表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不愛想な彼女  作者: 竹下舞
2/4

11章~18章

11 男性軽視


 私にとって強姦というものは特別な位置にある。

 竹下舞という私と生年月日が同じ小説家がいるのだけれど、その人は小説の中にこんなことを書いている。

「強姦事件の報道を目にすると、いやな気分になる。たいていの事件には無関心でいられるのだが、強姦事件の場合には、被害者には痛ましさを感じ、加害者には(いきど)りを感じるのだ。それはたぶん処女性を信仰しているためだろう。もし性に対して寛容であれば、強姦は暴力行為と大差ないはずだ。処女性と言っても、それは経験の有無のことではない。性を最高位の羞恥だと考える思考回路のことだ」

 これは男がテレビのニュースを見ているときに何気なく考えたことで、特に重要な場面ではないのだけれど、私はこの部分が不思議とひっかかっていて、いつまでも記憶の中に留まっている。

 夏のはじめ、お店で坂野さんとこんなやりとりをした。

「強姦されることと殺されることでは、どちらがマシだと思いますか?」

「そうね」と私は考えるフリをした。

「今の法律では強姦罪より殺人罪の方が刑罰は重いようですが、それはおかしなことです。殺人より強姦の方が野蛮な行為なのですから」

 この言葉も記憶に残っている。私はこの言葉に共感や賛同をしたわけではないし、不快感や反発心がめばえたわけでもない。ほとんど無関心に受けとった。それでも記憶にはしっかりと残っている。

 最後にもう一つ。

 アダルトビデオには男が無理やり女を犯すタイプのものがある。しかもそういうタイプのものは〈レイプもの〉という一般的なジャンルとして確立されている。つまり、そういうタイプのものに興奮する男はそれなりにいる。きつい言い方をするなら、強姦願望を持った男が一定数いるために、強姦はアダルトビデオのジャンルの一つになっている。

 おそらく大多数の人はそういうことを考えることはないとは思う。でも、私は考える。そういう現状がおかしいとは思わないし、世の中に何かを訴えたいとも思わない。それでも考えてしまう。

 とにかく、私は強姦というものを特別視している。道端に咲く花を見て、家に帰ったあとにも頭の中に残っていることがあるけれど、それと同じように、私は強姦に関する情報が自然と頭の中に残ってしまう。

 性処理の手段が数多くある現代でも、強姦事件はあとをたえない。刑務所に入るリスクを負うより、風俗店で発散させる方がいいように思えるけれど、現状はそうなってはいない。その疑問を解消するため、強姦について調べたことがある。

 強姦事件の多くは不特定の相手に対するもので、ストーカーの末に行うケースは割合としては多くない。つまり、基本的には強姦は恋愛感情をこじらせたものではない。では、どうして強姦を行うのか?

 たしか心理学者による調査の結果だったと思うけれど、それによると、強姦する男の多くは、幼い頃に女性(母親や同級生の女の子など)から精神的に屈辱を受けた経験があり、いつしか〈相手からどう思われてもいいから、とにかく女を服従したい〉と思うようになり、犯行におよぶらしい。要するに、性欲を満たすために強姦を行うのではなく、支配欲を満たすために強姦を行う。言いかえれば、女性軽視から強姦を行う。

 では、男性軽視している女は何をするのだろう?

 私は男性を軽視している。そうなった理由があるとは思えない。客観的に考えれば、ブタとネズミに強姦されそうになったことか、あるいは兄の自殺か、どちらかがその理由なのだけれど、私にはそうは思えない。私は男に対して恐怖心があるわけではないし、男を不可解な動物だと考えているわけでもない。ただ、いつのまにか男を見下すようになっていた。そこに理由があるとは思えない。いつのまにかポテトチップスが好きになっていたのと同じで、生まれつきの資質に思える。


 世の中からすれば、風俗嬢になることは恥ずべきことで、風俗嬢を軽蔑することは当然のことだとされている。私はそのことを不快に思う。

 風俗嬢はクズだと思われているけれど、正確には風俗店に来る男がクズなのだし、アダルトビデオに出演することが下劣なのではなく、アダルトビデオを観賞することが下劣なのだし、でもそのことを理解していない人がたくさんいる。男女問わず、本当にたくさんいる。風俗店に来る男がいなければ風俗嬢はいないのだし、アダルトビデオを見る男がいなければAV女優もいないのに、どうしてそれが理解できないのか? テレビタレントが風俗やアダルトビデオを好きなことを公言しても、世間から悪く言われることはない。それでも風俗嬢はなぜか世間から悪く思われている。

 私は今の仕事をするようになってから、そういうことを考えるようになった。風俗店で働く方が悪いのか、来る方が悪いのか、どちらも悪いのか? 結局のところ、答えは出ない。悪いと言う人もいれば、悪くないと言う人もいる。それぞれの立場には、それぞれの言い分がある。

 私も別の立場にいれば、別の価値観を持ったかもしれない。平均的な人生を歩んでいれば、風俗嬢を無意識的に軽蔑するような人間になったかもしれない。それに、ホステス嬢より風俗嬢の方が高尚(こうしょう)な職業だと考えているのも、自分が風俗嬢だからだと思う。じつのところ、私はホステスやキャバクラに勤めている女をひどく軽蔑している。お店が高級であるほど、(いや)しい仕事だと考えている。でもそういう仕事についていれば、その価値観は逆転したと思う。ホステスは正しく、風俗は間違っている、と。

 とにかく、私は風俗嬢になった。

 風俗店はおおまかにはソープランドとファッションヘルスに分けられる。ソープランドは本番行為ができるところで、ファッションヘルスは本番行為ができないところ。そしてファッションヘルスもいくつかに分類できて、私はマットヘルスで働いている。それは簡単に言えば、浴室にあるエアーマットの上でのローションを用いた全身マッサージをするお店で、私の職場にはベッドもある。

 私がそこを選んだ理由は、風俗嬢が主導権をにぎれる点にあった。エアーマットの上では風俗嬢が一方的にサービスすることが通例であり、お客様は受け身でサービスを受ける。だからお客様から攻められることはない。体力的に疲れるという欠点はあるものの、私の(しょう)には合っていた。つまり、男性軽視している私には快適な環境だった。

 風俗嬢の中にはお金のために働いている人もいる。遊ぶお金ほしさに働いている女の子もいれば、借金返済のために働いている女性もいるし、生活費のために働いているシングルマザーもいる。でも、私は違う。私はお金のために働いているわけではない。人生を充実させるために働いているし、自分の仕事に誇りを持っている。それに、お客様を満足させることが私の支配欲を満たすので、お互いに満足するという良好な関係を築いている。とても健全だと思う。

 坂野さんが〈人は上層と中間層と下層の三種類に分けられる〉という話をしていたけれど、私は仕事に関しては上層に属しているという自負心がある。不満はないし、今のような生活がずっと続けばいいと思っている。それでも、将来のことを考えると、少なからず不安になる。街で子連れの女性を見かけると、なぜだか胸がざわめいてしまう。ただ現時点では満足している。

 お客様にはいろいろな人がいる。はじめての人もいれば、慣れた人もいる。堂々としている人もいれば、挙動不審を隠しきれていない人もいる。私はどんな人であっても〈初体験はいつ?〉と質問する。もし相手が未経験か遅めだった場合には、〈前世はナメクジで、いきなり人間に生まれてブランクがあったのね。ナメクジの次はネズミくらいがいいんだけど、いきなり人間になったら、そりゃあ困るよね。神様は配慮がたりないね〉と言う。お客様には笑う人もいれば、笑わない人もいるけれど、私はその冗談をとても気に入っている。指名をもらえるのも、その冗談のおかげだと思っている。

 私はお客様の中で一人だけ特別視している人がいる。本名かどうかはわからないけれど、名前は坂野と言い、年齢は三十五歳くらいで、鼻の下に髭をたくわえていて、まるい形のメガネをかけている。

 坂野さんがはじめて来店したのは、今年の三月だった。そのとき坂野さんは何もしなかった。一緒にお風呂に入ることもなく、私の体をさわることもなく、ただベッドに座って話をするだけだった。それ以降もそうだった。

 坂野さんが無差別殺人について話したのは、二度目か三度目に来たときだった。〈じつは僕は人を殺そうと思っているのです。昔からずっと考えていて〉と言い、そのような考えに(いた)った経緯を話し始めた。

 坂野さんは思春期の頃にテレビで殺人鬼特集を見て、衝撃を受けた。それは興奮というより感動だった。つまり、ホラー映画を好むというよりアンチヒーローへのあこがれだった。その日から殺人を妄想することが楽しみになった。裁判にかけられている自分や、マスメディアにとりあげられている自分や、インターネット上で騒がれている自分を、妄想することが日課になった。

 坂野さんはそういうことを静かに話した。それは霊能力者を思わせる口ぶりだった。でも内容が過激すぎるため、インチキに見えて、私は少しも警戒することはなかった。だからこう言った。

「私は別に人を殺すのがいけないとは思わないけど、無差別に殺すのはよくないよ。どうせなら嫌いな人を殺すのはどう?」

「みんな嫌いなのです」

「特に嫌いな人はいないの? そうね。サッカーの試合で勝ったときに、スクランブル交差点でバカ騒ぎする人たちがいるじゃない? ニュースでとりあげられたりするけど。私はああいう人たちは嫌いだし、ああいう人たちをねらったら?」

 今から思えば、坂野さんが私のことを気に入った理由は、その言葉のためかもしれない。私はただお客様に(こび)を売っただけなのだけれど、しかも私もスクランブル交差点でのお祭りに参加したことがあるのだけれど、その言葉に含まれていた非常識さが、坂野さんの心に響いたのだと思う。

 坂野さんはそのあともお店に来て、無差別殺人について話した。

「大衆は殺人鬼のことを憎みます。それは人が好きだからです。人が好きだから殺人鬼のことを憎み、殺人鬼の死刑を望むのです。僕は人が嫌いです。人を憎んでいます。彼らが楽しそうにしていると、むしゃくしゃしてきます。だから無差別に人を殺そうと考えるのです。リサさんは誰かの死を望んだことはありますか?」

「殺人鬼が死刑になってもならなくても、どっちでもいいかな」

「サッカーの試合の件はどうなのですか?」

「あれは別に本気で言ったわけじゃなくて」と私はやさしく言った。「そういえば、死のノートが出てくる漫画があるじゃない? そのノートに名前を書かれた者は、心臓麻痺で死ぬ。主人公が犯罪者をつぎつぎと殺していくやつね。知ってる?」

「はい」と坂野さんは言い、漫画の題名を口にした。

「もしそのノートがあったとしても、私は誰の名前も書かないよ。だって、人を殺したら気分が悪いじゃない? 気分が悪いというか、後味が悪いというか。人を殺したら一生そのことをひきずると思う。呪いというか、夢に出てきそう」

「リサさんは他人の不幸を嬉しく思った経験はありませんか?」

「まあ、なくはないけど」

「〈世界中の誰もが幸せになってほしい〉と言う人がいますが、その言葉は嘘です。そういう言葉を使う人は偽善者です。殺人鬼の幸せを望む人はいませんし、高圧的な権力者の幸せを望む人もいません。反対に、そういう人の不幸を望みます。人にはそういう感情のシステムが備わっているのです。誰もが嫌いな人の不幸を喜ぶものなのです。僕もほかの人と変わりありません。ただ、〈嫌い〉の幅がほかの人より広いだけで、システム的には同じです」

 それから坂野さんはこんなことも言っていた。

「日本には韓国が嫌いな人がいるでしょう? だから韓国で大型船が沈没して大勢の人が亡くなったときに〈ざまあみろ〉と喜んだ日本人がいるのです。韓国には日本が嫌いな人がいるでしょう? だから日本で大地震が起こって大勢の人が亡くなったときに〈ざまあみろ〉と喜んだ韓国人がいるのです。国同士のことだけではありません。国内でもそういうことはあります。野党は与党の失策を喜びます。たとえ自国の不利益になるとしても、与党の失敗を望みます。結局のところ、誰もが敵の不幸を喜ぶものなのです。僕の場合は、人類が敵なのです。その証拠に、ニュースで誰かの不幸が報じられると、愉快になります。反対に、スポーツ選手や学者が称賛されると、不愉快になります。僕の中にはそういう感情のシステムができあがっているのです。だから無差別殺人を行うことは、いたって自然なことなのです」

 たしかに坂野さんの言うことも一理あるとは思う。でも、無差別殺人をすれば、罪悪感にさいなまれると思う。たとえ人間に対して憎しみを持っているにしても、被害者遺族のことを具体的に知れば、罪悪感が生まれると思う。人間にはそういう感情のシステムが備わっているはずだから。良心という名の感情のシステムが。

 最近になり、坂野さんは歴史的建造物の放火を考えるようになった。でもそれも妄想の域を出ることはなさそうだった。それでも、もし坂野さんが事件を起こしたとしても、私は驚きはしない。〈ああ、やっぱり〉と思うだけで、悩むことはない。

 殺人事件の被害者と加害者が身近にいるためか、私は坂野さんに対して無関心でいられる。その一方で、坂野さんには特別な関心を持っている。お客様の中で特別視しているのは、坂野さんしかいない。だからもし別の場所で出会っていたなら、今とは別の感情をいだき、今とは別の関係になったかもしれない。そして、それがお互いにとって良い結果をもたらしたかもしれない。

 別の出会い方をすれば、別の関係になる。私は坂野さんとの関係を思うと、そのことをひしひしと感じる。



12 寿司屋のチーズケーキ


「お姉ちゃん」と妹は元気のない声をだした。

 私は妹の方をちらりと見て、また目の前のカツ丼に向かった。それは風味がよく、秋の夕食にぴったりだった。カツ丼は春でも夏でも冬でもなく、秋にかぎる。でも春のカツ丼にはキャベツをそえれば華やかになるし、夏のカツ丼には酢をたらせば食欲が出る。それに、冬のカツ丼には七味唐辛子をふれば体が温まる。ただ、トッピングなしのカツ丼は秋がいい。

