19章~26章
19 エッセイ――責任感
小説家の責任はどこまであるのでしょうか?
たとえば、ミステリー小説と同じ手口の殺人事件が起きたら、作者には責任があるでしょうか? それは法律的な責任ではなく、作者が良心の呵責をいだくかどうかということです。犯人がその本を読むことがなければ、事件が起きることはなかったかもしれません。そうなると、その本が出版されたことが事件の発端になるのです。
もしかしたらミステリー小説を模した完全犯罪がどこかで起きているかもしれません。その事件のために冤罪で服役している人がいるかもしれません。自分のもとまでその情報が届いていないだけで、実際にはすでに起きているかもしれません。
もしミステリー小説を模した事件が公になると、ミステリー作家は不安をいだくようになるでしょうか? 小説の中に画期的な殺人方法を書くことが非難されるようになるでしょうか?
殺人事件は大げさですから、詐欺事件について考えてみましょう。
今では振り込め詐欺はありふれた犯罪ですが、まだそうではなかったときに、小説の中に振り込め詐欺の手口を書いたとします。そして実際に今のような状況になったとしたら、作者はどう思うでしょうか? また、人々はどう反応するでしょうか? 作者を非難するでしょうか?
それらの答えは人々が出すことではありません。みなさん一人一人が考えることです。答えは実際にその状況に置かれると自然に出るものですが、考えることは大切です。考えることにより生き方はほんの少し変わるのです。
さて、前置きが長くなりましたが、実際に起きた事件を取り扱いましょう。
事件の結果だけを書けば、きわめて簡単です。
「母子家庭において、母親が生活費に困り、娘を殺した。そのあと自分も死のうとしたが、死ねなかった」
たったそれだけのことです。無理心中を図って自分は死ねなかったという事件は珍しいものではありませんね。しかしその事件の経緯は複雑です。どんな事件にも奥行きがあるのです。
事件の一ヵ月前、母親は役所に生活保護の相談に行きました。しかし役所の職員は親身になって話を聞くことはありませんでした。そのときの面談記録が残っているのですが、収入の欄は空欄になっています。すなわち、職員は相談者の収入を知ることなく、追い返したのです。母親の言い分によると、「申請しても厳しいでしょう」と断われたそうです。それでも母親は家賃を払うことができないほど困窮していました。
ここにも責任が発生しますね。法律的には職員には非はないですが、道徳的には職員にも非があるでしょう。もし職員が親身になって話を聞いていれば、母親は娘を殺すことはなかったかもしれません。しかしそれは一つの見方であり、別の視点から考えることもできます。不正受給をする者がいるために、職員は生活保護の申請に消極的になっていたのかもしれません。そうなると、不正受給者の責任もあり、もしくは生活保護の制度を管轄している国の責任もあるでしょう。(生活保護について調べてみると、職員もそうとう大変そうで、「職員にも非があるでしょう」などと書くと、一部の人から反感を買うかもしれません。私は一つの見方としてそう書いただけですので、あしからず)
このことは母親が死ななかったために発覚しました。もし母親が娘を殺したあとに自殺していたとすると、このことが明るみに出ることはなかったかもしれません。役所の職員も相談者が心中したことを知らずにいたかもしれません。
誰もが気づかないあいだに他人に危害を加えていることがあります。たとえば、インターネット上で見ず知らずの人を罵倒することで、その人が通り魔になるかもしれません。もしくは、私は読者から手紙をいただくことがあるのですが、その返事を出さないことで、読者が自殺するかもしれません。世界はつながっているのです。
誰もが社会の一員です。そしてそのことを意識したとき、責任感が生まれます。気づいたときには、責任感は罪悪感になっているかもしれません。そうなる前に、責任について考えてみることが大切だと思うのです。考えることにより生き方は変わるのですから。
20 カニの運動神経
一九八八年八月八日生まれ。
統計的に考えれば、そういう人は日本に三六〇〇人ほどいる。私はそのうちの二人を知っている。一人は私で、もう一人は竹下舞という小説家。
竹下舞のことを知ったのは、テレビのニュース番組だった。有名な文学賞を受賞して、ニュースで紹介されていた。例年の習慣として、その文学賞を受賞した人は記者会見をするのだけれど、竹下舞はその場に現れることはなかった。それどころか、コメントをだすこともなく、後日に行われた授賞式に出席することもなかった。そのことで多少の非難をあび、皮肉にも、それが話題になって本が売れた。私も本を買った。そして生年月日が同じであることを発見して、親近感を覚えた。
姉と姪が帰ったあと、私は週刊誌を開き、竹下舞のエッセイに目をとおした。それは責任感について書かれたもので、母子家庭の貧困の問題にふれられていて、ふと同僚のことを思った。
彼女は二十四歳のシングルマザーで、週五日お店で働いていて、恋人も友達もいなくて、ある意味では息子のために生きていた。そういう現状からか、あるいは同情を求める心からか、あるとき彼女は軽い口調で〈たまに息子を殺したくなって。その方が幸せかもしれない〉と言った。私は〈そういうのって、けっこう難しい問題よね〉と返した。
私はそのときのことを思い、彼女のことを考えた。私は彼女を好んでいる。でも彼女と積極的に交流しようという気にはなれない。もしかしたら彼女は私を求めていて、私と深く接することで、彼女の精神は安定するかもしれない。そうだとしても、私は彼女と一定の距離を保っておきたい。私には責任感が欠如しているのか?
インターホンが鳴った。九時半だった。
私はカレンダーを見た。日曜日であることはわかっていたけれど、何日かはわからなかった。妹に〈今日って何日だっけ?〉と聞くと、妹は〈日曜〉と答えた。私が〈誰か来たよ〉と言うと、妹は〈そうみたい〉と返した。そのときもう一度インターホンが鳴り、私は立ち上がった。
もしかしたら姉が忘れ物をして戻ってきたのかもしれないと思った。でも玄関をあけると奈緒ちゃんがいて、いささか残念に思った。奈緒ちゃんは前回と同じく三つ編みのおさげをたらしていたけれど、厚手のパーカーにブルージーンズで、しかも右手には真新しい旅行カバンを持っていたので、前回とは違い、おさげは野暮ったく見えた。田舎から都会に出てきた小娘のようだった。
「あらっ、うちに来れることになったの?」
「はい。お世話になります」と奈緒ちゃんは丁寧におじぎをした。「自転車はあそこに置かせていただきました、マヨちゃんの自転車のとなりに。私、カメとサワガニを飼ってるんですけど、持ってきてもいいですか? 水槽の大きさはこれくらいで、臭いは特にないし、迷惑がかかることはないと思います」
「うん、いいよ、つれてきても。水槽って大きいよね? 一人で大丈夫?」
「いえ、ご心配なく。祖父と持ってきますので」
「あっ、でも私もご両親に挨拶しておきたいから、あとで一緒にとりに行こう。まあ、あがって。これ、奈緒ちゃんのスリッパね」
奈緒ちゃんは座ってスニーカーをぬいだ。スニーカーのひもは左足が白色で、右足が黄色で、そのことに気づくと、野暮ったい印象はすっきりした印象に変わった。農場で働いている健康的な女の子が都会に遊びに来たというか。
私は奈緒ちゃんを父の部屋に案内した。そこは私の部屋と同じ広さの和室だったけれど、寝具しかなかったので、ずいぶん広々としていた。
「ここを好きに使って。机はないから、もし勉強するならダイニングの机を使ってね。マヨもあそこで勉強してるし。このとなりは私の部屋で、マヨの部屋はリビング。二階には誰も住んでいない。もし二階の方がいいなら、そっちでもいいけど」
「いえ、ここでいいです。ありがとうございます」
「なにか必要なものがあったら言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「遠慮することないから」
「はい」と奈緒ちゃんは言った。もう旅行カバンは手にしていなかったので、田舎の小娘には見えなかった。それどころか、小顔のためにファッションモデルに見えるくらいだった。休日のモデルがわざと垢抜けない格好をしているというか。
昼が近づくと、妹と奈緒ちゃんにパンを買いに行かせた。
ダイニングのカレンダーは、二時間前は十月だったのに、いつのまにか十一月になっていた。ということは、今日は十一月一日か。私は自分の部屋に行き、カレンダーを一枚めくりとった。
二人が帰ってくると、冷凍グラタンを解凍させて、昼食にした。食事が終りかけた頃、奈緒ちゃんに〈料理は作れる?〉と聞いた。答えは〈いえ、現時点では無理です〉という前向きなものだったので、奈緒ちゃんには食事係を担当してもらうことにした。内心では、奈緒ちゃんが妹を誘って一緒に料理を作ることを期待していた。
「ちゃんとご両親を説得させたんでしょ?」と私は言った。
「はい、無事に成功しました」と奈緒ちゃんは私の目を見て答えた。「一番反対したのは祖母で、いつも私の味方になってくれるのに、少し意外でした」
「おばあちゃんは何歳?」
「七十二です」
「おじいちゃんより強い? おじいちゃんを尻に敷いてる感じ?」
「いえ、古い人たちなので。祖父が祖母を説得してくれて、だからここに来れたんです。祖父はわりかし分別のある人で、これまでに二回も家出をしたから家に閉じこめておくよりいいと思ったのかもしれません」
「じつは私は無理だと思ってたの。お父さんが許可するとは思えなくて、だからあのとき詐欺のやり方を教えて、お年寄りをだますやつをね。家出はできなくても、もしかしたら詐欺をするんじゃないかって。まあ、何事も経験が大切だから」
「お年寄りの訪問ボランティアは始めました。学校の近くの家なんですけど、学校帰りに行くようになって。あやとりをしたり、折り紙を作ったり、童謡をうたったり」
「そう。詐欺をするつもり?」
「いえ、詐欺はしません、もちろん」と奈緒ちゃんは微笑んだ。「理由は特にないです。ただ、なんとなくボランティアしたいなと思って」
「奈緒ちゃんは人が好きなのよ、きっと。だから自分がしたことで誰かが喜ぶのが生きがいになるのよ」
「家族が喜ぶ姿には辟易するのに、見ず知らずのお年寄りが喜ぶ姿は、なんか嬉しくなるんです。変ですよね」
「そんなことないよ。家族がみんな仲良しなんてありえないから。友達だったら嫌いな人とは離れればいいじゃない? でも家族だとそれは難しい」
「そうなんですよ。子供は我慢するしかないし」と奈緒ちゃんは言った。「だけど私の場合は、虐待されてたわけではないし、しつけが厳しかったわけでもないし、私が悪いんです。父も母も私のような子供がいて大変だったと思います」
「もしかして、奈緒ちゃんは自分のことを心がせまいとか思ってない?」
「まあ、そうですね。好悪が激しいし、吝嗇家だし、それに姉は家族と順調にいっていて、だけど私はダメで。確かな実績があるんです」
「ありきたりな言葉だけど、好き嫌いが激しいって、こだわりがあることよ」と私は言い、ちらりと妹の方を見た。妹はグラタンの容器をロールパンで掃除していた。「奈緒ちゃんは責任感が強いのよ。家族が嫌いで、そんな自分がもっと嫌いなんでしょ? 家族と一緒にいるのは嫌だけど、家族に迷惑をかけて申し訳ないとも思ってるでしょ? それって責任感が強いからだと思うな。責任感が強いから他人に迷惑をかける自分が許せない。そんな自分のことを心がせまいと思う」
