黄砂・幻影の周王朝~舞姫の夢
(一)
明の将軍呉三桂・字を長白という。本籍は江南の高郵だが、後に遼東に移っている。父の代からの軍人の家系である。今、その呉三桂は夢うつつの中にあった。現実世界で己がいかな状況にあったか、呉三桂自身にもはっきりしたことはわからない。わかっていることといえば、己が今いる世界が、驚くほど甘美であるということだけだった。
中国では古来より、幾多の王朝が興亡を繰り返してきた。明王朝は西暦でいうと一三六八年、日本でいえばちょうど室町草創期に、一介の民草にすぎなかった朱元璋という人物により建国され、以後二百年以上にわたって中国を支配してきた。だが過去に栄えた多くの王朝がそうであったように、長期間の支配の間に、磐石であったはずの支配体制に揺らぎが生じてくる。重税や飢饉の影響により、民は飢え苦しみ、万里の長城の北では異民族の侵攻、さらに明朝の場合、豊臣秀吉による朝鮮出兵・唐入りにより、衰退が早まることとなった。
「そうだ、俺こそは衰退していく明王朝の柱ともいえる存在だったはず。二十九歳で提督として遼西の寧遠州城に赴任し、後に天下第一関とまでいわれる万里の長城の東の果て山海関で、北方の大敵である満州族の防ぎにあたっていたはず」
呉三桂は、己の姿を過去のいずこかへ追い求めた。広漠たる遼西の地で、狩猟の獲物を追う自らの姿。
太い眉、少し窪んだ眼窩、削いだように高い鼻梁、しっかりとしき閉まった口元、整った顔立ちに長身で厚みのある体躯、美丈夫といっていいだろう。そして鎧・甲冑を着るとよく似合った。
「武人として、俺の将来は約束されていたはず。それがどこで道を違えたというのだ」
三桂は一本の絹の糸でも引きよせるようにして、記憶をたどろうとしていた。山野をかける自らの視界が、一頭のアゲハ蝶を捕らえた。淡い薄紫をしている。奇妙に生めかしい。何者かに魅かれるかのように三桂はアゲハ蝶の後を追った。
「俺は何者かを追い求めていた。そうだ俺は蘇州で一人の女と出会ったのだ」
三桂がふと立ち止まると、先程までの広漠たる風景とは、まったく別の世界が広がっていた。そこは都市だった。運河が縦横に走り、さして広くない空間に居酒屋、料理屋、劇場などが所狭しと並び、さらには旅芸人、手品師、猛獣使いなどが、自らの得意とするところを披露していた。
かすかに小雨が降っており庭園も多い。蓮の花の香りが印象的である。不意に三桂は二胡を演奏する音を聞いた。運河には大小無数の船が浮かんでおり、三桂は見失ったはずのアゲハを、一艘の画舫(屋形船)の前で発見した。奇妙なことに突如として、他に百匹はあろうかという無数の蝶が集い、水面にその影をあざやかに写し出していく。そして驚くべきことがおこった。無数の蝶の影が、人の形へと変貌をとげたのである。
三桂がそこに見たものは、鮮やかな薄紫の絹をまとった歳二十ほどの夫人だった。その両の瞳に宿るもの悲しさは、到底言葉では表現できない。雨が雫となって頬を濡らすと、水の精霊が涙しているかのようにも思える。表情は異様なほど蒼白であるが、その蒼白の中にも芯の強さ、蒼白の炎のようなものさえ感じさせる。
夫人は手招きし始めた。夢幻の世界あれいは幽玄の世界とでもいうべきものが、自らを誘っているかのような錯覚を三桂は覚えた。肉体が拒んでも自らの魂が、夫人の誘いを拒むことができない。それほど彼女の存在は淡くはかない。二胡の音がもの悲しく響く中、三桂は下半身を水につかりながらも画舫に近づこうとした。だがその姿は次第に遠のいていく。ようやく三桂があきらめかけた時、またしても奇跡はおきた。水面が異常に透き通り、そして迫ってくる。巨大な水柱が三桂をとり囲み、ついには鏡の世界を三桂の前に現出させたのである。
三桂はしばし鏡の世界をさまよった。やがて先ほどの夫人を発見する。三面鏡を前に椅子に座り、髪を一本ずつ櫛でとかしている。その動作が奇妙なエクスタシーを感じさせる。やがて立ちあがった。服を脱ぎ肢体が露わになっていく。だが信じがたいのは、三面鏡のうち正面の鏡のみに彼女の姿が映り、左右の鏡には彼女は存在していないことだった。ついに三桂は鏡に近づき、彼女の細い手をしっかりと握った。
妖しい夜だった。三桂は夫人の肢体を、まるで人形のように抱きあげ、夫人も抵抗することなく、戦場で鍛えあげた肉体を受け入れていく。夫人は幾度か下腹部に痛みを感じ声をあげたが、ついには悦楽の叫びをあげた。全てが終わると三桂は、
