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第百十四話『もう頑張らなくていい』


 樋田ひだが足を踏み入れたのは、ダエーワの攻勢によって半ば廃墟と化した娯楽施設の一フロアであった。元はホールか何かだったのか、縦にも横にも開けた広大な空間。そここそが、はれが『顕理鏡セケル』を用いてようやく突き止めた秦漢華はたのあやかの現在地であった。


「――――ァア――――」


 そのなかに探し求めた少女と、彼女を害する悪魔の姿を認めた瞬間、樋田は自分でも整理がつかない感情の濁流に飲み込まれた。

 秦がまだ生きていることに心の底から安堵した。

 敵前であるにも関わらず、思わず座り込んでしまいそうになるほどに。


 しかし、それも一瞬だった。

 すぐに怒りが迸り、憎悪が滲み、身を焦がすほどの殺意が心を埋め尽くす。


 はじめから全殺王ぜんさつおうは樋田の逆鱗に触れていた。

 それでも、実際に相対するとしないとでは話が違った。

 まるではじめからユラユラと燃えていた薪の中にガソリンをブチまけたが如く、樋田は激昂し、気付けば反射的に引き金を引いていた。


「――――ハァ――――ハァ――――」


 鉛玉は見事全殺王の頭をブチ抜いた。

 そのはずなのに、クソヤロウの側頭部が朱に染まるのを見ても少しも溜飲が下がらない。

 そうだ、どうせこの程度で死ぬはずがない。そうでなければ困るのだ。コイツだけは絶対に許さない。必ず殺してやろう。肉体の隅から隅までを徹底的に破壊し尽くし、人の道から外れた陵辱の限りを尽くし、生まれてきたことそのものを後悔するような、あるいは死すら救いだと思えてくるほどの、そんな圧倒的な苦しみの中でコイツには死んでもらう。


 既に樋田の目に助けを求める少女の姿は映っていなかった。

 ただ殺すべき相手、殺さなくてはならないクソヤロウ、全殺王アンラ=マンユのことを穴が開くほどに凝視する。恐怖とも武者震いとも違う、まるで発作のような衝動に体を震わせながら。


「なんだ、お前もしかしてコイツの恋人か何かか? だとしたらこの俺様としたことがとんだ盲点だったな。これならば『かぎ』をブチ込む前に二、三度輪姦(まわ)しておくべきだった」


 一方の全殺王は随分と気楽な様子であった。

 樋田の本気の怒りも、コイツにとっては子供の癇癪程度にしか映っていないのか。口を閉ざしたまま一言も喋らない樋田を、悪魔は愉しそうに嘲り、侮辱し、冒瀆する。


「オイオイ、なにキレてんだ人間。お気に入りのオナホを滅茶苦茶にされたのがそんなに不愉快か?」

「……」


 ブチリと、樋田の脳内で何かが破裂する。

 反射的にもう一度引き金を引きそうだった。

 それでも彼は冷静になって直前で押し止まる。


 何してんだ俺、と小さな声で独り言つ。

 それは正しい選択ではない。確かにコイツは必ず殺すべきだが、今は怒り狂うよりも他に先にやるべきことがあるではないか。


 樋田は全殺王の方に銃口を向けたまま、ゆっくりと秦の方を向く。彼女の右肩、その先にかつてあった腕が今はない。

 続いて彼が目をやるは少女の体から吹き荒れる膨大な『天骸アストラ』、辺り一面に広がる血と肉の海、そして何よりその頬を伝う大粒の涙であった。


 具体的にこの場所で何があったかは分からない。

 それでも、その全てが秦に想像を絶する苦痛を与えたのだということだけは理解出来る。

 胸が張り裂けるなんてものではない。

 断腸の思いとは正にこのことを言うのだろう。


 ――――なあ樋田可成、テメェは今までどこで何をしてたんだよッ……!!


