第百十三話『たすけて』
ふと、目が覚める。
まず初めに感じたのは冷たい床の感触。
次いで、何か太い紐状のもので体を縛られている窮屈な感覚であった。
視界は真っ黒で、聞こえる音もない。
恐らくは身体の感覚という感覚が未だ寝ぼけ眼なのだろう。
ここはどこだろう。
そもそも自分は今まで何をしていたのだろう。
疑問が次々と浮かぶ。
しかし、長く気絶していたためか、中々気を失う前の記憶を思い出すことが出来ない。
「んッ……」
理由はない。
されど、何故か目を開けてはいけない気がした。
そのまま目を瞑っていた方がお前は幸せなままでいられるのだと、そう声無き声が甘く優しく何度も何度も囁きかけてくる。
しかし、だからといってこのままずっと微睡んでいるわけにもいかない。確かに目を開いたその先に、一体どんな世界が広がっているのかと思うと少し不安にはなる。
だけどそれでも、秦漢華は意を決してゆっくりと目を開いた。
「ようやく、目を覚ましたな」
「ッ…………!!」
床の上に寝かされている秦の顔を、上から覗き込んでいる若い男がいた。その男と目が合った瞬間、秦の意識は一気に現実へと引き戻された。
いかにも気障ったらしい亜麻色の髪に、顔の左半分を覆い尽くす黒蛇の刻印。その顔立ちはかなり整っているにも関わらず、何故か見るだけでどうしようもなく不安な気分にさせられる。
「ウッ、グッアアァアアアアアアアアアアアッ……!!」
意識が戻ると同時、思い出したように右肩を激痛が襲った。
冗談抜きにもう一度意識が飛ぶかと思った。
秦は痛みに耐えかね、本能的に傷口を抑えようとする。しかし腕が上がらない。それどころかそもそもまともに体を動かすことさえ出来ない。
そこで秦はようやく自らの体に黒の大蛇が巻き付いていることに気付いた。その役目は拘束、秦の馬鹿力をもっても振り解くことは能わず。よって、彼女はその場でただじっと痛みに耐えるしかなかった。
「ハァ……はぁ……」
体が燃えるように熱い。全身から油汗が滴る。
それでもしばらくすると肩の痛みは段々とおさまっていった。いや違う。正しくは痛みだけではなく秦の持つありとあらゆる感覚が全てまとめて薄れていく。
もしかしたらあまりの激痛に神経が麻痺してしまったのだろうか。だとしたら相当マズい。早く何か手を打たねば本当に手遅れになる。
だからこそ今はとにかく右肩の状態を確かめたい。そうして秦は激痛の源に視線を走らせるが、
「あっ、あああッ……」
言葉が消える。
頭が真っ白になる。
右肩は、その先についているはずの腕ごと綺麗さっぱり無くなっていた。まるで内側から何かが弾けたような傷口。皮膚も肉もグチャグチャで、その中には薄らと骨のようなものが見える箇所すらある。
まさかこの年で片腕を失うなど信じたくもない。
しかし、それは紛れもない現実であった。
「そうだ、私はッ……」
右腕の喪失を確かめたことで連鎖的に記憶が呼び起こされていく。
そもそも何故自分は右腕を失う羽目になったのか。
当然それはこの男と戦って、そして敗北したからだ。
――――なら、何故戦ったのか…………。
理由など決まっている。殺されたからだ。
もうこれ以上一人だって失いたくないと思っていた大切な家族を、父さんを母さんを、そしてなにより妹の明希を、みんなみんなこの悪魔に殺されたからだッ!!
秦は激怒する。あっという間に脳内が怒りと憎悪で埋め尽くされる。しかしその一方、このクソみたいな状況を冷静な視点で俯瞰している自分もいた。
だって、初めから不可解であったのだ。
そもそも、何故全殺王は秦の家族を殺したのだろう。
人類対ダエーワの絶滅戦争は正に今が佳境。
いくら人類王勢力の中で秦が重要な意味を持つ血族であるとはいえ、直接戦争に関わっていない父母や明希を態々殺しにくる必要が果たしてあるのだろうか?
