第九十八話『踏み込んでしまったから』
「……間違いねえな。予想通り、やっぱ東だ」
「了解。じゃあ、もう駆除しちゃうわよ」
「あぁ、頼む」
樋田の生返事に秦がパチンと指を弾く。
すると空を東に飛んでいく三匹のダエーワ達が、その半径五メートルの空間ごとまとめて爆破された。
この東京のなかでも特にダエーワの発生件数が多い中央区、その中のとある高層ビルの屋上に今二人はいる。
諸々の事件に巻き込まれてしまったせいで随分と遠回りになってしまったが、ようやく本来の目的地へとやって来ることが出来たのだ。
この中央区が他の地区といくらか状況が異なることには必ず理由がある。
それを解き明かすことが出来れば、全殺王アンラ=マンユの動向、或いは王が率いるダエーワ軍団の発生源への手掛かりへと繋がるかもしれない。そう信じての遠征調査であった。
「あれ、今なんか落ちたぞ」
樋田は格安の双眼鏡を覗き込みながら言う。
秦の起こした爆炎の中から飛び出すようにして、いくつか小さな破片のようなものが下へ落ちていったのだ。
「えぇ、嘘……粉々微塵にしたと思ったのだけど」
「なってねえもんはなってねえんだよ。ホラ、一応回収しに行くぞ」
秦はハアと溜息と共に天使化すると、隻翼を羽ばたかせて落下物の下へと直行する。
勿論樋田にそんなことは出来ないで、大人しくエレベーターで地上へと向かうのであった。
――――本当、まるで何もなかったみてえな顔しやがって……。
他に誰もいないこともあり、どうしても思考の矛先はそちらを向く。
それは陶南との話を終え、秦と再び合流したときのことだ。直前まで彼女はあれほど動揺していたにも関わらず、数分ぶりに見る秦漢華は、すっかりいつも通りの秦漢華へと戻っていた。
いや、少し違う。
樋田が開口一番に調子を問えば、彼女は不自然に明るい声で「大丈夫、もう元気になったから」など返した。
どう見てもその目は笑っていないのに、そのくせ口元には下手くそな愛想笑いなどを浮かべてくるものだから、樋田は人知れず拳を握りしめてしまった。
そんな彼女に、樋田は未だ何か気の利いたことの一つも言うことも出来ていない。
そうか、とただ一言。当たり障りのない言葉を吐いて、こちらがまるで何事もなかったかのように振る舞えば、秦漢華もこれ幸いと台本じみた反応を返してきた。
そんなよそよそしいやり取りが気持ち悪くて、でも彼女の抱えているものに土足で踏み入るほどの図々しさは持てなくて――――そう、自分は無意味な繰り言をもう何度繰り返しているのだろう。
「樋田くん遅い」
「無茶言うなよ、これでも走って来たんだぞ」
考えがまとまらないうちに着いてしまった。
肩で息をしながらようやく目的地に到着すると、秦漢華はしれっと涼しい顔でそこに立っていた。
「で、やっぱなんか落ちてたか?」
「ええと、コレと、あとコレね」
そう言って秦はいきなり何か小さい二つのものを投げつけてきた。樋田はそれを難なくキャッチするが、
「いきなり投げんなよ……って、だっちッ!!」
オランダ人ではない。単にその何かが滅茶苦茶熱かったのだ。考えてみれば直前に秦の爆撃術式で炙られているのだから当然である。
レンジでしたあとの冷凍ご飯みたいに、何度かお手玉をして冷めるのを待つ。そして、樋田は改めてそれらの小破片に目を凝らす。
「何かはわからねえが見た感じ銅だなこりゃ。こっちは……なんだ、ただの炭?」
「漆塗りよ。多少燃えちゃってるから、ちょっと分かり辛いけどね」
言われてみれば確かにそういう風にも見える。
だが、これはそもそも何の欠片なのだ。基本全裸なダエーワが何か物を持ってでもいたのだろうか?
