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不愛想な彼女  作者: 竹下舞
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27章~35章、エピローグ

27 小説家からの返事


 はじめまして。竹下舞です。

 お手紙をご拝読いたしました。

 ご相談はメールでされるのがよろしいかと存じましたので、まことに恐縮ですが、メールでお返事をさせていただきました。受けとったメールを他人に見せることは断じてありませんので、その点はご安心ください。

 はじめに、私の方からいくつか忠告をさせてください。

 これから何度かメールでやりとりをすると思うのですが、そのときに、まとまったものを書く必要はありません。まとまったものを書くとなると、細部を切り捨ててしまわないといけない場合が出てきます。ですから、統一のない文章でかまいません。

 また、私から有用な助言を求めているのなら、今のあなたの状況を包み隠すことなく伝えようと心がけることが大切です。それはあんがい骨の折れることです。根気が必要なことです。たとえば、あなたは嘘をつくことなく書いたとしても、のちのちに考えてみると、自分の状況と食い違っていることに気づくかもしれません。人というものは常に変化しているものなので、そういうこともあるのです。ですから、気づいたことがあれば、そのつど訂正してください。

 私もわからない点があれば、わかるまで質問します。あなたも納得いかない点があれば、納得いくまで私にお付き合いください。私の方は時間にゆとりがありますので、じっくりとメールでやりとりをしましょう。



28 ひきこもりの話


 あなたの話は興味深いものですし、ある程度は理解したつもりでいます。ですが、より理解を深めるために、ここで私に少し話をさせてください。

 これは実際の話ではなく、私の創作です。

 ある男がいます。彼は高校を中退してから外出しなくなり、もうすぐ十年になります。いわゆるひきこもりです。食事と入浴とトイレ以外には部屋から出ることはありません。ふだんはオンラインゲームをしています。毎日十二時間ほど画面を見つめて過ごします。オンラインなので、他人との繋がりはあります。彼の楽しみは、オンラインゲーム以外に二つあります。食事と自慰です。彼の楽しみはその三つだけです。

 彼の日常はしごく単調なものです。目が覚めて、朝食をとり、ゲームをして、昼食をとり、ゲーム、夕食、ゲーム、入浴、ゲーム、そして日が変わる前には寝ます。もちろんトイレにも行きますし、自慰もしますし、部屋の掃除もします。それでも彼の日常はそれだけです。ほかには何もありません。昔は両親から小言を言われることもありましたが、今ではもう何かを言われることはありません。一緒に食事をしても、彼は置物のような存在になっています。

 彼はストレスがたまることはありません。将来を考えると不安になりますが、深く考えることはないので、ストレスがたまることはないのです。一般的には、生きていればストレスがたまる機会もあるでしょう。誰もが羨むような生活を送っている人でさえ、年に何度かはストレスがたまる出来事にみまわれるでしょう。それでも彼はそうではないのです。ストレスとは無縁で生きているのです。光がない代わりに影もなく、ただ淡い薄明りの中で生きているのです。

 あなたの話を聞いていると、そういうことを思いました。彼とあなたが似ているというわけではありません。いくらかは似ている部分もあるでしょうが、大部分は異なっているでしょう。ですが、考える基準になればと思い、こういう話を持ちだしました。

 人生は大きな流れにより進んでいきます。泳いで進むことも多少はありますが、大部分は流されて進むものです。流されている状態、それが日常です。当たり前の日常です。彼は心地の良い流れに流されているので、満足しています。ですが、その流れが永遠に続くわけではありません。いつかは別の流れに変わるでしょう。もしかしたらその流れに乗っていれば、激流に行き着くかもしれません。そうではないかもしれません。

 この話を聞いて、どう思いましたか?



29 小説家の助言


 これまでのメールでおおまかな点は理解できました。

 あなたは私に説明したことで、自分の中が整理されたのではないでしょうか? 考えるとは、言いかえれば、状況を把握することです。学問でも日常の問題でも、状況を把握することにより、答えに近づくことができます。すなわち、これまでのメールは、私があなたの状況を知るために行ったというより、あなたが自分の状況を的確に把握するために行ったものです。

 私は答えを出すつもりはありません。あなたの問題なのですから、答えはあなた自身が出すべきです。ですから、ここに書くことは抽象的なことになります。もしかしたら助言には見えないかもしれません。ただ、私は最善を尽くすつもりなので、あしからず。

 まずは信仰心について話しましょう。

 信仰心というと宗教を連想してしまい、遠い存在に思われるかもしれません。ですが、誰もが信仰心を持っているものです。信仰心とは共同体における正しさを盲信することです。たとえば、風俗嬢や殺人犯の家族を敵視するのも、信仰心によるものです。みんなが駄目だと思っているから駄目、ということです。それは理屈ではどうにもならないものです。

 別の見方をすれば、信仰心とは共同体に対する忠誠心とも言えるでしょう。いくつか前のメールにも書きましたが、人を殺してはならない理由は、自分が殺されたくないからです。自分が殺されるのを避けるために、殺人は法律で規制されているのです。ただ、我々が人を殺さない理由は、殺人罪があるためではありません。そういう面も多少はあるでしょうが、信仰心により抑制されているという面の方が大きいでしょう。社会は信仰心により支えられているのです。

 さて、信念と信仰心は違います。信念は自分一人で信じているものですが、信仰心はみんなで信じているものです。たとえば、この人が好きという気持ちが信念で、離婚することはみっともないという羞恥心が信仰心です。

 信念はゆらぎやすいものです。同じ人をずっと好きでいたくても、状況により気持ちは変わっていきます。自分一人で信じているので、変わりやすいのです。それに対し、信仰心はゆらぎにくいものです。離婚することは恥ずかしくないと思おうとしても、なかなか難しいものです。みんなで信じているので、変わりにくいのです。

 若者は信念を大切する傾向にあります。自分自身を信じて自分のやりたいようにする、それが若者の特徴です。それは労力のいることですし、素晴らしいことです。個人的には信念は尊重されるべきものだと考えています。ですが、信念をつらぬくことには後悔がつきものです。うまくいかなかった場合はもちろんですが、うまくいった場合にも後悔することがあります。少しの迷いもなく結婚して、数年後にそのことを後悔する、そんな人も大勢います。信念とは一時期の気の迷いであり、状況が変われば、あっさりと変わってしまうのです。

 だからといって、信念より信仰心を優先すべきだと言っているわけではありません。どちらも大切なものです。ですが、信仰心に気づいていなければ、落ち着きをなくしてしまいます。後悔してもいいのですが、信仰心に気づいていなければ、闇の中に取り残された気になります。信仰心とは光なのですから。みんなを照らす光なのですから。

 ここまでは理解できましたか?

 重要なのはここからです。

 信仰心はみんなで信じているものですが、現代には「みんな」がいくつもあります。たった一つの「みんな」があるわけではありません。昔に比べると「みんな」の数は格段に増えました。ざっくりと言えば、価値観が多様になった、ということです。

 まずは、あなたにとって「みんな」とは何であり、どこにあるのか、ということを考えてみるのはいかがでしょうか? 自分に合った「みんな」があれば、自分らしさを見つけることができます。自分らしさは自分一人では見えてきません。「みんな」という自分が属している集団があるからこそ、浮き出てくるものです。そして、自分らしさは自分に安心を与えます。自信を与えます。生きる意味を与えます。

 帰属意識を持つことで、あなたは救われると思います。ですから、「みんな」の存在に気づくことが重要だと思います。ただ、自分に合わない「みんな」からは距離を置いた方がいいでしょう。どこかに自分に合った「みんな」があるはずですから。

 私の助言は以上です。

 納得がいかない点がありましたら、またメールをください。



30 人類最高の幸福


 竹下舞から返事が来たのは、十一月の終わりのことだった。

 私は竹下舞の抽象的なアドバイスにより、さらに混乱した。複数の答えが見えてきて、どれにも重点をおくことができなかった。ただ、混乱の中でも見えてきたものもあった。それは〈私はいくつかの集団に属しているけど、それらの集団に対する愛着はみじんもない〉ということだった。つまり、私にとって守るべきルールは一つもない。そのことに気づいたときには、答えをだしていた。妹と離れ離れになる決心はついていたし、その決心を疑うことはなかった。

 あとは計画をたてるだけだった。それで物事は前に進むはずだった。良いか悪いかは別にして、前には進むはずだった。でもインターネットで情報収集してみると、どう考えても私には計画を実行する能力はなさそうで、そのために決心はまたたくまに崩れた。私は刑務所に入ることをあきらめた。そもそも刑務所に入るメリットは何一つないのだし、それは真っ当な判断に思えた。

 それでも、私の中にはくすぶっているものがあったのか、坂野さんが来店したとき、また決心がめばえた。

 二人は黙ってエレベーターに乗った。そして部屋に行き、いつものようにベッドに座った。私はとても緊張していた。

「ずいぶんおひさしぶりね。もう来ないのかと思った」

「絶望とはなんだかわかりますか?」と坂野さんは私の挨拶を無視した。

「今日はちょっと私のお話を聞いてもらおうと思って」

「はい」

「そうね、何から言えばいいのか」と私は言い、ふと冗談を思いつき、緊張はやわらいだ。思えば、まえに坂野さんと話したときもトイレのことを考えていた。「あのね、私は絶望したことが二回あって、一回目は、えっと、中学三年生のとき。二回目は今年の夏。私には娘がいるんだけど、九歳で、ちょっと太ってて、でもかわいい娘なの。今年の夏に強盗に入られて、娘は犯人と鉢合わせになったみたいで、犯人から催眠スプレーをかけられて、ガムテープで縛られて、口と手足をね。私が帰るまで床にころがったままだった。夏にそういうことがあって、それ以来、娘はふさぎこんでしまって、まあそれで私も絶望したってわけ。どう思う?」

「それはかわいそうですね」と坂野さんは言った。でもその声には同情心は少しもなく、政治家が〈たいへん遺憾に思います〉と言うときのような響きがあった。

「うちには私と娘以外の体毛が一つあって」と私は嘘をついた。「たぶん犯人のね。だってうちには誰も来ないし、まあ、学校の先生が来たけど、五月の家庭訪問のときに。でもちゃんと掃除してたし、だからその体毛は犯人のもので、それは確かなんだけど、でもたぶん犯人は捕まらない。未解決事件ってそれなりにあるみたいだし、もし捕まるとしたら、別の事件で捕まってDNAが一致するとか、そういうことくらいね。どう思う?」

「詳しいことはわかりませんが、催眠スプレーを用意するほどの犯人なら、ほかにも犯行を重ねていると思います」と坂野さんは言い、すぐにこう言った。「もう一つの方は何があったのですか? 中学三年生の方は?」

