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暗夢の怜  作者: 竜司
3/3

 車に揺られながら、私はただただ、為されるままに揺れていた。否、こう云うと白伊豆の運転が下手みたいに聞こえるから撤回するが、そう揺れてはいない。皮肉屋の運転技術は高い。今までに数回乗ったことがあるが、安全運転だなと心底思う。

 白伊豆邸から氏家宅まで、約四十分と云ったところだ。

 車から降りて夜空を見上げると、数時間前まで雲に隠れていた月が轟轟と丸く輝いていた。

 大きな満月に二羽程の蝙蝠こうもりらしき何かが過ぎる。

 遠くで犬の吠える声が聞こえた。

 加奈子は車の音で気がついたのだろう、静かに戸を開け出てきた。夜中であるが若々しい格好である。善く見れば悦子も中々お洒落であった。私は不吉な夜に相応しい地味な格好でやって来た。白伊豆はラルフの高級スウツと云うこの状況に対して謎の出で立ちだ。だが酷く似合っている。私などが着ようものなら通りすがる者に一回ずつ鼻で笑われる程度の逸品である。衣服は人を選ぶ。

 景皇は馬鹿なのか半ズボンに七分袖であった。

「ここからは歩いて行く。加奈子さん」

 はいっと返事をして、加奈子は歩み始めた。

「私が少女と会った場所まで案内致します」

「寒いな。車で行けないものかい、白伊豆ゥ」

「夜中だからな。近隣迷惑な音は避けたいのだ。それに、此処からそう遠くはない」

「はい、小早川の方です。徒歩で十数分と云ったところですね。林さん、どうしても冷えるようでしたら、これを使ってください。ホッカイロです」

 加奈子はポケットから取り出した。幾ら寒いと云っても、乙女が温めたホッカイロを受け取るのには抵抗がある。人目が在るから尚更だ。私が慌てて断ると、いつでもお貸し致しますわと加奈子は笑った。