「汝、わしの妾になれ。その前に名を聞いておこう」
息を荒くしながら三桂がいうと、夫人は、
「陳……円円」
とかすれたような声でいった。
「妾となるには条件があります。お聞き届けくださいますか?」
「なんじゃ、なんでも申してみよ」
「例え一国動乱の時がきても、魂は決して私の側を離れないでくだされ」
「必ず約束しよう。決してそなたの側を離れん」
三桂はさして深く考えることもなく即答した。やがてそれが己の運命を左右することを、三桂はまだ知らずにいる。
(二)
明王朝は、一六四四年にあっけなく滅亡した。歴代の王朝いずれもがそうであったように明王朝末期にも、各地で土地を捨てた農民が流賊と化し、反朝廷の動きを見せた。いつの世でも、それら流賊の中で最も力あるものが腐敗しきった前王朝を倒し、新たなる王朝を興すのである。明朝末期最も強大な力をもった流賊は、陝西省出身の李自成なる者だった。
この年、明の年号でいうと崇禎十七年、李自成は西安(かっての唐の都長安)に入った。この地をあらたな都として定め、国号を順、元号を永昌として、自らは順王を称した。同年二月には北京を目指して北伐を開始し、三月には北京を大軍で包囲した。明朝最後の皇帝崇禎帝は首を吊って自らの命を絶ち、明王朝は十七代、二百七十六年の歴史に幕を閉じた。
李自成はこの時三十八歳、かって一介の草賊が、いまや明の王城紫禁城を我が者とし、得意の絶頂にあった。
ところがここに、不気味な動きをしめすものがいた。中国の北の防衛の要、山海関で満州族と対峙している呉三桂だった。
三桂は、明王朝の滅亡と皇帝の死を知って以来迷っていた。明朝危うしの報に接し、山海関から明の国都北京に急行しようとするも、ついに間に合わなかった。
山海関の北には満州族がいる。北京には李自成がいる。三桂の手元の兵だけでは、むろん両者を相手戦うことはできない。三桂は難しい決断を迫られた。李自成は明の仇であり、これに頭を下げるのは、明に対する裏切りでもある。さりとて満州族と手を結ぶことは、国に対する裏切りなのである。
だが三桂は決断した。大義云々よりむしろ、自ら乱世の群雄の一人として、天下をその手に握りたかった。戦いの意思を李自成からの使者に伝えるも、使者はこれに激しく反発した。
「されば、北京で我が陣営に捕らわれた将軍の父君、あれいは多くの妾達の命は、いかようなことになっても構いませぬな!」
三桂に脳裏にふと、あの陳円円の顔がうかんだ。確かにあの時、天下動乱のおりも魂はともにと誓ったかもしれぬが、今日事ここにいたっては、もはやどうすることもできない。父や多くの妾達の命も救うことはできそうもない……。
三桂にはある秘策があった。三桂はその秘策をもって、李自成との決戦を覚悟したのだった……。
山海関、その背後に連なる万里の長城の威容は人を驚かせる。そもそも万里の長城は、西の果ては一年中積雪の中にある祁連山脈を起点とし、全長約千キロの河西回廊に沿って走り、さらにゴビ砂漠を通過し、黄河に沿って湾曲し、その尽きるところが東の終点・山海関なのである。
一六四四年の陰暦でいうと四月二十二日未明、李自成は戦場全てを見渡せる小高い丘の上から、やや悲壮な面持ちで二十万もの大軍に対し、大動員令を発した。対する呉三桂の軍は五万ほどでしかない。すでに前日、自成は関を囲む羅城に攻撃を仕かけたが、幾度にもわたって満州族の侵攻を妨げた城の防備は固く、その大砲の威力の前に、一旦兵を退かざるをえなかった。そして翌明朝、両軍は石河といわれる急流を前にして、ついに対峙した。
暁とほぼ時を同じくして、自成の軍二十万はゆっくり、ゆっくりと移動を開始する。まるで山脈が移動するかのようで、さしも歴戦の勇将呉三桂をしても、息を飲まざるをえない。この日風が強い。両軍の旗差物も風に揺らぐ。瞬時激しい黄砂が眼前の視界を零とした後、狼の群れのような自成の部隊は、三桂の部隊の最前線に襲いかかった。
自成の軍の装備は必ずしも統一されておらず、正規の兵に比べ、いかにも賊徒の集まりといっていい部隊だった。それにひきかえ三桂の軍はよく訓練されており、緒戦では、しばしば数に勝る自成の軍を押し返した。この日奇妙なことは、三桂の軍のいずれもが、甲冑に白布を結びつけていることだった。白は喪を意味し、この戦いが明の王朝に対する、弔い合戦であることを天下に示すと同時に、同士討ちを防ぐ目的をも兼ねていた。
