第百一話『お前が秦漢華だから』
あれは一時的な夕立だったのか。
夕方からいきなり降り出した土砂降りであるが、樋田がずぶ濡れになりながらも、なんとかマンションまで帰ってきた頃にはすっかり止んでくれていた。
それでも少年の心には未だに暗雲が立ち込めたままであった。
結局あのまま秦を行かせてしまった。あの自暴自棄な背中を追いかけることが出来なかった。だが、あそこで秦を追ったところで、何か彼女の気持ちを翻せるようなことを言えたとも思えなかった。
そう、樋田可成は秦漢華を知らない。
彼女は樋田との何かしらの思い出を抱いてくれているようなのに、こちらは忘れているどころか、そもそも記憶が完全に存在しないのだ。
そのことが酷くもどかしかった。彼女と自分にかつて何があったかを思い出すことが出来れば、今秦の心が不安定になっている理由も分かるかもしれないというのに。
――――こっちが忘れている限り、きっとアイツは俺を頼ってはくれねえんだろうな……。
だから、絶対に思い出さなくてはいけない。そして、彼女のことを知らなくてはならない。
記憶を取り戻す方法は未だ分からないが、とにかく動かないことには何も始まらない。樋田は玄関でカードキーを差し込み、四〇〇〇四号室とかいう縁起の悪すぎる自室のドアを開ける。すると、そこには意外にも見慣れた同居人の姿があった。
「おぉ、ようやく帰ってきたか。まぁ、別に待ってはいなかったがな。ほほぉ、その様子だとオマエ見事なまでに降られたのだろう? それにしてもまるで捨てられた子犬の如きずぶ濡れ具合であるなッ!!」
もしや樋田の帰りを待っていたのか、晴は珍しく玄関先に突っ立っていた。いや、正確に言うと出前で頼んだと思わしき寿司桶を抱え、マグロだのウニだのを口に放り込みながら立っていた。ちなみに今食った分で全部綺麗に完食したご様子である。
樋田が抗議の視線でギロリと睨むと、晴は心配するなと一言告げ、続いてオマエの分は事前に取り分けてあるのだとほざきだす。
「……ネタは?」
「フン、そんなにラインナップが気になるかこのいやしんぼめ。ええと、確かイカ、タコ、エビ、赤貝、あとはガリにガリだろ……あぁ、あとはガリとかも残っていたな」
「……いやそれ、テメェが苦手なもん押し付けてるだけだよね?」
晴は今日も普段と変わらない様子であった。それがどことなく腹立たしく、それでいて何故か救われたようにも感じられるから不思議であった。
そこで晴は思い出したようにリビングへと戻り、そしてすぐにタオルを持ってトテトテ帰ってくる。
「これ使え」
「あー、サンキューな」
確か普段自分の声色はこんなものであっただろうか。何か様子がいつもと違うと気取られたりはしないだろうか。
樋田は努めて樋田可成を演じつつ、晴からタオルを受け取り、黙々とびしょ濡れの体を拭き始める。しかしそこで改めて晴の方を見ると――――予想に違わず群青の天使はいつのまにか真剣な表情になっていた。
「何かあったのか?」
「……まあ、少しな」
何事もなかったように取り繕っていたつもりだが、相変わらず勘のいいヤツである。誤魔化しても無駄だろうし、それどころかもっと追求されそうな気がするので、嘘はつかず、最低限のことだけ正直伝えてお茶を濁そうとする。
だからか晴は疑うような目でこちらをジロジロしつつも、やがて諦めたようにハアと溜息をついた。
「……まぁ、いい。とりあえず風呂でも入ってこい」
「あぁ、そうさせてもらうわ」
晴がリビングに引っ込むのを見計らって、風呂場へと向かう。湯船に浸かるほどの気力はなかったので、シャワーだけ浴びてとっとと済ませてしまうことにした。濡れた頭を適当に乾かし、寝巻きに着替えて部屋へと戻る。
そこでは晴が机に頬杖して、どことなく難しい表情を浮かべていた。樋田が席に着くなり、天使は長い睫毛を瞬かせ、一瞬躊躇するような素振りを見せる。それでも彼女は最終的にこう聞いてきた。