 それにしても――。

 小早川と云えば私の家も近い。

 そもそも氏家宅も私の家と近かった。歩けば三十分とかそのくらいで着くだろう。

「賀来さんの家も、小早川の方かい」

 私は誰にともなく聞いた。

 まぁその辺りですと悦子が応えた。

「春日駅のすぐ近くですよ。ね、加奈子ちゃん」

「うん。私も昨日、初めて知ったの。兄が入って行った家の表札に賀来とあったものだからね」

 加奈子はつい昨日に暴行されたとは思えぬ振る舞いだ。

 私など恐怖に打ち震えて一週間も引き籠ったのだから、情けない話である。

 足音が響く。夜中だから余計に響く。

 私は念のために後ろを見た。景皇と白伊豆が並んで歩いている。私の隣には悦子と加奈子。

 今のところ、邪悪なものが憑いてきている様子はない。

 歩みは続く。

 大通りから細い道へ入ってゆく。右も左も家が建つ少しぐねぐねした小道。

 歩けば歩く程に、そこから家は、人気は無くなってゆく。

 誰も、喋らなかった。

 小学校の近くに大きな公園がある。その側は自然が尊重されているのか、木がたくさん生えた雑木林を見ることができた。

 此処は。

 私があの夜に通った道だ。

 見上げるとあの時のままに、黒い雑木林が私を無言で見下ろしていた。

 電燈が厭な間隔で立ち並び、頼りない光を垂らしている。

 気を抜けば、暗闇に潜む大きな軟体生物が横目で――怠そうな視線だ――触手を絡ませてくる。

 この辺りは、やけに冷たく、纏わり付くような空気に満たされていた。

 もう周りに家は見えない。

 右も左も雑木林だ。

 嗚呼、暗い。

 ばきっと音が、何処からともなく聴こえてきた。

「良い所だな」

 白伊豆が背後で云った。

 その声に驚いたのか、バサバサと鳥が飛び去ってゆく音が頭上で聞こえた。

「此処です」

 加奈子が歩を止めた。

 何の因果か。

 此処は――。

「僕も、出会った」

「え?」

 加奈子が聞き返す。

 此処は、まさしく私があの怪少女と出会った場所だった。

 克服した筈の恐怖が甦り、私の心を蝕み始めた。

 足が震え、鼓動が少し早くなった。呼吸も不規則になってきた。吐いたのだか、吸ったのだか、判らない。

「僕は、あの少女に巻き付かれ、風が吹いて、何かが猛烈に衝突しッ」

「落ち着け、靜」

「長い髪の隙間からジッと僕を見つめるその視線を受けて僕は、倒れ、厭な声を聞いて、音を」

 何かが肩に触れた。

「駄目だ、こんな所に居ちゃあ駄目だ。ここを視ているかもしれない。あの幽霊が、木の後ろに、隠れてッ僕たちを!」

「靜、君が視たのはな」

「止めろ離せ白伊豆ッ!」

 肩に置かれた手に力が篭った。

 背後の声は至って平坦だ。

「――幽霊ではない。覚えているかい、生前の姿とは異なった形で現れるモノが何だったか」

 何を云っている。

 ガアガアと動物の鳴く声が右から左から、上から下から斜めから、嗚呼、響いた。

 悦子や加奈子がえっと声を上げる。

 ザ、ザ、ザ、ザ、

 ザ、


「化け物だよ」


 足音が聞こえて視線を凝らすと、暗闇の中、誰かがこちらに向かってきているのが見えた。

 少女だった。

 制服を着た黒髪の少女が現れた。

 その体がゆらゆらと揺れ出した。

 大きな目が、髪の隙間から度々覘いた。

 ――私を視ている!

「うわあああッ」

 腹の底から叫んだ。その声は夜の彼方へと響き渡り、鳥たちの羽ばたく音が四方八方、一斉に鳴り響く。

 加奈子もその場にへたり込んだ。悦子は立ち竦んでいる。

 ふっと空気の流れを頬に感じた。私の横を通り過ぎ、景皇が前に出る。

「裕さん、駄目だ。逃げようッ」

 私の制止をものともせず、景皇はアアアと云いながら、ゆらゆらしている少女に歩み寄って行く。

 私は白伊豆の支えから立ち直り、辛うじて後ろを見た。

 白伊豆は何食わぬ顔で少女を見据えていた。

「おい、白伊豆。どうするんだ!」

「深い愛情と性癖、この二つが招いた出来事だ」

「は?」

「怜治君は、強く怜子さんを愛していた。しかし怜子さんの病気がきっかけで、別れることを選んだのだ」

「病気?」

「裕さん、気をつけるんだ」

 白伊豆の言葉で、私は前に向き直った。ちょうど少女が駆け出したところだった。はやい。ぼんやりとした電燈の、今にも消えそうな光が少女と景皇を闇の中、浮き上がらせる。

 バシッと云う音。

 景皇の横腹に少女の拳がのめり込む。次の瞬間、少女の猛ラッシュが襲い掛かる。加奈子がきゃあと悲鳴を上げた。少女は景皇が突き出す手をひょいひょい躱し、打撃を繰り出してくる。捕まらない。

 白伊豆が私の隣に立った。

「悦子、下がっていろ」

 悦子は緊迫した面持ちでゆっくり加奈子を立たせると、白伊豆の隣辺りに移動した。

「重い病気でな。怜子さんは、そう長くない」

 怜子が長くない。そのこと自体が衝撃であったが、それよりも――どう云う心理であろうか。怜子の立場が別れを切り出すのはよく小説や映画で見かける。怜治の方が別れを切り出す理由は何だ?

「怜子さんは、死ぬのが嫌だった。まだまだ生きていたいと思った。当然だ。まだ十六七の若い娘なのだから。今が一番楽しい時期だろう。怜子さんは、病気を認めたくなかったのだ。怜治君には伝えられなかった」

「じゃあ、どうやって知ったんだよ。怜治君は、怜子さんの病気のことを!」

 白伊豆は少しの間を開けた。

「柚那さんが密告したのだ」

 バコッと音がした。

 景皇の顎に少女の拳がヒットした。大男がよろける。

「裕さん!」

「――羨ましかったのだな、姉のことが。怜治君は名門のS大学に通っている。しかも色男だ。君も会ったなら知っているだろう」

 白伊豆は伏し目がちに続ける。

「柚那さんはね、怜治君を好きになってしまったのだよ」

「何だッてェ?」

 話がややこしくなる一方だ。

 目の前で繰り広げられる戦いもあって、頭が追い付かない。

「怜治君と付き合っている怜子さんが羨ましくて仕様がなかったのだ。女優業と云うある種、特殊な環境に身を置きながらも、姉の交際する男性を好きになってしまったのは、一般社会への回帰、現実への執着心も僅かながら作用していただろう。彼女ほどの大物となれば、行動やら何やらが制限される。ましてや男関係など絶対にマスコミには知られたくない立場だな。そんな境遇で、普通に恋愛をして、しかも相手は自分にとって理想の男性像の怜治と付き合う姉が、羨ましく――そして妬ましかった」

「だ、だからって、内緒にしていた病気を、勝手に伝えるなんて」

「できるよ。彼女はあれでもまだ高校一年生。小娘だ」

 そこまで出来た人間を求めることはできん――と白伊豆は厳しい口調で云った。

 そう、だろうか。

 まるで想像がつかない。私のような人間は女心とは無縁である。

 ところで景皇は依然として敗勢だ。このまま攻撃を受け続けて大丈夫なのだろうか。

 否、そもそも。

 あの少女は、一体、誰なのだ?

