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不愛想な彼女  作者: 竹下舞
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プロローグ、1章~10章

プロローグ


 私は現在、姪と二人で暮らしています。今の生活はたいそう気楽なものです。私は特に何もしません。本を読む、絵を描く、テレビを見る、手芸をする、家事をする、買い物に行く、金魚にエサをやる、姪と話す、私の日常はそれくらいです。姪以外の人と話をすることはほとんどありませんし、遠くへ出かけることもまずありません。半径数キロ圏内の世界で、ひっそりと生きているのです。

 若い頃にはいろいろなことがありました。私の人生は三十歳までに大部分が終わったと言っても過言ではありません。それほどいろいろなことがありました。逮捕されたこともそうですが、それ以外にも、普通ではないことにいくつも直面しました。

 普通ではないこと、たとえば自殺や他殺がそうです。自分が悪いことをしなくても、周りの人が悪いことをすれば、自分も巻きこまれてしまうのです。ただ、私にとって自殺や他殺はそれほど大きなことではなかったように思います。というか、私がここに書こうとしていることは、自殺や他殺のことではありません。そういうことも結果的に書くことになるでしょうが、この物語の中心は私と妹の交流になるでしょう。

 ここまで書いて読み直してみると、妙な心持ちになります。ふだんは昔のことを思いだすことはないのですが、こうして書いてみると、次から次へと昔のことが思い浮かんできます。それは、なつかしいだけで気恥ずかしさはありません。年をとったためか、過去をちゃんと受け入れることができたのでしょう。

 私が逮捕されたのは二十七歳のときで、二〇一五年の年末です。物語は少し前の九月下旬から始めたいと思います。はるか昔のことで、姪はまだ生まれてさえいませんが、だからこそ、これを書くことに意味がある気がします。姪という読者がいるからこそ、書く気力がわいてくるのです。それでも姪のために書くのではありません。自分自身のために書くのです。残りの人生を考えると、自分の過去に形を与えて残しておきたい気になります。そうすることで、心置きなく死を待つことができると思います。



1 蚊の体重


 風はなく、日差しは強かった。

 街路樹のそばにトンボが飛んでいて、ふと兄のことを思いだした。兄は〈チョウチョよりトンボの方が優雅に飛ぶ〉と言っていた。でも、このトンボはすばやく飛んでいて、ときおり急な方向転換をして、優雅さは少しもなかった。

 歩行者はまばらだった。車道にはつぎつぎと車が走っていき、赤信号になると、前から順番に赤いテールランプがついていった。青い空は高く、さっとひかれた雲には風情があった。それらはあまりにも平凡で、刑務所がある町にお似合いの風景に思えてきて、私はほんのりと救いを感じた。

 前方から日傘をさした妊婦が歩いてきた。彼女は風俗嬢には適さないほどのブスで、すれ違ったときに目が合ったけれど、愛嬌はなかった。

「あの」と私は彼女の背中に声をかけた。

「はい?」と彼女は振り向いた。まじまじと見ると、思ったよりブスだった。それでも左の薬指には光るものがあった。「えっと、なんでしょうか?」

「いえ、ちょっと知人に似てたもので。すみません、人違いでした。すみません」

 私は歩いていった。胸には清々(すがすが)しさが広がっていて、足どりは軽かった。彼女は私が刑務所に向かっていることを知らない。ここにいる人たちはみんな私が刑務所に向かっていることを知らない。その事実がたまらなく爽快だった。でも刑務所の門が見えると、胸に緊張がめばえ、なんだか人目が気になってきた。私のことなんて誰も気にしていないはずなのに、被害妄想にとらわれた。それでも建物の中に入ると、緊張は穏和され、サングラスをはずして堂々と進んでいった。

 弟とは母親が違った。はじめて会ったとき、私は十歳で、弟は五歳だった。その差は大きい。私は弟を他人として認識したけれど、弟は私を新しい家族として受け入れた。もしかしたら、弟は私と会った日のことを覚えていないかもしれない。トンボのことも覚えていないかもしれない。

 わびしいけれど騒がしくない。質素だけれど不潔ではない。面会室はそういう場所で、私はイスに座り、じっと待った。窓がないので、少し圧迫感があった。向こうの部屋とはアクリル板でしきられていた。

 しばらくするとドアが開き、弟が入ってきて、続いて刑務官も入ってきた。弟は目の前に座り、刑務官はそのとなりに立った。二人は対照的だった。背が低く狡猾そうな雰囲気の刑務官と、体格がよく荘厳(そうごん)な雰囲気の弟。受刑者は姿勢を正す癖がついているためか、弟の方が将来有望に見えた。

「どう? 元気でやってる?」

「三日前、俺の誕生日だった」

「そうだったね。おめでとう」と私は軽く言った。「二十二だっけ? いつのまにかお兄ちゃんより長生きしたね」

「一つ頼みたいことがあるんだが、いいか?」

「何?」

「頼んだらしてくれるか?」と弟はひかえめに言った。

「何? 無茶なことはできないよ」

「無茶なことではないし、法律にひっかかることでもない。多少は常識から外れることかもしれない。ただ非常識なことではない」

「まあいいよ。誕生日だったし」

「本当か?」

「うん」

「じゃあ」と弟はこちらに顔を近づけて声をひそめた。「乳首を見せてくれ。全裸になってくれとは言わねえが、服をまくりあげるくらいなら――」

「おい!」と刑務官は厳粛(げんしゅく)な声をだした。

「いえ、違うんです。こうやって至近距離で目にできる女性は姉だけなんです」と弟は早口で言った。「だから頭の中で女性を思い浮かべようとしたら、ついつい姉が思い浮かんでしまって。乳首なんてたかが小さな突起(とっき)です。そんなの百も承知です。けど、あんな小さな突起でも魔力があるんですよ、魔力が。イボ()と同じですよ。魔力ですよ、あの小さな突起は」

 刑務官は笑った。弟は澄ました顔をしていて、私は視線を少しおとした。たしか弟は以前〈女の心をつかむにはお金を持ちだせばいい。男の心をつかむには下ネタを持ちだせばいい〉と言っていた。そのとおりかもしれない。ただ、私には何がおかしいのか理解しがたく、不快になった。それは恥ずかしさというより腹ただしさで、帰ろうかと思ったけれど、とつぜん弟がパチンと手をたたいた。

「ったく、血を吸ってやがる。蚊だ、蚊」と弟は手のひらを見せた。

「そういえば、蚊って血を吸うと体重が二倍になって、だから羽ばたく回数が増えるみたいね。メタボの蚊が一生懸命に羽ばたいてるのを想像すると、なんかかわいい。お兄ちゃんがそんなこと言ってたよね? 覚えてる?」

「ああ、かわいいとは言ってねえけどな。ただ蚊の苦労を熱弁してただけだ、総志郎は。蚊には蚊の大変さがあるとか、なんとか」

「そうそう、それから〈血を吸う蚊はメスだけで、オスは吸わなくて、メスが赤ちゃんを産むために吸うんだから、だから許してあげて〉とも言ってて、お兄ちゃんは思いやりがあったのよ」

「総志郎だって殺してたじゃねえか?」

「そういうことじゃなくて。なんというか、お兄ちゃんが〈蚊は赤ちゃんを産むために血を吸うから許してあげて〉と言うでしょ? そしたら佐和子が〈なら余計に殺さなきゃダメじゃん。新しいやつが生まれたら大変だもん〉と言って、笑いが生まれる。そういうことね、思いやりがあったって」

「そうだな」と弟は精悍(せいかん)に笑った。「総志郎はいいやつだったよ。親父(おやじ)は死んでもかまわねえようなクズだったが、総志郎は死ぬべきではなかったな」

「お父さんも悪い人じゃなかったのよ」

「誰も悪い人だとは言ってねえよ。クズだと言ったんだ、クズだと。クズと悪い人は違う、まったく。親父がどうやってカネを稼いでたか知ってんのか? 酒ばかり飲んでロクに働いてなかったようだが、それでも稼ぐ方法はあったようだな。あんなクズみたいな稼ぎ方をするくらいなら、銀行強盗でもして悪い人になった方がマシだ」

「最近、マヨのことでちょっと問題があって」と私は話題を変えた。「いじめにあってたみたいで、悪口が書かれた手紙をわたされてたんだって。先生がわざわざ家庭訪問して教えてくれたんだけど」

「なぜそんな手紙をわたしたんだ? 証拠が残るじゃねえか」

「まだ十歳くらいの子供だし、バカなんじゃない?」

「ああ、そうとうのバカだな」と弟は笑った。「それにしても先月は強盗に入られて、今月はマヨがいじめられて、千里はそうとう気楽だな」

「なんで気楽なのよ? ぜんぜん気楽じゃないし」

「いや、気楽に見えるよ。なにか達観してるように見える」

「健吾も友達いなかったでしょ? なんかアドバイスある? またいじめられるかもしれないし、早いうちに手を打っておかないと」

「それ、本気で言ってんのか?」

「何? いい方法があるなら教えて。そういうの得意でしょ?」

「ああ、なら引っ越しをすればいい」

「なんで?」

「そんなこと誰だってわかるだろ?」と弟はあわれむ調子で言った。「近所の人は俺のことを知ってんだよな? 学校の人もみんな知ってんだよな? なら引っ越せばいい。簡単じゃないか。よくそんなところに住んでられるな。佐和子みたいに出ていきゃいいんだよ、出ていきゃ。場所を変えれば人生はいくらでもやり直せるからな。千里はおかしいよ。異常だ、まったく。腐ってんじゃねえか。頭のネジがゆるんでんなら締め直せばいいが、頭ん中が腐ってんなら手遅れだ。だから気楽で――」

 弟は口をとめることなく言葉を続けた。そのあいだ表情を崩すことはなく、私の目をじっと見ていた。それはいかにも相手をバカにしているようで、私は少し腹がたってきた。

「学校も同じで」と弟は続けた。「場所を変えればうまくいく。いじめの問題ってのはたいてい教室の雰囲気にあるもんだし、だから一度いじめが起こると、もうクラスになじむのは難しいんだよ。なら転校して――」

「ねえ」と私はさえぎった。「本気でそう思ってるの?」

「どうだろうな? たぶん本気では思ってない。ただ雑談してるだけ。正直なところ千里が引っ越ししようがしまいが、どっちでもいい。興味なし」

「ならいいけど。いじめって悪いのはいじめっ子の方でしょ?」

「いや、少し違うな」

「なんで? いじめられっ子が悪いとでも思ってるの?」

「いじめられっ子が転校して、そのあとクラスでいじめが起こらなかったとしたら、いじめられっ子にも問題があった、ってことになるだろ? いじめられっ子がそのクラスにいなければ、そもそもいじめが起こることはなかったんだから」

「そんなこと言ったら、あれじゃない? そうね」と私は言い、少し考えた。「スカートの中を盗撮するのは、短いスカートをはいてる方が悪い、ってなるじゃない? 短いスカートをはいてる人がいなかったら、そもそも盗撮なんて――」

「いや、俺は〈いじめられっ子が悪い〉とは言ってない。あくまでも〈いじめられっ子にも問題がある〉と言ったんだよ。〈誰が悪いか〉を考えるのは部外者がすることだし、当事者は〈何が問題か〉を考えるべきだ。〈誰が悪いか〉と責任追及しても、いじめはなくなりはしないんだから、原因に注目すべきなんだよ、問題の原因に。盗撮は悪だし、盗撮するやつは逮捕されるべきだ。そんなの当たり前だ。けどな、盗撮するバカはいくらでもいるんだから、それなら被害にあわないためにはどうするか考えるべきだろ? それが健全な知性ってやつだし、当事者意識が欠けた知性なんて意味ねえよ」

「まあ、そうね」

「政治とカネの問題もそうだろ? 部外者が〈悪い悪い〉と言ってるうちに、原因はうやむやになってしまう。だから同じような問題がくりかえされる。当事者意識がないとそうなるんだよ」

「うん、そうね」と私は言った。ただ、そんなことはどうでもよかった。「テレビのニュースで、いじめを苦に自殺する子がとりあげられることがあるじゃない? ああいうのを見ると複雑な気持ちになって。気がめいるというか。別にマヨが自殺するなんて思わないけど、でもお兄ちゃんのこともあるし、過剰に反応してるんだと思う。頭ではわかってるんだけど、心がついていかなくて」

「統計を示すことはできねえけどな、いじめ自殺より交通事故死の方がはるかに多いだろうし、交通事故を心配しろよ、交通事故を」

「だから、頭ではわかってんだけど、心がついていかないの」

「そうか」と弟は笑った。「俺は交通事故にあう心配はないし、こんなとこに閉じこめられてたら、自殺するのもけっこう手間がかかる」

「そう」

「現代の不安ってのは選択肢の多さから来るそうだ。選択肢が多すぎて余計なことを考えてしまう、ってことだな。ここは選択肢が一つしかないし、ただ与えられることをこなせばいいだけだし、だから不安になることはない。もしも自分の心から見離されたら、千里も刑務所に入れよ。余計な心配もなく生きていけるぞ」