 そう言われて、私は口をつぐんだ。坂野さんのその言葉にはどことなく落ち着きのなさが表れているように思えた。すぐに話題を変えたことと、〈もう一つの方は何があったのですか?〉だけでなく〈中学三年生の方は?〉と付け加えたことで、強盗の話を長引かせないようにしている印象があった。ただ、もし坂野さんが犯人なら、強盗の話を詳しく聞きたいはずだとも思った。それでも、緊張を隠すために話題を変えた可能性もあり、結局のところ、よくわからなかった。

「中学三年生のときは、そうね、何があったと思う?」

「わかりません」

「まあ、そうよね」と私は明るく言った。「でもこの話はしたくなくて。本当の絶望ってそういうものじゃない?」

「そうかもしれません」

 私が話そうとしたことは〈その頃は性に敏感な年頃だし、トイレに入ったんだけど、まあ、普通に用をたしてね、それで紙をとろうかと思ったら、何もなかった。トイレットペーパーの芯すらなかった。それで絶望。芯くらいは残してくれてもいいのに〉という冗談だった。でももう気が乗らなかった。

 何もない部屋はむだに明るく、視線のやり場に困るほどだった。静かだった。私は指先でドレスの生地(きじ)をなでて、気持ちを落ち着かせた。

「どうやったら女からモテるか知ってる?」と私は聞いた。

「異性や同性にかかわらず、共通項を見つけることで関係は強固になると思います」

「そんな考えをしてたらモテないよ。女は共感を求めてるし、だからなんでもいいから共感してあげるのが大切で。アクセサリーをつけてるとするでしょ? そしたら、〈それ、かわいいね〉とか〈どこで買ったの?〉とか、そういうことを言ってあげて。女はお世辞でもいいから共感を求めてるの。誠実さなんて求めてない。だからお世辞だけでいいんだけど、でもね、本当はみんな誠実さを求めてる。どう思う?」

「そうですね」と坂野さんは言い、そのあとは黙ったままだった。それは何かを考えているようには見えなくて、でもとつぜん口を開いた。「つまり〈相手から好かれたいという気持ち〉と〈相手から理解されたいという気持ち〉は違う、ということですね。誠実さを求めるとは理解されたいと思うことです。しかし、ふだんは誰もが理解を求めることはありません。女性は特にそうです。女性の多くは〈ねえねえ、聞いてよ〉と言い、その話をしてしまえば、それで満足するのです。相手の理解を求めて話すわけではないので、表面的な好意さえあれば成立するのです」

「ずっと思ってたんだけど、坂野さんって頭いいよね。ちょっと前に、ある小説家とお話する機会があったんだけど、その人って、それらしいことを言って頭がいいように見せてるだけで、言ってることに中身がないのよ。でも坂野さんはそうじゃないし、頭がいいと思う。なんでそんなに頭がいいのに、まあ、いいけど」

「現代社会において、重要なのは効率です。聡明さは関係ありません。効率を上げる能力があるかどうか、それが有能と無能の差です。そして最も無能だとされているのは〈あれが悪い、これが悪い〉と言って社会のせいにする人たちです。僕もそのうちの一人です。悪いことが目につくので、〈あれが悪い、これが悪い〉と言うのです。それはよくない行為だとされているようですが、そんなことはありません。そういう声があるおかげで、社会の悪い部分は改善されるのです。たとえば〈増税はいけない〉という声がなければ、問題点が考慮されることなく、あっさりと増税されてしまいます。それは効率的にはいいですが、悪い部分は残ったままです。原発事故も、社員が〈あれが悪い、これが悪い〉と声をあげていれば、大きな事故にはならなかったはずです。しかしそういう声は物事の進展をさまたげるので、そういう社員は無能だとされるのです。〈あの欠陥をこう改善するのはどうか?〉と提案できなければ、無能だとされるのです。しかも採算が――」

「ねえ、ちょっといい?」と私はさえぎった。「今日は話したいことがあって。話したいというか、相談したいというか、提案したいとうか。だからそのお話はまたの機会に聞くから。ごめんね」

「はい」

「で、なんだっけ? そうそう、あれね、まえに坂野さんが電力供給源を占拠する話をしたじゃない? あのテロの話ね。私はそれをしようと思って計画をたててるの。冬は暖房を使うし、たくさんの電力を使うし、クリスマスがいいかなって。もうメンバーは何人か集まってて、計画はたいぶ決まってて、そうそう、催眠スプレーも用意してる。刃物だと怪我させてしまうかもしれないし、催眠スプレーは大切」

 私はそこまで言うと、黙った。坂野さんは何も言わなかった。ふとダンサトシのことが思い浮び、計画の話を持ちかけてみようと思った。ダンサトシならメンバーをすぐに集めてくれるような気がした。

「でね」と私は続けた。「占拠したあと、声明文をだすつもりなんだけど、おおまかに言うと、〈これは正義にもとづく行為です。電力供給源が占拠されたら大変だから警備体制を充実すべき、と言葉で訴えても、社会は変わることはありません。実際に事件が起こらなければ、変わることはありません。これはテロの予行練習です。我々は過激な集団ではありません。我々の目的は警備体制の充実、それだけです〉というものね。坂野さんにも参加してもらおうかと思ってて。どう?」

「はい、いいですよ」

「本当?」と私は坂野さんの顔をのぞきこんだ。

「はい」と坂野さんは私の目を見て答えた。

「そっか」と私は姿勢を戻した。「本当にいいの? だって、いや、まあいいんだけど。うん、じゃあ、参加してもらおうか」

 もし坂野さんが強盗の犯人なら、計画には参加しないはずだった。さきほど〈犯人の体毛が残っていた〉という話をしたのだから、もし犯人なら警察に捕まりたくないはずで、だから計画には参加しないはずだった。ただ、確信を持つことはできなかった。

 とても静かだった。おかしな気分だった。私は手のひらを強くにぎった。十秒ほどして、ゆるめた。にぎっているときより、ゆるめたあとの方が、より痛みを感じた。手のひらには爪跡が残っていた。

「最も悲しいことはなんだと思いますか?」

「えっ? そうね」と私は言い、トイレットペーパーのことを思いだし、微笑んだ。でもすぐに別のことが思い浮かんだ。「最も悲しいことか。最愛の人から裏切られることかな。最愛の人が死ぬより、最愛の人から裏切られる方が、よっぽど悲しい」

「最も悲しいこと、それは自殺する直前に、生まれてきたくなかったと思うことです。それはつまり自分の人生を全否定することです。僕はそんな人生を生きているのです。大衆を騒がせることだけが希望なのです。大衆を騒がせることを空想して、自分の人生に価値をみいだそうとしているのです。本当は死にたいのです。しかし自分一人が死ぬのは嫌です。アメリカの映画に小惑星の衝突による人類滅亡の危機を描いたものがありますが、ご存知ですか?」

「たぶん」と私は言い、映画の題名と主演俳優の名前を口にした。

「その映画では、小惑星に核爆弾を埋めこみ、爆発させて軌道を変えようとします。何人かの犠牲者は出ますが、最終的には成功して、犠牲者は英雄として(たた)えられ、ハッピーエンドです。しかし人類が滅亡するなら、それほどのハッピーエンドはありません。自分だけが死んで、ほかの人が幸せに暮らすのは(しゃく)ですが、みんなで一緒に死ねるなら、それほどのハッピーエンドはありません。人類はそれ以上の幸福を想像することはできないでしょう」

「計画には参加するのよね? さっきの計画には」

「はい、もしリサさんが本気でその計画を実行する気なら」

「もしかして嘘だと思ってる?」

「火力発電所がいくつあるかご存知ですか?」

「別に嘘だと思ってるなら、それでいいけど」

「僕は今とても驚いています。そして、これが人生の分岐点になるように思えて、いくらか期待しています。リサさんには人生の分岐点はありますか? 人生の分岐点とは〈あのときにあれをしていれば、今とは違う人生になったのに〉という後悔や〈あのときにあれをしたから、今の人生がある〉という達成感のことです。どうですか?」

「どうかな?」と私は明るく言った。頭の中には兄のことがあった。兄の命日は二日後だった。「うーん、どうだろう? すぐには思いつかない」

「僕にも人生の分岐点はありません。僕はいくつかの間違いを犯しました。とりかえしのつかない間違いも犯しました。しかし、もしそれらの間違いを犯していなくても、今のような人生になっていると思えるのです。結局、どのような道を進んでも、今のような状況に辿り着いただろうと思えるのです。それが絶望です。しかし今日の決断が人生の分岐点になるかもしれないと希望を感じています」

 それから私は坂野さんの話を聞き、時間が来ると、家の住所と携帯電話の番号を教えた。坂野さんは住所も電話番号も教えてはくれなかった。もし坂野さんが強盗の犯人なら、家に現金とアクセサリーが送られてくると思った。

 控室に戻ると、同僚たちが楽しそうにおしゃべりをしていた。そこには妙なやさしさがあった。それは〈女の強さ〉や〈女の仲間意識〉と言われるもので、私はそのことを当たり前に受け入れていた。私も彼女たちの一員だった。少し前まではそうだった。でも今では自分と彼女たちが別の世界にいるように思えて、やるせなさを覚えた。

 私は本を開き、彼女たちの声を聞いた。そこには愚痴と笑いがあった。どちらも明るいもので、少し悲しくなった。それでも、彼女たちがみんな人生を肯定できていることに気づくと、気分はずいぶん楽になった。実際のところはわからないけれど、おそらく彼女たちは生まれてきてよかったと思っているはずだし、私もそうだった。

 いくら本を見つめても、文字はうまく頭に入らなかった。そのうち人生の分岐点について考えていた。強姦未遂、兄の自殺、風香の自殺、弟の事件、どれも風俗嬢である私に似合うものだった。そういうことがあったから風俗嬢になったと言えなくもなかった。でもそうではなかった。私は今の仕事を誇りに思っているし、過去の悲劇のせいで今の仕事についたのではない。

 指名が来たので、本を置いて立ち上がった。お客様の顔が目につくと、愛想を見せた。彼は一年近くかよってくれている老人で、浴槽の中で話をするのが好きなようだった。この日は政治の話をした。それらはどれも理想論で、実現不可能に思えたけれど、私は共感してあげた。〈そうよね〉というやんわりとした共感ではなく、〈私もそう思う〉というしっかりとした共感をしてあげた。そこには誠実さはなかったけれど、思いやりはあった。

 控室に戻ると、本を開いた。同僚から話しかけられると、本を閉じて、調子をあわせた。彼女は宇宙科学が好きなようで、私は興味がないにもかかわらず宇宙に関する質問をしてあげた。彼女は丁寧に説明してくれて、とても満足している様子だった。だから私も満足した。