三桂軍の士気は高い。特に三桂は自ら戦闘の最前線にいた。黄塵が吹き荒れる最中、長刀を手にした三桂は敵兵を振りはらい、突き刺し、返り血を浴びた形相で、幾度も敵を押し返す。だが時間の経過とともに、さすがに兵力差が戦局を左右し始める。三桂が幾度戦闘中血路を開いたところで、敵はさらに装備布陣を厚くし、いわゆる鶴翼の陣をもって、三桂の軍に対する包囲を狭めていったのである。
戦局を見守る自成は、内心、三桂軍の想定外の奮戦に動揺しつつも、戦いの勝利を時間の問題と考えていた。だが自成の運命は、自成の知らぬところで、音をたてて変貌しようとしていた。この時、戦場の赴かんとする謎の軍兵が、すでに前日夜半には、山海関から東方五キロの威遠城に到達していたのである。まさしくそれこそが、満州族の幼少の皇帝フリンを補佐する、摂政ドルゴンに率いられた一団だった。
このかっての三桂の宿敵は、三桂からの援軍要請を受け、山海関に殺到しようとしていた。三桂自ら虎を招き入れ、野に放ったのである。満州軍は全軍が騎兵である。馬を操ることにすぐれ、一人が数頭の替え馬を従え、一頭乗り潰すと別の馬に騎乗した。こうして満州兵達は迅速に、三日の道を一日で行くかのような速度で、山海関を目指した。そして今まさに、勝敗の帰趨が明らかになろうとしていた戦場の一角で、異変はおこった。
突如として自成軍の左翼を構成していた部隊が、何者かに蹴散らされた。最初、自成も何がおこったのかわからなかった。だがその正体不明の敵兵は、確実に自成軍の兵士だけを倒していく。まるで手品のように、戦場に謎の部隊が出現したのである。
「満韃子!」
李自成軍の一兵卒が大声で叫び、やがて全軍に恐怖が伝わっていくまで、さほど時間はかからなかった。満州兵の強さは、中原の漢民族の間に、伝説のように語りつがれており、自成軍の動揺する様は、哀れでさえあった。満州族は国民総皆兵制国家であり、全ての成人男子は、八つの旗の部隊のいずれかに所属することとなる。有名な満州八旗で、すなわち白、紅、黄、藍と鑲白、鑲紅、鑲黄、鑲藍である。
戦闘はいわば、この乱入部隊の出現により、一気に終盤戦にさしかかろうとしていた。三桂軍の白布は、満州騎兵に対しても、味方を識別させるためのものだったのである。李自成の部隊は次第に戦意を喪失していく。元が烏合の衆であるばかりでなく、つい数日前まで、都で略奪や婦女子に対する暴行にあけくれていた兵である。一旦形勢がかたむき始めると、たちまちのうちに戦場から逃げ去ってしまった。
李自成もまた逃げた。むろん再起をちかっての戦場離脱であったが、後に満州人に追われ、江南まで逃げ続けた末に、無残な最期が待っていた。
一方、勝利した呉三桂であったが、戦勝によって得たものは、全て満州族に奪われることとなる。三桂にもたらされたものといえば、満人に国を売ったという、売国奴の汚名だけだった。そしてさらなる苦難が待ちうけているのである。
(三)
『わしが満州人達を山海関の内に招きいれたのは、いずれわし自身が、皇帝の玉座に座りたいという野心を抱いていたからだ。我が唐土の人の数を思えば、例え一時満人達に膝を屈したとしても、そう長くは続かず、ゆくゆく己が唐土の皇帝として、君臨できると思ったからじゃ。
じゃが満人達、特に敵の将ともいうべきドルゴンという奴は、想像以上に手ごわかった。わしに、そして我が唐土の民にまったくつけいる隙を与えなかったのだ。
新たに満州族どもは国号を清と定め、我が唐土の民は異民族支配の屈辱からか、わしを売国奴と罵り、女のために国を売ったなどとあらぬ風聞まで流し始めた。円円は生きていた。だが行く先々のことを考えれば、亡き者として、これ以上あらぬ嫌疑はかけられぬよう、とり計らうべきであると主張する側近がおった。そして迷った末、わしは決断しなければならなかった。
それにしても……わしの記憶のはるか彼方にある円円の面影とは、なんとはかなげなことよ……』
「円円……」
一点の曇りもなく、まるで鏡のような湖を前にして、円円は琵琶をはじいていた。不意に真っ黒な天から、一枚の紙片がひらひらと舞いおりてきた。
鼎湖、当日、人間を棄つ
(皇帝がにわかに自ら死を選んだ)
敵を破り、京を収めんとして玉関を下る
(将軍・呉三桂は敵を倒し北京を回復すべく山海関を下った)
慟哭す、六軍、共に倶に縞素
(全軍が皇帝を崩御をなげき、白い喪服を着た)
冠を衝いて一怒するは、紅顔の為なり
(ところが将軍が怒りを露わにしたのは、皇帝の死ではなく、一女性のためだった)