「そう。本で読んだんだけど」と私は明るく言った。「刑務所内で誰かが自殺すると、受刑者の精神状態が不安定になるみたいね、統計的なことはわからないけど」

「てめえは人をまねることしかできねえのかよ」

「そっちこそ、人をバカにすることしかできないくせに」

「そうだな」と弟は笑った。「ったく、頭がいいやつは困る」

 そのあとも弟と雑談をかわした。弟は何度も笑い、刑務官も何度か笑った。そこには刑務所とは思えないような陽気があった。ほかの面会者が何を話しているのかはわからないけれど、おそらく私たちのような会話をしている人はいない。そう思うと、少し誇らしくもあった。



2 七本脚のクモ


 刑務所の門を出ると、空を見上げた。それは一時間前と同じようなものだった。空だけでなく、町の光景もそうだった。特に変化を感じることはなく、私は刑務所に慣れたのだと思った。刑務所に入ることにはまだ慣れていないけれど、刑務所から出ることにはすでに慣れている。

 私はバス停まで歩いていった。そしてまた空を見上げた。そこには飛行機があった。それは飛行機雲をひきつれて進んでいて、空をわたる汽車のように見えた。銀河鉄道というか、青空鉄道というか。

 バスで駅まで行き、電車に乗った。車内には空席がいくつかあり、私は厚化粧の女の子のそばに座った。化粧とは違い、香水はひかえめだった。電車は一定のリズムで進んでいった。話し声はどこにもなく、静かだった。ふと〈知人に会うのではないか〉という予感がひらめき、目をつむった。予感はかすかな不安に変わったけれど、目をあけることはなかった。

 しばらくすると、着信音が鳴り、厚化粧の女の子が携帯電話で話し始めた。いくつかのやりとりのあと、昼食の話になり、彼女は〈こんがり〉や〈肉汁〉や〈ぶわー〉という言葉を使った。私は空腹を感じ始め、頭の中にナイフとフォークで食べるサンドイッチを思い描いた。こんがり焼けたパンをナイフでサクッと切ると、肉汁があふれてきて、湯気がぶわーと上がった。ただ、匂いはうまく想像できなかった。それでも口の中には唾液(だえき)がたまった。

 いつまでたっても知人に会うことはなかった。それでもさきほどの予感は家に帰るまで続き、家に帰ってからは〈知人が訪ねてくるのではないか〉という予感に変わった。弟に会ったためか、その知人をスミレかダンだと想定した。

 リビングのテレビをつけ、冷蔵庫から缶ビールをとりだした。さきほど長く歩いたためか、一口目はたまらなくおいしく、半分ほど胃におさめた。時計を見ると三時半で、みんな仕事中だと思い、ほのかに優越感を覚えた。そのためか、缶ビールを見つめるだけで嬉しさがこみあげてきた。

「みんな、何してんだろうね?」と私は言った。「おーい、聞いてる?」

 猫はぴくりとも動かなかった。白色の太った体は、ぬいぐるみのようだった。私はまた声をかけてみたけれど、やはり無視された。

 四時になると、宅配ピザを注文した。そのときには予感はなくなっていたけれど、とつぜん携帯電話が鳴り始め、それはダンサトシからで、私は自分の勘のよさを少し怖く思った。電話は放っておくことにした。ダンサトシには弟が逮捕されたときに電話番号を教えたのだけれど、これまで一度もかかってくることはなかったし、それが今更(いまさら)かかってきたのだから、なんだか嫌な予感がした。

 電話がきれると、空気はぴんと張りつめ、テレビの音が妙によそよそしく感じられた。電話はまた鳴り始めた。猫はテレビの前でまるまっていて、電話の音にもテレビの音にも無関心だった。ためしにテレビの音量を上げてみたけれど、尻尾をのっそりと動かしただけで、体を起こすことはなかった。私は野生では生きていけない彼女のことを不憫(ふびん)に思い、音量を戻した。

「もしもし」と私は電話に出た。

「あっ、ユキコさんですか? ダンです。ダンサトシです」

「いや、ユキコさんじゃないから」と私は言い、頭の中で〈ユキコではなく千里です〉と訂正した。

「健吾のお姉さんですよね」

「たしかに私の弟は健吾という名前だけど」

「ユキコさんですよね?」

「ユキコじゃないです」と私は静かに言い、電話をきった。「なんでユキコなのよ」

 また電話が鳴ったけれど、無視することにした。電話はうるさく鳴り響き、やがて静寂に変わった。テレビの音は遠くに聞こえていて、その音は自分とは別の空間にあるように思えた。でもそれは瞬間的なことで、すぐに同じ空間に戻った。テレビを消すと、待ちかねていたかのように、電話が鳴った。やはりダンサトシからで、缶ビールを持っている私が我慢比べに負けるはずはなく、十三度目できれた。

 ダンサトシは弟の詐欺仲間だった。私がダンサトシに会ったのは、弟が逮捕されたときの一度だけだった。ダンサトシは容姿端麗で口がうまく、とても感じのいい青年だった。でも私には何かが気にくわなかった。それは弟からダンサトシが女好きだと知らされていたためかもしれない。とにかく、ダンサトシの愛想がいいほど、私の嫌悪感はつのっていった。

 ダンサトシのことを考えていると、すぐに〈ユキコさん〉と呼ばれた理由に思い当たった。私はダンサトシへの嫌悪感から、電話番号を交換したときに、千里ではなくユキコという名前を使ったのだった。

 ユキコさんは兄の恋人だった。兄が自殺したときに交際していた人で、当時は二十二歳だったので、今では三十二歳になっている。どこで何をしているのかは知らない。ただ、最後に会ったときに〈スペインに行こうかと思ってるの〉と言っていたので、スペインに住んでいるのかもしれない。

 ユキコさんのことを考えていると、妙に感傷的になった。死んだ兄のことを思っても感傷的にはならないのに、生きているユキコさんのことを思うと、心がゆさぶられ、意味もなく大きなため息をついた。

 妹が帰ってきたのは、四時半だった。そのときには、私は三本目の缶ビールをあけていて、ダイニングテーブルには温かいピザがあった。

「おかえり。ピザあるよ」

「ただいま」と妹は言い、冷蔵庫から牛乳と麦茶をとりだし、コップにそそいだ。

 昔からの習慣で、妹の部屋はリビングだった。妹は〈ステファニーただいま〉と猫に言い、テレビをつけ、リビングの奥に行った。私はリモコンで音量を目いっぱい下げた。すぐに引き戸の陰から妹の顔がのぞいた。妹はふっくらとした丸顔で、たれ目のために不愛想な表情が似合っている。不愛想の中にも愛嬌があるというか、不愛想ながらも頬を指でつつきたくなるような雰囲気があるというか。

「今日、健吾のところに行ってきて」と私は言い、音量を戻した。

「知ってる」と妹は言い、また奥に行った。

「なんで知ってるの?」

「だって、ビール」

「なるほど」と私は三本の缶を見た。でも水曜日の昼間からビールを飲むことはあったし、三本飲むことも珍しくなかった。「ピザは? いらないの?」

「あとで」

「冷めるよ」

「レンジ」

 会話はそれ以上は続かなかった。

 妹の勉強机はダイニングテーブルなので、私は妹がここまで来るのを待った。でも妹は宿題も〈あとで〉という習慣を持っているようで、部屋にはテレビの音だけが響いた。さきほどの電話のためか、私はテレビに同調することはできなかった。

 妹が宿題を始めたのは五時で、テーブルのピザはもう冷めていて、こもった臭気を視覚的に感じた。私は四本目の缶を手にしていた。私にとって三本と四本の差は大きい。三本では酔っ払うことはまずないのだけれど、四本目くらいから酔いが回ってくる。そうなると、同じ話をするようになる。正確には、同じ話をすることが平気になる。だからふだんは三本までしか飲まない。でも刑務所に行った日には、四本目をあけてしまう。

 妹はノートに文字を書いていった。私はとなりで何をするでもなく、ぼんやりとしていた。テレビは消されていて、エンピツの音が静かに聞こえていた。

「今日、健吾のところに行ってきたんだけど」と私は言った。「お引っ越しをした方がいいんだって。世間の評判もあるし、ここで暮らしてると近所の人たちから煙たがられるし、でもね、私は別によくて。近所の人たちが陰で悪く言ってても、そんなのどうでもいい。私はそう思ってるから、引っ越ししなくてもいいかなって。まあ、引っ越ししてもいいんだけど。どっちでもいいってこと。マヨはどう? お引っ越ししたい?」

「別に」と妹は文字を書きながら答えた。

「健吾もいじめられてたことがあってね」と私は嘘をついた。「小学三年生くらいだったかな、教科書にラクガキされたり、上履きを隠されたり、まああの頃から体が大きかったから暴力はなかったみたいだけど。殴ったら殴り返されるもんね。男の子のいじめはわかりやすいけど、女の子のいじめは複雑で、いや、そんなこともないんだけど。男の子のいじめだって複雑。まあ、女は仲間意識が強くて、陰口が好きみたいで、どうしようもないね、もう。うるさい? しゃべらない方がいい?」

「別に」

「じゃあ、しゃべらない」

「しゃべりたいなら、しゃべってもいいよ」と妹はノートに向かったまま言った。

「まあ、特にしゃべりたいことはないんだけど」

 私は缶のラベルを見つめた。それから窓辺のプランターに目をやった。その花は電灯の光に負けるくらい淡い色をしていて、とりわけ美しいわけではなかったけれど、花より葉の割合がずいぶん多く、そのため可憐(かれん)な雰囲気があった。

「お兄ちゃんはね、お花が好きだった」と私は言った。「ああいうプランターをよく買ってた。変でしょ? 男なのにね。中学生の頃にはああいうのを買ってたんだから。私がこの家に来たばかりの頃なんだけど、だからマヨはまだ生まれる前ね」

「何年前、それ?」

「そうね、十歳のときだから、十七年前か。マヨが生まれる六年前ね。私のお母さんが亡くなって、お父さんにひきとられたわけ。でね、この家に来たとき、お兄ちゃんからプランターをもらった。最初はあまり興味なかったんだけど、世話をしてるうちに愛着が出てきて、どうしてだか、お花に話しかけるようになった。変でしょ? お花は返事することはないのに。でもね、別に変じゃないよ。男なのに花が好きなことも、花に話しかけることも、別に変じゃない。でもそれがわかってない人もいるよね。困ったもんだ」

 妹は手をとめることなく、ノートにひたすら書いていった。それは同じ漢字を一行ずつ書いて覚えるという宿題で、妹は昔の私と同じく〈部首だけをひととおり書いたのち、残りを書いて完成される〉という方法を採用していた。だからか、バランスの悪い漢字が並んでいた。

 私はランドセルから教科書をとりだした。パラパラとめくってみると、猫のイラストがいくつか目についた。手すりを歩いている猫、着地する直前の猫、玉乗りをしている猫、宇宙服を着ている猫。それらは妹が自分で書いたもので、誰かにラクガキされたものではなさそうだった。別の教科書も確かめてみたけれど、同じだった。いろいろなところに猫が隠れていた。

 教科書をランドセルに戻し、今度は文庫本をとりだした。またパラパラとめくっていった。小学校の図書室のものだからか、卑猥(ひわい)な場面はなさそうだった。でも私は女性作家はみんな卑猥なことを書くものだと思っていたので、子細に確認していった。それでも口づけの場面すらなさそうで、この人は別の小説で卑猥なことを書いているのだろうと思った。

「これって、おもしろい?」と私は文庫本を示した。

「そんなおもしろくない」と妹は顔をあげることなく答えた。

「ふーん。学校は楽しい?」

「ふつう」

「私も小学校は楽しくなかったな。だから地元の中学じゃなくて、私立の中学に行ったんだけど、私立の女子校にね」と私は言い、ビールを飲んだ。「ビール、飲む?」

「飲まない」

「ビールはね、あれね、あれ。うん、あれよね、あれ」と私は言い、笑った。「年をとると、どうしてだか〈あれ、あれ〉とよく言うようになるみたい。まあいいけど。あしたの晩ごはんは何がいい? お寿司? タコヤキ? それとも中華? 中華料理のダメなところはね、一人で食べるのが難しいところ。お寿司も牛丼もラーメンもフランス料理も一人で食べることができるけど、中華はできない。中国人はいっぱいいるもんね」

「ピザも一人じゃ食べれない」

「なるほど」と私は言い、テーブルのピザを手にとった。でも口にすることなく、テーブルに戻した。「パーティーは一人じゃできない。そうだね。パーティーは一人じゃできないもんね。で、なにか食べたいものはある?」

「なんでもいい」

「ステファニーはどう? なんか食べたいものはある? おーい、聞いてる? まあいいや。どんな小説が好き?」と私は聞いた。妹は何も答えなかった。「結末にどんでん返しがあるやつか、会話文が多くあるやつか、詩的な文章というか、気どった文章のやつか、あとは、何かな? そうね。ファンタジーみたいな異次元の世界のやつか、日常的なやつか、どんなのが好き?」

「会話が多いの」

 私は〈それでおしゃべりの練習をしてるの?〉と言おうかと思ったけれど、やめた。私にも友達がいなかったから。

 妹は漢字のノートを閉じ、ランドセルから別のノートと教科書をとりだした。私はふたたび文庫本を手にとり、適当なページを読んでいった。読みやすい文章で、すらすらと進んでいった。