――――あるはずがない。でも、違う。だって、私の予想が正しければ、きっとコイツの中身はッ……。
しかし、それはコイツの正体が草壁蟻間を依り代にした全殺王であるならばの話である。
本当は初めから分かっていたのだ。
何の根拠も確証も無いが、陶南から初めてコイツの写真を見せられたその瞬間に確信した。
「全殺王……いや、違う。アンタの名前は、草壁蟻間」
「……ほぉ、よく気付いたな」
全殺王――――否、草壁蟻間は秦に対し一瞬感心したような顔を見せる。
しかし、それは本当に一瞬だけであった。
次の瞬間、草壁は秦の美しい赤髪を乱暴に鷲掴む。
「痛ッァアッ…………!!!!」
秦が苦悶の声を上げても御構い無しであった。
そのまま乱暴に秦の髪を引っ張り、悪魔は無理矢理己と少女の視線が向かい合うように仕向けると、
「そうだ、俺は全殺王アンラ=マンユなんかじゃない。お前が先日その手で殺した、草壁蜂湖の実の兄だッ……!!」
「…………ッ!!」
意外にも、そこで草壁蟻間は感情的に声を荒げた。
目の前の青年と瞳が合う。
赤く染まった顔、攻撃的に釣り上がった眦、血が滲むほどに強く噛み締められた唇。
その表情には明らかな怒りが込められていた。
ドス黒い憎しみが滲んでいた。
しかし、それ以上に悔しさがあった。
家族を殺されたことが辛くて、妹を奪われたことが寂しくて、そんなとてもとても悲しい表情であった。
「えっ、なっ、なんでそんなッ……?」
確か草壁蟻間は人を大勢殺して死刑判決を受けた極悪人であるらしい。
しかし、秦にはとても彼がそのような人間であるとは思えなかった。
大切な家族を殺されて、その理不尽に嘆き、怒り、悲しむ。少なくとも今の草壁蟻間は、そんなどこにでもいる普通の青年のようにしか見えなかった。
だからこそ余計に心臓をえぐられる気分であった。
比喩ではなく、文字通り胸がズキズキと痛む。
自分の犯した罪の重さは理解しているつもりだった。
それでも実際に悲しむ遺族を目の当たりにし、改めて自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを思い知らされる。
「……私が憎いから、だからアンタは私の家族を殺したの?」
「当たり前だ、全てはお前に対する復讐のためだッ!!」
大喝一声。
草壁は掴んでいた手を離し、再び赤の少女を床の上に放り投げる。
「……俺は蜂湖を愛していたッ。心の底から大切に思っていた。俺にとって家族と呼べる人間は妹のアイツしかいなかったからなァッ!!」
そこで遂に草壁の怒りが爆発した。
青年は再び秦の下へと歩み寄り、その靴底で少女の頭を躊躇なく踏み付ける。当然一度だけではない。その胸に秘めた憎悪に任せるがまま、彼は何度も何度も足を振り下ろす。
「なのに、お前はアイツを殺したッ!! 俺からたった一人の家族を奪い取りやがったッ!! 畜生、なんでだよッ!! なんで蜂湖がお前みたいなクソ女に殺されなきゃならないんだよォオッ!!」
「ギッ、うっ……!!」
「お前、自分のしたことをちゃんと理解してんのか? 蜂湖は幸せになるはずだったッ!! 愛した男と結婚し、やがて子供を産み、そうして温かい家庭を築く。アイツにはそんな素晴らしい将来が待っていたかもしれなかったのに……畜生、畜生畜生畜生ッ!! 本当なんなんだよお前はッ!! 」
「ぅう、グッ……!!」
冗談抜きで頭蓋が割れるかと思った。
頭部だけではない。上から頭を踏みつけられることで、幾度となく顔が硬い地面に押し付けられる。いつしか前歯がへし折れ、顔の皮膚も削られ、それどころか顔の形が歪んでいくような錯覚にすら襲われる。
しかし、それでも草壁の復讐は止まらない。
「クソッ、なんで蜂湖を殺した……ッ!? なあ何か言ってみろよ応えてみろよッ!! 罪人の分際でよくもまあ恥ずかしげもなく今日まで生きてこられたもんだなッ!! このクズが、人殺しがッ!! 早く死ね、死んで詫びろッ!! クズなのに生まれてきてすみませんとこの俺に謝罪しながら自殺しろォオオオッ!!」
だから、秦は気付けなかった。
草壁蟻間が彼女の見えないところでほくそ笑んでいることに。いかにも妹の死に怒り悲しんでいるように振舞いながら、実はこの茶番を娯楽として楽しんでいることに。
「クソがッ!! 死ねェッ!! 蜂湖を返せッ!! 返せ返せ返せッ!! クソォッ、畜生……なあ、頼むから返してくれよ……アイツがいないこの世界で、俺はこの先一体何のために生きていけばいい――――――――ん……?」