「円円わしは一体どうするべきかのう? 中華の王として君臨することかなわず、あまつさえ人から売国奴として嘲りを受けるとは……。わしはそなたを愛しておる。じゃが代償としていかな苦しみをも甘受するつもりじゃ、その湖に身を投げてくれ」
すると不意に琴が止み、円円は立ちあがった。いつのまにかその手に剣が握られていた。瞬時円円の両の瞳に殺気をみてとり、しばし三桂はいすくんだ。だが次の瞬間、円円は見事な剣舞を披露しはじめた。
秦時の明月、漢時の関
万里長征、人未だ還らず
但、竜城の飛将をして在らしめれば
胡馬をして、陰山をわたらしめざるを
これは唐の王昌齢の詩で、秦の時も漢の代もいつの世もかわらぬ辺境防衛の難しさと犠牲を、一片の詩としたものである。そして竜城の飛将をもってすれば、天険の要害にも匹敵するものと歌うのである。この場合の竜城の飛将とは、むろん三桂のことをあんにさしているのである。
円円は舞い、踊り、天空を流星が横切ると同時に、かすかに涙した。そして自らの首に刃を押しあてた。
「どうか来世では、このような難しい境遇ではなく、心開きあうことができる仲として、再会しとうございます」
かすかに剣を持つ手が震えた。そして目をつぶり、一呼吸した。再び目を見開いた時、三桂はそこに強い覚悟をみてとった。
「円円やめい!」
三桂は思わず叫んだが、時すでにおそかった。鮮血が湖を朱に染めていく。
「どうかこの国を民を導いて……。私の遺骸はこの湖の下へ、そして皇帝として……」
三桂の胸のうちでささやいた後、円円は目を閉じた。約束どおり三桂は、円円の屍を湖の底へと沈めた。そしてその夜、暁がくるまでそこに立ちつくしていた。
(四)
呉三桂は戦鼓の音で長い夢からようやく覚めた。時に清の康煕十三年(一六七四)である。すでに清では三代皇帝順治帝すでになく、四代目の康熙帝の治世にさしかかろうとしていた。三桂はすでに六十二歳の老齢にさしかかっていたが、肉体に衰えを感じることはなかった。そして今この初老の男は、人生最大の賭けに打ってでようとしていたのである。
「奇妙な夢だったな」
三桂は一つため息をつき、ぼそりといった。そもそも円円とは一体なんであったのか? 奇妙につたなく、そしてはかない。齢六十を越えた今となっては、遠い遠い夢のかなたの存在にしか思えない。黄砂の中の幻のように己の前に現れ、そしていつの間にか消えた。
むろん円円のために自らが、女のために国を売った売国奴、という醜聞を着せられたのは事実である。だが事実はそれとは全く異なり、自ら天下の覇者たらんとして、山海関の門を開いたのである。だが結果は、さんさんたるものだったとしかいいようがない。
三桂の誤算は、三桂にとって生涯のライバルといっていいドルゴンが早世した後、自ら新政を開始した順治帝がまた一国の君主として卓越していて、三桂をはじめ中原の漢民族に、つけいる隙を与えなかったことである。さらにその順治帝が若くして亡くなった後、後継者として登場した順治帝の息子・康熙帝が、また皇帝として若いながらも、大器の片鱗を見せはじめたことだった。この間、三桂は清を打倒するどころか、面従腹背を続けるより他なかった。
清が支配体制を固めていく中、三桂は陝西・四川方面へ転戦して清に反する流賊の討伐にあたる。また順治十四年(一六五七)には、平西大将軍に任ぜられて、明の残党勢力である南明政権の討伐にあたっている。雲南・貴州方面を攻略してそのまま雲南(中国大陸西南端、現在のベトナムとの国境付近)に封じられた三桂に、清の王室による新たな踏み絵が待っていた。
康熙元年(一六六二)、ビルマまで逃れた、明の皇族の一派である桂王を捕らえ、これを昆明(現在の雲南省都)で、自らの手で害すこととなったのである。これで明は完全に滅亡し、清は呉三桂に親王の爵位を与えることで報いたのである。むろん三桂にとり、この爵位は決して手放しで喜べるような代物ではなかった。
世はまさに康熙帝の治世に移り変わろうとしていた。康熙帝・玄燁、その生涯かけての偉大な業績は史上に燦然と光輝くものといっていい。外交においてはロシアの南進を食い止め、かの国との間にネルチンクス条約を結び、モンゴル高原に親征してジュンガルを討伐するなどして、今日に至るまでの中国の領土の基礎を築くに至った。
内政においても減税と流通体制の構築によって、清朝興隆の基盤をなした。さらには学者としてさえも康煕字典の編纂等偉大な業績をあげ、めだった失政がなかった事、人間として致命的な欠陥等もみあたらぬことなどから察しても、俗にいう中国四千年史上最高の名君だったかもしれない。