 その日の終わりに、店長に〈仕事をやめさせていただきたいのですが〉と告げた。店長は理由を聞いたりお店の現状を話したりして必死に引き止めようとしたけれど、最終的にはあきらめたようだった。事件のあとで取材を受けている店長の姿を思い浮かべると、微笑ましい気持ちになった。決心はすでに固まっていた。

 家に帰ると、弟に手紙を書いた。〈ダンサトシに聞きたいことがあるので、連絡先を教えてほしい〉という内容の手紙を。

 寝る前に、自分の前世について考えた。前世では悪いことをたくさん重ねたように思えたし、人並みに善いことと悪いことをしたようにも思えた。現世でもそうだった。悪いことをいくつかしたし、善いこともそれに匹敵するほどした。結局、どちらとも言えなかった。でも私には来世が楽しみだった。来世ではすばらしい人生を送れる気がした。それは自分の人生を誇りに思えていることで、つまり自分の人生を肯定できていることで、坂野さんにそのことを教えてあげようと思った。



31 兄の死


 兄が死んだのは十年前の十二月で、兄は二十一歳で、私は十七歳だった。

 その日はいつもと同じような朝だった。姉は大学が昼前からなのでまだ寝ていて、家族四人で朝食をとった。数時間後に兄が自殺するなんて誰も思いもしなかったし、兄自身もそうだった。

 私は兄と一緒に家を出た。外は雨が降っていて、傘をさして駅に向かった。兄は雨の日にはたまに〈黄色い傘っていいよね。曇った天気には黄色が映えるから〉と言うことがあった。このときも黄色い傘の話題になった。

「でも男の人が黄色い傘を持ってたらカッコ悪いけどね」と私は言った。

「黄色い傘をさすのがいいんじゃないよ。見るのがいいんだよ。わかるかな?」

「わかんない。私は赤でも青でも緑でもいいと思うし」と私は明るく言った。「オレンジはダメなんでしょ?」

「うん。オレンジの傘はいけない。赤やピンクならいいんだけど、オレンジの傘を見ると残念な気持ちになる、〈ああ、なんでオレンジの傘なんか〉って」

「私はオレンジも好きだけど」

 これはいつものやりとりだった。

 それから二人は兄の恋人について話した。兄はユキコさんのことを大切にしていたし、私も何度も会ったことがあり、ステキな女性だと思っていた。だからユキコさんのことは、二人にとって明るい話題だった。

 駅で兄と別れ、電車に乗った。そのときには気分の悪さを感じ始めていた。吐き気はなかったけれど、頭痛が少しあった。学校に着いたときには、頭痛は強くなっていた。そして昼前にはひどくなっていて、保健室で体温を計ると、高熱があった。私は少し仮眠をとり、早退した。

 まだ雨は降り続いていて、家に着いたときには激しくなっていた。

 玄関をあけた。そこには兄の靴があり、兄は家にいるようだった。でも頭が痛かったため、私は〈ただいま〉と声をはることはなかった。小さな声で言っただけだった。玄関が閉まる音がしたはずだけれど、激しい雨のためか、兄には届かなかった。私の足音もそうだった。とにかく、兄は私の帰宅に気づかなかった。そのために悲劇が起きた。

 私は自分の部屋の引き戸をあけた。

 そこに兄がいるとは思いもしなかった。兄は私の部屋に入る必要はないのだし、だから二階かリビングにいるのだと思っていた。でも、そこには兄がいた。私は自分の部屋に入る前に、洗面所に行って手を洗えばよかったのかもしれない。あるいは、キッチンに行ってホットミルクを作ればよかったのかもしれない。それだけの時間があれば、兄はどうにかできたはずだし、たとえば押し入れの中に隠れることもできたはずだし、でもそうはならなかった。私は玄関から一直線に自分の部屋に向かい、そして引き戸をあけ、そこにいる兄の背中を見た。

 兄は何も身につけていなかった。手には私のパジャマを持っていた。下着ではなく、パジャマだった。兄の行為は、社会的に考えれば、常軌(じょうき)(いっ)しているのかもしれない。でも生物学的や心理学的に考えれば、想定の範囲内と言えなくもないと思う。ただ、私はまだ若く、知識があまりにもとぼしかったので、受け入れることはできなかったし、受け流すこともできなかった。

 兄は家族の服を洗濯していたのだし、私の下着をさわる機会もあったのだから、わざわざ私の部屋に入ってパジャマでそんなことをしなくもいいように思える。でも、下着ではダメだったのか? パジャマでなければダメだったのか? それとも下着では飽きるほど試したのか? 今から考えてみても、何も理解できない。性欲を高めるためにはシチュエーションが重要なことはわかる。でも、どうして?

 兄の背中を見た私は、何もできなかった。声をあげることも、そこから逃げることもできなかった。背中を見つめることしかできなかった。兄は振り向くことなく、じっとしていた。雨の音だけが響いていた。

 長い時間が流れた。私は引き戸をそっと閉め、足音がたたないように注意しながら玄関に向かった。そして外に出て、傘をさして歩いていった。

 いつのまにかパン屋に来ていた。私はクロワッサンを二つ買い、家に帰ることにした。クロワッサンは兄のお気に入りのパンだった。

 兄の死体を見つけたのは、弟だった。

 私が家に着いたときには、弟はまだ帰っていなかった。向こうの方で何かの音が続いていた。耳をすませると、どうやら水の音のようで、洗面所まで行くと、シャワーの音だとわかった。私はダイニングで待つことにした。

 頭痛があったので、テーブルに伏せた。ふと、私も秘密を打ち明ければ大丈夫だと思いついた。お互いに恥ずかしい秘密を共有すれば、恥ずかしさは帳消しになる、そう思った。強姦未遂のことが思い浮かんだけれど、それを打ち明けるのは、おそらく逆効果だった。

 いくら待っても兄が出てくる気配はなさそうだったので、浴室の前に行った。

「ねえ、さっきのことは気にしなくてもいいから」と私は大きめな声で言った。シャワーの音は続いたままだった。「私もここに引っ越してきたばかりの頃、お花に話しかけてたでしょ? 覚えてる? あのことを思いだすと、今でも恥ずかしくて。さっきクロワッサンを買ってきたから食べてね。ダイニングに置いてるから」

 私は自分の部屋に行き、寝ころんだ。頭痛があり、眠れそうになかった。でもいつのまにか眠りに落ちていて、どれくらいの時間がたったのかはわからないけれど、誰かの声により目が覚めた。そちらに顔を向けると、弟がいた。弟はクロワッサンを食べていた。

「総志郎、死んでるな」

「何?」

「風呂に行ってみろよ。あれはもう――」

 私は飛び起きて、浴室に行った。

 兄は服を着ていて、シャワーの水で濡れ続けていた。壁には赤い液体がついていた。私はシャワーをとめることもドアを閉めることもなく、家を飛びだした。雨はまだ降り続いていた。思いっきり走った。すぐに疲れて、道路にしゃがみこんだ。胃の中のものを外に出そうとした。何も出なかった。激しい頭痛がしていて、失神すればいいと思った。意識ははっきりしたままだった。

 兄の自殺の理由はいろいろと言えると思う。

 羞恥心のために、現実逃避した。行動力があったために、先を急ぎすぎてしまった。小さい頃からことごとく順調にいっていたために、ちょっとした失敗に耐えることができなかった。自分の名誉を回復させるために、死ぬしかなかった。〈やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい〉という考えを信じたために、やってみた。

 昔は自殺の理由を何度も考えたけれど、今ではもう考えない。その代わり、〈頸動脈を切ってから意識がなくなるまでのあいだ、何を考えていたのか?〉と想像する。意識がなくなるまで数十分くらいかかったはずだし、兄は何を思いめぐらせたのか? 後悔はあったのか? 安らぎはあったのか? 事実は誰にもわからないけれど、私はそういうことを考える。それでも、もう感傷的になることはない。

 兄が亡くなった翌月の初め、つまり一月の初め、私は自宅近くの神社に行った。そこは一年前に兄とユキコさんと一緒に来た場所だった。そのときユキコさんは〈神社は家から一番近いものじゃないといけない。神社ってそういうところだから〉と言っていた。でも、その神社はユキコさんの家からは遠かった。ユキコさんはそういう人だった。献身的な人だった。

 そのとき、たまたまユキコさんに会った。ユキコさんは表情にとぼしく、目の下に陰りがあり、後追い自殺するのではないかと思えるほど悲哀に満ちていた。

 社交的なやりとりのあと、ユキコさんはこう言った。

「ちぃちゃんは飛行機の影を見たことはある?」

「飛行機の影? 飛行機って影ができるの?」

「みんなそうなのよ。私だって総志郎くんに会わなかったら、飛行機の影なんて存在してることすら知らなかったと思う」

「どれくらいの大きさなの?」

「もし本当に知りたいなら、実際に見た方がいいよ。総志郎くんならきっとそう言うと思う。総志郎くんってとっても物知りで、ちょっぴりロマンチストなところがあって、女ってそんな人が好きでしょ?」

「うん、そうよね」と私は同調した。でも共感したわけではなかった。兄の博識は多少ひけらかしの趣がなくもなかった。「狛犬(こまいぬ)は、一方は口をあけてて、もう一方は口を閉じてる」

「そうそう、口をあけてるのが()で、閉じてるのが(うん)ね。阿は始まりを意味して、吽は終わりを意味する。ひらがなも〈あ〉から始まって〈ん〉で終わるものね」

 それから二人は左の狛犬の前で、兄の長所をあげていった。ユーモアがあり、思いやりがあり、愚痴をこぼすことはない。それらの言葉により、私はむなしくなってきて、具体的な出来事をあげていくと、悲しくなってきた。私は涙を流したけれど、ユキコさんは泣くことはなかった。悲しみにかぎらす、感情を表にだすことはなかった。

 別れぎわにユキコさんはこう言った。

「スペインに行こうかと思ってるの」

「スペイン? スペインって、あの、ヨーロッパの?」

「そう。大学でせっかくスペイン語を勉強したわけだし、三月には卒業で、もう就職先には断ったし、スペインに住んでみようかと思ってるの。だからとうぶん会えないと思う。でも、十年後に会えたらステキだと思わない?」

「そうかも。十年たてばいろいろ変わってると思うし」

「きっと二人ともまったく違う感じになってるよ」

 そして二人は別れた。



32 小さな小さなシロクマ


 兄の十回目の命日が来た。

 私は目を覚ますと、朝食をとることも化粧をすることもなく、家を出た。いちおう玄関に〈お墓にいます。千里〉という小さな張り紙をしておいた。

 霊苑までは車で行った。猫も一緒だった。まずはお墓に参り、それから車の中でひたすら待った。昨夜まではユキコさんが来るように思えたけれど、今では誰も来ないように思えていた。ユキコさんだけでなく、姉も来そうになかった。実際にそうだった。夕方まで待ったけれど、見知った人は誰も来なかった。

