第百十話 『石裏の虫』
例の土手にて、秦の犯した罪を知った後、樋田は如何にも都心らしい大通りへとやって来ていた。
「畜生、随分と酷えことになっていやがるな……」
吐き捨てるように悪態を吐くも、そのしゃがれた声は周囲に溢れる人々の悲鳴によってすぐに掻き消されてしまう。
少年の視界に映る限り、今この場にいる全ての人間が逃げていた。
幼い子を抱いて逃げる女性がいた。
或いは年老いた祖父の手を引いて逃げる若者がいた。
彼らは皆、どこに行けば安全なのかも分からないまま、ただ目の前の恐怖に駆り立てられるがまま走っていた。
西へと向かう者、南へと逃げる者、或いは東へと駆ける者、数知れず。
少なくとも、今この状況で北に向かっている命知らずは樋田だけであった。
「……つーか、あんなバケモン人間の力でどうすりゃあいいってんだ」
樋田は北の空、誰もが背を向け、目を背ける先の空を見上げる。
都心でありながら、そこには何故か山があった。否、それは思わず山と見間違うほどに巨大な肉塊であった。
それでもその巨体ゆえか、肉塊は酷く不安定で流動的であった。
泥状の肉が時には固まり、時には崩れ、そうして形成と崩壊を繰り返しながら、辛うじて生物としての形を保っている有様であった。
しかし、その体躯は都心の高層ビル群すら上から見下ろす規格外のサイズだ。度を越した巨体は、ただ動くというだけで周囲に甚大なる災禍を振りまく。
肉塊は南下していた。
その歩みはカタツムリのように遅い。
それでもその軌跡にある全てを押し潰しながら、肉の山はゆっくりゆっくりと進軍し続けている。
人々が戦慄するのは至極当然であった。
明確な脅威を目の当たりにし、自らの生活圏をことごとく破壊し尽くされ、それでパニックに陥らない方がむしろどうかしている。
「全殺王ッ……!!」
恐らくは、あの肉塊も全殺王に従うダエーワの一匹なのだろう。先程連絡を寄越してきた晴曰く、全殺王アンラ=マンユ率いるダエーワの群団が先刻遂に動き始めたらしい。
不幸にもその起点となったのは中央区。
そこから湧き出たダエーワの数は、百と言う者あれば、千と言う者もあり、中には万と言う者すらいるとのことだ。
急な事態に情報が錯綜しているのは明らかであった。
今この東京にいる人間の中で、ダエーワの動きを正確に把握出来ている者などきっと一人もいないだろう。
樋田は身震いする。
未だ肉塊を除き、ダエーワの姿が見えないこの辺りですら、これほどの混乱に包まれているのだ。
ここから更に北へ向かった先、事件の起点たる中央区では一体何が起きているのか。想像するだけで暗澹たる気分になる。
『オイ、カセイ』
「どうした……?」
そこで互いの『顕理鏡』を介し、晴から再び連絡が入った。
彼女は今、人類王勢力が東京各地に設置した『顕理鏡』を通じて、秦を攫った全殺王の行方を探ってくれている。
秦邸をスタート地点とし、そこから全殺王の姿が捉えられた地点を時間ごとに追っていけば、いずれ今ヤツがいる場所を特定することが出来る。
そんな晴の提案を、確かに樋田も他に手はないと受け入れたのではあるが――――、
「クソがッ、一体いつになったら着くんだよッ……!!」
ここまで晴の指示に従って八回ほど移動を繰り返したが、その行き先は全て北北東。即ち、ダエーワの発生源である中央区へと向かう方角であった。
恐らく全殺王は秦を連れ、自らの本拠地へと戻ろうとしているのだろう。
しかし、中央区に目標を絞ってもまだ広い。
ヤツの正確な居場所を突き止めるには、きっとまだまだ時間がかかるに違いない。
今すぐにでも漢華のもとへと駆け付けたいのに、樋田にはそれが出来ない。もどかしい。まるで靴の上から足を掻いてるような気分であった。
まだ彼女は生きているのか。仮に生きていたとして、それは無事と言えるような状態なのか。一瞬嫌な想像を思い浮かべるだけで、頭の奥底がどうしようもなく熱くなる。
樋田はそこで再び例の束縛アプリを起動する。
されど、やはり秦はオフラインのままであった。
携帯の電源さえ入っていれば、すぐに居場所を掴むことが出来たのに。戦闘中に壊したのか、それとも中央区への道中に落としたのか、或いは他人を巻き込みたくないという意地でワザと電源切っているのか。
しかし、無い物ねだりをしても仕方がない。
今は晴の指示に従って、少しでも全殺王の元へと近付くしかない。
此度、晴が指定したのもまた北北東の方角であった。例え、その先に地獄が待っていようが構いはしない。次から次へと押し寄せる人の波を押し退けながら、少年は再び走り始めた。
♢
あれからもう何度か移動を繰り返し、樋田はようやく港区と中央区との境辺りにまでやって来ていた。
