第九十二話 『草壁蟻間』
随分と静かなものであった。
ほんの十分前まで、人と悪魔とによる殺し合いが行われていたとは思えないほどに静謐。最早耳に届く音など、精々パチパチと虚しい戦場の残り火と、ダエーワ共が屍肉を貪る咀嚼音ぐらいのものだ。
「初戦としての戦果は上々か」
戦争は終わった。正しくは殲滅が終わった。
東京都品川区に位置する工業地帯の跡地。人類王勢力が有する拠点の一つでもあるその場所に、最早生きた人間の姿は一つもない。
ゾロアスター教に紐付けられし悪魔の大軍。今も自分の足で地を踏みしめていられるのは、この殲滅戦を生き残った彼等勝者のみであった。
「やはり圧倒的な暴力による弱兵の蹂躙ほど爽快極まるものはないな。特に正義などいう一個人の主観を、まるで全人類共通の総意であるかのように振りかざす、腐れゴミ野郎共をブチ殺すのは格別だ」
ダエーワが群れをなす戦場の中心、全殺王は目を細めながら僅かに白い歯を覗かせる。それはまるで、この地で死んでいった全ての命を嘲笑うかのような仕草であった。
「おかげで王としての力も随分とこの体に馴染んできた。時は満ちた。決戦の時だ。善の後塵を拝する臥薪嘗胆の歴史に別れを告げよう。人の世を統べるべき原則は善などという束縛的な概念であってはならないからな」
全殺王アンラ=マンユ。
善悪二大原理のうち『悪』を司り、その醜悪な原理に基づいて世界を統べようとする大悪魔。
悪の権化である彼はその性質上、実に世界の半分を掌握しているに等しいと言えよう。そして当然、残りの半分である『善』の勢力に打ち勝つ算段も、既に彼の頭の中には用意されている。
先代を超越せし自らの悪性。
魔王を中心とする強大なダエーワの軍勢。
そして、そこに加えて最も重要なピースがあと一つ。されどそのピースさえ揃ってしまえば、人の世を悪で覆うことなど勿論、かの憎き天界を滅ぼすことすら夢物語ではない。
「蟻〜間〜く〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んッ!!」
そう、全殺王が理想に想いを馳せていた正にそのときであった。
凄惨極まる戦場の跡にはあまりに不相応、突如王の背後から蜂蜜の如き甘ったるい嬌声が聞こえてきたのだ。
全殺王が声の方に首を振ると、そこにはそれぞれ一人の男と女の姿があった。そのうちの一人である妙齢の美女はこちらの姿を認めるや否や、西洋風の傘をガサツに振り回しながら軽快なスキップで駆け寄ってくる。
「もぉ〜、まあたアタシに何も言わずにいなくなってえ〜。前から何度も言ってるけどお、勝手に一人で事を起こすのはやめてよねえ。これでもアタシは貴方の大切なパートナー兼共犯者なんだからあ……まあ、そういう奥さんを一切顧みないクソ亭主関白的な振る舞いも蟻間きゅんの素敵なところではあるんだけどっ♡」
スキップの勢い余って全殺王の胸に飛び込みつつ、女は下品な恍惚の表情を浮かべて言う。
未亡人風の黒ドレスに、網がかった黒帽が目立つ黒薔薇の女。ドレスの上からでも凹凸に富んだ身体つきをしていることは一目瞭然。不自然なほど真っ黒な髪はツインテールに結ばれ、帽子にはアクセントらしい紫の髪飾り、加えて目元にも控えめな紫が描かれている。
少女としての可憐さと、女性としての艶やかさを同時に内包する、男ならば皆問答無用で心を奪われるであろう魔性の魅力をその女は有していた。
「……ふざやがって、空気の読めねえクソ女だなオイ」
そしてその女の後ろからのそりと現れたのは、狼のように荒々しい風貌をした中年の男であった。
癖の強い長い髪に、如何にも汚らしい無精髭。右目の周りは皮下の肉が丸出しで、加えて眼球自体も何かカメラのレンズのような機器に置き換えられている。
