第八十五話 『二つのわがまま』
悪魔は打ち倒さねばならないだとか、力無き人々を守るために立ち向かおうだとか、そんな勇ましいお題目は刹那で失せた。
デカい、あまりにもデカすぎる。
いくら地球の支配者だの、万物の霊長だのと抜かしても、所詮人間はそのほとんどが体長二メートルにも満たない小動物だ。
そんな小動物がよりにもよって全長二十メートルの怪物を目の当たりにしてしまっては――――必然、本能的に無理だと悟ってしまう。
これほど巨大な生物にヒトが勝てるはずがないのだと、そう理屈抜きに悟ってしまうのだ。
「コイツがっ、インドラッ……!!」
銀髪の天使は譫言のように呟く。
彼女をはじめとする人類王勢力の面々も、そこでようやく目の前の怪物が何であるかを認識した。
ゾロアスター教における七柱の魔王が一角、虚偽の魔王インドラ。その巨体が醸し出す恐怖という重圧はあまりにも禍々しく、少しでも動けば途端に命を奪われそうな錯覚に襲われる。
だから、松下は動けなかった。
ともすれば、両手の短剣さえ取り落としていたかもしれない。
「速攻を仕掛けるッ!! 一番隊から三番隊は左目に、他は右目に一斉射を浴びせかけろッ!!」
代わりに反応したのは大人達、特に後方での狙撃に専念していた川勝兵の面々であった。
彼等は開戦時の失態を取り戻そうと言わんばかりに、素早く、それでいて整った動きで長銃を構えると、
「撃てえええええええええええええええッ!!」
大喝の後、三十の銃口が一斉に火を噴いた。
これまで数十の悪魔を難なく屠ってきた、絶殺の弾丸がインドラの両目目掛けて襲いかかる。
「なッ……!?」
しかし、無意味であった。
インドラが重く、響くような咆哮を轟かせたその直後、魔王の周囲を包み込むようにバリバリバリバリッ!! と雷撃の障壁が展開されたのだ。
川勝兵の一斉射は魔王の体表に届くこともなく燃え尽きる。それどころか障壁はそのまま攻撃へと転用され、容赦なく人類王勢力の面々にその牙を剥いた。
インドラの四方から放たれた無数の雷撃。
それらはただの一撃で倉庫を吹き飛ばし、或いは箸を折るような気軽さで煙突を真っ二つにする。
そして雷撃の衝撃に煽られでもしたのか、どこからか巨大なコンテナが空から降ってきた。
「そっ、総員退――――――」
しかし、間に合わなかった。
大質量がそのまま地に叩きつけられ、不幸にもその下にいた島津兵の幾人かが犠牲となる。なおも転がり続けるコンテナの軌跡には、ベチャリと赤い醜いものがこびりついていた。
「あっ、ありえん……馬鹿げているッ……!!」
僅か一瞬の攻防。
しかし、その一瞬で彼等も絶望に取り憑かれた。未だ島津兵は瞳に闘志を残しているものの、川勝兵の士気はこれで完全に地の底へ落ちてしまった。
「ゥゥゥググゴオオオオオオウウウウウウウッ!!」
再びインドラの低い唸りが響き渡る。
攻守交代、厄災到来。今度は虚偽の魔王がその神威を披露する番であった。
インドラの叫びに呼応し、頭上の黒雲がザワザワと泣き喚き始める。
マズい。そう感の良い数人が気付いた頃にはもう手遅れであった。
そして、空がパッと真っ白に染まった直後、天から地に向けてゴオオオオオオオオオオオオオオッ!! と一筋の轟雷が放たれた。
回避不能、防御不能。
『落雷』の速度は秒速二百キロメートル。それでいて半径五十メートルを軽々焼き尽くす至極の一撃が、人類王勢力の面々目掛けて殺到する。
彼等の多くはそれで自分達は死ぬのだと思った。或いは、自分が殺されることに気づく間もなく死ぬはずであった。
「ぜりゃあああああああああああああああッ!!」
しかし、その轟雷が彼等の命を燃やし尽くすことはなかった。