「一応最初に聞いておくが、オマエ、ワタシに話す気はあるのか?」
「……」
「あぁはいはい、なるほどなるほど。相談は確かにしたいけど、人に気軽に話せる内容ではないし、そもそも男が幼女にお悩み相談とかダサすぎて躊躇してるってやつか。オーケーオーケー理解した理解した」
「……勝手に人の頭ん中決めつけてんじゃねえよ」
晴の予想は見事なまでに図星だったので、樋田の反論はかなり弱々しいものであった。そして気まずさから段々と猫背になっていく彼を威圧するかのように、晴は机をバンバンと平手で叩き始める。
「全くオマエも水臭い奴よなカセイ。別にオマエの醜態なぞこれまで飽きるほど見てきたし、マイナスポイントが今更一つ二つ増えたところでオマエへの印象はさほど変わらん。だから安心しろカセイ、最低というのはもうこれ以上落ちないからやりたい放題という意味でもあるのだからな」
「……なんもフォローになってねえよ」
「フンッ。口でそれらしい優しい言葉をかけられて、それで救われたような気分になりたいだけなら幾らでもフォローしてやる。だが、オマエが欲しているのはそんなものではないだろう」
ハキハキと、それでいて口調は決して厳しくなく、まるで親が子を諭すような物言いであった。
「全部一人で抱えて、何でもかんでも一人で解決しようとして。それは一見美談のようにも思えるが、実際のところはただの自己満足でしかない。何事も一人よりも二人、二人よりも三人の方が良いに決まっている……と、他人にはこういくらでも殊勝なことをほざけるのに、その理屈を自分に適用するのはなーんか難しいのよなッ!! うむうむ、その気持ちはよく分かるぞ。こう見えてワタシも一応健気系黒髪清楚ヒロインであるからな」
はじめは真面目なことを言おうとし、それでも途中で恥ずかしくなったのか、最後は彼女らしく冗談めかして締める晴であった。
――――……自己満足でしかねえ、か。
確かに言い回しはふざけているが、それでも彼女の言うことは不思議なくらい腑に落ちた。何故なら樋田は晴と出会ってからの二ヶ月で、そんな自己満足に酔ったバカを死ぬほど見てきたから。
簒奪王を倒そうと一人で死地へと赴いた筆坂晴。
隼志紗織を救うのは自分でなくてはならないと自分で自分を追い込んだ松下希子。
人の助けは求めず、自分の問題は自分で解決するという秦漢華。もしかしたら今の樋田可成も同じ枠組みに入るのかもしれない。
彼女達がその後辿った運命を思えば、人間というものはきっと一人で悩んでも大抵はロクなことにならない。むしろ他人にブレーキをかけてもらえないせいで、裏目の泥沼にハマる可能性だって決して少なくはないのだ。
それに本当に秦を助けたいならば、どんな手段を使ってでも彼女を救いたいのならば、信頼出来る仲間の力を借りない手はない。
特に樋田にとって晴とは守るべき弱者ではなく、共に肩を並べて戦う相棒のような存在なのだから。
「ハッ」
何故そんなことに初めから気付けなかったのだろうと、思わず笑いそうになってしまう。
少年は心を決めた。こちらを真っ直ぐに見つめる晴の群青はいつにもまして澄んでいる。だから樋田もそれに負けないくらい真っ直ぐに少女を見つめ返し、
「俺ァ――――」
しかし、その瞬間晴が机に置いていたスマホにピコーンと通知が入った。
それだけならば何も問題はない。クーポン付きのメールが届いただとか、或いはアプリゲームのスタミナが満タンになっただとか、そんな何でもない知らせであるかもしれない。
しかし、今回のそれは違った。彼女は画面に表示された通知をチラリと一瞥し――――直後ギュワリと瞳孔を見開く。
「……嘘だろ」
「オイ、一体どうしたんだよ」
「いいからテレビ付けろ、テレ東以外のチャンネル、どこでもいいから速報出してるところだッ!!」
晴の豹変に戸惑いつつも、樋田は慌ててテレビの電源を付ける。彼女の言う通りにチャンネルを回すと、すぐに何かしらのニュース番組が画面に表示された。
――――はァ……?