 本当はこんなはずじゃなかった。

 現状という名の微温湯に執着するべきではなかったのだ。

 拒絶されることを恐れず彼女の事情に踏み込んで、そうしてもっと早く彼女の救いを求める声に気付くべきであった。

 そうすれば、秦がここまで苦しめられることもなく、もしかしたら今も彼女は笑顔を浮かべてくれていたかもしれないのに。


「なあ、秦」

「……なに、かしら?」


 少年の呼びかけに、秦は恐る恐る応える。

 何がそんなに怖いのか、その様はまるで飼い主に見捨てられまいと必死な子犬のようですらあった。

 沸々と怒りが湧く。

 これほどになるまで自らを追い込んだ秦に対して、あるいは彼女にこんな悲しい顔をさせた目前のクソ野郎に対して、そして何より彼女の近くにありながら手を差し伸べられなかった自分自分に対して。

 されど、一度犯した過ちをなかったことには出来ない。

 だから、樋田はせめてもう二度と彼女にそんな不安を抱かせまいと、



「辛かったな」



 そんな、これまでの彼からはとても想像出来ないほどの優しい声色で告げた。その途端、秦の体から小さな震えがピタリと止まる。


「お前は十分よくやった」


 気付けば再び少女は涙を流していた。

 しかし、それはそれまでの涙とは少し違う。

 きっと彼女は今辛くて泣いてるわけでも、悲しくて泣いているわけでもないのだろう。


「だから、もう頑張らなくていい」


 秦にその言葉がどう受け取られたかは分からない。

 それでもかつてのクールビューティーは一体何処へやら。少女はグシャリとみっともなく顔を歪めるも、すぐにまだある左手で表情を覆い隠してしまう。

 

「……なんで、なんでよ。なんで私なんかのために」


 コイツならばそう言うと思った。

 だから、樋田は間違えない。今度は言葉を間違えない。

 人を助けようと思うのに理由なんていらない。

 そんな手垢に塗れた常套句で、自分の気持ちを誤魔化したりなんかしない。


「なんかじゃねえ。お前だから。お前が秦漢華だから、俺は助けに来たんだよ」


 だからハッキリと伝えた。

 もうこれから何を言ってもお茶を濁せないくらい。明確に。

 かくして救いの手は差し伸べられた。しかし、それでも少女の顔に染み込んだ絶望の色が晴れることはない。

 

「おか、しいわよ。だって私は人を殺したのよッ……!! この手で、三人も……ッ!!」


「あぁ、知ってる。悪いがこっちで勝手に全部見させてもらった」


「――――ッ!!」


 秦は途端に目を見開くが、それもほんの一瞬のこと。

 彼女は何もかも諦めたと言わんばかりの自暴自棄な笑みを浮かべながら、ギュッと自らの体を抱き寄せると、

 

「へぇ、そう。なんでアレを見たうえで助けに行こうとかそういう発想に至るのかしら……そうね。アンタはもしかしたら勘違いしてるのかもしれないけれど、別にアレは能力が暴走したから結果的に殺しちゃったってわけじゃないのよ。実際あの三人をこの手で殺したあと、私が一体どう思ったかアンタには分かる?」


 少女とそこで再び目が合う。

 かつて樋田が美しいと感じた紅瞳は、まるでこれまでが嘘のように暗く濁っていた。


「すっっごくスッキリした。そして心の底から思ったわ。ザマァみろってねッ!!」


 秦は声を震わせ叫ぶ。

 その口元は確かに笑っているのに、樋田には今にも泣き出してしまいそうな顔にしか見えなかった。


「私はねぇ、アイツらを殺したくて殺したのよ。私から姉さんを奪ったアイツらが憎くて悔しくて殺したくて、そういう気持ちを我慢出来なくて、むしろここでこの気持ちを押し殺したら自分が自分でなくなってしまうような気がして……だから殺したの。自分の意思で殺そうと決めて、そうして、決めた通りに殺したの」


 樋田は思う。

 何故コイツはこのようなことを言うのだろうと。

 黙っていれば分からないことなのに、故意ではなく過失なのだと誤魔化せば、誰も彼女を責めないだろうに。

 それでも少女は真実を語る。

 まるで自分は人を殺した身の上であるに関わらず、樋田から被害者のように扱われるのが許せないと言わんばかりに、


「姉さんの仇だからって言い訳する気はない。どんな理由を並べたところで、私が人を殺す人間だってことに変わりはないから。私はね、アンタが思ってくれているような人間じゃないのよ。アンタなら分かるでしょ? 善人が須らく救われるべきであるように、悪人は絶対に裁かれなきゃいけないんだってことが」