「そうそう、そういえば、今日ね、飛行機雲があって、あれね、空に飛行機が飛んでたんだけど、それが飛行機雲を作りながら飛んでて、空飛ぶ汽車みたいに見えた。青空鉄道というか。冬だったら飛行機雲は空に残るじゃない? でも今はちょうどいい季節で、飛行機雲はできたそばから消えていくのね。だから飛行機と飛行機雲が一緒に進んでるみたいで、なんか空飛ぶ汽車みたいだった。聞いてる?」

「聞いてない」と妹は言った。私は笑った。

「なんで聞いてくれないの?」

「だって、算数だもん」

「なんで? なんで算数だったら、あっ、そっか。漢字なら聞きながらでも書けるわけか。でも算数では無理。そうかも」

 私はビールを飲みほし、冷蔵庫まで歩いていった。冷蔵庫をあけようとしたとき、小さなクモを見つけた。それは脚の数がたりなかった。私はクモをコップの中に入れ、ダイニングテーブルに持っていった。衝撃を与えたせいか、クモはコップの底で右往左往していて、なんだか滑稽(こっけい)だった。

「こいつ、脚が七本しかないよ」と私は言った。妹はコップに目を向けた。「左側は四本あるけど、右側は三本しかなくて、でもちゃんと歩いてるね。あと何本とれば歩けなくなるのかな? 左を二本とっても、まあ、なんとかなりそう。でも右を二本とると難しいだろうね。いや、あんがいいけるか」

「なんでとれたの?」と妹はクモを見つめたまま言った。その顔は微笑んでいた。

「さあ? なんでだろうね」

「クモってすごいよね」と妹は私の顔を見て、またクモを見た。「こんなにも小さいのに綺麗な巣を作るもん」

「こういうクモは綺麗な巣は作らないんじゃない? 綺麗な巣を作るのはもっと大きなクモで、こいつは普通の巣を作ると思う」

「普通の巣ってどんなの?」

「さあ?」

 私は毛抜きでクモの脚をとろうと試みた。でもなかなか脚をつかむことができず、面倒になり、解放してあげた。

 六時になると、ピザを電子レンジで温めて食べた。刑務所に行ったせいか、缶ビールを六本も飲んだ。そのため本を読みながら〈ほっほー〉や〈ふむふむ〉という無意味な言葉を発した。布団に寝ころんだとき、携帯電話が鳴る予感にとらわれたけれど、夜は静かなままだった。私はダンサトシが家に訪ねてくることを想像して、直接会うより電話の方がマシだと思った。それでもこちらから電話をかける気にはなれなかった。



3 少女と大男の話


 妹のいじめを知ったのは、一週間ほど前のことだった。

 私は妹にこんな話をした。

「むかしむかし、ある村に少女が住んでいました。少女には言語障害があり、スムーズにしゃべることができませんでした。そのため、みんなからバカにされていました。でも少女は不満を口にすることはありませんでした。オドオドしながらも健気(けなげ)に生きていました。その村には大男がいたのですが、大男は働き者で、みんなの仕事を率先して手伝い、だからみんなから(した)われていました。ある日、若者が少女に〈大男はいいやつだけどな、鼻持ちならねえ〉と言いました。別のある日、老婆が少女に〈大男はすばらしい人だけど、あたしゃ嫌いだよ〉と言いました。まあ、そういうお話ね。何か思うことはある?」

「別に」

「少しは思うでしょ?」

「うーん、特に何も」

「そっか。まあいいけど」と私は言った。「世の中には弱い人もいるのね。で、弱い人はすばらしい人のことを嫌いになる。嫉妬するというか。大男はすばらしい人だけど、全員から好かれてるわけじゃない。どんなにすばらしい人でも、全員から好かれるなんてありえないんだから。でね、弱い人は健気な人に勇気づけられることもある。ひたむきな姿を見てると、元気が出てくるのね。まあ、とにかく私が言いたいのは、私はマヨを見てると勇気づけられることがあるし、がんばろうと思える。なんか嫌なことがあったら、そのことを思いだしてみて」

 このとき私は〈弱い人〉という言葉を使ったけれど、今から思えば〈孤立している人〉という言葉の方が適切かもしれない。

 少女と大男の話は竹下舞の小説に出てくるエピソードで、私はその小説を貸してあげた。妹の感想は〈まあまあだった〉というもので、会話文が少なかったので、つまらなかったのかもしれない。



4 十四歳のおばあちゃん


 ダイニングに行くと、妹はまだいて、トーストを食べていた。それにはバターかハチミツらしい輝きがあった。猫はテレビの前でキャットフードを食べていた。私が〈おはよう〉と言うと、妹は挨拶を返し、猫はだるそうに顔をあげて、こちらを見た。でもすぐにもとの姿勢に戻った。

 時計を見ると七時前で、ずいぶん早く目が覚めたものだと思った。私は妹のとなりに座り、テーブルに両ひじをついた。妹の手にはトーストがあり、お皿にはもう一枚のトーストがあった。そちらにはチョコホイップがぬられていた。

「それ、二つとも食べるの?」と私は聞いた。

「あげようか?」と妹はこちらを見た。

「いらない。プリンある?」

「知らない」

「とってきて。お願い」

「自分でとってくれば」

「なんで?」と私は言った。

「知らない」と妹は言った。

 私は妹の横顔をじっと見つめた。そうしていると、妹は立ち上がり、冷蔵庫まで歩いていった。学生服のスカートはひざが十分に隠れるほどで、白い靴下は左側が少しずり落ちていた。私はだらしないと思ったけれど、何も言わないことにした。妹は戻ってきて、テーブルにプリンとスプーンを置いた。

「ありがと。でもポテトチップスが食べたくなってきた」と私は笑った。「これはデザートにするとして、とってきて、ポテトチップス。お願い」

 妹はトーストを口に押しこみ、戸棚の前まで行った。そのあと戸棚をあけることなく、なにやら壁を見つめだした。私が〈どうしたの?〉と聞くと、妹は振り向いた。口の中にはまだトーストがあるようで、不愛想に口を動かしていて、そのため左右不均等の靴下はひどく愛嬌を感じさせた。

「きのうのクモがいる」と妹は言い、また壁を見た。

「クモ?」と私は立ち上がり、妹のそばまで行った。

「脚が七本の」

「クモはなんのために生きてるか知ってる?」と私は言い、戸棚からポテトチップスをとりだし、席に戻った。妹はまだクモを見ていた。「何時に出るの?」

「まだぜんぜん大丈夫」

「クモは食べるためだけに生きてるのよ。お食事のためだけに生きてて、まあステファニーと同じね」

「ステファニーは寝るのも好きだよ」

「なるほど」

 妹はようやく席につき、チョコホイップの方を食べ始めた。そばには牛乳があり、でこぼこのチョコホイップとの対比のためか、その白はとても清潔な色に見えた。私はポテトチップスをバリバリと音をたてながら食べた。その音は寝起きの頭には心地よく、味よりも音を楽しんだ。

 私が朝食をすませたときには、テレビではニュースをしていた。数日前に女子高校生が何者かに殺されたようで、殺人現場に花やお菓子などが手向(たむ)けられている映像が映しだされていて、画面右下には被害者の笑顔の写真があった。画面は変わり、首から下が映しだされた同級生が〈彼女は何も悪いことをしてないのに、どうして殺されないといけないの?〉と声をうるませた。私はその言葉を気の毒に思い、また不快にも思った。私も悪いことをしていないのに、悲惨なことにみまわれた経験があったから。

「なんで悪いことをしてないのに、あんな悲惨な目にあうか知ってる?」

「だって」と妹は言った。「悪いことをしてなくても悪いことは起こるもん」

「そんなことないよ。善いことをしたら善いことが返ってきて、悪いことをしたら悪いことが返ってくる。実際にそうなんだから。まあ、それは長い目で見た場合だけど。現世だけを見るんじゃなくて、前世や来世も見るとそうなるわけ。おじいちゃんが前世や来世という考えが好きだったんだけど、よくそんなお話をしててね。たぶんそういう考えが気休めになったんだと思う」

「おじいちゃんってどこにいるの?」

「マヨのおじいちゃんじゃないよ。私のお母さんのお父さんだから、マヨとは関係ない人。今は天国にいるかな」と私は手のツボを刺激しながら言った。「とにかく、悪いことをしてないなんて誰にもわからないんだから。前世で悪いことをしたかもしれないでしょ? 前世で悪いことをしたから現世で殺されたかもしれないでしょ? そんなの誰にもわからないんだから。それはそうと、何時に出るの?」

「七時四十分」

「ずいぶん早起きね」と私は言い、手のひらを広げて爪を確認した。「よしっ。ひさしぶりに遊びに行こうかな」

「お姉ちゃん、今日は家にいるの?」

「夜はいないよ。お仕事。どうかした?」

「別に」

 私はテレビを見ながら歯みがきをして、それが終わると自分の部屋に戻り、若い女の子っぽい格好に着替えた。白いワンピースにデニムのジャケットをはおるというスタイルは、最近のお気に入りだった。それにスニーカーをあわせて、大きめのサングラスをかけると、二十歳くらいに見えなくもない。少なからず二十七歳より若く見える。私は表情筋のストレッチをしてから、ファンデーションとリップで軽く化粧をした。そして妹に〈ちょっとお出かけしてくる。カギ、お願いね〉と言い、猫に〈行ってくるね〉と言い、家を出た。空は晴れわたっていて、気温は高すぎも低すぎもせず、すごしやすい朝だった。

 私は行く当てもなく車を走らせた。八時をすぎると、近くにある学校を探した。でもなかなか手間取(てまど)り、中学校が見つかったときには、通学している学生の姿はほとんどなかった。

 私は人通りが少なそうな路上に駐車した。そして外に出て、タバコをふかした。煙は肺まで入れることはなく、ただ口の中に入れるだけだった。それでもタバコをくわえていると若返った気分になれた。

 女子中学生が急いで通りすぎた。彼女は私に気をとめることはなかった。次に通ったのは、犬を散歩している中年女性で、彼女は〈おはようございます〉と明るい声をだした。私も挨拶をして、〈いいお天気ですね〉や〈かわいらしいワンちゃんですね。なんてお名前なんですか?〉など少し話をして、別れた。

 遠くからチャイムの音が聞こえてきた。その音が終わると、あたりはひっそりとした。人の気配はまったく感じられなかった。そばには街路樹があり、木漏れ日が私のチョコレート色の車にまだらな模様を作っていた。

 三本目のタバコが半分くらいになったとき、男子中学生が早足で通りかかった。彼はやわらかそうな髪の毛をしていて、それに似合う顔立ちと体つきをしていた。つまり軟弱な感じだった。

「遅刻だね。さっきチャイム鳴ってたよ」と私は声をかけた。彼はこちらを見ただけで、何も言わなかった。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「なんっすか?」と彼はこちらに近づいてきた。

「学校はいいの?」

「もう遅れたし、いいんじゃないっすか」

「不良なの?」

「優等生っすよ、じつは」

「あの学校に堀井風香って子がいると思うんだけど、知らない?」

「ホリイフウカ。何年っすか?」.

「そうね、たぶん三年生」

「二年じゃないっすか。三年にはいないっすよ、たしか」

「吸う?」と私は吸いかけのタバコをさしだした。

「未成年っすよ、俺」

「そのしゃべり方、どうにかならない?」

「なんっすか?」

「どうも好きじゃないな、そのしゃべり方。軽すぎるというか、不真面目っぽいというか。うちの子の方がきちんとしてる」

「何歳ですか、お子さんは?」

「十四歳。もうおばあちゃんね」

「おばあちゃん? 十四で?」

「猫よ、猫、うちの子ってのは。十四歳のメス猫」と私は言った。「タバコ、吸ったことないの?」

「優等生ですから」

「じゃあ吸ってみたら? そんな度胸はない?」と私はタバコをさしだした。彼はそれを一口吸って、大きく()きこんだ。「どう、お味は?」

「まあまあです」と彼はタバコを返した。

「どうせ遅刻なら、ちょっとお話しない?」

「いいですよ」

「じゃあ車に乗ろう。ちょっと座りたいし」と私は言い、タバコを地面に落とし、運転席に乗った。彼は助手席に乗った。「私ね、最近すごく自暴自棄になってて、だから頭がおかしい人だとは思わないでね。ただ自暴自棄になってるだけだから」

「何かあったんですか?」

「彼氏にフラれて、というか、彼氏が浮気してて」と私は明るく言った。「浮気現場に遭遇したんだけど、二人とも裸で、もうホントにびっくりしたんだから。彼の家は学生用のアパートなんだけど、玄関のとなりにキッチンがあって、奥の部屋にベッドがあって、そんなところね。わかるよね? まあ小さなアパートよ。私はカギを持ってたからノックもせずに勝手に入って、奥の部屋に行ったんだけど、そこに裸の男がいたってわけ。二人とも裸で、二人とも男で」

「ゲイだったんっすか」と彼は笑った。

「笑い事じゃないんだけど」と私は笑いながら言った。「しかも浮気相手の男の方がカッコよくて、立つ瀬がないっていうの? もうどうしていいのかわかんなくて、だから私も服をぬいじゃった」

「なんでですか」と彼は笑った。「そっちの方がビビりますよ」

「だって、負けたくなかったんだもん」と私はあざとい声をだした。彼はまだ笑い続けていた。「私が裸になったら、二人とも驚いて、まあ、そりゃそうよね。で、二人ともじっと私の方を見て、まあそんな感じ」

