第百十一話『ロマンチックミルキーウェイ』
「ハァ……ハァ……ハァ……」
松下希子は、そこで遂に地に膝をついた。
アエーシュマの攻撃によってダメージを受けたわけではない。それでも彼女は既に満身創痍であった。頭や背中から滝のように汗が流れ出る。汗でずぶ濡れの前髪が顔に張り付き、鬱陶しいことこの上ない。
「はあ〜〜〜〜、アナタには本当ゲ・ン・メ・ツだわん。あんだけデカい口叩くからには少しぐらい楽しませてくれると思ったのにん、ああんっ♡ ずっと逃げてばっかりとかマジテン下げなんですけどぉん、んふッ♡ 勝てないと分かったんなら、さっさと気遣って殺されてくれればいいのにん、ひゃあっ♡ アナタそんなんじゃアタシみたいないい女には慣れないわよぉ〜〜〜ん」
松下の視線の先で、アエーシュマはその醜い顔を歪めて笑う。少女は思わず手元の土と草とを握りしめた。
――――クソッ……、ホントキモすぎて松下のSAN値削られまくりなんですがッ……。
松下が不快感を覚えるのも当然で、ただでさえ生理的にキツい悪魔の見た目は、いつのまにか更におぞましい姿へと成長していた。
恐らくはソロモンの指輪をもとにした擬似聖創――『悪魔の鎖骨』を用いて、闇雲にソロモン七十二柱の力を引き出し続けた結果であろう。
その巨体は遭遇時よりも明らかに大きくなっている。
そして何より顔以外全身毛むくじゃらになっていた。毛と言っても太さはかなりのもので、長さに至っては一本一本が数メートルに及ぶ。正直見ているだけで吐き気を催すレベルの代物であった。
――――そのくせ実力は本物なんですから、本当笑えねえですよ。こんなのに負けるとか超絶嫌すぎる……。
雷撃に火炎に錬金術、そして巨体を活かした物理攻撃。
手を替え品を替え、次々と繰り出されるアエーシュマの攻撃を前に、松下はただ『虚空』を頼りに逃げ回るだけで精一杯であった。
『踊り狂う音劇波』などまともに効きもしない。
『虚空』からの刺突や『濡れ湿る水劇波』は一応刺さるには刺さるが、刺し傷、切り傷程度ならばすぐさま何事もなかったかのように再生されてしまう。
彼我の実力差は明らか。
その上こちらのコンディションは最悪。
ハズレくじを引いたと、今更ながらに思い知る。
そもそも心臓を突いて、或いは首を落としても死んでくれない敵とはとことん相性が悪いのだ。
「……ははっ、やっぱ私なんかじゃカセイ先輩や筆坂さんみたいに上手くはいきませんか」
紗織は今頃シェルターに辿り着くことが出来ただろうか。いや、仮に辿り着いても意味はないのかもしれない。
このまま逃げ続けるだけでは、いずれ『天骸』も体力も底を尽くだろう。そうして松下が敗れれば、またアエーシュマは学園の蹂躙を始めるに違いない。仮にも第五位である松下ですらこの体たらくなのだ。こいつの実力をもってすれば、護衛の百羽など鎧袖一触に蹴散らされるだろう。
「……でも、今ここにいるのはこの私だけなんです。だから、私がやらなきゃいけないんです」
悔しいが、今の松下に出来るのは時間稼ぎだけだ。ならば一分でも一秒でも長くコイツをこの場に足留めするしかない。
別にそれで何かこの状況を打開する術が見つかったり、どこぞの正義の味方がいずれ駆けつけてくれたりする保証があるわけはもない。
それでも松下希子は屈しない。
自分がここで踏ん張って、それで紗織の助かる可能性が少しでも上がるのならば、松下希子は絶対に諦めない。
奇跡は極限まで努力した者の身にしか降り注がないのだと、そう信じて松下は再び双剣を構える。
「コイツなぁにブツブツ言ってんよん気色悪いわねぇん」
往生際の悪い松下にアエーシュマは一瞬呆れたような表情を見せる。
直後、悪魔の体毛が生き物のように揺らめいた。その太く長い毛はひとりでに束ねられ、一つ一つが鞭のような形状に整えられていく。
