第百五話『大海獣マザン』
ところは都内中央区、某所。
そこは明らかに聖の領域であった。
名は挙げないが、とにかくとある神社仏閣の敷地内である。足元には敷地の隅から隅まで整然と白い石畳が敷き詰められており、思わず背筋を正してしまいそうな独特の厳かさがそこにはある。
少なくとも日本人であるならば、否、人並みに文明的な感性を持っている人間であるならば、とてもこの高踏的空間を穢すような真似は出来まい。
だからこそ今石畳の上で寝そべっているこのひどく冒涜的な存在は、まともな感性など持ち合わせていなければ、そもそも人間ですらない化け物なのだろう。
「アッ……アッ……イッ、イヤァアあああああああああああアアアアアアアアアアッアッッ!! あぁ、ダメ……しゅごい、こんなの、こんなの頭バカになっちゃううぅうううううッ!!」
夜中、厳かな場にて艶やかな叫び声を上げるは、ダエーワの女王にして全殺王アンラ=マンユの妻である大悪魔、業魔王アズその人である。
まるで魂が抜けたかのよう、だらしなく四肢を投げ出し、これ以上ないくらい気持ち良さそうに女悪魔は果てていた。
顔は熟れたトマトのように赤く、瞳は今にも蕩けそうなほどに潤んでいて、口元に至っては溢れる唾液のせいで随分と酷い有様になっている。
「あっはははははァ〜〜♬ すっごい、すごいすごいすごーいッ!! ねえねえ、本当にアレを産んだのってアタシなの? そうよ、だって今もお腹が痛いものッ!! きゃはははははははッ、信じられな〜い、不思議体験〜、達成感スゴくてマジ快感ッ♪」
アズは全身をヒクヒクと痙攣させながら、甲高い嬌声を周囲に轟かす。そうして独り恍惚に浸る女悪魔であるが、やがて彼女はむくりと上半身を起こした。
そして空を見上げた。否、正確には空自体が見えているわけではない。何故なら彼女の視線のその先は、全て巨大極まる肉の山によって埋め尽くされてしまっているのだから。
「かっ、可愛いィイイイイイイイイイッ!! ヤダぁもしかしてウチの子人間の言う天使のニュアンスで悪魔すぎィイッ!? キャハハハッ、スゴイわ流石だわ素敵だわッ!! あなたアタシが今まで産んできたどの子よりも醜くて醜悪でおぞましくて不気味で可愛い最高の赤ちゃんじゃなあいッ!!」
業魔王が有する対応神格は大暗母アズ。
ゾロアスター以前のペルシアで信仰されていたミトラ教において、絶対悪のアンラ=マンユの愛人であり、更にはありとあらゆるダエーワの母であると伝えられし悪魔の女王である。
当時のペルシアの人々、そして彼等が伝えた神話は業魔王という存在を実に正確に捉えていた。
実際史実において彼女は全殺王アンラ=マンユの妻であるし、その神権代行権『血染の赤月』は、異界化させた子宮内で『天骸』をダエーワとして受肉させ、出産の形で創造するというものである。つまり全殺王の従えるダエーワは、全てこの女悪魔がその腹を痛めて産んできた子供であるのだ。
そして、この子こそがその最高傑作であった。
草壁蟻間と運命的な出会いを遂げてからの四ヶ月、アズ=エーゼットはこの怪物を腹の中で愛情込めて育ててきた。
他の子供達が攫ってきてくれる人間共を肉団子にして、それを食べて食べて食べてたくさん食べて身体に精をつけて、そうしてようやくここまで大きくなったこの子をこの世界に産む落としてあげることが出来たのだ。
人間とダエーワとによる絶滅戦争を制するための切り札。単純な脅威力ならばヴェンディナートの七大魔王は愚か、あの全殺王すら上回るやもしれない文字通りの最大戦力。
母である大暗母アズ同様、ミトラ教神話に伝えられしその怪物の名前とは――――――、
「マザンちゃあん、大海獣マザンちゃあああんッ!! こっちこっちお母さんですよ〜あなたのかわいいお顔、よぉくママに見せてくださいなあッ〜〜!!」