 そこで、秦は深く息を吸う。

 最早後戻り出来ないと分かっていながら、それでも決定的な一言を口にしようとし、


「だから、私に助けてもらう資格なんて――――」

「テメェごちゃごちゃうるせえぞッ……」


 しかし、少年はそれを怒気混じりに否定した。


「善人は救われるべきで悪人は裁かれるべきです。だから私に助けてもらう資格なんてありません……だァッ? だからなんだよ、知らねえよ、俺ァ他人が勝手に線引きした善悪の境界なんざクソどうでもいいんだよ。どいつを善として活かすべきか、どいつを悪として殺すべきか。今この場でそれを決めるのは他の誰でもねえ、この俺自身だ」


 樋田の語る言葉は酷く傲慢に聞こえるかもしれない。だが、これこそが少年の本音なのだ。

 確かに秦は取り返しのつかない罪を犯した。法を破り、社会の道徳に反したのだ。罪人にはそれ相応の罰が必要だというのが本来は正しい主張なのだろう。


 だが、そんなことは関係ないのだ。

 少なくとも、樋田の秦を救いたいと思う気持ちにはなんの影響もない。例え世界が秦漢華を悪だと責め立てようとも、樋田可成だけは彼女の側に立ち続ける。少年は既にそう決めたのだから。


「勘違いするなよ。俺は正義の味方なんかになりたいんじゃねえ。俺はな、お前の味方になりたいんだよ。お前には死んで欲しくねえから、お前にはこれからも笑いながら生きて欲しいとそう思うから、だから俺は今ここにいるんだよ」

「ッ……!!」


 きっとこれが正解なのだろう。

 何度も失敗して、幾度となく遠回りをして、それでも最後だけは間違えなかった。


 本当に面倒臭い女だと思う。

 だが、そんな面倒臭い女を助けたいと思ったのは自分なのだから仕方がない。何がとは言わないが、はじめから樋田は秦に負けているのだ。


「……可成、君」


「なんだ?」


「……お願い。私を、助けて」


「ああ、そこで待ってろ」


 最早秦は何も言わなかった。

 少女は力無くその場にペタリと座り込む。

 不安気に揺れていた赤の瞳は、いつのまにかはっきりと一点を見つめていた。涙に濡れた瞳は未だ曖昧に揺らめいてはいるが、その奥の赤はかつて樋田が美しいと感じた鮮やかさを取り戻していく。


 いや、少女の身に起きた変化はそれだけではない。

 まるで秦の心情の変化に比例するが如く、それまでホールの中を吹き荒れていた『天骸』の嵐が徐々に収まっていくのだ。


 樋田には当然、彼女の身に何が起きたかなど分からない。

 それでも、自分は正しい選択をしたのだということだけは分かった。間違えなかったからこそ奇跡が起きたのだと、そう確信することが出来た。


「……興醒めだな」


 しかし素晴らしい奇跡も、悪を司り悪を生み悪を為す絶対悪にとっては唾棄すべき茶番に過ぎない。


「外野が知ったような顔で口を出すな。お前も今聞いただろ。コイツは俺様の妹を殺したんだぞ。だから当然、俺様にはこの女に復讐する権利がある」


「あぁん、復讐だあ……? 何言ってんだテメェ。それはテメェ本人じゃなく、あくまでガワの話だろ」


 確かに秦が殺めた草壁蜂湖くさかべほうこなる少女と、目の前にいる草壁蟻間くさかべありまは実の兄妹である。なるほどこの秦に対する胸糞悪い仕打ちも、妹を殺された復讐なのだと言えば実にそれらしく聞こえる。

 だが、それは違う。

 コイツの正体は全殺王アンラ=マンユ。人間草壁蟻間はあくまでこの大悪魔に肉体を依代として利用されているだけの存在に過ぎないのだから。

 少なくとも樋田はそのように理解している。


「……クククッ、アハハハァアアッ!!」

 

 されど、悪魔は嗤う。

 まるで言外に少年の言葉を否定するように、嘲り笑う。


「笑わせてくれるなよクソモブ。この俺様があんな小悪党風情との綱引きに負けるはずがないだろ。逆だ。真実は逆にこの俺様があの半端者から絶対悪としての地位を奪い取ってやったのさ」