すでに老齢にさしかかって、このような傑出した人物と争うこととなった三桂は、つくづく運のない人物であったかもしれない。一方まだ年若い康熙帝にとって獅子心中の虫は、三桂をはじめとする各地に割拠する漢人武将達に他ならなかった。特に三桂と広東の尚可喜、福建の耿精忠は元々が明の武将である。しかし明が李自成により滅亡した時に、清軍に協力した功績で、それぞれの藩を領有する事を認められていた。俗にこの三人の王を称して三藩と呼ぶ。
これら三藩は、藩内の徴兵権・徴税権・官吏任用権などを持っており、清の中の半独立国家といっていいだろう。あくまで中央集権をすすめんとする康熙帝が、三藩をうとましく思い、口実をもうけて廃止したいと考えるのは、いわば必然であった。
康熙十二年(一六七三)三藩のうち平南王・尚可喜が老齢を理由に、自らの引退と息子尚之信への継承を願い出た。また他の二人は政府の狙いを探るため、自分達の藩の廃止を願い出た。朝廷では藩の存廃について意見が対立したが、康熙帝は廃止を決定し、使者を通じてそのことを尚可喜に伝えた。
藩の廃止決定を受けて康煕十二年十一月、呉三桂は自ら天下都招討兵馬大元帥と称し、明王朝の復興を唱え、清に対し反旗をひるがえした。さらに翌康煕十三年には国号を周とし、元号を昭武と定め、独自の貨幣の鋳造も行なった。世にいう三藩の乱の始まりである。日本でいえば徳川幕藩体制に対し、毛利・島津・伊達といった外様の諸藩が、一斉に謀反をおこすようなものであろうか。清が明から継承した王城・紫禁城内において、清の宮廷が動揺したのはいうまでもない。
その後の呉三桂の動きは早かった。たちまち長沙を攻撃してここを占拠。長沙を守る主将は逃亡して、副将は降伏。長沙を占拠した三桂は、ただちに全軍に対し略奪禁止令を発し、犯すものは厳罰に処すると布告した。そしてほぼ時を同じくして尚可喜・耿精忠に対しても挙兵の誘いをかけたのであった。
時を置かず三桂は岳州へ進軍する。岳州は長江を北にのぞみ、眼前には洞庭湖が優美さをた たえている。中国で二番目の大きさをほこる洞庭湖は、古くは唐代の詩人杜甫をはじめ、多くの詩人に愛され、また宋代以降はしばしば山水画の世界にも登場する絶景の地である。
その水平線に夕陽が沈む光景をまのあたりにしながら、三桂軍による夜を徹しての岳州攻略戦は水陸両方面から開始された。
中国における城というものは日本とは規模が異なり、都市全体をすっぽりと包みこむのが普通である。ひとまずの城内への降伏勧告の後、まず火を噴いたのが火縄銃、ついで仏郎機といわれる西欧伝来の大砲だった。その威力は絶大で、城壁はたちまちのうちに激震する。
明代は特に火器が非常に発達して時代で、三桂軍も火縄銃や仏郎機の他にも、多くの火器を装備していた。例えば四十九矢飛廉箭。これは竹で編み、周囲に紙を貼った篭に四十九本の火箭を入れ、一斉に点火して発射するものである。
あれいは神火飛鴉というものもある。鳥型の張りぼての形を紙で作り、それに数本の火箭をつけたもので、城を焼きはらう際に使用されたといわれている。
また湖上に船を浮かべての水戦においても、敵味方双方とも火器が大量に使用された。特に戦場で異彩をはなったのは、虫呉虫松といわれる三桂軍のむかで型をした奇怪な船だった。この船は千斤から五十斤もの各種火器を両弦に搭載しており、その多くが仏郎機であったといわれる。
城兵達も負けてはいない。雲梯といわれるはしご車を動かし城内潜入をはかる三桂軍に対し、単飛神火箭といわれる射程三百から四百メートルほどの火箭や、九矢金賛心神毒火雷砲といわれる銅筒の中に毒矢を入れて噴射するもの、さらには投石、熱湯などあらゆる防御手段が動員された。双方とも決死の攻城戦が一昼夜続いた。だが兵力は三桂軍が圧倒的で、夜が明けるころには勝敗は決していた。
三桂軍はここでも勝利した。この戦勝の結果、湖南地方全域をほぼ支配下においたこととなる。
「あとは尚可喜・耿精忠が立つを待つのみか」
三桂は滔々たる長江の流れに目をやりながら、一人つぶやいた。三桂は自らの将来にこのときはまだ、露ほども不安をもっていなかった。
反乱は次第に広い範囲に拡大していった。その後呉三桂の反乱軍は二手別れ、一隊は四川から陝西へ、もう一隊は湖南から湖北、江西へと進軍し、呉三桂自身は湖南へとどまっていた。