「君の目にあれは幽霊に映るかい?」

「あの少女は、僕が出会った少女と同じか?」

「そうだよ。証拠も掴んだ。怜治君の部屋でね」

「そろそろ教えろ! 何を見つけたんだ!」

「ん? 日記だよ」

 ぐわあと云う声がして、景皇が膝をついた。そこへ容赦なく蹴りが飛んでくる。拍子にスカートが捲れて白い下着が見えた。景皇の顔に少女の学生靴がめり込む。

「裕さん!」

 私が叫ぶと同時に、景皇は立ち上がり右腕をぶうんと振り回した。少女が身軽な身体を引く。

「もう判ったろ、靜」

「な、にがだ」

「あれが誰なのか」

 景皇がこちらを振り向いた。目が虚ろだった。

「限界だ、伊豆」

 鼻と口の端から血が流れていた。

 もうだめだと景皇が静かに云うと、少女はダダッと距離を詰めた。するといきなり機敏な動きで景皇が体当たりをした。ぐしゃっと云う音が響いた。果たしてどちらが潰れたのだろうか。

 吹き飛んだのは少女の方だった。体格差や体重差を考えれば当然である。スカートをひるがえして少女は倒れ込んだ。しかしあの巨体を相手に能くここまで戦ったものだ。

 勝負はついた。

 平然と突っ立っている景皇を見て、もうだめだの意味を理解した。

 ――ザ、ザ、ザ、

 不吉な足音。

 招かれざる客が、この忌まわしき場へと引き寄せられたようだ。

 倒れた少女の隣に、もう一人の少女が立っていた。



 いつの間にか現れた立ち竦む少女は、制服でこそなかったが、私の知る人物であった。

「――ちゃん?」

 悦子がその名を叫んだ。

 白伊豆がゆっくりと少女の元へ歩み寄って行く。 

 私もふらふらとその後に続いた。

 少女は倒れたままの少女を無言で見つめている。白伊豆は少女を目の前にすると、貴女が怜子さんかと云った。

 少女――怜子は白伊豆に視線を移し、一寸だけ頭を下げた。気の所為ともとれるレヴェルの会釈である。私はそのかんも怜子を注意深く観察し続けた。髪は似ている。だが善く見ると目は違っている。

 私があの夜に出会った少女のそれではない。怜子ではなかったと云うことだ。私は怜子の足元でもぞもぞと動く制服少女に視線を落とした。

 お前は――誰だ。

 悦子と加奈子も恐る恐ると云った具合に近づいてきた。白伊豆は悦子に振り返り、

「お前か」

 と云った。

 悦子は申し訳なさそうに顔を俯けた。

「先輩を責めないでください――」

 怜子のぼそっとした声が耳に纏わり付いた。

「先輩は、私の話を真剣に聞いてくれました。とても、感謝しています。善い人なんです――」

 ぼそぼそと怜子が云う。

 白伊豆はすうっと視線を逸らした。全てを見透かすような天衣無縫の眼差しが、怜子を貫く。

 その瞳には、何が映る――。

「――怜子さん。貴女に一つ聞きたいことがあったのですよ」

 怜子の冷めた瞳が、ぼんやりと白伊豆を捉えている。

「貴女は、判っていて続けていたのですか。それとも、ただ続けていたのですか」

 怜子は、下で蠢く少女を一瞥してから、ただ続けていましたと答えた。

「何が起こっているのか、全く判らないまま、続けていました。最初は、ただただ、怖かったんです。そして苦しかった。白伊豆さん、貴方は、知っているのですか。怜治さんの身に、何が起こっているのか」


「全て――知っているとも」

 