やけにご機嫌な黒薔薇の女と、どこか苛立った様子の中年男。全殺王は一瞬両者を見比べ、まずは女の方に首を向けた。
「……アズか。一体何をしに来た」
「はーい、どーも。そう、このアタシこそが業魔王改め蟻間くん専用女の子のアズ=エーゼットちゃんで〜す♡」
仏頂面の全殺王とは対照的に、業魔王なる女はそこらへんの若いJKの如くキャピルンと横ピースを決める。
業魔王アズ=エーゼット。
王という名乗りが示す通り、彼女も全殺王と同様、ありとあらゆる天使の中でも最上位に位置する十三王の一人である。
その『対応神格』は大暗母アズ。
アズとはゾロアスターからの派生した一部の宗派において、かのアンラ=マンユの妻としても語られることもある女悪魔である。
アンラ=マンユを悪魔の王とするならば、アズはまさに悪魔の女王とでも呼ぶべき存在だと言えるだろう。
しかし、そんなおぞましい肩書きに似合わず、今のアズはただの恋する乙女であった。彼女は全殺王相手に一人で勝手にデレデレしまくり――――しかし、そこでふと我に返ったように態度を一変させる。
「で、何しに来た? じゃ、なぁい。折角腐れ天使共をブッ殺すってんならどうしてアタシも呼んでくれなかったのッ? 今のアタシは身重の体、一杯子供を産むためにはそれだけ一杯食べなきゃいけないのに……これは明らかなネグレクト、最早一種のDVと言っても過言ではありませんッ!!」
続いて業魔王は足元に転がってたダエーワの死体を拾い上げ、ぐぐっと全殺王の目の前に突き出しながら続ける。
「そして、食料調達は古来より男性の職能です。それもただ持ってくるだけじゃ不合格。ちゃんと洗って、ちゃんと皮を剥いで、ちゃんと骨をとって、ちゃんと食べやすいようにぐちゃぐちゃの肉の塊にしてからアーンしてくれないと絶対に絶対にダメなんだからアッ……!!」
「……」
対する全殺王と言えばガン無視であった。取りつく島もなしである。彼はただ心の底から迷惑そうに、あるいは腹立たしそうに眉間をしかめる。
「ひっ、酷い。アタシはこれほど蟻間くんのために尽くしてるのに、貴方はたかが労いの言葉一つかけてくれないなんて……ですがそこが良いんです。これだけたくさん産ませた女に欠片の配慮もしないクソ男感、とっても最低最悪で至極素敵です……」
しかし、それが業魔王にとっては何よりも喜ばしい一種の御褒美であった。
彼女は頬を赤らめ、一瞬垂れそうになった唾液を慌てて啜る。そうして女悪魔は無視を続ける全殺王をしばらく艶やかな瞳で見つめ続けていたが――――ふと、その視線がとある死体を捉えた瞬間、彼女は眦が裂けんばかりに目を丸くする。
「ええええええええッ!? なにこれヴィレキア=サルテじゃないッ……!? 」
そんなものがあるとは予想すらしていなかった上物に驚愕。しかし、それはすぐさま燃え上がる炎の如き怒りへと変わった。
「はああああああ畜生ざっけんじゃねえぞド腐れ下等生物共がッ!! こいつあテメェらみてえな生きてる価値もねえゴミクズ共が口にしていいような代物じゃねえんだよとっとと中身ぶちまけて死にやがれやこんのクソボケがアアッ!!」
正に一変。アズは人が変わったような罵声をあげながら、右手に持っていた傘をヴィレキアの屍体――――正しくはその死肉に群がっているダエーワ達目掛けて叩きつける。
圧倒的で一方的な暴力に晒され、身の程知らずなハイエナ共はすぐにグチャグチャの赤い塊と化した。そうして無礼者を排除したのち、アズは見るも無残なヴィレキアの死体にガバリと抱きつくと、