何故という視線を秦に送るが、彼女もこっちに振るなと言わんばかりに首を振る。
「……私に聞かれても分からないわよ。まぁ、何か手掛かりになるかもしれないから、一応陶南あたりに渡しておくけども」
秦はそう言って、再び樋田から二つの欠片を回収する。そして今度は入れ替わりにスマートフォンをポケットの中から取り出した。そのクールビューティは相変わらずであるが、僅かながら心地よい疲労感を伴う達成感が見て取れるのは恐らく気のせいではない。
「もうこれ以上調べる必要はないわね。多分私達の考えで当たりよ」
秦はスマホを操作して、今二人がいる中央区の地図を引っ張り出す。その上には既に赤と青の複数の線が放射状に書き込まれていた。赤は中央区の外からその中心に向けて矢印が引かれ、逆に青は中心から外に向けて矢印が記されている。
秦は画像編集アプリを立ち上げ、そこへ更に一本赤線を加えた。これまでと同様の法則に従った、中央区の外から中へと進む方角の矢印を刻む。
――――まさか、ここまでピタッとはまるとはな……。
何を隠そう。
二人はこの数時間、一見無秩序に見えるダエーワの動きに法則性を見つけ出そうとしていたのだ。
中央区におけるダエーワ発生数は他の地区と比べると格段に多い。だが、それは何故か? 秦漢華が指摘したのは大きく分けて二つの可能性であった。
一つは全殺王の目的の中で、この地が重要な役割を担っており、そのためにダエーワの兵力を集中されているという予想。
そしてもう一つは、単純にこの辺りが皆の探し求めているダエーワの発生源そのものだからという推測だ。
その二択を絞るため、二人は中央区と他区の境に陣取り、区の外へ向かうダエーワと、外から内側に入ってくるダエーワのどちらが多いかをカウントし続けた。
前者の数が多ければ当然この地がダエーワの発生源ということになるし、後者が多ければそれはそれで発生源は別にあり、更にはこの一帯も他に重要な意味合いを持っているであろうことを予想することが出来る。
そして秦の持つスマートフォン、その地図に刻まれた赤線青線の比率が答えを示していた。
「赤線十二本、青線十一本……って、ほぼ同じじゃねえか。どういうことだよ」
「……今から説明してあげるからちょっと待ってちょうだい」
秦は頭痛でもするように頭に手をやりながら黙考する。
馬鹿でも分かるように説明しなきゃという、孔子や仏陀みたいなことをさせてしまっていた。特別悪いことしたわけではないのに何故かすごい申し訳ない気分になる。
やがて彼女はおもむろに口を開く。
「比率が同じってことは、どっちも正解ってことよ」
「つまりダエーワの発生源であり、何かしらの目的をなすための重要ポイントでもあるってことか?」
「そういうこと。ただし厳密に言うと、多分この中央区で発生したダエーワは外の地区に散らばったあと、最終的にここへと戻ってくるんだと思う」
確かにこの地図に記されたダエーワの動きを見る限りでは、それが一番もっともらしいだろう。
「ホワイダニット、一体何のために?」
「最近覚えた言葉を嬉しそうに使うのやめなさい。まあ単純に思い付くのは、奴等が人間を狩って集めた『天骸』を集積するため……ってところだけど、それではちょっと馬鹿みたいなのよね」
言いながら秦は画面上の赤線と青線をグルグル円を描くようになぞって見せると、
「こうやってスタートとゴールを同じ場所にすれば、いずれ私達のようにダエーワの動きからこの地点に目をつける輩が出て来る。向こうに多少は物事を考えられるだけの知能があれば、スタートとゴールの場所はバラすのが常考だと思うのだけど……」
「なら可能性は、スタートとゴールをバラしたくてもバラせない理由がある――ってあたりか」
常考とかうっかり零したのはスルーしつつ答える。
「恐らくはそうでしょう。まあ、どちらにしても今日はもう確かめようがないのだけど」
そう言って秦は空をチラと見る。
既に低い空は赤く、高い空は黒い、夕方と夜との狭間である独特の色合いが広がっている。