落雷の直前、その軌道上に割り込んだ一人の卿天使――――即ちヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースクが、正面からその一撃に挑んだのである。
「ヴィレキア卿ッ!!」
「あんなもの受け止め切れるはずがッ……!!」
松下は叫ぶ。
その他の面々も彼の蛮勇に心を痛める。
しかし、当の卿天使は随分と落ち着き払った様子であった。
「各々方、御安心召されよッ!!」
その言葉通り、彼は腰元の両手剣で豪雷を難なく受け止めると、そのまま人がいない方角目掛けて刃を振り抜く。すると、ただそれだけで、あの反則じみた一撃がたちまちに霧散した。
ヴィレキア卿もインドラと同じ雷を司る者。
然らば、その電気に対する支配力をもって落雷を受け流す程度のことは造作もない。
しかし、彼は討伐軍の面々を危機から救ったにもかかわらず、何やら心苦しそうな顔をしていた。やがて卿天使はおもむろに言う。
「……恥ずかしながら前言を撤回させていただきたい。皆様を見くびるわけではありませんが、恐らくあの魔王は私にしか倒せません。ですので、眷属の相手は貴方方に全てお任せします。身から出た錆は当然、このヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースクが引き受けますゆえ」
ヴィレキア卿はこちらを振り向かないまま、ハキハキと明瞭な声で告げる。
彼の言葉に軍の面々は目を丸くする。この天使はあの化け物を、否、あの神をたった一人で相手取ると言っているのだ。
しかし、それは蛮勇でも戯言でもない。
確かな現実感をもって発せられた言葉であった。
たとえ人では無理でも天使ならば、たとえ自分達には無理でもこの卿天使ならばと、今この場にいる全ての人間が思わず期待してしまう。
「たっ……」
希望から絶望、そして再び微かな希望。
そして彼のあまりにも勇ましいその姿に、人類王勢力の武人達が奮い立たないはずがなかった。
「隊を二つに分けるッ!! 菱刈・禰寝・北郷隊は前線でヴィレキア卿の露を払え。祁答院・山田・肝付隊は後方に下がり、川勝兵の前方を抑えろッ。各々五人ごとの密集陣形を敷き、必ず複数で敵に当たれ。しかし固まり過ぎるな。範囲攻撃で一掃されては元も子もないからな。刃を交えつつ、いつでも散開出来るよう常に気を張っておけッ!!」
前方で菱刈某が怒号をあげる。
距離は遠いが、異常聴覚を持つ松下にはその声がハッキリと聞こえていた。
――――なるほど。あのヒゲオヤジ、人格はクソの極みでしたが、指揮官としても無能というわけではねえみてえですね。
戦況がどう転ぶにしろ、ヴィレキア卿がインドラを倒さねば討伐軍サイドに勝利はない。然らば戦線を縮小し、守りに徹しようとするのは正しい方針であろう。
――――……ですが、それじゃまだ足りません。
しかし、そこには一つ穴がある。
それは先程菱刈も叫んでいた『落雷』への対策である。確かに彼も現状出来得る対抗策を提示はしたが、それだけであの雷撃を捌き切れるとはとても思えない。
――――この傷じゃあもう戦闘には加われません……が、まだ松下にしか出来ないことが残っています。
そこで、松下は配下の隻翼達を呼びつけた。
すぐさま集まってきた彼女達に、応急処置を施してくれるよう頼む。
これから始めるととあることのためにも、最低限動けるだけのコンディションは確保しておきたかったのだ。
「痛ったあッ、染みるゥウッ!!」
「大丈夫ですか?」
「ハッ、超大丈夫すぎてスーパーオーケーなんですがッ!? そういう気遣いはいいんでとっとと済ませて下さいッ!!」
