第百十五話『絶対悪』
「チッ……!!」
これ以上の白兵戦は無謀だと、樋田は一度距離をとり直す。
牽制として何発か黒星を放ちながらのバックステップ。対する大悪魔は背中の翼を軽く振るい、迫り来る弾丸をいとも簡単に弾いて見せる。
そして仕切り直しを図りたかったのは向こうも同じだったのだろう。
草壁は背中の黒泥が如き翼を羽ばたかせ、そのまま屋上ギリギリの高さまで飛び上がる。先程までの激しい攻防がまるで嘘のよう。今ホールの中で聞こえるのは互いの荒い息遣いだけであった。
――――殺し、切れなかったかッ……。
皮膚の表面が半ば溶けている右腕を押さえながら、樋田は強く歯を食い縛る。
もし神の視点で今の攻防を見ている者がいれば、まるで樋田が全殺王を圧倒しているように思ったかもしれない。
だが、それは違う。
樋田は最初から全殺王の権能を把握していたし、何より異常聴覚を持つ松下から常にサポートを受けていた。彼はそれら数あるアドバンテージを活かし、僅かな一瞬辛うじて優勢に立ったに過ぎない。
そして、樋田が奇跡的に握っていた戦いの流れも既に草壁の方へと傾きつつある。
決め手となり得る『白兵』を使っても仕留め切れなかったどころか、樋田の持つ術式の中でも最も燃費の悪い『燭陰の瞳』まで使わされてしまった。
あの一瞬の攻防だけで『天骸』を六割は消費しただろう。『天骸』が完全に尽きてしまえば、それこそ樋田は完全にただの人だ。無限に等しいリソースを持つ王を相手に、これからも対等に戦い続けられるはずがない。
「確実に、『失落』の術式をブチ込んだはずだ。なのになんでテメェはッ……!?」
一方、苦虫を噛み潰したような顔をしているのは草壁蟻間も同様であった。
自らの権能に絶対の自信を持つこの悪魔にとって、『対立概念提示』が難なく攻略された衝撃は大きいに違いない。
それに加え、今のこの状況だ。
天使の中でも最上の力を持つ十三王の一角でありながら、天使ですらない高校生相手にここまでいいようにやられている。本来あり得るはずのない想定外の連続に、悪魔が苛立つのも無理はないだろう。
「……オラ、降りてこいよ。恥ずかしくねえのかコラァ」
それでも、やはり今アドバンテージを有しているのは全殺王の方だ。
かつて簒奪王は早急に『燭陰の瞳』を奪うため地上へと降り立った。
綾媛学園において秦や松下と戦ったときも、戦場は天井の低い廊下の中であった。
だが、今は状況が違う。
そもそも天使とはその翼をもって自由に空を駆るもの。戦いの舞台が二次元から三次元に移ってしまえば、これまで白兵戦で全ての戦いを乗り切ってきた樋田とは根本的に相性が悪い。
「うるせえな。もう遊びはヤメだと言ったろうが。絶対悪であるこの俺様がテメェら人間みたいに誇りだの正々堂々だのをありがたく尊ぶとでも思ったのか?」
最早草壁の口調はそこらのチンピラとさして変わらない。
悪魔はそれまで演じていた余裕の態度を完全に捨てていた。
冷静さを奪ったと言えば聞こえがいい。だが、樋田にとっては圧倒的な実力に胡座をかいてくれていた方が余程良かった。
草壁蟻間は既に樋田を明確な脅威として認識した。
これからヤツは間違いなく慎重になる。
遊びと称した手心も加えられなくなる。
ハナから実力がかけ離れているにも関わらず、更に付け入る隙がなくなってしまう。
「だから俺様はこれからこの圧倒的に有利な状況の中、絶対に敗北しない手段をとって、一方的にテメェをブチ殺すんだよッ!!」
そこで草壁が勢い良く腕を横に振るうと、その直下に半径五メートルほどの黒い沼が突如として浮かび上がる。一体何をするつもりか。樋田の全身に緊張が走るなか、沼の底よりゾゾゾゾゾゾッ!!!!! と這い出てきたのは、軽く百を超える黒蛇の大軍であった。
「可成くんッ!!」
視界の片隅で秦が叫ぶ。
彼女がそんな反応をするのも当然だ。
空に飛び上がった悪魔に樋田の攻撃は届かない。
それに加えて、向こうは数の暴力をけしかけてしたのだから。