 妹がなかなか続きを言わなかったので、私は〈なにか言いたいことでもあるの?〉とうながした。でも妹はうつむいたままだった。

「もしかして、始まった?」

「何が?」と妹は顔をあげた。

「別に」と私はそっけなく答えて、缶ビールを手にした。

 妹は左手で頬杖(ほおづえ)をしていて、私は骨格のゆがみを心配したけれど、そっとしておくことにした。テレビにはニュース番組が流れていた。猫は一心不乱にお皿に顔をうずめていて、太ったお尻は楽しそうにゆれていた。妹はまだカツ丼を一口も食べていなかった。私はもう一度〈なにか言いたいことでもあるの?〉とうながした。

「えっとね」と妹は言い、頬杖をやめた。でも猫背のままうつむいていて、その姿はいじけたゴリラを思わせた。「どうして人を殺したらいけないの?」

「何それ?」

 妹はたどたどしく説明した。それによると、二学期の初めに、学校で命の尊さについて教わったとき、〈どうして人を殺してはならないのか?〉という問題を考えさせられたようだった。

 その問題は、妹はとっては深刻なものだった。妹の母親は殺人者なのだから、〈人を殺してはいけない〉という当たり前のことも、受け入れるのは難しいのかもしれない。私は相川先生に妹の母親のことを話していなかった。だから自分の対応の甘さを反省した。

 妹がこの家に来たのは、四年前の夏だった。とつぜん父が小さな女の子をつれてきた。彼女はやや痩せていて、病的なほどにおどおどしていて、視線は常に下に向けられていた。その姿はあまりにも異質で、同情の対象にはなりにくかった。私は軽く恐怖を覚えたほどだった。父から彼女が妹であることを知らされると、恐怖は悲しみに変わり、妹の母親が人を殺したことを知らされると、悲しみは不安に変わった。その頃にはすでに兄も姉もいなかったので、妹の面倒は私がみることになった。

 妹の母親は自宅で男を刺殺して、その現場に妹もいた。そのため、妹はフラッシュバックに苦しめられていて、睡眠に障害が出ていた。父は〈問題は時間がたてば解決する〉と考えていたけれど、私は妹をカウンセラーのもとにつれていった。

 カウンセリングがうまくいったのか、それとも時間によって解決されたのかはわからないけれど、妹は睡眠を問題なくこなせるようになった。ただ、その頃に妹の虫歯が発覚した。それは痛ましいほど多くあった。私は妹をつれて歯科院に行った。そして歯科医師から注意を受け、〈育児放棄は虫歯に表れる〉という話を聞いた。おそらく妹の虫歯は母親と暮らしていたときにできたものだったけれど、私はつつしんでその助言を受け止めた。

 テレビには火事の映像が流れていた。昼間の映像で、黒い煙がとめどなく上っていた。猫はあいかわらずキャットフードを食べていた。妹は箸を持っていて、でもカツ丼は綺麗なままだった。テレビの画面が変わり、ニュースキャスターが映しだされた。

「この人、カッコよくない?」と私は言った。

「別に」と妹はテレビを見て答えた。

「そうかな。私はカッコいいと思うけど。嫌味なところがないというか、傲慢なところがないというか、清潔なカッコよさがあるというか」

「でも、おじさんじゃん」

「おじさん?」と私は妹の方を見た。妹はテレビに目を向けたままだった。「なるほど。そうかも。じゃあ私もあと八年後には三十五だし、おばさんになるのかな。それは困ったな。でも、あれよ、あれ、重いものを持ち上げるときに〈よいしょ〉と言ったらおばさんだから。で、おばあさんになったら立ち上がるときにも〈よいしょ〉と言うのね。私はまだまだ大丈夫。まあいいけど。私はね、なんというか、率直な意見だけど、別に人を殺してもいいと思うの」

「殺してもいいの?」と妹はこちらを向いた。

「痴漢はいけない。あれは卑劣だと思う。強盗もいけない。強盗も卑劣。だって捕まらないと思って犯行におよぶんだから。万引きもそうね。卑劣。でも殺人は違う。捕まることがわかってて殺すんだから、いいじゃない? というか、しかたないじゃない? でも無差別殺人はよくない。見ず知らずの人を殺すのは卑劣だから。でも身近な人を殺すなら、しかたないと思う、たとえ衝動的であったとしてもね。まあ、人を殺したらいろいろ大変みたいだし、たぶん想像以上に苦しまないといけないし、私はいくら憎しみがあっても殺したくはないかな」

 私はそこまで言い、ふと坂野さんのことが思い浮かんだ。坂野さんはすでに人を殺しているのかもしれない。だから風俗店に来て、話をするのかもしれない。私は人を殺したことがないので推測でしかないけれど、人を殺すと、映画を見ても本を読んでも音楽を聴いても、純粋に楽しむことができなくなると思うし、そういう人が行きつく先は、風俗店だと思う。風俗嬢は自己肯定感の低い人が多く、やさしい人が多い。坂野さんはそういう人に話を聞いてもらうために、風俗店にかよっているのではないか? そもそも話を聞いてもらうだけならキャバクラでいいはずだけれど、坂野さんはわざわざ風俗にかよっている。そんなことを思い、坂野さんにほんの少し同情した。

「先生は自殺のことは言ってなかった?」と私は軽く聞いた。

「言ってた」と妹は言い、ついに箸を置いた。そのため姿勢は少しよくなった。でも落ち着かないのか、ひざの上で指先をもてあそんでいた。

「どんなこと言ってた?」

「えっと、うーん、そうだな」

「たぶん先生は〈自殺もいけない〉と言ったんじゃない?」

「うん、やっぱ〈みんなで自殺しましょう〉とは言わなかった」と妹は言った。私は不覚にも笑ってしまい、その勢いで米粒が鼻に逆流しそうになり、何度か(せき)をした。妹の顔はひきしまったままだった。

「やっぱりそうよね」と私は言い、また咳をして息を整えた。「私はね、自殺もいいと思うの。もしマヨが自殺したらすごく悲しいよ。本当に本当に悲しいし、ホントに悲しい。それに、後悔すると思う、もっとちゃんと接していればよかったなって。でも、自殺するのはその人がそれだけの決心を持ってすることだし、私はそういう決心を尊重したい。お兄ちゃんが自殺した話をしたじゃない? 覚えてる? お兄ちゃんだって死にたくはなかったはずだし、でもそうはいかなかった。私もじつは、自殺しようと思ったことがあるの。その話、聞きたい?」

「うん」と妹はうなずいた。

「お兄ちゃんが自殺したあと、友達も自殺して、これもまえに話したね」と私は軽い調子で言った。「けっこう仲がいい子で、だからすごく応えてね。で、夜中に家を抜けだして、マンションの最上階に行って飛びおりようとした。でも怖くてできなかった。だから次は首をつってみた。でも苦しくて、ロープが首にくいこむし、息もできないし、本当に苦しくて、だから死ねなかった。自殺するには決心が必要みたい。決心というか、プライドというか。とにかく私は自殺できなかったから、自殺できた人はすごいと思う。尊敬はしないけど、すごいと思う」

「お姉ちゃんってすごいよね」と妹はかすれた声で言った。いつのまにか妹は涙を流していた。「お姉ちゃんは本当のことを言うし、一緒にいて楽だし。なんでみんなお姉ちゃんみたいじゃないの?」

「なんでかな? そうね。たぶん一緒に住んでないからだと思う。私とマヨは一緒に住んでるでしょ? だから私はマヨに本当のことを言うんだし、マヨは私といて楽だと思うんだし、家族ってそのためにいるのよ」

「なんで?」と妹は泣きながら言った。

「うーん、なんでと言われても」と私は言った。もらい泣きしそうだったので、ビールを飲んだ。「私はマヨのことを大切に思ってるし、だからちゃんと本音を言うのね。マヨは私のことを大切に思ってて、だから私と一緒にいて楽なのね。家族ってそういう関係なんだと思う。だから、もし自分の中につっかえてることがあるなら、ちゃんと言ってもらいたい。うまく言葉にできなくてもいいし、きちんとしたことじゃなくてもいいから、言ってもらいたい。そうすると心がちょっとだけ軽くなったりもするし」

 妹の涙はぽたぽたと落ち、テーブルには小さな水たまりができていた。でもよく見ると、水たまりは涙だけでなく、鼻水も含まれていた。鼻からたれる液体はひどく感動的で、みじめな姿を隠すことなく見せてくれた妹に、私は深く感謝した。それは体を抱きしめたくなるタイプの感謝ではなく、心の奥にじんわりと染みるタイプの感謝だった。

 私はティッシュペーパーの箱をテーブルに置いた。テレビは週間天気予報の画面になっていて、あしたは傘のマークで、それ以降は太陽のマークが多くあった。ふと、昔のことを思いだした。誰かが〈晴れのマークは太陽で、雨のマークは傘だけど、曇りのマークはヒツジに見えない? ヒツジはあっちを向いてるから、ヒツジのお尻ね〉と言っていた。兄か、姉か、弟か? それとも父だったかもしれない。あの頃はこの部屋には笑いがあふれていた。兄がいて、姉がいて、弟がいて、父がいて、そして活発な猫がいた。騒がしい人ばかりで、いつも陽気さにつつまれていた。そう思い当たると、少し切なくなってきて、私も大きな音をたてて鼻をかんだ。

 気象予報士がおじぎをして、お天気のコーナーは終わった。猫は食後の毛づくろいをしていた。私も食べ終えていた。妹はまだ鼻をすすっていた。

「カツ丼、食べたら?」と私はうながした。

「きのう〈保健室登校をするのはどう?〉と言われて、でも嫌だった」と妹は鼻水をすすりながら言った。「教室にいるのは嫌じゃないし、保健室に行くのも嫌じゃないし、でも保健室登校は嫌だった」

「そっか。そういうこともあるよね。先生には嫌だと言ったの?」

「うん」

「そっか。ならいいんだけど。嫌なことはちゃんと嫌だと言った方がいいよ。私に言ってもいいし、先生に言ってもいいし、ほかの人に言ってもいいし。そうそう、そういえば、先生にお手紙を書いたんだけど。このまえ本をもらってね、それのお礼のお手紙。あした持っていってくれる?」

「うん」

「じゃあ、お願いね」

 妹はカツ丼を食べ始めた。それはもう冷めていて、食欲がそそられる感じはなかった。妹の食べ方もおいしそうな感じは少しもなかった。

 私は缶ビールを持って自分の部屋に行った。そして引き出しから便箋(びんせん)をとりだし、ボールペンを手にとった。まずは本のお礼を書き、次に先生の苦労を書き、それから妹の複雑さを書き、最後に先生への信頼を書いた。いくつか嘘を並べたけれど、私は満足した。

 便箋を封筒に入れると、ビールを飲みながら、当てのない考えをめぐらせた。過去のことを思い、先生のことを思い、さきほどのことを思い、でも何もまとまることはなかった。妹の頭の中は複雑だけれど、私の頭の中もそれに劣らず複雑で、その複雑さは物事を中途半端にしていた。そのため缶ビールは手放せなかった。何が何なのかわからなくて、だから何が何なのかわらかないでもいいように、酔いで(にご)そうとした。それで解決したと思えることもあったし、別に解決しなくてもかまわないと思えることもあった。


 翌朝は、予報どおり雨だった。

 私は小学校に電話をかけて妹の欠席をとりつけ、妹と猫を車に乗せた。そして海へと向かった。車内では妹のお気に入りの曲を大音量で流し、赤信号でとまるたびに音量を下げた。はじめは音量の上げ下げは私がしていたけれど、そのうち妹が率先してするようになった。音楽があったので、特に話をすることはなかった。

 海辺の駐車場に着いた。猫にはお留守番をしてもらうことにして、私たちは外に出た。妹は私の青い傘をさし、私は妹のかわいらしい傘をさした。砂浜には誰もいなかった。波はおだやかにくりかえし、雨はさらにおだやかに降っていた。風はひんやりしていて、でも寒くはなかった。妹は貝殻を探しながら歩いた。足どりがゆったりしているためか、青い傘に半分隠れたその姿は、おしとやかに見えた。

 私はできるかぎり大きな声で〈ああああ〉と叫んだ。声が海に吸いこまれたようで気持ちよかったので、今度は〈うみいいいい〉と叫んだ。妹の驚いた顔が目につくと、大きく息を吸いこみ、〈ああああ、めええええ〉と叫んだ。妹は笑っていた。

「マヨも叫んだら?」

「無理」と妹はそっけなく拒否した。

「雨だから誰も外にはいないよ」と私は説得を試みた。「この気温だと、このへんのおうちの窓は閉まってるはずだし、だから誰にも聞こえない」

「じゃあ、お姉ちゃん、耳をふさいでて」と妹は言った。私は傘を肩で支え、両手を耳にあてた。「うそつきいいいい!」

「なんて叫んだの?」

「えっと、えっと、お姉ちゃんのバカ」と妹は言い、小さく笑った。

「えっ? さっき〈お姉ちゃんのバカ〉って叫んだの?」

「うん、そうだよ」

「うそつき!」と私は叫んだ。

「聞いてたの?」

「何を?」

「知らない」と妹はそっぽを向き、また貝殻を探し始めた。

 昼食は近くのレストランでとることにして、猫にはまたお留守番をしてもらうことにした。店内にはお年寄りが何人かいた。ラーメンを食べている年配女性の姿が目につくと、なんとなく違和感を覚えた。うどんや蕎麦ならすんなり受け入れられるのに、おばあさんとラーメンという組み合わせは、着物とコーラくらいしっくり来なかった。でもメニュー表を見ると、そこにはラーメンはなく、海鮮ちゃんぽんしかなかったので、妙に安心できた。私はさっそく妹にその話をした。でも共感してはもらえなかった。妹は偏見が少ないようで、着物とコーラにも寛容だった。私は〈着物とサイダーなら違和感はないんだけど、着物とコーラはなんか違う〉と言い、二人で着物に合う飲食物を検討していった。