しかし、そこで何を思ったか草壁蟻間はふと足を止めた。秦は最早ボロ雑巾のようになりながらも、なんとか力を振り絞り顔を上げる。
「うぅ……」
「いや、待てよ。待て、待て、待て。もしや俺は、この女に…………」
悪魔は口元を手で覆い何やら考え込み始める。
怒りと悲しみで満ちていた悪魔の瞳が、たちまちに冷たく色褪せ、危うい鋭さを増していく。
「……ふざけんじゃねえぞ、こんのクッソアマがァアアアアアアアアアッ!!」
「ガハッ……!!」
悪魔は再び激昂する。
その怒りに任せるが任せるがまま、秦の顔面を本気で蹴り飛ばした。床を転がる少女の口から、何か白い石のようなものが二つ零れ落ちる。
「畜生ッ、ふざけんな、ふざけんなァアアッ!! こんのテンメェ、クソッ、舐めやがってボケ、ンァアアアャア、ギッ、クソォオオオッッ!! 」
いや、違う。
その怒りはそれまでのそれとは明らかに異なる。
まず第一に口調が変わっていた。
最早そこに家族の死に嘆き悲しむ青年の姿はない。
もっと邪悪で、醜くて、歪な、草壁蟻間本来の姿が遂に顔を覗かせる。
「………ァッ、ハァ……ハァ……アッハッハ。なるほど、そうか分かった理解した。ようやく突き止めたぞ。お前から感じていた違和感の正体を、なぁ……」
そこでギロリと、悪魔は少女を睨め付けて言う。
「お前、もしや俺の復讐を受け入れているな……?」
ピクリと秦の体がひくつく。
それまで黙って暴力に耐え続けてきた彼女が、初めて示した具体的な反応であった。
そして、その不自然な仕草を悪魔はイエスと解釈したのだろう。元々美形であったはずの顔が、途端に握り潰したパンのように醜く歪む。
「ハハッ、そうかそうか……そうやって黙って俺に嬲り殺されれば、それで贖罪になるとでも思ったのか……? 俺に傷付けられ、殺されれば、お前は罪から救われ解放されると……なら、つまり俺はお前に救いを施していたということになるのか……?」
秦は答えない。答えられるはずがない。
だから少女は顔を伏せ、ただ静かに体を震わせるのみであった。
「はあはあ、なるほどな。あぁなるほどなるほど……」
そうして、草壁は全てを悟った。
悪かれと思っていたやっていたことが、図らずも相手のためになっていたことを知ってしまった。
「……それじゃまるでこの俺様が良いことをしてるみたいじゃねえかッ!! ふざけんなッ!! テメェ、絶対悪であるこの俺様に善行を行わせるなど……クソッ、これは恥辱だ屈辱だ。この俺様の尊厳に対する侵略的蹂躙だッ!! ァアア腹が立つ、殺してやりたいッ……!! いや、ダメだ。殺してはダメなのだ。殺してはコイツを喜ばすことに、ギリギリギリギリギリギリ、クソッタレ一体俺はどうすればッ……!?」
激怒は必然であった。
悪魔は気でも狂ったように自らの喉を掻き毟る。
しかし、それもそう長くは続かなかった。
次の瞬間、草壁は急に完璧な落ち着きを取り戻す。
悪魔は最早怒鳴ることも暴れることもなく、素の涼しげな流し目がこちらを一瞥する。
それが秦にとってはこの上なく不気味であった。
「……そうか分かった理解した。ならば、お前にはお前にとって最も苦しい罰を受けてもらう」
「一体何を……?」
そう、秦が呟いた直後であった。
悪魔の足元の影が突如半径五メートルほどの面積にまで拡張される。それはまるで彼を中心として突然黒い沼が出現したかのようであった。
水のようにユラユラ揺蕩う影の表面、続いてその下から十数匹の黒蛇が一気に飛び出した。その一匹一匹全てが体長三メートルはくだらない大蛇であった。
「うっ、嘘……」
しかし、秦が絶句した理由はそこではない。
蛇達は皆何かに巻きつくように緩やかなとぐろを巻いている。
いや、何かなどではない。
秦はその螺旋の中に大体小学校中学年ぐらいの男の子の姿を認めた。それも一匹だけではない。他の十数匹も皆一匹につき一人ずつ幼い子供を抱えている。
「……お姉、ちゃん」
しかし、悪夢はそれだけに留まらなかった。
大蛇の内側より漏れる弱々しい幼子の声、その中に一つだけ聞き覚えのあるものがあったのだ。
「え……?」
あまりの驚きに一瞬頭の中が真っ白になる。
秦はその蛇を目玉が飛び出んばかりに凝視する。
すぐに誰だか分かった。何故なら、その蛇が拘束している少女の髪は日本人離れした鮮やかな赤であったからだ。
「明希ッ!!」
「漢華ちゃああんッ!!」
姉妹は共にその瞳を潤めた。
あれだけ草壁に痛めつけられても全く出てこなかった涙が、途端にジワリジワリと溢れ出てくる。
やはり、その子は妹の明希だった。
生きていた、明希はまだ生きていた!