「それからどうなったんですか?」と彼は真面目に言った。

「別に。普通の成り行きかな」

「普通の成り行きって?」

 そのとき別の男子中学生が通りかかった。その男子中学生はこちらを見て驚いた顔をして、でもすぐににやけた。私のとなりの彼は、なぜか敬礼をしていた。

「もしかして、知り合い?」と私は聞いた。

「ダチです」

「じゃあ、一緒に行きなさい、学校に」

「あいつにも聞いてみましょうか?」

「何を?」

「さっき誰かのことを知らないかって聞いたじゃないですか?」

「ああ、堀井風香ね。ホリイ、フーカ」

 彼は外に出て、ダチを追いかけていった。そしてダチに何かを話して、こちらを向いて両手で大きくバツを示した。私が丸印を返すと、彼は明るい表情になり、またダチに何かを言った。その様子は青春そのもので、私は少し切なくなった。中学生の頃には私も風香も彼らのような明るさがあったように思えたし、その一方で、あの頃から風香は将来を悲観していたようにも思えた。

 エンジンをかけ、車を発進させた。二人の横を通りすぎるとき、クラクションを二つ鳴らし、ルームミラーで観察した。彼はダチに私とのことを得意げに話しているようで、ダチの方も〈マジで!〉という乗り気な様子で、私は若さをうらやましく思った。

 家に帰る前に、妹の小学校に寄ることにした。もう渋滞する時間帯ではなかったけれど、おもしろいほど何度も何度も赤信号にかかった。それでも特に用事はなかったので、いらだつことはなかった。私にとって赤信号は単なる停止の合図にすぎず、小さな子供のように純粋な気持ちでいられた。

 小学校のそばで車をとめた。運動場には子供たちが固まって座っていて、みんな白い帽子をかぶっていた。子供たちは立ち上がると、両手を広げてとなりの人との間隔をとり、そして声をだしながら準備体操を始めた。〈イチ、ニ、サン、シ〉と当番と思われる生徒が言い、〈ゴー、ロク、シチ、ハチ〉とみんなで言った。私も小さな声で合わせた。準備体操は私の頃とまったく同じもので、おそらくすべての日本人が何度もしたことがあるものだった。私は最後まで見届けたのち、アクセルをふんだ。

 ふとダンサトシが家の前で待っているような気がしてきて、スーパーマーケットに向かうことにした。ただ、ドーナツ店が目についたので、朝食の続きをすることにした。私はドーナツを二つ買い、店内の席についた。客は私だけだった。軽くてしつこくないドーナツはいくらでも食べられそうで、二つとも食べ終えると、逆に空腹を感じた。だからすぐにお店を出た。

 スーパーマーケットの駐車場には、まずます車がとめられていた。店内にもまずます人がいた。私はゆったりと見てまわり、お弁当とコーヒーゼリーと週刊誌を買い、外に出た。空には雲が広がっていた。一時間前は快晴だったのに、秋の空は本当に変わりやすいようだった。

 車を走らせて、また小学校に行った。運動場には誰もおらず、でも校舎からは子供たちの騒ぎ声が聞こえていた。騒ぎ声はチャイムが鳴るといっそう大きくなり、チャイムが鳴り終えると同時に消えた。校舎はひっそりと静まり返った。あの中に妹をいじめた生徒がいると思うと、校舎の白色は重たげな色合いに見えた。

 私は車を発進させた。でもすぐにブレーキをふんだ。体育館のそばに女の子がいて、目をこらすと、それは妹のように見えなくもなかった。少なからず髪型と体型は同じだった。妹らしき子は地面を見ながらゆったりと歩いていき、体育館の陰に隠れた。少し待ったけれど、姿を現すことはなかった。

 私は家に帰った。

 猫は妹のベッドの上で熟睡していた。太った体からは運動不足をありありと感じた。私は猫をそっとなでて起こし、ねこじゃらしで遊んだ。でも猫はすぐに飽きて、また寝ころんだ。私はいろいろな手段で猫の興味をひこうとしたけれど、ことごとく徒労に終わった。ただ室内に私のひとりごとが響いただけだった。それでもとても楽しかった。

 そうしていると、また風香のことを思いだした。私は〈堀井風香〉という名前を不謹慎なことに使っていた。ただ、そのことに罪悪感も後ろめたさもなかった。私にとってその名前は、単なる記号にすぎなかった。別の名前でもよかった。

 思えば、風香のことは遠い過去になっていた。私の人生において唯一の親友だったのに、いつのまにか遠い過去になっていた。



5 風香のこと


 はじめて風香と話をしたのは、中学二年生の夏だった。四月から同じクラスだったので、言葉をかわすくらいならあったかもしれないけれど、ちゃんと話をしたのは、夏休み前の球技大会のときが最初だった。

 みんな体操服を着ている中、風香は一人だけ学生服を着ていた。ふっくらとした平坦な顔は仏像を思わせ、そのためか、長めのスカートでも野暮ったい雰囲気はなく、どことなく貫禄(かんろく)があった。

 体育館にはバスケットボールと靴の音が響いていて、ときどき笑い声があがった。そんな中、風香は私に近づいてきて、〈バスケって楽しい?〉と言った。

「まあ、けっこう楽しいかな」と私は返した。

「あなたって、いつも気どってるね」と風香はおっとりと言った。

 私にはむしろ風香の方が気どっているように思えた。長めのスカートといい、語尾をのばす話し方といい、体調不良でもないのに球技大会を見学することといい、風香の方が自己演出をしているように思えた。

「私のどこが気どってるの?」

「みんなみたいに騒がないし、つまらなそうにしてる」と風香は間延びした調子でおだやかに言った。「それなのにさ、バスケが楽しいなんて言う。ちっとも楽しそうじゃないのに。なんだか、あなたはみんなと距離をおいてるように見えるんだよね。仲間意識が希薄で、気どってる感じがある」

「それって」と私は言い、少しためらった。「それって、自分のことじゃない?」

「そうだね」と風香は小さく笑った。「よくわかったね。だけどさ、みんなは気づかないみたい」

 風香はふだんから騒ぐことなく、つまらなそうにしていて、周りの人たちと一定の距離をとっていた。でも、はたから見ればそうではなかった。みんなの目に映る風香は、みんなと一緒になって楽しそうにしている子だった。多少ひかえめではあったものの、それは上品なお嬢さんという印象になっているだけだった。そんな中で、私は風香の暗い部分を見抜いた。だから風香は私を好んだのだと思う。

 じつのところ、私はそれまでは風香のことをいけすかないと思っていた。でも相手から好意を示されたためか、この日から風香と二人きりでいることが多くなった。私にも風香にも何人か友達がいたけれど、放課後や休日に二人きりで会うことがよくあった。それは親友と言ってもいいような関係で、少なからず私にとってはそうだった。

 私は風香にはなんでも話すことができた。家庭のことも失恋のことも話したし、強姦未遂のことも話した。それでも二人のあいだには、壁のようなものがあった。風香が自殺したからそう思うのかもしれないけれど、結局、その壁をとりのぞくことはできなかった。

 風香は空気を読むのがうまく、不満を口にすることはなく、人から好かれやすいタイプだった。でも、それは演技をしていたからなのだと思う。相手に合った自分を作りだし、相手から好かれるように、細心の注意をはらっていたからなのだと思う。他人のことだから実際のところはわからないけれど、たとえ私と二人きりのときであっても、風香は自然体でいることはなく、自分自身を演じていたのだと思う。

 問題はおそらく家庭にあった。それでも風香の家庭は、私の家庭とは比べ物にならないほど、健全なものだった。

 私の家庭は、母親がおらず、兄が家事をしていた。父はお酒ばかり飲んでいて、子供たちをどなることもあった。姉と弟はケンカばかりしていた。はっきり言って、不健全な家庭だった。

 その一方で、風香の家庭は、両親は開業医で、一階が病院で、二階と三階が住居だった。妹は感じのいい子で、家族四人とも上流階級という言葉が似合う感じだった。当時の私からすれば、理想的な家庭だった。でも、風香には何かが足りなかった。あるいは何かが多すぎたと言った方が適切かもしれない。


 風香が亡くなる数時間前、私は風香の部屋を訪れた。私も風香も十七歳だった。

 風香の部屋は、ベッドとソファーとテーブルと勉強机を置いても、まだまだ余裕があるほどに広く、床には高級そうな絨毯(じゅうたん)があり、テーブルには装飾としてのテーブルクロスがあり、部屋のすみには白い文鳥がいて、そのそばには電子ピアノがあった。

 私と風香がおしゃべりをしていると、ノックの音がした。風香が〈どうぞ〉と言うまでドアが開くことはなかった。風香の母親が入ってきた。彼女は歯医者の格好で、マスクをあごまで下げていた。手にはお盆を持っていて、そこには紅茶とクッキーが乗っていた。親子は明るく言葉をかわした。そのやりとりは、広い部屋にふさわしい落ち着きのあるものだった。

 母親が去ると、風香はピアノをひいた。それはクラシック音楽で、ふだんから流行のポップスばかり聴いていた私には、ピアノの音色(ねいろ)より指の動きの方がおもしろかった。その指は風香とは別の意思を持った生物のように見えた。

 私は鳥かごまで歩いていった。文鳥は急に騒ぎだし、二本の止り木を行ったり来たりした。飛行距離が短いため、その姿はとても愛らしかった。たしか昔の小説に〈文鳥は人の顔を判別して、見慣れた人では手から直接エサを食べることもある〉ということが書かれていて、私はそれを思いだしていた。文鳥はすぐに落ち着き、首を動かしてあたりを確認していった。瞳はまるく、どこに視点をあてているのかわからなかった。

「ねえ、千里、幸せってなんだと思う?」

「そうだな。ステファニーと遊んでるときが幸せかな。風香は?」

「人はさ、幸せでなくても生きていけるんだよね。不幸でも生きている人はたくさんいる。だけどね、生きる意味がないと生きてはいけない。だから幸せなんてどうでもよくてさ、生きる意味があれば、それでいい」

「じゃあ生きる意味は何?」

「ないよ。不幸ではないけど、生きる意味はない」

「私も生きる意味なんてない気がする」

「千里は気楽そうでいいね」と風香は笑った。「だけど、千里は死ぬのは怖いでしょ?」

「そりゃあ怖いよ」

「生きる意味があるって、そういうことだよ。私は怖くないんだよね。もしも死んだらさ、もうクッキーは食べられないし、ピアノをひくこともできないし、将来できるかもしれない恋人とも会えない。だけどね、私はそれでいい。ただ、千里とこうして話せなくなるのは嫌かな。だから千里は私の生きる意味」

「じゃあ私の生きる意味は風香だね」

「千里は気楽そうでいいな」と風香は笑った。

「うん、気楽だからいいよ」と私も笑った。

 ノックもなく突然ドアが開き、〈ただいま〉という元気な声がした。それは風香の妹のモモカちゃんで、私の姿を認めると、ひかえめな調子で挨拶をして、そっと部屋に入ってきた。モモカちゃんは適度に口数の少なく、にこやかな子だった。姉妹の仲は良好で、モモカちゃんはいつも風香の部屋に遊びに来ているようだった。

 帰りぎわに、風香は〈文鳥をあげる〉と鳥かごを持ちだした。私は〈でもそれを持って電車に乗るのはちょっと〉と断ったけれど、風香が〈ならタクシーを呼んであげる〉と言いだしたので、結局、受けとることになった。そのとき、私は何も気づかなかった。それから数時間後に風香は自殺した。遺書はなく、誰もが耳を疑うような出来事だった。もちろん私もとても驚いた。でも悲しさはほとんどなかった。もしかしたら喪失感があまりにも強すぎたために、悲しさに鈍感になっていたのかもしれない。

 文鳥は外に放した。鳥かごは裏庭の物置に入れた。私は自殺を考えた。でも自殺する勇気はなかった。

 風香は最後まで自分自身を演じていたのだと思う。これは風香だけではない。自殺というものは衝動か演技でしかない。ひと思いに自殺するのでなければ、自分の物語の主人公として自殺するしかない。私はそう考えたので、風香の自殺をひきずることはなく、時の経過により忘れていった。それが私の気楽さなのかもしれない。



6 手紙――ダンサトシ


 電話をしてもつながらないので、手紙を書くことにしました。

 もしかしたらあなたは僕のことを嫌っているのではないですか? 初対面の人を嫌うことは印象を嫌うことであり、中身を嫌うことではありません。あなたは僕の印象を嫌っているのです。だから僕のことを詳しく知れば好きになるかもしれませんよ。そのことは頭のすみにでも置いといてください。彼のことを詳しく知れば好きになるかもしれない。いいですか? これは非常に大事なことです。あの人のことを詳しく知れば好きになるかもしれない。しつこいようですが、三度も読めば脳裏に焼きついたでしょう。

 あなたは八月に強盗にあったようですね。そのことに心当たりがあるので、こうして連絡をとりました。包み隠すことなく打ち明けますが、僕はあなたのことを知るために尾行しました。犯人の手がかりを見つけるためです。

 僕は性格があまり良い方ではありません。ただし性格の良し悪しは相性の問題ですから、健吾のような人からは好かれています。僕の思考の根底にあるものはギブ・アンド・テイクです。一方的に与えることは好みませんし、一方的にもらうことも好みません。だからこの手紙はここまでにします。もし返事をくれるなら、僕も相応の対応をします。しかしたぶんあなたは返事をくれないでしょうね。