最初に少年の目へと飛び込んできたのは、「都内高級住宅街で爆発事件発生」という衝撃的な見出しであった。続いて東京港区という場所を示す表示に、焦燥感と恐怖が一気に跳ね上がる。
それでもその嫌な予想は気のせいなのだと、そう早く安心したくて、樋田は画面上で続く報道に眼と耳をこれでもかと凝らす。
爆発事件というだけあって、本当に大きな家一軒分の敷地が丸ごと灰燼と化していた。
建物の枠組みは見当たらず、地面はクレーター状に痛ましく抉られてしまっている。あれだけの雨があったというのに、まだ至る所で炎が燻っているのだから、それだけ凄まじい火力がここで解き放たれたのだということが分かる。
そして――――――――――、
「なんで、だよッ……!!」
その瞬間、比喩ではなしに心臓が止まったような感覚に襲われた。
シャワーを浴びたばかりだというのに、瞬く間に体の奥から熱がこみ上げ、体中から嫌な汗が次々と噴き出してくる。呼吸はたちまちにそのペースを増し、ともすれば過呼吸にすらなっていたかもしれない。樋田は思わず壁に寄りかかりながら、なんとか荒い呼吸を少しずつ整えていく。
目を背けたところで現実は変わらない。だから、どんなに信じたくなくとも受け入れなければならない。そう覚悟し、少年は震えながら再びテレビの画面を覗いた。
「ここは、もしや……?」
何かを察した晴は一瞬チラリとこちらを見やり、そして樋田の動揺からその予想を確信へと昇華させる。
そう、そこは秦邸であった。
彼女の家自体は丸ごと吹き飛んでしまっているが、周囲の風景を見れば、今日の朝訪れたあの場所と完全に一致する。
一体何があったのだ。時間的に考えれば、事が起きたのは、樋田と別れた秦が一人帰路に着いたあとのことなのだろう。
事故だろうか。不幸にもガス管あたりが爆発でもしてしまったのだろうか。いいや、あり得ない。そんな偶然を思い浮かべるのは、逃げでしかない。
秦漢華の不安定な心、今この東京を覆っているダエーワという脅威。そしてこの状況、このタイミング。ならばやはり、彼女は何者かの襲撃を受けたと考えるのが最も自然な考えなのだろう。
そうして、なんとか心と状況を整理しているうちにも、報道は更に情報を吹き込んでくる。
それは同宅に住むハタノ・クニオミ、ハタノ・イサミ、ハタノ・アヤカ、ハタノ・アキの四人と連絡が取れず、この爆発事件に巻き込まれた可能性が高いことを指摘するものであった。
現場の様子を見るに、事件が起きてからまだ一時間も経っていない。未だ情報は不足しているため、報道はそのうち今分かっている情報を何度も繰り返すだけのものになる。
「――――畜生ッ」
現実は受け止めた。それでもあまりの衝撃に、樋田は力なくその場にへたり込んでしまう。どうすればいい、そんな簡単な問いにひとまずの方針を立てることすらままならない。
疑問は山程ある。
秦は何故襲われた?
いや、彼女は何に襲われた?
彼女を助けるにはどこに行けばいい?
彼女を助けるには何をすればいい?
そもそもまだ助けることは出来るのか?
彼女等は殺されたのか、連れ去られたのか、或いは上手く隙をついて敵から逃げおおせることが出来たのか?
無力感が凄まじかった。秦漢華は今生きているのか、それとも死んでいるのか。それすらも今の樋田には分からないのだから。
「オイ、カセイ――――」
「……そうだ此間交換させられた例のアプリッ!!」
そこでふと思い出す。
確か六日前の六月六日、東京タワーでムンヘラスと殺し合う少し前に、樋田は秦にとあるアプリをインストールさせられた。そして、そのアプリの機能は登録したユーザー同士で互いの位置情報を共有しあえるというものである。
渡りに船、正にこういうときのためにあるようなツールであった。
これがあれば秦の現在地を割り出すことが出来る。そう藁にも縋る思いでアプリを起動する……が、いつまでたっても地図上に秦漢華の座標は表示されない。どうやら彼女の携帯は今電源が切られてしまっているようであった。
「クソ、ふざけやがってッ。これじゃ交換した意味ねえじゃねえかッ……!!」
「オイ、カセイ。お前少しはワタシの話――――」
「テメェは少し黙ってろォッ!!」
何か言いだけな晴を怒鳴って黙らせ、続いて彼は次善の策として松下に電話を掛けようとする。プルルと呼び出し音が鳴った直後、幸い電話の相手はすぐに出た。
「オイ、松下」
『……あぁ、先輩ですか。一体何の用――――』
松下は何故か今にも消え入りそうな声であった。普段からダウナーな性格の彼女だが、それにしても覇気がなさすぎる。
しかし、今樋田の頭の中には秦漢華しかない。だから彼女の異変を気にすることなく、単刀直入に問いかけた。
「お前秦から何か聞いて……いや、そもそもニュース見たかッ!?」
『えっ、秦先輩からは別に何も……あとニュースってそもそも何のニュース――――』
「使えねえッ……!!」
どうやら松下は完全に部外者であるらしい。
これ以上話しても時間の無駄になりそうなので電話を即切りする。
「クソがああアアッ!!」
樋田は癇癪を起こして近くのテレビを蹴飛ばした。
テレビはディスプレイを固定する台ごと壁に叩きつけられ、薄い液晶は見事なまでに粉々になる。引き千切れたコードに至っては、バチバチと残り香のような火花を上げ始める始末であった。
どうする? どうするどうするどうする?