明らかに虚勢であった。
肉が裂ける痛みを松下のような子供が許容出来るはずがないし、血が出ているというのはただそれだけで恐ろしい。だからか彼女はその間、ずっと服の袖を噛み締めていた。
やがて、隻翼が松下の服の下に包帯を巻き終えると、銀髪の天使はようやく配下に次の指令を下す。
「……百羽の皆さんはこれからも飛行型ダエーワへの対応に専念してください。特に川勝兵が頭上から奇襲される事態だけは避けなきゃならねえです」
「御意。して、松下卿は?」
松下は怪訝な顔をする。
自我を持たない彼女達が、命令とは関係ないことを聞いてきたのが意外だったのだ。
しかし、少女はすぐにフッと笑って答える。
「ぶっちゃけ今すぐ帰って紗織にいい子いい子してもらいてえところですが、こんな体でもまだ役に立てるってんなら働きますよ。ほらほら、松下のことはもういいですから皆さんとっとと行っちまってください」
はっ、と事務的な返事だけを残し、百羽の隻翼達はすぐに頭上へと飛び立っていった。あとには銀髪の天使だけが残される。
――――上手くいけば……なんてのは甘えですよね。やってみるんじゃなくて、やるんですよ。
隻翼達に少し遅れて、松下も左の翼を羽ばたかせ始める。
それはまるで寒い日の蚊のように拙い飛び方であったが、それでも彼女はゆっくり少しずつ高度を上げていく。
そうして松下はようやく不気味極まる黒雲のすぐ近くまで到達した。そこで彼女は嘆息する。
「……命令されたから仕方ないとはいえ、やっぱ来たくはなかったですね。面倒臭いとかそういうこと次元じゃなくて、本当に、心の底から」
少女が嫌々下を見ると、討伐軍の面々がダエーワと血で血を洗う死闘を繰り広げている様が見てとれる。
怖いと、そう率直に思った。
絶え間なく響き渡る銃声。時折どこぞより上がる悲鳴と慟哭。そしてあまりにも生々しい人の生き死に。
先程まで隣で戦っていた仲間が化け物に食われても、彼等は怯むことなく懸命に戦い続ける。一見酷く残酷で冷酷なようだが、異能側の世界に籍を置くとはこういうことなのだ。
常に戦って、争って、殺し合い続けて、いつのまにか人の痛みと命を戦略という数字でしか考えられなくなる。そしていつしか自分の御崇高な目的のために、他人を犠牲にすることすら許容出来るようになっていく。
実際松下も「自分はまだそんなクソ野郎にはなってはいない」などと殊勝なことを宣言する自信はなかった。
――――本当、先輩と筆坂さんには頭が上がらねえですよ。
もし先日の一件があのような結末に終わってくれなければ、紗織も今頃百羽の一員としてダエーワとの戦いに駆り出されていたのだろうか。
そう思うと心の底からゾッとする。考えたくもない。少し想像するだけで、体が震え出すほどであった。
――――だからこそ、松下がテメエの弱さに甘えるわけにはいかねえんです……。
松下はかつて学園に対し裏切りの罪を犯した。
その後彼女と人類王との間で交わされた盟約は、松下が組織に尽くし続ける限り、紗織の平和は保証し続けるというものであった。
実に、シンプルで分かりやすい。
つまり、松下が頑張れば頑張るほど、それだけ紗織は日の当たる温かい場所に居続けることが出来るのだ。
だからこそ、彼女は覚悟を決めた。
討伐軍の人々を『落雷』から救いたい。そして何より、ここで人類王勢力の役に立ち、紗織のいるあの小さな世界を守りたい。
そんな二つのわがままに背中を押されるがまま、松下は一世一代の大博打に打って出る。
――――あの落雷はゴロゴロ鳴り出してから避けても間に合わない。なら雲が静電気を帯電する――いや、そのもっと前、黒雲が形成される予兆に気付くしかないッ!!