この情勢をみて福建の耿精忠も叛乱軍側につき、さらに陝西を守る王輔臣や広西の孫延齢といった中小勢力も清朝に反旗をひるがえした。
唯一広東の尚可喜のみが、いまだ清朝側だった。ただ息子の尚之真は、どちらかというと反清勢力側に心が傾いており、いまだその旗幟が定かならぬ有様であった。
こうした情勢下、岳州ではすでに周王として即位した呉三桂を頭とし、その幕僚・側近達が集結し軍議が開かれることとなった。
「なんと仰せか周王?」
幕僚の一人が三桂の真意をはかりかねて、思わず聞き返した。
「我が軍はここに留まる。長江渡河はまだ時期尚早とわしは見た」
座はしばし重い沈黙が制した。
「将軍なにを申します! 今我らは連戦連勝、敵は浮き足だっております。今長江を渡らずして、いつなんどき天下の覇権をにぎれましょうや!」
「それがしも同意にござる。戦と申すは一度戦機を失えば、二度と戻りませぬぞ! 後々になって後悔してもすでに遅うござる」
必死の説得にも沈黙をつらぬいたままの三桂に、幕僚達の声は次第に激しさを増す一方だった。
「まあ待て、思った以上に我等に呼応する者が少ないのじゃ。清朝を倒し、我等漢民族による天下を復興するための戦いを呼びかえておるのに、多くの者が日和見に徹しておる。わしは今少し機会を待ちたいと思うのじゃ」
沈黙をやぶり、三桂は重い声でいった。あきらかに迷いがみてとれた。
清の世にあって売国奴と呼ばれることになった呉三桂。反乱に踏みきってみてはじめて、人が己についてこぬことに動揺をきたしはじめていた。確かにはるかビルマまで桂王を追い、明の残党勢力の掃蕩にあたった自分が、明朝の復興をとなえるのは滑稽なことだったかもしれない。だが現実主義者の三桂は、人は大義ではなく欲と利によって動くものであることを知っていた。自らに形勢有利と見れば、人は自然とついてくるものとばかり思っていたのである。山海関の門を開いて以降の自らの歴史が、三桂自身に巨大な疑問符をなげかけはじめていた。
「恐れながら御子息呉応熊様、さらには呉世霖様まで失ったは、なんのためでござったか? 自らの手で清を倒し、天下を握るため、御子息の命を犠牲にしたのではござりませぬか! またもし人が周王を売国奴と罵るならなおさら、周王の手によって清を覆すが人として最良の道ではござらぬか! ここに座して動かぬはさらなる罪とそれがしは思いまする」
この側近の言葉は、三桂の胸を深くえぐった。呉三桂の息子呉応熊は、順治九年(一六五三)順治帝の妹建寧公主と縁を結んでいた。むろん清側と呉三桂陣営との政略結婚である。その後人質の意味合いをこめて北京に留め置かれた呉応熊は、呉三桂の挙兵とほぼ時を同じくして、無惨にも刑死していた。また呉応熊のまだ幼い息子、すなわち三桂の孫にあたる呉世霖も、呉応熊と運命を同じくしていた。
自分は今までいったい何をしてきたのか? 山海関の門を開いた時は父を失い、今また息子を失い、孫までも失い、はからずも国を売った形となり、自らの手で大切なものは、なに一つ守ることができない。だが、だからこそ老いた三桂は、今前に進むことをためらった。そしてついに三桂は、長江を渡ることはなかったのである。そしてその時から三桂の運命は、下り坂へと転じていくのである。
康煕十五年(一六七六)になると戦況は一変する。四月、三桂の反乱軍のうち一隊が、いつまで待っても長江渡河の決断を下せない三桂に業を煮やし、独断で渡河をはかるという事態が勃発した。だがこの一隊は九江付近で清の官軍の痛撃を受け壊滅。これを機に清朝の官軍は一斉に反撃に転ずる。
六月には陝西を守る王輔臣が官軍においつめられ降伏。十月には耿精忠も降伏。さらに十二月には、老齢の父尚可喜の死後、三桂の反乱軍に加わり官軍に抵抗していた尚之真もついに力尽きた。これら反乱軍討伐におおいに貢献したのが、康熙帝の側近くに仕えるオランダ出身のイエズズ会宣教師フェルディナント・フェルビーストが製作した、新式の大砲だった。その威力は当時としては凄まじいもので、砲音が轟くだけで恐れをなす兵士もいた。
三桂は窮した。次第においつめられていく中である夜、夢を見た。三桂は倒壊した紫禁城を前にして、ぼろぼろの鎧を身にまとい、ぐったりと座りこんでいた。身に無数の傷を負い、息はひどく荒い。粉々に砕け散った龍の彫刻が周囲に散乱し、まるでかっての明王朝の栄華と、末路を象徴しているかのようである。