 私はビーフカレーを注文し、妹はオムライスを注文した。ウエイターが去ると、妹は水の入ったコップを真上から見つめだした。水面も妹も動くことはなく、にらめっこをしているように見えた。私はさきほどの〈うそつき〉の意味を考えた。どうしてとっさに嘘つきという言葉が出てきたのか? 嘘つきとは誰のことか? 答えの出ない問いを頭の中でくりかえした。そうしていると、コップの水面がかすかにゆれ、私は思わず微笑んだ。どうやら妹がそっと息を吹きかけたようだった。にらめっこは妹の勝ちだったけれど、そのことを知っているのは、残念なことに私しかいなかった。

 料理が来た。ウエイターは〈どうぞ、ごゆっくり〉と不愛想に言い、向こうに行った。歩き方も不愛想だった。

 私たちは一緒に〈いただきます〉と手をあわせた。私のカレーにはビーフ以外の具は入ってなく、とても簡素に見えた。その一方で、妹のオムライスには半熟卵の上にデミグラスソースがかかっていて、華やかに見えた。妹は卵とソースをからめながら食べた。その様子は上品さとは程遠(ほどとお)いものだったけれど、どことなく魅力があり、私もオムライスを食べなくなってきた。

「一口ちょうだい」

「いいよ」と妹は私の顔を見た。

「じゃあカレーあげる」

 私はオムライスを一口食べた。おいしかったので、もう一口食べた。妹はカレーを一口しか食べなかった。カレーよりオムライスの方がおいしく、私の胃はオムライスを求めだした。ふと、姉のことを思った。姉ならこういうときには平気で交換した。でも、私は妹が交換してくれることを知っていながら、頼むことはできなかった。

 食事を終え、外に出た。雨はまだ続いていた。景色はしっとりとした色をおびていて、汚れはどこにも見当たらなかった。すべてが雨で覆われていた。車のドアをあけると、猫が何度か鳴いた。マットの上には排泄物があり、私は猫を褒めて、マットを手にした。そして排泄物を駐車場わきに捨て、水たまりでマットをすすいだ。そのあいだ妹は傘をさしてくれた。

 行くところが思いつかなかったので、また海に行った。湿った砂浜には、さきほどの足跡が残っていた。妹は貝殻集めの続きをした。私はひたすら遠くを見つめた。雨のせいか、水平線はぼんやりしていた。

 そのうち、二ヵ月前の強盗事件のことを考えていた。

 犯人の指紋や体毛はなかった。窓ガラスが割られていたけれど、土や足跡はなかった。催眠スプレーはダイニングの床に落ちていた。事件のあと、妹は肉体的にも精神的にも後遺症が残ることはなかった。それどころか、事件があってから、妹は少し明るくなったように見えなくもない。少なからず暗くなってはいない。妹はさきほど嘘つきと叫んだ。それに、妹には授業をサボるほどの勇気がある。

 いくつかの事実をまとめてみると、犯人は妹かもしれないと思えてきた。妹は窓ガラスを割り、自分で口と足にガムテープをつけ、催眠スプレーを使ったあと、手にガムテープをつけたのかもしれない。そういうことを想像しても、私の気分は安らかなままだった。水平線と同じだった。ぼんやりと落ち着いていて、とてつもなく静かだった。

 夕食は回転寿司でとった。二人ともデザートに杏仁豆腐とチーズケーキを食べた。家に着いたのは九時で、妹がお風呂に入っているあいだ、私は妹の部屋を捜索した。でも現金も盗まれたアクセサリーも見つからなかった。

 翌日には家中を徹底的に捜した。とは言っても、父の部屋も二階の三部屋もほとんど物が置かれていなかったので、捜すのにはたいして苦労はしなかった。どの部屋も妹により掃除されていて、すぐにでも人が住めるほどの清潔さがあった。結局、現金も指輪もネックレスもイアリングも見つからなかった。猫にそっと聞いてみたけれど、猫は黙秘をつらぬいた。その姿は美しく、どうでもよくなってきた。それに、あらためて考えてみると、妹に催眠スプレーを使おうと考えるほどの知能があるとは思えなかった。



13 家族のこと


 十歳のとき、母が亡くなり、私は父の家に住みようになった。そこには父のほかに、兄と姉と弟がいた。兄は四つ上、姉は二つ上、弟は五つ下だった。

 父は色白で、体つきは細く、(ひたい)は心もち後退していて、みすぼらしい容姿をしていた。家にいるときにはたいていお酒を飲んでいて、基本的には子供たちに接することはなかったけれど、たまに逆上して、どなり散らかすこともあった。また、苦情をつけるのが好きだったようで、店員にねちねちと文句を言うこともあった。要するに、傍若無人という言葉がぴったりな人だった。

 兄も色白で、体つきは細く、ただ髪の毛は濃かった。母親がいなかったので、家事を引き受けていた。美的感覚が優れていたようで、花や紅葉や絵画に親しみ、ファッションにもこだわりを持っていた。また、雑学をひけらかすのが好きで、どうでもいい知識をたくさん(たくわ)えていた。

 姉は運動が好きで、髪の毛をのばすことはなかった。負けず嫌いで、わがままで、不謹慎な面もあった。あるときには障害者のモノマネで笑いをとり、別のあるときには先生の禿げ頭にイタズラをした。それは、禿げた部分に鏡の反射で太陽光をあてる、というイタズラで、姉は私にその様子を得意げに話した。

「先生が黒板の方を向いたら、ハゲにスポットライトで、〈おお、光ってる光ってる〉みたいな。で、こっち向いたらすぐにそらせて、あっち向いたらスポットライトで、もう最高だった。休み時間になると、みんなで〈ハゲに光をあててると光合成が起こって、地球環境にいいんじゃん?〉とか話して、そのとき先生にあだ名をつけてあげたんだけど、さて、なんでしょう?」

「スポットライト」

「おしい。正解は〈歩く発電所〉でした。光合成は地球環境にいいし、みんなで〈ハゲは地球を救う〉とか言って、もうホント最高だった」

 その蔑称(べっしょう)は生徒内で定着したようだった。〈次の授業なんだっけ?〉〈歩く発電所でしょ〉〈ああ、歩く発電所か。今日は晴れだから稼働率すごいだろうな〉という感じだろうか。姉のそういう面は人望を集め、陸上部では部長をしていた。また、面倒見がよく、後輩からも(した)われていた。

 弟は小さい頃から体格がよかった。協調性は少しもなかったけれど、よく笑っていた。誰も笑わない場面でも笑うことが多々あった。つまり独りよがりだった。また、たまに奇抜なことをした。弟が五歳のときには、こういうことがあった。

 それはファミリーレストランでの出来事だった。弟は虫かごを持ってきていた。その中にはトンボが何匹も入っていて、飛べるほどの空間がないためか、にぶい羽音が聞こえていた。

「それ、うるさい」と姉は虫かごを指さした。

「まいどあり」と弟は意味不明なことを言った。

「貸して」と姉は言った。弟は無視した。「ほかのお客さんの迷惑になるでしょ? ちょっとでいいから貸して」

「佐和子、上を見て」と弟は言った。

「何?」

「いいから上を見て」

「うん」と姉は上を見た。「で、何?」

「次は右を見て」と弟は言った。姉は右を見て、私と兄と父もそちらを見た。「次はこの指を見て」

「何?」と姉は言いながらも弟の指を見た。

「あと三つだから。上を見て、右を見て、じゃあ最後にこの指を見て。バカが見るブタのケツ」と弟は人差し指をまわしながら言い、バカみたいに大笑いした。父も大笑いして、私と兄も笑った。

 怒った姉は虫かごをひったくり、ふたをあけた。トンボたちは店内に放たれた。でも私の家族は誰も心配する様子はなかった。しっかり者の兄も〈まあ、トンボでよかったね。もしチョウチョだったら迷惑だけど、トンボなら風情があっていいよ。チョウチョはトンボみたいに優雅に飛ばないから〉と言っただけだった。

 猫がうちに来たのは、私が十二歳のときだった。猫は小さいときには名前を呼ぶとこちらに来ることもあったけれど、体重が増えるにしたがって、顔をあげるだけになり、尻尾で返事をするだけになり、最終的には無視するようになった。その頃には体格に貫禄(かんろく)が出ていて、ステファニーというよりキャロラインという感じになっていた。でも、キャロラインと呼ぶことはない。当たり前だけれど、ステファニーはステファニーなのだから。

 結局、兄と父は亡くなり、姉は家出して、弟は刑務所に入った。猫だけはまだうちに住んでいる。



14 呪われた土地


 妹と海に行ってから、特に何もなく二週間ほどがすぎた。季節はずっと秋らしくなった。朝晩は肌寒く感じるようになり、紅葉は徐々(じょじょ)に始まり、栗おこわが恋しくなった。私も妹も、秋と言えば栗おこわだった。

 土曜日で妹も家にいた。

 仕事がない日なので、私は昼間から缶ビールをあけていて、ダイニングで本を読んでいた。それは二十年ほど前の小説で、授業参観の事前アンケートの場面で目を休めた。小説の世界では、参観日にアンケートを提出するという制度があり、アンケートの内容は〈お子さんはおうちで学校のことを話しますか?〉や〈お子さんはお友達と遊びに出かけますか?〉や〈お子さんは夜にぐっすりと眠っていますか?〉などで、主人公はアンケートにうんざりしていた。そういう制度は今でもどこかの学校で続いているのかもしれないけれど、妹の小学校にはなかった。たしか私の頃にもなかった。

 妹は学校のことを話すことはない。この家に来たときからそうだった。昔は友達のお誕生日会に呼ばれることもあったけれど、今では友達と遊びに出かけることはない。夜はぐっすりと眠っている。

 それらは間違っているのか?

 私も職場のことを誰かに話すことはないし、友達と遊ぶこともない。睡眠はちゃんととれている。それでも私と妹では何かが違うように思えた。私は小さい頃には、家族に学校のことを話していたし、友達と遊ぶこともあった。何かがおかしかった。でもそれを言葉にすることはできなかった。妹の日常は正しくない。でも間違っているわけではない。そのあいだには何かがあったけれど、それが何なのかわからなかった。

 文庫本をダイニングテーブルに置いた。家の中は静かだった。妹はリビングにいて、でも引き戸は閉まっていた。外ではカラスが騒がしく鳴きわめいていて、それに気づくと、不吉な予感がしてきた。私は携帯電話を見つめた。すると、そちらではなく、インターホンの方に思えてきた。

「マヨ、音楽をかけて。なんでもいいから」と私は言った。すぐに音楽が流れだした。それは明るいだけのポップスで、不吉な予感はなくなりはしなかった。「ねえ、マヨ、いま何してる?」

「音楽を聴いてる」

「なるほど。私は何してると思う?」

「そうだな、音楽を聴いてる」

 私は大きく微笑み、不吉な予感はたいして気にならなくなった。

 それから数十分後、インターホンが鳴った。すぐにダンサトシのことが頭に浮かび、ほんの少し不安になった。もうカラスは鳴いてはいなかった。音楽はまだ鳴っていた。

「マヨ、出て。お願い」

「やだ」

「私もやだ」

 妹は何も言わなかった。

 もう一度インターホンが鳴った。引き戸が開き、音楽がやや大きくなり、妹はこちらに目もくれず、玄関に急ぎ足で向かった。私はビールを少し飲み、文庫本をパラパラとめくっていった。ほどなくして終わりの方のページに行きつき、手をとめた。そこには作者の略歴が載っていた。一九六十年生まれ。ということは、私より二十八歳上か。自分の親世代の人と何かを分かち合っていることに気づくと、気分は少しだけ晴れやかになった。

「お客さん」と妹はドアのそばで言った。

「男の人?」と私は聞いた。

「奈緒ちゃん」

「私のお客さん? 誰なの?」

「私が小二のとき小六だったから」と妹は言い、指を折ってかぞえた。

「今は中学三年生」と私は先に答えを言った。「近所の子供なの?」

「うん」

 私は玄関に行った。

 そこには女の子が立っていた。彼女は小さな顔と大きな瞳をしていて、それはお互いに強調し合っていた。ぱっちりとした瞳のために小顔はより小さく見え、小顔のために瞳はよりイキイキと見えた。そして、三つ編みのおさげをたらしていた。私はふと、風香の顔を思い浮かべた。仏像のような風香とリスのような彼女とでは正反対のタイプなのに、同じような感じがあった。二人とも生気があふれているというか、太陽のぬくもりを感じさせるというか。

「私は古井奈緒と申します。このたびは家出をしようと思いまして、こちらにうかがわせていただきました。もしよろしければ泊めていただけないでしょうか?」と古井奈緒は言った。その口調には幼さは少しもなかった。

「ごめん、ちょっと酔ってて。言ってることがよくわかんないんだけど」

「迷惑だとはわかってます。だけど、家出をしようと思っても、どこに行けばいいのかわからなくて」と古井奈緒は言葉を選びながら言った。今度は中学生っぽい初々しさがあり、私は警戒心をやや解いた。「無理ならいいんです。だけどもし泊めていただけるなら、なんでもします。なんでもはしませんけど、できるかぎりのことはします」

「何度か見かけたことがあるよね?」

「はい。ここ二年くらいは会うことはなかったけど、昔は挨拶することがありました。この家の前、通学路なんです。だから私がこの家の前を通るときに、柏木さんがちょうど家から出てきて、そのときに何度か」