「はううぅ、蟻間くん最低ありえないッ!! なんでこんな上物こんな雑魚に食べさせちゃうわけ。例えるなら金をドブに捨てるどころか、一等の宝クジで糞拭いてトイレに流す並の暴挙ですッ!! あ〜あ、もったいないもったいない、本当信じられないんだからッ!!」
業魔王は瞳をぬぐいながら鼻をすすり、実にみっともない嘘泣きを披露する。されど、かの絶対悪がそんな如何にもな演技に絆されるわけもなく、
「……なら、それを持ってさっさと自分の役割に戻れ。そもそもダエーワを産み続けること以外に、お前のような愚かな女に期待していることなど一つもない。分かったら二度とこの俺の手を煩わさせるな。使い捨てなら使い捨てらしく、俺の知らないところで勝手に消費されていろ」
「もぉ〜、冷た〜い。でもさあ、アタシ蟻間くんの言う通りたくさん産んでるよお。たくさんた〜くさんねえ。たとえみんな人間共にすぐ殺されちゃうんだとしても、アタシは貴方のために子供を産み続けるの」
あと数センチ進めば鼻が触れるような距離、アズなる女悪魔は全殺王の耳元に直接囁くように言う。
「だってたくさん産めばそれだけ愛してくれるんでしょ? ねぇ、蟻間くん♡」
直後、女は全殺王からバッと離れ、ふんふん鼻歌を歌いながら踊る。
独楽のように体を回転させ、大きな傘を気ままに振り回す。それはたちまち背景がだだっ広い草原に見えてくるほどに、自由で開放的な踊りであった。
「あ〜あ、早く蟻間くんの彼女になりたいなあッ!!」
最早辛抱しきれない。そう言わんばかりの媚びた声が響き渡る。
女は伏し目がちな上目遣い、とらんとした恍惚の表情で愛しの人を見つめると、
「アタシ、楽しみでたまらないの。蟻間くんにギュ〜〜ってしてもらうことも、チュッ♡てしてもらうことも、そうして、そうしてそうして、いつか二人で夫婦になることもネ! 子供はねー、そーねー……三人、うん三人がいいわっ!! あまりたくさんだと一人一人をちゃんと愛することが出来ませんもの。子供達をたくさん愛して、たくさん慈しんで、のびのびと育ませて――――」
そこで何かを踏み潰すような勢いで足を振り下ろす。感情に身を任せたダンスはお終い。たちまちに慈愛に満ちた母の顔が、恋に邁進する盲目な少女のそれへと切り替わる。
「で、その子たちが一番幸せを感じた時にブチ殺すの。キャハハハハハハハッ!!」
まるで飼い主に駆け寄る子犬が如く、アズは再び全殺王の懐に飛び込んだ。その大きな瞳を潤ませ、頬を赤く染め、愛欲にまみれた言葉を吐息と共に囁く。
「もしそうしたらあ蟻間くん喜んでくれる? あぁコイツ最悪の女だなあってアタシのこと褒めてくれる? でも愛しちゃダメよ。子供に愛着とかも絶対にダメ。蟻間くんがもしそんなカッコ悪くてクソダッサいことしたら、流石のアタシでも幻滅しちゃうんだからねッ!!」
「――――ま……れ」
「ああアタシ、自分で自分が分からない。アタシは蟻間くんが好きなのに愛しているのに、貴方に愛して欲しいのに、でもアタシを愛して大切にしようしてくれようとする貴方のことは絶対に愛せそうにない。何故なの!? 分からないアタシ分からないわ――――」
「クソ売女が、黙れと言ってるのが聞こえねえのか?」
忙しなく喚き続ける業魔王の首根っこを、全殺王は問答無用で鷲掴みにした。万力のような、ともすれば首が折れるほどの握力で一気に締め上げる。
対する業魔王は笑いながら痛い痛いと、もう嬉しいのか嫌がってるのかもよく分からない有様であった。
「お前の心情などどうでもいい。ただ黙って俺に全てを捧げ続けろ。それ以外にお前に価値などないのだからな」
「……ふふっ、本当に酷いヒト。で、捧げ続けたら一体何をしてくれるのかしら……?」