すでに老いた三桂は苦しい息をしながらも、かすかに何者かの足音が近づいてくるのを察した。懐かしい脂粉の香りがした。
「円円か? このわしのぶざまな様を笑いにきたのか」
三桂は苦笑を浮かべながら、目の前の影に向かって語りはじめた。
「愚かよのう、こなたを守れず、この国の民も山河も守れず、天下を得ることもできず、わしの一生は無駄であったかのう? 見よ紫禁城の有様を、かようなこととなったはわしの誤りであろう」
三桂は次第に声を細くしながら一息にいった。しばしの沈黙の後、黄塵が吹き荒れ、
「いいえ、紫禁城は倒壊してはおりません。例え人の世が移り変わり、王朝が幾たび変わろうと、決してうつろわぬものがあるはず」
「なんじゃと?」
影ははじめて口をきいた。青白いくもほのかに燃えるような瞳、なぜか奇妙に紫かがった、肩まである長い髪、そして透きとおるほど白い肌、三桂は奇妙と思った。むろん俗人ではない。この世に霊などというものが、まことに存在するのであろうか。
「貴方の面影を求めて、冥土からここまで旅してまいりました」
円円は、その細い指で三桂の手を握りしめ語りだした。
「貴方の眼前の天地が暗闇である時も、私は貴方を永遠に照らしていたかった。例え貴方が私に背を向けたとしても、私はいつまでも貴方の女でいたかった」
「待て、そんなに責めるな。わしはそなたを殺したことを、今となっては後悔しておるのじゃ」
三桂は困惑しきった顔でいった。
「そして私は、天下人となった貴方の胸に抱かれたかった」
この言葉は三桂の胸を深くえぐった。
「けれど望みはかないませぬ。夢は夢のまま、私は貴方とともにいることは、もはやかないませぬ」
三桂は、円円の瞳に一筋の光を見た。やがてそれが手の甲にこぼれた時、翡翠の首飾りとなり、円円は三桂の手にそれをしっかりと手渡した。
「どうかその武人として……燃え尽きるまで……。例えすべてを失っても、私の魂は貴方とともに」
そして円円の魂は消えた。
三桂は、この奇妙な邂逅の後、今一度全軍を召集した。
「我等は今、危機的状況にある」
ゆっくりと生き残りの将兵を見渡しながら、三桂は語りだした。
「敵は今、まるで狩猟の獲物を追いつめるかのように我等を攻囲しつつある。はっきりと申せば、我等の勝算は今、無きに等しいものになりつつある」
この三桂の言葉に全軍に緊張が走った。
「なれどわしは今こそ、将として命捨てる覚悟でおる。お前達は、兵として命捨てる覚悟で戦ってくれ。恐らくこの中には、清によって家族を奪われ、あれいは愛する者を失った者もおることであろう。その者は、必ず満人達に恨みの一矢でも報いて、必ず死してその者達と再会しても、恥ずることなきよう戦ってくれ。
またもし愛する者を残してこの戦地におる兵士は、今ここでその者等と今生の別れを告げよ。
あるいは我等中原の民に待ち構えて将来は、長い暗黒やもしれぬ。なれど我等これより戦するは、例え百年、二百年暗黒の時代が続こうと、民族として決して犬のような扱いを受けず、また糞尿にまみれることなく、誇りをもって立つためである。
人は決してただ飯を食らい、長く生き続ければそれでよいわけではない。例え一時といえど、我が中華の歴史に己の魂を刻みつけよ。あれいはわしは、戦の最中、諸君の前から姿を消すかもしれぬ。なれど例え一兵卒といえど世にあるうちは、我が魂は滅びぬものと思え。
繰り返す。我等これより戦するは、我が民族が決して恥じることなく立つためである。我等は決して朽ちぬ、滅びぬ、そして敵に敗れぬ」
三桂の演説が終わると、全軍にしばし沈黙があった。ある種の殺気とも覚悟ともとれる異様な沈黙が、一時座を支配した。
すでに三桂の反乱軍、すなわち周軍は湖南で孤立し、三方から包囲されて危うい状況にあった。ある月一つない夜半、清の官軍の奇襲部隊は、湖南の反乱軍のこもる居城めがけて、音を殺して近づきつつあった。大物見に出ていた一隊が、その動きを察知し銅鑼を鳴らして城に急を伝えた。一斉に襲いかかる夜襲軍に、大物見の一隊は城に退却しようとするも、門はむろん閉じられていた。
「恐れながら、物見に出た一隊が城に入ることかなわず、助けもとめているもよう」
伝令の言葉に対し三桂の幕僚は、
「今城開けることかなわぬ。敵を城内に招きいれること断じてまかりならぬ」
と冷たい言葉をはなった、しかし椅子に深く腰かけていた三桂は、
「城門を開けよ、かの一隊はわしが助ける」
といい、幕僚が止めるのも聞かず、自ら城外に討ってでた。