「へえ……、なるほどな」


 自らの武勇伝を随分と誇らしげに語る草壁とは対照的に、樋田は悪魔の話をろくに聞いてすらいなかった。

 今更コイツの正体がどうなのかだなんて正直どうでもいいのだ。ただ一つ、樋田がこのクソ野郎に対して聞きたいのは、


「で、テメェは本当に妹が殺されて悲しいのか?」

「はあ……?」


 その問いかけが随分意外だったのか、草壁は一瞬呆気に取られたような表情を見せる。しかし、その直後にはニヤリと悪魔らしい下卑た笑みを浮かべて言う。


「ああ、悲しいさ。兄妹だけあって体の相性は最高だったからな。首を締めると膣内なかもキツく締まって、まぁとにかく良い塩梅だった。アレがもう味わえないと思うと、まあそれなり程度には悲しい」

「……」

「あぁ、そうだな。お前を殺した後は代わりにそこの女で愉しませてもらうとするか。人としては生きる価値のないクズでも、慰み者としては案外優秀かもしれねえだろ。なあ、そこらへんどうなんだ。コレがお前の女だってんなら、使い心地ぐらい分かるだろう?」


 しかし、樋田は言い返さない。

 短気な彼にしては珍しく、ただ黙して拳を握りしめるだけであった。

 その日、彼は初めて知った。

 自分は今まで言葉や態度で表現出来るレベルの怒りしか抱いたことがなかったのだと。そして、その壁を超えた先にあるのは、ただ行動によって証明するしかない純粋で冷静な殺意なのだと。


 次の瞬間、樋田は何の前触れもなく銃の引き金を引いた。

 一切の躊躇なく、銃口をクソ野郎の頭に向けて。

 仮に本当に頭に当たったとしても、天使ならば天使体が壊れるだけで済む。いやそんなことは関係ない。例えコイツが生身の人間だとしても、樋田は絶対に同じ行動を取っただろう。


「良い殺意だ。お前からは微かにこの俺様と同じ匂いがする」


 対する全殺王は避けることすらしなかった。

 先程は悪魔の側頭部を貫いた黒星の弾丸も、今度は草壁の皮膚に到達することすらない。


 その瞬間、樋田には弾が消えたように見えた。

 正確にはヤツの周囲に近づくや否や、黒星の鉛球は突然塵と化したのである。


 確か先刻松下が言っていた。

 彼女曰く、ダエーワは皆多かれ少なかれ瘴気なるものを有しているのだという。

 瘴気とは即ちダエーワの司る悪性が目に見える形で具現化したものだ。その穢れはありとあらゆるものを汚し、腐らせ、朽ちさせる。それこそダエーワの王である草壁蟻間ほどになれば、その周囲に近付くだけで鉛玉を溶かすほどの凶悪さを誇るのかもしれない。