もう見えないはずの顔が見えた。
もう聞けないはずの声が聞こえた。
もう二度と会えないと思っていたのに、愛する家族が、大切な妹が、今も確かにそこで生きている。
――――一体、何をする気なの……?
涙を流して共に再会を喜びあいたかった。
怯える妹を抱きしめて、もう何も怖がらなくていいよと言ってあげたかった。
されど、今の秦漢華にそれだけの力はない。
この悪魔が妹に何をしても止めることが出来ない。
明希と会えて心の底から嬉しいはずなのに、それを更に上回る底無しの恐怖が少女の心を蝕む。
「お願いッ、お願いだから明希だけは殺さないでッッ!!!!」
「人聞きの悪いことを言うな。まだ殺すと決めたわけではない。全てはお前がお前自身で決めることだ」
そう言って草壁は両手を左右に開く。
その動きに従い、黒蛇達は明希を抱える個体とそれ以外で左右に分かれる。
この上なく嫌な予感がした。
秦は恐る恐る草壁蟻間を見上げる。
悪魔――――いや、その悪魔以上に最低で最悪なクソ野郎は、晴れ晴れとした爽やかな笑みを浮かべて宣言する。
「さあ、選べ。お前の妹と残りのクソガキ十三人。一方を見捨てるなら、もう一方は生かしてやってもいい」
「ッ……………………!!!!!!!!!!!」
血が冷水に変わる。
後頭部を鈍器で力一杯殴られたような衝撃があった。
あまりのショックに、眼に映る色彩が逆転したような錯覚すら覚える。
「……ふっ、ふざけないでよッ!! そんなこと決められるわけ」
「黙れ、お前の事情など知ったことか。早く決めろ。決めなければ十秒ごとにガキを一匹ずつ殺していく」
青年は無慈悲であった。
少女の願いなど聞き入れられるはずがなかった。
当然であった。そもそもこうして彼女を苦しめることこそがこの悪魔の目的なのだから。
そうして、すぐに悪夢のようなカウントダウンが始まった。
「十、九、八……」
「漢華ちゃん、私のこと選んでくれるよね……?」
「ね、ねぇ、お願いちょっと待って」
「七、六、五……」
「やだ、助けてくれ。オレまだ死にたくないッ!!」
「いや違う。だって、そんな、おかしいわよ……復讐したいってんなら、私を殺せばそれでいい話じゃないッ!?」
「四、三、二……」
「いやあああツッ、お母さん、お母さぁあああんッ!!」
「待てって言ってんでしょッ!! なんなのよアンタァアアッ!!」
「一、――――零」
静寂がその場を包み込む。
先程まであれほど泣きじゃくっていた子供達も、今だけはしんと静まり返る。
きっと、皆怖いのだ。
今回殺される一人に選ばれるのが怖いのだ。
本当は今も泣き叫びたいだろうに、それでも少年少女は恐怖を抑えて静まり返る。
「さぁ、殺せ」
そうして、裁きが下された。
秦漢華の優柔不断の罪は一人の幼い命をもって償われた。
「やめてッ!! こっ、来ないで――――グギュ」
蛇の一匹が、その身に抱える少女の上半身を一呑みにした。そのまま黒蛇は首ごと少女の体を持ち上げ、逆さ吊りにする。
それでも彼女はまだ生きていた。
蛇の体内からくぐもった叫び声を上げながら、足を忙しくバタつかせる。
されど、無意味。そのまま少女はゆっくりと蛇の大口の中に沈んでいき、やがて完全に姿を消した。
「あぁ…………」
漢華も明希も残りの十二人も、皆一人の例外もなく言葉を失う。
「十、九、八……」
悪魔がそこにいた。
とても同じ人とは思えないほどに非情であった。
明希を含めた全ての瞳が一斉に秦を見据える。
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
四肢が小刻みに震え始める。
やめて、見ないで。
決められるわけがない。
切り捨てられるわけがない。
しかし、そんな秦の声なき声が届くはずもなかった。
子供達も実際に人が食われる様を目の当たりにした。