北へ向かえば向かうほどに人は減り、今ここにいたっては生きてる人間の姿なぞ一人も見えはしない。
当然であった。
最早、そこは人が生きていられない領域と化していた。
「……ッ!!」
樋田は思わず拳を握る。
握った拳の中が、じんわりと嫌な汗で満たされていく。
まるでいきなり後頭部を殴りつけられたような衝撃があった。
少年は嘆息をつくことすら出来ず、ただ目の前の光景に圧倒されるのみであった。
「これが東京、なのか? 俺の知ってる……いや、知らねえよ。こんなモンは」
人々が長い年月をかけて作り上げた文明は、最早見る影もないほどに叩き潰されていた。
美容室の窓が割れていた。
電柱がへし折れていた。
飲食店が廃墟と化していた。
百貨店が燃え盛る炎に包まれていた。
足元のコンクリートはどこもかしこもヒビだらけで、今この瞬間も遠くの雑居ビルが大きな音を立てて崩れ落ちていく見える。
そこは、まるで戦場のようであった。
つい先程どこぞ国の爆撃機がここら一帯をくまなく空爆したのだと言われても、ああそうなのかと思わず信じてしまえそうなほどに――――、
「ざけやがって……」
しかし、少年が眉を潜めた真の理由は他にあった。
酷い匂いが鼻をついた。
街の全体が赤く染まっていた。
廃墟と化した都市の中を、大小様々なダエーワの大群が我が物顔で闊歩していた。
そして、その悪魔の足元には、乱暴に食い散らかされた人の四肢やら頭やらが、まるでそこにあって当然のもののように転がっていた。
このあたりはもう中央区からもかなり近い。
恐らく、彼等は逃げ切れなかった者たちなのだろう。
「……」
沸沸と、ドス黒い怒りが込み上げる。
今の視界に映る限り、全てのダエーワをブチ殺してやりたい衝動に駆られる。
だが、すんでのところで踏みとどまった。
優先順位を考えろ。
自分の最も大切と思えるもののために行動しろ。
とにかく今は秦が最優先だ。
前へ進もう。そう気持ちを切り替える。
しかし、これほどのダエーワで溢れ返ったこの一角を、樋田は一体どうやって通過するべきだろうか――――、
「撃てえええええええええええええええええッ!!」
それは、あまりにも突然のことであった。
怒号が上がった。
今樋田がいる場所から少し離れたところからであった。
そして合図の直後、殴りつけるような乱射乱撃が大通りを西から東へと走り抜けた。
ダエーワにとっては正に青天の霹靂であった。
突如、無数の弾丸にその身を晒され、大勢の悪魔達が、その肉がグチュグチュと醜い音を立てながら潰されていく。
「銃が効いてやがる……?」
突然の発砲以前に、樋田が驚いたのはそこだった。
本来、天使やダエーワなどの異能生命体に、重火器をはじめとする地球内兵器は一切通用しない。
されど、その攻撃に『天骸』が介在しているならば話は別だ。つまりは兵器自体を術式化し、弾や爆薬に『天骸』を込めることさえ出来れば、科学で空想を殺すことだって可能となる。
今攻撃を仕掛けてきたのは一体どこの誰であろう。
警察や憲兵、或いは帝国陸軍の全体が異能に精通しているとはとても思えない。ならばその正体は人類王勢力か、悲蒼天か、或いは碧軍か、それとも――――――、
ドガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!
と、突然大地を震わせるほどの大爆発が生じた。
「んだよッ、次から次へとよぉ……ッ!!」
しかし、爆発はそれで終わりではなかった。
むしろここからがその本番であった。
樋田が爆発の起きた方向に顔を向けようとするやいなや、再び鼓膜が破けるかと思うほどの轟音が生じた。しかも此度は三発同時に。そのまま五発、十発と爆音は増加していき、気付けば絶え間なく空から爆弾砲弾が降り注いでくる有様であった。
樋田は命の危機を覚え、咄嗟に近くの建物の陰に隠れる。幸いここらの一帯は攻撃対象に入っていないようだが、もしあのときあちらを進んでいる最中であったらと思うとゾッとする。
その後もしばらく爆音は鳴り止まなかった。
徹底的な破壊の音と、甲高いダエーワの悲鳴のみが延々と耳をつく。建物一つを挟んだ大通り側で何が起きているのかは分からない。それでも、今下手に動けば確実に死ぬことだけは理解出来た。
それから、一体どれだけの時間が過ぎただろうか。
永遠に続くかと思った爆撃も、次第に間隔が長くなり、やがて完全に撃ち止めとなった。
攻撃が止んだならば、いつまでもここで臆病風を吹かし続けるわけにもいかない。樋田は恐る恐る建物の陰から大通りの方に顔を出す。
「オイオイ、嘘だろ……」
先程、樋田はダエーワに蹂躙された街の姿に唖然としたが、此度は絶句した。