「その割にお前から大した力は感じないがな。まあいい、『鍵』が浸透するまでの余興がてら少し遊んでやる」


 そう言うや否や草壁の左半身を覆う黒影が怪しく揺らめいた。悪魔はそこから噴き出した瘴気を操り、瞬く間に漆黒の球体を七つ形成する。

 その瞬間、樋田の脳裏に自らの死のイメージが走った。


 草壁が指揮者のように軽く腕を振る。

 瘴気で象られた球体がこちら目掛けて射出される。


 恐らく触れればそれだけで身体が腐り落ちるだろう。

 そんな即死攻撃が百キロを超える速度で迫り来るのだ。

 ただの人でしかない樋田が避け切れるはずがない。


 直後に着弾。

 瘴気の球は壁や床にぶつかり霧散する。

 霧散し、その周囲に穢れを撒き散らす。

 事実、瘴気に晒された木材は腐り、コンクリートは朽ちてボロボロと崩れていく。


「ハァ……、ハァ……」


 しかし、樋田可成はその中に五体満足で立っていた。

 いや違う。正確には辺り一面が瘴気に犯されていながら、彼の周囲にだけは穢れが及んでいない。

 単純な話である。直前に樋田が飛び込んだその場所には、奇跡的に漆黒の球が飛んでくることも、飛び散った瘴気がかかることもなかったというだけのことだ。

 それは例え空から千の矢が降り注ごうとも立ち位置によっては無傷で済むような、例え確率は低くともあり得ないとは言い切れない偶然なのかもしれない。


「随分と悪運が良いな。モブは適当にばら撒かれた流れ弾に当たって死ぬのがお約束じゃないのか」


「ハッ、相変わらず変態すぎるだろ。敵のときはクソ頭に来たが、味方になるとこうも頼もしいとはな。次もその調子で頼むぞ」


「はあ……?」


 否、それは偶然ではなく必然であった。

 瘴気が描く軌道、打ち出される速度、そして穢れが及ぶであろう範囲。その全ては()()()()()()()()()()によって瞬時に解き明かされる。あとはその判断に自分の命を懸ける覚悟さえあれば、この死の弾幕を凌ぐのもそこまで難しくはない。

 今この場にいるのは樋田、草壁、秦の三人だけではないことに、悪魔の王はまだ気付いていないのであろう。


「ふん」


 だからこそクソ野郎は先程と全く同じ攻撃をもう一度繰り返した。再び黒影から瘴気の球を生み出し、惜しむことなく乱れ撃つ。

 しかし、乱射乱撃が樋田の体を捕らえることはない。

 彼はホールの中を飛んで跳ねて駆け回り、瘴気の及ばない絶妙なポジションを取り続ける。


 そして三度目の斉射をやり過ごしたとき、草壁の表情に微かな苛立ちが浮かんだ。

 樋田はそれを好機と見て突撃する。

 迎撃に放たれる数多の瘴気を躱しながら、一気に悪魔との距離を詰める。あともう少しで、ヤツの懐に飛び込める。


「堕ちろ飛翔と失落(ソヴォート)ッ」


 しかし、そこで大悪魔は遂に十八番を繰り出した。

 対立概念提示。ただ言葉を紡ぐだけで、ありとあらゆる悪性を操る全殺王の代名詞。

 まるで重力が突如何倍にも増幅されたかのようであった。

 樋田はなす術なく地に叩きつけられる。慌てて起き上がろうとするが、そもそも腕を動かすことすら叶わない。


「やはりこの程度か。大切な女のため絶対敵わない敵に挑む勇者も、裏を返せばテメェを主人公かなんかと思い込んだ勘違い野郎だったってことだな」


 草壁は手を振り上げる。

 黒影が蠢き、瞬く間に瘴気の球が形成されていく。


「で、どうなんだ。お前を殺せば、あの女はもっと壊れるのか?」


 下卑た笑みと共に悪魔は右腕を軽く振る。

 動けない樋田目掛けて再び必殺の穢れが迫り来る。


 されど、少年は当たり前のように立ち上がった。

 そのまま前に飛び出し、すんでのところで攻撃ををかわす。


 何故動ける? そう目の前の悪魔は思っただろう。


 答えは『統天指標メルクマール』。樋田の有するありとあらゆる術式の制御権を奪い取る力が発動したのだ。


 ――――殺す。


 少年の体を縛っていた失落の術式は既に彼の手中に落ちた。その証拠として右腕に黒い蛇の文様がジワリと浮かぶ。それは草壁の顔面左半分を埋め尽くしているものと全く同じ紋様であった。


 ――――殺して、やるッ……!!


 樋田の挙動は間違いなく草壁の意表をついた。

 この機会を逃す道理はない。


 ――――ここで、絶対に、ブチ殺してやるッッ!!!!!