 ――ぞくッとした。

 白伊豆はふぅと息を吐いてから、目を瞑り云った。

「そこに居るのだろう、怜治君。出てきてくれよ」

 加奈子がえっと声を上げた。私はあちこちを見回した。隠れて――いるのか。

 悦子や景皇も辺りを見回す。

 怜子の視線は倒れた少女に向けられていた。少女がむくりと上半身を起こした。そして自分の髪の毛を掴んだ。

「これは夢か現か」

 怜治の声がすると同時に、少女はバッと髪の毛を引き抜いた。

 否――。

 違う。

 これは、違うぞ。

 少女は、かつらを被っていた。

現世うつしよのようだな」

 化粧を施していてすぐには気がつかぬが、紛れもなく、

 この制服を着た人間は、少女などではなく――

「れ、怜治君、か」

 私の喉はひっついて、空々(からから)の声が出た。

 制服を着た少女は、氏家怜治だった。

 怜治は自分の姿を見て、小難しい顔になった。白伊豆はその様を黙って見つめている。怜子も、冷めた表情かおで怜治を見つめている。

 ハハハと笑い声が。

「まさか。こんな、ハハ。何だこれは。何だ――これは」

 声音は笑っていなかった。

「怜治君、君は特殊なのだ。怜子さんへの強い愛情が、君をこうさせた」

 白伊豆は実に淡々とした口調で云った。私は白伊豆の顔を一瞥した。普通の顔だった。それが、全てを知った人間の顔か。

「ハハ、まさかな。本当なのか。冗談だろう。こんなことが――」

「本当だよ。君はもう、気がついている」

 私は堪えきれなくなった。

「どういうことなんだ白伊豆! 一体、一体何が起こっているんだ。怜治君は何故女装しているッ」

「怜治君は夢遊病なのだ」

 私は絶句した。

 白伊豆は続ける。

「睡眠時遊行症。睡眠中に起こる異常行動のことだ。通常、遊行中のことは覚えていない。だが怜治君の場合は特殊で、単なる夢遊病では括りきれぬ性質を持っている」

 怜子は、特に驚いた様子もなく項垂れる怜治を見下ろしていた。

「夢遊病は精神のストレスや興奮状態での睡眠移行によって発症される訳だが、怜治君の場合は前者だ。多大なストレスを抱えている。悪いが日記は拝見させてもらった。僕を前に隠し事はできないぜ」

 怜治は座ったまま、俯いたままだ。

「加奈子さん、怜治君に憑りついていたのは十九年前に自殺した少女の幽霊などではない。ましてやその祟りでおかしくなった訳でもない。結論を云えば、怜治君をこうさせた根本の原因は、彼の罪深き性癖なのだよ」

「性、癖」

 加奈子は訳も判らず、と云った具合に復唱した。

「僕の口から語りましょうか、それとも――」

 貴女が語りますか、と白伊豆は右手の雑木林に顔を向けた。

 一斉に其処へ視線が集中する。

 まだ――誰か居るのか。

 暗き密林からガサゴソと音が聞こえてきた。

 もはや誰も口を利かぬ。

 此処で声を出せるのは、全てを知る者のみ。

 招かれざる客の影。

 影はこちらに向かってきた。古い電燈に下に着くと、その姿が闇の中、淡く照らされた。

「初めまして、白伊豆隼人さん。わたくし、賀来柚那と申します」

 若き人気女優、賀来柚那は丁寧な所作で挨拶を魅せた。

 白伊豆は少しだけ顔を傾けて柚那を見ている。

「お会いできて光栄です」

 ふふ、と柚那は嗤った。

「――どうして判ったの」

 怜子が震えた声で妹柚那に問い掛けた。

「どうしてって、知らないとでも思ったの? 姉さんと怜治さんが、夜中に会っていること」

 柚那は不敵な笑みを浮かべる。

 怜子の無表情に若干のひびが入った。

「一番最初の夜、夜更かししていたのは姉さんだけじゃないの。私も怜治さんの声を。聞いた。怜子、怜子と呼び掛ける声をね。それに気づいた姉さんはこっそり怜治さんを部屋に迎え入れた」

 怜子は何も云わない。

 柚那は続ける。

「だって、変じゃない。別れたんでしょう? どうして夜中に会っているの? 応えてよ、姉さん」

 柚那さん――と白伊豆が遮った。

 美青年は前方のくうを見据えながら喋る。

「貴女にも一つ聞きたいことがあったのですよ」

「何ですこと?」

 柚那は威嚇的に聞き返す。

 白伊豆は至って平坦に、ゆっくりと問うた。

「――望は叶いましたか?」

 柚那の余裕の笑みが、少しばかり曇った。

 白伊豆は前を向いたまま続ける。

「貴女は心の奥底で、己のしたことに罪悪感を覚えている」

「何のことだか判り兼ねます」

「どうしてあんなことをしてしまったのかと悔いている自分がいる。悔いてしまえば、今の自分を否定することになる」

 白伊豆が喋っている最中、柚那、と呟く怜治の声を私は聞いた。

「貴女はまだ若い。若さは過ちを生むものだ」

「五月蠅いッ」

 柚那が怒った。

 あれは本当に私の知る、テレビジョンに映る、あの有名な賀来柚那なのか。

 否、私はあの少女のことを、何も知りはしない。

 これが彼女なのだ。

「貴方は部外者です、判ったような口を利かないでください。私は悪くない」

 私は――と続ける。

 誰に向けられた言葉なのか、本人にも境が付けられまい。

「私は怜治さんを好きになったんです。それが偶々、姉の交際していた者と云うだけのこと。欲しければ手に入れるために努力をするのが、策略を練るのが、奪い取るのが当たり前のことですわ!」