明らかに詰んでいる。
どっからどう見ても樋田に勝ち目はない。
だから、もしかしたら今の秦の叫びには自分を見捨てて早く逃げろという優しく悲しい諦めが含まれていたのかもしれない。
「畜生ッ……!!」
だから、彼は迷いなく踵を返した。
迫り来る蛇の群れに背を向け、はじめ入ってきたホールの入り口を目指し、全力で走る。
その背後で悪魔はニヤリとほくそ笑んでいた。
助けられるはずだった少女もまた全てを諦めたような曖昧な笑みを浮かべていた。
守るべき者を見捨て一人逃げ出すその姿はこの上なくみっともない。
しかし、誰が彼を責めることが出来るだろうか。
相手は天使の中でも文句なしの最強格である十三王。そんな何もかもが規格外な化け物相手に、ちょっと異能をかじった程度の高校生が勝てるわけがないのだ。
「……勘違い、すんじゃねえよ」
しかし、そこで樋田は急に反転した。
百を超える黒蛇の群れと真正面から相対し、体の前で大振りのナイフを銃のように構える。
瞬間、樋田の有する赤雷が如き『天骸』が再び活性化した。
それと比例するように、構えた刃の先端が赤黒く変色する。
見るだけで目が潰れるほどの光りを放ちながら、切っ先が一気に膨張する。
「『破滅の杖』」
そこで樋田は早々に切り札を切った。
ナイフの先から噴き出す火力は絶大。そして炎とはゾロアスター教においてあらゆる不浄を焼き払う善の象徴、つまりは絶対悪アンラ=マンユやその眷族の弱点をつく形となる。
黒蛇は樋田を追い回す過程で密集し、隊列はお手本のような長蛇陣を描いていた。そこに正面から真っ直ぐ炎の洪水が襲い掛かる。まるで黒の太線を上から赤で塗り絵するように、直線的な火炎放射が蛇の大群を丸ごと呑み込み、燃やし尽くす。
再び草壁の攻勢は失敗に終わった。
悪魔にとってもこの結果は予想外なものであっただろう。
「ハッ」
しかし、悪魔の顔に浮かぶは相変わらず余裕の笑みであった。足元で自らの眷族が消し炭にされているにも関わらず、むしろその結果を喜ぶようにせせら笑う。
「クククッ、アハハッ……ただでさえカスみたいな『天骸』しかないくせに、この程度の危機に『破滅の杖』を使うか。で、これからお前はどうするつもりなんだ。なあ、我慢のきかねえ早漏野郎」
当然の反応であった。
『破滅の杖』もまたその絶大な火力と引き換えに、莫大な量の『天骸』を消費する燃費の悪い術式だ。そんな切り札を使わせただけでも上々、しかも被害は一束三文でほぼ無限に召喚出来る黒蛇だけときた。
ただでさえ両者の継戦能力には既に取り返しのつかない差がついていた。それがこれ以上広がるとなれば、本格的にこの戦いは詰みとなる。
「オイ、降りてこいよ」
しかし、少年の心は未だ折れてなどいない。
むしろ毅然と言い放つ。
ただの高校生との一騎討ちを恐れ、決して手の届かない安全地帯に引きこもるクソヤロウを挑発するように。
「馬鹿抜かすなよ。言っただろ。絶対悪であるこの俺様にとって誇りだの正々堂々だのは何の意味もねえ寝言だってな。見下す俺様に見上げるお前。立ち位置としても存在の優劣としても、この構図だけは絶対に変わらないと理解し――――」
「ごちゃごちゃうるせえな、さっさと降りてこいつってんだよ」
そこで少年は右腕の袖を捲る。
そして、その下の肌に刻まれた蛇の紋様、即ち先程全殺王から奪い取った失落の術式を発動した。
「はぁッ……?」
瞬間、草壁の顔から表情が消える。
当然であった。
『対立概念提示』。対立する二つの概念を提示し、そのうち対象が悪であると判断した方を自在に操る力。消えろと言うだけで核兵器の超火力すら消滅させ、死ねと言うだけでありとあらゆる生物を即死させる無敵の権能。その反則じみた汎用性と理不尽極まる性能は、術者であるコイツが一番よく知っているのだから。
そんなまさかと思うのとほぼ同時、空飛ぶ悪魔は見えない力によってなす術なく直下に叩きつけられる。つまりは、『破滅の杖』から噴き出す炎の洪水の中へと放り込まれたのだ。