自分達にこれから降りかかる災厄がどのようなものなのか、具体的に理解してしまったのだ。
「嫌だ、死にたく、ない……」
一人の少女が不意に呟く。
それが契機であった。
あとはもうお手本のようなパニックであった。
少年は叫ぶ、少女は嘆く。
その幼い瞳から滝のような涙をこぼし、時には癇癪にも似た甲高い悲鳴をあげながら、死にたくないと、助けてくれと訴え続ける。
嫌だ、嫌だッ!!――助けて――ママ――なんでこんな――俺がなにしたって――怖いよ――お姉ちゃん、わたし――死にたくない――殺さないで――誰か誰か誰かッ!! ごめんなさい――嫌だ、イヤダイヤダイヤダイヤダ助けて助けて助けてタスケテタスケテタスケテテテテテテテテッ……!!!!!!!
「うるさい、うるさいうるさいうるさいッ!! ちょっと待ってよッ!!」
「三、二、一、零――――」
再び、その時が来た。
草壁は一番近くにいた少年の顔を鷲掴むと、そのまま頭部を身体から引き千切る。
その子が悲鳴をあげる間すらなかった。
悪魔の顔に人を殺している深刻さはない。
そこにあるのは樹に実った果実をもぐ程度の気軽さだけである。
「うっ……!!」
そこで遂に秦は嘔吐した。
最早何が悲しくて、どうして苦しいのかもよく分からない。ただ一つ分かるのは、自分が選択しない限りこの地獄は終わらないということだけであった。
「十、九、八――――」
再び悪趣味極まるカウントダウンが始まる。
されど、最早秦は何も出来なかった。
彼女の心は既に壊されてしまったから。
草壁蟻間の嘲笑う声が聞こえる。
少年少女の救いを求める声が、その悲鳴が聞こえる。
なのに、何故かその声はどこか遠く、それどころかまるで他人事のようにすら感じた。それほどまでに現実感がなかった。
今この場にいる自分が、本当に自分であると思いたくなかった。
「ククク、ハハッ、フハハハッ、アッーハハハハハァアアアアアアアッッッ!!!!!!!!!!!!!!」
悪魔は嗤う。
虐殺は止まらない。
止めどなく血と臓物が散らばる。
一人、また一人と幼い命が散っていく。
死んで、刻んで、叫んで、屠って、殺されて、喰らって、嘆いて、そうして、その果てに――――、
「漢華、ちゃん……」
「…………」
気付けば、もう明希以外の子は皆殺されていた。
結局秦は選択することが出来なかった。選ぶのが怖くて、そうしてまた罪を重ねるのが恐ろしくて、ただ傍観するだけで終わる一番楽な道に逃げたのだ。
だが、それでもこれで明希だけは――――、
「さて、それじゃあこれで最後の一人だな」
「ひっ」
そう言って、草壁は妹の顎に触れる。
柔らかな頬を撫で、髪に手櫛を通し、耳の穴に指を突っ込んで優しくほじくり回す。
その死んだ目を肉食獣のようにギラつかせながら、まるでこれの所有権は自分にあると言わんばかりに。
「なっ、なんでよッ!? 選んだ方は助けてくれるって言ったじゃないッ!!」
「馬鹿を言うな。お前がいつ選択をした? 俺がガキを皆殺しにし、自然と選択肢が絞られるのをバカみたいな顔で傍観していただけだろうが」
草壁はそう言って、キザにフィンガースナップを決める。
その途端に、影の沼から何か砂鉄のようなものが濁流の如く溢れ出す。
いや、違う。砂鉄などではない。
それは蟲であった。小さな体に強靭な顎と羽を持つ、おぞましき食人蟲の群れであった。
「受け入れろ。全てはお前が選び、招いた結末だ。お前の妹はお前の怠慢のせいで死ぬんだよ」
草壁はそう吐き捨て、軽く腕を一振りする。
その動きに連動し、数千を超える蟲の群れが少女目掛けて殺到する。
「や、やだッ!! 助けて漢華ちゃんッ、漢華ちゃぁあああんッ!!」
「明希ッ!! ウッ……ンググ、アァアアアァアアアァアアッ!!!!!!!!!!!!!!」
秦は喉から血が吹き出さんばかりに絶叫する。