ちなみにダエーワや『天骸』の動きを探るための『顕理鏡』は既に使い切った。
それに辺りが暗くなれば秦の座標指定爆撃も途端に機能させるのが難しくなる。活動は出来ても、あまりにその効率が悪い。色々と口惜しさはあるが、今日の止めどころはこの辺りにするのがいいだろう。
帰ろうと、態々口に出さなくても意思は伝わって、二人の足は自然と二輪車を止めた方角へと向かう。
樋田が前で、秦が後ろ。偶に背後を振り返れば、ちゃんと着いてきているよと言わんばかりに、彼女は目を細めて曖昧な笑みを浮かべる。
――――今笑う要素ねえだろうが。
気持ちが悪い。だが、この当たり障りのない距離感が心地良くもある。
そして、最後に思った。果たして自分達はこのままでいいのかと――――、
秦の精神状態が不安定にあることは綾媛学園での一件から、いや正直に言えばはじめて彼女と顔を合わせたときから気付いていた。
その理由はこれまでずっと分からないままであったが、今日一つ確信した。
彼女は昼間、草壁蟻間に対し異常なまでの動揺を示した。確かに向こうは大罪を犯した死刑囚。樋田も樋田で驚きはしたが、ただそれだけであれほど驚くとは考え辛い。
秦と草壁蟻間の間にはきっと何かがある。
恐らくはそれこそが彼女の精神を不安定たらしめている最も大きな原因なのだろう。
関係者があの最低最悪な死刑囚である以上、それはとんでもなくクソッタレで、どうしようもないほどに胸糞が悪い事柄であるに違いない。
――――でも、このまま黙ってんのが間違ってるっつーことだけは分かる。
ずっと、彼女と向き合うことを後回しにしてきた。
いずれ話してくれるのを待とうだとか、今はそのタイミングではないだとか、他人の繊細な領域に土足で踏み入っていいはずがないだとか――――それらしい言い訳を吐いて、まるで臭いものに蓋でもするように目を背けて。
だが、それは結局全て樋田自身の都合だ。言ってしまえばそこらの権力者の自己保身のようなものである。
踏み込めないのも、寄り添おうとすることすら出来ないのも、全ては今の彼女との心地良い距離感を壊したくないからという浅ましい欲望の発露に過ぎない。
――――それが本当にコイツのためになるのか……?
少年は逡巡する。熟考し、検討し、苦悶する。
そして最後には自分の気持ちに素直になることにした。
仮にこれから樋田が秦の事情に首を突っ込み、そのせいで彼女が再び過酷な現実と直面することになろうとも、或いはそれで彼女が自分の元から去っていってしまうような事態になったとしても――――きっと今の薄気味悪い偽りの姿を演じさせ続けるよりかは余程良い。
傲慢かもしれない。自分勝手かもしれない。だが、口を出す以上は必ず責任をとる。秦漢華が試練に立ち向かうと言うならば、その間樋田可成が必ず傍らに在り続ける。それが男として、いや樋田可成として唯一彼女にしてあげられることだから。
やらずに後悔するよりかは、やって後悔した方が良いに決まっている。ここで見て見ぬふりをすれば、きっと自分は晴と出会う前の樋田可成に退化してしまうだろう。
そうして、遂に少年は少女と向き合う覚悟を決めた。
「……草壁蟻間と、昔何かあったのか?」
直球、秦漢華はハッとした様子で振り返る。
まるで信じられないものでも見たような表情。しかし、彼女はまるで何かを隠すかのように、慌てて口元を手で覆った。
「……何が言いたいのかよく分からない。どこから出たのよ、その発想」
予想通り秦はこちらを煙に巻こうとする。だが、ダメだ。ここで引き下がったら、今樋田が決めた覚悟もこれまでの無意味なポーズと何も変わらなくなってしまう。
「嘘や誤魔化しはもういい。それで隠してるつもりか? こっちはとっくのとうに分かってんだよ」
距離を詰めて、目を合わせる。それどころか前方の壁と自らの体で秦を挟む。まるでどこにも逃さないとでも言わんばかりに。それでも彼女はなお強情であった。
「いやいや、訳分かんないから。何いきなり一人で盛り上がってんのよ気持ち悪い……」