完全に手は尽きた。今秦はどうなっているのか、仮にまだ生きていてくれたとしたら一体どこにいるのか――――それを探るための手掛かりは、もう樋田の思い付く中には何もない。
いや駄目だ、考えろ。きっと何かがあるはずだ。考えることをやめては、きっとそれは秦漢華を諦めることと同じになってしまう。だから考えろ、考えろ考えろ考えろ考えろ――――――、
「ワーターシーの話を聞けええええッ!!」
そこで後頭部に衝撃、正しくは小学生並みの体格から繰り出されるドロップキックをお見舞いされた。
ガタイの良い樋田でも流石にバランスを崩し、近くにあった収納インテリアの角に思い切り額をぶつける。鈍い痛みと共に熱が生じ、まるで打ったところが出血したような錯覚にすら襲われた。
「痛ってえなァクソォッ!! いきなり何しやがるッ!?」
「黙れバカタレッ。直前に手を貸してやると言ったばかりであるというのに、なぁに一人で勝手に盛り上がっているのだ。オマエちょっとテンパると本当すぐそれだなッ!! 」
反射的にキレ散らかす樋田であるが、晴も晴で腰に手を当てながらガチで説教をかましてくる。しかも、その内容が全くもって正論だから、樋田はもう押し黙るしかなかった。
少し、頭に血が上りすぎていたのかもしれない。秦が襲われたという衝撃に、思わず我を忘れてしまった。
口にせずとも樋田が反省したことは察したのか、晴はまた溜息をつき、呆れたように頭をボリボリとかきながら続ける。
「……秦の行方を突き止めたいのだろう。手段ならばないこともない」
思わぬ言葉に樋田はガバリと顔を上げる。
「出来るのか、そんなことが……?」
「出来る、とまでは言い切れん。だが、やってみる価値は充分にある。学園から対ダエーワ戦争への協力を要請されてからの一週間、ワタシ達が一体何をしてきたかオマエは知っているか?」
確か晴のように『顕理鏡』を持っている探知特化の天使は、学園のもとでダエーワが発生するメカニズムを解き明かすための作業に従事していると、松下か秦のどちらからか聞かされたことがある。
しかし具体的にどのようなことをしているかについては何も知らないので、樋田は大人しく首を横に振った。
「五月二十一日、ワタシ達が未だ綾媛学園と敵対していたときのことを覚えているか? あのときワタシは学園に潜む敵を見つけ出すために、『顕理鏡』を応用した探知術式を学園中に張り巡らせただろう」
樋田は小首を傾げる。一体何故そんな昔の話をしだすのだろうと、純粋に疑問に思ったのだ。
しかし、彼はすぐに晴の言いたいことに気付いた。
「お前らまさか……?」
「気付いたか。まあオマエの予想と同じかは分からんが、ワタシ含め『顕理鏡』が使える人類王勢力の天使一同は、この一週間で二十三区のほぼ全域にこの探知術式を設置した」
晴も習得している『顕理鏡』とは、『天骸』の観測・解析・再現を可能とする聖創である。
これを使えばその周囲に残された僅かな『天骸』――――つまりは術式を使った際に生じる残滓のようなものを捉えることが出来るし、なんなら役割を観測に極振りすることで純粋に監視カメラのような役割を演じさせることも出来るのだ。
その『顕理鏡』が事前に二十三区中に設置してあるということは、即ちそういうことになる。
「最近偶にニュースとかで見るだろう? 犯罪者が犯行現場から犯人の自宅まで戻るルートを、街中に仕掛けられた監視カメラの記録映像から追って明らかにする手法だ。街の『顕理鏡』が集めたデータを精査すれば、アレと同じようなことが出来るかもしれない」
目の前を覆う霧が晴れた気分であった。
胸のつっかえが取れたような心持ちであった。
秦邸を襲ったのはまず間違いなく異能者であろう。ならばその周辺には襲撃者が『天骸』を消費した際に生じる残滓が必ず残っている。あとは同じ残滓が残されている場所を順々に辿っていけば、自然襲撃者とそいつに連れ去られた秦の居場所に辿り着くが出来るだろう。
――――本当、お前には頭が上がらねえなッ。
樋田は感謝する。
自分にまだ秦漢華を救うための手段を与えてくれる、筆坂晴に心の底から感謝する。
だが、口には出さない。きっと晴もそんなことは望んでいない。きっと実際に樋田が秦を助け出すことこそが、晴にとっては一番の報いであるということが分かるから。
「……行くぞ、晴」
「あぁ、早急に学園へと移動するぞ。秦との話は道すがらに聞いてやる」
最低限の言葉だけ交わし合い、二人は手早く出発の準備を始める。
上記の作戦は、あくまで秦はまだ殺されていないという前提の上に成り立ったものである。だが、樋田はまだ諦めてなどいない。そうだ、まだ何も悲劇だと決まったわけではない。もう何もかもが手遅れだと決めつけていいはずがないのだ。
もし今秦漢華が悲劇のドン底にあるならば、或いは絶望の袋小路に追い詰められているのならば、必ずやそのバッドエンドを覆してみせる。
あのときちゃんと言うことが出来ていればと後悔する。だからこそ今回ははっきりと宣言する。
樋田可成は秦漢華を助けたい。だから俺はお前を助けるのだと――――。




