第百九話『無力の答え』
「待っ――――」
隼志紗織は手を伸ばす。
直前に希子が浮かべたのは、頼もしくも、まるで何かを諦めたような悲しい笑みであった。
何故か、これが希子との今生の別れになってしまうような気がした。
自分で助けを求めたにも関わらず、随分と勝手な話だ。それでも隼志は、去り行く幼馴染の袖に手を伸ばさずにはいられなかった。
「――――って」
しかし、その手は届かなかった。
次の瞬間、希子の姿がアエーシュマごと消え失せる。
瞬きの前はまだ見えていた。されど一瞬目を閉じて、再び目を開いたときにはもう完全に消え失せていた。
「希子……ねえ、希子応えてよッ!!」
感情に任せて叫ぶが、返事は当然返ってこない。
静かだった。虚しかった。先程までの喧騒はまるで嘘のようで、一種の寒気すら感じるほどの完璧な静寂がそこにはある。
「ひゃあっ……!!」
それから一呼吸置いて、バギャアアアアンッ!!と、どこか遠くで壮大な破壊音が響き渡った。しかし、音が聞こえただけで、揺れや衝撃までは伝わってこない。
音の正体は希子とアエーシュマに違いない。
希子がどのような力を持っているのかは知らないが、恐らく彼女は何かしらの手段をもって、あの悪魔をこの場から追放したのだろう。
隼志は慌てて車椅子を起こし、その上に座り直す。
そうしてヒビ割れた窓の外を見てみると、先程音の聞こえた方角からモクモクと土煙の立ち上っているのが見えた。
きっとあそこで希子は正に今、あのバケモノと死闘を繰り広げているのだろう。
「私の、ために……ね」
手に汗握る。考えたくはないのに、どうしても嫌な想像を思い浮かべてしまう。
彼女を呼び付け、戦場に追いやったのは自分であるのに、胸が痛くて痛くて張り裂けそうになる。
何か自分に出来ることはないか。
今更そんな殊勝なことを思い浮かべた理由も、本当は希子への罪悪感を払拭したかったからだけなのかもしれない。
しかし、隼志紗織に出来ることなど何もない。普通の人でも逃げるので精一杯なのだ。そのうえ足の悪い自分が一体なんの役に立てるというのだろうか。
きっと、黙ってこの場から立ち去るのが最善なのだろう。
無能な弱者はさっさとシェルターに引っ込んで、戦える者達の邪魔にならないようにするべきなのだろう。
「本当に何も出来ないんだなあ、私って……」
無力感に押し潰されそうになる。
あまりの情けなさに一瞬涙が出そうになる。しかし、瞳から零れ落ちる前に、少女は袖で水分を拭った。
まるで守られているだけの自分に、泣く資格なぞ無いのだと、そう言わんばかりに。
「……なにか、聞こえる」
隼志が複数の靴音に気付いたのは、まさにそんなときであった。
音が聞こえるのは核シェルターの方角からであった。足音の数は多いが、廊下に響く音自体は微かである。
しかし、はじめは静かだった足音も、彼我の距離が近付くにつれて、次第にハッキリと聞き取れるようになっていく。
やがて、数人の少女達が廊下の角から顔を出した。
「あっ」
彼女達は隼志を見るなり目を丸くする。
死んだと思った人間が生きていたのだから当然の反応であった。
次に少女達はお互いの顔を見合うと、示し合わせたような苦笑いを浮かべた。足の悪い隼志を囮にしたのが余程後ろめたいのだろう。特に隼志と同じクラスの少女達は、今にもこの場から逃げ出してしまいたそうに見えた。
「あははっ……別にそんな気まずそうな顔しなくてもいいよ。私、最初からみんなのこと友達だなんて思ってないからさ。ねっ?」
声色だけならば、普段の隼志と変わったところは一つもない。しかし、愛想笑いを浮かべる口元とは対照的に、その大きな茶色の瞳は全くもって笑っていなかった。
少女達が思わず慄くなか、隼志は平然と話を続ける。
「それでさ、一体何があったの?」
再び少女達は顔を見合わせる。
一瞬、誰が答えるのかという無言のせめぎ合いがあったのち、結局そのなかで一番立場の弱そうな子が口を開いた。
「……この先の廊下、隣校舎との境目に何匹か化け物がいる。みんなさっきのデカいヤツよりは全然小さいけど、それでも大人の男ぐらいはある。だから、シェルターには逃げられない」
「……嘘、でしょ」
一瞬、目眩がした。
流石にその可能性までは考えていなかった。
一体、どうする?
そのバケモノがどこかに行くのを待つべきか。しかし、もしもバケモノがこちらに来てしまえば、その時点で全員まとめて悪魔の餌になることが確定する。
そんな運任せのギャンブルに、折角希子に助けてもらった命を賭ける気はとても起きない。
「じゃあ、近くの階段から二階に上がって、反対側に回り込む……?」
「それはもう考えた。でも、シェルターは隣校舎だから、結局最後は一階の渡り廊下を通らないといけなくて」
「じゃあ窓を割って外から回り込むのは――」
「ちゃんと外見てないのッ!? 上はどこもかしこもバケモノだらけじゃん。仮に建物の外から一歩でも出たらすぐに見つかるッ!!」
「……」
最早案が思い付かず、隼志は口をつぐむ。
よく考えれば、向こうは既に十人で色々と考えを出しあった結果、全て無理だと諦めてこちらへ戻ってきたのだ。
今ここで話を聞いただけの隼志が、それ以上の案を提供出来るとはとても思えない。
希子を助けるために、今の自分に出来ることはなんだろう。
そんな傲慢なことを考えていた数分前の自分がひどく愚かに思えてくる。これでは希子を助けるどころか、最早自分の命を守ることすら危ういではないか。
隼志紗織を助けてくれるヒーローは松下希子だけだ。
その彼女がいなくなった今、最早隼志に頼れる者など一人もいない――――、
「……いや、違う。いるよ。まだ」
声に出して、それまでの絶望を否定する。
むしろ何故今まで忘れていたのか。
つい、この間のことではないか。
隼志紗織の母の代わりに生き残ってしまった罪、松下希子に理不尽な悲しみと怒りを押し付けてしまった罪。
それぞれの罪悪感に取り憑かれ、最悪の結末を迎えつつあった自分達を、まとめて救ってくれた人達がいたではないか――――、