「なるほど。だから見覚えがあったのか。とりあえず、あがる?」

「いいんですか?」

「話を聞くくらいなら」

 私は古井奈緒を待つことなく、さっさとダイニングに引き返した。リビングの引き戸は閉まっていて、音楽はいつのまにか消されていた。

 古井奈緒はダイニングに入ってきて、私の向かいの席に座った。テーブルには缶ビールがあり、その缶は白地に黄緑色のデザインで、秋というより初夏という感じだった。古井奈緒はパステル色の薄手のセーターを着ていて、それは秋というより春先という感じで、そのことに気づくと、静かな部屋はずっと明るく見えた。

「それで、どういうことなのかな?」と私はうながした。

「私、あの家にいたくないんです」と古井奈緒は話しだした。そのあいだ私の目を見て、たどたどしくも言葉を(にご)すことはなかった。

 奈緒は両親と祖父母と暮らしていた。両親はカトリック信者で、奈緒もカトリック系の女子校に進んだ。祖父母は日本的な仏教徒で、水面下には不和があった。祖父母は経済力がないためか、父に意見することはなかったけれど、そのため奈緒に愚痴をこぼすことがあった。奈緒は昔はそのことを気にすることはなかった。

 昨年の夏休み頃から、父や母のことが悪く見えるようになった。父は正義感が強く、悪者を非難することがあり、母はそんな父に同調した。奈緒には、父の態度は傲慢に見え、母の態度は姑息(こそく)に見えた。そしていつからか、愚痴ばかり言う祖父母の態度が卑屈に見えてきた。

 今年の夏、姉夫婦が子供をつれて帰省した。そのとき、両親や祖父母はその子をかわいがり、とても嬉しそうにしていた。奈緒はその様子を不快に思った。それほどまでに家族のことが嫌いになり、もう一緒に暮らすのは耐えられないと思った。だから家出を決めた。

「というわけでして」と奈緒ちゃんは言った。「あの家にいると、本当の自分ではいられなんです」

「なんとなくはわかったけど」と私は言い、ビールを飲んだ。「お姉ちゃんがいるなら、そこに泊めてもらうのはダメなのかな?」

「私もそれを考えて、姉に相談したんです。だけど、姉はあまりにも常識的な人で、〈家族と一緒にいてイライラするって、それは奈緒が悪いし、そんなわがままを言ったらいけない〉と言われて。たしかに姉が言うことも一理あるし」

「私は奈緒ちゃんが悪いとは思わないよ。一緒にいてイライラするってことは、一緒にいてイライラするってことじゃない? 実際にそうなら、それが悪いと言うのは横暴だと思うな。さっき奈緒ちゃんは〈あそこにいたらストレスがたまるんです〉と言ったけど、それはどの程度のストレスなのかな? 夜に寝つけないとか、腰が痛いとか、肩がこるとか、あと、そうね、便秘とか」

「夜は安眠できていますし」と奈緒ちゃんは私の目を見て答えた。「腰も肩も痛くはありません。お(つう)じも快調です」

「そっか。でも気づいてないだけで何かあるかもよ。目が疲れるとか、そうね、寝てるときに歯ぎしりをするとか。ストレスは肉体的な症状に表れるのね。まあ、ストレスがたまる生活をしてても、ちゃんと発散できていればいいんだけど。不幸な人はね、それができてなくて、症状に表れるの。だから症状に表れてないなら、奈緒ちゃんは不幸ではないし、自分が不幸ではないとわかったら、ちょっと気が楽にならない?」

「それは幸せな人の論理ですよ。本当に不幸な人はそんな気休めでは救えません。状況を変えないといけないんです」

「そうよね」

「私、ヘッドフォンで音楽を聴くんです、部屋を真っ暗にして。それがストレス発散になってるのかもしれません。だけど、今のような生活には辟易(へきえき)してるんです。やはり状況を変えるべきなんです」

「どんな音楽を聴くの?」と私は聞いた。奈緒ちゃんはバンド名らしきものをいくつか口にした。それはすべて英語の名前だった。「そう。どれも知らない。洋楽はあまり知らないから」

「ぜんぶ日本のバンドです」

「最近のも知らないから」

「いえ、ぜんぶ九十年代のバンドです」

「そうなのね」と私は笑った。奈緒ちゃんも笑った。「九十年代ってたしかバンドブームがあって、でも私は一九八八年生まれだから。二〇〇二年にサッカーのワールドカップを日本でしたじゃない? あのときが中学二年生。その頃の音楽はけっこう詳しいんだけど。まあ、それはいいとして。そうね、奈緒ちゃんのお父さんは私の悪口も言ってた?」

「昔は言ってましたけど、今はないです。近頃はお隣さんの悪口が多いですね。お隣さん、常識に欠けたところがあって、悪口の標的になりやすいんですよ」

「学校ではうまくいってるの?」

「ぼちぼちですね。私、虚言癖があって、今はもうないんですけど、昔ちょっとした嘘をついて、それで孤立したことがあって。だけど今は友達のような子もいるし、教室にいづらいことはありません。ただ、先生からは今でも嫌われてます。問題児にみなされてますね。なにかと齟齬(そご)があって」

「たしかに問題児っぽいよ。じつは私も家出したことがあって、奈緒ちゃんと同じ中学三年生のときに。でも私はバカだったから、あとさき考えることなく、ただ遠くに行っただけで、お金がなくなって、だから家に電話して迎えに来てもらった。バカだったのよ、ホント。でも奈緒ちゃんは、ちゃんと目的を定めてるというか、計画的というか、問題児になりそうなタイプね」

「私も一回目の家出は失敗しました」

「じゃあ、二回目なの?」

「いえ、三回目です」と奈緒ちゃんはうつむいた。その姿は花瓶を割ってしまった子供のようで、すらりとした体のために、より気の毒に見えた。

「二回目はうまくいったの?」

「大失敗でした。あれはもう本当に」と奈緒ちゃんはうつむいたまま言った。「二週間くらい家出をして、家に帰ったときには捜索願が出されていて。それから、精神科につれていかれて。父は神父さんじゃなくて精神科医にすがったんですよ。それに、担任の先生とは交換日記をするハメになって、もう散々でした」

「ビール、いる?」と私は言った。奈緒ちゃんは顔をあげた。「冷たいのがいいなら冷蔵庫、常温がいいならあそこ。ほしいなら自分でとってきて」

「柏木さんってステキな人ですね。私、ビールをすすめられたことなんてなくて」と奈緒ちゃんは立ち上がり、戸棚から缶ビールをとってきた。「では、いただきます」

「奈緒ちゃんはマヨとは友達なんだっけ?」

「どうですかね。たぶん違うと思います。小学生のときに一緒に登校してただけで、ほかには何もないし、だから友達だと積極的に言える仲ではありません。もちろん仲が悪いわけではありませんよ。ぼちぼちな間柄(あいだがら)です」

「ふーん。それ、おいしい?」

「ちょっと苦いです」

「ちょっとだけ?」

「とてもまずいです」

「無理して飲まなくていいよ。残りは私が飲むから」と私は言った。奈緒ちゃんは私の方に缶ビールを置いた。「もしかしてリストカットしてる? ちょっと見せて」

「してません」と奈緒ちゃんは両方の(そで)をまくった。青い静脈がうっすら見えているだけで、傷跡はなかった。

「リストカットはしない方がいいよ。私は夜のお仕事をしてるんだけど、傷跡がある子がいてね」と私は言った。「その子が言ってたのは〈もし切りたいなら、手首じゃなくて太ももがいいよ〉って。太ももだったら人目につかないから」

「はい、参考にさせていただきます」

「呪われた土地ってあるじゃない? 呪われたというか、不吉か。その土地に住むと、不吉なことが起きる。ここはまさにそうよ。もう十年も前のことだから奈緒ちゃんは知らないかもしれないけど、兄はこの家で自殺した、お風呂場でね。その三年後には姉が失踪したし、二年前には弟が父を殺した。この家は不吉なのよ。それでも住みたい?」

「私、そういうのは信じない主義ですから」

「どうして私の家なの? ほかにもあったんじゃない?」

「もう三年くらい前のことなんですけど、ゴミステーションの近くにゴミが落ちてたんです。柏木さんはわざわざ自分のゴミ袋をあけて、それを入れたんです。ふとそのことを思いだして」

「ふーん、そうなんだ?」と私は言い、ビールを飲みほした。そして奈緒ちゃんの缶をひきよせた。「本当のことを言ってもいいのよ。奈緒ちゃんは大人慣れしてる感じがあるけど、それってお世辞が上手ってことよ。どういうことを言ったら相手が喜ぶか、そういうことを計算できるのね。でも一緒に住む人にはお世辞を言ったらいけないし、ちゃんと本当のことを言わないと」

「やはり柏木さんってステキな人ですね」と奈緒ちゃんは微笑んだ。大きな瞳には妙に説得力があり、私はいささか恥ずかしくなった。「お世辞ではありません。本当にステキだと思って。たぶん柏木さんは〈弟さんが父親を殺して、近所から孤立している家だから、この家なら泊めてもらえると思った〉と言ってもらいたいんじゃないでしょうか? だけど、私は柏木さんが信頼できそうだからこの家を選んだんです。挨拶をしたら挨拶を返してくれる人はたくさんいます。だけどそれ以上のことをしてくれる人はいません。たぶん柏木さんだけです。私はそう思ってるし、だからここに来たんです」

「ねえ、マヨ、ちょっとドアをあけて。右側のドアね」と私は言った。妹は私から見て左側の引き戸をあけた。「ごめん、逆だった。左側のドアだった。まあ、どっちでもいいんだけど。ごめんね」

 反対の引き戸をあけると、妹はソファーに戻り、文庫本を手にした。猫の姿は見当たらなかった。奈緒ちゃんは振り向くことなく、私の方を見ていた。

「マヨ、奈緒ちゃんがうちに住みたいと言ってんだけど、いい?」

「いいよ」と妹はこちらをちらりと見て、また文庫本の表紙に視線を戻した。

「ステファニーにも聞いて」

「ステファニー、奈緒ちゃんがうちに住むけど、いいよね?」と妹はベッドの方を向いて言った。五秒ほど待ってから、こちらを向いた。「今、ご機嫌ななめみたい」

 奈緒ちゃんは口もとで小さく笑った。それは愛嬌というより上品という感じで、口はすみやかにひきしまった。

 妹が〈別に〉ではなく〈いいよ〉と答えたので、気が楽になっていた。私は引き戸まで歩き、猫に声をかけた。猫は本当にご機嫌ななめで、そっぽを向いたままだった。私は引き戸を閉め、自分の席に戻った。

「じゃあ、こうしよう。うちに泊めてもいいけど、その前にちゃんとご両親を説得して。私は挨拶くらいならしてもいいけど、説得は自分でして。あっ、そうだ、お手紙を書いてあげる。それを持って説得して、ちゃんと許可がとれたら、うちに来てもいいよ。でもご両親がうちに来て、〈娘をそそのかさないでください〉とか見当外れのことを言ったら、申し訳ないけど、うちに泊めるわけにはいかない。奈緒ちゃんはまだ未成年なんだし、下手すれば誘拐事件になってしまう。それでいいよね?」

「はい。ありがとうございます」と奈緒ちゃんは頭を下げた。そのとき引き戸の向こうで猫が鳴いた。「ステファニーって猫だったんですね」

「そうよ。なんだと思ってたの?」

「いえ、別に」と奈緒ちゃんは愛嬌のある笑みを浮かべた。

 私は必要だと思われることを紙に書いていった。娘さんが家出したいと家に来たこと。もし両親が了承するなら娘さんを家に泊めてもいいと思っていること。そのときには金銭的な支援は不要なこと。私はその紙を四つ折りにして、奈緒ちゃんにわたした。

 奈緒ちゃんは玄関でふたたび感謝の言葉を述べた。表情はずいぶん晴れやかになっていて、もう私の家に来るつもりでいるようだった。でも私には奈緒ちゃんが両親を説得できるとは思えなかった。だから老人からお金をだましとる方法を教えてあげて、〈家出が無理だったら、そっちでがんばってみて〉と言った。

 奈緒ちゃんが帰ると、私はビールを一気に飲みほし、ダイニングテーブルに伏せた。さきほどから少し頭痛があり、伏せると頭痛は強くなった。また奈緒ちゃんと風香を重ねてみた。考えれば考えるほど、二人が似ているように思えた。問題は、奈緒ちゃんの自殺を想像すると、物語の主人公のような気分になれることだった。私は心のどこかで悲劇を望んでいた。でも頭では望んでいなくて、だから頭痛になったのかもしれない。そんなことを思った。

 引き戸があく音がして、静かな足音がした。私はテーブルに伏せたままだった。ビニール袋のがさがさという音がして、イスがひかれる音がした。どうやら妹がとなりに座ったようで、妹は〈ポテトチップスいる?〉と言った。私は何も言わなかった。やがてポテトチップスを噛む音が始まり、私は枯葉をふむ光景を連想した。誰もいない並木道で、木々にはまだいくつか葉が残っていて、空はとことん青く、地面には木々の影がのびていた。ときおり風が吹き、枯葉はさらさらと音をたてて舞った。

 近くで猫が鳴いた。その方にそっと足をのばしてみたけれど、イスの脚にふれただけだった。ポテトチップスの音は規則正しく続いていた。

「奈緒ちゃんとは仲が良かったの?」と私は伏せたまま聞いた。

「ふつう」と妹は答えた。「ポテトチップス、食べる?」

「食べない。今日、学校で何かあった?」

「今日は行ってない。土曜だもん」

「そうよね。じゃあ、きのうは? きのうは学校で何かあった?」

「特に何も」

「そう。私もきのうは何もなかった。おとといも何もなかった。その前も何もなかった。一週間前もやっぱり何もなかった」と私は言い、八月の強盗のことを思いだし、少し嫌な気分になった。「ちょっと頭が痛いのよ。たいしたことないんだけど」