 家に帰ると、缶ビールをあけ、ちびちびと飲んだ。何度も携帯電話を見つめ、姉にかけようかと思った。でも気が進まなかった。それでも姉からの電話を心待ちにしていた。

 そうしていると、ふと〈ユキコさんはもう死んでいるのではないか?〉と思い浮かび、いたたまれなくなった。当たり前だけれど、一人一人にそれぞれの人生がある。ユキコさんにはユキコさんの人生がある。その中に兄は含まれていて、私も少しは含まれている。でも、もしユキコさんが生きていないなら、ユキコさんの人生はなくなる。私の人生の中にユキコさんは含まれているけれど、そんなものは意味ない。ユキコさんはユキコさんの人生の中でしか生きられない。そんなことを考えて、もういない兄や父のことを思い、切なくなった。その切なさはビールで引き立てられるもので、私は孤独の本質がわかった気になり、呑気(のんき)に寝ころんでいる猫を心底うらやましく思った。

 結局、何もないまま一日が終わった。

 翌朝、目が覚めると、気分は切り替わっていて、まずは弟の返事を待つことにした。弟に手紙をだしたのは二日前で、だから返事はもう数日かかるはずだった。待っているあいだ、ダンサトシにどのように占拠計画のことを話そうかと考えた。

 やがて弟から返事が来た。それによると、弟はダンサトシの連絡先を知らないようだった。私は風香の家に電話して、モモカちゃんにダンサトシの連絡先を聞いてみた。でもモモカちゃんも知らなかった。そうなると、あの予言が気になってきた。あのときダンサトシは〈もう一度だけ会うことになりますよ。これが最後ではないですし、二度以上は会わないでしょう〉と言っていた。その言葉がなんだか意味深に思えてきた。それでも私には失うものはなく、不安になることはなかった。

 今度はスミレの住所を聞くため、弟に手紙をだした。返事を待っているあいだ、スミレに会うことを期待して、例の駅で時間をつぶすことにした。クリスマスに計画を実行するのであれば、なるべく早くスミレに会いたかった。その一方で、スミレの居場所もわからず、計画をあきらめたいとも思っていた。

 改札口付近をうろついていると、意外な人から声をかけられた。それはあのときにナンパした男の子だった。私は退屈しのぎに彼と話をした。彼は〈フルタナオさんは吹奏楽部にいましたよ〉と話しだしたけれど、あのとき私が言った名前は〈古井奈緒〉だった。それでも私は間違いを指摘することなく、話をあわせた。

 彼の話によると、フルタナオは明るい性格の美人で、吹奏楽部ではトロンボーンを担当していた。私は楽器にはぜんぜん詳しくなく、トロンボーンとはおそらくアンモナイトのような形の大きな金色の笛だろうと見当をつけ、美人のトロンボーン奏者を思い浮かべた。私の想像では、フルタナオはとても感じのいい女の子だった。銀色の細い笛を担当している美人には、嫌味なところが少しはあるけれど、トロンボーンを担当している美人には、嫌味なところは少しもない。

 彼の話を聞いていると、奇遇にもスミレを見かけた。それはとても良い兆候に思えた。私は彼に別れを告げ、スミレに近づいていった。やはりあの香水をつけていた。

「スミレ、ひさしぶり」と私は声をかけた。「今日は運がいい」

「ああ、お姉さん、こんにちは。今日も健ちゃんに会いに行ってたんですか?」

「いや、そうじゃなくて、なんというか、スミレに会いたいと思って」

「あたしですか?」

「うん」

 私は計画のことを詳しく話していった。そのあいだ、スミレは口をはさむことはなかったし、いぶかしげな表情を浮かべることもなかった。私の話が終わると、スレミは〈火力発電所の数は関係ありません。二つか三つ占拠すれば十分です〉と真面目に言い、〈あたしが指揮をとってもいいですか?〉と軽快に言った。私はお願いすることにした。

「こういうのって大好きです」

今更(いまさら)だけど、スミレってすごく変わってるよね?」

「ちと特殊な環境で育ちましたから」

「特殊な環境?」

「ママがフィリピン人なんです。見えないですよね、ぜんぜん。あたしはパパに似たのか、まんま日本人で」とスミレは言った。「ふだんは大丈夫だったんですけど、運動会とか参観日とか、そういうときにママが来て、チョー浮いてるんです。いや、肌の色もそうですけど、存在自体が。もうめっちゃ大変で」

「いじめとかは?」

「いじめはなかったです。でもあたしのママがフィリピン人というのは、ふれちゃいけない話題になっていて、なんか居心地が悪くて、その、なんていうか――」

「疎外感?」

「あっ、ですです。で、グレたんです。優等生より不良の方が偏見が少ないんですね」

「ああ、そうかも。じゃあ健吾はあまり偏見しなかった?」

「というか、健ちゃんはかなり偏見が強かったです。あたしが日本人とフィリピン人とのハーフだと知ったら、いきなり〈フィリピーナは体臭がきついから、そんな香水をつけてるのか?〉って。そりゃあもう嫌なやつだって思いましたね。むしろダンくんの方が偏見はなかったです。でも偏見って見えない恐怖で、だから言ってくれた方が逆にありがたいんです。疎外感を打ち消してくれるんですよ、まさに」

 この日からスミレと計画をたてていった。スミレの手際(てぎわ)は美しいと思えるほどスムーズで、一週間たらずで計画の準備はだいたい整った。スミレが集めてきた人たちは、半分はスミレの知人で、あとの半分はハローワークの入口付近で見つけた人だった。年齢は十代後半から五十代前半までと幅広く、なかなか興味深い集団になった。

 計画をたてる上で意見が割れたのは、声明文の主張だった。私もスミレも余計な主張は必要ないと考えていたけれど、メンバーの多くは社会に不満を持っていて、主張をしたがった。それでも彼らの主張はたいてい弱者や少数派に関することで、結局、世論から反発されないであろう主張はすべて盛りこむことにした。

 妹と奈緒ちゃんに計画のことを話したのは、おおまかな準備が整った日の夕方だった。私は缶ビールを手にすることなく、計画表を見ながら説明していった。二人とも黙って聞いていて、不安そうな様子はなかった。

「まあ、仕事をやめて、こういう計画をたててたわけ」と私は言った。「二人には参加するかどうか決めてもらおうかと思ってるんだけど、もし参加しなくても計画に支障が出ることはないし、そこは安心してね。参加するにしても、マヨは少年院に入ることはないし、もちろん少年刑務所に入ることもない。奈緒ちゃんもたぶん大丈夫。いろんな大人に事情を話さないといけないとは思うけど、すぐに帰れると思う」

「私、してみたいです」と奈緒ちゃんは威勢よく言った。「人質(ひとじち)の役を演じればいいんですよね? 首に包丁を突きつけられておびえたフリをすればいいんですよね? そういうのって映画みたいで楽しそうだし、めっちゃワクワクしてきました。やはり大々的に報道されるのでしょうか? 生中継されたり、総理大臣も声明をだしたり。だけど私は未成年だし、顔が映ることはないのかな」

「マヨはどう?」

「どっちでもいい」と妹はうつむいた。

「ねえ、マヨ、〈どっちでもいい〉という選択肢はないよ。〈する、しない〉の二択だから。まあ、今すぐ決めなくてもいいけど。クリスマスまでにはどっちか選んで。それとも私は刑務所に入らない方がいい? 私が参加しなくてもスミレがなんとかするし、問題ない。私が刑務所に入ったら、マヨは佐和子とアスカちゃんと暮らすことになると思うけど、もし今のまま私と暮らしたいなら、そう言ってね。私はどっちでもいいんだから」

「どうして?」と妹はうつむいたまま言った。

「何が?」

「どうして私はするかしないか決めないといけないのに、お姉ちゃんはどっちでもいいの? 私だってどっちでもいいもん」

「なるほど。それもそうね」と私は言った。「じゃあ私は計画に参加する。決めた」

「じゃあ私は参加しない」と妹はうつむいたまま言い、顔をあげた。「お姉ちゃんはどこにいるの?」

「何?」

「お姉ちゃんのお姉ちゃんはどこにいるの?」

「ああ、佐和子ね。佐和子なら、たぶんシンガポールかな。まえに電話したときにはシンガポールにいて。どうしてだかシンガポールに住んでるみたい」

「じゃあ、私もシンガポールに住むの?」

「さあ? よくわからないけど、まあ詳しいことは佐和子に聞いてみて。もし日本に住みたいなら、〈日本に住みたいです〉と言ったらいいよ。きっと受け入れてくれると思うし、まあ、無理なら無理ね。でも大丈夫。なんとかなるから」

 私は姉に電話して、計画のことを説明した。そのあいだ姉から何度も質問をされ、話はなかなか前に進まなかった。説明を終えた頃には三十分以上たっていた。私は携帯電話を妹にわたし、姉と交渉させることにした。妹はリビングに行った。

「カメとサワガニはどうしましょう?」と奈緒ちゃんは言った。

「別に、いや、そうね」と私は猫を見た。「ステファニー、あんたはどうする? まあ、なんとかなるよね。ねえ、マヨ、ステファニーのことも話してね。あの子は一人じゃ生きていけないから。お願いね。うん、そうね、奈緒ちゃんはお姉ちゃんのことは嫌いじゃないんでしょ? ならカメとカニはお姉ちゃんにあずければいいじゃない? でも奈緒ちゃんはすぐに家に帰れると思う」

「そうですね、姉にあずけましょうか」

「あの子たちは名前はついてないの?」

「ついてないですね。必要ないんです。話しかけないですし。あの花って名前はついてないじゃないですか?」と奈緒ちゃんは窓辺のプランターを指さした。「それって花には話しかけないからなんですよ。私、カメにもサワガニにも話しかけないし、だから名前は必要ないんです」

「そっか。だからステファニーには名前が必要なのか。奈緒ちゃんはステファニーに話しかけたりする?」

「私は柏木さんのようにステキな人じゃないので」と奈緒ちゃんは言い、ふと何かに気づいたような顔をした。「いえ、これは嫌味じゃありません。柏木さんは感受性が豊かなんですよ。だからステファニーちゃんに話しかけて。私、これまで尊敬できる人はいなかったんですけど、柏木さんのことは尊敬しています。だからもっと早くここに来ればよかったなと思っていて。もっと一緒に住みたかったです」