「そうかもしれないけど、だけど私はすぐイライラするし、責任感とは関係ないと思います。父や母と一緒にいるだけでイライラしてくるんです。それは責任感とは無関係です。やはり心がせまいんです」
「まあ、そうよね」と私は言った。少し沈黙が流れた。「ちょっと暗い話をするけど、というか、すごく深刻な話だけど、いい?」
「はい」
「十年前、友達が自殺したんだけど、奈緒ちゃんを見てると、その子のことを思いだすの。その子の両親はどっちもお医者さんで、海外旅行に行ったり高級料理を食べに行ったりする家庭だったんだけど、家庭がすばらしすぎて、というか、家庭が正しすぎて、窮屈だったみたい。親子関係ってすごく強力でしょ?」
「そうですね。親は子供を自分の枠に嵌めたがるんですよ。その枠に入りきらないから、本当の自分ではいられないんですよ、私の場合は」
「そう、その子もそうだったみたいで、親の枠があまりにもきちんとしすぎていて、それでも枠から外れないようにがんばって、でもその子は奈緒ちゃんみたいに家出するようなタイプじゃなかったし、だから自殺してしまったんだと思う。根が真面目すぎたのね。ねえ、自己肯定感って知ってる?」
「いえ、知りません」
「自己肯定感って、簡単に言うと、〈私は私でいいんだ〉と自分を肯定できることね。子育てで大切なのはそれだと思うんだけど、親が子供に勉強や習い事を必要以上に押しつけていると、子供は〈私は今の私ではダメなのかな?〉と思ってしまう。でもそういう思いも大切なのよ。そういう思いは努力につながるから。でも、その思いが強すぎると、大人の顔色をうかがって、自分をおさえつけてしまって、〈私は本当はこんな人じゃないのに〉と自己肯定感の低い人になってしまう」
私はここまで言うと、一息ついた。
「自己肯定感が低いのって、親の理不尽さが問題だったりするんだけど、その子の場合は少し違って。その子の家庭は褒めることを大切にしてたみたいだし、とても健全な家庭だったみたい。でも、これは私の推測だけど、姉は妹より我慢させられるものだし、その子はなにかと我慢する機会が多くて、そのとき母親から〈よく我慢したね〉と褒められたんだと思う。その子は要領がよかったし、どうやったら母親から褒められるか知ってて、我慢を重ねていった。たぶん最初は褒められるのが嬉しかった。でもそのうち我慢するのがつらくなってきて、それでも期待に応えようと我慢を重ねて、自己肯定感が低い人になった。それが結果的に自殺につながった。まあ、そんな単純じゃないとは思うけど、でもおおまかに見るとそういうことだったんじゃないかと思う」
「私はその方に似てるんですか?」
「似てるというか、うーん、あまり似てないけど」と私は言った。「でも奈緒ちゃんを見てると、その子のことを思いだして。とにかく、学校では大人の顔色をうかがってもいいけど、家庭でもそういうことをしてたら歪んだ大人になってしまう。私はそう思うのね。だから家出を許可したわけ」
「私に料理をするように言ったのは、自己肯定感を高めるためですか?」
「何? 別にそれとは関係ないけど」
「だけど私、さっき〈奈緒ちゃんは料理を担当ね〉と言われて、とても嬉しかったんです。マヨちゃんは洗濯と掃除を担当して、柏木さんは仕事を担当して、みんなで分担するのってステキだなと思ったんです。もしかしたら訪問ボランティアを始めたのも、誰かの役に立ちたかったからかもしれません。誰かから必要にされるのって嬉しいですし」
「そういえば、それって宗教の本質みたいね」
「えっ?」
「ちょっと待ってて」と私は言い、自分の部屋に行った。そして竹下舞の本をとってきて、席に戻った。「この小説に書いてあって。どこだったかな。えっと、そうね、どこかな、あった。〈宗教の基盤は自己肯定です。人というものは事実より自己肯定を求めるものなので、宗教は成り立っているのです〉ということね。この主人公は宗教によって孤立していて、ブラックシープと言ったらいいのか、まあそんなお話」
「これって有名な本なんですか?」と奈緒ちゃんは文庫本を手にとった。
「これはそんなに有名じゃないかな」
「ブラックシープ」と奈緒ちゃんはつぶやき、ページをめくっていった。やがて手をとめ、顔をあげた。「二回目の家出のときに、女の人に会ったんですけど、その人が言ってたんです、〈人は事実より自己肯定を求める。だから宗教はなくならない〉って。あの人はこの本を読んでたんですね」
「その人とはどこで会ったの?」
奈緒ちゃんは二度目の家出の話をした。
妹はイスに座ったまま話を聞いていた。一言も口をはさむことはなかったけれど、退屈そうではなかった。猫もいつもの場所で寝ころび、身動き一つしなかったけれど、退屈そうではなく、毛並みの白さのためか、昼寝という至福の時間を送っているように見えた。
奈緒ちゃんの話が終わると、三人で歯みがきをして、それが終わると、妹は猫と一緒にリビングの奥に行った。引き戸はあいたままだった。
「奈緒ちゃんは私がどんな仕事をしてるか知ってる?」
「えっ? ええと、キャバクラですよね」
「キャバクラ?」と私はいぶかしげに言った。「でも職場までバイクで行ってるのよ。表にあったでしょ? あれで行ってる」
「はい」
「バイクで行ったら、バイクで帰らないといけないでしょ? だからキャバクラでは働けない」
「どうしてですか?」
「だって、飲酒運転になるし」と私は言った。奈緒ちゃんは〈あっ、そっか〉という感じで何度かうなずき、それに合わせて左右のおさげが小さくゆれた。「私がしてるのはお酒は飲まない仕事ね。もちろん警備員とかコンビニとか、そんなのじゃなくて、なんというか、まあ、アダルトなお仕事。わかるよね?」
「はい、あれですよね。遊郭ですよね」
「ずいぶん古い言葉を知ってるのね」
「花魁が主人公の映画があって、それで知ってて」と奈緒ちゃんは言い、映画の題名と監督の名前を口にした。
「そっか。でね、常識的な人たちはそういう仕事はいけないと思ってるみたいで、でもなんでいけないの? お客様を喜ばす仕事だし、立派な仕事なのに、なんでいけないの? 危険だから? でも兵士だと誇れる仕事だったりするし。それなら楽にお金を稼いでるから? でもテレビタレントとかCMに出てる有名人とか、楽にお金を稼いでる人だっているじゃない? 私がしてる仕事は、そういう人たちとは違って個人を大切にしてるし、マスメディアの力で荒稼ぎしてる人たちの方がよっぽど汚いと思うけど。結局、理由なんてないのよ。宗教がなくならないのはそういうことよ。自己肯定を求めてるからじゃないし、陰口がなくならないのと同じね。一体感というか、団結力というか」
「難しいことはわかりませんけど、宗教が存在している理由は、ただ単純に、占いが存在している理由と一緒なのではないでしょうか? 占いって幸せな人のためにあるんです。幸せだから信じられるんですよ。宗教もそうで、幸せな人のためにあるんです。神様に熱心に祈ってても、悪いことばかり続いたら祈ることはやめてしまうし、不幸な人は信じることができないんですよ」
「なるほど。たしかに幸せなときほど占いに熱心だったかも」
「占いを信じてたんですか?」
「まあ、昔は」
「なんか意外です。柏木さんってそういう風には見えません」
「奈緒ちゃんは占いは好き?」
「嫌いです」と奈緒ちゃんはきっぱりと言った。「毎朝テレビで星座占いをやってるじゃないですか? あれで一位になってもお昼までには忘れてしまうんですけど、最下位になると、なぜか一日中覚えてて」
「それはそれは」と私は笑った。「じゃあ、やっぱり宗教も嫌いなのかな? どういうところが嫌いなの?」
「そうですね」と奈緒ちゃんは言った。そのあとしばらくテーブルを見つめたままだったけれど、ふと顔をあげた。「〈無条件の愛〉と言ったら聞こえがいいけど、愛は無条件じゃいけないんです。母は姉と私を無条件に愛してくれます。平等に、ですね。だけどそれって私たちの人格を無視することなんですよ。平等に愛するときには相手の人格は必要ないし、人格を認めることなく愛するんです。そんなのおかしいじゃないですか? 私は無条件の愛なんて求めてないし、無条件に愛するなんてロボットがすることですよ」
「たしかに」
「だけど、それが宗教なんです。もう脳みそが固まってるんですよ。無条件の愛をめざすなんて、どうかしてるんです」
「まあ、それもそうね」と私は言った。「でもこういう考えもあって。奈緒ちゃんは、お母さんの本当の自分を考えたことはある? 二人の娘を平等に愛するのは、本当の自分でいるからなんじゃないかな? お母さんはそういう価値観を持ってて、それはお母さんの人格の一部なんじゃないかな? それをちゃんと認めればいいと思うんだけど」
「柏木さんって寛大なんですね。だけど私はそうじゃないし、あの人たちがすごく嫌いだし、一緒に住みたくないんです」
「それってとても大切なことよ、そうやって自分の気持ちを言えるって。まあ、私だって嫌いな人はいるし、そう簡単にはいかないよね」
そのあと少し雑談をして、奈緒ちゃんと一緒に両親に挨拶に行った。
両親は二人とも家にいて、私たちは玄関で立ち話をした。父親も母親も人当たりがよく、それでいて謙虚だった。とてもいい人たちだった。奈緒ちゃんは両親の前では一言もしゃべらなかった。終始うつむいていて、何度か首を縦か横にふった。でも首をかしげることはなかった。そして私と二人きりになると、〈いまごろ父は絶対に悪口を言ってますよ〉と陰口を言った。
カメとサワガニはかわいらしく、また清潔でもあった。カメは私の手のひらにおさまるほどの大きさで、小さな指には美しい爪があった。性格は臆病なようで、私が甲羅をつかむと、頭と手足をひっこめた。私は頭が出てくるまで待とうとしたけれど、相手はなかなか手ごわく、水槽に戻した。サワガニは四匹いて、当たり前だけれど、みんな横歩きをしていた。その動きは意外とすばしっこく、運動神経はまずまずよかった。彼らは臆病ではなく、もし彼らが人間と同じ体重にまで成長するとしたら、私にはとても太刀打ちできそうにない、それほど獰猛だった。
しばらくして、カメの頭が出てきた。そのときふと思った。ペットを無条件に愛することなら、いとも簡単にできる。私は猫に見返りを求めることはないし、どれだけ無視されても無償の愛をたやすことはない。私が手をのばすと、カメはまた閉じこもった。
21 男の化粧
奈緒ちゃんが引っ越してきてから、特に何もなく、平和な日々が続いた。私の思惑どおり、奈緒ちゃんは妹と一緒に料理を作るようになった。妹は奈緒ちゃんと言葉をかわすことはあったけれど、特別に仲良くしている様子はなかった。猫はあいかわらず運動することなく、寝ころんでばかりいた。
私はダンサトシに会うことをたびたび考えた。でもダンサトシはお店にも私の家にも来ることはなく、電話をかけてくることもなかった。坂野さんにも言いたいことがあったけれど、坂野さんも来店することはなかった。それでも私には悩みも迷いもなく、日々は平穏にすぎていった。
兄の命日が近づいたことに気づくと、誰かに会いたくなった。兄のことを知っている人に会いたくなった。私はさっそく姉に電話をかけた。でも姉はなぜかシンガポールに住んでいて、会うことはできそうになかった。弟のことが頭をよぎったけれど、弟に会いたい気分ではなかった。
