやがる……?」
そこでようやく草壁も樋田の異変に気付いたようであった。
そして、瞬時にその正体を悟る。それもそのはずだ。今樋田に起きている現象は、草壁もつい数ヶ月前に経験したばかりのことなのだから。
上手く言葉に出来ないが、まるで世界と一体化していくような感覚であった。
今の自分ならばなんでも出来そうだという、根拠のない自信と万能感が雪だるま式に膨れ上がっていく。
本人は未だ気付いていないが、その眼は元来の黒から燃えるような赤に変わり、元々黒かった髪にも攻撃的な朱色が混ざり始めている。
自らの身体に今何が起きているのかは分からない。
まるで自分が自分でなくなっていくような感覚に恐怖を覚えなかったと言えば嘘になる。
だが、そんなこともすぐにどうでもよくなった。
とにかく力が欲しい。
全殺王を殺し、秦漢華を守るだけの力が手に入ればそれでいい。
そのためならば、自らが人であり続けることにすら拘らない。
そもそも最初からおかしかったのだ。
何故異能を少し齧ったに過ぎない樋田が一瞬でも全殺王に対抗することが出来たか。
はじめから全殺王の権能を把握していたからとか、松下の異常聴覚によるサポートがあったからとか、そんなことは本当は些細な要因に過ぎないのだ。
秦漢華を救うと決めたとき、樋田の体には明確な変化が起きていた。
勝つべき戦いに勝つために、そして守るべきものを守るため、少年は知らぬ間に新たな扉を開いていた。正しくは彼は変化したのではなく、人の枠組みを超えた新たな段階へと昇華したのだ。
血肉で象られた真の肉体から、『天骸』で象られた仮初の肉体へ。
ズゾゾゾソゾと、樋田の背から飛び出すは四枚の翼。
赤く、黒く、禍々しく。まるで炎のように輪郭が不安定に揺蕩っている。
猛々しく暴れ回る赤雷はやがて収束し、少年の頭上に超常の証たる天輪を形成する。
「ふざけんなよッ!! こんな土壇場でッ、こんなことあり得るはずがッ――――」
「オイ」
冷静を奪われたせいか、あの全殺王ですら一瞬反応が遅れた。
樋田は生えたばかりの翼を羽ばたかせ、飛び上がり、一瞬で悪魔の背後に回り込んでいた。
その禍々しい四翼を鞭のようにしならせ、力任せに叩きつける。叩き付け、一瞬だけ止め、そのまま一気に殴り抜ける。
ビキビキと頭蓋のひしゃげる音がした。
草壁はろくに防ぐことすら叶わず、そのまま砲弾のような速度で斜め下に叩きつけられる。
「……可、成くん」
秦漢華は白い息を吐く。
荒々しい黒炎の如き翼、思わず恐怖を覚えるほどに攻撃的な赫の瞳。
少女はその全てに目を奪われる。
その日、樋田可成は人としての枠組みをかなぐり捨てた。
全ては一度暗がりへ転げ落ちた少女を、もう一度日のあたる場所へ返すために。
そうして、新たな一柱の天使が人の世に降り立った。




