第百話『世界教師カガラ』
人間というものは随分と気楽なものだ。
まだ日も沈んだばかりだというのに、眠らない街には既に華やかな夜の雰囲気が生じ始めている。足下に視線を落とせば、そこにはそれこそ人の海ともいうべき雑然とした光景が広がっていた。本日が日曜日ということもあり、全体的に浮かれた調子のものが多い。
彼等は知らない。知らないからこそ、笑っていられるのだ。自分達が住み、或いは普段活動している街の中で、まさか人類の存亡を賭けた絶滅戦争が行われているなどと思い至れるはずがないのだから。
ふぅ、と。
まるで日曜大工中に一休みをいれるような気軽さで、その教師は足下の巨大な物体に腰掛ける。彼が椅子代わりにしているのは身長四メートルを超す巨漢の体躯だ。
パッと見のイメージならば黒衣を纏う修道士にもよく似ているその男の正体は、悪しき思考という意味の名を冠するゾロアスターの魔王――アカ・マナフである。
絶対悪アンラ=マンユが従える幾千のダエーワの中でも、中核というべき立ち位置を占めるヴェンディダード七大魔王の一角。つまりアカ・マナフとは、ヴィレキア=サルテが苦戦に次ぐ苦戦の末にようやく打ち倒す事が出来た、あの虚偽の魔王インドラと同格の大悪魔なのである。
しかし、そんな大魔王は――いや、正しくは大悪魔の亡骸はと言うと、今はとある教師の椅子として尻に敷かれていた。
アカ・マナフはその教育者と会敵し、そしてすぐに殺された。それ以上記すことなど何もない。それほどまでに両者の戦いは、最早戦いとすら呼べない一方的な蹂躙でしかなかったのだ。
「不浄のドゥルジ・ナスと合わせて、これでようやく二柱目か。いやはや、魔王の半分を請け負うと約束したは良いが、どうしても見つけるまでには時間がかかってしまうな」
天界の最高指導層である十三王の一人であり、加えて王でありながら天に対する抑止力として人間界に堕天した四柱が一柱。そして、今はこの国を四分する霊的勢力の一角を首班として担っているその男――人類王が今憂慮しているのは唯一、この広い東京の中から七大魔王を見つけ出すのが存外面倒臭いということだけであった。
魔王を倒すのにどれだけの時間がかかるかとか、或いはどれだけの労力を強いられるかだとか、そんなことは初めから彼の頭には一切ない。それほどまでに人類王とその他の霊的存在の間には、覆しようのない絶対的な力の差が存在する。それこそ人類王が本気になれば、此度のダエーワの一件程度、彼独りで解決出来ると言っても過言ではないほどに。
そのとき王の太腿の辺りで携帯電話が震えた。
教師は発信元を確認もせずに、機器を右耳に当てる。
「もしもし」
『ようやく繋がったか……オイ、お前今どこで何をしている?』
すると、途端にそれなりに歳を召した男の慌ただしい、それでいて攻撃的な声色が耳を突いた。
「君か、何か相談があるなら応えるが」
『……聞いたぞ。川勝と島津が丸ごと溶けたらしいではないか?』
ああ、そのことかと人類王は得心する。
対インドラ戦に全殺王が乱入し、川勝藤資率いる討伐隊がほぼ全滅した――電話の向こうの彼は何らかのツテでその悲劇を知ったのだろう。
「嗚呼、僕もそのことは陶南君から聞いた。本当に、残念な結果だと言わざるを得ないな。前途有望な若人が大志を遂げる前に死ぬ、これ以上に物悲しく痛ましいこともないだろう」
一種の皮肉や、或いは物言いだけで悲しみを装っているのではない。
人類王は実際に心の底から彼等の死を悼んでいるのだ。その言葉に嘘偽りはない。
『……全殺王アンラ=マンユとやらはそんなに強いのか?』
「ああ、彼は強いよ。最低でも卿天使クラスでなければ、そもそも戦力にすらならないだろう。だからこそ君達がどう上手く立ち回るかに、僕は非常に期待している。何も陶南君だけを贔屓しているわけではない。僕としては突出した個ではなく、総体として人類が今回の危機を乗り越える方がより健全だと思っているからね」