その日の夜、夢を見た。いや、正確には夢を見たのは朝方だろう。家にいると、スミレが訪ねてきた。スミレは昔と変わりなかった。茶髪を優雅に巻いていて、唇と胸がぷるんとしていて、バラのような香水をつけていて、あいかわらず〈人の話をロクに聞かない〉という欠点があり、そのため〈沈黙が流れても気まずくなることはない〉という美点があった。スミレは〈健ちゃんはあした刑務所を出ますし、そしたら結婚するんです。お姉さん、またよろしくどうぞ〉と言い、そのとき目が覚めた。
スミレとは弟が逮捕されて以来、一度も会っていなかった。それがこうして夢に出てきたのだから、なんだか不思議に思えた。しかも、今日は水曜日で、仕事は休みだった。なにはともあれ、私は弟に会いに行くことにした。
いつもと何も変わらなかった。刑務所に着いたときには、そうだった。いつものように目的も話したいこともなく、門をくぐった。
受刑者にはランクがつけられていて、ランクが上がればアクリル板のない部屋で面会できるようになるのだけれど、またアクリル板の部屋に通された。私は静かに待った。奈緒ちゃんと住むようになったためか、刑務所は教会と似ていると思った。神聖な気持ちになれるし、神の存在を思い起こすこともある。刑務所ほど清潔で慎み深いところはない。ふと、そう思った。
弟と刑務官が入ってきた。弟は一ヵ月半前と変わりなかった。髪の毛が心もち短くなっているようにも思えたけれど、印象は同じだった。弟はイスに座り、私の顔を見た。それからは黙ったままだった。刑務官も不愛想な人だった。私は弟が口を開くまで待とうと思った。でも沈黙に耐えることができなかった。
「上を見て」と私は言った。弟は上を見た。刑務官も上を見た。「右を見て。この指を見て。また上を見て。次は右ね。最後にこの指を見て。バカが見るブタのケツ」
「ったく、なんだよ」と弟は笑った。刑務官も笑っていた。
「覚えてる?」と私は笑いながら言った。「昔にファミレスでしたじゃない? 私が引っ越してきたばかりの頃に。覚えてないの?」
「何を?」
「健吾がね、佐和子にさっきみたいなことをして。健吾はまだ小さかったし、覚えてないかな。トンボのこととか」
「トンボ? なんだそれは?」
「まあいいけど。最近いろんなことがあってね、本当にいろんなことがあって。まずは強盗のことだけど、犯人は無事に捕まりました」と私は嘘をついた。「誰だったと思う? けっこう意外な人だったんだけど」
「知り合いだったのか?」
「健吾の知らない人だけど」
「そうか。ほかには何があったんだ?」
「強盗のお話は興味なし? まあ、そうよね。じゃあ、次はマヨのことね。マヨは学校をサボるようになって、先生がまた家庭訪問に来て、もう嫌になっちゃう。でもサボるのはやめたみたい。だからもう大丈夫なんだけど」
「なぜサボったんだ?」
「私に聞かれても。マヨに聞いたら?」と私は言った。「それから、あとは、なんだっけ? そうそう、奈緒ちゃんがうちに住むようになった」
「誰だ?」
「古井奈緒。近所の中学三年生」
「なぜ住むことになったんだ?」
「奈緒ちゃんがうちに住みたいって言うから、いいよって。ただそれだけ」と私は軽い調子で言った。「最後にビックニュースなんだけど、なんと佐和子が帰ってきて、しかもかわいい女の子をつれて。佐和子ね、子供を産んでて、それがイタリア系ドイツ人とのハーフで、あれっ、ドイツ系イタリア人だったっけ? まあ、とにかく、その子はめちゃくちゃかわいくて、本当にかわいかった」
「佐和子は何しに来たんだ? 俺のことは何か言ってたか?」
「笑ってたよ。〈刑務所に入ってる〉と言ったら、爆笑してた。〈死刑になればよかったのに〉とか言って」と私は言った。刑務官は口もとに手をあてていて、どうやら笑っているようだった。
「それ、本当か? 本当に佐和子が帰ってきたのか?」
「なんで嘘をつかなきゃいけないわけ?」と私は言った。「あとはダンサトシのことね。あの人がうちに来たんだけど、あの人と文通をしてるんでしょ?」
「なぜ?」と弟は無表情で言った。
「えっ、してないの?」
「なぜする必要がある?」
「なら、いいけど」と私は言った。頭の中は混乱していた。「それから、そうね、あれね、あれ。そうそう、あれだ。今日はあることを聞こうと思って来たんだけど、どうして人を殺したらいけないの?」
「なんだ? 千里、大丈夫か?」と弟は心配そうな声をだした。
「学校でそんな授業をしたんだって」
「ああ、マヨか。千里はどう答えたんだ?」
「別に。〈殺してもいい〉と答えたけど」
「いや、そんなわけねえだろ」と弟は笑った。「人を殺すのはいけない。当たり前じゃねえか。人を殺すのはいけない、どっからどう考えてもな。けどな、真面目な話をすると、〈人を殺すこと〉と〈人を殺したこと〉は違う。たしかに人を殺すことは悪いが、実際に人を殺したら善し悪しの問題だけじゃすまない。善し悪しは部外者が決めることだし、当事者にとっては罪悪感こそがすべてだ。人殺しの俺が言うんだから間違いない」
「ホントに悪いと思ってないの?」
「ああ、人を殺しておいて後悔するやつがいるが、そっちの方がどうかと思う。殺すべきじゃなかったって言うことは、つまり殺された者は無駄死にだったわけだ。たまったもんじゃねえよ、ったく」
「そう。今日はもう帰る」と私は立ち上がり、出口に向かった。「じゃあね」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「引き止めないの?」と私は振り向いた。
「なぜ引き止めなきゃいけねえんだよ? 帰りたきゃ帰りゃいいだろ?」
「冷たい人ね」と私は言い、イスに戻り、頬杖をついた。「何か話して」
「何を?」
「なんでもいいから」
「もうすぐ総志郎の命日だな」
「その話はダメ」
「ダンは何しに来たんだ?」
「それもダメ」
「本当に大丈夫か?」と弟はアクリル板に顔をよせて、私の目を見た。
「健吾って、なんか死んだ魚みたいな目をしてるね」と私は何気なく言った。弟は何も言わなかった。「まえに健吾が〈自分の心から見離されたら、刑務所に入ればいい〉とか言ってたじゃない? 覚えてる? 私も刑務所に入ろうかと思ってて。ちょっと待って。何も言わないでよ。私が最後まで言うまでは何も言わないで。いい? で、いろいろ考えたんだけど、やっぱり刑務所に入るのが一番いいかなって。冗談じゃないよ。本当に入るから。私ね、レイプされそうになったことがあって、中学三年生のときなんだけど、学校帰りにレイプされそうになって。でも犯人は捕まった。犯人は二人いたんだけど、二人でレイプするなんて、あれだよね、あれ。まあ、嘘なんだけど。ああ、もう、頭おかしくなりそう。だから私も刑務所に入る。健吾が言ったことは正しかったよ。本当に、腹がたつほど正しかった。私は引っ越しをすべきだったし、今からでもすべきね。でもそれをする気はない。それより刑務所に入った方がいいじゃない? そう思わない? 待って。何も言わないでよ。何か言ったら――」
「まあ、がんばれ」
「バカじゃない! バカ、バカ!」と私は小さく叫び、机に伏した。
部屋の中は静かだった。机は少しひんやりしていた。目を固くつむると、自分の呼吸音が聞こえてきて、その音により興奮していることに気づいた。
部屋はずっと静かなままだった。人の気配すらなかった。そのうち涙が出てきて、さきほどの失態を帳消しできるように思え、顔をあげた。向こうには弟と刑務官がいて、涙はぽたりぽたりと落ちて、そのうちの一つが手の甲にあたって、ほんのりと生ぬるさを感じて、呼吸はまだ少し荒くて。
「すまん」と弟は申し訳なさそうな顔をした。
「なんで謝るのよ」と私は強く言った。涙はとめどなくあふれてきて、なんだか気分がよかった。「いつもみたいにバカにしたらいいじゃない? なんで謝るのよ」
「いや、そんな雰囲気かと思って」
「ねえ、今日のことは忘れてくれる」
「いや、無理だな、それは。たぶんずっと覚えてる」
「ねえ、〈努力してみます〉とか言えないの? なんで無理だと決めつけるの?」と私は泣きながら言った。カバンからポケットティッシュをとりだして鼻をかんだ。「みんな普通に生きてるじゃない? それってなんでかわかる? 周りに普通の人しかいないから、自分も普通に生きるのよ。私だって周りに普通の人しかいなかったら、こんなところには来ないし、こんなところでは泣かないし、でもそうじゃなかったから、そうよ、健吾が悪いのよ。健吾のせいで、健吾が佐和子にあんなことをしたせいで、それにお父さんを殺したのも健吾だし、お兄ちゃんが自殺したのも健吾が悪いのよ。健吾が全部めちゃくちゃにしたんだから。だって、いや、なんでもない。もういい。ごめん、忘れて」
「ああ、努力してみるわ、忘れる努力を。今日から毎日かかさず忘れる努力をする。約束する」
「そう」と私は小さく笑った。「ああ、もうダメ。帰る」
「おつかれさま」
「じゃあね。また今度」と私は部屋を出ていこうとした。
「おい、ゴミ」と弟は言った。机の上にはティッシュペーパーがあった。「ゴミは持ち帰ってくれ。俺の評判にかかわる」
「捨てといて。健吾の方が近いでしょ?」と私は言い、部屋を出た。
気分のよさはどこかに去っていて、恥ずかしさのためか、耳のほてりを感じた。少しして部屋に戻ると、もう誰もいなかった。私はティッシュペーパーを手にとった。それは不快なほど湿っていて、カバンからビニール袋をとりだした。
ダンサトシは弟に頼まれて強盗の犯人を捜していると言っていた。弟はダンサトシに手紙をだしていないと言っていた。どちらの言葉が嘘なのか? なんのために? 何もわからなかった。ほんの少しもわからなかった。ただいらだちを覚えただけだった。
刑務所を出ると、ダンサトシの姿を探した。でもそれらしい人はいなかったし、不審な車も見当たらなかった。私はバス停まで歩いていった。時刻表と腕時計を見ると、バスはあと七分で来るようだった。もう一度ダンサトシの姿を探した。やはりいなかった。バスは二分遅れで来た。乗客は五人いて、私は一番後ろの席に座った。駅前に着くまで乗客の数は変わらなかった。駅前でみんな下車した。私は運転手と少し言葉をかわし、サングラスをかけて、バスをおりた。
プラットホームには人はほとんどいなかった。やがて電車が来た。車内には人がそれなりにいて、でも空席はいくつかあった。私はブレザーを着た男子学生のとなりに座った。彼は濃い髭がわずかに生えていて、制服を着ていなければ私と同年代に見えるほどで、でもそれは老けているというより逞しいという感じだった。
「どこの学校?」と私は聞いた。
「はい?」と彼はこちらを見た。
「いや、その制服、なんか見たことがあるなと思って」と私が言うと、彼は学校名を口にした。「やっぱりそうだ。知り合いがそこに行ってて。古井奈緒って子なんだけど、知らない? いま三年生なんだけど」
「いえ」
「知らないの? そっか。吹奏楽部に入ってる子なんだけど。いま暇? ちょっと学校のことで聞きたいことがあるんだけど」
「はあ」
「どこでおりるの?」と私が聞くと、彼は駅名を答えた。「じゃあ、私もそこでおりようか。誰かと待ち合わせ?」
「まあ」
「その待ち合わせ、キャンセルできない? ちょっと聞きたいことがあって。できれば歩きながら話したいんだけど。もしかして彼女と待ち合わせ?」
「いえ」
「そっか、彼女はいないんだ? けっこう勘が鋭いのよ、私。どこに行ってるの? まあわかるんだけどね。家に帰ってるんでしょ? じつは誰とも待ち合わせをしていない。とっさに質問されたから、イエスと答えてしまった。そうでしょ?」
「いえ、学校に行ってます、今」
私は思わず笑ってしまった。彼も笑った。