「そんなこと言われて、なんか照れるな。私も奈緒ちゃんに会えてよかったよ。奈緒ちゃんって生徒会長になるようなタイプでしょ? 自分の意見をちゃんと持ってて、いつもハキハキしてて、それに、いじめを見つけたら先生にチクるタイプね。学生の頃はそういう人は苦手だったんだけど、こうして一緒にいると、それなりに楽しい」

「さっきの話ですけど」と奈緒ちゃんは深刻そうに言った。「私には柏木さんは何も問題がないように見えて。どうして刑務所に入りたいんですか?」

「うーん、どうしてかな? 疲れたからかな」

「疲れた?」

「だって、いや、よくわからない。ただなんとなく刑務所に入ったら、そう、リセットするというか、うーん、でも少し違うな。本当にわからなくて。でもいいじゃない? もう決めたんだから。奈緒ちゃんは不安はないの?」

「少しもありません。とてもワクワクしてます。〈本当の自分〉って言葉があるじゃないですか? 私、ずっとそのことを考えていて、こんなこと言うのは陳腐ですけど、それは私の人生のテーマなんです。今の自分が本当の自分なら、家出をしなくてもいいし、刑務所に入らなくてもいいんです。だけど、そうじゃないから、どうにかして本当の自分を探そうとするんですよ」

「事件のあとはどうするつもり? どこに住むの?」

「あの家に戻るのは嫌です、絶対に。ここで柏木さんたちと暮らしてつくづくそう思いました」と奈緒ちゃんは唇を少し(とが)らせた。「以前に〈お年寄りの訪問ボランティアをしている〉と言ったじゃないですか? そこ、学校の近くなんですけど、そこに泊めてもらえればいいかなと考えています。そしたら朝は気長でいられますし」

「うまくいくといいね。でも、たぶん無理だと思う」

「そうでしょうか?」

「そのおばあさんは一軒家に住んでいるんでしょ? なら、近所の人の目が気になるものだし、だから難しいかもね。人間関係ってそういうものなのよ。年をとるほど責任感が出てくるし、責任感のある人は家出少女を泊めたりしない。しかもその子が社会的な事件に関わったとなると、なおさらね」

「現代は世知辛(せちがら)いですもんね」

 妹が電話を終えてダイニングに戻ってきた。妹が言うには、姉は日本に戻ってきて、猫をひきとったあと、雪が積もる街で暮らす予定らしかった。

 私は缶ビールをあけた。部屋の中はとても静かで、その音は気持ちよく響いた。奈緒ちゃんにビールをすすめてみたけれど、丁寧に断られた。妹にもすすめてみたけれど、そっけなく断られた。ふと思いつき、今度は奈緒ちゃんに〈これを飲むと、本当の自分が見つかるかもよ〉と言った。でも奈緒ちゃんは〈そういう意味じゃないです。居場所の問題なんですよ、本当の自分って〉と真面目に答えた。

 緊張がとけたためか、ふたたび姉に電話をかけた。そして姪といろいろな話をした。それは〈好きな動物は何か?〉や〈好きな色は何か?〉や〈最近どんなことをして遊んでいるか?〉という趣味や嗜好(しこう)に関する話題だった。姪は感情豊かで、声だけでもそれが十分に伝わってきた。

 姪がおしゃべりに飽きると、姉に代わってもらった。

「ねえ、いつうちに来るの?」と私は聞いた。

「クリスマスまでには顔を見せるつもりだけど」と姉は言った。「でもこっちで仕事してるし、しばらくは引っ越せない」

「どんな仕事?」

「別にたいした仕事じゃないよ。でも今すぐやめるのは損だし。春までにはなんとかなると思うけどさ、まあマヨもちょっとくらいこっちに住めばいいよ。海外経験ができるし、いいでしょ、それで?」

「いろいろごめんね」

「本当のこと言うと、千里がそんな計画をたてて嬉しくてさ」

「嬉しいの?」

「うん、めっちゃ嬉しい」

「なんで?」

「理由なんてないよ。ただ単に嬉しいだけ。計画が楽しみなんじゃなくて、千里が計画をたてて実行しようとしてることが嬉しい。〈さすが我が妹〉みたいな。まあ、がんばって。クリスマスまでにはそっちに行くから」

「わかった。ありがと。じゃあね」

「うん、またね」

 電話をきると、ひどく疲れていることに気づいた。重力というものを体の内側から感じ、ダイニングテーブルに伏せた。すぐ後ろからは妹と奈緒ちゃんが夕食を作っている音が聞こえていて、そこには姉妹のような雰囲気があった。それに気づくと、重力がだんだん心地よく思えてきた。

 私は顔をあげた。猫はテレビの前でのんびりと毛づくろいをしていて、私たちとは別の世界にいるように見えた。実際にそうなのかもしれない。猫は私が犯罪者になったとしても私を偏見することはないし、迷信にとらわれることなく生きている。

 私は自分の責任感の欠如について考えた。でも結論が出ることはなく、ビールを飲んでいると、どうでもよくなってきた。私は私だし、本当の私はここにいるのだから、何かを考える必要はない。私は本当の自分を見つけたのに、弟が事件を起こしたために自分らしさを手に入れたのに、なぜか刑務所に入ろうとしていた。問題はおそらく責任感の欠如だった。あるいは、他人とのつながりの希薄さだった。でもそういう理由はどうでもよかった。私は私で、本当の私はここにいる、それだけでよかった。酔いはその思いを助長して、テーブルに伏せていると、いつのまにか眠りに落ちていた。

 目が覚めると、煮物か何かの匂いがしていて、ゆっくりと顔をあげた。目の前には夕食があった。猫はすでにキャットフードを食べ始めていて、寝起きの視界のためか、それとも冬の寒さのためか、猫の白さはシロクマを思わせた。小さな小さなシロクマは元気よく食事をしていて、とても老婆には見えなかった。



33 猫の子分


 スミレにもダンサトシの居場所を聞いたけれど、結局どこにいるのかわからなかった。でもスミレが知人らにダンサトシの居場所を聞いてまわったので、(うわさ)が届いて、ダンサトシの方から来るように思えた。それでもいくら待っても来なかった。

 坂野さんからも連絡が来ることはなかった。そうなると、強盗の犯人はますます坂野さんに思え、いらだちを覚えた。少し前までは犯人は誰でもいいと思っていたのだけれど、いつのまにか犯人を知りたいという思いがめばえていた。捕まえたいとは思わなかったけれど、知りたかった。ただ、知ってしまえば、捕まえたいと思うようになるのかもしれない。そのためか、知りたくないとも思っていた。知りたいのに知りたくない。私の頭の中は、あいかわらず複雑だった。

 なにはともあれ、あとはクリスマスを待つだけだった。

 計画の入念な準備はスミレとあと数名でしていたので、私は家でのんびりとすごした。くだらないテレビを眺め、つまらない雑誌を開き、やる気のない猫と遊んだ。そういうしていると、あることを思いついた。それは二つあった。一つは風香の母親を計画に誘うことで、もう一つは露出狂に会いに行くことだった。昨年の秋、露出狂に会ったとき、サイフを持ち帰ったので、住所は知っていた。

 私はさっそく霊苑に行き、駐車場で待った。風香の母親はなかなか現れなかった。風香の命日は三日前だったので、十回忌を区切りにお墓参りをやめたかもしれないと思った。それでも待っていると、彼女が姿を見せた。格好は喪服というわけではなく、安っぽいコートにチノパンツと、カジュアルなものだった。

 私たちは一緒にお墓参りをした。そのとき風香のことをいくつか話した。

「あの子は人のために何かをするのが好きで、自分のほしいものはなく、人にあげることばかり考えていたようで、ホント、欲の少ない子で」

「そういえば、たしか高校一年生のときだったか、風香からベルギーのファッション誌をもらったことがあります。ヨーロッパ旅行のおみやげですね。いいセンスしてますよね、ベルギーのファッション誌をプレゼントするなんて」

「千里さんのためにがんばって考えたんだと思います、何をあげると一番喜んでくれるかと。いつもそうだったんです。だけど、自分のほしいものはなかったようで、旅行に行ってもみんなに合わせてばかりで。あの子は欲の少ない子で、おこづかいも自分のためには使わずに、いつも人へのプレゼントに使って――」

 彼女は何度も〈欲の少ない子〉という言葉を使った。私はそのたびに不快に思った。もし相手がモモカちゃんなら〈まあ、欲が少なかった割には太ってたけどね〉と冗談を言うこともできたと思うけれど、彼女には何も言えなかった。それは同情のためだった。どうしようもない同情のためだった。風香は両親に迷惑がかかることを知っていながら自殺して、もっと言うなら、両親に迷惑がかかることが自殺の原動力の一つになったかもしれないのだから。遺書がなかったので、すべては推測にすぎないけれど、それでも本当にどうしようもないことだった。

 別れる前に、私は計画について簡単に説明して、〈もしその気があるなら、参加してみませんか?〉と誘った。彼女は〈少し考えてもいいですか?〉と保留し、翌日に電話で断った。私は〈ええ、その方がいいと思います〉と言った。その言葉は本心だった。

 私は電話をきった。耳の中には彼女の声が残っていた。しっとりとした声で、歯医者に似合うものに思えた。たしか彼女の指は細くて長かった。私は気持ちを切り替えるため、露出狂のことを考えた。露出狂に会ったのは昨年の秋で、私はコートを外灯にひっかけ、サイフと車のカギを持ち帰った。あのあと、彼はどうしたのだろう? 外灯をよじのぼり、コートをとったのか? それとも自分の車の窓ガラスを割り、服を着たのか?