7 エメラルドの水


 ダンサトシから手紙が来たのは、あの電話から二日後のことだった。郵便受けに直接入れたのか、封筒には切手も住所もなく、〈柏木ゆきこさんへ〉とあるだけだった。私は手紙に目をとおすと、最後の一文が気にくわなかったので、まるめてゴミ箱に捨てた。そのあと少し迷ってから、手紙を拾い、キッチンの流しで燃やした。

 強盗に入られたのは、先月の夜だった。

 仕事を終え、家に帰ると、妹がダイニングで倒れていた。口と手足にはガムテープが巻きつけられていて、涙と鼻水を流していた。私はすぐにガムテープをとってあげた。

「大丈夫?」と私は聞いた。

「目が痛い」と妹はしきりに目をこすった。

 私は妹をキッチンの流しまで導き、目を洗わせた。のどにも痛みがあるようで、水の入ったコップをわたし、うがいをさせた。

 私はひとまず自分の部屋に戻った。窓ガラスが割られていて、どうやら犯人はそこから侵入したようで、でも靴をぬいだのか、土や足跡はなかった。引き出しを調べると、現金と高価なアクセサリーがなくなっていた。

 私は救急車を呼び、ふと気づき、警察も呼んだ。それから妹に事情を聞いた。

 妹が話したところによると、こういうことだった。夜中に物音がしたので、妹は部屋の明かりをつけ、引き戸をあけた。その瞬間、目に何かをかけられ、口をふさがれて、手足を縛られた。犯人はニット帽とサングラスをつけた金髪の女で、身長は高く、太ってはいなかった。犯人は何かを言ったそうだけれど、妹はその声に聞き覚えはなかった。

 ダンサトシの手紙には〈強盗のことに心当たりがある〉と書かれていた。〈あなたのことを知るために尾行した〉とも書かれていた。そうなると、犯人は私の身近にいる女になると思うのだけれど、それは同僚くらいだった。でも同僚には金髪で長身の女はいないし、もし金髪がウイッグだとしても、事件のあとで仕事をやめた人もいない。私はダンサトシが勘違いをしているのだと思った。その一方で、もしかしたら勘違いをしているのは私の方かもしれないとも思った。

 ダイニングのイスの下には催眠スプレーが落ちていた。妹の目の痛みは、それによるものだった。証拠はそれ以外にはなく、犯人の指紋や体毛などは見つからなかった。催眠スプレーだけを残すのは、なにか不可解に思えた。あわてて忘れたのか? 落として見つけるのが面倒だったのか?


 ダンサトシの手紙から一週間がたったけれど、何もなかった。

 目が覚めると、リビングの方から音楽が聞こえていた。それは妹のお気に入りのアイドルソングで、安っぽいメロディだったけれど、遠くから小さく聞こえているために、安っぽさは逆に長所になっていて、思わず聴きいってしまった。それでもリビングの引き戸が閉められたのか、ほどなくして音楽はメロディが判別できないほどになった。時計を見ると、十時すぎだった。カレンダーを見ると、なぜか八月だった。

 正午まで布団の上にいて、それからカレンダーを二枚めくりとってから、ダイニングに行った。そこのカレンダーはすでに十月になっていた。私は引き戸に向けて〈おはよう〉と言った。妹は〈おはよう〉と返した。

「今日、土曜日だっけ?」と私は言い、お風呂のスイッチを押した。

「うん」

「お昼、何がいい?」

「なんでもいい」と妹は引き戸をあけて言った。「二時に相川先生が来るよ」

「今日だっけ?」

「うん」

「なんで来るの、あの人? バカなんじゃない? まだ話すことあるの? まあ別にいいけど。マヨはあの先生のこと好き?」

「ふつう」

「でも、本当は、心当たりがあるんだけど」と私はもったいぶった調子で言った。「マヨはどう? なんで先生が来るか知ってるよね?」

「知らない」

 私は頭の中で〈ホントに?〉と言い、冷凍庫をあけた。タコヤキを六つお皿に移して、妹に聞き、九つ追加した。そして電子レンジに入れた。猫がこちらに歩いてきたので、私は話しかけた。でも無視された。タコヤキができあがると、全体にお好み焼き用のソースをかけて、私の分にはかつおぶしをふり、妹の分には粉チーズをふった。

 はじめて相川先生に会ったのは、五月の家庭訪問のときだった。私は五分もしないうちに嫌な先生だと思った。彼女は若さゆえの熱意にあふれていて、そのためか、すべてが気にくわなかった。〈私もいろいろと忙しいんですけれど、生徒一人一人としっかり向き合っていかないといけないですし、そのことを心がけています〉という決意にも、〈うちは両親が二人とも教師で、だから私も教師をめざしたんです〉という動機にも、〈もちろん学校の教育も大切ですけれど、教育の根底は家庭にあると考えています〉という分析力にも、一様に嫌気がさした。それに、先生は口もとにゆるい感じがあり、それも相まって、頭の悪そうな印象を受けた。

 その印象は、先月に家に来たときにも続いていた。そのとき先生は妹のいじめについて話した。その物言いは申し分ないものだったけれど、何かが欠けていた。先生は〈小学五年生といったらファッションに興味を持つようになる年頃ですし、外見も大人びてきます。しかし中身はまだまだ子供です。つまらないことにムキになったり、他人の気持ちを考えられなかったり、不安定な時期なんです〉と言った。その分析はもっともだと思うけれど、私にはいじめっ子を弁護しているように聞こえた。

 先生の熱意は、子供に対するものではなく、マニュアルに対するものだった。それでは光の中でしか通用しないし、影の中の者は適切に処理される。いじめっ子は光の中にいるので守られ、いじめられっ子は影の中にいるので除外される。私はそう考えて、途方もないあきらめを覚えた。

 私は先生に〈いじめをしていた生徒のおうちには行かれたんですか?〉と聞いた。先生の答えは、私の予想どおりだった。私の弟は犯罪者であり、先生はそのことを知っていた。だから私の家に来たのだろう。私は罵倒してやりたかった。〈どうしていじめっ子の家に行かずに、ここに来たんですか? まるでいじめっ子よりあの子の方が悪いという信念を持ってるようですね〉と言ってやりたかった。でもそんなことをすると、今度は先生が妹をいじめるようになるかもしれない。妹はこれまでにトラウマになるほどの経験を何度もしてきたのだから、これ以上のトラブルはさけるべきだった。

 タコヤキを食べ終えると、妹に同じ質問をした。

「あの人なんで来るの?」

「知らない」と妹はうつむいたまま答えた。

「なにか問題があるから来るんでしょ?」

「たぶん」

「ということは、心当たりはある?」

「知らない」

「まあいいけど。お風呂に入ろうかな」と私は立ち上がった。「二時からだっけ?」

「うん、二時から」

「私はあの人よりマヨの方が好きだから。ずっとずっと好きだから。だから知らないなら知らなくてもいいよ。でも私には心当たりがあって」

「ホント?」と妹は心細そうな顔を向けた。

「さあ?」と私はにやけた。妹は目をそらせた。「むかしむかし、おばあさんは車に乗って町に出かけました。チャイムの音が聞こえてきたので、小学校のそばでとまりました。そのとき、あるものを見かけました。授業が始まったはずなのに、体育館のそばには女の子がいるではありませんか。お風呂に入ってくる」

 私は脱衣所に行き、服をぬいで浴室に入った。そして湯船につかり、いつものように入浴剤をさっと入れた。透明な水はまたたくまにエメラルド色になり、それにともない、肌はくすんだ色をおびた。私は自然な色の肌を好んでいた。でも〈肌は白くてツルツルしている方がいい〉という価値観もあるようで、お店の私の写真はばっちり修整されていて、お人形のようになっていた。

 お風呂からあがると、鼻歌をうたいながらドライヤーで髪の毛を乾かしていった。一曲うたいおえる前に、インターホンが鳴った。時計を見ると、一時四十分だった。あと二十分あったので、お風呂掃除をして、それが終わると、鏡の前で身だしなみを整えた。ほてった顔はほんのりと赤みをおびていて、洗いたての目もとには清潔な美しさがあった。その一方で、唇は早くも乾燥していて、私はリップクリームを丁寧にひいていき、上下の唇を重ね合わせた。

 先生はリビングのソファーに座っていて、となりには妹がうつむいて座っていた。私の姿を認めると、先生は中腰になって社交辞令を口にした。私は先生の言葉が終わるのを待つことなく、冷蔵庫に缶ビールをとりに行った。引き返すと、先生はまだ中腰のままだった。猫はテレビの前でまるまっていて、真っ白な毛並みは心地よく見えた。それはお風呂上がりでなければ抱きあげたいほどだった。

「ステファニーにごはんはあげた?」

「朝に」と妹はこちらを見た。

「そう。お昼はあげないの?」

「ダイエット」

「なかなか成功しないみたいね。先生、どうぞお座りください」と私は言った。先生はようやく腰を落ち着かせた。「猫も年をとると食事量が減るみたいで、昔は朝夜の二食だったんですけど、今では朝昼夜と三食あげてるんです。でも運動しないものだから、ああいう体型になって」

「はあ」と先生は釈然としない声をだした。

 私は妹に少し横に移動してもらい、座った。ソファーは二人掛け用だったので、太ももがふれあった。目の前にはテレビがあり、それは黒い鏡になっていた。先生も妹も視線をおとしていて、どことなく窮屈そうだった。

「先生」と私は言った。「マヨはここにいた方がいいですか? ここにいるとお話ししにくいなら向こうに行かせますけど」

「そうですね。二人きりの方がいいと思います」

「だって」と私は言った。妹は立ち上がり、ダイニングの方に歩いていった。「マヨ、こういうときには〈てめえらがどっか行けよ〉くらい言えるようにならないと。〈ここは私の部屋ですから、あなたたちが出ていくのが筋でしょう?〉とか。ねえ、私たちが出ていった方がいい?」

 妹は引き戸のそばに立ち、黙って私の方を見ていた。唇はかすかに震えていて、なにか言いたげだった。私は背もたれに体を深く沈め、先生の背中に向けてあっかんべえをした。妹は頬で小さく笑った。でもとっさに口で笑いをこらえたのか、顔がひきつっているようにも見えた。

「ごめんね、柏木さん」と先生はやわらかい声で言い、立ち上がった。「では、私たちがあちらに」

「先生、そういうのはよくないと思います。先生を信頼しているので率直に言いますけど、私はこの子に〈私たちが出ていった方がいいか、それともあなたが出ていくか?〉と聞いたんです。だからこの子がなにか言うまで待ってあげるべきではないでしょうか? この子は口数は少ないですけど、何もしゃべらないわけではないんです。でも、待つことなくこちらが助け舟をだしてあげてたら、何もしゃべらなくなるんですよ。子供の自主性を大切にするために待ってあげるべきではないでしょうか? 私はそう思いますけど」

 私はそう言い放つと、さっさとリビングを出ていき、ダイニングテーブルに缶ビールを置いた。先生もついてきて、向かい合わせに座った。二人とも目にも口にも愛嬌を浮かべることはなかった。妹は引き戸をそっと閉めた。

「マヨさんに問題が出てきまして」と先生ははっきりとした声で言った。「遅刻をしたり、時間が来ても教室にいなかったり、ですね。先週あたりからそういうことがありました」

「つまり授業をサボるようになったと?」

「はい」

「それは快挙ですよね。私もあの学校に行ってたんですけど、サボる生徒は一人もいませんでした。学校創設以来の快挙じゃないですか?」と私は妹に聞こえるように声をはって言った。「すみません、冗談です。つまらなかったですね。すみません。生きていくためにはユーモアのセンスが大切みたいで、でも私はユーモアのセンスがないから上手に生きていけないんです。いろいろと誤解されることが多いし、いざというときに見離されて。私の兄はですね、とってもユーモアにあふれた人で」

「お兄様がいらっしゃるんですか?」

「ええ。過去形ですけど」

「過去形?」

 私は何も答えなかった。

 沈黙が流れた。先生は伏し目がちになっていて、その姿は兄を追悼(ついとう)しているようにも見えた。私は缶ビールを見つめた。先々月は強盗で、先月はいじめ、今月はサボりか。私はいささか気楽すぎるのかもしれない。そう思うと、気分は少し上向き、両ひじをテーブルについた。そのとき小さな音がたち、先生は顔をあげた。

「それでですね、私の方からもマヨさんにはいろいろと言ってみたんですけれども、今日は報告と注意をかねて来ました」

「わざわざすみません。でも、サボるのはいけないんですか?」と私が言うと、先生は(まゆ)をひそめた。眉はすぐに戻ったけれど、表情はさきほどより曇っていた。「冗談ではありません。真面目に言ったんです。私はサボってもいいと思っていて」

「学校は勉強するという側面もありますけれど、それだけではなく、集団生活に慣れるという側面もあります。時間を守れない子供は、社会に出てから苦労することになります。ですから今のうちにしっかりと教えてあげないといけません」

「でも、個性を尊重するという考えもあるでしょう?」

「個性とわがままは別です。時間を守らないことは個性ではなくわがままです。あのようなことを許していると、子供の将来に悪影響をもたらしますし、最低限のルールは守らないといけません。そうしないと困るのは子供なんです」