それから私はたわいない話をした。彼は退屈そうではなかった。ふと、近くの若い女性たちの話し声が耳についた。それは〈爪を噛んでると、そのうちフニャフニャしてきて、だから綺麗に切りとれるわけ。ほらっ、汚くないでしょ?〉〈爪切りを使いなよ〉〈いや、癖だから〉〈直した方がいいよ、その癖〉〈でも親指だけだし〉〈でも直した方が〉〈うん、まあね、たまに人差し指も噛むんだけど。でもすぐに爪切りで整えるし〉〈なら最初から爪切りを〉〈いや、だから癖なんだってば〉という微笑ましい会話で、私は彼に爪を見せた。でも彼はその会話を聞いてはいないようだった。
電車が着くと、私たちはおりた。私はゆっくりと歩いていき、彼は私の歩調に合わせた。そのうち人集りから外れ、なにか話そうと思った。でも話題は見つからなかった。彼も黙ったままだった。
改札口を出たところで、誰かから声をかけられた。
「お姉さん、こんにちは」
「ああ、スミレ、おひさしぶりね」と私は言い、サングラスをはずし、彼に〈どうもありがとう〉と言い、スミレと並んで歩いていった。スミレは二年前と同じく、茶髪を優雅に巻いていて、バラのような香水をつけていた。
「さっきの人、誰ですか?」
「ああ、あの人は、ちょっと道を聞いて」
「もしかして健ちゃんに会いに行ってたんですか? 健ちゃん、どんな感じでした? 手紙を書いてもほとんど返事をくれないんです。ひどいですよね。だからあたしも書かないことにして、そしたら手紙が来なくなって。ひどいですよね」
「たしかに健吾はひどいよ。父親を殺しても反省しないやつだし」と私は言い、雑貨屋に入った。「そういえば、スミレはダンサトシと連絡をとりあってる?」
「いえ。ダンくんが何か?」
「ダンサトシとはどういう関係なの?」
「知人です。でも恋人の友達でもあるのかな。ダンくんはお金を貸してくれないし、あたしの友達ではありません。ダンくんがどうかしたんですか?」
「ちょっと気になることがあって」
「もし連絡をとりたいなら、何人かあたってみますよ。連作先くらいならわかると思いますし。あたしって交友関係けっこう広いんです」
「いいの、別に。特に用はないから」と私は言い、品物を手にとった。それは男物のブレスレットで、すぐに棚に戻した。「スミレはまだ携帯電話は持ってないの?」
「お金を貸してくれる人はだいたい友達。まだそんな感じです」とスミレは右手でピースサインを示した。「何かに縛られるのって苦手なんです。ちっちゃい頃からずっとそうで。ウザくないですか、ケータイって?」
「私の携帯電話はめったに鳴らないから。私は交友関係は広くないし。スミレはこのへんに住んでるの?」
「まえは刑務所のすぐそばのアパートに住んでたんですけど、どうせ会えないんだし、だから友達んちに居候することにしたんです。けっこう近いですよ、ここから。来ます?」
「いや、いい」と私は言った。「スミレは健吾が刑務所にいて嬉しい?」
「えっ、どういうことですか? さみしいですよ、そりゃあ」
「おかしな話だけど、私は健吾が刑務所にいて嬉しいのよ。一緒に住んでるときには二人きりになりたくなかったんだけど、なんか気まずくてね。でも刑務所で話をするのは悪くない。たまに会うからとか、そういうんじゃなくて、刑務所で話すのってなんかよくて。ちょうどいい距離感というか」
それからスミレと少し雑談をして、別れた。スミレは一度も私の都合を気にすることはなかった。予定をたずねることはなかったし、近況をたずねることもなかった。それはある意味では非常識なことだけれど、私は本当に寛大な人はスミレのような人だと思った。私が知るかぎりでは、スミレは陰口を言うことはないし、他人を見下すこともない。第三者への興味にとぼしく、自分のことだけで生きている。
また電車に乗った。優先座席以外は埋まっていて、私はそこに堂々と座った。頭の中には〈ちょっと気分が悪くて〉という言い訳を用意していたけれど、それは必要なく、駅に着いた。
電車を乗り換えて、今度は黒人男性のとなりに座った。彼は三十代に見えたけれど、五十代にも見えて、彼の体臭を加齢臭だと考えると、妙に納得でき、目をつむった。しばらくすると、黒人男性は席を立ち、代わりに誰かが座った。私は目をあけることなく、香水の感じから中年女性だと判断した。
左の方から女性の陽気な声が聞こえてきた。彼女たちは先月に結婚した有名人について話していた。その人があまりにも有名だったためか、その結婚は厳粛なニュース番組にまでとりあげられ、日本中から祝福されていた。家に帰ったら、妹にその人がおじさんに見えるかどうか聞いてみようと思った。それから、テレビに出る人は男でも化粧で肌を美しく見せていることを教えてあげようとも思った。
駅に着いたので、目をあけた。すると、少し驚いた。となりに座っていたのは、中年女性ではなく、ビジュアル系っぽい若い男で、とたんに香水の匂いは男性用に思えてきた。私は電車をおり、ゆったりと歩いていった。何人もの人に追い越され、歩くペースを少しずつ少しずつ落としていった。
家に着いたのは四時すぎで、玄関に靴はなかったけれど、私は〈ただいま〉と言った。リビングをのぞき、今度は明るい声で〈ただいま〉と言った。猫が顔をあげたので、〈調子はどう?〉と聞いた。猫は調子がいいようで、何度かしゃがれた声をだした。私はカレンダーを見て、兄の命日までの日数を暗算した。兄の命日にはユキコさんと会えるはずだった。約束をしたわけではなかったけれど、私は勝手にそう思いこんでいた。
そのうち妹が帰ってきて、〈ただいま〉と元気のない声が聞こえてきた。それから奈緒ちゃんも帰ってきて、〈ただいま〉と元気のいい声が聞こえてきた。猫は軽薄なもので、妹の声より奈緒ちゃんの声に強く反応した。でも奈緒ちゃんは、妹とは違い、猫に挨拶することはなかった。
夕食は妹と奈緒ちゃんが作ったオムライスだった。それは卵をたっぷりと使った豪華なもので、初心者が作ったものには見えなかった。味も得意料理にできそうなほどおいしかった。チーズと歯ごたえのあるピーマンがアクセントになっていて、また食べたいと思った。奈緒ちゃんがいたので、刑務所に行った話はしなかった。でも、缶ビールを五本あけて、お得意の〈中華料理のダメなところは、一人で食べるのが難しいところ〉という話をしたので、妹は気づいたかもしれない。私は二人だけの秘密に気分をよくした。
22 父の死
父が死んだのは二年前の夏だった。
その頃、弟はまだ二十歳になっていなかったけれど、当たり前のようにお酒を飲んでいて、たまに父と飲むこともあった。私は普通の会社で働いていて、平日は〈七時半に家を出て、六時に帰宅する〉というスケジュールで、まだ妹の食生活に気を配っていたので、夕食はちゃんと作っていた。
そんなある日のこと、家に帰ると、父の車があった。それは珍しいことだった。その頃には父は家にいることがほとんどなく、一緒に夕食をとるのは月に二度ほどしかなかった。玄関には父と妹の靴だけで、弟の靴はなかった。ダイニングに行くと、父が血を流して倒れていた。私は冷静だった。強盗殺人にあったのだと勘違いしていたけれど、あわてることはなく、すぐに父の安否を確認して、警察と病院に電話した。
テーブルにはグラスが二つあり、おそらく父と弟のもので、私はそれをキッチンの流しに持っていった。それから妹を探した。
妹は浴室で自分の服を手洗いしていた。そばには包丁が落ちていた。
「ただいま」と私は言った。
「おかえり」と妹はこちらを見た。その顔はあきらかに真っ青だった。
「お父さん、あれだね」
「うん」
妹は手もとに視線をあてていた。私は強盗犯に何かされたのだと勘違いしていた。実際には、父の胸から包丁を抜きとり、そのとき服に血がついたので洗っていたのだけれど、そんなことは思いもしなかった。
私は妹の服を洗濯機に入れた。そして妹に新しい服を与え、私の部屋につれていった。猫は父の部屋に避難していたので、私の部屋に移動させた。
私は父の携帯電話を調べ、発信履歴に最も多くある名前に電話をかけた。その人と話していると、救急車が来た。それからパトカーも来た。すべてはあっけなく終わった。弟はその日は帰らなかった。
翌日、中年男性が訪ねてきた。昨夜の電話の相手だった。
彼は小太りで背が低く、ボロボロのスーツを着ていた。唇が厚いために不精髭は不潔に見えたけれど、禿げあがった頭が統一感をだしていて、不潔さは妙になじんでいた。二人はダイニングテーブルで向かい合った。彼の話し方がおおらかだったので、私はやや安心した。
彼は父の仕事仲間で、二人がお店を始めたのは三十年近く前だった。彼が言うには、お店が成功したのは父のおかげだった。父には人を説得させる力があった。人を指導する力もあり、人を見分ける力もあった。また、父は律儀な人で、お金を稼ぐことより、従業員を続けさせることを優先していた。客を満足させることより、従業員を満足させることに重点をおいていた。そうすることが結果的に、客の満足につながり、お店の繁盛につながると考えていた。実際にお店は繁盛して、複数のお店を持てるようになった。
彼がボロボロのスーツを着ていたのは、父の発案によるものだった。普通な男と不潔な男が並んでいる場合、普通な男はふだんよりも清潔に見え、頼りになる雰囲気が出る。そういう効果をねらって、彼は不潔な格好を担当していたのだった。
彼の話は私には現実味がなかった。故人をしのぶときにはお世辞が使われるものなのかもしれないけれど、彼の話はとりつくろわれているように思えた。
私がぼんやりしていたためか、彼は〈悲しくないのですか?〉と言った。
「まあ」と私は言い、少し考えた。「まあ少しは悲しいですけど、でも父はうちではそんな人ではありませんでした。あなたが言うような人ではありませんでした。思いやりなんて少しもなかったし、ただ身勝手なだけでした」
「恥ずかしかったんですよ、きっと」
「恥ずかしかった?」
「ええ。自分の子供にどう接すればいいのかわからなかったんだと思います。私たちの世代は古い価値観を持っていますから、子供は女が育てるものだと考えていたのでしょう。ただ、あなたのお父さんは私などよりよほど律儀でしたよ」
私は何も言えなかった。父は近所の人やお店の店員にも思いやりを示したことがなかった。私が知っている父はそうだった。それでもその一方で、四人の女性から五人の子供を産ませたという事実もあった。
私は彼の紹介で今の職場を知ったのだけれど、同僚の中には父からスカウトされた人もいて、遠回しに父のことを聞いてみた。彼女が話した父も、私が知っている父とは別人だった。でもよく考えてみると、家庭と職場で性格が異なるのは、ありふれたことかもしれない。父は仕事のためにずいぶん気を使っていたのだろう。
弟が帰ってきたのは、事件の二日後のことだった。弟は私に事件の話をした。父と口論になり、父が包丁を手にしたので、その手をめがけてイスをふりまわした。でもそれは頭にあたってしまい、父は倒れた。気が動転したせいか、思わず父の胸に包丁を突き立ててしまった。裁判では、弟の供述は大きく変わった。父が包丁を手にしたので、イスで頭を殴っても正当防衛になると思い、力いっぱい殴った。父が倒れると、まだ生きていたので、包丁を突き立てた。つまり、逮捕前には〈殺意はなかった〉だったのが、裁判では〈殺意はあった〉になった。
弟は裁判に真摯にのぞんだ。ごまかすことも同情をさそうこともなく、はきはきとした声で的確に状況と心境を説明した。
