第百八話『もう後悔はしない』
「希子は私のヒーローだよ」
愛しい人は、そう嬉しそうに囁いた。
松下の頼りない細腕の中で、彼女はまるで太陽のように温かい笑みをこぼす。
――――本当に、間に合ってよかった……!!
唯一無二の幼馴染。
絶対に失いたくはない大切な人。
仮にほんの少しこの場に駆けつけるのが遅れて、それで彼女を喪っていたらと思うとゾッとする。
だからこそ、今目の前で紗織が微笑んでくれていることに、松下は心の底から救われたような気分になっていた。
「……当たり前じゃないですか。私はずっと紗織の――――」
松下は紗織につられて笑いそうになり、しかし、すぐに苦虫を噛み潰したような顔をする。
嗚呼、確かに紗織は笑っている。されど、その目尻が微かに潤んでいるのを、松下希子は見逃さなかったのだ。
今は安心して笑ってくれているが、それはそれまでの恐怖の裏返しともいえよう。
「一体ここで何が?……」
ふと辺りを見渡すと、壁に開いた大穴の下に、朱に染まった瓦礫の山の積み上がっているのが見えた。
きっと紗織の目の前で、あの悪魔に誰かが殺されたのだろう。もしかしたらその人は彼女の見知った人間であったかもしれない。それだけで紗織が今までどれほどの恐怖に晒されていたかを察して余りある。
――――紗織に怖い思いさせちまったってのに、ヒーローだなんて、何を傲慢なッ……!!
そもそも未だ危機を脱したわけではない。
クソッタレの化け物は今もすぐそこにいる。
むしろここからが本番、紗織を守るためには自分がしっかりしなくてはならないのだ。
松下は親指を目尻に押し当て、溜まっていた涙をピッと払う。そこには最早、それまでの腑抜けた少女の姿はない。
「ゴメ、ンね。いつも、希子にばかり辛いこと押し付けてッ……!!」
「もぉ、やめてくださいよ。お互いそーゆーこと言うのは無しにしようって、こないだ話し合ったばかりじゃねえですか」
松下はニッと笑い、ぐちゃぐちゃになった隼志の前髪を優しく払う。
「ともかく、今はこの場を切り抜けましょう。なぁに心配はいりません。この松下希子、こと逃げることと隠れること関しては一家言ある女ですから」
「あンの、さぁアアアアアアアアアアッ!!??」
一方、面白くないのは『狂暴』アエーシュマであった。
どうやら悪魔は、自らの振り下ろした両腕が、少女の命を奪えなかったことにようやく気が付いたようであった。
アエーシュマはゆっくりとこちらを振り返る。途端にその小さな目と大きな口とが、今にも裂けんばかりにおっ広げられる。
「ぬんうおわああああああんンンッ!! ま〜〜た女が出て来たわよん女がァアアんッ!! しかもめっちゃ美少女、これまで見てきた女とは比べ物にならないくらいの可愛い子ちゃんとかマジありえなあああイッ!! あぁ、こりゃもう絶対ビッチねえ。うんうん、こんなの絶対年がら年中ヤリまくりのクソビッチに決まってるわ。アンタ、百パーセント、ビーーーッチッ!!!!」
「…………」
髪質と性格はともかく、松下も顔だけ見れば、県でトップを取れるレベルの美少女である。だからこそその恵まれた容姿が、ただでさえ嫉妬深いアエーシュマのやっかみを更に逆撫でする結果となった。
魔王はビッチ、ビッチと叫びながら、狂ったように地団駄を踏む。その様はまるで親に欲しいおもちゃを買ってもらえなかった子供の如くであった。
「オイ、クソヤロウ……テメェさっきからビッチビッチってクソうっせえんだよッ……!!」
「えっ、希子……?」
対する松下は正に豹変。
普段の気怠げな敬語口調は一体何処へやら、ドスの効いた声色で唸る少女は明らかにチンピラじみていた。
しかし、なにも特別なことではない。単純にムカついたのだ。元々温厚ではない彼女の、堪忍袋の緒が遂にブチ切れたのである。
「……私の、紗織がッ、ビッチなわけ、ねぇだろ、こんのクソタレドブサイクがアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「――――は?」
松下希子、魂の叫びであった。
これにはアエーシュマも思わず呆気に取られてしまう。