「教室にいるのが嫌なら、別にそれでもいいと思いますけど。普通の会社で働くのが嫌なら、図書館で働けばいいんです。社会にはいろんな仕事がありますし」

「しかしどんな仕事でも時間は守らないと――」

「いえ、そういうことではなくて」と私はさえぎった。そして、のんびりとした声になるように心がけながら続けた。「なんというか、普通の会社で働くのが嫌だからサボるんです。でも、図書館で働くのはいいかなと思ってたら、サボることはありません。時間を守ることは学校で教わることではなく、自然に身につくことです。もしかして、不登校の人がみんな時間を守ることができないと思っているんですか? そんなことはないですよ。図書館で働くのが好きだったらサボることはないし、環境が整えばサボることはないんです。先生は知らないかもしれませんけど、あの子は家では洗濯と掃除を担当していて、問題なくこなしています。これまでにサボったことは一度もありませんし、雑にすることもありません」

「それならお母様は今のままでいいとおっしゃるんですか?」

「母ではなく姉です」と私は訂正した。先生の申し訳なさそうな表情が目につくと、無性に腹がたってきて、缶ビールを手にした。「私はサボりたいならサボればいいと思うし、でももし学校側がそれではいけないとお考えになるのであれば、保健室登校というのがあるでしょう? それをするのはどうですか? そうすれば、世の中にはいろんな居場所があることを知れるし、いろんなやり方があることも知れるし、個性を尊重するとはそういうことではないでしょうか? ルールを押しつけて奴隷のようにあつかうのではなく、選択肢をちゃんと提示してあげて社会の一員として認める、そういうことではないでしょうか? 私はそう思います」

 私は兄のことを思いだしていた。兄は個性を尊重することが大切だと考えていた。他人の個性を尊重しようとする心構えが大切だと考えていた。私は先生のことを嫌っているけれど、それは先生の個性を嫌っているというより、先生のマニュアルに対する熱意を嫌っているのだった。昼食にタコヤキを食べるのは正しくないし、弟が事件を起こしたのに引っ越ししないのも正しくないし、水商売も正しくない。妹が太っているのは食生活に問題があるからで、そのことを指摘されれば、黙るしかない。だから私は先生のことを嫌っていて、心のどこかで怖れていた。

 二人の会話はそれ以上は発展することなく、先生は〈検討してみます〉という結論をだして席を立った。もし私が先生の立場にいるなら、まずは妹の意見を聞くと思うけれど、先生は学校側の了承を先決すべきだと考えているようだった。私にはそのことを指摘するだけの意欲はなかった。先生には早く帰ってほしかった。

 玄関先で先生から〈もしよろしければ目をとおしてみてください〉と母子家庭に関する本をわたされた。先生は車に乗る前に会釈をして、走り去る前にも会釈をした。私も会釈を返した。心の中は申し訳ない気持ちでいっぱいで、もう少し丁寧に対応すべきだったと思った。でも家に入ると、そんなことは忘れて、解放感を覚えた。

「先生、帰ったよ」と私は引き戸をあけた。妹は猫をひざに乗せていた。「あの人のこと、どう思ってる? 嫌い? それとも大嫌い?」

「ふつう」

「私は嫌い。大嫌いじゃないけど、嫌い」と私は言い、缶ビールを冷蔵庫に戻した。「嫌いというか、いけすかない。常識的すぎるというか。今日だって電話ですむことなのに、わざわざうちまで来て、あれって結局〈私は問題に真摯(しんし)にとりくんでおります〉というアピールなのよ。ポーズだけで中身がない。ホント、もうあれね。でもね、マヨ、私は先生のことが嫌いだけど、たぶん先生も私のことが嫌いだから。それでいいじゃない? なんでうちまで来るのよ」

「ステファニーのごはん、お昼もあげるの?」と妹は猫のあごをなでながら言った。猫はのどをごろごろ鳴らしていた。

「あげないよ。朝と夜だけ。お昼はダイエット。とは言ってもね、たまにお昼もあげるんだけど。必要ないとわかってても、ついつい。なんというか、おばあさんになると余計なおせっかいをやきたがるのよ。老婆心ね」

「でも、お姉ちゃんはまだ二十七じゃん」

「まあそうなんだけど」

 私は先生からもらった本をめくっていった。親切にも赤線がいくつか引かれていて、勉強熱心な先生のことを気の毒に思った。赤線の部分は私にとっては誰かから教わるまでもない常識だったし、一つ一つ読んでいると、徒労感を覚えた。いろいろなことが無意味に思えてきて、両ひじをついて頭をかかえた。そうしていると、ふと、この本は先生が自腹で買ったものだと気づいた。先生はすばらしい人だった。本当にすばらしい人だった。でも私には先生のすばらしさを受けとることができそうになかった。

 夕食は自宅近くのファミリーレストランでとることにした。

 妹は自転車で行き、私はミニバイクで行った。駐車場で妹を待っていると、ダンサトシとモモカちゃんを見かけた。モモカちゃんは風香の妹で、二人が偶然に知り合ったとは考えにくかった。私はなにか嫌な予感がして、ふと手紙に〈尾行しました〉と書かれていたことを思いだした。もしかしたらあのことも知られているかもしれない。モモカちゃんはこちらに気づき、でも特に挨拶もなくレストランに入っていった。

 私は帰ろうと思った。妹が来たら帰ろうと思った。でも自転車に乗った妹の表情を認めると、とても帰る気にはなれなかった。

 店内には大勢の人がいて、私たちの席はダンサトシとモモカちゃんから遠く離れたところになった。私たちが食べ終えた頃には、店内に二人の姿はなかった。すると、声をかけなかったことに対する後悔の気持ちがわいてきた。それでも帰宅したときには気分は変わっていて、ダンサトシの携帯電話の番号を消去して、妙な安心感を覚えた。



8 完璧な詐欺


 風はほとんどなく、空気は澄んでいた。空は晴れわたっていて、十月にしては日差しは強く、日傘をさしている人もいた。

 風香の家を訪れたのは十年ぶりだったけれど、町並みは同じに見えた。建物の色も、道路を走る車も、歩道を歩く人も、十年前と何も変わっていないように思えた。それでも看板には〈内科・外科・小児科〉としか書かれてなく、〈歯科〉の文字はなかった。消された痕跡(こんせき)すらなかった。

 私はインターホンを押すため、裏にまわった。小さな門の前には、三毛猫が気持ちよさそうに寝ころんでいて、安息のじゃまをするのは気がひけて、立ちすくんだ。猫は首輪はつけてなく、若干ふっくらしていた。私の好みとしては、黒猫は痩せている方がよく、三毛猫は太っている方がよい。また、黒猫は首輪がない方がよく、三毛猫は首輪がある方がよい。まずまず私の好みの猫だった。

 裏道ということもあり、人の気配はなかった。遠くから車の音が聞こえているものの、比較的ひっそりしていた。やがて猫は顔をあげ、脇目もふれず向こうに行った。その様は颯爽(さっそう)としていて、太っている割には身のこなしはよかった。

 私はインターホンを押した。しばらくすると、玄関から風香の母親が現れた。彼女は昔と変わらず、細面(ほそおもて)凛々(りり)しい瞳があり、歯医者という職業が似合っていて、でも服装は私服だった。

「こんにちは。突然すみません。柏木千里です、風香さんの友達の」

「ずいぶんひさしぶりですね」

「あっ、わかります、私のこと?」と私は言った。彼女は唇を重ね合わせて二度うなずいた。「えっと、今日はモモカちゃんに用があって来たんですけど。あっ、でも別にたいした用事ではなくて。モモカちゃんはおうちにいますか?」

「いえ。モモカなら大学の方に。立ち話をするのもあれなので」

「どうも。でも大丈夫です。私もこのあとちょっと用があるので。モモカちゃんはいつごろお帰りになるでしょうか?」

「夕方になると思いますが。もしよろしければ電話番号を」

「はい、そうしていただけると助かります」

 彼女はかろやかに頭を下げ、玄関を閉めることなく奥に行った。その動作には社交的な礼儀よりも、家庭的な親しみが表れていた。

 彼女はすぐに戻ってきた。私はメモを受けとり、お礼を言い、その場を去った。そして歩きながらさきほどの三毛猫を探した。でも、どこにもいなかった。門や生垣(いけがき)の隙間から他人の敷地ものぞいてみたけれど、見当たらなくて、いささか残念に思った。

 私はモモカちゃんに電話をして、大学で会う約束をとりつけた。大学まではミニバイクで行き、ふたたび電話をして、食堂で会うことになった。

 昼下がりのためか、食堂には人はほとんどおらず、そのため広々としていた。テーブルやイスはやわらかい形で、全体的にポップな雰囲気だった。モモカちゃんは風香より三つ下だったなので、二十四歳になる。大学院か、留年か、それとも職員か。私はそういうことを考えながら待った。

 入口からモモカちゃんが現れた。目が合うと、モモカちゃんは会釈した。それは母親とは違い、ぎこちないもので、悪く言えば親しみに欠けるものだった。それでも私はモモカちゃんにおとなしい印象を持っていたので、特に気にすることはなかった。

 二人は向かい合って座り、風香の話をした。モモカちゃんは想像以上にしゃべった。私は前回とはまるで違う印象を持ち、十年という歳月をあらためて感じた。でもそれは歳月のためではなく、立場のためかもしれない。〈中学生と高校生という距離〉が〈二十四歳と二十七歳という距離〉に変わったためかもしれない。そうだとすると、目の前にいるモモカちゃんは十年前のモモカちゃんよりリラックスしているはずだけれど、私は十年前のモモカちゃんの方を好んだ。こちらのモモカちゃんは私が最も苦手としているタイプの一つだったから。

「姉は気づかいのできる人で、いつも周囲に気を配っていて、本当にいい人でした。今でも自殺したなんて信じられなくて」

「十年もたって今更(いまさら)こんなこと言うのは無責任のようにも思えるけど」と私は軽い調子で言った。「私は、なんというか、たぶんきっかけを知ってると思う。自殺の理由はわからないけど、きっかけなら心当たりがあって」

「きっかけ?」

「そう、きっかけ。たいしたことじゃないんだけど、私には兄がいてね、その人は自殺したんだけど、それが風香の自殺の数日前で。だからたぶん兄の自殺が引き金になったんだと思う。でも風香と兄が会ったのは二回くらいだし、だから後追い自殺とか、そういうんじゃないよ。ただ、テレビで自殺報道がされると翌日の自殺者が増える、ということもあるし、まあそれで風香も兄の自殺をきっかけに」

「それってもしかして――」とモモカちゃんは弱々しい声をだした。そのあとの言葉は続かなかった。

「さっきモモカちゃんのお母さんに会ったんだけど、歯医者はやめたんだね」と私は話題を変えた。

「そうなんですよ」とモモカちゃんは勢いよく言った。「姉が亡くなってから、母はおかしくなって、もうどうしたらいいのかわからなくて。うちの教育方針って褒めることだったようで、姉も私も怒られたことはなくて、いつも褒められてばかりいました。だから母が悪いなんてありえないんです。でも母は自分のせいだと思ってるようで。歯医者って患者さんが固定されてて、虫歯の治療だけじゃなくて、定期的なメンテナンスもするし、だから突然やめたら困るんです。母はそれをわかってても歯医者を続けることができなくて、それで毎日お墓に参るようになって、毎日ですよ、毎日。もう十年もそんなことをしてて、本当にかわいそうで。母が悪いわけじゃないのに」

「別にいいじゃない?」

「えっ?」

「本人がそうしたいなら、それでいいと思うけど」

「でもかわいそうで」

「モモカちゃんはそのことをお母さんには言ったの?」と私はモモカちゃんの目を見ておだやかに言った。「お母さんに〈誰かが悪いわけじゃないんだから、もう毎日お墓参りなんてしなくてもいいよ。年に数回でいいよ〉とか〈私はそういうのは好きじゃない〉とか、そういうことは言ったの?」

「そんなこと言えるわけないじゃないですか?」とモモカちゃんはうつむいた。

「これはあくまでも私の個人的な意見だけど、いろんな生き方があっていいと思うのね。毎日お祈りをする人だっているでしょ? それに、死ぬまでブタを食べない人だっているし、昆虫を食べる人だっている。そういう人たちが間違ってるわけじゃないよ。そういう価値観を持ってるだけなんだから。だからそういう価値観も認めてあげないと。お母さんの価値観が風香の自殺によって変わったとしても、それはそうなったんだから、ちゃんと認めてあげればいいんだと思う」

「でも、でもそんなに――」

「私とモモカちゃんは性格が違うし、同じ考え方はできないかもしれないけど、私ならそういう生き方を選んだお母さんを応援してあげるよ。応援というか、尊重というか。毎日お墓参りすることが間違ってるわけじゃないし、死んだ人に懺悔(ざんげ)するために生きたっていいと思う。その人がそういう生き方を選んだなら、そばでそっと見守ってあげればいいじゃない? そういう生き方は別にかわいそうじゃないよ」