 すかさず『白兵はくへい』と『鎧装不動がいそうふどう』を同時発動。

 ただでさえ高い樋田の身体能力を底上げし、天使ともまともに張り合えるほどの強さを一時的に獲得する。


 その瞬間、草壁蟻間の顔からフッとそれまでの余裕が消失した。


「オイ、オイオイ何で動いてんだお前ッ……まさか、術式が発動していない……? クッ、ふざけるなよッ!! この俺様が堕ちろと言ったからにはさっさと跪けェエエッ!!」


 人間離れした脚力をもって、力一杯地を蹴る。

 最早草壁蟻間は目の前だ。このまま肉弾戦にもつれ込む。『鎧装不動』はある程度瘴気による侵食を防ぐだろうが万全ではない。多少体が腐れ落ちるのも覚悟の上であった。

 樋田は悪魔に飛びかかりながら、その首元目掛けてナイフを一閃する。対する草壁は瘴気で形作られた巨大な左手でこれを防ごうとする。


 しかし、直前に樋田は攻撃の軌道を僅かに下向きへと変えた。

 まるで草壁がそう防ぐとはじめから分かっていたと言わんばかりの迅速な対応、樋田は悪魔の左腕の下側に体ごと潜り込むような形でナイフを振るう。刃は確かに草壁の体を捉え、その脇腹に決して浅くはない傷を刻み込んだ。


「ガアアッ……痛ッ、ふっざけるなァアッ!!!!」


 草壁はカウンターとして樋田の顔面を蹴り上げようとする。

 そこで足よりも明らかに強力な翼を使わなかったのは、この悪魔が未だ天使としての力を得てから日が浅いためであろう。そして、ある程度喧嘩慣れした人間を相手としたとき、中途半端な蹴りは攻撃として無意味どころかむしろ大きな隙となる。

 草壁の右足が蹴撃を放とうと地を離れるのとほぼ同時、樋田は悪魔の全体重を支える左足を慣れた動作で払う。


「はあ……?」


 草壁の身体が一瞬宙を舞う。

 樋田はその瞬間を見逃さなかった。

 長い足を鞭のようにしならせ、逆に悪魔の顔面へ強烈な蹴りをお見舞いする。直撃と同時にメキメキという鼻のへし折れる音。そのまま悪魔は鼻から血を撒き散らしながら思い切り後方に吹っ飛ばされた。


「テメェ、モブの分際でよくもこの俺様の顔をォオオオッ……!!」


 しかし、それでも倒れはしない。

 両足を杭のように地に突き立て、何とかギリギリのところで踏みとどまる。悪魔はそのまま体勢を戻そうとする勢いを利用し、追撃を仕掛けにした樋田目掛けてカウンターの右拳を決めようとするが、


「なッ……!!??」


 再びまるで初めからそうすることが分かっていたかのように、樋田は草壁が拳を握った時点で右腕を外側に弾いて狙いを逸らす。



「死んじまいな、クソ野郎」



 そして、前に踏み込んだ勢いのまま草壁の腹に全力の正拳を打ち込んだ。

 悪魔の顔面が苦痛に歪む。

 その口から血と唾液の混ざった汚物が撒き散らされる。

 だが、その程度で樋田可成が攻撃の手を緩めることはない。

 腹に拳をモロに受け、体をくの字に折った草壁。樋田は正拳からの連続した動作でゴッ!! と力一杯顎を蹴り上げる。

 続いて彼は宙に浮いた悪魔の顔を大きな手で鷲掴みにする。そのまま容赦なく親指を眼孔に突っ込み、爪の先で眼球をグチャリと突き潰す。まるでボーリングの玉を掴むように眼孔の内側に指をかけ、腕力に任せるがまま近くの壁に叩きつけた。


「………遊びはヤメだッ!! 最短ルートでブッ殺してやるッ!!」


 体制を立て直し次第、そこでようやく草壁は翼を横薙ぎに振るった。

 しかし怒りに駆られたからか。その攻撃は速度こそあれど、やけに単調な軌道を描いた。

 樋田は僅かに首を傾け、翼撃を紙一重でかわす。


 まだだ、まだいける。

 最早完全に懐に飛び込んだ。

 肉体を再生させる時間など与えない。

 それを超える速度で削る。削って削って、殺し切る。

 コイツだけは絶対にここで殺し切るッ。


 されど――――、


「ッ……」


 グジュリと、不意に右腕が骨を除いて崩れ落ちる。

 草壁の纏う瘴気が『鎧装不動』を貫通し、少年の血肉を蝕んだのだ。樋田は間髪入れず『燭陰ヂュインの瞳』を発動し、腕の腐食を無かったことにする。それでも明らかに先程の攻防は五秒を上回っていた。腕がまとめて腐れ落ちるのは防げたものの、皮膚の表層が火傷のように爛れるより前に戻すことは出来なかった。


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