「大丈夫?」

「大丈夫。すぐに治まると思うし。ステファニーはいる?」

「うん、そこに」

「そう」と私は言った。伏せたままだったので、どこにいるのかわからなかった。

 それから二人とも何も言わなかった。妹はポテトチップスを食べ終えるまで私のとなりにいて、またビニール袋の音がして、イスの音がして、静かな足音がして、そして引き戸の音がした。そのあいだ、妹と猫のささやかな会話があった。

 頭痛はいつのまにか消えていて、奈緒ちゃんが自殺することを想像すると、少し元気が出てきた。そして、キリスト教では自殺が禁止されていることに気づくと、もっと元気が出てきた。その証拠に、空腹を感じ始めていて、でもテーブルにはあき缶と文庫本しかなく、ポテトチップスは匂いしか残っていなかった。私は冷蔵庫からコーヒーゼリーをとりだし、お皿に移すことなくそのまま食べた。



15 日本の味


 ダンサトシに会ったのは十月下旬だった。最初の電話から一ヵ月がたっていた。

 出勤すると、すぐに指名が来た。

 いつもならエレベーターの中でお客様に口づけをしてあげるのだけれど、私はそれをしなかった。二人ともしゃべることなく、エレベーターは着いた。部屋に入っても、何も言わなかった。私はベッドに座り、お客様の方を向いた。お客様は立ったままで、淡い色のジャケットと濃い色のパンツで、足がとても長く見えた。髪の毛にはゆるいパーマがかかっていて、どことなく上品で美しい印象があった。色白のためか、まつ毛はめだって長く見えた。

「こういう場所には不慣れで」とダンサトシは悠然(ゆうぜん)と言い、私のとなりに座った。「これからどうすればいいんですかね?」

「なんで来たの?」と私はぶっきらぼうに言った。

「性欲があるからですかね」

「だって、こんなところに来なくてもモテるでしょ?」

「モテる人はこういうお店には来ないんですか? それは初耳だな。モテる人でもこういうお店に来る人はいると思いますが、そうではないんですか?」

「さあ? わからない。私はお客様のことを詮索することはないから」

「でも、僕はあまりモテないんですよ。モテるように見えますかね?」

「ルックスがいいし、人当たりもいいし」と私は冷淡に言った。「それに、このまえだってモモカちゃんとデートしてたじゃない?」

「顔立ちがいいと第一印象はいいんですが、そこから先がね。モモカさんにはフラれました。女性は心変わりが早いもので。どうやったら女性にモテるんですかね?」

「さあ?」

「もしよろしければ教えていただけませんか?」とダンサトシは言った。私は何も言わなかった。「では、僕に聞きたいことでもありますか?」

「そうね。じゃあ、好きな食べ物は何?」

「好きな食べ物ですか? 新鮮な味のものが好きですね。リンゴとか春キャベツとか。わかります、新鮮な味って?」とダンサトシは言った。私は何も返さなかった。「かつおぶしと対極にある味ですね、新鮮な味とは」

「健吾から聞いたの? それともスミレから?」

「何をですか?」

「私がかつおぶしが好きなことを」

「かつおぶしが好きなんですか? それも初耳です」

「タコヤキにはかつおぶしをかけるし」と私は少し愛想よく言った。「卵かけごはんもそうだし、ポテトチップスもそうね。袋の中に入れてシェイクする。そうすると、味に深みが出るというか。かつおぶしは日本の味ね」

「海外にはないんですか?」

「さあ、どうかな? あまり一般的ではないんじゃない? よく知らないけど」

「ほかには何が好きですか?」

「ポテトチップス」と私は言った。ダンサトシは笑った。「ポテトチップスばかり食べてるから、ちょっと太ってて」

「太ってませんよ、少しも」とダンサトシは私の横顔を見た。「リサさんはよく見ると綺麗ですね。二年前に会ったときも綺麗だと思ったのですが、顔立ちだけじゃなく、肌もキメがこまかくて綺麗ですね」

「そうやって女の子を口説いてるの?」と私は落ち着いた声で言った。「〈髪の毛がやわらかそうだね〉とか〈その髪形、似合ってるね〉とか〈そのアクセサリー、かわいいね〉とか。ただかわいいと褒めるんじゃなくて、個性を褒めるというか、センスを褒めるというか。口説くのが上手な人ってそういうやり方をするみたいね」

「僕はそんなやり方はしませんよ、そんな単純なやり方は。もしかしたら女性を口説くためのマニュアル本には〈女はとにかく褒められたい〉とか〈女はとにかく話を聞いてもらいたい〉とか〈女はとにかく記念日を大事にする〉とか、そういうことが書かれているのかもしれませんがね、僕はそういうものは信用してないんです。ほかにいいやり方がありますから」

「何、いいやり方って?」

「本当に知りたいですか?」

「だって、そこまで言われたら気になるじゃない?」

「あまり知りたそうには見えないけどな」

「そう?」と私は明るい声をだした。「でも気になるし、教えて」

「それなら教えてあげましょう。女性にこう相談するんです、〈どうやったら女性にモテますか?〉と。そうすると、その人が求めてるものがわかります。〈褒めるといい〉と答える女性は褒め上手な男を求めていて、〈話を聞いてあげるのが大切〉と答える女性は聞き上手な男を求めていて、〈プレゼントはけっこう効果がある〉と答える女性はプレゼントをくれる男を求めている、そういうものです。女性がみんな褒められることを求めてるわけではないですし、聞き上手な人を求めてるわけでもないです。それなのに〈女はとにかく褒めとけばいい〉なんて考えてる男がいるんです。そういう男にかぎって女たらしで、しかもそういう男にひっかかってしまう女性もいるんです。気をつけてくださいね。リサさんは大丈夫だとは思いますが」

「私は別に褒めるのが好きな男がいてもいいと思うし、その男が褒められるのが好きな女と一緒になるのは自然なことだと思う」

「需要と供給の問題ですね」とダンサトシは言った。「僕は〈どうやったら女性にモテるんですか?〉と聞かれてすぐに答える女性には、あまり興味がないです。そういう女性はとにかく口が軽いんですよ。おしゃべりなんですね。僕はどちらかと言えば、すぐに答えない女性の方が好みです。つつましい女性ですね、リサさんみたいな。でも、リサさんは僕のこういうところが嫌いなんですよね? こうやって相手に合わせようとするところが」

「別にそんなことないよ」

「リサさんはどういう男性が好みなんですか?」

「おどおどしてる人かな。堂々としてない人ね」

「そうですか」とダンサトシは笑った。「なら僕とリサさんは友達になれそうですね、恋愛抜きの友達に」

「場合によってはね」と私は明るく言った。

「分析する男はどうですか? 分析されるのは嫌ですか?」

「おどおどしてる男が好きだから、心のどこかで男に恐怖心をいだいてる、とか?」

「恐怖心をいだいているというより、リサさんは男を自分の思うように動かしたいと思ってるんですよ。女王様気質ですね。だから男に動かされるのは嫌で。動かされると言っても、体だけじゃないですよ。心もです。男から褒められて嬉しがる自分に嫌悪してしまうんですね。もしかしたら恋をすることも嫌なんじゃないですか? 恋に落ちてしまうことは敗北だと考えてるとか?」

「恋をするのが嫌なんて、そんな女はいないよ、恋をするのが嫌な男がいないように」

「場合によってはね。でも僕は恋をするのが嫌な男を知ってますよ」

「健吾?」

「健吾は違います。あいつはスミレさんに首ったけですし、そのことを嫌だなんて思ってませんよ。もしスミレさんがほかに男を作っても、刑務所を出ると、スミレさんを奪い返そうとするでしょうね。そういうやつなんです。恋をするのが嫌な男というのは、僕ですよ。僕は恋をするのが嫌なんです、窮屈ですから」

「恋をするより多くの女の子と遊んでいたい?」と私はダンサトシの方を見た。

「リサさんはどうですか?」とダンサトシはこちらを見て、目が合った。

「どれくらい尾行してたの?」

「つまり、あのことですか?」

「たぶん」と私は目をそらした。「あのことって、まあ、あれのことよね?」

「一つ予言をしてもいいですか?」とダンサトシは真面目に言った。「リサさんはいずれ僕に感謝することになりますよ」

「場合によってはね」と私は低い声で言った。

 会話はようやくとぎれた。あまりにもスムーズに進みすぎたせいか、沈黙が重く感じられた。私はベッドにそっと両手をついて座り直した。そのとき視線が下にいき、ダンサトシのくすんだ革靴が目についた。それは私のあでやかなハイヒールとの対比のために、奥ゆかしく見えた。

 部屋は簡素で、小さな棚と大きなベッド以外には何もなかった。窓はすりガラスで、カーテンもブラインドもなかった。となりの部屋からは、色気のある女の声がかすかに聞こえていた。それは壁が薄いためというより、部屋にドアがつけられていないためだった。どの部屋も、角を曲がって廊下から見えなくなっている構造で、ドアはとりつけられていなかった。

「では、そろそろ真面目な話をしましょうか」とダンサトシはこちらを見た。「ユキコさんが信じるかどうかはわかりませんが――」

「ちょっと待って。このさいだから言っておくけど、私はユキコじゃないよ」

「リサ、ですか?」

「リサはこのお店での名前。ユキコはあのときとっさに嘘をついた名前。だから本名じゃない。ストーカーしてたんでしょ? だったら本名はわかってるんじゃない?」

「どうして嘘をついたんですか?」とダンサトシは言った。私は答えなかった。「本名はなんですか?」

「今日はリサと呼んで」

「では、そうします。さて、真面目な話ですね。信じるかどうかはリサさん次第ですが、僕は誠実さを大事にしています」

「でもストーカーしたんでしょ?」

「たしかに尾行はしていましたが、それを隠したわけではないです。きちんと打ち明けました。誠実という言い方が気に入らないなら、正直と言ってもいいです」

「でもモモカちゃんには嘘を言ってたじゃない?」

「向こうが勝手に勘違いしただけです」

「ナカイという偽名を使ってたんでしょ? それは嘘じゃない?」

「僕はナカイという名前でもありますから。リサさんと(おんな)じですよ。名前が二つあるから誠実ではないとは言えません」

「それならギブ・アンド・テイクを大切にしてるんでしょ? それは誠実ではないと思うけど」

「そうですね」とダンサトシは爽快に笑った。「たしかに手紙にはそう書きましたし、実際にそうです。僕は相手から何かを与えられれば、それに相応するものを返します。逆に、相手に何かを与えれば、それに相応するものをもらいます。それは僕の人生観と言ってもいいようなものです。僕はこれまでそうやって生きてきましたし、これからもそうやって生きていくつもりです。リサさんが僕のことを誠実だと思わないなら、それでかまいませんよ。僕は誠実であることを言っておきたいと思い、こうして話したんです」

「で、何しに来たの?」

「強盗のことですがね、犯人の見当はだいたいついてます。正確なところまではもう少しですが、いずれわかるでしょう。それで今日は質問があって来たんです」

「そう。でも私はもう犯人はわかってるから」

「えっ?」とダンサトシは驚いた顔を見せた。それは間の抜けた顔でもあり、私は優越感を覚えた。「誰だったんですか?」

「ギブ・アンド・テイクでしょ? 私に何をくれるの?」と私が冷たく言うと、ダンサトシは笑った。私は愛嬌を見せることはなかった。

「あげるものはないですね、何も。でも犯人がわかってるなら、それでいいんです。僕は犯人を捜すためにかなり労力を使いましたが、確実なことはわかりませんでした」

「なんで犯人を捜そうとしてくれたの?」

「健吾から頼まれたからです。あいつは横暴に見えるかもしれませんがね、やさしい男です。妹さんのことを気にしていましたよ」

「ちょっと待って」と私は言った。「先月に健吾に会ったときは何も、いや、そうね、何も言わないか、健吾の性格だと。ちゃんと言ってくれればいいのに。それで、健吾は妹のことをなんて言ってた?」

「犯人を教えてくれるなら、教えてあげてもいいですよ」

「何?」

「ギブ・アンド・テイク。リサさんは犯人を教える。僕は健吾のことは教える」

「ああ。じゃあ、まずはそっちから」

「別にたいしたことじゃないです。健吾は僕に〈犯人捜しのゲームをしないか?〉と提案した、それだけです。だから妹さんのことをなにか言ってたわけではないです。ただ、健吾は妹さんの目の前で父親を殺して、だから責任を感じてるんですよ。それで僕に犯人を捜させるためにそう提案したんですよ。そういうやつなんです」

「ゲームなら犯人は教えない方がいいね」

「誰よりも先に犯人と突き止めないといけないんです。そういうルールなんです。だから僕の負けです。それで、犯人は誰だったんですか?」

「妹」

「なんですか? 妹さんですか? 妹さんが強盗をしたんですか?」とダンサトシは言い、腕をくんだ。「狂言(きょうげん)というわけですか。犯人の指紋などは残ってなかったんですよね?」

「うん」

「妹さんが犯人だという証拠はあるんですか?」

「まあ、いちおう」と私は嘘をついた。「そういえば、なんでモモカちゃんと一緒にいたの? あれもゲーム?」

「ギブ・アンド・テイクだと何度も言ってるじゃないですか? リサさんが僕のことを無視したからですよ。だから無視できないようにやりかえした、それだけです。ギブ・アンド・テイクとは、日本語にすると〈やられたら、やりかえす〉です。良いことも悪いことも、やられたらやりかえすんですよ、僕は」

「ふーん」

「さてと」とダンサトシは立ち上がった。「そろそろ帰ります。もう尾行はしませんので、安心してください」

「まだ時間はあるけど、何もしないの?」

「何をするんですか?」

「しないなら、それでいいけど」

「もしかしてリサさんは、僕に快楽を与えられるとでも思ってるんですか? それは心外だな」

「じゃあ、試してみる?」

「でもリサさんは色気がないですし」

「そう?」と私は立ち上がり、ダンサトシに近づいた。「色気は〈あるか、ないか〉ではなく〈だすか、ださないか〉だと思わない?」

「そうかもしれません。ただ、根本的な問題ですがね、僕はそもそも女性には興味がないんです、ほんの少しも。リサさんは驚いた顔も綺麗ですね。同性愛者はいいですよ。同性愛者は自分が特殊なものだから、偏見を持つことがないんです、場合によっては」