「あの」とモモカちゃんは顔をあげた。「姉は千里さんのことがとても好きでした。いつも千里さんの話をしてて。なんだかそれがわかった気がします」

「ねえ、申し訳ないけど」と私はゆったりと言った。「私はあの頃はこんな人間じゃなかった。十年前はこんな考え方はできなかった。だから、その〈わかった気がする〉というのは、きっと勘違いだと思う」

 モモカちゃんは小さく笑った。そこには憂いはなく、どことなく幼さがあった。

 食堂は閑散としていた。左側の壁は一面ガラス張りで、空にはいつのまにか薄い雲が広がっていた。日差しはやわらかく、影は淡くなっていた。外には小鳥のさえずりがあり、春のような陽気だった。あちらの席では男女がおしゃべりをしていた。私は自分が大学生だったときのことを思い返して、切なさを覚えた。なつかしさより切なさを。そのためか、秋のような空気感が少しずつ戻ってきた。小鳥の声もよく聴いてみると、かろやかなものではなく、単調でするどいものだった。

「おととい、ダンサトシと一緒にいたでしょ?」と私はおだやかに言った。「今日はそれで来たんだけど」

「えっ?」

「土曜日の夜、ファミレスで見かけたときね。駐車場で見かけなかった?」

「ああ、えっと、あの人はナカイシンジという名前で」

「あっ、そっか。見間違いだったのかな。遠くからだったらから、ちょっと見間違えたのかも」と私はとっさにつくろい、少し考えた。「そうね、モモカちゃんは私の弟のことは知ってる?」

「いえ、何も」

「まあ、そうよね。知るわけないよね」と私は言い、テーブルに両ひじをついた。しばらくして姿勢を戻した。「ちょっと変なこと言うけど、なんというか、私の弟は高校一年生くらいから詐欺を始めて。その話、聞きたい?」

「はい」

「詳しいことはわからないんだけど」と私は話していった。

 弟が詐欺を始めたのは、私が知るかぎりでは、十五歳だった。その頃には家には父と私と弟しかおらず、父は家に帰ることがめっぽう減っていたので、弟と二人暮らしをしているようなものだった。そんな中、弟はよく恋人をつれてきて、三人で夕食をとることもあった。そのとき、彼らはまだ幼かったためか、詐欺について()()けと話した。弟の恋人はスミレという名前で、弟より二つ上、私より三つ下。

 詐欺というものは組織が大きくなるほど、それぞれの取り分が少なくなり、情報が外に漏れるリスクが高くなる。若いながら彼らはそういう考えを持っていて、詐欺グループは弟とスミレとダンサトシの三人だけだった。

 彼らの詐欺には一定の道徳観が考慮されていた。それは簡単に言えば、警察沙汰にならない範囲内で行う、ということで、それが満たされているかぎりは、彼らの価値基準からすれば悪にはならないようだった。

 美人局(つつもたせ)を行うときには、事前に被害者のことを調べておいて、被害者とスミレが並んでホテルに入る写真をとる。そして〈お金をはらうか、写真を自宅に送りつけられるか、どちらかを選べ〉とゆする。でもそれは〈もしお金をはらわないなら、写真を妻や子供に送りつけてやる〉と脅迫するのではなく、〈お金をはらうか、写真を妻や子供に送られるか、どちらか選んでください〉と提案するのであり、彼らが言うには、決して道徳に反している行為ではない。

 スミレはこう言っていた。

「不倫現場の写真を自宅に送りつけても犯罪にはなりませんけど、その写真でゆすれば犯罪になるんですね。でも相手に〈お金をはらうか、写真を送られるか〉選ぶ権利を与えるわけですから被害者はいません。結局、奥さんにありのままを話せば、ほぼほぼ解決するんですよ。お金をはらわなくてもいいし、写真を送られても問題ない」

 彼らは完璧な詐欺についても話した。完璧な詐欺とは被害者がだまされたことに気づかないもので、たとえば占いがそうだった。占い師に見てもらう人たちは〈占いは必ず当たるとはかぎらない。外れることもある〉という認識を持っているので、たとえ占いが外れたとしても、〈金を返せ〉と言いよることはなく、だまされたと思うことすらない。ただ彼らがしていたことは、占いではなく、老人からお金をもらうことだった。

 一人暮らしの老人の家に話し相手のボランティアに行き、相手から信用されたら、借金に困っているという話で同情をさそう。そして、老人からお金をもらう。簡単に言えばそれが彼らの手口で、老人の家に行く役はダンサトシだった。

 私はその話を聞いていたために、ダンサトシの愛想のよさに敏感になったのかもしれない。私にはそういう詐欺を成功させる自信はないし、それだけの能力を持っているダンサトシに警戒したのかもしれない。それから、モモカちゃんと一緒にいたダンサトシに軽い恐怖心を覚えたのも、そのためかもしれない。あるいは、考えすぎか? ダンサトシは強盗の犯人に心当たりがあり、それを教えてくれようとしているのか? それならどうしてモモカちゃんに近づいたのか? あの手紙の返事をだしていれば、こんなことにはならなかったのか? そういうことを考えると、〈最初の電話のときに、ちゃんと話しておけばよかった〉と後悔してしまう。それでも心のどこかでは、どうしてだかわからないけれど、ダンサトシが親切な人ではないことを望んでいた。

「まあそういうわけ」と私は言った。左の(わき)から汗が一つ流れた。その感触が不快だったので、右手で脇腹(わきばら)をなぞった。「どこまでが本当かはわからないけど、弟はすごく変わってて、その友達のダンサトシも危なっかしい感じがあって、たとえ表面的には愛想よく見えても、中身はえげつないんだから」

「ナカイくんが偽名を使ってるってことですか?」

「どうかな? ナカイくんと出会ったのはいつ?」

「先週の木曜です」

「それならたぶん偽名だと思う。私はあのファミレスによく行くのよ。しかも行くのは決まって土曜日の夜」

「やはりそうでしたか」とモモカちゃんはきっぱりと言った。でも顔色は心もち悪くなっていた。「なんだかあやしいとは思っていたんです。私が歩いていると、ナカイくんはちょうどファイルを落として、近くに誰もいなかったから無視するわけにはいかないし、だから拾ってあげて。土曜もたまたま会って。あやしいとは思っていたんです。それで、どうするんですか?」

「ダンサトシのこと? それともナカイくんのこと?」

「えっ?」

「私のこと? それともモモカちゃんがどうすればいいってこと?」

「えっと、千里さんのことです」

「私は別に何もしないよ。それに、モモカちゃんも普通にしていればいいよ。ナカイくんから真相を聞いて私に伝えるとか、そういうことはしなくていいし、いや、むしろそういうことはしない方がいい。私はただ興味があって、こうして会ってみただけだから」

 二人の話題はなくなった。

 あちらにいる男女は、まだ楽しそうにおしゃべりを続けていた。小声で話しているので、会話の内容はわからなかった。私は立ち上がり、それを合図にモモカちゃんも立ち上がった。二人は出口に向かった。

 私は床に小さなゴミを見つけ、ふんづけた。その瞬間、嫌な予感がした。ただ、となりにモモカちゃんがいたので、平静をよそおった。

 別れぎわに〈私って気楽そうに見える?〉と聞いた。モモカちゃんは〈えっ?〉という表情をして、〈気楽というより冷静沈着という感じですね〉と否定した。私が〈モモカちゃんは女っぽくなったね〉と言うと、モモカちゃんは〈いえ、そんなことないです〉と謙遜した。でも私は内心〈老婆心と被害者意識を大切にする、古風な女性っぽくなったね〉と思っていた。それでもそれは好意的な感想だった。

 モモカちゃんは向こうに歩いていった。その後ろ姿を見ていると、急に悲しくなってきた。その悲しみがどこから来たのかわかったときには、モモカちゃんの姿は見えなくなっていた。風香はこの十年を生きることができなかった。十年前に死んで、だから私たちが生きたこの十年を生きることができなかった。風香が死んだときには少ししか悲しくならなかったけれど、この十年を生きることができなかった風香のことを思うと、胸がしめつけられた。涙が出れば楽になるはずなのに、瞳は乾いたままだった。

 私はベンチに座り、スニーカーの裏を見た。やはりそうだった。さきほどふんだゴミは、誰かが吐き捨てたガムだった。私は食堂でつまようじをもらい、トイレでスニーカーの裏を掃除した。

 スニーカーの裏が綺麗になると、ミニバイクで職場に向かった。



9 お城のトイレ


 控室に戻ると、さきほどの話を考えた。

 アメリカのどこかで、街角に無料でひけるピアノがあり、ホームレスが投げ銭を期待してピアノをひいていた。ある日、一般人がそれを撮影して、動画サイトにアップロードした。すると、またたくまに数百万回も再生された。汚らしい格好のホームレスのピアノ演奏は、多くの共感をえた。お客様はそういう話をしたあと、〈有名なピアニストの演奏より街角のホームレスの演奏の方が感動するものだし、美しい顔立ちより魅力的な顔つきの方が興奮するものだ〉と言い、表情の大切さを熱心に()いた。

 そのことについて考えていると、ダンサトシの手紙を思いだした。たしか〈印象より中身の方が大切〉と書かれていた。でもそれは違う気がする。女は化粧をするし、女は中身より印象を大切にしている。印象が良ければ、中身も良く見えるし、印象が悪ければ、中身も悪く見える。

 指名が来た。私は立ち上がり、歩いていった。生地(きじ)がやわらかいためか、ドレスの(すそ)が太ももをこする感触は心地よかった。露出度の高い格好だったけれど、店内は暖かく、上品な気分でいられた。

 指名してくれたのは坂野さんだった。坂野さんはまるいメガネに口髭と、いつものように懐古趣味を思わせる風貌(ふうぼう)だった。私たちはエレベーターに乗った。部屋に着くと、隣り合って座った。

「おひさしぶりね」と私はあらためて挨拶した。

「人は残酷なもので」と坂野さんは私の挨拶を無視した。「たとえば、鳥に油をかけて火をつけると、どうなると思いますか? 飛ぶと思いますか? もしそうなら、どれくらい飛び続けると思いますか? もしそういう映像があったら見たいとは思いませんか? 人は残酷なもので、ついつい見たくなってしまうのです」

「うーん、私は見たいとは思わないかな」

「それは嘘ではありませんか? 人はよく嘘をつきます。見たいのに〈見たくない〉と言い、したいのに〈したくない〉と言う、そういうことが日常茶飯事なのです。本音より建前を優先させるのです。理性がそうさせるのです。十歳の子供でも百歳の老人でも嘘をつきます。本当は見たいのではありませんか? リサさんの中には見たいという衝動は少しもありませんか?」

「まあ、少しは興味あるかもしれないけど、どっちでもいいって感じかな」

「リサさんは最近どんな嘘をつきましたか?」

「そうね。ここ三日くらいは嘘はついてないかな。それより前のことは忘れた。記憶力は悪いから」と私は冗談を言った。

「それは嘘ではありませんか?」と坂野さんは真面目に言い、いつものような霊能力者を思わせる温和な調子で続けた。「しかし、嘘をつくことは悪いことではありません。嘘をつくこと、偽善を行うこと、上辺の社交を優先すること、そういうことにより調和は保たれるのです。嘘をつく方が人間関係は順調に行きます。社会のシステムがそうなっているので、みんな嘘をつくのです。嘘をつかない人は生意気だと思われます」

「ああ、それよくわかる。たしかに正直になんでもかんでも言えばいいってわけじゃないし、やっぱり気をきかせることは大切よね」

「そうです。正直は正しいとされていますが、それは間違いです。正直者は不調和をもたらすので、はなはだ迷惑です。いつの時代でもアイドルが流行りますが、正直でいるアイドルなどいません。ファンのためという理由を用いて、自分の地位のために体裁をつくろっています。これはアイドルだけではありません。サラリーマンもそうです。正直でいると生意気だと思われるのです。だからみんな嘘により調和を保とうとするのです。政治家はその最たるものです。最も嘘をつく職業、それは政治家です」

「というか、ホステスだと思う、最も嘘をつく職業は」

「リサさんもお客さんに嘘ばかりついていますよね?」

「私は人ができてるせいか、嘘はつかない」と私は冗談を言った。坂野さんは笑うことはなかった。「ホントにつかないんだけど」

「たとえば、客の口臭がきつい場合には指摘しますか?」

「これをそっとわたすかな、〈マナーは大切よね〉って」と私はハンドバッグからガムをとりだした。坂野さんは表情を変えることはなかった。ためしにデンタルフロスもとりだしてみたけれど、やはり無表情のままだった。

「リサさんは要領がいいのでしょう。たまにそういう人もいます。嘘をつかなくても順応できる人もいます。しかし、僕はそうではありません。嘘をついてばかりです。リサさんに話すべきことも黙っています」

「何、話すことって?」と私はゆったりと言った。

「言ってしまうと、もうここには来ることができませんので」

「じゃあ言っちゃえば? こんなところでお金を使うより、よっぽど有意義な使い方があるはずだし、ちょうどいいじゃない?」

「僕はここに来ることが好きなのです」

「そう」と私は明るく言った。「人を殺すってお話が嘘なのかな? ホントはそんな気なんてさらさらないんじゃない?」

「いえ、そういうわけでは――」と坂野さんはこのときはじめて私の方に目を向けた。でもすぐに視線を正面に戻した。

 沈黙が流れた。部屋にはかすかに清潔な匂いがあり、私は手を鼻もとに持っていき、そっと匂いをかいだ。でもそこには何もなかった。

 ハンドバッグから手鏡をとりだし、自分の顔を映した。肌は綺麗だったけれど、髪の毛は心もち傷んでいるようにも見えた。手鏡を少し横に傾け、となりの坂野さんの顔を映した。鏡越しに目が合ったら微笑もうと思ったけれど、坂野さんはうつむいたままで、こちらを向くことはなかった。