然して、少女は瞳を瞑った。
その蝙蝠のように大きな耳をそばだて、聴覚ただ一つに己の全意識全神経を注ぎ込む。
雲の音を聞け。雨の音を聞け。
原子単位でその動きを聞き分け、次に起こり得る現象を逆算しろ。
違う。まだ大丈夫。違う、この音は問題ない。
この音は――似ているが違う。これか? いや焦るな。簡単な結論に飛びつくな。この程度ならば落雷に結びつくとは限らない。
いつ来るかも分からない前兆に気を張り、常に頭をフル回転で酷使する。そのうち、松下はいつしか一種のトランス状態と化していた。
前兆を聞き分ける。口で言うのは簡単だ。
されど、全ての音を漏らさず聞き取り、またその全てから落雷の可能性を逆算し続ける。それが一体どれだけの無茶であるか。
肉や骨の軋みから人の動きを予想するのとは難易度が違う。それもこの無駄な音で溢れかえる豪雨の戦場の中だ。
その中から落雷の予兆となる音だけを正確に聞き分けるなど、それこそ空から降る雨の一粒を見失うなと言っているようなものである。
それでも、松下は匠の領域に挑んだ。
自分がヘマをすれば、その時点で数人の島津兵の死が確定する。自分の有能無能に他者の生死を結びつけ、それでもむしろそのプレッシャーを糧にし、少女は神経を真剣に集中させ続ける。
ジジジ、ズズズ、ザザザ。
ゴゴゴ、ギギ、ズズ、タタタタ。
チチチ、ジジジ、ズザザザザザと――――そして、そこでついに決定的な瞬間が訪れた。
「北郷隊ッ、今すぐ散開してくださいッ!!」
少女は声を張り上げて怒鳴る。
己が声を権能で増幅し、この豪雨の中でも聞こえるほどの大音量で叫ぶ。
松下に名指しされた島津の一団は一瞬戸惑った。
しかし、その鬼気迫る声色から感じるものがあったのか、彼等は速やかに四方へと散らばる。
その直後であった。
島津兵が散開すると同時、彼らが直前までいた場所へ、神罰じみた凄まじい豪雷が天より轟ッ!! と降り注いた。
「伏せろォオオオオオッ!!」
その極大の爆音と閃光とによって、五感の全ては無意味と化した。
落下地点のコンクリートは無残にも爆散し、突風の如き衝撃の嵐が四方八方に吹き荒れる。事前に散開していた島津兵達もその余波にあてられ、半ば吹っ飛ばされるように身を転がされた。
「総員、無事かッ!?」
「田辺が腕に軽傷を負った以外は問題ありません」
「よし、軽傷は負傷ではない。それでは再び速やかに密集陣をしけッ!!」
だが、それでも誰も死ななかった。
なんとか難を逃れた島津兵達は、五体満足のまますぐに戦闘へと復帰する。
松下による『落雷』の事前感知は、これ以上なく上手くいったのだ。
「はあ……はあ……」
岩のように硬くなっていた体から無駄な力が抜ける。良かった。上手くいった。自らの無能のせいで彼等を死なせずに済んだのだ。
されど、松下はすぐに気持ちを切り替える。なにも『落雷』はこれで終わりではない。この戦いが続く限り、これからも自分は一秒たりとも気を抜くことは許されないのだから。
――――ヤレる。これならイケるッ……!!
だがそれでも、そのとき松下希子は確かな手応えを掴んでいた。
川勝兵の援護射撃、島津兵の密集防御陣形、そして松下による落雷の事前感知。
確かにそれらはこのクソッタレな状況をひっくり返せるようなものではない。それでも、今この場にいる一人一人が役目を果たした結果、討伐軍の敗北は限りなく先に延ばされたと言えるだろう。
――――プレッシャーはかけたくねえですが、マジで頼みますよヴィレキア卿。一秒でも早くインドラをその手で殺してください。私達が完全に擦り切れて、取り返しのつかない事態になってしまう前にッ……!!
松下達に出来るのは精々戦線を維持するところまで、この袋小路を打開出来るのは卿天使ヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースクしかいない。
だから、少女は縋るような目付きで東の東京湾を見やる。だが、自分が見てどうにかなるものでもない。松下はすぐに気持ちを切り替え、再び自分の役目に専念することとした。