「私は父を殺したことを後悔していますが、それは父が死んだためではなく、刑務所に入らなければならないためです。父に対して謝罪の気持ちは少しもありません。しかし、もしも父の死により悲しんだ人がいるのなら、その人に対しては謝罪の気持ちはあります。その気持ちが罪悪感だと言われれば、しいて否定はしませんが、私自身はその気持ちを人情だと解釈しています。それは、パン屋があり、そこに行くことを楽しみにしている人がいたとして、私がそのパン屋を閉店に追いこんだときに生じる気持ちです。パン屋の店主に対しては申し訳なく思いませんが、パン屋に行くことを楽しみにしていた人に対しては申し訳なく思います。しかしながら、私は父の死により悲しんでいる人の存在を知りません。だから反省をしようにも動機が見当たりません。ただ刑務所に入りたくないという利己心のために後悔しているだけです」
こういう言葉のためか、弟は重い刑罰を与えられた。
私はそんな弟のことをバカだと思った。スミレもやはりそうだった。〈法律とは従うものではなく利用するものだ。健ちゃんはそう言ってたのに、どうしようもない人です〉と涙をこぼした。私は弟のためにも父のためにも泣くことはなかった。
事件が起こってから、私は仕事をやめ、父が残したビールを飲むようになった。それはやがて習慣になり、その習慣は今でも続いている。
23 かくれんぼ
弟に話すまで、刑務所に入ろうと考えたことは一度もなかった。とっさに〈私も刑務所に入ろうかと思ってて〉と口に出たあの瞬間まで、そんなことは思いもしなかった。でもひとたび意識し始めると、とめることができなくなった。私は刑務所に入ることを何度も何度も考えた。それでもそれは空想だった。まずは坂野さんに会って確かめてみることが先だと思い、計画をたてることも行動に移すこともなかった。
八月の強盗事件以降では、坂野さんがお店に来たのは一度だけだった。それでも坂野さんが一ヵ月近く来ないことは珍しいことではなく、控室で待っていると、今日こそは来るような気がした。そして仕事が終わると、いくらか失望した。
控室では、私はいつも本を開いていた。でも同僚の中には話しかけてくる人もいて、そういうときには本を閉じて、愛想を見せた。悩みを言う人にはアドバイスをしてあげて、愚痴を言う人には共感をしてあげた。ただ、悩みを言われることはほとんどなかった。
この日は新人の子から話しかけられた。彼女は鼻先がやや上を向いていて、声優的な幼い声をしていて、印象に残りやすいタイプで、そのため店長から気に入られていた。
「あのう、リサさんってこのお店に来て、どれくらいなんですか?」
「一年半くらいかな」と私は言い、本を閉じた。「仕事には慣れた?」
「いえ、まだまだぜんぜんです。すごい疲れませんか? こんな肉体労働だとは思いもしませんでした」
「みんなそんなものよ、はじめは。肌荒れは大丈夫?」
「はい、そこは平気ですけど、筋肉痛になって。最初の三日くらいはもうダメかと思ってました」と彼女は言い、肩を上げて、すとんと落とした。「リサさんってけっこう人気あるじゃないですか? すごいですよね」
「風俗慣れしてなさそうなお客様には〈また来てくれますよね? ぜひ来てくださいね〉と甘い声で強めに押して、風俗慣れしてそうなお客様には〈また来てくれますよね?〉と弱々しい声をだす。弱々しい声というか、素人っぽい声というか、まあ、はにかんだ声ね。私はそうしてる。それで指名がつくかはわからないけど」
「リサさんってすごいですね」と彼女は言った。どうやら〈すごい〉という褒め言葉は彼女の口癖のようで、お客様にも〈すごいですね〉と褒めているのだと思った。
「いや、そういうのはぜんぜん普通で。でもね、魔法の言葉というのがあって」
「魔法の言葉?」
「うん」と私はうなずき、周りをそっと確認した。「褒めることはもちろん大切だけど、どういう言葉で褒めるかが重要で。そこで魔法の言葉というのがあって、〈お客様みたいな体型の人には、なんだか興奮してしまって〉というやつね。〈好き〉ではなく〈興奮する〉と言うのがコツね。好きと褒めても嘘っぽいじゃない? でも興奮すると褒めると、現実味があるというか、説得力があるというか、とにかく痩せてても太ってても筋肉質でも、そう褒めておけばいい」
「すごいですね。なんか、ホントすごいです」
「最後に、とっておきのを教えてあげる。ここだけの話なんだけど、下着のレンタルというのもいいよ。お客様に下着をレンタルするの、〈下着を返すか、新しい下着をプレゼントするか〉という条件で、初回は、まあ三千円くらいで、次からは少し安くして。実際にレンタルしてくれるお客様はそんなにいないけど、そういうことを持ちだすと、〈この子は僕のことを大切に思ってくれている〉みたいな感じで、のめりこんでくれる」
「そんなやり方もあるんですね」
「でも結局はサービスをちゃんとしてあげるのが大切だし、そこを真面目にやっておかないとね」
彼女に指名が来たので、私は本を開き、ぼんやりと眺めた。特に何かを考えることはなかった。向こうでは同僚たちが話をしていた。それはなぜか牛の話で、〈冬になると牛の鼻息が白くなって、それを見たとき、今年も冬になったなと思う〉というものだった。思えば、その子は農場で生まれ育ったのだった。
携帯電話が鳴った。奈緒ちゃんからだった。
奈緒ちゃんは仕事中に電話したことを詫び、それから要件を言った。それは、妹が帰ってこない、ということで、つまり、妹が家出した、ということだった。奈緒ちゃんがひどく取り乱していたので、私は早退することにした。店長は〈わざわざそんな嘘をつかなくても――〉などと嫌味を言ったけれど、結局は〈まあいいでしょう〉と承諾した。そのあと〈例の件はどうです?〉と言った。私は〈今日やりました〉と答えた。
私はミニバイクを走らせながら、〈どうして家出したのか?〉と考えた。妹の行き先を考えることはなく、ただ家出の理由を想像した。まだ夜は始まったばかりだったけれど、十一月とは思えない寒さで、家に着いてもすぐにはお風呂に入れないと思うと、腹がたってきた。でもそれは体温があがるほどの怒りではなかった。
赤信号でとまると、寒さは多少やわらいだ。横断歩道には多くの人が行き交っていて、夜の街はとても活発に見えた。たかが十数メートルのあいだに、かぞえきれないほどの人がいて、全体的に陽気な雰囲気があった。私も昔は彼らの一員だったと思うと、少し切なくなった。
青になったので、ミニバイクを走らせた。頭の中には、例の件があった。例の件とは、新人の子に下着のレンタルを教えることだった。それは店側の策略だった。店側から指示されるより、同じ風俗嬢から教えられる方が、気分がいい。それに、店側に内緒でレンタル料をもらうことで、風俗嬢は優越感をえることができ、仕事を続けやすくなる。そういう心理のために、私は店長から〈そっと教えるように〉と指示されたのだった。こういう従業員を満足させる方法は、父の発案だった。私は父とのつながりを思い、不思議な心持ちになった。
奈緒ちゃんは家の前で待っていた。まだお風呂には入っていないようで、おさげは解かれていなかった。腕時計を見ると、八時すぎだった。空は晴れていて、星がいくつか見えていた。月はちょうど半分だった。
「帰ってこないって、誘拐かな?」
「誘拐ではないと思います」と奈緒ちゃんは真面目に言った。「ランドセルは部屋にあって、ステファニーちゃんのエサもあげてて、だから一度は帰ってきたはずで、それから出かけたのだと」
「自転車はあるよね。まあ、とりあえず入ろうか。寒いし」
私は家に入った。そして妹の部屋をのぞき、猫に挨拶をして、自分の部屋に行った。奈緒ちゃんもついてきた。私たちはこたつに入り、向かい合った。奈緒ちゃんはいつものように私の顔を見ることはなく、うつむいていた。
「ステファニーはなんか言ってた?」
「えっ?」と奈緒ちゃんは顔をあげた。
「いや、別に。家出したってことよね?」
「たぶん」と奈緒ちゃんはまたうつむいた。「申し訳ありません。私のせいで。本当に申し訳ありません」
「なんで謝るの?」
「だって、私がここに来なかったら、マヨちゃんがいなくなることはなかったと思うし、私が家出をしたから、マヨちゃんも家出をしようと思ったんですよ、たぶん」
「うん、まあ、奈緒ちゃんが家出しなかったら、マヨは家出しようなんて思いつきもしなかったかもね。でも謝ることはないよ。奈緒ちゃんは家出はいけないと思ってるの? そうじゃないでしょ?」
「ええと、だけど」
「奈緒ちゃんだって家出したんでしょ?」と私はおだやかに言った。「私も昔に家出したし、マヨだって家出してもいいじゃない? 奈緒ちゃんはマヨがまだ一人前ではないと思ってるから、私に謝ったのよ。もし私が家出しても、奈緒ちゃんはマヨに謝ることはないでしょ? そういうのって、お父さんと同じだと思うな。お父さんは奈緒ちゃんが家出したら怒ったんでしょ? 精神科につれてったんでしょ? それは奈緒ちゃんのことを一人前ではないと思ってるからよ。それと同じで、奈緒ちゃんもマヨのことを一人前ではないと思ってるから謝ったのよ。でもいいじゃない? マヨも家出してもいいよ」
「心配じゃないんですか?」と奈緒ちゃんは私の目を見た。
「老婆心という言葉は知ってる?」
「老婆心? はい、知ってます、いちおうのところは」
「私だって少しは心配してる。でも心配してもしかたないじゃない? もしかしたらマヨは自殺したかもしれないし、そんなことはないとは思うけど、もしかしたらね。それに誘拐されてる可能性もあるし、まあ、これもないと思うけど。心配しても助からないものは助からないし、解決するときには解決する。Take it easy」
「だけど、夜は冷えますし。私、捜してきます」と奈緒ちゃんは立ち上がった。「どこかで待ってるかもしれないし、スーパーとかコンビニとか、この近くを捜してみます」
「ねえ、マヨはしゃべるとき、奈緒ちゃんの目を見る?」
「えっ?」
「ちょっと座って」と私は言った。奈緒ちゃんは少しとまどったけれど、結局はこたつに戻った。「奈緒ちゃんは私の目を見てしゃべるでしょ? はじめてこの家に来たときからそうだった。でもマヨはそうじゃないの。たまにファミレスに行くんだけど、注文するときに店員さんの目を見ることはないし、まえにカウンセリングに行ってたときも、しゃべることはあっても、目を見ることはなかったみたい。まあ、私の目を見ることはあるけど、たいていは隣り合って座るし」
「そう言われてみれば、私の目を見るのは少ない気がします」
「別にそれはいいんだけど。でもマヨはそういう人だから」と私は言い、いじめとサボりのことを手短に話した。ついでに海で〈うそつき〉と叫んだことも話した。
「なら予兆はあったんですね」
「予兆というか、発散したい何かをかかえてるんだと思う」
「サインですよ」と奈緒ちゃんは言った。「私、昔は真面目な子供だったんです。問題を起こすことはなかったし、模範的な子供だったんですよ。だけど、家出をして、そしたら周りから問題児に見られるようになって、だから模範的でいる必要がなくなって、嘘をついたり、変わったファッションをしたりして。で、二回目の家出で先生から目をつけられると、宿題をおろそかにしたり、学校に化粧をして行ったり。私、少し前まで化粧をしてたんです」
「それ、すごくわかる。私もそう。弟が事件を起こさなかったら、今の仕事につくことはなかったし、もうちょっと世間体を気にしてたというか。〈夜のお仕事はいけない〉という風潮があるし、普通に生きてたら夜のお仕事にはつきにくいのよね。でも普通から外れたら、そういうお仕事も平気でできるようになる」
「サインですよ。マヨちゃんはサインをだしてるんですよ」と奈緒ちゃんは言い、勢いよく立ち上がった。「私、捜してきます」