 私はこたつで寝ころんでいた。猫もこたつの中にいた。机の上にはサイフと車のカギがあり、どちらも露出狂のものだった。ふと、おならが出そうになり、少し考えた。でも結局、そのまま出した。ほどなくして、こたつから猫が飛びだしてきた。

「ごめん」と私は笑った。「ごめんね。そんなに強力じゃなかったと思ったんだけど。じゃあ、気分転換にお出かけしよっか? お昼だからいないとは思うけど、サイフとカギは返しておきたいし、まあ、行ってみようか」

 私はコートを着て、猫を抱きあげた。そして外に出て、車に乗った。

 まずはウイッグを買うことにした。どこに売っているのか見当もつかなかったけれど、雑貨屋に行くと、パーティーグッズとしてそれらしいものがいくつか並んでいた。その中で最も無難だと思われる銀色のウイッグを買い、車に戻った。さっそく頭につけてルームミラーで確認した。大きなサングラスと地味なコートのため、多少ふざけた格好にも見えたけれど、変装としては十分だった。

 私はあらためて露出狂の運転免許証を確認した。氏名は近藤宗男で、住所はマンションの一室だった。カーナビゲーションに住所を入力した。そして、知らない女性の指示に従って進んでいった。彼女はとてもおしゃべりで、また自分勝手でもあった。とても丁寧な口調だったけれど、自分の言いたいことしか言わず、私の言葉をことごとく無視した。それでも私は気を悪くすることはなかった。

 マンションの近くまで来ると、目についた駐車場に車をとめ、歩いていった。右のポケットにはサイフと車のカギがあり、左のポケットにもサイフと車のカギがあった。左の方が近藤宗男のものだった。風はやや強く、ウイッグの乱れが気になったけれど、ずれることはなかった。

 マンションの前に着いた。私は中に入った。エントランスの窓口には初老の警備員がいて、その人といくらか言葉をかわした。その人が言ったところによると、近藤宗男は奥さんと二人で暮らしているようだった。

 私はインターホンを押し、待った。

「はい、近藤です」と女性の声がした。

「あっ、近藤さんのお宅ですか? 私は宗男さんの知り合いの者で」と私はカメラらしきものを見ながら言った。「奥様ですか?」

「はい」

「宗男さんはお仕事ですか?」

「はい」

「そうですよね」と私は言った。「えっと、私の父が宗男さんとお友達で、学生時代の、ですね。昨年の秋だったか、宗男さんがうちに来たことがありまして、父と一緒に居酒屋に飲みに行くことになって、私が車で送ったんです。宗男さんの車で、ですね。そのとき車のカギをなくしてしまって。私の不注意で迷惑をかけてしまって、どうもすみませんでした。それで、じつはカギが見つかりまして、いまさら必要ないかもしれませんけど、今日はお届けに参りました」

「それはどうもすみません。では、そちらに」

「はい」

 しばらくすると、向こうから奥さんが現れた。彼女は声と同様にひかえめな雰囲気の女性で、とても露出狂の妻には見えなかった。そもそも露出狂にふさわしい妻なんていないのかもしれないけれど、背は高いものの、地味な顔立ちで、おとなしそうな感じだった。私は車のカギを返し、ついでにサイフも返した。

「あの、本当にすみませんでした」と彼女は頭を下げた。

「えっ? えっと、ということは、あのことをご存知なんですか?」

「いえ、何も知りません」と彼女はうつむいたまま言った。「ただ、夫が迷惑をかけたかもしれないと思って」

「でも、私だって迷惑をかけたわけで」

「いえ、夫が悪いんです」

「じゃあ、あの、あなたは宗男さんの――」

「いえ、私は何も知りません。すみません、本当に」と彼女はまた頭を下げ、向こうに歩いていった。

「えっと、あの」と私は彼女の背中に向けて言った。

 彼女は向こうに行ってしまった。私はしばらくその場にたたずみ、ふと思い、インターホンの前に行った。でも彼女のことが(あわ)れに思えてきて、帰ることにした。

 空はどんよりしていた。私はウイッグをはずして歩いていった。通行人の中には私の右手をいぶかしげに見る人もいたけれど、気にはならなかった。頭の中にはさきほどのことがあった。彼女は夫の露出癖を知っているようで、そのことを恥ずかしく思い、謝ったようだった。もしかしたら私が近藤宗男にしたことも知っているのかもしれない。そう思うと憐れだった。

 猫は助手席でおとなしく待っていた。ウイッグをとなりに置いてやると、仲間をえたような得意げな仕草を見せた。それは友達を見つけたというより、子分を見つけたという感じで、なんだか微笑ましかった。

「近藤宗男はいなかったよ」と私は猫に言った。「でもね、でもね、奥さんがいた。びっくりでしょ? まさか結婚してるなんて。でね、さらにびっくりなのが、なんと奥さんは夫の露出癖を知ってた。まあ、複雑だよね、そういうのって。夫のそういう部分を知ってて、それでいて結婚生活を続けてるわけだから。たぶん結婚前は知らなかった、というか絶対知らなかった。だって知ってたら結婚するはずないもん。なんか、かわいそうだったな。でもホントはね、ちょっと楽しいんだけど」

 帰りはカーナビゲーションは使わなかった。まだ渋滞する時間帯ではないようで、車はとどこおりなく進んでいった。猫は前足でウイッグとたわむれていて、その仕草はやはり親分を思わせるもので、私は満足した。

 家に着いた。妹も奈緒ちゃんもすでに帰宅していて、二人ともダイニングテーブルで宿題をしていた。私はどこか気分がよく、はずんだ声で〈ただいま〉と言った。奈緒ちゃんもはずんだ声で〈おかえりなさい〉と言い、妹は不愛想に〈おかえり〉と言った。

「どこに行ってたんですか?」と奈緒ちゃんは言った。

「ちょっとね」と私は言い、猫を床におろした。そしてウイッグを示した。「これ、おみやげ。誰かいる?」

「なんですか、それ?」

「ステファニーの子分」

「子分?」

「いや、ウイッグ。かぶってみる?」

「いえ、私はこれなので」と奈緒ちゃんは右のおさげを指先でつまんだ。「はみでますし、また今度にでも」

「じゃあ、マヨね」と私は妹の髪の毛をまとめ、ウイッグを乗せた。「こういうのって、どうしてだか子供の方が似合うのね」

「これかも」と妹は振り向いた。その勢いでウイッグが少しずれた。「あの犯人、これをかぶってたのかも、金髪のを」

「なんですか、犯人って?」と奈緒ちゃんは言った。

「いやあ、ちょっとね」と私は言い、八月の強盗事件の話をした。ただ、近所にも(うわさ)が広まっていたようで、奈緒ちゃんはおおまかなところは知っていた。「まあそういうわけで、犯人はウイッグをかぶってたかもしれないってこと」

 ついでだったので、妹に強盗のことについて聞いてみた。妹は私の目を見て〈もう終わったことだし〉と答え、特に気にしている様子はなかった。私が〈犯人が誰なのか知りたい?〉と聞くと、妹は〈わかるの?〉と返した。思えば、私は犯人を知らなかった。

 二人の宿題が終わると、三人で夕食を作り、みんなで食べた。私はビールを飲んだ。とても気分がよかった。また近藤夫妻のことを考えた。近藤宗男は妻からサイフとカギをわたされ、どう反応するのか? どなるのか、殴るのか、それとも謝るのか? あるいは妻にも露出癖があり、笑い話になるのか? 他人事のためか、そういうことを想像するのは楽しかった。

 翌日にはもう近藤夫妻のことを思いだすことはなかったけれど、翌々日にまた近藤宗男のことを考えた。今度は面白半分に考えたのではなく、真剣に考えた。近しい人のこととして真剣に考えた。

 その日の昼前に、手紙が届いた。名前は書かれていなかったけれど、おそらく坂野さんからの手紙で、そして近藤宗男からの手紙でもあった。

 近藤宗男のあの部分は、とても長かった。男の象徴を誇示するために露出狂になったのではないか、そう思えるほど長かった。そのことは印象に残っている。だから、もし坂野さんが裸になったら、私は気づいたかもしれない。坂野さんが私の体を求めることがなかったのは、そのためだったのかもしれない。



34 手紙――坂野さん


 嘘について話した時だったでしょうか、「僕は嘘ばかりついています。リサさんに話すべきことも黙っています」と言ったと思います。覚えていますか? その秘密を言ってしまうと、リサさんに会うことができなくなるので、言えなかったのです。しかしリサさんは本当にお店を辞めたようなので、もう会うこともないでしょうし、手紙を書くことにしました。

 僕とリサさんが初めて会ったのはお店ではありません。つまり今年の三月ではありません。それ以前にも一度会っています。あの時は夜だったので、リサさんは僕の顔をはっきりと見なかったかもしれません。また、あの時は眼鏡も口髭もつけていませんでした。僕が誰だか分かりますか? 昔のことでも忘れはしないでしょう。ヒントをあげます。僕はリサさんにあるまじき行為をして、リサさんは僕にひどい仕打ちをしました。これで分かりましたよね?

 初めてお店に行った時には、気づかれるかもしれないと心配していました。しかしリサさんは気づかなかったようです。

 復讐のためにお店に行ったのではありません。僕はリサさんを恨んではいません。お店に行ったのは、リサさんに興味があったからです。お店に行っているうちに、リサさんに会うことが楽しみになってきました。リサさんに会うことは希望でした。しかし、もう終わったようです。

 僕はあの計画には参加しません。申し訳ありません。



35 三十八年ぶりの満月


 私は近藤宗男のマンションに行くことを考えた。手紙をだすことも考えた。でも気が乗らなかった。会っても何を話せばいいのか思いつかなかったし、手紙を書こうとしても言葉は出てこなかった。結局、何もしないまま夜になった。

 寝る前に、ある勘違いに気づいた。それは衝撃的なことだった。眠れなくなるほど、衝撃的なことだった。

 坂野さんは近藤宗男なのか? 坂野さんは露出狂で、私と坂野さんが初めて会ったのは昨年の秋なのか? 違うかもしれない。私はゴミ箱から手紙をとりだし、目をとおした。二日前にマンションに行ったばかりだったので、この手紙は近藤宗男からのものだと思いこんでいたけれど、あらためて読んでみると、そうではなさそうだった。手紙には〈昔のことでも忘れはしないでしょう〉や〈僕はリサさんにあるまじき行為をして〉とあり、それは露出狂には不釣り合いだった。もっと適切な人がいた。

 私と坂野さんが初めて会ったのは十二年前で、坂野さんは強姦犯の一人かもしれない。露出狂は私のことをほぼ何も知らないし、だからお店に来るのは難しい。その一方で、強姦犯は私の名前を知っているし、制服から中学校を割りだせば、家の住所を調べることもできる。そうなると、お店に来ることもできる。それに、仮釈放もあるわけだから、今年の三月にお店に来たのも納得がいく。坂野さんは強姦犯だろう。

 思えば、最後に坂野さんに会ったとき、私は〈絶望したことが二回あって、一回目は中学三年生、二回目は今年の夏〉と言い、まずは夏の強盗事件の話をした。そのとき坂野さんは〈もう一つの方は何があったのですか? 中学三年生の方は?〉とうながした。私はそれを強盗事件の話を長引かせないためだと思ったけれど、そうではなく、ただ単純に、中学三年生の方が気になったのだろう。なぜなら坂野さんは強姦犯だから。

 私は混乱した。手紙の内容からすれば、もう坂野さんと会うことはなさそうだった。そのことを頭で理解していても、漠然とした不安にとらわれた。それでも私には刑務所という希望があった。占拠計画という希望があった。

