第百六話『綾媛学園攻防戦』
私立綾媛女子学園、その上空。そこに一柱の少女の姿があった。
頭に光の輪、背には純白の翼。それらは如何にも西洋天使らしい記号である。だからこそ彼女の持つ墨髪と、腰に携える日本刀からひどくアンバランスな印象を受けてしまうのだろう。
綾媛百羽第二位『神の薬』陶南萩乃。そんな彼女は今、四枚の翼でホバリングの状態を保ちながら、遥か彼方地平線の向こうを双眼鏡で覗き込んでいる最中であった。
「――――只今、目視にて確認。やはり先生の仰っる通りでしたね」
陶南のいる場所から数キロほど南に下った先、無数の化け物の群れが一つの大きな塊となって空を駆っていた。
ダエーワの正確な数を数えることは出来ない。そもそもあまりの数に数えようとする気さえ起こらない。そのふざけた数は夏に発生する虫玉や、或いは異常気象下における蝗害を彷彿とさせるおぞましさである。
そして何よりもおぞましいのが、あの大群が進む先にこの綾媛学園が位置するということだ。
これまでゲリラに徹してきたダエーワが遂に一大攻勢に打って出たという情報は、既に陶南を含む人類王勢力も掴んでいる。
あるいは無垢の人々が人喰いの化け物に襲われ、そうしてこの帝都東京が有史以来未曾有の混乱状態に陥りつつあることも彼女は知っていた。
「どうして、人の安寧とはこれほどまでに脆いのでしょう。私達は被殺を恐れ、暴力に怯える必要のない日々をただ過ごしたいだけですのに」
この人工島から海を挟んだ対岸には、一体どれほどの地獄が広がっているのだろう。
そう思うと、自然と瞳から一筋の雫が滴り落ちていた。別に親しい家族や友人がそちらに住んでいるからではない。きっと犠牲者のほとんどは顔も名前も知らなければ、これから交わることもないであろう赤の他人であろう。
にも関わらず、陶南はその黒曜石のような瞳を潤ませていた。胸が締め付けられるように痛い。ただ普通に日々を過ごしていただけの人達が、暴力という理不尽によって蹂躙されている現状に我慢がならない。
何故だろう。傷付き、死ぬことが好きな者なんているはずがないのに、何故この世界はいつまで経っても暴力を克服することが出来ないのであろう。
「最早、預言者の教え程度では力不足なのでしょう」
だからこそ、推し進めねばならない。先生の言う通り、世界を現状の魚座時代から次なる水瓶座時代へと進歩させなくてはならない。
ダエーワは人類王の根城、この綾媛学園を狙っている。ならば当然先生の救いを妨げる要素は排除するべきであろう。
まずは学園側に敵の襲来を知らせようとガラケーを取り出す。不慣れながらなんとか番号は入力出来たものの、何故かツーツーと明らかに通話出来てない感じの音しか聞こえてこない。
「……電話、出来ませんね。何故でしょう? ――――とっ」
どうやら機械にかまけられる時間はもうないようだ。いつのまにかダエーワの大群は既に裸眼で確認出来る位置まで近付いてきている。
しかし、彼女はすぐに腰の刀を抜きはしなかった。暴力による解決は陶南が最も忌み嫌うところであるし、何よりそれは先生の目指す水瓶座時代とは対極に位置する概念である。だから――――、
「さて皆さん、私と話し合いましょう」
だからこそ陶南萩乃は笑顔でダエーワを受け入れた。当然刀など抜かず、更には両手を無防備に広げるような真似までして。ペテンではない。自暴自棄でもない。彼女は本気であの化け物と対話だけで事を済ましたいと思っているのだ。
「まずは、貴方達の目的と決して譲れないものを教えて下さい。そうしてお互いが納得出来る妥協点を探し合いましょう」
少女は呼び掛ける。魔物は黙殺する。
彼我の距離はあっという間に縮まっていく。
それでも陶南の顔には恐怖どころか欠片の嫌悪感すら浮かぶことはなかった。
「大丈夫です。武器を取らずとも理性的に」
しかし、そんな彼女の言葉にダエーワが応えることはなかった。
当然だ。奴等に人の言葉を理解出来るような知能はない。そもそもダエーワは生きとし生けるものを殺め尽くし、世界に悪を蔓延らせることを本能に刻まれた悪魔なのだから。
「シャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
だから当然、博愛主義者は一方的な暴力にさらされることとなった。
数百の大群のうち、比較的前の方に出ていた十のダエーワが、一斉に陶南に襲いかかる。ある個体は牙を突き立て、ある個体は鋭い爪を振り下ろし、またある個体は力任せの殴打に打って出る。
「『神の薬』」
しかし、全ては無意味であった。
悪魔は陶南に一切のダメージを与えることは出来なかった。正確には噛み付くことも、引っ掻くことも、殴りつけることも出来てはいる。だが、そこまでなのだ。陶南の身体に触れること自体は可能でも、そこから更に力を押し付けることが出来ないのである。
硬いから殴ってもビクともしないとは違う。衝撃を分散、或いは吸収しているのとも少し違う。
とにかく悪魔の持つ牙と爪では陶南萩乃を傷付けることは出来ない。例え彼等が他のどんな破壊手段を擁していても、決して陶南萩乃の柔肌を貫通することは出来ない――――そんな理不尽とも言うべき無敵の権能こそが、彼女の有する『神の薬』の力なのだから。