「じゃあ、がんばって。Take it easy」
「はい、行ってきます」と奈緒ちゃんは言い、部屋を出ていった。
私は引き出しの現金を確かめてから、化粧をおとし、それからキッチンへ行き、冷凍タコヤキを電子レンジに入れた。猫に妹のことを聞いてみたけれど、無視された。タコヤキができあがると、マヨネーズに七味唐辛子をまぜた。そしてタコヤキを食べながら、妹の行き先を考えた。おそらく妹には部屋にかくまってくれるほど仲のいい友達はいない。そうなると、奈緒ちゃんが言うようにどこかのお店にいるか、あるいは小学校や公民館などに忍びこんでいるか、もしくはどこか遠くの町にいるか。
タコヤキを食べ終えると、ふと気づき、お風呂のスイッチを押した。今度は猫を抱きながら、妹のことを考えた。猫は温かかった。でも足の裏はひんやりしていた。考えはまとまることなく、同じことを思い返した。強盗といじめとサボりのことを思い、先生の家庭訪問のことを思い、父が亡くなった日のことを思い、カウンセラーとのやりとりを思った。そうしているうちに、二階に隠れているかもしれないと思いついた。
階段の明かりをつけることなく、猫を抱きかかえて一段ずつあがっていった。手には懐中電灯を持っていたけれど、その光はあまりにも頼りなく、だから消した。二階に着くと、猫をおろし、警察犬のように妹を捜させることにした。とても静かだった。暗闇には猫の歩く気配しかなかった。私は手さぐりでドアを全部あけた。少し待っていると、猫の気配はなくなった。
「マヨ、いるのはわかってるんだから」と私は弱々しく言った。それに共鳴したのか、猫が鳴いた。「ほらっ、ステファニーもわかってんだからね。ステファニーはまっくらでも見えるんだから。ねえ、ステファニー、マヨはどこにいる? というか、あんたはどこ? 佐和子のお部屋? おーい、迷子になっちゃうよ。ねえ、マヨ、いるんでしょ? じゃあ、帰るからね。ステファニー、おいで。帰ろう」
猫はもう鳴かなかった。暗闇は静かなままだった。
私は一人で階段をおりた。そして冷蔵庫からちくわをとりだし、席につき、七味マヨネーズの残りをつけて食べた。とてもおいしかった。暑い季節にはワサビ醤油がいいけれど、寒い季節には七味マヨネーズがいい。
ちくわを食べ終えたら猫をつれてこようと思っていた。なんとなく、そう思っていた。でもその必要はなかった。階段をおりる足音が聞こえてきて、ダイニングに妹が入ってきた。妹は猫を床におろし、ポテトチップスの袋をゴミ箱に入れ、そして私のとなりに座った。そのあいだ私の顔を見ることはなかった。
「ちくわ、食べる?」
「いらない」と妹はぶっきらぼうに答えた。
「ステファニーはどう? ちくわ食べる?」と私は聞いた。猫はすでにいつのも場所で寝ころんでいた。「おいしいのに、ちくわ。ちくわの天ぷらってあるじゃない? 天ぷらにすると、なぜか異様においしくなるのよね。ちくわの天ぷらは好き?」
「食べたことない」
「給食に出ないの? こんど奈緒ちゃんと作ってみれば? 縦に半分に切って、青海苔をまぶすの」と私は言った。妹はテーブルを見つめていた。「じゃあ、一緒にお風呂に入ろうか?」
「先に入って」
「一緒に入ろうよ」
「入らない」
「ならいいけど」と私は立ち上がった。そして妹を抱きあげた。「けっこう重いね。じゃあ、お風呂に入ろう。奈緒ちゃんは散歩に行ったみたい。夜のお散歩ね。ちくわを持っていけばよかったのにね」
妹を脱衣所までつれていくと、私は服をぬぎ、さっさと浴室に入った。お湯につかったとき、足先が冷えていたことに気づいた。ただそのためにお湯は心地よく、思わず息がもれた。
妹はなかなか来なかった。私はうながすことなく待った。
少しすると、浴室のドアが開き、妹が入ってきた。肉づきがよいためか、色白の体はすこやかに見えた。そこには性的な要素は少しもなく、絵画のモデルにできそうな趣があった。私たちはせまい湯船の中で向かい合った。目が合うと、妹は恥ずかしそうに微笑んだ。その顔は子供のゾウを思わせた。
「なんでわかったの?」と妹はやや怒ったように言った。
「何が?」と私は返した。
「二階にいること」
「一人暮らし、したい?」と私は聞いた。妹は視線をおとした。「別にどっちでもいいんだけど、いろんな選択肢があると思うのね。このまえ、佐和子とアスカちゃんが来たじゃない? ここに住むのが嫌なら、佐和子とアスカちゃんと住んでもいいし」
「別にここに住むのが嫌じゃなくて。それに奈緒ちゃんが来たことに不満があるわけでもないし。ただ、なんとなく」
「そっか。そうだよね。私も自分のことがよくわからなくて。だから何を言ったらいいのかわからない。まあ、そんなものよ。自分の気持ちがちゃんとわかってたら、それを言えばいいんだけど、でもわからなかったら何も言えない。ねえ、ちょっと悲しいことを言ってもいい?」
「うん」
「すごく悲しいことだけど、いい?」
「いいよ」
「私ね、刑務所に入ろうかと思ってるの。どうしてだか、ふとそう思って。刑務所に入るのも悪くないかなって。でも刑務所に入ると、マヨはここには住めなくなるし、たぶん佐和子とアスカちゃんと住むようになると思う。それは嫌?」
「なんで刑務所に入るの?」と妹は私の顔を見ながら言った。声も表情もとりわけ不安そうではなかった。
「なんでかな? うーん、よくわからない。私が刑務所に入って困るのってマヨだけだし、だからマヨにはちゃんと許可をとっておかないといけないよね。どうかな? 刑務所に入ってもいい?」
「私もわかんない。入らない方がいいと思うけど、でもどうしても入りたいなら入ってもいいよ」
「そっか。まあ、よく考えてみて。私もよく考えてみるから。刑務所って冬は寒いし、夏は暑いし、ビールも飲めないし、あまり住みやすいところではないみたい。だからまだ考え中で」
「なんで入るの?」
「なんでかな? わからない。マヨはさっき家出したでしょ? それと同じかな」
「私は家出はしてないよ」
「えっ? いや、したでしょ?」
「だって、家を出てないじゃん? 家出じゃないもん」
「なるほど」と私は笑った。「たしかに家出じゃないね。じゃあ、かくれんぼ? まあ私もかくれんぼみたいなものよ。刑務所に隠れると誰にも見つからない」
「お姉ちゃんも家出すればいいじゃん」と妹は言った。そのとき、玄関の方から奈緒ちゃんの声がした。
「奈緒ちゃん、ちょっとこっち来て。お風呂にいるから」と私は大きな声で言った。奈緒ちゃんの足音がテンポよく近づいてきて、そしてとまった。
「なんですか?」
「ドアをあけて」
「ドア、ですか? では失礼します」と奈緒ちゃんはドアをあけた。「あっ、マヨちゃん、帰ってたんだ? おかえり」
「おかえり」と妹は照れ笑いをした。
「奈緒ちゃんも一緒に入る?」と私は聞いた。
「いいんですか?」と奈緒ちゃんは嬉しそうな顔をした。
「いいよね?」と私は聞いた。妹は首をかしげた。「いけないみたい。定員オーバー。じゃあ、とりあえず何か食べたら? まだなんでしょ? 私たちはもう食べたから」
「はい、そうします」と奈緒ちゃんは言い、そっとドアを閉めた。
それから私は何も話すことなく、ぼんやりと水面を見つめた。そうしていると、ふと竹下舞に手紙を送ってみようと思いついた。それはまるで天からのお告げのようで、ほがらかな気持ちになった。私は自分のことを自分で決めることができず、だから第三者に頼むことが救いに思えた。
お風呂からあがって手紙を書いていると、奈緒ちゃんが部屋に入ってきた。奈緒ちゃんは神妙な顔をしていて、〈大事な話ですけど〉と話し始めた。それによると、奈緒ちゃんが私の家に来たのは、妹のためだった。妹に同情して何かしたいと思い、ここに来たのだった。それでも両親と不仲なことは本当だったし、家出したいと思っていたことも本当だった。ただ、妹の不幸に動かされたという理由が大きかったようで、だから妹の家出に責任を感じていたのだった。
私は奈緒ちゃんに〈すべては自分のためだから。お年寄りの話し相手になるのも自分がしたいからするんだし、たとえ相手のために何かをするにしても、それは自分のためでもある。そういう考えを持ってたら、迷うことはないよ〉と教えてあげた。でも私は迷っていたために、竹下舞に手紙を書いたのだった。
24 小説家への手紙
インターネットで調べたのですが、小説家へのファンレターは、出版社の係の人が開封して中身をチェックしたのち、小説家に転送されるそうですね。また「小説家に届くのは早ければ一週間ほどだが、遅ければ半年近くかかる」という情報も見つけました。
この手紙は急用なので、できればすぐに竹下舞さんに転送してください。よろしくお願いします。(※ここまでは係の人に向けた文章です)
世間とはなんでしょうか? 竹下さんは「社会と世間は違う。社会は入れ物だが、世間は生き物だ」と書かれています。私は竹下さんに世間という怪物の存在を教えられた気がします。私が生きづらいのは、社会のため(給料が低いとか、仕事がないとか、そういうため)ではなく、世間のため(人目が気になるとか、陰口をたたかれるとか、そういうため)です。この手紙を書いているのも、世間という不条理な生き物と、どうにか折り合いをつけたいと思ってのことです。
竹下さんは週刊誌に『思いやりとは想像力である』というエッセイを連載していますが、私はそれを読んで、感心させられることが多々あります。社会の善悪は明確ですが、世間の善悪は曖昧です。竹下さんは世間の善悪のゆらぎを書いているように思います。これはエッセイだけでなく、小説でもそうです。竹下さんの小説の主人公は、善悪の曖昧さにより悩んでいるように思います。私はそういうものを読むと、共感することもありますし、発見することもあります。
今回、竹下さんに相談したいことがあり、手紙を送らせていただきました。相談したいこととは、善悪のあいだにあることです。ある人にとっては善でも、別のある人にとっては悪になるようなケースのことです。私は複雑な立場に置かれていて、複雑な気持ちをかかえていて、どこに進めばいいのか迷っています。自分で判断をつけることが難しく、にっちもさっちもいきそうにないので、竹下さんの意見を聞いてみたいと思い、この手紙を書くことにしました。
相談の内容ですが、きわめて個人的なことを書く必要があるので、ここには書けません。手紙の最後に住所と電話番号とメールアドレスを書いておきます。どの手段でもかまいませんので、もしお時間があるようでしたら、お返事をください。
自己紹介をしておきます。
私は1988年8月8日生まれの27歳です。生年月日が同じですが、それは事実です。竹下さんの気をひくためにウソをついたわけではありません。
職業は風俗嬢です。ファッションヘルスで働いています。私は自分の仕事に誇りを持っていますが、誰にでも打ち明けられるものではありません。世の中には風俗嬢を偏見する人たちもいますし、打ち明けることで関係が悪化することもあるのです。基本的には楽しく働いています。お客様に喜んでいただくことは、自分自身を肯定できることです。自分自身を肯定できることは、幸せというものの根源にあるものだと思います。もちろんお金のために働いているという面も少なからずあります。でも決してそれだけではありません。宝くじが当たって億万長者になったとしても、仕事をやめるつもりはありません。仕事は私の生きがいです。しかしその一方で、仕事をやめようかとも思っています。複雑な気持ちをかかえているとは、そういうことです。(相談の内容は仕事に関することではありません。プライベートに関することです)