大海獣マザン。
偽神アイコーンの放出した光のかけらが、母なる青と混ざることで産まれた海の怪物。
業魔王が愛しの我が子と呼ぶその悪魔は、実に高さ二百五十メートルを誇る山型の肉塊である。
しかし、巨体故に不安定なのだろう。肉塊は何度も水をかけた泥山のように崩れかけては、その度に山の頂上から肉が吹き出て、そうして何とか形を保っている有様であった。
加えて彼は完全に肉塊であるわけではない。泥状の肉の中には時折鱗や骨のようなものが浮かび上がり、浮かび上がったと思ったらすぐに元の肉状となって体内に埋もれていくのである。
「アハハなにそれ気持ち悪〜い。でもでもごめんなさいねぇマザンちゃん、本当はあたしのお腹の中でもっとたくさん育ててからあげたかったんだけどぉ、蟻間くんがもう産めっていうから仕方がなかったんだよぉ〜」
何故マザンの体がこれほどまでに不安定であるのか。単純、それは彼が本来の姿をもって生まれるにはまだ圧倒的に時間と『天骸』が足りなかったからだ。
出来れば完全な受肉を果たしてからの出産が望ましかったが、それでは蟻間くんのいう通り切札の確保にいつまでかかるか分かったものではない。
だからこその早期出産であった。例え形は歪であろうとも、これだけの質量は人類にとって必ずや脅威となろう。
そして幸い、マザンが本来の姿を取り戻すのに足りるだけの『天骸』を確保するアテははじめからあるのだから。
「キャハハハハハハハハハッ!! さあさあお寝坊さん達、みんな出てらっしゃあいッ!!」
業魔王はただ呼びかけただけであった。
ただそれだけで、同地に控えていた千単位のダエーワが一斉に宙に飛び上がる。
山型の巨大な肉塊を囲むように、数多のダエーワが宙を舞い、その足元では飛べない代わりに屈強な肉体を持つ悪魔達が無数に蠢いている。
その様は軍を通り越して最早海であった。
幾万のダエーワにヴェンディナートの七大魔王、そして絶対悪アンラ=マンユに大海獣マザン。これだけの大勢力にひ弱で脆弱な人間風情が対抗出来るはずがない。
きっと、いや必ずこの星はダエーワの手に堕ちる。そうして世界は変革するのだ。彼、草壁蟻間の望む形へと。彼の希求するありとあらゆる悪が許され、許容される新世界がすぐそこまで来ているのだ。
「み〜〜んな、みんなもたくさん下等な人間共ブッ殺しまくりたいよねえ。夫から妻を奪って、親から子を取り上げて殺したりしたいよねぇ。ママも愚かで脆弱な人間共が為すすべもなく、何もかも失って絶望する様がだぁいすきぃ」
頰を艶やかに赤らめながら女悪魔は謳う。
そして、彼女は南の方向をビシリと指差した。悪魔の今いる中央区から南、即ち東京湾の中に浮かぶとある人工島のある方角をである。
「だからそのために先にやるべきことを済ませちゃいましょう。楽しい虐殺の時間を楽しく迎えるために、何より我等が主人たるアンラ=マンユ様の期待に応えるために。さあ行ってらっしゃいあたしの可愛い子供達、さあ行ってらっしゃい大海獣マザン。愚かで低脳で非力で野蛮でクソッタレな人間さんたちにさよならを告げてきてッ!!」
そんな母の檄に応える形で、海にも等しいダエーワの群れは一斉に甲高い鬨の声を上げる。まるで山がひっくり返ったような騒がしさであった。あまりにも多い羽音と足音のせいで、台風と地震が同時に来たような錯覚に襲われるほどであった。
「『叡智の塔』、みんなちゃんと陥落させられるかなあ……」
勇ましく出征していく我が子の姿に、業魔王は僅かながら確かにその大きな瞳を潤ませる。しかし、その直後に彼女は母の顔を捨て一人の女となっていた。
愛しのあの人の姿が脳裏に浮かぶ。
ただそれだけで女は顔を火照らさずにはいられない。
「あぁあ、あたしこれだけ頑張ったんだから蟻間くん褒めてくれるかなぁ? そろそろチューとキューのご褒美くらいくれても良いのに……」