そして、もう一度言おう。
炎とはゾロアスター教において不浄なるものを焼き尽くす善の象徴。にも関わらず、絶対悪であるアンラマンヌをその中に突き落とせば一体どうなるか――――――、
「ッ、ィギゲギャアァエエァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアッッツッ!!!!!!!!!!」
まるでマンドラゴラでも引き抜いたような、品のない悲鳴がホールの中にやかましく響き渡る。
普通の人間と違いダエーワは火で炙られたくらいでは死なない。否、死ぬことが出来ない。全身をくまなく焼き尽くされても、焼かれたそばから肉体の再生が始まる。焼かれては再生し、焼かれては再生し、それを短い時間の中で何度も何度も繰り返す。
その様はまさに阿鼻叫喚。どうせコイツは死後地獄に堕ちるのだから、生きているうちにちょっと体験させてやろうという樋田の粋な計らいであった。
「正規と消失ッ!!!!!!!」
癇癪じみた怒鳴り声と共に、再び絶対悪の権能が発動する。
その一言だけで竜の咆哮が如き炎は瞬時に消失する。
「ふざけんじゃねぇぞクソ野郎ォオオオオオオオッ!!!!!」
草壁は吠える。
彼の目線から見れば、それまで炎に覆われていた視界がパッと急に開かれる。悪魔は樋田を見つけて殺すため、辺りを見渡そうとする――――しかし、その必要はなかった。
「なめやがって、許さねえぞおおおおッ!!!! なんの特別性もねえテンプレモブ野郎の分際で、この俺様をッ……!!!!!!」
「よぉ、焼き加減はどうだミディアムレア野郎」
「なッ…………!!」
なぜなら炎が晴れたその瞬間、樋田可成は草壁蟻間のすぐ目の前にいたのだから。
「死にやが――――――グブブ」
草壁は反射的に樋田に掴みかかろうとするが、対する少年は迷うことなく悪魔の右頬に本気のストレートを叩き込んだ。
よろけたところに樋田はすかさずナイフを繰り出す。
左胸に刃を突き立て、そのまま右の脇腹にかけてを一気に切り裂く。
いくら便利な再生能力が有していようと、術式を使えば必ずそれだけ『天骸』を消費する。この隙に少しでもダメージを与えてやろう。果てしない道だが、そうすればコイツは徐々に死に近付いていくはずだ。
「チッ……!!」
しかし、そこで既に瘴気で爛れている皮膚に再び焼けるような痛みが走る。
草壁の纏う穢れが再度樋田に牙を剥いたのだ。業腹だがこれ以上の接近は危険と判断。少年は悪魔の腹を蹴飛ばし、再び距離を取り直す。
また仕切り直しだ。
また殺し切ることが出来なかった。
それでも悪魔の受けたダメージは素人目から見ても深刻であった。
全身がくまなく焼け爛れ、皮膚という皮膚が色も質感もキャラメルみたいになっている。それでも胸の刺し傷を中心にどんどん肉体は再生するが、かつて見た簒奪王の回復速度と比べると明らかに遅い。
「テメェはな、ここで死ぬんだよ」
恐らくは先程の焼死と再生の繰り返しで、樋田の想像以上に『天骸』を浪費してくれたのだろう。はじめコイツと相対したときに感じた身が竦むようなプレッシャーは最早ほとんど感じない。
「テメェみたいな人間がよ、生きてていいはずがねえだろ」
樋田はそこに勝機を見出した。
もう一度コイツの裏をかき、致命傷を加えることが出来れば殺し切れる。そう確信する。
「……はあ、面倒臭えな。どいつも、こいつもよ」
床の上で大の字になりながら草壁は呟く。
それまでの燃えるような怒りとは少し違う、例えるならば宿題をやろうと思った瞬間親に宿題をやれと言われ機嫌が悪くなったような口調。怒りの激しさは明らかに弱まっているはずなのに、それがかえって不気味であった。
悪魔はやがて地に手をつき、ゆっくり身を起こす。
それでも立ち上がることは叶わず、床の上に座ったまま不意に口を開いた。
「……なあお前、家でゲームとかはやるのか?」
「……」