「はぁ、もういいわ。はい、これでクソビッチ一匹ブッコロ確定〜〜〜♬」
そして、悪魔はその体毛の鞭を松下目掛けて一気に突き出してきた。
来る。頭上より降り注ぐ触手の猛攻に身構える。
そうして、松下の視線は自然と上を向き――――視線の先の空を羽ばたく一柱の天使の姿を捉えることとなった。
「あっ、あれはッ……!?」
「『神の薬』――神罰代理執行術式『天薙』」
その天使が右手に掴んだ棒のようなものを一振りする。
ただそれだけで、天使の手元から十メートルに渡る光の斬撃が撃ち放たれ、松下に迫る体毛の鞭を一本残らず斬り飛ばした。
「……陶南、萩乃」
松下は思わずその名を呟く。
鴉のような漆黒の髪に、腰元に携えられた日本刀。間違いない。やはりそこにいるのは『綾媛百羽』第二位『神の薬』の陶南萩乃であった。
「どうやら御無事のようですね。駆けつけるのが遅れてしまい――――」
「死ねええええええええええ、次から次へと湧いてくんじゃないわよ。こんのメスガキクソビッツィッッッッッッ!!」
しかし、陶南の言葉は途中で途絶えさせられた。
横槍を挟まれたことに激怒したアエーシュマが、陶南目掛けて炎と雷撃を撃ち放ったのだ。
しかし、何故か陶南は避けようともしなかった。そのまま炎と雷は少女を直撃し、更には炎と雷という高エネルギー同士のぶつかり合いが爆発を引き起こす。されど――――、
「――――申し訳ありませんでした」
「……」
「そして何より、松下さん、貴女にはありがとうございます、と感謝の念を。貴女がここにそこの悪魔を釘付けにしてくださったお陰で、本来失われるはずであった多くの命が救われました。実に、御立派です」
「……」
「んッ、どういたしました?」
「……いや、なんでもないです。こちらこそ助けてもらって、その……ありがとうございました」
陶南萩乃は変わらずそこにいた。
炎と雷と爆発をモロで浴びたに関わらず、その身には負傷どころか汚れすらない。しかも、まるで何事もなかったように話を続けるものだから、松下としては最早頼もしいを通り越してドン引きまである。
「アモンの炎と、フールフールの雷が効きもしない……? いや、違うわ。きっとマグレよ、あんなのマグレに決まってるわんッ!!!!」
そうして、アエーシュマは体毛の鞭を振り上げた。
鞭は凄まじい勢いで成長しながら上昇し、上空の陶南を四方八方から狙い撃つ。
しかし、また陶南は攻撃を避けることすらしなかった。
鞭は確かに陶南の体を打ったが、何故かその柔肌に触れた途端ピタリと停止する。それはまるで、陶南の肌に触れると同時に、鞭の持つ運動エネルギーが全て失われたかのようであった。
「……これが陶南先輩の『神の薬』、権能『虐勢破棄』」
松下も話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてであった。
ヒスカルト=ジュークレイ、陶南萩乃、執行麗、秦漢華、松下希子。『綾媛百羽』上位五柱の少女達には、それぞれ七大天使の力が後天的に付与されている。
第二位陶南萩乃の身に宿りしは『神の薬』の名を冠する大天使ラファエル、その中で陶南と最も高い親和性を示したのは、『非暴力』を司る天使としてのラフェエルであった。
そうして発現した権能こそが『虐勢破棄』。
その力が意味するはありとあらゆる暴力の否定。即ち、陶南はただ触れるだけで、人を傷付け得るありとあらゆるエネルギーを、全て暴力と解釈して没収することが出来る。
「…………ラファエル、ですって?」
松下が口にしたその名に、アエーシュマの毛がピクリと跳ねる。
「あはん、本当にラファエルだわ……姿形は全然違うけどん、その『天骸』からは確かにあの天使を感じるぅう〜うン」
明らかに異常な反応であった。
悪魔はしばらく自らの顔をこねくり回し、やがて再び陶南の方をギョロリと睨み付けると、