最早これ以上家族を奪わせてなるものか。いや、何より大切な妹をこんなクズに殺させてなるものか。
秦は吠える。怒り、叫び、咆哮する。
「草壁ェエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!!!!!!!!!!!」
不意に拘束が緩む。
勝ち場の馬鹿力が体に巻きついていた黒蛇を振り払う。
今ならまだ間に合う。
秦はそう信じて妹のもとへ駆け寄ろうとする。
「オイオイ、今更未練たらしく足掻く、なよッ!!」
しかしすぐさま草壁の蹴撃を腹に浴び、そのまま床へと倒れ伏す。それでも秦はすぐに再び立ち上がろうとする。
しかし、最早手遅れであった。
視界の先で既に蟲の大軍は妹の体に取り付いていた。
「ヤダ、ヤダヤダヤダヤダヤダ――――ギィギギュググゥ」
強靭な顎が少女の柔肌を破く。
数千の蟲が妹の体を少しずつ食らっていく。
まだ明希には意識が残っているにも関わらずだ。
とても文字には表せない地獄のような悲鳴が耳を劈く。
蟲は少女の穴という穴から、ときには皮と肉を食い破った作った傷口から、凄まじい勢いでその体内へと侵入していく。中で蟲が蠢いているからか、その皮膚の表面がボコボコと波打ち始める。
「アッ……アッアッ、姉、アヤアヤ、ンアヤ、ちゃん、アッ……アッ」
悲鳴が上がったのは最初だけだった。
すぐに妹は意味の分からない譫言だけを繰り返すようになり、顔からも表情が消えた。
それからもしばらく明希は生き続けた。
それでも、やがてそんな呻き声すら聞こえなくなった。
「明、希」
妹が死んだ。
なのに不思議と涙は出なかった。
怒りも憎しみも悲しみも、何も感じない。
自然と体から力が抜ける。
少女はそのままベタリと床に体を預ける。
なんなのだろうこの感覚は。
よく分からないが、なんだかもう、全てが、どうでも良くなった。
「くくくっ、アッハハハハハハハハハハハハァアアッ!!」
悪魔は笑い狂う。
狂ったように笑いながらまた一歩、また一歩と秦の目の前まで近付いてくる。
「秦漢華、お前随分と良い顔になったなあ。だが、まだだ。まだ終わらせはしない。お前にはもっと人を殺してもらわねば困る。一生を掛けても償え切れないほどの罪に溺れろ。そうして、だ」
そこで草壁は何か懐から白いカードのようなものを取り出した。
『鍵』。それは本来天界の十三王のみが有する絶対特権、天界を遍く満たす『天骸』を己の力として振るうことを可能とするアクセスツールである。
しかし、この『鍵』はとある大天使の血を引く血族の者にしか扱えない。されど幸運にもその血族の者――――即ち秦の血を持つ者は今ちょうど草壁の目の前にいる。
だから悪魔は『鍵』を秦の額に押し当て、
「そうして、お前は神の領域へと足を踏み入れるのだ」
そのまま秦の額の中へとねじ込んだ。
しかし、カードが少女の頭を貫いたのではない。
それはまるで泥沼に足を踏み入れるが如く、カードは秦の体を傷付けることなく、ゆっくりとその内部へ沈んでいく。
「――――――――――――――」
途端に体がビクン!と大きく跳ねた。
頭が熱くなる。いや、すぐに全身が燃えるような熱を帯びていく。
その正体は『天骸』だ。
膨大、そして濃密。まるで鉄砲水の如く、どこからか無限と呼ぶべき力が止め処なく溢れてくる。
止まらない。収まらない。受け止めきれない。痛い。熱い。辛い。壊れる。自分が自分でなくなる。既に容易に街一つ焼けるほどの力を引き出しながら、それでもまだ全くもって底が知れない。
「ぐあああああああッ、うっ……んギ、あああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
少しでも気を抜けば全身が弾け飛ぶ。
むしろまだ自らが人の形を保っていられることに驚愕する。