♢
自分がどのような人間かと説明するならば、どこにでもいるようなしがないサラリーマンと答えるしかない。
学生時代は特に目立ったことをしたわけでもなく、大学を卒業した後は普通にそこらの出版社に就職。今の妻とは七年前に結婚し、可愛い盛りの息子は今年で五歳になる。
ありふれた普通の人生だと笑うならば笑うがいい。それでも自分にとっては日々の一日一日が大切で特別であった。
もう三十近いにも関わらず毎日上司にどやされてはいるが、そんな疲れや太れも家で妻と息子の顔を見ればすぐに晴れるというものだ。
時計を見やれば時刻はまだ午後八時頃。締め切り前のせいで休日出勤させられたのは腹が立つが、それでもこの時間に終わってくれたからギリ許す。
子供が起きている時間に帰れるのは何日かぶりだろう。仕事も落ち着いたし、これでしばらくはちゃんと休日を休日として過ごせるはずだ。
次の土日には息子をどこかへ連れて行ってやろう。もちろん妻は連れて行かない。日々の苦労を思えば変に連れ回されるよりも家で一人ゆっくりしたいだろうからね!
足取りは軽く、ともすれば鼻歌すら歌い始めるほどの気軽さで自宅のドアに手をかける。やはり明かりのついた家に帰るというのは良いものである。
「ただいま」
しかし、何故か声が返ってくることはない。
いつも早く帰ったときは、まず初めに息子がドタドタと駆け寄ってきて、そのあと妻が後ろから顔を出すのが常であるのに、それもなかった。
「おい、どうしたんだ。何かあったのか?」
一抹の不安を覚えて、少し大きな声で呼びかける。やはり返事はない。しかし、その代わりにガタガタとリビングの方で物音がした。
もしかして妻と息子で何かサプライズ的なことでもしようとしているのだろうか、そんな呑気なことを考えながら男はリビングのドアを開いた。
「――――――――――――えっ」
そこには大惨事が広がっていた。
何故か部屋の大きな窓は叩き割られており、その上にかかっていたはずのカーテンもズタボロに引き裂かれている。
そこにはコーカソイドの頭から山羊の角、背中から蝙蝠の翼が生えたような化け物が三匹いた。
床は醜悪な血の海と化しており、怪物の口元もまた生肉を食らいでもしたのか不気味なくらいに真っ赤であった。
そして彼等の足元には、ボロ切れと肉塊の入り混じったよく分からないものが二つ転がっていた。
♢
しかして蹂躙が始まった。
それは戦争などとはとても呼べない、ダエーワによる人類種の一方的な虐殺であった。
東京にダエーワが溢れてから今日まで、彼等はあくまで隠密に徹していた。姿を隠し、息を潜め、そうして適性持ちの人間だけを的確に攫い、正面切っての総力戦に発展しないよう戦場をコントロールしてきた。
だが、その枷がついに外れた。
戦力を蓄えた今、最早彼等にゲリラに徹し続ける必要はないのだ。
だからこれより悪魔は、ただただ目に付いた人間を殺すというだけの本能に従う。
男を殺し、女を喰らい、子供を屠り、老人を嬲り、教師を殺め、政治家を食し、警察を食べ、仏教徒を殺害し、無心論者を捕食し、低所得者を撲殺し、富裕層を噛み殺す。
それは街で、職場で、家庭で、学校で、或いは病院で、或いは飲食店で、或いはホテルで、或いは映画館で、或いはスーパーで、或いは教会で、或いは保育園で――――、
人類は終わりだ。
少なくとも今まで通りの平穏が戻ってくることだけはない。
そう諦める者がいた。
ただ逃げることしか出来ない者がいた。
現実を受け入れて絶望する者がいた。
だが、剣を取るものもいた。
中には銃を取るものもいた。
このバッドエンドを覆してやろうと、少しでもマシな結末に塗り替えてやろうと、無駄とも思える抗いをやめられない奴等達がいた。