 いつのまにか眠りに落ちていた。

 翌日は土曜日で、目が覚めると、坂野さんのことは昨夜ほどは気にならなくなっていた。それより、今日来る予定の姪のことばかりが頭に浮かんだ。

 姉と姪は昼すぎに来た。姉は〈あしたの夕方に帰るから〉と言い、さっそく冷蔵庫をあけた。姪はすでに猫を捕まえていた。私は二人の遠慮のなさを嬉しく思った。

 姉は計画のことより奈緒ちゃんに興味があるようで、奈緒ちゃんとばかり話していた。だから私は姪と心置きなく遊ぶことができた。にらめっこをして、じゃんけんをして、しりとりをして、トイレットペーパーの芯でキャッチボールをした。姪が笑ってばかりいたので、そばにいる四人も自然と明るい表情になった。

 翌日も同じようにすごした。私は姪と遊び、姉は奈緒ちゃんと交流し、猫は自分のペースでのんびりしていた。それから、姉の提案により、妹は家族写真風の絵を描いた。その絵はよくできていて、私は〈もう一つ書いて〉とお願いした。結局、妹は全員分の絵を描いた。

 あっというまに夕方になった。別れぎわに姉からこう言われた。

「千里は昔に〈いつも佐和子の味方でいてあげる〉と言ったじゃん? 私もそうだから。私も千里の味方でいてあげるから。どんなときでも味方でいてあげるから。マヨは私が面倒をみるし、だから自分の思うようにすればいいよ」

 私は思わず泣いてしまった。姪は私のことを励ましてくれた。妹は何も言わなかったけれど、ちゃんと心が通じ合っていると思った。

 私には味方になってくれる人がたくさんいた。姉と妹と姪、それに奈緒ちゃんとスミレ。私は恵まれた環境にいたし、そのことをきちんと心得ていた。それでも決心はゆるがなかった。

 それから何もなくクリスマスが来ると思っていた。でも違った。

 クリスマスの二日前の夜、妹はお風呂に入っていて、私と奈緒ちゃんはソファーに座ってテレビを見ていた。猫は私のひざの上にいた。

 インターホンが鳴った。最近は出前をとることもなかったので、その音は妙になつかしく響いた。奈緒ちゃんに出てもらうことにして、私はテレビを見つめた。そこには健康番組が流れていて、体格のよい男性医師がおだやかな口調でしゃべっていた。奈緒ちゃんはなかなか戻ってこなかったけれど、声は小さく聞こえていて、相手がダンサトシであることはわかった。でも私は立ち上がることはなかった。

「あのう」と奈緒ちゃんは引き戸の陰から顔をのぞかせた。「ダンサトシという方で、〈ユキコさんはいますか?〉ということです。お知り合いですか?」

「まあ、知らなくはないけど、でも帰ってもらって」

「だけど、〈ここは健吾の家ですよね?〉とも言ってたし、健吾って柏木さんの弟さんですよね?」

「そう、ダンサトシは健吾のお友達。でも私の友達じゃないし、帰ってもらって」

 奈緒ちゃんは玄関に行った。私はテレビの音量をおとし、耳をすませた。奈緒ちゃんが丁寧に断ると、ダンサトシはあっさりと引き上げた。私はテレビの音量を戻した。

 奈緒ちゃんは戻ってきて、ソファーに座った。

「ユキコさんって友達ですか?」

「ユキコさんは、お兄ちゃんの恋人」と私は言い、ひざの上の猫をなでた。「というか、お兄ちゃんが自殺したときにお付き合いしてた人。今はスペインにいる、たぶんね。玄関のカギは閉めた?」

「はい、閉めました」

「たぶんもう一回インターホンが――」と私が言ったとき、窓からコツコツという音が聞こえてきた。どうやらダンサトシがたたいているようだった。「まあ、ほっとこうか。窓のカギも閉めてるでしょ?」

「冬ですし」と奈緒ちゃんは言った。「あの人、何者ですか?」

「弟の友達で、でもよくわからなくて。そうそう、同性愛者なんだって。奈緒ちゃんは同性愛者に会ったことはある?」

「いえ、ないです」

「でもあの人は同性愛者なのよ。人は見た目じゃわからないよね」

「容姿がとても整ってる人ですし、なんかもったいないですね」

「それは奈緒ちゃんが女の子だからそう思うのであって、同性愛者からすれば別にもったいなくないよ」

 いつのまにか窓のコツコツという音はなくなっていた。

 テレビでは妊婦の運動の話題がされていて、それを見ていると、ふと〈刑務所に入るなら、妊娠している方がいいかもしれない〉と不謹慎なことを思いつき、もうずいぶん会っていない元恋人のことを思った。すぐに携帯電話を手にとり、頭の中で話すことをめぐらせた。刑務所に入る覚悟があったためか、何も怖くなかった。

 携帯電話の発信ボタンを押そうとした、ちょうどそのときだった。玄関から〈おじゃまします〉という声が聞こえてきて、私は奈緒ちゃんと顔を見合わせた。

 リビングにダンサトシが入ってきた。

「どうやって?」と私は言い、奈緒ちゃんを見て、またダンサトシを見た。相手は立っていたので、見上げる形になった。

「玄関から入ったんですよ。これです」とダンサトシは銀色のカギを示し、テーブルに置いた。「健吾のですよ。返しておきますね。それが例のステファニーですか?」

「この子はキャロライン。ステファニーは春に死んだ」

「そうですか。ステファニーは何歳ですか?」

「だからこの子は――」

「ステファニーですよね? 十歳くらいでしたっけ? モップみたいですね。歩くだけで掃除できそうです、お腹で」

「まあいいけど」と私は言い、ひざの上の猫をなでた。太っていても、やんわりと背骨を感じた。「なんというか、じつは私も用があって。だから向こうで話せないかな?」

「用があるのに追い返したんですか? ひどいな」とダンサトシは笑った。

「あのときは用はなかったの。でもよく考えてみたら――」と私は猫をおろして立ち上がった。「まあとにかく、あっちに行こう」

 私はダンサトシを自分の部屋にまねいた。でもすぐに気が変わり、二階の兄の部屋に行った。その部屋は机とイスとベッド以外には何もなく、妹が定期的に掃除していたので、ほこりも積もっていなかった。ただ、エアコンをつけると不快な臭いがした。部屋はすぐには暖まらなかった。パジャマの上にはガウンをはおっていたので、寒いのは足もとだけで、私は押し入れから布団をだし、ベッドに敷いた。

 ダンサトシはベッドに座り、話し始めた。それによると、ダンサトシは計画のことを知っていた。でも計画に参加するために来たのではなかった。私と話をするために来たのだった。

 私にはその言葉がうまく飲みこめなかった。私は一階におり、缶ビール二本と猫をかかえて二階に戻った。床がひんやりしていたので、ふたたび下に行き、電気カーペットを持ってきた。

 静かだった。エアコンの音だけが聞こえていた。ブラウン色のカーテンは殺風景な部屋に似合っていて、それは時代というものを感じさせず、五十年前でも五十年後でもなじむように思えた。私はカーテンをはぐって外を見た。満月のため、外は意外と明るかった。ふと、テレビで誰かが〈今年のクリスマスは満月で、それは三十八年ぶりのことで〉と言っていたことを思いだし、よく見てみると、月はわずかに欠けていた。

 私はダンサトシのとなりに座った。そのときベッドが高い音をたてた。ベッドに両手をついて座り直したけれど、もう音はしなかった。

「あのおさげの子はなんでこの家にいるんですか?」

「なんでって」と私は言い、缶ビールをあけた。「家出したからかな。家族とうまくいってなくて、どこかほかの家に住みたかったみたい。で、ここに来たわけ」

「おかしな子ですね、あの子は」

「知ってるの、奈緒ちゃんのこと?」

「どうでしょうね」とダンサトシは言い、ビールを口にした。「あのときした予言を覚えてますか? 二つしましたよね。〈あなたは僕に感謝する〉というものと、〈あと一度だけ会うことになる〉というものです」

「今日それが実現するの?」

「どうでしょうかね」

「犯人を知ってるんでしょ? 強盗の犯人を」と私は愛想よく言った。

「妹さんが犯人だったんですよね? あのとき言ってませんでしたっけ?」

「あれは勘違いだったみたい」

「でも、妹さんが犯人かもしれませんよ」

「そうなの? いや、でもそれはないよ。まだ十一歳だし、催眠スプレーを使うほど手のこんだことをするとは思えない」

「共犯者がいる可能性は考えましたか?」

「何?」と私はダンサトシの顔を見た。

「リサさんは驚いた顔も綺麗ですね」

「マヨが犯人なの?」

「どうでしょう?」とダンサトシは余裕のある声で言った。「可能性としてはありうると思いますよ。妹さんが犯人かもしれませんね」

「ねえ、私はね」と私はさとすように言った。「もったいぶられるのって嫌いなのよ。だから犯人を知ってるなら今すぐ教えて。それができないなら今すぐ帰って」

「なら帰ります」

「ごめん、そういうことじゃなくて」と私は笑った。「ごめん、私が悪かった。帰らないで。はい、座って。ゆっくりでいいから話して」

「共犯者はいません。単独犯です。妹さんは犯人を見たんですよね?」

「うん、背の高い女だって。金髪でサングラスをかけてて、あとニット帽ね」

「そうですか。あなたはここ一週間で何人の女性と言葉をかわしましたか?」

「そうね」と私は言い、露出狂の妻のことが思い浮んだ。

「まあいいです。では、もったいぶらずに言いましょうか」

 そのとき、向こうから携帯電話の着信音が小さく聞こえてきた。私は立ち上がり、ドアをあけた。着信音は大きくなった。妹は階段を半分ほど上がっていて、私と目が合うと、携帯電話を示して〈電話〉と言った。私が〈投げて〉と言うと、妹はアンダースローで投げた。電話はスミレからで、要件は、計画当日の待ち合わせ時間を三十分早くする、ということだった。

 私は電話をきり、ダンサトシのとなりに座った。

「誰からですか?」

「スミレ」と私は言った。

「そうですか。では、強盗の話ですがね」とダンサトシは言い、ビールを飲んだ。「驚かないでくださいね。犯人は今この家にいます。ずいぶん大胆な人ですね。なんでいるんでしょうね」