それはまるで起こしてはいけない神を起こしてしまったかのようであった。『天骸』の嵐とでも呼ぶべき、力の奔流が広い室内で吹き荒れる。壁の所々に開いた穴から凄まじい勢いで力が吹き出していく。
気付けば秦は叫んでいた。
しかし、果たしてこれは本当に自分の声なのだろうか? それはまるで聞き覚えのない声色、それどころか人間の言語とすら思えない異声であった。
あえて例えるならば下手糞が弾くバイオリンの音色と、蝙蝠の鳴き声を合わせたような不快音とでも言ったところだろうか。
「……オイオイ、マジで凄いな。秦の最高傑作という看板に偽りは無しか。これならば本当に六翼を越えて『一元』にまで到達するかもしれんぞ」
しかし、そんな草壁の声は最早秦漢華に届いてはいなかった。
それはまるで自分が自分以外の何かに変わっていくような薄気味悪い感覚であった。
次第に意識が薄くなるが、眠りのそれとは明らかに違う。当然未だ味わったことはないが、恐らくはこれが死というヤツなのだろう。
秦漢華の中から秦漢華が消え行くなか、少女は微かに残った意識の中で自問する。
――――私は、一体どこでなにを間違えたんだろう。
我ながら正義感が強い方だったと思う。
いつでも弱い者の味方でありたいと思っていた。
困っている人や塞ぎ込んでいる人を見れば、思わず手を差し伸べずにはいられない性格であった。
そして、なにより悪を許せなかった。
力の無い者の代わりに、力に恵まれた自分が理不尽に立ち向かわなくてはならないのだと思っていた。いつも誰かのために怒って戦って抗って、そうして躊躇なく自分を犠牲にして自分の信念を貫いてきた。
秦漢華は初めからそんな人間だったわけではない。
初めはただの憧れだったのだ。
馬鹿みたいに真っ直ぐで、不器用なくらいに純粋で。
そんなとある男の子のことをかっこいいと思ってしまったから。
その背中に憧れて、自分も彼のような強くて優しい人間になりたいと思ってしまったから。
――――でも、結局私はアンタにはなれなかったッ……!!
いくら姉を殺した糞女とは言え、この手で三人を殺めてしまった。先に姉を殺されたのだから当然の報いなのかもしれない。しかし、本当に彼女等は殺しても良いようなクズだったのだろうか。特に草壁蜂湖、あの少女が最後に見せた全てを諦めたような顔が頭にこびりついて離れないのだ。
最早真実は分からない。
分かるのはもう二度と自分は日の当たる場所には戻れないということ。そして何より、自らの短慮が大切な家族を殺したという罪業だけであった。
これが自分に与えられた何よりの罰なのだろう。
きっと、このまま秦漢華は死んでいく。
誰も助けてはくれない。
そもそも助けられる資格がないのだ。
正義の味方が助けてくれるのは、いつだって善良な弱者だけ。それさえも取りこぼすことがあるのに、態々悪人を救いに来る物好きなどいるはずがない。
例え思い出の中の彼が今ここにいたとしても、秦漢華に手が差し伸べられることは決してないだろう。
「オイお前、なぜ泣いている……?」
「え……?」
『天骸』の暴風が吹き荒れる中、草壁が怪訝な表情でボソリと呟く。
言われて初めて気が付いた。
知らぬ間に目から頬にかけてを一筋の滴が伝っていた。
「待って、違う、これは……」
慌てて目を拭う。
何度も何度も涙を払う。
だけど、止まらない。
次々と涙が零れ落ちるのを堪えることが出来ない。
秦は己に失望し、幻滅する。
この期に及んで己はまだ自分が可愛いのかと。
そうやって何もかも諦めたはずだった。
自分は悪人だから、罪人だからと。
だから誰にも救ってもらえるはずがないのだと、
「……たす、けて」
なのに、気が付けばそう口走っていた。
まるで熟れた柿が地に落ちるように、或いは錆びた釘が折れるように、それまで抑え込んでいた何もかもが自然と心の奥底から溢れ出す。