「とぼけんじゃねえッ!!」
反射的に大きな声が出る。
しかし、直後にしまったと思う。悪い癖だ、本当に悪い癖である。だから彼は深く息を吸い直し、努めて柔らかい口調で問い直す。
「お前、どう見てもまともじゃねえじゃねえか」
「……」
「……テメェの視界の端でウジウジされてっと鬱陶しくてしょうがねえんだよ。とっとと話しやがれ。俺に出来ることなら力を貸してやらねえでもねえ」
それでも、ついいつもの癖でぶっきらぼうな言い回しになってしまう。されど、秦にちゃんとその言葉は伝わったようであった。
彼女はは一瞬喜色の笑みを浮かべ、しかしすぐその喜びを振り払うように枯れていった。
「なんで」
「はあ?」
「なんで、今更になってそんなこと言うのかしら……」
その声色はどこか危険な諦念をはらんでいた。
なんだか嫌な予感がして、樋田は慌てて言葉を紡ごうとする。
「今からでも遅くなんか――――」
「心配してくれてありがとう」
しかし、出かかったセリフは封殺された。
彼女は礼儀正しく、まるで今日初めて樋田と出会ったような調子で頭を下げる。
どうやら、迷惑がられているわけではないようだ。ならばここで踏み込め、そう樋田は一瞬楽観し、
「じゃあ――――」
「でも、なんでアンタに話さなくちゃいけないのかしら……?」
思わぬ返事に言葉を失う。てっきり話してくれるものと思っていただけに、少女の言うことを上手く頭で処理することも出来なかった。
「認めるわ。最近の、いえアンタと初めて会ってから私がずっとおかしいってことは。流石にそれぐらいの自覚はある」
「だったら」
「でも、アンタには話さない。力も借りない」
その決意を頭に刷り込んでやろうと、彼女は重ねて言った。
やけに通る声が何度も頭の中で反響する。その毅然とした態度に、樋田は自分でも知らず知らずのうちにたじろいでいた。
「俺じゃ役不足だって言いてえのか……?」
「そうは言ってないわ。でも、だっておかしいじゃない。そもそも私と樋田くんって別に何でもないのよ。友人ですらない、盛ったところで精々顔見知り。こうやってまともに顔合せてまともに話すのだって……まだたかが三回ぐらいなのよ」
「だからなんだだつーんだよ。関係ねえだろ、たかが付き合いの長さくらいッ……!!」
「あるわよ」
即答であった。
あまりにもハッキリと告げられたものだから、樋田は咄嗟に繋ぎの戯言を言い返すことすら出来なかった。
「……だって、アンタは私のこと何も知らないじゃない」
そのとき、樋田ははじめて彼女の本音を聞いたような気がした。
それは今にも泣き出しそうなほどに物悲しく、それでいてどこかこちらを突き放すような鋭い物言い。そして、自分でもそのことは気にしていただけに、樋田の薄っぺらい覚悟には確かなヒビが入ってしまう。
そうだ、樋田可成は秦漢華を知らない。
自分が彼女と過去何かしらの関係を有していたことは、これまでの彼女の言動からなんとなく推測出来ている。
だというのに、全く以って身に覚えがない。あまり覚えていないのではなく、完全に記憶がないのだ。
そんな大事なことを、少なくとも彼女にとっては大事だったことを、罪悪感無く忘れて、これまでのうのうと馬鹿みたいに生きてきた自分に、どうしようもないほどの怒りを覚える。
ポツリとつむじが水滴を感じた。
朝のニュースでは天気が崩れるだなんて一言も言っていなかった癖に、気付けば雨がザーザーと激しく降り始める始末であった。
濡れる、どうしようもなく濡れるというのに、胸の中に湧いた熱いものは少しも冷めてはくれない。喧しい雨の音に負けじと、更に秦漢華の声は大きくなっていく。
「相手は顔と名前以外なんにも知らない女だっていうのに、そこまで肩入れする理由が分からない……それともなに、アンタのこれってもしかしてお人好しの皮を被った新手のナンパだったりするのかしら?」
「……チッ、っだらねえことほざいてんじゃねえぞ」
反射的に悪態をつき、しかし次が続かない。