 ダンサトシはそう言うと、向こうに歩いていった。私はマニュアルに従ってダンサトシを出口まで送った。別れるときにダンサトシは〈もう一つ予言をしますが、もう一度だけ会うことになりますよ。これが最後ではないですし、二度以上は会わないでしょう。僕とリサさんが会うのはあと一度だけです〉と言った。

 ダンサトシへの嫌悪感がなくなっていることに気づいたのは、それから数十分後のことだった。それはおそらく、同性愛者だと知ったためだった。ダンサトシに会う手段は、弟かモモカちゃんから連絡先を聞くしかなかった。でも私はそうする気はなく、さきほどの予言を信じることにした。

 私は強盗のことを考えた。犯人は誰なのか? ダンサトシは〈犯人を捜すためにかなり労力を使いました〉と言っていた。それなら犯人は同僚だと短絡的に推測すべきではないのか? それとも証拠をつかむためにかなりの労力を使ったのか? いくら考えても答えが出るわけではなかった。それでも控室で同僚と話をしていると、ある思いこみに気づいた。同僚から〈小さい頃、お母さんが電話に出るとき、声が少し高くならなかった?〉という話題をふられ、私は調子をあわせていた。そのとき、ある誤解に気づいた。

 妹が言うには、犯人は長身の女で、妹の知らない声だった。だから私は犯人は女だと思いこんでいた。でも犯人は男かもしれない。男が高めの声をだしたとしても、混乱していた妹が気づかないことも十分にありうる。あるいは、催眠スプレーを用意していたほどの犯人だから、電子機器で女の声を再生させたのかもしれない。そうすることで、捜査線上に浮かびにくくなる。とにかく犯人が男である可能性もなくはない。

 その線で考えると、犯人はお客様の誰かかもしれない。風俗業界では給料は日給で手取りなので、風俗嬢の家には多額の現金がある可能性が高い。そこで風俗嬢専門の空き巣がいてもおかしくはないし、私の家はオートロックのマンションではないので、ねらうには最適かもしれない。

 一つの糸口のために、疑問はさらに深くなった。ただ、私は犯人が誰なのか特に知りたいとは思わなかった。私にとって強盗事件はすでに過去のことだった。妹のいじめやサボりの方が重要なことだった。



16 ヤドカリの強盗


 奈緒ちゃんはあれから一週間たっても来なかった。それは意外なことではなかった。もし奈緒ちゃんが私の家に住みだしたら(うわさ)がたつはずだし、宗教というものは調和のために我慢を重んずることを美徳としているし、奈緒ちゃんの父親が承諾(しょうだく)するとは思えなかった。それでも万一に備えて、寝具だけは用意しておいた。

 目が覚めた。家の中は静かだった。外には子供たちの騒ぎ声があった。時刻は九時を少しまわっていて、私は起き上がり、ダイニングに行った。そして引き戸に向かって〈おはよう〉と言った。妹も〈おはよう〉と言った。猫は何も言わなかった。

 引き戸をあけると、妹は猫にブラシをかけていた。妹のそばには大きな箱があり、その中には白い毛がたまっていて、ふわふわしていた。私は引き戸にもたれかかった。

「朝ごはんは?」

「食べた」と妹は手を動かしながら言った。

「いつも何時に起きるの、土曜日は?」

「六時半」

「平日も?」

「うん、六時半」

「きのうの夜、ゴキブリがいて、あそこに」と私は後ろを指さした。「冷蔵庫をあけると明かりがつくじゃない? そのときなんか動いて、〈うわっ〉って。心臓に悪いね、あれは。昔はステファニーもゴキブリをとるくらいの意欲はあったんだけど、今じゃさっぱりね。そういえば、ゴキブリはなんでバカなのか知ってる?」

「ゴキブリってバカなの?」

「バカというか、低能ね。歩くことができない生き物はたいてい低能なのよ。ゴキブリは走ることしかできないし、歩くことはないでしょ? だから低能」

「ミミズは?」と妹はこちらを向いた。その顔は嬉しそうに微笑んでいて、そのため、たれ目が強調されていた。

「残念。ミミズは歩くことはできないよ。()うことしかできないでしょ?」

「そっか。そうだね」と妹は言い、右手のブラシを見つめた。しばらくして、またこちらを見た。「クモは? クモは歩けるよ」

「クモは巣を作るし、低能じゃない」

 それから妹はイルカやカバやアメンボなどをあげた。私は冷蔵庫をあけたり電子レンジを操作したりしながら一つ一つ答えていった。電子レンジのピーピーという音を合図に、二人の会話はとまり、私はタコヤキにいつものトッピングをして、一人で食べた。そのあとは自分の部屋でのんびりとすごした。

 昼になると、宅配ピザを食べ、少し休憩して、車でスーパーマーケットに行った。店内は若干にぎやかで、男より女の方が多くいた。私は週刊誌をかごに入れ、妹と一緒に駄菓子を選んだ。あとは缶詰とパンと飲料水と冷凍食品をかごに入れた。

 レジは混んではいなかったけれど、かごの中がいっぱいの人ばかりだった。前に並んでいる人は、ニンジンとタマネギとジャガイモとホウレンソウと鶏肉を入れていて、シチューを作るのだと思った。それ以外の料理は、ホウレンソウ入りカレーくらいしか思いつかなかった。

 もうすぐ十一月だというのに、店員は半袖(はんそで)を着ていた。彼女は少年のような髪型をしていて、なんだか卓球選手のように見えた。そのことに気づくと、レジを操作する手がすばやく見えてきて、いささか感心した。ほかのレジを見ても、卓球選手ばかりいた。卓球は年をとってもできるスポーツのようだった。

「マヨは卓球したことはある?」

「ない」

「じゃあバトミントンは?」

「ある」

「いつ?」

「ずっと前」

「学校で?」

「うん、体育館で」

「体育館?」

「うん、床にポールを二本つきたてて、ネットをはって」

「ああ、そっか。楽しかった?」

「ふつう」

「私は卓球もバトミントンも中学生のときにしたのが最後かな。勝ち負けをつけるというより、ラリーを続けるためにして。卓球の方がおもしろかった。そうそう、しりとり卓球ってのをしてね、まあ、しりとりしながら卓球をするのね」

 私たちの番が来た。店員は愛想が少しもなく、孤高のアスリートのようだった。私たちはビニール袋をもらうことはなく、持参したカバンに商品をおさめた。

 家に帰ると、録画した動物番組を見た。それは、毎週ひとつの動物をピックアップして、その生態を伝える、という内容の三十分番組で、いつのまにか十数週分たまっていた。妹は毎週かかさず見ていたにもかかわらず、私に付き合ってくれた。

 最初の動物は、アフリカ大陸に住むツルで、シマウマのフンをつつきまわしていた。それは、フンに集まる昆虫を食べるためで、私に言わせれば勇敢な行為だったけれど、妹に言わせれば低能な行為だった。そのツルは鳥にありがちな一夫一妻制で、交代して卵を守った。ナレーターは彼らの様子を愛という言葉で賛美した。私たちは〈子育てを一人でするクマには愛がないのか?〉という議論をした。

 次の動物はヤドカリだった。ヤドカリは体の成長にともなって巻貝を変えるようで、よさそうな巻貝を見つけると、ころがして中のゴミをだし、するりと入りこんだ。すでにヤドカリが入っている巻貝でも、気に入った場合には、持ち主をひっぱりだして自分の家にしてしまうこともあるようだった。その場面はかわいらしく、私もヤドカリをひっぱりだして遊んでみたいと思った。また、弱いヤドカリはボロボロの巻貝に入るしかなく、浮浪者みたいで、なんだか哀愁があった。

 六週分を見終わったときには、五時半になっていた。

 テレビの画面を戻すと、夕方のニュース番組をしていて、しばらくすると観光地のサルに関する特集が始まった。

 ナレーターが説明したところによると、こういうことだった。昔に集客のためにサルの餌付(えづ)けをして、町にサルが来るようになり、それにともなって観光客も来るようになった。観光客がサルにエサを与えていると、そのうちサルは人間をおそれないようになり、店先や観光客から食べ物を奪いとるようになった。そのため、テレビで特集されるほどの問題になっているようだった。

 テレビではサルが若い女性のビニール袋を背後からひったくる映像が映しだされていた。場面は変わり、サルは屋根の上で高級そうなお菓子を食べだした。私たちはポテトチップスを食べていたので、少しおかしかった。

「ねえ」と私は言った。「この子は虫歯にはならないのかな? サルは歯みがきを知らないし、甘いものを食べてると、虫歯になる気がする。かわいそうね。サルには歯医者さんはいないし、捕獲して治療してあげるほど人間はやさしくないし」

「じゃあ、どうするの? ずっと痛いまま?」

「まあ、そうね。どうすることもできない。ずっと痛いのを我慢しないといけない。おかしいよね、猫や犬の殺処分は問題になるのに、サルの虫歯は問題にならないなんて。死ぬまで虫歯に苦しむより、あっさりと死ぬ方がいいと思うけど」

「そうだね」

 サルはレポーターに襲いかかり、ちょうどいいところでコマーシャルになった。

 インターホンが鳴った。私は奈緒ちゃんかもしれないと思い、妹をうながした。妹は何度か拒否したけれど、結局は玄関に走った。玄関からの声は、奈緒ちゃんの声ではなかった。聞いたことのない幼い子供の声だった。

 妹はリビングに戻ってきた。

「誰だったの?」

「外国人の女の子で、なんか〈健吾さんはいますか?〉って」と妹は言い、ソファーにすとんと腰かけた。「で、私が〈いません〉と言ったら、走って逃げた」

「外国人って?」

「目が青色だった」

「髪の毛は?」

「黒色、たぶん。いや、茶色だったかも」

「近所の子?」

「知らない子」

「年は?」

「えっと、五歳くらい」

 私は弟と外国人の女の子との接点を考えた。友達の子供か、隠し子か、それとも? 結局、何もわからず、少し不安になってきて、テレビを消した。妹は何も言わなかった。

 私は戸棚から缶ビールをとり、いつもの席に座った。テレビのサルに怖れたためか、猫はいつのまにかキッチンのマットの上にいた。もう一度インターホンが鳴った。無視することにして、缶ビールをあけた。リビングから妹の声がしたけれど、それも無視した。妹は走って玄関に行った。

 玄関から聞き覚えのある声が聞こえてきて、私は思わず微笑んだ。もう長いあいだ聞かなかった声だったけれど、すぐにわかった。暗算してみると、六年と九ヵ月ぶりで、それだけの期間があれば、五歳の子供がいてもおかしくはない。

「お客さん」と妹はドアのそばで言った。

「さっきの子供?」と私は聞いた。

「それと女の人。〈千里さんはいますか?〉って」

 私は玄関に行った。

 そこには外国人の女の子が立っていた。茶色い髪の毛はやわらかそうで、青い瞳はリゾート地の海のように澄んでいて、白い肌はみずみずしく透明感があった。洋服は特にオシャレには見えなかったけれど、上品なブーツが全体におしとやかな印象を与えていた。その子のとなりには、姉がいた。姉は昔よりさらに髪の毛が短くなっていた。昔は(ひたい)と耳が隠れるほどの長さはあったけれど、目の前にいる姉は、額の大部分が表れていて、耳も全面的に出ていた。そして化粧や整髪料は使ってなく、そのため幼く見えた。とても二十九歳には見えず、十八歳だと言われても違和感がないほどだった。

「千里、子供産んだの?」と姉は明るく言った。

「佐和子こそ」と私は言い、訂正するタイミングを逃したと思った。

「かわいいでしょ? アスカね、柏木アスカ。ドイツ人とイタリア人と日本人の血が入ってんだよね。健吾は今はいないんでしょ?」

「うん。まあ、あがって。健吾はとうぶん帰ってこないから」

「旅行にでも行ってるの?」

「まあ、旅行と言えなくもないけど」

 姪は勝気な態度でブーツをぬぎ、そのまま奥に入っていった。姉も同じだった。私は二人のブーツをそろえてから、ダイニングに戻った。姉は冷蔵庫から缶ビールをとりだし、食器棚からグラスをとりだし、そしてイスに座った。姪はすでにイスの上にいた。ただ、姪にはテーブルが高すぎるようで、だから私は座布団を五枚とってきて、姪のイスに敷いてあげた。でもバランスが悪そうだったので、二枚とりのぞいた。リビングの引き戸はいつのまにか閉まっていた。

「グーテンモルゲン」と私は言い、姪の向かいの席に座った。

「アスカはドイツ語は無理だよ。それにイタリア語も」と姉は言った。

「アスカちゃんは何歳?」

「四歳」と姪は笑顔で四本の指を示した。その指は小さくて、かわいかった。

「四歳か。私は二十七歳。千里という名前で」

「知ってる」と姪は得意げに言った。「佐和子の妹でしょ?」

「そう、叔母さん。じゃあ、好きな食べ物は何?」と私は聞いた。姪は真剣な表情で考えていて、その様子は心が晴れやかになるほど愛嬌にあふれていた。「そうね、お寿司では何が好き?」

「サーモン」と姪は笑顔になった。

「私はタイが好き。イクラは嫌い。ウニも嫌い。今日はお寿司にする?」

「ロールキャベツ」

「ごめん、ロールキャベツはないかな。お寿司、和食、洋食、中華、ピザ」と私は出前の一覧表に並べた。「ここにあるのなら、どれでもいいよ」

「寿司」と姪は勢いよく指さした。

「はい、寿司ね」と私は言い、携帯電話をとった。

 姉はいつのまにか猫を抱いていて、猫は心地よさそうに目を細めていた。テーブルにはグラスに入ったビールがあり、いつも缶のままで飲んでいるためか、その金色はとても美しく見えた。電灯から光が発せられているのではなく、ビールから光が発せられている、そう思えるほど輝いていた。