自己紹介といっても何を書けばいいのかわかりません。すみません。
竹下さんはエッセイの中で「私は読者から手紙をいただくことがあるのですが、その返事を出さないことで、読者が自殺するかもしれません」と書かれています。私は自殺するつもりはありませんし、私の相談の内容はそういうタイプのものではありません。だから気が進まなければ、返事はいりません。
私はこの手紙を、竹下さんのことを想像して、じっくりと考えて書きました。でも想像力には限界がありますし、もしかしたら失礼な手紙(あるいは迷惑な手紙)になったかもしれません。もしそうなら、申し訳なく思いますし、恥ずかしくも思います。だから返事はけっこうです。それでも私のような人間の話を聞いてくださるのなら、たいへん喜ばしく思います。私には相談する相手がいません。占い師や何々相談センターなどでは理解されない問題をかかえています。誰かに話してスッキリしたいのではなく、アドバイスを求めています。
最後に、私は形式的なことは好きではないのですが、竹下さんのご清祥をお祈りしております。心からそう願っています。
25 小さなパーティー
私は小さい頃には母と祖父と三人で暮らしていた。祖父は前世や来世の話をよくした。詳しいことは知らないけれど、祖父は妻と長男を不慮の事故で亡くしていた。だから〈現世の行いは現世に返ってくる〉とは考えられなかったのだと思う。だから前世や来世にすがったのだと思う。
弟が事件を起こしてから、私も前世や来世に親しみを持つようになった。前世の行いのために今の境遇があると考え、来世のために現世で善行をすべきだと考えるようになった。もちろん本気で前世や来世を信じているわけではなかった。それでも運命に対する理由として、前世や来世を持ちだすようになった。そうすることにより、ほんの少し生きやすくなった。運命を受け入れやすくなり、陰口を受け流しやすくなった。
昔は善悪というものを絶対的なものだと思いこんでいて、当たり前なものとして受け入れていた。でも、そうではなかった。世間では風俗嬢は悪だと思われている。法律的には悪ではないけれど、世間的には悪だとみなされている。そのことに気づいてからは、世間というものに敏感になった。竹下舞に手紙を送ったのは〈社会という枠ではなく、世間という流れに注目すべきです〉という文章に共感したためだったし、奈緒ちゃんの家出を受け入れたのも世間への反発のためでもあった。
竹下舞が書いているのだけれど、善悪は勝者が決める。今の時代では、多数派が勝ち、多数派が善になる。でも実際はそんな単純ではない。世の中には勝ち負けのつかない問題の方が多い。いじめは悪だけれど、陰口は善か悪かわからない。世の中にはいじめより陰口の方がだんぜん多い。
そこで、私は前世や来世について考える。彼らが陰口を言うのは前世の行いが反映されているからだと考え、私が陰口を言うと来世にどう反映されるだろうかと考える。そうすることで、自分が健全であるように思えてくる。
妹に前世や来世の話をしたのは、一緒にお風呂に入ってから二日後の土曜日のことだった。妹と奈緒ちゃんはダイニングテーブルで宿題をしていて、二人とも休憩中だった。
「それで」と私は話を続けた。「道端のあき缶を拾うことは善いことに思えるけど、ホームレスの中にはあき缶を集めてお金に換えてる人もいるんだし、必ずしも善いこととはかぎらない。あき缶がないと、ホームレスは困るから。それなら、あき缶を拾うことは悪いことなのかと言うと、それも違う。あき缶が落ちてない方が景観がいいし、それに、道端にあき缶が落ちてると、ほかの人もまねて捨てるようになるのね。どうしてだか、何も落ちてない道だと捨てないのに、汚い道だと捨てるのよね。山の中に冷蔵庫が一個あるだけで、どんどんゴミが増えていくのよ。ゴミはゴミを呼ぶのね」
「真新しい靴は汚れないように気をつけるけど」と奈緒ちゃんは口をはさんだ。「少しでも汚れがついたら、もうどうでもよくなって、雑にあつかってしまう。そういうのと一緒ですよね?」
「そう、そうなのよ。だから綺麗な道だとゴミは捨てにくい。まあそういうわけで、ここまでの話はわかった?」
「なんとなく」と妹は答えた。
「なら自分の言葉で説明してみて」
「あき缶を捨てることは、善いことであって、悪いことでもあって」と妹が言うと、私は思わず笑ってしまった。「ホースレスのためになるし、道が汚くなって、みんなゴミを捨てるようになるし、だから善いことであって、悪いことでもある」
「そうそう、そういうこと」と私は口もとに手をあてながら言った。妹も奈緒ちゃんも真面目な顔をしていた。「うん、私が言ったのはね、あき缶を拾うことよ、捨てることじゃなくて」
「そういうことか」と奈緒ちゃんは笑い、つられて妹も笑った。「捨てちゃダメですよね、いくらホースレスのためになっても」
「でね」と私は言った。「善いか悪いかって一概には言えないし、難しいのね。でも、じつはとても簡単で、自分が善いことと思えば、それは善いこと、悪いことと思えば、それは悪いこと。道端にあき缶が落ちていて、拾って〈私って善いことをしたな〉と思ったら善いことだし、〈あれを拾うとホームレスの人たちは困るかもしれない〉と思って拾わなかったら、それも善いことね。結局、自分次第なのよ。でも、善いか悪いかわからないことってあるじゃない? 善いようにも思えるし、悪いようにも思えることってあるじゃない? まあ、サボりがそうね。私は別にサボってもいいと思うんだけど、でも先生は悪いと言うし、だから善いか悪いか微妙じゃない? そういうときはどうすればいいと思う?」
「うーん」と妹は人差し指で唇をたたいた。「考えるのをやめる」
「まあ、それも一つの手ね」と私は言った。「私の場合は、そういうときには来世を考えるのよ。これをしたら来世で悪いことが起こるかどうか考えて、そしたら引け目を感じることがなくなる」
「どうやって考えればいいの、来世を?」
「そうね」と私は言い、少し考えた。「私は普通に来世を考えたら、なんとなくできるんだけど、マヨはできない?」
「無理っぽい」
「無理っぽいか。奈緒ちゃんは?」
「私も無理ですね。私、どっちかと言うと現実主義者なので」
「そっか」と私は笑った。「じゃあ奈緒ちゃんは運命も信じない?」
「運命ですか? 信じないですね、とりわけ。柏木さんは?」
「私はけっこう信じるかな。でも運命と言ってもそれは、ロマンスとかそういうんじゃないよ。もっと、その、なんというか、不吉な運命ね」
「星座占いで最下位になったとか?」
「そうそう」と私は笑った。
「なら私も信じます。一位の場合は信じませんけど、最下位の場合は信じます。腹が立ってくるんですよ、最下位だったら」
「そっか。腹が立つのか。私は不安になる。頭ではインチキだとわかってるんだけど、でも不安になってしまう。だったら奈緒ちゃんは運命は信じないのよ。不安にならないなら、本気では信じてないんだと思う。マヨはどう? 星座占いは信じる? 朝のテレビでやってるのとか」
「うーん、少しは信じるけど、でもすぐに忘れちゃうかな」
「それはいいね」
いつのまにか前世や来世の話は立ち消えになっていた。
休憩は終わり、妹と奈緒ちゃんは宿題を再開した。猫は珍しく小走りをしていて、私はボールで遊んだ。でも猫がすぐに飽きたので、私はソファーに横たわった。退屈になったせいか、電話やインターホンが気になってきた。
私が待っている人は三人いた。竹下舞、ダンサトシ、坂野さん。エッセイを読むかぎりでは、竹下舞からの返事は来るように思えた。ダンサトシも〈もう一度だけ会うことになりますよ〉と宣言したのだし、私の前に現れるように思えた。そして坂野さんも〈僕はここに来ることが好きなのです〉と言っていたのだし、もし強盗の犯人でないなら、お店に来るように思えた。
私は朝から晩まで少なからず期待してすごした。次の日もその次の日もそうだった。でも何もなく、そのため多少のさみしさを覚えた。それは空虚というより退屈で、物足りなさとも呼べるものだった。
水曜日、目が覚めたのは朝の九時で、妹も奈緒ちゃんもすでに学校に行っていた。猫は窓辺で日向ぼっこをしていた。私は軽い朝食をとったあと、猫にブラシをかけた。まだ換毛期は続いているようで、驚くほど多く毛が抜けた。それらの毛は、妹の大きな箱の中に入れた。妹はそれでクッションを作るつもりらしかった。
昼の二時になると、私は地味なコートを着て、大きなサングラスをかけて、車に乗った。そして気ままに走らせていった。
ラジオをつけると、日本語と英語がまざった曲が流れてきた。やがて曲の音量が下がり、パーソナリティーの女性がしゃべりだした。曲紹介のあと、〈この曲、すごい流行ってますよね。もう一年くらい前の曲で、だけど今でもたくさんのリクエストが来て〉と言った。私はその曲を知らなかった。さきほどはじめて聴いた。小さい頃は毎週かかさず音楽番組を見ていたのに、いつのまにか最近の音楽にうとくなっていた。それは音楽にかぎったことではなく、流行全般に言えることだった。いつのまにか最近の若者というものを遠くに感じるようになっていた。
そのうち知らない町に来ていた。そこには高い建物がほとんどなく、人の姿もまばらで、でも車だけは多くあった。
川沿いのススキは、風でなびいていた。それは輝かしさが少しもなく、晩秋に似合うものだった。空にも秋らしさがあり、私は夏の強盗事件からどれくらいの月日が流れたのか計算して、時間に置き去りにされているように感じた。
車を薬局の駐車場にとめ、外に出て、タバコを手にした。風は強く、ライターの火は頼りなかった。それでも一度ついた火は、ゆっくりと灰を作っていった。
一人で下校している学生が何人か通ったけれど、駐車場や歩道に人がいて、声はかけられなかった。面倒になってやめようと思い、あと五分だけ待つことにした。五分たってもタイミングは合わなかった。それでも、ふと新たな方法を思いつき、もう少しねばることにした。
ようやく一人でいる男子学生を見つけた。彼は自転車に乗っていてヘルメットをかぶっていたので、中学生のようだった。
「あの」と私は右手を小さく示した。彼は私のそばでとまった。「ちょっと、こっちに来てくれない? うん、いいからこっち来て。はい、じゃあ、そうね、自転車はそこにとめて。まあ、ヘルメットもぬごうか。それからメガネもとって。いや、メガネはとらなくていいから。冗談よ」
「なんですか?」と彼は真面目に言った。メガネと坊主頭のためか、地図が好きそうな印象があった。あるいは、電車よりも時刻表に興味を持っていそうな感じだった。
「ちょっと買いたいものがあって。ここに書いてあるものを買ってきてくれない? お金はあげるから」
私は彼にメモ用紙と千円札を強引に押しつけ、車の中に戻った。彼は釈然としない様子でメモ用紙と薬局を交互に見て、車の窓をノックした。私は窓をほんの少し下げた。
「どうして自分で買わないんですか?」
「だって、女だもん、私」と私はあざとい声で言った。「そこに書いてあるものはわかるよね? 女がそういうのを買うのは恥ずかしいのよ。それって男が使うものでしょ? 女が買うものじゃないし、でもどうしても必要で。お願いできないかしら? おつりはあげるから」
彼はしかたなさそうな顔をして、薬局へと歩いていった。私はタバコに火をつけた。タバコは一度もくわえることなく、短くなると、窓の隙間から外に落とした。彼はなかなか出てこなかった。四本目に火をつけたとき、ようやく出てきた。でもビニール袋は持っていなかった。