そもそも何故秦は諦めたのか、抑えていたのか、我慢し続けてきたのか。それは全て助けて欲しいことの裏返しではないか。
だから秦は自覚した。
罪を犯して、全てを間違えて、何もかも失って、それでもまだ自分は誰かに助けてもらいたいのだということを。
「クククッ、フハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
悪魔は随分と愉快そうだった。
それまで秦が罪を受け入れていたことが余程気に食わなかったのだろう。
悪魔は嗤いに嗤い、目元に涙すら浮かべながら少女を嘲る。
「……オイオイお前この俺を笑い死にさせる気か? あれほど悟ったようなことをほざいておきながら、結局は己が身可愛さに悲劇のヒロイン気取りと来たか。何と惨めで愚かな女だ。だが、最高だ。可愛いな漢華、好きだぞ漢華、正直今結構勃っているぞ漢華」
「…………うるさい」
「たが、助けとか来るわけないんだよな、残念ながら。お前は知らないかもしれないが、ここの周辺数キロには人間なんて一人もいないんだよ。まあ、死体を人にカウントしていいと言うなら話は別だがなあ」
少女は確かに助けてと言った。
しかし草壁の言う通り、今この中央区は完全なダエーワの支配下にある。その声の届く範囲に生きている人間はいない。仮にいたとして、こんな最低最悪の絶対悪に喧嘩を売ってまで、秦を助けてくれる人間がいるとはとても思えない。
「馬鹿がッ、そうやって最初からありもしない希望に最期まで浸り続けていろ。クソ野郎にクソみてえに利用された挙句ブッ殺される、テメェみたいなクソ女にはなんともお誂え向きの死に方だろうが――――――ッ!!」
まるでそのセリフを否定するかの如く、突如一発の銃声が鳴り響いた。
「はあ……?」
悪魔の側頭部からドバドバと鮮血が滴り落ちる。
傷口に手をやり、悪魔はそこでようやく頭に鉛球を浴びたことに気付く。
「……問答無用とは躾がなってねえなあクソ人間」
しかし、たかが脳を破壊されたぐらいで死ぬ大悪魔ではない。瞬きの後、その損傷はまるで何事もなかったかのように修復される。
しかし、この場に何者かが現れたのは確かであった。
ダエーワの支配下にあるこの危険地帯に態々足を踏み入れ、無謀にも悪魔の王に向けて銃の引き金を引いたヤツがいる。そいつは勇者か、或いはただの馬鹿か。
全殺王はあくまでも余裕を崩さず、まるで珍獣でも面白がって見るかのように、ゆったりとした動作で乱入者の方を向く。それにつられて、秦もまたそちらに目を向けた。
「なっ、なんでッ…………」
止め処なく溢れ出ていた涙が、更にその勢いを増す。
ひょっとしたらと、願ってはいた。
彼ならばもしかして自分のことを助けてくれるかもしれない。仮にそんな人がいるとしたらそれは絶対に彼であるに違いない。
彼の登場を誰よりも願っていたにも関わらず、その誰よりも願っていた本人が一番驚いている。
だって、こんなの、夢見物語だとしてもあまりに都合が良すぎるではないか――――、
「知らん顔だな。オイ、名を名乗れ。この絶対悪に対して失礼だとは思わねえのか? パッと見モブ野郎が」
「……」
樋田可成は答えない。
どこか様子がおかしかった。
彼は一言も言葉を発さない。
怒鳴るわけでも、暴れるわけでもない。
その視線は氷のように冷たいのに、それでいて炎のように燃え上がっているようにも見える。
彼が怒っているところは何度か見たことがあるが、あんな顔は出会ってから一度も見たことがない。
「可成、くん……?」
確かに彼は現れた。
少女にとって一番来て欲しい人が、一番来て欲しいときに来てくれた。
これ以上ないくらいに主人公でヒーローで正義の味方だ。
なのに、なのにどうしてだろう?
まるでこの場に草壁以上の悪魔がもう一人現れたような、今の彼からはそんなおぞましいものを感じずにはいられなかった。