「無差別殺人しようと考えていたことは本当です」と坂野さんは言った。「しかし、最近は無差別殺人には興味がなくなってきました。リサさんはどうしてテロが起こるかご存知ですか?」

「うーん、そうね」と私は手鏡をハンドバッグに戻した。「トイレのお水がつまってカッとなって殺すんじゃない?」

「メタファーですか?」

「メタファー?」と私は言い、笑った。「メタファーというより、なんというか、ユーモアね、ユーモア。つまらなかったね」

「大震災のときにこんなことが起こりました。外国人研修生が海沿いにいたのですが、ある日本人が彼らを助けに行きました。研修生はみんな助かりましたが、その日本人は津波に巻きこまれ、亡くなりました。そのことは大きく報道されました。かりに、その日本人が亡くなっていなければ、新聞に小さく載っただけでしょう。しかし亡くなったので、大きく報道され、そして称賛されました。結局〈自分の命と引き換えに、見ず知らずの他人を助ける〉という行為は過度に称賛されるものなのです。テロも同じです。〈自分の命と引き換えに、見ず知らずの他人を殺す〉という行為を過度に称賛する人たちがいるので、自爆テロが起きるのです。十人も死なないようなテロもざらにあります。それでも過度に称賛されるのです」

「まあ、そうね」と私は言った。ただ、その二つが同じには思えなかった。

「テロにおいて被害の大きさは重要ではありません。重要なのは、大衆の心をゆさぶることです。そう考えると、テロをするにしても、無差別殺人より効果的なものはあります。ナショナリズムによる報復なら、無差別殺人で十分ですが、革命を起こすためにしているなら、ほかに効果的なやり方はあります。なにか思いつきますか?」

「そうね」と私は考えるフリをした。まだ頭の中にはトイレの水のことがあった。

「電力供給源を占拠すればいいのです。海外では軍が警備していて難しいようですが、日本ではさほど難しくありません。占拠が起こっても、強行に突入するまでかなり時間がかかるでしょう。人質(ひとじち)がいる場合には、人命救助を最優先にされるでしょう。この国は、良い意味でも悪い意味でも、平和なのです」

「そういえば昔、コンビニでアルバイトしてたんだけど」と私は嘘をついた。「深夜にね。で、強盗が来るかもしれないと思って、催眠スプレーを用意してたんだけど、ぜんぜん来なかった。すごく平和よね、この国は」

「それは日本にかぎったことではありません。自分が強盗にあうことは、たいていの国でまずありません。日本では毎年たくさんの人が自殺していますが、リサさんの身近に自殺者はいないでしょう? それと同じです。心理的なことです」

「ああ、そっか。たしかに自殺した人はいない、私の周りには」

「テロもそうです。自分がテロにあうことはまずありません。おそらくイラクやアフガニスタンでさえもそうでしょう。それでも大衆は危機感を持つのです」

「まあ、たしかに、テロより交通事故の方が多い気がする、統計的には。でも交通事故の危機感は誰も持たないね」

「とにかく、テロは社会的なものです。個人的なものではなく、社会的なものです。鬱憤を晴らすために行われるのではなく、名誉のために行われるものです。しかし僕の場合は鬱憤を晴らすために何かをしようと思っているのです。誰でもよかったという理由で無差別殺人をする人がいますが、僕も彼らと変わりありません。思想などないのです。大衆を騒がせること、自分の不満に形を与えること、そういうことが目的なのです。それで満足するのです。誰かからの称賛など求めていないのです。しかし、僕は無差別殺人はしません。最近、おもしろい方法を思いつきました」

「何、おもしろい方法って?」

「寺や城を燃やすことです。今の時代では、人を殺すより寺を燃やす方が派手なのです。無名の人を殺すより、有名な建造物を破壊する方が、大衆の心に残るのです。だから最近は放火ばかり考えています」

「いつ計画を実行するつもり?」と私は言った。まだ頭の中にはトイレの水のことがあり、お城の最上階にはトイレがあるのかどうか疑問に思った。

「リサさんは小説は読みますか?」

「少しなら」

「最近のものですか?」

「まあ、最近のも読むし、昔のも読む」

「どんなものを読みますか?」

「会話文が多くて、そうね、日常的なことが書かれてるもの」と私は言い、作家の名前をいくつか口にした。「殺人事件とかファンタジーとか、そういうのは読まない。それに不倫のお話もダメ。テレビドラマだと不倫のお話でもおもしろく見れるんだけど、小説だとなんだかしらけてしまう。坂野さんはどういうのを読むの?」

「昔の小説しか読みません」

「テレビドラマは見る?」

「見ません」

「そういう感じするよ。じゃあ映画も見ない?」

「最近は」

「インターネットは?」

「少しはしますが、最近は遠ざかっています」と坂野さんは言った。そして少し間をおいたあと、イギリスの古典小説の題名を口にした。「その小説の中にこんなことが書かれています、〈昔から人は上層と中間層と下層の三種類に分けられている。上層は現状維持を目的に生きている。中間層は上層の地位をえることを目的に生きている。下層はただ労働と愚痴のために生きているだけで、目的を持つことはないが、しいて言うなら、階級のない平等な社会を願っている〉と。僕はそれを姿勢としてとらえるべきだと考えています。つまり〈上の者は不満がなく、現状に満足している。中間の者は不満があっても改善しようと努力している。下の者は不満を口にするだけで、改善しようとはしない〉ということです。リサさんはどれですか?」

「そうね、どれかな? 上の気もするけど、下の気もする。でも中間ではないかな」

「僕は下層です。不満だけは一人前にあるにもかかわらず、行動は半人前か、それ以下です。あきらめているのです。リサさんは僕には行動を起こすだけの勇気はないと思っているでしょうが、じつは僕もそう思っているのです」

「じゃあ、やっぱり人は殺さないし、お城も燃やさない?」

「現実は何が起こるかわかりません。僕はタイミングを待っています。いくつかの寺に関しては下見をすませていますし、タイミングが合えばいつでも実行できます。重要なのはタイミングです。問題があるために事件を起こすのではありません。タイミングが合ったために事件が起こるのです」

 坂野さんはそれだけ言うと、黙って正面を見つめた。私は何も思うことはなかった。ほかのお客様には軽蔑心をいだいていたけれど、坂野さんには特に感情をいだくことはなかった。それだけ坂野さんは現実感に欠けていた。

 別れぎわに、私は坂野さんに鬱憤の晴らし方を教えてあげた。それは、ガムを人通りの多い道に捨てる、ということだった。そうすれば、無差別に人に危害をくわえることができる。ただ、完全に無差別というわけではない。自分からガムをふむバカな女もいるのだから。それにしても、靴の裏を掃除するほど不毛なことはない。

 仕事を終えると、私はミニバイクで例の道を通って帰った。でも、やはり露出狂に会うことはなかった。思えば、彼に会ったのは一年近く前のことで、私は一年近く彼に会うことを期待して、同じ道で帰っているのだった。それでも、もし会おうと思えば、すぐにでもできた。彼の運転免許証は私が持っているのだから。



10 露出狂のこと


 露出狂に出会ったのは、昨年の秋だった。

 いつもは職場へはミニバイクで行っているのだけれど、その日はミニバイクが故障中だったので、電車で行った。仕事を終えると、何を思ったか、歩いて帰ることにした。でも歩き慣れていないために、三十分もすると後悔していた。

 そこは住宅街だった。明かりがついている家はなく、外灯の下だけがぽつりぽつりと明るく浮かんでいた。遠くから車の音が聞こえていて、私はそちらに歩いていった。

 空ばかり見ていたためか、男の存在に気づいたときには、顔がはっきりとわかる距離まで近づいていた。彼は黒色のロングコートを着ていて、外灯の下に立っていた。私と目が合うと、コートの前を開いた。そこには何もなかった。靴下と革靴とコートだけだった。そして、彼のそれは驚くほど長かった。

 私は立ち止まった。ふと前髪をさわってみたけれど、そこにはヘアピンはなく、少し不安になった。彼は手でそれに刺激を与えていた。その姿は厳格とさえ形容できそうなほど堂々としたものだった。

 私は立ち去ろうとした。でも、頭にステキな想像がひらめいた。それは私の中では完璧で、すべてがうまくいくように思えた。

「あの、私がしてあげましょうか?」と私は言った。彼の手はとまった。「そういうのは趣味ではないなら別にいいですけど、もしそういうことにも興味があるなら、手でしてあげますよ。せっかくこうして出会ったわけですし」

「どういうことですか?」

「いえ、興味ではないならいいんです」

「いや、してください」

「私の体にはさわらないでくださいね。少しでもさわったら叫びますよ。それだけはよく覚えておいてください」

 私はカバンからウエットティッシュをとりだした。そして地面にひざまずき、ウエットティッシュで彼のそれをつつみ、ゆっくりと動かしていった。彼は私の動作をじっと見ていた。私が微笑みを向けても、真面目な顔のままだった。

「ちょっとコートをぬいでくれませんか?」と私はやさしく言った。「その方が興奮すると思うので」

 彼はとまどっていたけれど、私が手をとめると、指示に従った。彼が身につけているものは、靴下と革靴だけになった。帽子はかぶっていないし、メガネもかけていないし、もちろん服も下着もつけていない。

 私はコートを奪いとると、全力で走った。体は軽く、意外と速く走れた。ある程度まで進むと、振り向いた。でも残念なことに、追いかけてきてはいなかった。裸の男に追いかけられることを想像していたのだけれど、彼はたたずんだままだった。

 二人のあいだには家三軒分の距離があった。私はコートを地面に置き、彼とは反対の方にゆっくりと歩いていった。そして振り向いた。彼はこちらに進んでいたけれど、〈だるまさんが転んだ〉のように立ち止まった。そのまま二人とも動かなかった。気分はまるで西部劇で撃ち合いをするガンマンだった。呼吸を整え、全力で道をひきかえしてコートを手にとった。

 私は閑静な住宅街をかけぬけた。

 首をひねり、後ろを確かめた。彼は追いかけてきていた。私は前だけ見て全力疾走した。思いっきり走ったのは何年ぶりだろう? 子供の頃には何度も全力で走ったのに、大人になると全力で走ることはなくなった。彼のおかげで子供に戻ることができた。ただ、彼の足は想像以上に速かった。あるいは私の足が遅かったのか、彼にコートをつかまれ、私はバランスを崩し、でも転ぶことはなかった。二人はコートを奪い合った。力は相手の方がだんぜん強く、私は必死でコートにしがみつき、そして迷うことなく股間を蹴りあげた。運よく一発で命中した。

 彼は立ったまま股間をおさえ、体を前に折り曲げた。私はそっと後ずさりをしていった。もう鬼ごっこは無理そうだった。外灯の下まで来ると、コートのポケットの中を確かめた。右のポケットには高級そうなサイフがあった。中身はたいしたことなかった。左のポケットには車のカギがあった。車は近くにはなかった。

 私はコートを真上に投げた。コートは重力に従って落ちてきた。もう一度投げた。外灯にあたったけれど、ひっかかることなく、落ちてきた。それから何度も投げて、ようやく外灯にひっかかった。右手をあげて届かないことを確かめ、少し離れた暗闇から観察することにした。

 彼はコートの下まで歩いていき、光の方を見上げた。それから何もしなかった。ただ見上げているだけだった。その姿を見ていると、不憫(ふびん)に思えてきて、謝りたくなった。彼はこちらをちらりと見て、またコートを見て、ジャンプした。届かなかった。今度は両手で勢いをつけてジャンプした。届かなかった。小さな明かりの中で、裸の男は必死にジャンプをくりかえした。いつのまにか、謝りたいという気持ちはなくなっていた。

 ふと〈あの男は犯罪に走るのではないか?〉と思い浮かんだ。もし彼の家がこの近くにないなら、服が必要になる。そうなると、最も無難な入手法は、外灯のコートをとることだけれど、それが無理なら、ほかの方法を考えないといけない。家に侵入するとか、私の服をもぎとるとか。それでも、車のカギがあったことを思いだし、安心した。車の中には服があるはずだから。

 彼はジャンプはやめていて、上を見ていた。興奮はすでに静まっていた。

「あの!」と私は言った。声は想像以上に響き、胸が騒いだ。「助けてあげましょうか? 車のカギ、これがあれば解決しますよね?」

 彼はこちらを見た。でもすぐにコートに視線を戻した。よじのぼればいいと思ったけれど、彼は何もしなかった。私は小石を投げた。彼はこちらをちらりと見ただけだった。もう一つ投げた。何も起こらなかった。どこかの家の明かりがつけばいいと思ったけれど、どこもかしこも静まり返っていた。

 結局、帰ることにした。だからそのあとのことは知らない。ただ、サイフに運転免許証が入っていて、そこに書かれていた住所は遠くのマンションだったので、家まで帰るのはずいぶん苦労したと思う。サイフと車のカギは私が持ち帰ったのだから。

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