「どうしたの?」と私は窓を大きくあけた。車内の煙が一気に出たように思えたけれど、目には見えなかった。
「サイズはなんですか?」と彼は私の目を見ることなく言った。
「サイズって?」
「SとかMとかLとか、そういうのです」
「何それ?」
「商品の大きさです」
「たぶん、Mだと思う」
「どうして彼氏が自分で買わないんですか?」
「えっ? 彼氏って誰の彼氏?」と私が言うと、彼はこちらを見た。でもすぐに視線をそらせた。「私の彼氏? 私には彼氏はいないよ」
「なら、どうしてこんなものを?」
「うーん、あまり言いたくないんだけど、気にくわない女がいてね、なんか清楚な感じなんだけど、その女のカバンに入れてやろうと思って。それでその女と彼氏の仲が悪くなったらおもしろいし。じゃあ、Mでいいから買ってきて。お願いね」
私はタバコを捨て、窓を閉めた。彼はとぼとぼと歩いていき、薬局に入った。今度はすぐに出てきた。私は窓をあけ、ビニール袋を受けとった。彼は律儀にも釣銭を返そうとしたけれど、私は意地でも受けとらなかった。
私はその商品の本当の使い道を教えてあげたあと、〈ねえ、このことは誰にも言わないでね。約束ね。指切りしよっ〉と小指をからめた。それから商品を開封して、六つプレゼントして、彼の頬に口づけをした。
エンジンをかけ、車を発進させた。彼が今日のことを五十年後にも覚えているかどうかは疑わしいけれど、私は満足していた。ただ頬に唇を乗せただけなのに、いつも以上に達成感が覚えていた。
都会に近づくほど車の数は増えていき、いつのまにか対向車線は渋滞していた。スカートの短い女子学生の姿が目につくと、さきほどのことを思いだした。男の子を相手に奉仕するようになったのは、今の仕事に慣れ始めた頃で、お客様の中に女子高校生が好きな人がいて、ふと思いついたのがきっかけだった。ナンパするのは想像以上に簡単だった。自暴自棄な女を演じて、性的な話題を明るく話したあと、軽く誘えばよかった。それでたいてい成功した。
悪いことをしているという認識はなかった。それどころか、道徳的に善いことをしているとさえ思っていた。私から奉仕された男の子たちは、中年になっても老年になっても、私との初体験を思いだすはずだし、その体験は人生で最も不可思議ですばらしいものになる。その後どれだけの体験を重ねても、私との体験に勝る思い出はない。そう考えて、正しいことをしていると思っていた。
ミニスカートの女子学生のとなりには、長身の男の子がいた。二人は手をつないでいて、楽しそうに笑い合っていた。それはステキなことだけれど、誰もが彼らのような恋愛をできるわけではない。容姿や性格に問題があり、恋愛とは無縁で生きている人もいる。私は風俗に行くことが一番の楽しみである人を何人も知っているし、まだ三十歳にもならないのに恋愛をあきらめている人も何人も知っている。そして、私もそのうちの一人だった。でも私の問題は、容姿や性格ではなく、運命だった。あるいはそれは言い訳かもしれないけれど、私には恋愛や結婚は想像できなかった。
太陽は低い位置にあり、地面には長い影があった。人も車も建物も、影になると同じになる。それらは奥底でつながっていて、純粋に近づくほど輪郭をなくしていく。逆に言えば、輪郭は不純なものにより作られる。そういう形而上的なことを考えた。それは悪い兆候だった。そういう考えは儚さをまねくだけだった。
おそらく誰もが何かをかかえて生きている。私だけが特別なのではない。わかりきっていることなのに、私の中には響くものがあった。それは特別な響きで、自分と世界を切り離してしまうものだった。それにはおそらく〈儚さ〉という名前がつけられているのだと思うけれど、私にはよくわからなかった。さみしさも悲しさも怒りも空虚も自分をつつみこむタイプの感情だけれど、儚さはそうではない。つつみこむというより、切り離す。自分の中で響いて、それに大きくとらわれて、そして世界は遠くにあって、でもよくわからない。よくわからない、よくわからない、よくわからない、くりかえすしかない。それが私のとっての儚さだった。
家に着いたのは六時だった。妹と奈緒ちゃんはキッチンで天ぷらを揚げていて、室内には温かい音が響いていた。私はつまみ食いをした。奈緒ちゃんも味見をして、妹もそれにならった。三人で立ったまま食事をしたので、小さなパーティーのようだった。そのためか、床の猫はどことなく優雅に見えた。白一色で、まるまるとしていて、動きは常にゆったりとしていて、でも鳴き声はしゃがれていて、それだけは残念だった。
26 ブタとネズミ
十五歳のあのときから、私は毎日かかさずヘアピンをつけるようになった。これは前髪が長いためだったけれど、強姦未遂のせいでもあった。そのとき、私はヘアピンに助けられた。そのためか、ヘアピンがなければ落ち着かなくなった。それは風俗嬢になるまで続いた。それまでは強姦されそうになったことを引け目に感じていたけれど、風俗嬢になってからは強姦されなかったことを誇りに思うようになった。そして、ヘアピンがなくても平気でいられるようになった。
中学三年生の秋、私は電車で自宅近くの最寄り駅まで帰り、いつものように歩いていった。友達と遊んでいたので、時刻はいつもより遅く、あたりは薄暗くなっていた。
私はたしかに黒色のワゴン車に目をとめた。でも特に気にすることはなく、歩いていった。少しすると、後ろから車が近づいてくる音が聞こえてきたけれど、これにも特に気にすることはなかった。ワゴン車がすぐそばにとまったときも、ちらりと目を向けただけで、少しも警戒することはなかった。
それは一瞬の出来事だった。ドアが開いたかと思うと、抵抗する暇もなく、ひきずりこまれていた。後ろから男に抱きつかれていて身動きがとれず、手で口を押さえられていて声をあげることもできなかった。ワゴン車はすでに走りだしていた。車内には二人の男がいて、私をひきずりこんだ方はブタのように太った男で、運転席にいた方はネズミのような顔の男だった。
私は頭の中で〈逃げるときには車のナンバープレートを覚える。逃げるときには車のナンバープレートを覚える〉と何度もくりかえした。そうすることで、気分を落ち着かせようとした。
やがてワゴン車はとまった。
ネズミは後部座席に移動して、ビデオカメラをこちらに向けた。ブタは私の太ももに乗った。口が解放されると同時に、私は〈助けて!〉と叫んだけれど、ブタに口を押さえられ、反対の手で首をしめつけられた。
「叫んだら殴るぞ」とブタはどなり、首をしめる力を弱めた。
口が解放されても、もう叫ぶ気にはなれなかった。私は横目で左右を確認した。左の方には小さな光があり、まったく人気がないわけではなさそうだった。
「おまえ、いくつだ?」とブタは言った。私が黙っていると、またどなった。「おい、いくつだと聞いてんだ! 自分の年齢もわからんのか? アホか」
「マジかよ」とネズミは数学の教科書を示した。「三年A組、柏木千里」
「中坊か。上物だな」
ブタは私のブラウスをひきちぎるように開いた。そしてブラジャーをずりおろした。でも私の胸が小ぶりだったためか、うまく固定されず、結局ブラジャーは上にあげられた。私は〈抵抗しないので、乱暴にはしないでもらえませんか?〉と言った。ブタは笑い、私の唇に吸いつき、それから〈もっと協力的になってくれるなら、乱暴にはしないぞ〉と言い、私の手首を強くにぎった。私は〈痛い痛い痛い協力します協力します〉と矢継ぎ早に言った。二人は笑った。
ブタは私にスカートをおさえるように命令して、私がスカートを持ち上げると、私の下着をゆっくりとぬがせた。ネズミは卑猥なことを言い、ブタは笑った。そのあとブタは指や舌でいろいろなところをさわった。
いつのまにか頭の中で逃走の予行練習をしていた。ビデオカメラを奪いとれるかどうかが焦点だった。
「まだ処女なので、口でするので」と私は懇願した。「がんばって口でするので、許してもらえませんか?」
「マジで! 処女なんだ? そうは見えないんだけど」とネズミは言った。
「まさかファーストキスを奪ってしまったか」とブタは笑った。
「だけど今どきの中学生はませてるから、あんがい嘘だったりして。確かめてみないとわからないね」
ブタは私に自分のズボンと下着をぬがせるように命令した。私は命令に従った。そしてブタのそれを右手で握った。それは想像以上に長く、勇気がわいてきた。私はそれを手で刺激していった。
「口でするんじゃなかったのか?」とブタは言った。
「はい。でも私のペースでした方が気持ちよくできると思うので」と私が言うと、二人は笑った。私は頭の中でひたすらイメージをくりかえしていた。
「そろそろ口でしてもらおうか」
「はい。では、いきます」と私は言い、木の棒を折るようにブタのそれを力いっぱい折り曲げた。
ブタは言葉にならない声をあげ、股間をおさえた。私はすぐさまヘアピンをとり、ネズミの目を突いた。眼球には命中しなかったけれど、ネズミはひるんだ。
ビデオカメラは下に落ちていた。左手でそれを拾ったとき、ブタに右の手首をつかまれた。とっさにビデオカメラでブタの頭を殴った。でもすぐに左の手首もつかまれた。それでも私は迷うことなく、ブタの股間に顔を沈めた。ブタはまたもや言葉にならない声をあげた。
私は外に飛びだし、小さな光の方へ走っていった。車のヘッドライトの近くまで来ると、不安になり、走る方向を変えた。右手にはカバンを持っていて、左手にはビデオカメラを持っていた。ほどなくして、ブラウスの前がはだけていることに気づき、とっさに胸をおさえた。あたりを見まわすと、誰もいなかった。
どこにいるのかわからなかった。それでも歩いていると、見覚えのある場所に行きついた。近くにバス停があり、小さな列ができていて、私はそこに並んだ。でも下着をつけていないことを思いだし、結局、歩いて帰ることにした。
家に着いたときには、十時近くになっていた。玄関の音を聞きつけたのか、リビングから姉が出てきて、二階から兄がおりてきた。
「何かあったの?」と姉は言った。
「まあいいじゃない?」と兄は言った。「ごはんは食べた? まだならあるけど」
「食べた」と私は嘘をついた。「お風呂に入る」
服をぬぐとき、あらためて下着をはいていないことに気づいた。お風呂に入り、あらゆる部分を石鹸で洗った。お風呂からあがり、歯みがきをした。歯茎や頬の裏までこすった。そして自分の部屋に戻り、ビデオカメラの映像を確認した。そこには見知らぬ女性の姿があり、気分が悪くなった。
頭の中にはさきほどのことが渦巻いていた。別のことを考えようとしたけれど、うまくいかなかった。誰かと話したい気分だった。できれば姉と話したかった。でも引き戸の向こうから〈入るよ〉という姉の声が聞こえると、とっさに〈ダメ〉と答えた。それでも姉は引き戸をあけた。そして猫を床におろし、何も言うことなく引き戸を閉めた。私は猫と一緒に眠った。
警察にビデオカメラを持っていったのは、それから二日後のことだった。姉に強姦未遂のことを話し、姉から説得されて警察に行く決心がついた。結局、私の身近でそのことを知ったのは、姉と父と風香だけだった。今から思ってもしかたないけれど、もし兄にもそのことを話していれば、兄は自殺することはなかったかもしれない。
ブタとネズミは捕まった。
のちのち調べてわかったことだけれど、世の中には強姦されそうになって暴れたために殺された事件もあるらしい。それでも私は〈もし彼らがナイフを持っていたら、彼らを殺すことができたかもしれない〉と考えてしまう。殺されなかったことより殺せなかったことに焦点をあわせてしまう。