「つーか、アンタ前世でどんだけ悪徳積んだらそんな視界に入るだけでゲロ不可避レベルのクソキモい顔に産まれてくることが出来るんですかァ? もしかして神様が余ったパーツで適当に作った福笑い野郎なんですかァ? アンタみたいな顔面異常者は松下みたいな超絶美少女に転生することを期待しながら惨めに自殺することをお勧めします。いや、ブスに来世とかもったいねえですね。汚ねえブスは今すぐこの場で存在ごと絶えろよクソブス」
「キィイイイイイイイイイッ!! ムカつくわこんのメスガキィイッ!! 避妊に失敗した売女のマンケツからひり出されたウンコみてえなゴミガキの分際で、このアエーシュマ様に舐めた口きいてんじゃないわよォオオオオオオオオオッ!!」
松下のあんまりな罵詈雑言に、アエーシュマは激怒した。
悪魔は髪のない頭に鋭い爪を突き立て、一心不乱に掻き毟る。皮が破け、肉が裂けようとも構わないその様は、ひどく狂気じみていた。
「――――あっ、そうだった。ブッ殺せばいいんだった。悔しがって損したわん」
しかし、悪魔の奇行もそこまでであった。
アエーシュマは頭を掻き毟るのをやめると、血だらけになった巨大な顔をこちらへと向ける。
そして、白い歯を剥き出しにし、ニヤリと気色の悪い微笑みを浮かべりと、
「そもそもさぁ。アンタ、まさかそんな状態で、ヴェンディナート七大魔王の一角であるこのアタシに勝てると思ってるのん?」
「チッ……!!」
松下は舌打ちとともに、改めて己が体を見やる。
かっこよく助けに入ったは良いものの、既に松下の天使体はボロボロであった。
なにしろあのインドラとアンラ=マンユ。かの強敵との連戦を切り抜けたのがほんの数時間前であるのだ。あの戦いでダエーワに切り刻まれた傷は残ったままであるし、『天骸』に関しても未だ万全の二割程度しか回復出来ていない。
そして、コイツはヴェンディナート七大魔王を名乗った。その肩書きが事実ならば、アエーシュマは昼間のインドラと同格の存在ということになる。
万全の状態でも松下はインドラに全く歯が立たなかったのだ。そのうえ負傷している今では、真っ当に勝負が成立するのかも怪しい。
――――紗織の手前イキっちゃいましたが、流石に勝てるだなんて思うほど思い上がっちゃいませんよ……。
そうだ。
今の自分ではコイツに勝てないごとぐらい百も承知である。
だから、松下は腕の中の愛しい人をチラリと一瞥する。
自然紗織と目が合った。その瞳は不安に揺れていた。それでも彼女はそれを悟らせまいと、何も言わずに無理矢理笑って誤魔化そうとする。
自然と、紗織を抱く両腕に力がこもった。
――――それでも退けない理由が私にはあるんですよッ……!!
松下は一瞬逡巡し、決断する。
はじめから選択肢は一つだけであった。
「…………紗織、一旦ここでお別れです。私とあの化け物がこの場所からいなくなったら、すぐに例の避難場所へと向かってください」
「えっ、ちょっと、どういうことッ!?」
しかし、松下は答えなかった。
その次の瞬間、彼女は紗織の傍から、アエーシュマの背後へとテレポートしたからであった。
第一聖創『虚空』、それは松下自身と彼女が触れているもののを対象とした瞬間移動能力である。
だから、少女は再出現すると同時に、アエーシュマの背中へと手を触れた。
「オイ、クソブス。元気に楽しく遊ぶなら部屋の外でにしましょうや」
「なによアンタいきなり――――ブッ」
有無を言わさず、松下は再び『虚空』を発動する。今度は自らとアエーシュマとを対象に、ここから東に五〇メートルの地点へと飛んだのだ。
当然、景色はガラリと切り変わる。
それまでの狭苦しい廊下から、周囲のひらけた、緑の生い茂る中庭へと――――、
「女の子の体にィイ、勝手に触ってんじゃないわよォオオオオオオオオオおおおおッ!!!!!!!!」
移動完了とほぼ同時、アエーシュマは体を激しく捻った。自然、その背に張り付いていた松下は遠心力耐えきれずに引き剝がさせる。
そして追撃。
続いて悪魔はバランスを崩した松下の頭を喰らいにかかるが、彼女はすんでのところで翼を広げ、空へと逃げることに成功した。
――――……良し。これでなんとか紗織からコイツを引き剥がせましたね。あとはしばらく時間稼いだ後、適当に離脱出来れば良いんです――――がッ!?