城門前では大物見の一隊が敵に半ば虐殺されている最中であった。ところが突如として城門が開いた。そしてそこに、通常よりはるかに巨大な馬にまたがった三桂の姿があった。戦場に一時の沈黙があった。三桂は自ら青龍刀をふるって味方を救助した。それが敵の将であることを知ると、一斉に清兵が群がるも、三桂は敵が一斉に攻めかかってきても動じる様子は一切ない。さながら軍神であり、到底六十を越えた老人には思えなかった。
難なく味方を城に招きいれた後、攻城戦は一昼夜続いた。圧倒的大軍であるはずの清軍であったが、ついに城を陥落させることはできなかった。
その後三桂率いる反乱軍は湖南は守りぬき、岳州は奪われたものの、長沙をも守りぬいた。常に危険な戦場に三桂の姿はあった。だがそれは、官軍側にしてみれば格好の標的以外の何者でもない。そしてついに、三桂は岳州における攻城戦で、城から敵の例の宣教師フェルビーストが製作した、新式の大砲の砲撃を受けることとなった。
一際目立つ鎧に身を包んだ敵の将が、突如として戦場から消えた。周軍が意気消沈すると同時に、城の清兵の側はしばしの沈黙の後、大喝采がわきおこった。
だが両軍の兵士の予想もしていなかった事態がおこった。突如戦場の中心から火柱があがり、それが天まで届いたかと思うと、一転して激しい雷雨が振りそそいだ。暗雲の中巨大な龍が出現し、いずこかへ消え去ったのである。
紫禁城、明そして清の皇帝が約五百年君臨した中国の、いや世界の、いや宇宙の中心である。南北九百六十メートル、東西七百六十メートルほどもあり、高さ十メートルの厚い城壁に囲まれ、四面に各一門、四隅に角楼を設け、その外に幅五十メートル余の堀をめぐらしている。この中に九千近くの部屋があり、明代では九千人の宮女、宦官十万人が住んでいたといわれる。
歴代皇帝が百官を見下ろした正式な公務の場である大和殿、そこから奥まった場所に中和殿があり、さらにその奥に保和殿がある。これらはいずれも皇帝にとって公の場であるが、さらに奥へ進むと乾清門を抜けて、乾清宮・交泰殿・坤寧宮といわれる、いわゆる奥三殿がある。奥三殿こそまさしく皇帝の私的生活の場であり、むろん康熙帝もここで夜を過ごした。
康煕十七年(一六七八)のある深更、康熙帝は廊下をつたう何者かの気配で目を覚ました。皇帝たるものは常にそれが顕在化しないまでも、潜在的な敵もしくは脅威に怯えて暮らさなければならぬのである。
「誰だ何者だ!」
康熙帝は目に見えぬ影に向かって思わず叫んだ。だが返答がない。脅威は確実に迫りつつある。康熙帝が思わず剣に手を伸ばそうとしたその時、重い扉が突如として開いた。そこに立っていたのは、鎧・甲冑に身を包んだ六十ほどの軍人らしき男だった。奇妙なのはその両の腕に、すでに死んでいるらしい夫人を抱きかかえていることだった。夫人は目を閉じており、長い髪も腕もだらりと垂れ下がっていた。
「お前は一体? なぜここに入ってこれた?」
後に中華史上最高の名君とされる細面の皇帝も、この突然の来訪者に動揺せずにはいられなかった。
「わしか、わしの名は周王朝初代皇帝呉三桂。汝に一矢報いにきた」
夫人の屍を地に置くと、皇帝を名乗った男は瞬時に刀を抜き一閃、康熙帝の右腕から鮮血が勢いよくふきでた。
「だれぞ出会えい! 誰かおらぬか!」
必死で助けを求める康熙帝を見下ろしながら三桂は、
「そなたにこれを返しにきた」
というや否や、今度は刀で自らの辮髪をばっさりと切断した。辮髪は元々満州族固有の髪型であり、清による中華制圧後、漢民族に対して服従の証として、この髪型を強制していた。
総髪となった三桂は、再びその両の腕にしっかりと夫人を抱くと、
「円円これでよいな」
とひとこと静かに語りかけると、腕の切傷の痛みで声もだせない康熙帝を横目に、ゆうゆうとその場を去ってしまった。急を察して宦官達がかけつけた時には、康熙帝は茫然自失の体で寝台の上にしゃがみこんでいた。
数日の後、康熙帝は呉三桂の死を知らされる。享年六十二歳、陣中で病を発して余命後わずかと知り、周国皇帝として即位式をあげた直後の死であった。呉三桂は後世に悪名だけを残した。だが愛に生き、己の野望に忠実に生き、そして常にぎりぎりの選択を迫られ懊悩し続けたその胸中は、呉三桂以外何者も知るよしはない。
新国家周は、三桂の死後ほどなく歴史から姿を消す。俗にいう中国四千年史の中においては、誠に一睡の夢のようなはかなさであった。
ご愛読に感謝いたします。いずれ機会があったらまた会いましょう。