業魔王の質問に全殺王はふうと一呼吸おくと、女の耳元で何やらぽしょぽしょ囁く。
「ぴゃあああああああああああああああああッ!!」
瞬間、業魔王の中の乙女火山は大噴火のときを迎えた。愛欲、性欲、情欲、それら全てが溶岩のように吹き出し、アズの熟れた身体を滅茶苦茶に火照らせていく。
「いやあああ蟻間くん蟻間くん蟻間くん、蟻間くんカッコいいですスゴいですぅッ!! そんなアタシのことをまるでモノとしてしか見ていないような言い方……でも、そこが素敵です堪りません。えぇ堪りません。もう辛抱を堪りませんともッ!!」
実際業魔王はもう辛抱しなかった。
次の瞬間、彼女は目にも止まらぬ早さで全殺王に抱きついた。火照る頬をすりつけ、豊かな胸を押しつけ、その艶やかな全身をもって目の前の男を誘惑する。
「我慢とか大嫌いです。お願い聞いてはじめてご褒美貰うとか、善に縛られた哀れで可哀想でクソマゾ気質なニンゲンサルモドキ共のやり方です。欲しいものは欲しいと思うがままに奪い、そして犯す。それこそがアタシたち悪魔が有する唯一の行動原理なのですからあッ!」
全殺王の対応は冷静であった。
怒りを覚え、殺したいと思った。だから殺すことにした。王はこの色狂いを誅殺しようと、『瘴気』に満ちた左腕に力を込める。
しかし、そこで両者の間に割って入る声が生じた。
『やめろ、アズッ……お前は俺の女だ。決して許さんぞ……そんなガキの慰めものになるなどッ……!!』
これから死に行くものが、最後の力を振り絞って残した遺言。そう思えるほどに弱々しい声であった。
声がしたのは全殺王の左腕だ。彼の腕を覆う『瘴気』の一部が、徐々に人の顔を形作っていく。とは言っても見ようによっては顔に見える程度だ。その口に当たる部分が、まるで酸素を求める金魚のようにパクパク開閉する。
『おのれおのれおのれッ!! 何故だ。何故アンラ=マンユであるこの俺が、絶対悪たるこの全殺王が、たかが人間のガキ程度に屈服せねばならんのだ……覚えておけ。この俺を愚弄したこと、必ず後悔させてくれるッ……!!』
必死に叫び狂う『顔』に、しかし全殺王は特に感想を抱きはしなかった。『顔』の全殺王に対する憎悪。全殺王の『顔』に対する無関心。それが両者の力関係をそのまま表しているかのようであった。
「……まだ意識があったのか。矮小で愚鈍な先代の王よ。無駄な抵抗はやめてさっさと俺の中に還元されろ。別にお前の存在が消えたところで何も問題はないだろうが。世界を悪で満たすという役目は、お前に代わってこの俺が果たしてやる」
『黙れ、黙れ黙れ黙れえええええええええええッ!! たかが人間の分際で……たかがクソガキの分際でええええッ!! うぅうううぐぅう、許さん決して許さん……お前は必ずこの俺が殺してやるッ!! 絶対に殺してやるぞオオオオッ!!』
そして『顔』は続けて業魔王の方を向く。心なしかその顔のようなものは悲しい表情をしているようにも見えた。
『オイ、アズ。何故だ、俺とお前は四千年の時を超え、ようやく再び相見えることが出来たのだぞ。なのに何故そのような男と……そうか、そうだ! 脅されているんだろう! あるいは洗脳されているのだろう! そうだそうに違いない! お前が俺を見捨てるなどありえない。お前は俺なしでは生きていけない哀れな女なのだからなアッ!!』
必死極まる『顔』の道化っぷりに、全殺王は思わず苦笑する。そうして彼は業魔王アズにチラリ視線をやった。
「えっ? あぁ、あははは〜♫」
アズは愛する男の言いたいことを即座に察し、左腕の『顔』のもとへと近寄った。そして『顔』が一瞬安堵したような表情を形作った直後、業魔王はそこに痰の絡んだ唾を吐きかけた。