そこで更なる追撃が松下を襲う。
直下のアエーシュマがこちら目掛けて雷撃を放ってきたのだ。それはまるで押し寄せる荒波が如く、松下とその周囲の空をまるごと飲み込むほどの勢いであった。
とてもソニックブーム程度で対抗出来る火力ではない。松下はそう瞬間的に判断し、再び『虚空』を発動。空から地に降り立つ形でテレポートすると、頭上を雷の洪水が凄まじい勢いで過ぎ去っていった。
「なっ、なんですか今のはッ!?」
「あはっ♡ ビックリしちゃったぁ? やっぱ手品にちゃんと反応してくれると嬉しいわねぇん」
想定外の攻撃に松下は思わず慄く。
彼女の記憶の限り、アエーシュマが雷を操るという伝承を目にしたことはなかったからだ。
確かに神話で語られるアエーシュマと、目の前のアエーシュマは百パーセント同じ存在ではない。
伝承はあくまで伝承。現代に至るまでに失われた史実があれば、後の人々が想像で付け足しただけのフィクションも多分に内包する。
――――まあ、そのことを踏まえてもアエーシュマと雷とか違和感しかねえんですが。これは恐らく、史実と伝承の差異だとか、そんな小さい齟齬じゃねえですね……。
改めてよく考えてみれば、そもそも目の前の悪魔と伝承上のアエーシュマとは明らかに姿形が異なる。
毛むくじゃらの体に血塗られた武器。悪魔アエーシュマを象徴する最大のファクターすら、目の前の化け物には含まれていない。
そして、そこで更なる決定打があった。
松下が目ざとくも注目したのは、アエーシュマの指にはめられた黄銅色の指輪である。
はじめは指輪など気にも留めていなかった。それでも事ここに至れば、それは松下の仮説を裏付ける何よりの証左となる。
「……なるほど。アンタはアエーシュマはアエーシュマでも、大分アスモデウス側に寄った存在なんですね――――ならその力はソロモンの指輪ってとこですか?」
「ブッホホホホホホホホホホホッ、せいか〜〜〜〜〜いッ♡ でもでも、種明かし前に全部言い当てちゃうなんて、本当につまんないガキねアンタッ。もしかしてこれが流行りのさとり世代ってやつなのかしらん?」
これ見よがしに指輪を見せびらかすアエーシュマに、松下は心底忌々しそうに舌を打つ。
視点をゾロアスターの外に拡大すれば、すぐに分かることであった。
まず前提として現在ユダヤ教の悪魔アスモデウスには、その起源をアエーシュマに求める学説が存在する。恐らく今日に伝わる神話上のアエーシュマとアスモデウスとは、双方共にこの悪魔というから生じた伝承なのだろう。
――――ソロモンの指輪、まさかこの世界にはそんなものまで実在してやがるとは……。
そして、ソロモンの指輪。
それは大天使ミカエルが、ユダヤ王ソロモンに授けた鉄と真鍮の指輪である。そしてこの指輪をはめたものには、ありとあらゆる天使・悪魔を使役する力が与えられるとされている。
当然アエーシュマとは何の縁も所縁もない品だ。
しかしその一方、アスモデウスにはソロモンからこの指輪を一時的に奪い取ったというトンデモナイ伝承が残されている。
――――それでも、指輪は最終的にソロモンが奪還したはず。あるいは神話にそう記されただけで、実際はアスモデウスが所有し続けたということでしょうか……?