完全に図星をつかれた。自分の持っていた違和感が、ある意味での彼女に対する罪悪感を見事に指摘された。
確かに樋田は秦漢華の力になりたいと思っている。だが、樋田自身何故そこまで自分が彼女に構おうとしてしまうのか、その理由を上手く説明することは出来なかった。その感情が一体どのような思い出から起因するものであるのか、彼は思い出すことが出来なかったから。
途端に、覚悟が揺らぐ。そんなものが必要なはずはないのに、まるで樋田可成に秦漢華を救う資格は無いとでもいうような、そんな馬鹿げた一種の逃げとも言うべき戸惑いが胸中より涌き出でる。
「……人を助けようと思うのに理由なんていらねえだろ」
だから、使い古された一般論を吐く。
しかし、それは過ちだった。顔を上げれば秦はどこか残念そうな、それでいてどこか吹っ切れたような笑みを浮かべていた。
そして、少女は唐突にツンと樋田の額を優しく人差し指で突く。
「残念、不合格。ここは嘘でもお前が秦漢華だから助けたいとでも言うべきだったわね。おバカさん」
雨で濡れた長い前髪が、少女の表情を覆い尽くす。先程の悪戯っぽい振る舞いは何処へやら、少女は今にも崩れ落ちそうなほどに沈殿する。
「……ごめん、なさいね。自分勝手な女で。本当に最低で、本当に面倒臭い」
少女は濡れた前髪をかき分ける。そしてこれが最後とでも言わんばかりに、不恰好に強がってみせた。
「でも、自分で起こしたことのケリはちゃんと自分でつけてみせる。これ以上アンタに頼ったら――――いや、ここでまたアンタに頼ったりしたら、私はもう本当にダメになってしまうから」
言葉を失う。
最早何を言っても無駄と言わんばかりに、次の言葉を封じられた。
頭の中ではいくらでもそれらしい小賢しい文句が出てくるというのに、それらを口に出すのは少女に対する酷い侮辱になるような気がする。彼女の強い決意に呑まれて、樋田は馬鹿みたいに口をワナワナ震わせることしかできない。
「……だから、もう終わりにしましょう。こういうのも」
「こういうの……?」
「こうやって二人で行動すること。別に調査なんて『顕理鏡』持ちと護衛の火力係が一人ずついればいいんだから、別に私とアンタである必要はないもの」
消えていく。
樋田可成と秦漢華との繋がりが、消えていく。
初めからあってないようなものだったのだ。
それでも怪我をしたのが心配だからとか、仕事のために仕方なくだとか、そんな彼女と関わるための言い訳みたいな矮小な理由すら尽く消えていく。
縁の消失。自分と少女を繋ぐ、数本の細い糸がまとめて千切れるようなイメージが浮かんだ。
樋田は、まだ決められない。
だから、事前に全てを決めていた秦が、自分のペースを別れを進め、演出してしまう。
「……それじゃあ、さようなら。願わくばまたいつか、その怖い顔を見せに来て頂戴」
少女は囁くように言う。雨が降っているせいで、その瞳が何で濡れているのかは分からない。
やがて彼女はクルリと踵を返す。未練がましい思いも、子供じみた甘えも、その全てを振り払うように、今にも壊れそうなほどに危うく毅然と。
「待てよッ……!!」
ハッと我に返る。
果たしてここで彼女と別れていいのだろうか。その背中を追わなくていいのだろうか。
根拠なんてない。確証もない。それでもここで秦漢華と離れたら、もう二度と彼女とは会えないような錯覚に陥る。
それでも、結局何も出来なかった。
足で進んだのはせいぜい二、三歩、加えてただ手だけを前に伸ばして、そうやって追いかけようとしたというポーズだけはとって、最後にはその手すらも引っ込めてしまう。
覚悟を決めた少女の足取りは速かった。
まるで樋田を置き去りにするようにどんどん遠くへ行ってしまう。その距離が、それだけ彼女と心の距離が離れたことの証のようですらあった。
雨が降っていて、空が暗くて、そんななか彼女の姿を見失うのがどうしようもなく嫌で、ずっと未練がましく目を凝らし続けて――――やがて、秦漢華は樋田可成の世界から消えた。