『……………………はあ?」
「はあ、じゃないんだけどぉ? 気安くアタシの名前を呼ばないでくれるかなあ? てかそもそもアンタって誰え〜? アズちゃんこんなダッサイ男知らな〜い」
『……いや、違う。そうだ此奴は洗脳されているのだ。だから、心にもないことを無理矢理言わされているだけ――――――』
「アッハッハ、この便器にこびりついたクソ以下のゴミ存在は一体何を言ってるのかしらあ? 脅されてるだとか洗脳されてるだとか、よくそんな自分に都合のいいただの妄想をあたかも不変の事実であるかのように語れるわねえ。何が絶対悪ぅ? 何が全殺王ぉ? 笑わせないで。アンタは蟻間くんに全てを奪われた。もうアンタはアンラ=マンユでもなんでもない、ただの産業廃棄物に過ぎないんだからさあ♫」
全殺王。そう、この哀れな『顔』の正体はまぎれもない全殺王アンラ=マンユである。ただし、今その称号の枕詞には元という屈辱的な一字がつく。
時は遡ること四ヶ月前、ちょうど今年のバレンタインデーの翌日のことだ。
第二次天界大戦での敗戦により肉体を失い、されど四千年ぶりにようやく『瘴気』の塊として地上に復活した元全殺王は、まずはじめに草壁蜂湖なる少女の身体を依り代に受肉を果たした。
しかし、自らの強大な力を御しえないその身体に不満を抱いた悪魔は、続いて彼女の兄である草壁蟻間の身体に乗り変えることとした。
されど難攻不落の巣鴨プリズンを突破し、独房に収監された草壁蟻間と顔を合わせた瞬間、元全殺王の中で自己矛盾が生じたのだ。
全殺王、その『対応神格』はゾロアスター教に由来する絶対悪アンラ=マンユである。つまりこの世界のありとあらゆる生命体の中で最も醜悪な悪性を有していることこそが、彼に悪性を統べる王としての役割を付与する根拠となっている。
話は単純、ただその前提が崩れたのだ。
元全殺王と草壁蟻間。絶対悪を自称する前者よりも、ただの青年である後者がより醜悪な悪性を有しているのならば――――自然、絶対悪の地位はすぐさまより醜い悪性の方に移動する。
そして元より肉体を持たない全殺王は、その力ごと青年の体内に取り込まれることとなった。
あまりに大胆、あまりに荒唐無稽。しかしそれこそが彼等二人の身に起きた事実である。
草壁蟻間は確かに『天骸』と天使化への適性こそ有していたが、その人生の中で異能に触れたことは一度もない。それでも彼は全殺王を圧倒し、その全てを奪い去った。極めて醜悪であるという、ただ生まれ持っての性質だけでだ。
『うぐ、ひぎっ、何故だ。何故なのだアズ……』
『顔』改め元全殺王の形がグニャリと歪む。
しかし、その魂を焦がすほどの怒りと憎悪は、現全殺王である草壁蟻間よりも、むしろ自分を裏切り見捨てたクソ女の方に向いていた。
『……ふざけるなこんのクソ売女がアアアアアアアッ!! 消えろ今すぐ死に絶えろッ!! 間男と姦通したうえ不義を謝することなく開き直るようなクソ女、この俺の視界に映すことすら穢らわしいッ!! クソッ、この俺をそんな目で見下すなアッ!! 思い上がるなよアズ、はじめから俺はお前のことなど何とも思っていなかったッ……!! お前のことを妻だなどと思い、愛したことは一度たりともなかったわッ……!!』
「キャハハハッ!! 何コイツぅ、ねぇねぇ蟻間くん今聞いたあ? アタシもね、裏切られたのがムカつくからブチ殺してやるってんならまーだ理解出来るわ。うん、まだ理解出来る。でもコイツって倫理に背いてるからって理由でアタシのこと非難してんだよ〜ヤバくない? それって悪魔としてどうなのかなあと思う。だってその思考回路そこらにいるお利口ちゃんな人間ちゃんとまるっきり同じじゃ〜んッ!!」