数千年前、実在したアエーシュマとソロモンの間で何があったかは分からない。
それでもコイツがアエーシュマのみならず、アスモデウスとしての側面も有しているのならば、その手にソロモンの指輪があることにも納得がいく。
「あらあらぁ怖い顔。まあ流石にオリジナルじゃないけどねん。『悪魔の鎖骨。アタシがソロモンから本物を奪ったときに、その力の一部を再現して作っただけの擬似聖創だから――――」
松下が眉間にシワを寄せるのとは対照的に、アエーシュマはニヤリと黄ばんだ歯を露わにする。
「まあ、こんなレプリカでもソロモン七十二柱の悪魔達から力を借りるぐらいのことは出来るんだけどねんッ!!!!」
「――――ッ!!」
指輪の輝きと共に腕を一振り。
ただそれだけで手から超火力の炎が生じ、中庭の緑をことごとく黒く燃やし尽くす。
それでも炎は松下のいる場所にまでは及ばなかった。偶然ではなく、明らかに故意的であった。
圧倒的な実力差を背景に、弄ばれでもいるのは言われずとも分かった。
「畜生、ふざけやがってッ……!!」
「あっはっはっはっはぁッ!! ホラホラ、死にたくなかったら頑張って逃げ回りなさい。でも、まだたかが二柱分。ソロモンが使役した悪魔は七十二柱なんだから、これくらいで一々驚いてたらこの先もたないわよおおおおおおおッ!!」
アエーシュマは完全に興奮していた。
自分より弱い存在を一方的に叩き潰す。
夢見がちなクソガキに現実というものを教え込む。
これからの可能性に溢れたガキをブッ殺し、その未来全てを奪い去る。
その身に悪を使命付けられたダエーワにとって、この一方的な戦いはこれ以上ないほどに愉快なものであった。
「アンタ本当バッカねえッ!! あんな女のこと見殺しにしとけば、このアエーシュマ様に殺されることもなかったのに。だーけーどー、後悔したところでもう遅いインンンン――――」
「ハッ、後悔なんざするわけねえだろクソブス」
「ああん……?」
実力差は歴然。
松下希子が魔王アエーシュマに勝つ可能性は万に一つもない。
しかし、それでも少女は強気であった。
その瞳から未だ光は失われていない。むしろ目の前の悪魔を嘲笑するように、右の眉をつり上げる。
「負けるかもしれないから、殺されるかもしれないから。だから後悔するとでも思ったんですかァ? ハッ、浅っさい浅っさい。アンタら悪魔のクソ浅ましい尺度でこの松下希子を測らないでくれますかァ?」
松下はそう吐き捨てながら、頭の片隅で二週間前のこと――――カセイ先輩や筆坂さんと戦った日のことを思い出していた。
あの日も自分はこの学園の中で戦っていた。
紗織を救うためという免罪符に身を委ね、自分に手を差し伸べてくれた人達を殺そうとまでした。
――――本当、たった二週間前のことだってのに、黒歴史しすぎて死にたくなりますよ……。
他に方法がないのだから仕方がない。
人を殺し、その罪を背負う覚悟ならば出来ている。
松下はそうやって自身を正当化しつつも、結局最後まで自らの行いを正義だと認めてやることは出来なかった。
後悔をするとは、そういうことだ。
でも、今は違う。
少女の心に一切の迷いはない。
今の松下はあのときの松下とは違う。免罪符も後悔もなく、純粋に紗織を守るために戦えるのだから、迷いなど抱くはずがない。
「……アンタらみたいな犬畜生には一生分からねえだろうな。テメェで正しいと胸張って言える道を進んでんなら、例えそれで死のうがそこに後悔なんてねえんですよッ!!」
松下は吠え、得物の双剣を両手に構える。
竦まず、怯まず、決して慄かず、倒すべき敵をただ真正面から睨みつける。
「オラオラどうした、かかってきやがれクソブサイク野郎ォオオオオオッ!!」