「死にやがれええええええ、ブブブブッ殺してやるっうううンンンンッ!!!!!!!!!!!!」
アエーシュマは激昂した。
はじめからずっと怒っていた気もするが、その怒りはこれまでの突発的な激情とは異なり、ねっとりしたドス暗い憎悪をはらんでいた。
悪魔は再び体毛の鞭を上空の陶南目掛けて突き出す。
しかし、今度は陶南に届きもしなかった。彼女は音速を超える速度で真下に急降下する。そして、着地と同時に正面からアエーシュマめがけて突撃する。
「えっ、ちょ、まっ」
アエーシュマは明らかに陶南の速度についていけていない。
直後、第二位が凄まじい速度で悪魔のすぐ隣を通り過ぎた。いや、違う。確かに目ではすれ違っただけにしか見えなかった。しかし、松下の異常聴力はあの瞬間、陶南の刀が悪魔の肉を裂く音を確かに聞いていた。
しかも、一つではない。自分の耳を信じれば、あの一瞬で少なくとも七太刀は浴びせてみせたに違いない。
「ンッ、ヒギィイイイイイイイイギャアウンううんうふふふふうんんんンンンンッ……!!」
アエーシュマの右半身から鮮血が吹き出す。滅茶苦茶に斬り裂かれ、サイコロステーキのようになった肉がボトボトと崩れ落ちる。
しかし、それでも陶南は止まらない。
彼女は返す刀でアエーシュマに再突撃し、目にも留まらぬ速度で再びその肉をブツ切りにする。
「痛ッッタアアァーーーーーーィイイイイッ!! 痛くて、痛くてぇん、うふふっ、最高に気持ちィイイイイイイイッ!!」
にも関わらず、アエーシュマはまだ生きていた。
確かにその身体は無数の肉片に切り分けられた。しかし、すぐに再生する。肉がそれぞれ寄り合い、まるで一度バラバラになったパズルを元に戻すように、あっという間に元の形を取り戻していく。
「ブホホホホホホホホホウ、マンコだけじゃ飽き足らず頭までユルいなんて面白スギィ。そんなポン刀なんかでアタチを殺せるわけないでしょん。ンンッ、こんのブワァーーークァッ!!!!!!!!!」
予想通りの展開に松下は舌を打つ。
彼女は一度自分の元へ戻ってきた陶南に視線をやると、
「……助けてもらってる身で何言ってるんだって感じですが、普通に無駄ですよ。首を跳ね飛ばしたり、心臓を一突きにするくらいじゃあ、そいつは死んでくれません」
「なるほど、どうやら高位のダエーワには再生能力がデフォルトとして備わっているようですね。では、ここら一帯ごと細胞の一つも残さずに消し飛ばしてしまいましょうか?」
「いや、ダメに決まってるじゃないですかッ!! まだそこらにも逃げ遅れた子達がいるかもしれないし、てかそもそも貴女の言うここら一帯ってどっからどこまでですかッ!? 貴女が言うとなんだかこの人工島まるごと消し飛ばしそうに聞こえるんですがッ!?」
松下は目を見開き、必死の形相で陶南を止めようとする。
しかし、対する第二位はどこか遠くを見るようなジト目で、フクロウみたいに小首を傾げると、
「いいえ、実際にはやりません。軽口というものを、言わせてもらいました。あるいはジョークともいうらしいですが……で、どうです? 面白かったですか?」
「なんも面白くねえよバーカッ!! ニラとスイセン間違えて死ねッ!!」
「そうですか。先生からもう少し人間らしく振る舞うように言われたので、試してみたのですが、結構難しいですね」
コイツ何考えてるのか分からんと、松下は思わず頭を抱える。
一方の陶南は、すっかり警戒して近付こうとしてこないアエーシュマをボーと眺めていた。そのまま顎に手を当てて、如何にも何か考えているようなポーズをする。そして――――、
「あっ、思い付きました。生命活動を停止させるのが難しいならば、どこか遠くへ追放してしまいましょう」
松下には陶南が具体的に何を言っているのか分からなかった。そして、彼女は説明もしなかった。
陶南は即座に考えを行動に移す。次の瞬間、彼女は瞬間的にアエーシュマの懐へ潜り込み、右手で悪魔の弛んだ腹を掴み取る。