業魔王は至極楽しそうに、そして至極呆れたように元全殺王を嘲笑う。
その言葉がトドメとなった。元全殺王は最早怒りと悲しみと憎しみを抑え切ることが出来なかった。
発狂、そしてただただ絶叫。まるでヒステリーを起こした女の金切り声のように、絶対悪だったものはひたすら叫んで叫んで叫び続ける。
「あーあーうるさいうるさい。男の僻みほど哀れで可愛いものはないですわねえ。もう、女の子は上書き保存なんだから仕方ないでしょ。だってアンタより蟻間くんの方が断然万倍、いや一億倍最低で最悪でかっこいいですものッ!! キャー、サラマンダーよりずっとはや〜〜い」
『クソックソクソクソクソッ……!! お前らなんか、お前らなんかみんなみんな大ッ嫌いだアアアアアアアアアアアアッ!!』
気付けば『顔』の絶叫は止んでいた。
単純に意識を保つのが難しくなったのが、それとも心がポッキリ折れてしまったのか。ともかくなんとか形を維持していた『顔』の形は、霧散するように崩れ、再び草壁蟻間の身体の中へと吸収されていく。
そうして一度消えてしまえば、最早誰も彼のことを口には出さなかった。
「……おい、アズ。お前少し黙ってろ」
「はっ、は〜い、わかりましたあ。少しだけ、ほんのすこ〜しだけ我慢してあげますう」
王の口調に含まれた殺意を感じとったのか、業魔王はやや不貞腐れながらも大人しく引き下がる。
そうして草壁蟻間はようやくと言わんばかりに、先程からずっと黙っていた中年男の方へと向き直った。
「悪いな。そこの馬鹿女と出しゃばり雑魚野郎のせいで時間を取らせた」
「別に問題ねえよ。こちとらあの絶対悪アンラ=マンユ様に謁見させてもらえるってだけで感極まってんだ。急かすなんざとんでもねえ」
男は仰々しく欠片も思ってもなさそうなことをペラペラと述べる。ただでさえ不快な外見に加え、この如何にもゴミ人間じみた態度。しかし、草壁蟻間にとっては厭うものではない。むしろ悪性を統べる彼にとっては好ましくすらあった。
王はズボンのポケットに手を突っ込み、微かに白い歯を覗かせながら男の顔をまじまじと見る。
「フン、そうか。それにしてもこの俺に取引を持ちかけるとは随分と肝の座った野郎だ。なあ、古澤。そもそも碧軍は俺たち悪の陣営と敵対しているのではなかったのか?」
このふてぶてしい中年男、その名は古澤百藝。国内における大規模霊的武装組織の一つである碧軍、その中でも特別な地位である『司祭』の一人に数えられる男だ。
碧軍が何かといえば、大方天界の代理執行機関とでも言ったところであろう。かつて天界は人間界に『天骸』を持ち込んでしまうことを恐れていたが、それでも下界の物事に介入しなくてはならないときはある。
そのようなときに活躍するのが、人でありながら天に通じている彼等の存在だ。即ち碧軍とは兵器と術式を問わない武力を用いて、天使の代わりに天界の意向を実行することを生業とする霊的集団なのである。
だからこそ、碧軍の『司祭』である古澤が草壁蟻間と接触するのはおかしいのだ。
天界は今回の案件で明らかに草壁率いるダエーワの勢力を危険視しており、実際その命を受けた碧軍はここ最近ダエーワと何度も刃を交えているのだから。
「ハッ、何言ってんだ。アンタら悪魔は人間なんかよりよっぽど取引に拘る熱心なセールスマンじゃねえか。それに俺は碧軍司祭である以前に古澤百藝つー一人の人間でもあるんだよ。組織が組織全体で享受しようとしている利益と、個人の勝手気ままな思惑がそのままピッタリ一致することの方が不自然ってもんだろ」