しかし、その口調は完全に他人事。
されど、人類王は別に全殺王と彼が率いるダエーワ軍団の危険性を見誤っているわけではない。むしろ実際に前線で刃を交えている人間よりも正確に認識しているとさえ言える。
それでも人類王は決して盤上に自らを駒として配することはない。それどころか盤上の駒を操るプレイヤーの立ち位置にすら立とうとしないのだ。
そんな人類王の煮えきれない姿勢に、電話の向こうの相手は我慢を抑えられないと言わんばかりに怒りを募らせる。
『……お前はこの戦いの重要性を本当に理解しているのか。確かにお前が経験した古代の大戦と比べれば、余程生温い小競り合いに見えるのかもしれん。だがここで我等が敗れれば一気に全殺王の勢力は膨張する。悪魔の軍勢がこの国を、いやこの世界を呑み込むまでにそう長い時間はかからんだろう……誇張でもなんでもなく、今は人類存亡の危機なのだぞ』
そして男は低く、くぐもった声で最後の念を押した。
『とっととアンラ=マンユとアズ=エーゼットを始末しろ。まさかお前程の実力があって出来ないわけがあるまい』
しかし、人類王の反応は実に淡白なものであった。電話の向こうの相手には聞こえなかったかもしれないが、ハアと失望したような溜息すらつく始末であった。
「君は若い頃から、それこそ箸の使い方もままらない頃からずっと頭が硬いな。陶南君は君と似たようなことを言いつつも最終的には納得してくれたというのに」
『俺はお前と問答をしに来たのではないッ……!! 所詮ダエーワのほとんどはろくに知能も持たない獣の類だ。首脳部さえ落として仕舞えば、それだけで現在の危機的状況を迅速に鎮めることが出来る』
「僕は結果よりも過程を重視する。子供が難しいと匙を投げた宿題を、親が代わりにやってしまってはその子のためにならないだろう。僕は君達人類を導きこそすれ協力はしない。協力はいずれ保護となり、保護もまた気付かぬうちに支配へと移り変わってしまうものだからね。君たちの歴史を少し振り返ってみれば一目瞭然だろう」
電話の向こうからは悔しそうな歯ぎしりの音が微かに聞こえてくる。しかし、そこで人類王は「まあ」と妥協するような声を漏らすと、
「確かに現状はいささかダエーワ側に傾き過ぎてるきらいがあるからね。だからこそ今は特別に僕自身が出張って、君の言う人類の危機とやらの難易度調整をしている。それに人類滅亡までは流石に心配しなくても良い。僕にも親心はあるからね。君達人類が破滅から一度立ち上がることが出来るか、或いはそのまま歴史の渦に呑まれて滅び去ってしまうか――――その瀬戸際まできたら僕も流石に力を貸そう。ただし、それまでは君たちだけの力で足掻いて見せて欲しい」
最早いくら言葉を費やしても無駄と悟ったのか、電話の向こうの相手は押し黙ったままである。それでも、彼は最後の最後にこう吐き捨てた。
「カガラ……お前人類を見殺しにする気か?」
「心外だな。僕がこの程度の幻滅で人類を見捨てるようなら、君のご先祖様が青銅片手に人を殺している時代に、もうこの世界は一度リセットさせてもらっていたさ。これでも僕は君達の勝利を、そしてその後の躍進を心の底から願っているんだ。科学技術の発展だとか、政治制度の成熟だとか、そんな表層的なものではない、もっと根本的な部分のね」
そこで教師改め、人類王カガラは一方的に通話を打ち切った。それでも向こうは諦めずに電話をかけてきたので、携帯の電源を切ってポケットにしまう。
そして彼は六月十二日という本日の日付、滞りなく繰り返されるカレンダーに満足気な、それでいてどこか得意気な笑みを浮かべた。
「今日は今日で、明日は明日だ。何も変わりはしない。心配しなくともこの夜が明ける頃には全ての決着がつく。初めから、そのように決まっている」