「解析、開始」
「なぁにアンタァッ、自分から懐に飛び込んでくれるなんてバッカじゃないのんッ!!?? ならご厚意に甘えて至近距離で全力ブッパさせてもらうわんッ!! ンンッ、イクイク『偽の神』『首位の公爵』『地獄の精霊』『大公爵』『明かす獅子』ンッFOOOOOOOOOO――――――!!」
陶南はまだ悪魔の身体に触れただけだ。
対するアエーシュマはまるで狂ったように指輪から悪魔の力を引き出して、引き出して、引き出しまくる。しかし、全てが無意味。そもそもパワーの強弱の問題ではないのだ。例えアエーシュマが地球を一撃で破壊するほどの力を有していたとしても、陶南萩乃が敗北することはない。
運動エネルギーも位置エネルギーも熱エネルギーも、そして『天骸』も、人を傷付け得るありとあらゆるエネルギーは彼女に暴力として没収されるのだから。
「私は今から貴女が望まないことをします」
「はああああああああああああああああああんッ!?」
「ですので、私がこれから具体的に貴女に何をするのか、先に説明させていただきます」
嵐のようなアエーシュマの猛攻に晒されながらも、陶南は眉一つ動かさない。まるで遊園地のアトラクションに乗る前のアナウンスのような口調で、懇切丁寧に言葉を紡いでいく。
「地球の自転速度は赤道上で大体時速1700kmだと言われていますが、地球上の私たちがその速度に影響されることはほとんどありません。これは地球と地球上にある全てのものが、自転による運動エネルギーを共有しているからです」
「だから、なんだってんのよォオオオオオオオオオッ!! 夏休み子ども科学電話相談は他所でやれやァアアアッ!!」
「そして、このことは何も自転だけで収まる話ではありません。地球は太陽の周りを時速10,000kmで公転し、太陽系は銀河系を時速864,000kmで周り、更に銀河系自体も宇宙空間内を時速2,160,000kmで移動しています。つまり、今も私達は一見止まっているように見えて、実は常に凄まじい速度で移動を続けているのです」
「うるせえええええええボケエエエエエエエエエエッ!! さっさと死にやがれクソラファエルゥウウウウウウッ!!」
「そして、これから私は貴女が世界と共有している全ての運動エネルギーを没収します」
「――――――――――――――――…………え?」
アエーシュマは思わず手を止めて、硬直する。
「いや、そんなこと出来るわけ――――」
「出来ますよ。『天骸』が存在するこの世界では、ありえないという言葉がむしろ最もありえない。今から貴女は自転の速度に公転の速度、更に太陽系の速度に銀河系の速度、ありとあらゆる速度の中から、ほんの一瞬だけ取り残される」
陶南の右手に力が篭る。
その『天骸』の流れが変化し、権能『虐勢破棄』が発動を開始する。
アエーシュマも悪魔の魔王である以上、バカではない。彼女はそこで己が運命を悟った。運命を悟り、そして、心が壊れた。
「イヤァアアアアア、嫌嫌嫌、そんな絶対にヤダァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアァアアッ!!!!!!!!!!!!!」
「説明責任は果たしました。それでは快適な空の旅を」
「いやあああああん、宇宙なんて嫌ああああああんッ!! だってだって、そうなったらぁん、もう二度とアンラ=マンユ様に会えなくなっちゃうじゃなああああああィイイイイッ!! そんなの嫌よォオオオオオオオオオンンッ…………あっ、でも星を隔てた恋なんて、彦星と織姫みたいでちょっとロマンチックミルキーウェイかもしれな――――――」
「さようなら」
然して、アエーシュマが世界と共有する全ての運動エネルギーは没収された。
瞬きの後、最早そこに醜い悪魔の姿は影も形もなかった。