確かにその一帯は元から酷い有様であった。だが、それでも一応街という枠組みが残ってはいた。それが、綺麗さっぱりまるごと更地と化していたのだ。
誇張ではない。真っ黒に焼け焦げた地面以外、そこにはまるでなにもなかった。
そのとき、樋田はザッザッとどこぞより無数の足音が迫っていることに気付いた。本能的に再び建物の陰に身を潜め、しかし、僅かに顔だけ出して足音の方へと目を向ける。
「なんだありゃ……」
やがてビルの影より姿を現したのは、数十はくだらない武装集団であった。軍隊なのだと、一目見るだけで理解する。しかし、その装いは現在世界中で大流行りの戦闘服ではなく、茶色の軍服にカーキ色のマント、そして腰に日本刀を携えた時代錯誤極まるものであった。
「……後藤機関」
思わずその名を呟く。
国内における四大霊的勢力の一角、後藤機関。確か秦曰く、近年政府は日本国内に蔓延る異能者や天使に対抗するため、名目上は陸軍の一部隊という形で対天武装勢力を結成したのだという。
恐らくは、全殺王の猛攻を前に、彼等もまたなりふり構っていられなくなったのだろう。ここから後藤機関の一団まではまだ距離があるが、それでも向こうのピリピリとした緊張感が肌に伝わってくる。
兎にも角にも、これで目の前の道は開けた。あとは軍が通り過ぎてくれれば、また先に進むことが出来る。
と、そう思っていた。
しかし、そこで再び状況に変化が生じた。
「散開ァァァァァァイイイイイイイイイイイッ!!!!!!」
爆音が生じたのは後藤機関が展開する大通り、その横にそびえ立つビルの根元部分であった。更には一部が吹き飛んだことにより全体のバランスを崩れたのか、ビルはゆっくりと大通り側へもたれかかるように倒れ始めた。
「ふざけッ、冗談だろッ……!!」
樋田は肝を冷やす。
あれほどの質量が倒れこんでくれば、直下の後藤機関はもちろんのこと、こちらもきっとただでは済まない。
しかし、それは杞憂であった。
直後ギュュイイイイイイインンンンンンッ!! と、どこぞより放たれた直火力の光線が、ビルの横っ腹を直撃し、その大部分を溶解せしめたからであった。
それでも確かに瓦礫は降り注ぐ。しかし、それは物陰に隠れ、身を伏せれば防げる程度のものでしかなった。
「畜生ッ、一体なにがどうなってやがる……」
樋田は辛うじて助かったことを確信し次第、このふざけた状況をなんとか理解しようとする。
まず、はじめの爆撃は後藤機関がここら一帯のダエーワを殲滅するために行ったものであるに違いない。そこまでは分かる。
しかし、次に起きたビルの倒壊は不可解が過ぎる。
ダエーワによる反撃、ではないだろう。確かに悪魔にも人並みの知能を持つ個体はいるが、それにしてはやり口が回りくど過ぎる。
「まさかこんなときまでくだらねえ縄張り争いしてんじゃねえだろうな……」
そういえば、数日前秦が言っていた。
確かに四大勢力は今でこそダエーワ討滅のため共同戦線を張っているが、本来連中は常日頃から血みどろの争いを繰り広げる間柄であるらしい。
だから、連中にとってはただダエーワに勝つだけでは意味がないのだろう。自勢力の犠牲は出来る限り抑え、一方他勢力には出来る限り犠牲が出るようにし、この騒動が片付いたあと自らが少しでも優位に立てるように立ち振る舞う。
ならば、ダエーワとの戦いが未だ終わっていなくとも、いやむしろ終わっていないからこそ、そのどさくさに紛れて騙し討ちを行ったのだろうか。
「……どこもかしこもきなくせえな。これから何かしら良くなる要素が一つも見つからねえ」
根拠はないが、嫌な予感がした。
今この東京では多くの個人・組織が、石裏の虫のように絶えず蠢いている。彼等は互いに影響し合い、干渉し合い、そして何より関係し合う。そういう意味では、今この東京で起きてることを完璧に把握出来ているものなど一人もいないに違いない。
だからこそ怖いのだ。分からないことほど、怖いことはない。実際今だって少しタイミングがズレていたら、後藤機関の空爆に巻き込まれていたかもしれなかったのだ。
ここから先は本当に何が起こるか分からない。
唐突にダエーワに襲われて殺されるかもしれない。或いはそこに害意がなくとも、天使と悪魔の戦いに巻き込まれて死ぬかもしれない。
「ハッ、上等だっつーの。どうせ俺ァ地獄逝きだ。なら、生きてるうちにいっぺんぐらい下見しといた方がいいだろ」
樋田一人しかいないにも関わらず、態々軽口を声に出し、そうして己の臆病を騙し切る。この先に地獄が待っているとするならば、尚更秦をそんな酷い場所に置いておくわけにはいかない。
連れ戻す。必ず連れ戻す。
罪過の炎が、彼女の身と心を焼き切る前に。
そうして少年は地獄へと足を踏み入れた。