 寿司の注文を終えると、私は姪とにらめっこをした。姪がすぐに笑うので勝負にはならなかったけれど、異常なほど楽しかった。にらめっこに飽きると、じゃんけんをした。勝っても負けても楽しかったけれど、あいこが続くのが最も楽しかった。それから手の大きさを比べたり、爪の長さを比べたり、輪ゴムで遊んだりした。

 ひととおり終えると、私は缶ビールを手にした。

「ビール飲むようになったんだね」と姉は猫をなでながら言った。

「もう二十歳をこえたし」と私は言った。

「でも〈お酒は一生飲まない〉って言ってなかったっけ?」

「あのときはね」

「で、あの子はなんて名前なの?」

「マヨ」

「マヨネーズのマヨ?」

「マヨネーズ好き」と姪は笑顔になった。その表情はいくら見ても飽きることがないように思えた。

「アスカちゃん、お寿司にコーンマヨネーズがあるよ。コーンマヨネーズは好き?」

「サーモンが好き」

旦那(だんな)はどんな人?」と姉は口をはさんだ。

「旦那って?」と私は言った。視線は姪にあてたままだった。

「千里の夫。一緒に住んでんだよね? それともシングルマザー?」

「妹だから」

「何が?」

「私はいま二十七歳。マヨはいま十一歳。私が十六歳のときにお腹が大きくなってはいなかったでしょ? マヨはお父さんの子供。だから妹」

「お父さん、まだ子供いたんだ?」

 父が亡くなったことを告げようかと思ったけれど、姉のあどけない表情を見ていると、気が進まなかった。

 姉は猫を床におろし、姪に〈あっち行って、お姉ちゃんに遊んでもらいな〉と言った。姪は小さな体で大きな猫を抱きかかえ、とぼとぼと歩いていった。私が〈マヨ、ちょっとドアあけて〉と言うと、引き戸はすぐに開いた。姪はリビングに入り、妹に気軽に話しかけた。妹の方も緊張している様子はなさそうだった。

「健吾はまだここに住んでるの?」

「もう住んでない」と私は言い、刑務所のある県名を言った。「今はそこに住んでる」

「さっき〈旅行に行ってる〉って?」

「旅行というか、なんというか、健吾は刑務所にいる」

「何? 刑務所? ホント?」と姉は笑顔になった。「何やったの?」

「殺人。二年前ね。すごく大変だったんだから」

「すごいね、それは。ホントだよね? 嘘じゃないよね? めっちゃ嬉しんだけど。私も見物したかったな、裁判。教えてくれればよかったのに。何人やったの?」

「一人」

「死刑にはならない?」

「そうみたい。裁判ではぜんぜん反省しなかったんだけど」

「それは残念。私が裁判官だったら絶対に死刑にしてやるんだけどな。最近は甘いよね。人を一人殺したら命を持って償うしかないのにさ。今では刑務所もけっこう快適みたいだし、甘いよね」

「昔、盛大に吐いたことがあったじゃない?」と私は話題を変えた。「そこの床にね。あのとき、片づけをしたのは私なのよ。覚えてる?」

「私が吐いたの? そんなことあったっけ?」

「だって、佐和子は寝てたし。お父さんと一緒に飲んで、佐和子は負けず嫌いだからお父さんと張り合って――」

「あっ、覚えてるかも。そうそう、お父さん、めっちゃ強いんだもん。あのとき吐いたんだっけ? それは覚えてない。お父さん元気? まだ病気にはなってない?」

「まあまあかな」

 それから二人はビールを飲みながら思い出話をした。姉は楽しそうにしていたけれど、私はしみじみと感慨にふけっていた。父が亡くなったことや兄の自殺の理由を知っているためか、父や兄の思い出にはなつかしさはなく、ただ憂いがあるだけだった。



17 姉と弟


 食事はいつも兄が作っていたけれど、たまに外食することもあり、あるいは寿司の出前をとることもあった。姉はアナゴが好きで、私はタイが好きで、兄は玉子が好きで、父はお酒さえあればよかった。寿司は大皿をみんなで食べたのだけれど、弟はアナゴばかり食べて、姉と言い争いをした。

 始まりがいつだったのかは知らない。私が引っ越してきた頃には、すでに姉と弟は不仲だった。それは〈ケンカするほど仲がいい〉ということではなく、お互いに見下し合っていた。私は二人が仲良くしているところを見たことがない。いつもバカやクズという言葉でののしり合っていた。

 もしかしたら幼い弟のちょっかいに姉が過剰に反応したために、二人の仲は少しずつ悪化していったのかもしれない。姉が弟を無視していれば、一大事にはならなかったのかもしれない。理由はともかく、どうにもならない一線をこえてしまった。弟がとりかえしのつかないことをしたせいで、二人の関係は終わってしまった。

 弟はこう言っていた。

「〈復讐しても意味がない〉と言われることがあるが、そんなことねえよ。憎んでるやつをしいたげることはこの上なく心地いいんだよ。それが証明されたわけだ。佐和子が出ていってせいせいしたよ」

 弟は卑劣なことをした。本当に卑劣なことをした。でも、弟は自分がしたことを後悔してはいないようだったし、誇りにさえ思っているようだった。そこには権利という正当なものはなく、戦争という混沌があるだけだった。弟のしたことは犯罪だった。それでも弟には罪悪感はないようだった。その代わり、独善的な正義感があるようだった。


 姉が家を出ていったのは七年前で、そのとき姉は二十二歳で、大学卒業まであとは少しという時期だった。姉には婚約者がいて、卒業と同時に結婚して、家庭におさまる予定だった。

 姉が家を出ていく数日前、私は弟とこんなやりとりをした。それは一月で、弟と二人で夕食をとっているときのことだった。私は二十歳で、弟は十五歳。

「おみぐじって木に結ぶじゃない?」と私は言った。「中身を確認してから、神社のすみにある木に結びつけるじゃない? あれっていつ取り外されてるのかな? 一生ついてるわけはないよね。おみくじは取り外されるまでは効力があると思うんだけど」

「なぜ女はおみくじや占いが好きなんだろうな」と弟は言った。「佐和子なんて占い師に見てもらったそうだが、どうかしてるよ」

「でも占い師の言葉って、なんか価値がある気もするけど」

「もしも占い師に見てもらう機会があったら、まずは過去を見てもらえよ、未来じゃなく過去をな。それでわかるだろ?」

「でも、もし過去が当たってたら? 具体的に言い当てられたら?」

「そしたら本物の占い師だから、未来を聞かずに帰ればいい。もちろん外れてたら偽物の占い師だから、未来を聞かずに帰ればいい。女はバカだろ?」

「本物の占い師なら聞いてもいいじゃない? なんで帰るのよ」

「だからバカなんだよ。良いことは事前に知らされると、喜びが減る。悪いことは事前に知らされると、不安が増す。どっからどう考えても未来は知るべきではないよ。それでも未来を知りたいなら、一つ教えてやるよ」

「何を?」

「佐和子は自殺する」

「なんで佐和子が自殺するわけ? よくわからないな。健吾は佐和子のことを嫌ってるのかもしれないけど、いいじゃない? もうすぐここを出るんだし、そしたらもうケンカすることもない」

「自殺しないなら、人を殺すかもな」

「あっ、そう」

 私はこのときには何も知らなかった。

 このやりとりの数日後、私は弟と二人で夕食をとっていた。この日は姉も一緒に夕食をとる予定だったけれど、姉はまだ帰宅していなかった。

 姉が帰ってきたのは、食事が終りかけた頃で、姉はダイニングに入るなり、弟に殴りかかった。弟はすでに立派な体格をしていたので、すぐに姉の両手をおさえ、そして姉を突き飛ばし、体を何発か蹴った。ほんの数秒で決着がついた。

 弟は二階にあがった。私は姉のもとに行き、〈大丈夫?〉と声をかけた。姉は(ひたい)を床にあてて泣いていた。私は姉のプライドの高さを知っていたので、そっとしておくことにして、食卓を片づけた。

 食器を洗い終えたときには、姉はソファーに座っていた。私はとなりに腰かけた。姉は泣きやんでいたけれど、弟を殴った理由は話しだすと、たま泣きだした。

 弟は姉の部屋に隠しカメラをとりつけて、他人には見せられない映像をとり、姉をゆすった。姉は弟が学校に行っているあいだに、弟の部屋をめちゃくちゃに荒らした。弟は怒ることはなかった。ただお金を要求するだけだった。姉はお金をはらった。それで終わるはずだった。でも弟はその映像を姉の身辺な人たちにばらまいた。姉はそのことを婚約者から知らされた。婚約は解消された。

 話を聞き終えた私は、二階に行き、弟の部屋のドアを開いた。

「何をしたのかわかってる?」

「何が?」

「佐和子に何をしたのかわかってるの?」

「まあいいじゃん。もう終わったことなんだから、気にしない、気にしない」と弟は高い声で言った。それは姉の口癖だった。「こんなときには婚約者になぐさめてもらえよ。そのためのパートナーなんだろ?」

「婚約は解消されたんだって。健吾のせいだから」

「愛ってなんだか知ってるか?」

「ふざけないでよ!」

「ふざけてねえよ。真剣に言ってんだよ。佐和子の婚約者は愛のために結婚しようとはしてなかったんだろ? この程度のことで婚約解消するようなやつなんだろ? 結婚前にそれがわかってよかったじゃないか。もっとポジティブに考えろよ。それとも佐和子は金のために結婚したかったのか? まあいいじゃん。もう終わったことなんだから、気にしない、気にしない」

「健吾とはもう一生、口を聞かないから」と私は言い、ドアを閉めようとした。

「おい、ちょっといいか?」

「何?」と私は弟の方を見た。

「あれっ、一生口を聞かないんじゃなかったの? それとも千里の一生は――」

 私は思いっきりドアを閉めた。そして一階におりた。ダイニングにもリビングにも姉の姿はなく、玄関を見ると、姉の靴はなかった。

 私はダイニングテーブルに伏せた。いろいろなことを思いだし、そのうち涙が出てきた。ふと、あることに気づき、すぐさま携帯電話を手にとり、姉にかけた。

「何?」と姉はいつもの調子で言った。

「どこにいるの?」

「大丈夫、私は自殺しないよ」

「ねえ、私は佐和子の味方だから。ずっと佐和子の味方でいてあげるから」

「ありがと。でも私、どっか知らない街に行こうと思ってて。そういう人生もおもしろそうだし」と姉はやさしく言った。「どっか知らない街で、なんにもとらわれることなく生きるのもいいかなって」

「出ていくのは佐和子じゃないよ。健吾が出ていけばいいし、だって佐和子は何も悪くないんだし、それに――」

 いつのまにか後ろに弟がいて、携帯電話をひったくられた。

「もしもし、お姉さまですか?」と弟は言った。「たいへん申し上げにくいことなのですが、じつはですね、あの映像はご近所の方々にも配ってしまいまして、ですから一軒一軒まわられて回収した方がいいですよ。では、ごきげんよう」

 弟は携帯電話をテーブルに置き、ゆったりと階段をあがっていった。私は放心状態になっていて、その音をぼんやりと聞いた。すべては姉と弟のことで、私のことではなかった。でも放心状態は長いこと続いた。

 やがて、父が帰ってきた。私が挨拶を無視したせいか、父は〈どうしたんだ? 彼氏にフラれたか?〉と言った。私は嫌な気分になり、猫をかかえて〈散歩してくる〉と言い、家を出た。

 となりの家に行き、インターホン越しに〈郵便受けにDVDか何か入っていませんでしたか?〉と聞いた。隣人が動揺したので、弟の言ったことが本当だとわかった。私は悲しくなった。それは姉に対する憂いというより、性に対する嘆きだった。近所に配られたものは、その日のうちに残らず回収した。

 翌朝、弟の部屋の窓ガラスが割られていた。弟の部屋からはいくつかの石が見つかった。おそらく姉が投げたのだと思う。それ以来、姉は消息をたった。

 父は何もしなかった。私が姉の家出の経緯を話しても、姉を心配することも弟を叱ることもなかった。放任主義の父は、腹がたつほど何もしなかった。料理に髪の毛が入っていればウエイトレスを指導するのに、電化製品に欠陥があれば店員を指導するのに、弟の悪事には目をつむった。

 私は弟を無視し続けた。弟の食事は作らなかったし、弟の洗濯物も放っておいた。話しかけられても、視線を向けることすらしなかった。それは四月まで続いた。四月にブラジルから手紙が届いた。そこには姉の筆跡で〈楽しく生きています。もう帰ることはないので、部屋の荷物は処分してください〉と書かれていた。手紙は、それが最初で最後だった。



18 カレーとオムライス


 姉は小さい頃には舌で唇を湿らせる癖があった。大学生になって化粧を始めると、その癖はなくなった。たとえ朝や夜の化粧をしていない時間帯であっても、唇をなめることはなかった。今ではその癖が戻っていて、私はなつかしい気持ちになった。そのためか、父が亡くなったことを告げた。姉は特に驚くことはなかったけれど、父が弟に殺されたことを話すと、深刻な表情になった。

「何が問題だったのかな?」と姉は沈んだ声で言った。

「たぶんタイミングが悪かったんだと思う」と私は軽い調子で言った。「殺人って、問題があってするというより、タイミングが悪くて起こってしまうみたいだし」

「お兄ちゃんは自殺して、健吾はお父さんを殺して、なんかすごい家庭だよね。千里だけがまともで」

「まあね」

「お兄ちゃんが死んだのが問題だったんだよ。そこから流れが変わって。もしお兄ちゃんがまだ生きてたら、何も起こらず平穏に暮らせてた気がする。お兄ちゃんは問題を引き受けてくれてたもんね」