なんで今そんなことを聞いてくるのか、全くもって意味が分からない。樋田は相手にする価値なしと黙殺するが、それでも構わず悪魔は続ける。
「まあ、その年代なら多かれ少なかれ絶対やってるよなゲーム。で、なんでやってるんだ? やっぱ、面白いからか?」
そこで、草壁はハァと溜息をつく。
傍らの壁に手を突きながら、その場にゆっくりと立ち上がる。そして、
「俺様にとっての悪業ってのはそういう類のもんなんだよ」
カケラも悪びれずにそう言ってのけた。
悪びれないどころか、ふてくされたような物言いですらあった。
「俺様はな、物を壊したいときに壊して、女を犯したいときに犯して、気に入らねえ人間を傷付けて殺して、そうやって好きに楽しく生きたいだけなんだよ。なのに世の善人様は犯罪だの非人道的だの社会道徳に反してるだのとゴチャゴチャ俺様に文句を垂れてくる。いいよなあ普通のヤツは。普通に好きなことやってても誰にも文句を言われねえんだから。全くもって、ずるいよなあ」
草壁と真っ直ぐ、正面から目が合う。
既に顔面の再生はあらかた終わり、悪魔は元の美形を取り戻してはいる。そのはずなのに、樋田にはどうにもこの男が醜く思えて仕方がなかった。
「だから俺は思ったんだよ。あぁ、この世界は狂ってる。どいつもこいつも頭がおかしいヤツばっかなんだってな。でだ、世界が俺を受けいれないというなら、もう俺がこの間違った世界を変えてやるしかないだろ」
そうして草壁は完全に立ち上がった。
乱れた髪を手櫛で整え、その瞳を理想にキラキラと輝かせ、まるで自分が素晴らしいことをしているような物言いで宣言する。
「だから俺様はこの世界を一度破壊する。法を廃し、国家を壊し、社会を乱し、ありとあらゆる倫理道徳から人類を解放する。誰も彼もが自由に生きれる無秩序をもたらし、絶対悪こそが絶対の自由なのだと世界に証明する。お前ら善人がいくら俺様を正そうとしようと、いくら俺様を無理矢理社会の枠組みに収めようとしようと、俺様は俺様の理想の世界を諦めない」
樋田は絶句する。
この悪魔は東京に無数のダエーワを解き放ち、罪のない人々を数多く殺した。そして何より秦漢華の家族を殺め、彼女の心に二度と癒えないであろう傷を刻み込んだ。
――――ふざけて、やがるのか……?
その理由がこれだと?
そんなくだらない理由のために、コイツは人を殺したのか?
そんなくだらない理由のために、秦は涙を流したのか?
元々この悪魔に対する怒りは頂点を超えていた。
そこから更に限度を超え、最早怒りという枠組みすら越えつつある。
だから、態々怒鳴ったり罵ったりして怒りを表現する必要はない。
「……勘違い、してんじゃねえよ。俺はハナからテメェに正しさなんざ求めちゃいねえ。俺はなテメェを殺したいんだよ。で、テメェは俺を殺したい。だから殺し合う。それだけだ。馬鹿でもわかるシンプルな話だ」
拳を握る。必ず殺すという覚悟を込めて。
そうやって、全身にくまなくドス黒い殺意を浸透させていく。
「だから安心しろ。今俺を駆り立てているのは、人を正す正義なんかじゃねえ。獣を殺す、衝動だ」
「ハハッ」
そう言われて、草壁は意外にも笑顔を浮かべた。
口を押さえながらクツクツ笑い、やがて耐えきれなくなったのか、まるで道化のように大きく声を張り上げる。
「……お前、分かってるヤツだなあ。クソッ、最高じゃねえか。ついうっかり好きになっちまいそうだ。もっと違う形でお前と会いたかった。お前には、俺様の理解者になって欲しかった」
しかし、そこで草壁は心の底から残念そうに溜息をつく。
再び顔を上げたとき、最早そこに笑顔はない。それどころか人として最低限の繕いすら存在しない。嗚呼やはりコイツは人の皮を被った獣なのだと、そう樋田は確信する。
「でも、ダメなんだろうなあ。お前は、俺様を殺したいんだもんなあ」
樋田は答えない。
答えず、ただ殺意を向け、それを返答とする。
「残念だ。だが、仕方ねえ。結局俺様もお前を殺したいからな。ムカつく野郎だ。やっぱ俺様の気に触るヤツは生きてちゃいけねえな」