「えっ? えっ、どういうこと? 奈緒ちゃんなの?」

「あの子はおかしな子ですね」

「どうして、どうして奈緒ちゃんが――」と私はつぶやき、奈緒ちゃんが長身であることを思った。「でも、でもマヨは犯人を見たはずで。証拠はあるの?」

「時間がたてばわかります。たぶんクリスマスまでにはわかるでしょうね」とダンサトシは言い、立ち上がった。「では、帰ります」

「待って」と私は手首をつかんで引き止めた。

「まだ何かあるんですか?」

「何もないけど」

「あなたの手はやわらかいですね」

「どうして、どうして嘘を――」と私はつぶやき、妹が海で〈うそつき〉と叫んだことを思いだした。

 沈黙が少し流れた。

 二人とも立ったままで、動くことはなかった。猫は紺色のカーペットの上でまるまっていて、その白はとても明るく見えた。

 いつのまにか頭の中には妊娠のことがあり、私はふと思い、ダンサトシに口づけをして、ベッドに押し倒した。ビールがこぼれたけれど、かまうことなく、角度を変えながら唇を重ね合わせた。ダンサトシも私の調子にあわせた。私はおそるおそるダンサトシの下半身をさわった。それは正常で、体の力が一気に抜けた。体の力というか、心の(せん)か。

 私には何もわからなかった。現実から目をそむけたくなり、部屋の明かりを消した。ドアの隙間から明かりがもれていたので、廊下の明かりも消した。それからふと気づき、カーテンを半分あけた。月の光はとても明るかった。カーペットの上には窓の形の光の空間ができていて、猫はその中心にいた。

 私は何も考えることなく、感覚をとぎすませた。過去も未来もなく、興奮に身をゆだねた。猫が何度か鳴き、その声に親しみを覚えた。もう何も知りたくなかった。ここでじっとしていたかった。眠気が訪れると、目を閉じた。となりにはダンサトシがいて、猫はカーペットの上にいた。

 目が覚めたときには朝になっていた。エアコンはついたままで、寒くはなかったけれど、のどがひどく渇いていた。部屋には猫しかいなかった。床には二本の缶ビールが並べられていて、そのとなりには指輪とネックレスとイアリングがあった。それは夏に強盗犯に奪われたもので、私はパジャマを着ると、一目散に階段をかけおりた。

 ダイニングには奈緒ちゃんがいて、いつもと変わらず〈おはようございます〉と元気よく言った。妹もいつもの調子で〈おはよう〉と言った。私は少し混乱して、奈緒ちゃんを見つめた。どうして奈緒ちゃんがここにいるのかわからなかった。二階には強盗犯に奪われたアクセサリーが置かれていた。でも奈緒ちゃんはここにいて、平然としている。どうして?

「奈緒ちゃんだったの?」と私は言った。

「なんですか?」と奈緒ちゃんは言った。

 何が何なのかわからず、私はテーブルに伏せた。そうしていると、あることに気づいた。昨夜ダンサトシは〈犯人は今この家にいます〉と言っていた。そのとおりだった。たしかに犯人は昨夜はこの家にいた。その人はなぜか家のカギを持っていて、玄関から堂々と入ってきた。そして挨拶もなく出ていった。



エピローグ


 クリスマスの事件は滑稽なものになりました。火力発電所の占拠には成功しましたが、私たちは世間からカルト集団に思われました。もしかしたら占拠中はそうではなかったかもしれません。しかし私たちが逮捕されたときには、私たちは滑稽な存在になっていました。とにかく、私たちの行為は革命とは程遠いものになりました。それでも私は刑務所に入ることが目的だったので、それでかまいませんでした。

 物語はこれでおしまいです。ただ、味気ないように思えるので、私たちのその後について少々ふれておきます。

 私が刑務所に入っているあいだ、妹は姉たちと暮らしました。姉が言うには、妹は何も問題なく日々を送ったそうです。私が出所すると、妹と私はまた二人で暮らすようになりました。もちろんあの家ではなく、別の家にです。二人とも動物番組はあいかわらず熱心に見ましたが、ニュース番組を見ることはなくなりました。部活動や仕事で忙しかったのです。それから、私はお酒を飲むことはなくなりました。それは習慣のためです。刑務所で生活しているうちに、お酒を飲まないことが当たり前になったのです。

 姉と姪は、年に何度か私の家に来ました。不思議なことに、姪は成長するごとに姉に似てきました。二人について書くことはたくさんあるのですが、どれもささいなことなので、結末だけ書いておきます。姉は二年前に亡くなりました。姪は家族とニュージーランドに住んでいます。

 クリスマスの事件のあと、奈緒ちゃんは姉夫婦のもとで暮らすようになりました。私は長いこと文通をしていたのですが、それによると、奈緒ちゃんはカナダの大学に行き、キャビンアテンダントになり、エジプト人男性と結婚して、数年後に離婚して、今度はオランダ人女性と結婚して、それからはオランダを拠点に生活していたようです。亡くなったのは、今年の初めです。

 私は規則正しい生活を送ってきたわけではないのに、まだ元気に生きています。不思議なものですね。長生きをするということは、多くの死に出会うということです。弟が亡くなり、姉が亡くなり、妹が亡くなり、スミレが亡くなり、奈緒ちゃんが亡くなり、過去を共有していた人たちはほとんどいなくなりました。

 さて、ほかの人たちのことも話しておきましょう。

 刑務所にいるとき、坂野さんから手紙が届きました。内容は懺悔(ざんげ)にあふれたものでしたが、冒頭はこういう明るい報告でした。

「下の者は上の者にネガティブな感情を持っているものですが、上の者は下の者にネガティブな感情を持つことはありません。ひがみも妬みも(あざけ)りも悪口も誹謗中傷も、下の者がすることなのです。あなたのおかげで下の者から抜けだすことができました」

 私はこの部分を読んだとき、父のことを思いました。父は悪口ばかり言っていました。しかし幸せそうでした。世の中には上の者もいれば下の者もいますが、実際には上も下もないのです。奈緒ちゃんが言っていたように、本当の自分でいられれば、それでいいのです。坂野さんは自分の居場所を見つけることができたのでしょう。

 私は坂野さんからの手紙を読んでも、心が乱れることはありませんでした。平常心で読むことができました。読み終えたときには、坂野さんに同情していました。

 スミレは刑務所に入ることはありませんでした。スミレも発電所内に侵入して、一緒に占拠していたはずです。しかしいつのまにか行方をくらましていました。何がどうなったのかは知りません。その後、スミレと会う機会は何度もありましたが、その話はしなかったので、真相はわかりません。

 風香の家に行ったのは、出所してすぐのことです。看板には〈歯科〉の文字が戻っていました。私はそれを確認すると、風香の母親にもモモカちゃんにも会うことなく、帰りました。もし彼女たちに会ったら、感謝の言葉をかけられたかもしれません。そうなると、私はいたたまれなくなったでしょう。だからすぐに帰ったのです。

 近藤宗男のことは知りません。その妻のことも知りません。出所してからしばらくして、私はふと近藤宗男のことを思いだし、あのマンションに行きました。しかし引っ越しをしていました。もしかしたら私がサイフと車のカギを返したせいで、引っ越しをすることになったのかもしれません。

 ユキコさんとは一度だけ会いました。そのとき三人の子供も一緒でした。ユキコさんはスペインには行かず、日本で仕事につき、兄の自殺から六年後に結婚したそうです。それで、兄の十回目の命日には、育児で忙しかったため、お墓を訪れることはなかったそうです。結局、私とユキコさんが再開したのは、兄の十八回目の命日でした。お互いにこれまでの経緯を報告したあと、兄の思い出話をすることもなく、別れました。三人の子供が活発だったためか、ユキコさんはとても幸せそうに見えました。私にはそれが何よりも救いに思えました。綺麗事かもしれませんが、自殺した人をむくいる方法は、残された人が幸せでいることなのです。

 それから、少し驚くようなことを書きますが、というより、かなり驚くようなことを書きますが、私が出所した日の夜に、妹は長いあいだかかえていた問題を告白しました。妹が海で〈うそつき〉と叫んだのは、おそらく自分自身のことを言ったのでしょう。父の胸に包丁を突き立てたのは、弟ではなく妹だそうです。弟はイスで父を殴打(おうだ)して、その場を去り、妹は何を思ったか、気を失っている父の胸に包丁を突き立てたそうです。妹の母親が男を刺殺したとき、妹はその場にいましたが、そのことが影響しているのは確かでしょう。しかし、妹に殺意があったかどうかはわかりません。妹自身にもわからないのです。

 ダンサトシの予言は二つとも当たりました。予言とは〈リサさんはいずれ僕に感謝することになりますよ〉と〈もう一度だけ会うことになりますよ。これが最後ではないですし、二度以上は会わないでしょう〉というものです。私はダンサトシに感謝しましたし、あの夜以来ダンサトシには会っていません。

 刑務所にいるあいだ、私はひどく腹をたてていました。ダンサトシの嘘を思い返しては、悔しさや憎しみにとらわれ、どうにか復讐したいと思っていました。

 しかし妹の告白を受けて、ふとある推測を思いつき、心持ちはずっと楽になりました。その推測とは〈ダンサトシが妹に催眠スプレーをかけてガムテープを巻きつけたのは、妹の罪悪感をやわらげるためだったのではないか?〉というものです。妹は父を殺して罪悪感をかかえていたはずです。ダンサトシはそれを緩和するために、犯行におよんだのではないでしょうか? 悲劇を与えることにより、妹の気持ちを楽にしようとしたのではないでしょうか? げんに、催眠スプレーはなぜかダイニングに残されていました。そのことを考えると、その推測はあんがい的を射ているように思います。しかし、考えすぎでしょうか? ただ私か弟に恨みがあり、犯行におよんだのでしょうか? それとも、娯楽としてあのような卑劣なことをしたのでしょうか? 真相はわかりませんが、妹は〈あのことがあって、なんか気が楽になった〉と言っていました。私にとって大切なのはそれです。犯行の動機はどうでもいいのです。

 弟は出所したあと、スミレと一緒に小さな一軒家に住み始めました。結局、二人の同棲生活は一年ほどで終わったのですが、それはさておき、私はそこを訪ね、弟に殺人事件のことを聞きました。弟が言うには、父を殺したのは自分だそうです。胸にささった包丁を抜いたのは妹ですが、胸に包丁を突き立てたのは弟だそうです。

 どういうことでしょう? 妹は自分が突き立てたと言い、弟も自分が突き立てたと言い、どちらを信じればいいのでしょうか?

 記憶は不確かなものです。どれだけ信用していいのか疑わしいところがあります。自分の思っている過去が、実際に起こった事実と異なることもあるようです。弟の推測によれば、妹は〈母親が男を刺殺したときの記憶〉と〈父の胸から包丁を抜いたときの記憶〉を反芻(はんすう)しているうちに、自分が父の胸に包丁を突き立てたのだと誤解するようになったそうです。ただ、私は弟の推測より妹の告白を信じています。それでも弟も妹も亡くなっている今では、どちらでもいいのですが。

 猫は私が刑務所に入っているときに死にました。彼女は子供を産むことはなく、交尾をすることもなく、食事と睡眠だけに生きました。私は彼女のことを思うと、ひどく誇らしい気持ちになります。


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