「引き受けてくれてたというか、あいだに入って仲裁してくれてたって感じじゃない? バランスをとってたというか」と私は言い、ビールを口にした。「たしかにお兄ちゃんがいなくなってバランスが崩れたのかも」

「縁の下の力持ちがいなくなって、家が崩れた。ガチャーン」と姉が言ったとき、ちょうどインターホンが鳴った。それは、重い空気を一掃するように、明るく響いた。

 私は玄関に行った。そして寿司をダイニングテーブルに運び、リビングをのぞいた。妹と姪はソファーにいて、そのあいだには猫がいた。猫は気持ちよさそうにお腹を見せていて、妹はねこじゃらしを持っていた。姪はかぼそい声をだしながら握りこぶしで自分の頬をなでていて、どうやら猫になりきっているようだった。私が〈お寿司、来たよ〉と言うと、姪は〈ニャー〉と威嚇(いかく)した。その力強い声は、猫というより小さな怪獣だった。私は何度か声をかけたけれど、姪は威嚇を続けた。それでも妹にうながされると、しぶしぶ人間に戻った。

 妹は猫の夕食を用意して、キッチンの流しで手を洗い、そして二人分の麦茶をテーブルに置いた。そのあいだ、姪はお行儀よく待っていた。

「ねえ、アスカちゃん」と私は言った。「さっきステファニーをさわったでしょ? 手を洗っておいで。イスがないと届かないかな」

「アスカは箸を使えるよ」と姉は言った。「ねえ、アスカ、ちゃんと使えるよね?」

「うんっ、使える。豆もとれる」

「それにさ」と姉は嫌味っぽい声をだした。「私だってステフをさわったんだから、〈佐和子、手、洗っておいで〉と言ってくれてもいいじゃん」

「まあ、そうだけど」

「じゃあ食べよっか」と姉は言い、みんなで〈いただきます〉と手をあわせた。

「マヨ」と私は言い、姉を指さした。「この人、お姉ちゃんね。佐和子。まえに話したじゃない?」

「いくつだっけ?」と姉は言い、さっそくアナゴを箸でつかんだ。

「十一」

「ってことは、お兄ちゃんより二十下か」と姉は言った。「私はいくつに見える?」

「お姉ちゃんより若く見える」と妹は答えた。姉は笑った。

「子供っぽく見えるってことね」と私は補正した。姉は笑って前髪をいじった。

 それから姉はいくつか質問して、妹はそっけなく答えた。私は正面の姪の方ばかり見ていた。姪は箸を器用に持っていて、手が小さいため、ゆかしく見えた。食べ方も一口が小さく、お行儀がよかった。私は姪に何度かコーンマヨネーズをすすめてみたけれど、姪はサーモンばかり食べた。私が〈サーモンばかりで飽きない?〉と聞くと、姪は〈私は好きなものは最初に食べる人だから〉と答え、みんなを笑わせた。

 缶ビールが(から)になると、もう一本飲もうかと迷った。姉がいる手前、もうやめようかとも思った。でも姉はすでに二本目をあけていて、だから私も冷蔵庫からとってきて、グラスに移して飲んだ。

 夕食を終えたときには、テーブルには缶が五本あった。姪は食事中はおとなしかったけれど、また騒がしくなった。猫を抱きかかえて歩きまわり、大人にはだせない足音を響かせた。妹は姪と猫を気にしながら後ろに続いていて、それはお姫さまと赤ちゃんと子守の女のようだった。猫が姪の腕から逃れると、彼らは追いかけっこをした。猫は近年には見られなかった活発さを発揮して、私は〈やればできるじゃないか〉と思った。

 二人がお風呂に入ると、猫はのそのそと歩いていき、テレビの前で寝ころんだ。その様子は仕事終わりのサラリーマンを連想させ、アルコールの助長もあってか、私はとても愉快になった。

「佐和子、ここに住むつもり?」

「ここに住めると思う? 近くに来たから寄っただけ。今日は泊めてもらうけど、あしたの朝には帰るから。まあ、そういうことで」

 私は〈近所の人は健吾がお父さんを殺したことを知ってるよ。一人残らず知ってる。でも私はここに住んでる〉と思ったけれど、口にはしなかった。姉の問題は、偏見に関することではなく、プライバシーに関することだった。それでも私がもし姉と同じ状況に置かれたとしても、この家に住むだろうと思った。

「どうしてお兄ちゃんが自殺したか知ってる?」と姉は軽い調子で言った。

「何?」と私は姉の顔を見た。

「お兄ちゃんはみんなから好かれたいと思ってて、八方美人だったしさ、そういう人だから自殺したんだよ、きっと。みんなから好かれたいと思ってたら窮屈じゃん? それで、身動きがとれなくなった。私はそういう人じゃないし、〈ああ、別にこの人に嫌われたっていいや〉みたいな。でもお兄ちゃんはそうやって気軽に考えることができなかった」

「ねえ、どこで何してたの? 言いたくないなら言わなくていいけど」

「お父さんからお金を貸してもらって、あとは外国をぶらぶらと」

「お父さんから貸してもらったの?」

「まだ返してないんだけどね。でももう死んだなら返さなくていいか。ラッキー」と姉は明るく言った。「で、外国に行ってからは、男から(みつ)いでもらってた。女は得だよね。私くらいのルックスでも貢いでくれる男はいるもん。あっ、でも売春とか、そういうのはしてないよ。もっと健全に貢いでもらってた。愛人、みたいな、そういうの。でももう愛人はやめた。アスカがいるから」

「そっか」と私は言い、父のことを思った。

「過去を捨てた経験があるとさ、怖いものがなくなる。守るものがなくなって、ただお金だけを求めてればよかったし、嫌な思いはしなかった。けっこう楽しかったよ」

「私もそうかも。健吾が事件を起こしてから、守るものがなくなって、わがままでいられるようになった。佐和子は昔からわがままだったじゃない? 私もそういう感じになれたのよね」

「私はわがままじゃなかったよ。今もわがままじゃないし」

「わがままだったよ。今はどうか知らないけど、昔はすごくわがままだった」

「そうなんだ? わがままだと思ってたんだ?」

「まあ、そうかな。だって、自分さえよければそれでいいと考えてたでしょ? わがままじゃない?」

「たしかに自分さえよければそれでいいと考えてるよ、今も」と姉は言った。「文句ばっか言う人っているじゃん? わがままってああいう人のことだよ。他人のことなんか気にしない自己中心的な人。言ってることわかる?」

「なんとなく」

「そうだな」と姉はグラスを見つめた。その金色はもう美しいとは思えなかった。それはただのビールだった。「子供ってわがままじゃん? 自分がしてることを自覚してないもん。でも私はそうじゃない。〈これをすると、この人は不快に思うだろうな〉って自覚しててするんだから、わがままじゃないよ」

「不快に思うとわかっててするって、そっちの方がよっぽどタチが悪いと思うけど」と私は笑った。「そういう人こそ自己中心的じゃない?」

「そうじゃないんだな。わからずにする方がタチが悪い。そういう人って文句ばっか言ってるもん。お父さんがそうだったけど、買ったばかりの扇風機が壊れて、家電屋に行ったことがあるじゃん? あのときお父さんは店員にたらたら文句を言って、でもそんなことしても意味ないのに。〈交通費をだせ〉と交渉するならいいけど、ただ文句だけ言って、そんなことしても店員の時間をとるだけじゃん? もし文句を言いたいなら扇風機の製造元に言わなきゃいけないし、でも欠陥品が出るのはありうることなんだから、だから文句なんて言わずさっさと商品を交換して帰ればいいんだよ。わがままってああいうクレームをつけるのが好きな人だよ。ああいう人ってさ、相手に迷惑をかけてるって自覚がないんだから、タチが悪い。私はちゃんと自覚してるもん。まっとうだよ」

「なるほど。そうかも」と私は言った。でも納得したわけではなかった。姉の言葉は論点のすりかえだった。父のわがままを証明しても、姉のわがままがなくなるわけではないのだから。

「とにかく私はわがままじゃない。相手のことを考えてるし、その上で自分のしたいようにしてるんだから、わがままじゃないよ、ぜんぜん」

「たとえば、私と佐和子でファミレスに行ったとするでしょ? それで、私はカレーを頼んで、佐和子はオムライスを頼んだとするでしょ? いや、反対にしようか。というか、こうしよう。佐和子がカレーで、マヨがオムライスを頼んだのね。で、料理が来たときにオムライスの方がおいしそうだとすると、佐和子は〈あっ、そっちの方がおいしそう。交換して〉と言うでしょ?」

「言わないよ」

「いや、そういうことじゃなくて」と私は笑った。「まあ、〈交換して〉と言って、マヨはやさしいから交換してくれて、まあいいや。この話はなし」

「変わらないね」

「そう?」

「昔から説明が下手で、すぐあきらめてしまう。千里は頭はいいんだけど、すぐ面倒になっちゃうんだね。お兄ちゃんが死んだあと、千里が家事をするようになったじゃん? あのときも私や健吾を説得するのが面倒だったんでしょ?〈説得するのは面倒だし、自分でやった方がいいや〉みたいな」

「まあ、そうかも」

「さっきの話だけどさ、たしかにカレーを頼んでおいて、〈オムライスが食べたくなったから交換して〉と言うのはわがままだよ。でもわがままを言ってもいいじゃん。だって〈交換しろ〉と強制してるわけじゃないんだし、嫌なら断ればいいんだよ。断られてもまだ〈交換して〉と駄々をこねるのは論外だけど、私はそんなことしないし。自覚してるってそういうことだよ。お父さんは〈これはおかしい〉と駄々をこねてるだけで、そんなことしても店員の迷惑になるだけじゃん? それってタチが悪い」

「ああ、そういうことね」と私はうなずいた。「お父さんは王様で、よくわかりもしないのに〈あれはダメだ。これもダメだ〉と口出しするのね。佐和子はお嬢様で、目につくそばから〈あれがほしい。これもほしい〉と求めるのね。でもダメならすぐにあきらめる。どっちもわがままだけど、佐和子の方が物分りがいい」

「私はそこまで欲張りじゃないけどね」と姉は笑い、ビールを飲みほした。

 グラスには泡がわずかに残っていて、ふとヤドカリのことを思いだした。あの映像を見たのは数時間前で、そのことに気づくと、なんだか充実した時間を送っているように思えた。実際にはただビールを飲みながら談笑しているだけなのだけれど、単調な生活を送っている私には、貴重な時間に思えた。

 妹と姪がお風呂から出てきた。姪は血色がよくなっていて、耳たぶがプニプニとやわらかそうだった。私はドライヤーで髪の毛を乾かせてあげた。姪から〈テンキュー〉とお礼を言われたので、耳たぶをさわさせてもらった。それは私の耳たぶとほとんど同じだった。

 姉がお風呂に入っているあいだ、私は自分の部屋の片づけをした。姉と姪にそこで寝てもらうことにして、私は妹とリビングのベッドで寝るつもりだった。でも姉から〈ホントはアスカと寝たいんでしょ? ほしいときにはほしいと言わなきゃ損だよ〉と言われたので、姪のとなりで寝ることができた。

 姪は手が小さいだけでなく、足も小さかった。それは赤ちゃんのようにむっちりした感じではなく、上品でしっとりした感じだった。姪が眠そうな顔をしていたので、私は明かりを消し、お話をしてあげた。それはデンマークの有名な童話で、アヒルが仲間外れにされる物語だった。姪がすぐに寝入ったので、ハッピーエンドにはならなかった。私はお風呂に入り、姉と少し話をして、それから姪のとなりで眠った。

 目が覚めたときには朝になっていた。姪はまだ眠っていて、寝顔はかわいらしく、じっと見つめていたいと思えるほど魅力にあふれていた。本当は写真をとりたかったけれど、なんだか申し訳なくて、見つめるだけにした。姪が目を覚ますと、〈ねえ、ダイニングの窓にお花があるじゃない? そこまで競争しない?〉と提案した。姪ははじめは渋っていたけれど、ふいに全力疾走した。そのやり方は姉を思わせた。

 妹はもう起きていて、でも姉はまだ眠っていた。姉の寝顔はきのうよりもさらに幼く見え、〈眠りを味わう〉という表現がぴったりだった。私は携帯電話の番号を交換して、ついでに姉の携帯電話を盗み見た。そのうち姉が起きてきて、〈勝手に見るな〉と言った。でも怒っている様子はなかった。

 一夜にして、姉と妹はすっかり打ち解けていた。朝食の用意をする妹に、姉は〈マヨはアリだね〉と言い、妹は〈アリ?〉と返した。姉は〈アリみたいによく働くってこと〉と言い、妹は〈でもアリもサボるんだよ〉と返した。妹がその続きを言わなかったので、私は働きアリがサボる話をした。それからついでにヤドカリの強盗の話もした。

 朝食はトーストとタコヤキだった。姪はタコヤキを食べたことが一度もなく、〈なかなかうまい〉と言いながら食べた。その言い方は大人びていて、みんなの笑いを誘った。朝食を終えると、姉たちは帰る支度をした。

 天気はよかったけれど、風は少し冷たかった。どこか遠くから、子供たちの騒ぎ声が聞こえていた。姉の荷物は大きなリュックサックだけだった。

「なにかあったら電話して」と姉は言った。

「うん」と私は言った。「じゃあね、アスカちゃん」

「バイバーイ」と姪は言った。

「あのさ、どうでもいいことだけど」と姉は言った。「いちおう言っといた方がいいと思うから言うけどさ、アスカは養子だから」

「養子?」

「うん。この子の産みの親は私ではない」

 その事実を知っても、特に何かが変わることはなかった。姪はかわいいままだったし、姪との距離も同じだった。別れの挨拶をすませると、姉と姪は歩いていった。二人の後姿はだんだん小さくなっていき、角を曲がる前に、姪は振り向き、大きく手をふった。私は大きく応え、妹は小さく応えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