第九十七話『小さな体に大きな罪』
樋田先輩と秦先輩はもう帰ったのだろうか。
彼等が来ると聞いてから随分と時の流れが遅くなったような気がする。出来れば早く、いや一秒でも早くいなくなって欲しい。
だってあの人達が近くにいると思うと、今にもこの場を立ち上がってしまいそうになるから。悲劇のヒロイン面で彼等の前に顔を出して、その優しさにすがって、そうやって罪深い自分を甘やかしそうになってしまうから。
どんより雲がかった頭の中で、ぼんやりとそんなことを思い浮かべる。
品川埠頭に広がる倉庫群。先程まで陶南達が話していた場所とほど近い一角で、松下希子は膝を抱え込んで座っていた。いや、座るというよりかは座り込んでいた。元々ダウナーな顔はいつにもまして覇気がない。寒いわけでもないのに唇は青く、この数時間で二、三歳歳をとったような気がする。力無くうなだれるその姿はまるで屍体のようですらあった。
「……樋田さん達と会わなくて良かったのですか?」
そんなときであった。
突然建造物の陰から、背の高い黒髪の女がニュッと顔を出す――――陶南萩乃。松下は自暴自棄的にフンと鼻で笑い、その濁りきった虚ろな瞳で彼女を不愉快そうに睨みつけた。
「……会えるわけねえじゃねえですか。何ですか、もしかしてあの二人に慰めてもらえとでも言いたいんですか? ありえねえですよ、松下にそんな資格はねえんです。てか仮に隠したところで、あの二人ならすぐバレそうですしね」
「はあ、そうですか」
陶南は何の感動も込めずに言う。
果たして彼女は本当に心の底からどうでもいいと思っているのか、或いはそのような話し方しか出来ないのか、そのどちらが正しいかは分からない。
――――なんなんですかッ、そのまるでなんとも思っていないような反応はッ……!?
だが、そんな陶南だからこそ松下は胸中を吐露出来たのかも知らない。壁に向かって愚痴を独り言つのと同じだ。例え親しい者には話せなくとも、どうでもいい輩にだからこそ気兼ねなく吐ける言葉というものもある。
「陶南先輩」
「なんですか」
「私を殺してください」
「嫌です」
予想通りの即答に舌打ちをする。
この感情が完全なる八つ当たりだと言うのは分かっている。それでも彼女は衝動的にそうならざるをえなかった。
「クソッタレ、何で私を責めないんですかッ!?」
ヒステリックな怒鳴り声と共に、陶南萩乃の胸倉に摑みかかろうとする。しかし、背が足りなかったので仕方なしに腹の辺りの服を掴む。
今の自分の顔が意地悪く歪んでいることに、果たして松下自身は気付いているのだろうか。
「アンタの顔見知り含めて、あんだけ多くの人間が殺されたっていうのに私は……私なんかが一人だけ生き残ったんですよ? 他の人達がこれから先どうなるか理解しておいて、それでも私はあの戦場から逃げ出したんですッ!! そんなクソ女を前にして何で貴方は目くじらの一つも立てねえんですか? 何ですか、バカにしてんですか、哀れんで同情してるつもりなんですか? ふざけんじゃねえ、ムカつくならムカつくとそう言え。殺したいなら殺したいとはっきり正直にそう言えばいいじゃねえですかッ!!」
あぁ、なんと醜い。今喋っているのは自分なのに、まるでこのやり取りを外からもう一人の自分が見ているかのように、ひどく自分自身が醜く思えて仕方がない。
大きな声を出して、殊更に怒った風に振舞って。そうして感情をむき出しにする松下に対し、しかし陶南萩乃はどこまでも冷静であった。彼女は自らに摑みかかる、松下の手を逆に優しく取ると、
「いえ、確かに皆さんが亡くなったのは残念ですが、貴方が生き残ってくれたのは私にとってもとても嬉しいことです。ありがとうございます。本当に、生きてて良かった」
そう聖母のように囁いて、ともすれば松下のことを抱きしめようとすらしてくる。当然松下は弾かれたように反発した。
「なんなんですか、なんで怒らないんですかッ!? 訳が分かりません。今ここには私とあなたしかいねえのに、そんな聖人みてえなポーズをとる必要はどこにもねえでしょうッ!!」
「……怒る、ですか? 私に、あなたへ怒りの感情をぶつけろと……? いえ、何故人の命が助かったというのに怒らなくてはいけないのでしょうか?」
心の底から本気で困惑したように第二位は言う。しかし、そこで彼女はハッと何かに気付いたような顔をすると、
「理解しました。もしや松下さんは私に責めてほしいのでしょうか? 貴方が今抱えている犠牲者への罪悪感を解消するために」
「――――――ッ!?」
まさかの図星に喉の奥から変な声が出る。そしてすぐに松下は血が出るほどの力で両の歯を食い縛る。
そうだ。今回の作戦に駆り出された人類王勢力の中には、当然松下が学園から連れてきた百羽の隻翼も含まれている。そして彼女達の素性は――――松下の密告によって強制的に天使にされた同級生であるのだ。
かつての松下は学園にひたすら媚びることで、紗織とその周りの世界を守ろうと、『天骸』への適性を持つ学生の存在を逐一学園上層部に報告していた過去がある。