しかし、疑いの目を向けられても古澤百藝は呆気からんとしていた。あの絶対悪と対面しているにも関わらず、馴染みの居酒屋の親父にでも話しかけるような気安い態度。それだけでこの男が草壁や業魔王に勝るとも劣らない異常者であることは明らかであった。
「馬鹿を言うな。取引とは互いが互いの利益となることを確認してはじめて平等に成立する。貴方に私の魂を捧げます。見返りはいりません。そんな契約紛いの進上行為を提案されて、馬鹿正直に首を縦に振る悪魔はいない」
「ただ行けって言われただけの中間管理職にそんなこと聞かれてもな……まあ、とにかく俺の上はアンタの躍進を望んでいる。それだけは確かだ。だから見返りは必要ねえ。アンタは好きなように殺して、好きなように壊してくれりゃあそれでいいんだよ」
そう言って古澤が放り投げたものを、草壁は難なく空中でキャッチする。
それは無機質な白いカードであった。しかし、カードと言っても厚さはそれなりにある。まるで形の違うプラスチック片を重ねてミルフィーユにしたような奇妙な物体。その表面にはあみだくじのような金の溝が彫られており、少し『天骸』を流し込むと途端に緑と青の中間のような色が生じた。
「……お前の胡散臭さは否めないが、うん、確かにこれは『鍵』だな」
そう言いながら、草壁は懐から全く同じものを取り出す。視界の端では、業魔王もこれにみよがしに同じカードをピラピラ振っていた。
王とその他の天使を区別する最も大きな基準はなにか?
単純に天使としての強さ、天界の指導者としての権力、それとも各王が数千年をかけて開発した『神権代行』?
どれもこれも破格のファクターであることに変わりはないが、王を王たらせる最も重要な要素はこの『鍵』の存在である。
『鍵』が有する権限は天界へのアクセス権。
即ち天界に満ちる無尽蔵の『天骸』を、いくらでも自由に引き出すことが出来る王の特権である。
第二次天界大戦において天界と敵対したことにより、今全殺王と業魔王が持っている『鍵』は天界へのアクセスを禁じられた状態にある。だから新たな『鍵』を提供するという古澤の提案は、彼等にとって正に渡りに船の幸運であったのだ。
「まあ『鍵』が王のみに許された特権である以上、モノの出所は粗方予想がつく。良いだろう。そこまで俺を利用したいというのなら、一度そちらの望み通り踊ってやる。だが、いつまでも高みから舞台を見下ろすVIPの気分でいられると思うなよ。クソヤロウにはそう伝えておけ」
言いながら、草壁蟻間は天に『鍵』をかざす。
これでひとまず最後のピースは手に入った。人類王勢力、悲蒼天、後藤機関、碧軍、そして天界。それら全てを敵に回したところで、問題にはならないほどの力がこの手にはある。
されど、まだ不充分であった。王は自分の持っている『鍵』を他者に奪われたときのために、実際に天界へのアクセスを行う過程にそれぞれ条件を定めている。
最後のピースは確保したが、使い方が分からないのでは意味がない。いや、そもそも前提として草壁蟻間には決してこの『鍵』は使えないのだ。
なら諦めるのか? 冗談にしてもタチが悪い。自分で使うことが出来ないならば、ただ使える人間に使わせればいいだけの話である。
――――血族、『鍵』を開く条件は古より受け継がれてきた特異なる血の繋がり……か。
例えそれがこちらを嵌めるための罠であっても構いはしない。
実のことを言うとそれで自分が死んだとしても大した問題ではないのだ。ともかく愉しいことになると思った。だから其奴らを嬲ることにした。
その思考回路に合理性や客観性は欠片も含まれていない。ただ最も心惹かれる悪の衝動に身を任せる。ただそれだけ。その純粋で一途な、まるでそこにあって当然の如き悪性、それこそが草壁蟻間を絶対悪たらしめる唯一の要素であった。