「忠告します。私は貴方達と敵対したくはありません」
悪魔に四方八方から集られながら、それでも天使の顔は涼しいものであった。まるで攻撃を受けているという意識すら抱いていないかのように、陶南は淡々と言葉を紡いでいく。
「警告します。私に貴方達を殺させないでください。私に暴力などという前時代的な手段をとらせないでください」
攻撃の嵐は止まらない。
自分達の猛攻が一切通用しないことに焦っているのか、むしろその激しさは時間が経るにつれて増すばかりである。
対話の意思がないことは明らかであった。
話し合いで解決出来ないことは明らかであった。
これ以上説得を続けても、無駄なことは明らかであった。
だから、彼女は悪魔達の命を諦めた。
「…………残念です」
ギュンッ!! と、まるで坂を猛スピードで下る車が急ブレーキをかけたような音があった。
起点は少女の肌であった。
彼女の身体を瞬間的に絶対零度の冷気が包み込み、一挙に拡散する。それはまるで押し寄せる濁流の如くであった。大気も水蒸気も彼女の周囲にあるありとあらゆるものは瞬時に凍りつく。そしてそれは、直近まで陶南に集っていたダエーワも例外ではなかった。
空を飛ぶための翼が凍りつく。
それどころか全身に霜が下りていく。
陶南の直近にいた悪魔はすぐさま氷像と化し、そのまま地上へ向けて真っ逆さまに落ちていく。
これに驚いたのが、陶南から離れていたために冷気を避けることが出来たダエーワ達であった。今の一瞬で陶南萩乃の脅威を認識したのだろう。先程までの威勢の良さは何処へやら、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げようとする。
「……旧時代から新時代への過渡期、未だ今世に水瓶座の理念が浸透しているわけではなし。故にこれは仕方のないこと。えぇ、仕方のないことなのでしょう」
陶南は呟き、右手で腰の大刀を抜き放った。
続いて彼女は空いた左手で残りのもう一本、脇差よりも短い儀式刀に手を掛け、その濃口を僅かに切る。ガチャリと、聞こえたのはまるで錆び付いた鍵穴を無理矢理に抉じ開けるような音であった。
変化はその直後、開放音とほぼ同時。
バリバリバリバリバリバリという嵐のような轟音と共に、既に闇に包まれた空が一瞬だけ明るくなる。陶南の頭上遥か上空、そこに超巨大な光の塊が突如として姿を現わしたのだ。
それはまるで天に浮かぶ力の大元から、陶南萩乃という端末にエネルギーが注ぎ込まれたかのようであった。
追撃を開始する。陶南萩乃の体が急加速する。その足裏から膨大な『天骸』を放出し、逃げるダエーワとの距離を一気に詰めようとする。
正に神速。光輝く刀身が揺らめくや否や、五匹のダエーワが一瞬で細切れにされた。化け物達にはきっと反撃どころか、そもそも陶南の挙動を目で追うことすら不可能であろう。
首を刎ね、逆袈裟に斬り飛ばし、縦横無尽に刃を巡らす。確かに化け物を屠るのは容易い。しかし、それでも一匹ずつチマチマと狩っていくのは非効率。やはり大群を無力化させるには、線ではなく面による攻撃が不可欠であろう――――、
「剣を鞘におさめよ。剣による者は、みな剣によって滅びる。剣は人に過ぎたるものなり」
故に、陶南は長刀を天にかざした。
途端に、その刀身がこれまでとは比にならないほどの輝きを放ち始める。
「よって、汝らの敵に神の怒りが降り注ぐのを待たれよ」
恐らくただの人の身では、それに近付くだけで全身が蒸発するほどの圧倒的高温。あまりにも高密度な『天骸』の集積によって、空気が、いや大地が震えていた。
白銀の刀身が横に構えられる。まるで赤子でも扱うように、ゆっくり、繊細、かつ精錬された動作で刀を構え――――、
「神罰代理執行術式、天薙」
そして、その超火力を一気に撃ち放った。
それは戦略級の面攻撃であった。具代的には軌跡の全てを蒸発させる白銀の洪水であった。
避けることなど出来るはずもない、防ぐことなど以ての外。ただその光線を認識したその直後、悪魔達は為すすべなく蒸発するしかない。
確かに、天は薙がれた。
雲は掻き消され、一時は夜の闇すら白に塗り替えられた。されど、
「……予想はしていましたが、やはり散兵の掃討は面倒ですね。もしや私の『神の薬』が持久戦に向かないことを知っているのでしょうか?」
陶南の嫌な予感は的中した。
確かに彼女は視界に捉える限りのダエーワをまとめて殲滅した。しかし、それで終わるはずがない。相手は人類王の居城たるこの綾媛学園を攻め落とそうとしているのだ。まさかこの程度の寡兵で攻勢が止むとは思えない。
ドドドドドドドドドドドドッ、バララララララララララッと、再び本土の方から無数の羽音が聞こえてくる。
先程まで巨大な雲かなにかだと思っていたそれは、まぎれもない千を超えるダエーワの大群であったのだ。
「なるほど。この日、この時、この場所こそが私の天王山というわけですか。いいでしょう。貴方方が暴力という野蛮をもって我等の地と友を冒そうとするならば――――、」
再度、長刀の刀身に眩いばかりの光が収束する。その生真面目そうな瞳を凛と細めながら、陶南萩乃は小さな声でそっと囁いた。
「次の時代には不要なものとして切り捨てさせてもらいます」