そのときから隻翼にされた少女達が、その後どのような運命に巻き込まれるかは理解していた。分かっていながら、それでも松下は紗織の存在を免罪符にして、自らの犯す罪から目を逸らし続けてきたのだ。
だが最早現実逃避は出来ない。知らない分からないなどという言い訳は通じない。
実際に松下の目の前で彼女達は死んだ、殺された。松下が余計なことをしなければ、彼女は今も普通の学生としての生活を過ごせていたかもしれないというのに――――、
ならば、彼女達は実質松下が殺したようなものではないか。
その事実を改めて受け止め、小さな体を小刻みに震わせる松下に、陶南萩乃はなお続ける。
「……これは私の単なる予想なのですが、もしや殺してくださいというのも実は方便なのではないでしょうか? あれだけ隼志紗織のこれからを心配していた貴方が、いくら罪悪感を抱いているとはいえ自ら死を選ぶとは思えません。つまり貴方は私に自分を殺せと言うことで、自分は後悔と反省をしているのだという姿勢を示そうとしたのでしょうか? 間違っているようでしたら謝罪しますが……」
「うるせえええッ!! そうですよアンタの言う通りですよッ!! でも、だからってどうすりゃいいってんですかッ!? 私がこれから何をしたところで、一度起きたことはもう変わらない。死んだ人達はもう生き返らないんですからッ!!」
松下は半ば悲鳴じみた勢いで叫ぶ。
こんな罪、最早死ぬことでしか償えない。いや自分なんかが死んだぐらいで償えると思うことがそもそも傲慢なのだろうか。それでも、死ぬことは出来ない。死にたくはない。幼い頃に家族を失った隼志紗織の隣に、自分だけは彼女の最期までいてあげたいと思うから。
それでもその罪は容赦なく少女の未熟な精神をどうしようもなく圧迫する。どうしてこんなことになってしまったのだろう、そんな最早無意味な問答をもう何度繰り返しているだろうか。
「大丈夫ですよ」
俯いていると場違いな朗らかな声が降り注いできた。それは啓示か、あるいは福音か。思わずそんなことを思ってしまうほどに優しい声であった。
顔を上げる。そこにいたのはやはり陶南萩乃だ。しかし、笑っている。例え人が生きようが死のうが、一貫して無表情を貫いている彼女が笑っていた。そんな初めて見る少女の顔に、松下希子は思わず呆気にとられてしまう。
「例えその手を罪を汚した過去があろうとも、我等が主は差別なく貴方のことを迎え入れます。貴方はもう充分に己を責め、自らの行いを悔いているではありませんか。そんな貴方をなおのこと責め、寄ってたかって迫害するような法は我々の内にはありません。憎しみや怨嗟は何も生まないということを、我等が主は他の誰よりも理解しておられるのですから」
しかし、やはりまた例の病気であった。罪を憎み、人を恨まず、例え自らを暴力で害そうとする相手とも、対話による調和を試みようとする病的なまでの博愛主義者。
彼女の語る主とやらがなんであるかは百羽の五位である松下も分からない。何者なのかと問うても、それに答えるのは意味がないと言われた。主はその人間一人一人によって、最も適した姿で最も適した教えを下す。だから他人に主の正体を聞いたところで、それはその者にとっての主であるから、自らの主を見出すことは出来ないのだという。
何度聞いても馬鹿げた話だ。ありとあらゆる神話伝承が天使に由来するものだと分かりきっているこの世界に、主や神などが存在するはずもない。そんな世迷言で、こちらの気持ちを分かったような物言いをする陶南に、松下は怒りを通り越して呆れを覚える始末であった。
「アホくさ……」
「松下さん。やはり、貴方はこのような立場に立っても主に心を預けてはくださらないのですね。ならば、主に代わりまして私が貴方に導きを――いえ、傲慢でした。ですので精々参考程度の助言を」
思わず耳をそばだてる。神の言葉とやらに興味はないが、この訳の分からない女の考えにはいささか興味がある。もしかしたらそれが、今の鬱屈した自分に対する答えになるかもしれない。そんな可能性が高いとは思わないけれど、それでも藁にでもすがるような思いであったのだ。
陶南はごほんと咳払いをする。そしてこれまでどおりの平坦な口調で淡々と告げた。
「私は人の心がよく分からないので気の利いたことは言えません。ですが、貴方が罪を償うには――――正しくは貴方が自分で自分を許すには、やはり貴方の思う贖罪になり得る行いを着実にこなしていくしかないのではないでしょうか? 色々と考えを突き詰めれば、結局そのような結論になると私は思います」
正論であった。しかし、嫌味はない。人としての感情が薄く、余計な私情を交えない陶南萩乃が告げたからこそ、その言葉はすんなり松下の心に入ったのかもしれない。
それでもそんな単純なことではないのだ。少女は再びうつむき、犬歯で下唇を噛みしめる。ヴィレキアの虹弓で真っ青に晴れた空は、いつのまにか再び灰色がかっていた。