 それは間違っていないだろう。

 私もそう思う。

 暗闇が一層この場を侵食する。月が雲に隠れたか。

「それで、怜子さんのやまいのことを怜治君に密告したのですか」

「そうよ、それで実際、怜治さんは私を選んでくれた」

 語尾に力がなかった。

 後ろめたさは拭い切れぬか。

 しかし何故――

「柚那、俺は」

「怜治さん、私のことが好きなのでしょう? どうして姉さんとまだ会うのよ。姉さんは――」

「違うんだ、俺はな、最低の人間だ」

 ――何故、怜治は怜子に別れを告げたのか。ここが判らない。

 怜治は顔を上げた。憔悴しきっている。

「怜子、俺はお前に謝罪しなければならない」

 声が、震えている。

 怜子は何も云わずに、顔を手で覆っていた。肩がひくひくと動いている。

 泣いているのか。

「柚那さん。怜治君はね、貴女のことなど微塵も好きだと思っちゃいないよ」

 唐突に響く声。

 柚那は白伊豆を睨む。

「貴女は利用されただけだ」

「利用ですって?」

「これは、余りに卑劣な話だ。怜子さんの病気のことを伝え、貴女は怜治君を誘惑した。いずれ死にゆく女と居るよりも、若々しくて美しい、そして富も権力もある自分を選べと迫ったのだな。女優、賀来柚那と云えば、一般庶民からすれば高嶺の花。怜治君は誘惑に負けてしまった。が、それは心変わりしたからではない。貴女を選んだからではない!」

「どう云うこと……?」

 厳しい口調の白伊豆に若干圧されたか。

「最愛の女性、怜子さんに舞い降りた難病の悲劇、迫り来る死。もしも病魔に苦しむ怜子さんを裏切って柚那さんと関係を持ってしまったら――想像してしまったのだ。その快感を。底知れぬエクスタシーを。異常なまでの性的興奮を覚えたのだよ。最高の罪悪感を覚えることで、究極とも云える快感を手にしたのだな」

 元よりうすら寒い静寂の空間が、こッれでもかと云うくらいに静まった。

 マゾヒズムに近い性癖だろうか。

 怜子は、一歩、二歩と後退あとずさった。怜治から離れるようにどんどん後退する。顔は依然として手で覆われている。

 柚那は口を半開きにしていた。さすがの柚那もこれには言葉が出ないのか。

「怜子さんに別れを告げ、柚那さんと関係を持った怜治君は、次第にその快楽の代償を払わされることとなる。幾ら快感を得られると云っても、それは罪悪感から来る快。ストレスは知らぬ間に蓄積されていった。そして発現したのが睡眠時遊行症――しかし、それだけではない」

 まだ明かされていない理が隠れている。この闇の中、邪悪に漂い、嘲笑っている。

「人はね、弱いんだよ」

 天賦の青年の善く通る声が浮かんでは消える。

「人間が成長する過程に、同一化と云う概念がある。自分が他の誰かになったかのように感じるのだな。これは乳児段階に見られる心理過程だ。興味深いことに、遊行中の怜治君は、まさにこの同一化の過程を経ている。自我が抑制されるからだろうな。しかも、悪い側面だけを学習していた。本来、同一化とは自分と対象の境界が曖昧模糊になる悪い側面と、対象の中の好い属性を取り込む善い側面の両面感情を有するのだが、怜治君の場合は前者のみ、対象との境界が不確かになってしまうだけと云う現象が起こった。同一化の理由や原因と云うのは幾つかに分類されるが、怜治君の場合は、自己処罰的な意味を持ったもの――対象への罪悪感。それに加えて、対象への愛情から発生する分離不安からの防衛だ。小難しく云ったが、要するに怜子さんを失いたくないと云う気持ちと、怜子さんに苦しみを与えてしまった罪悪感から来る己への処罰の意味で、怜子さんと同一化しよう云う心理が働いたのだな」

 遊行中に、と白伊豆は付け加えた。

「日記を見ても、遊行中のことを朧げながら覚えていることを示唆する文章が見つかった」

 覚えている――と低い声。

「まるで、暗い夢を見ているようだった――」

 怜治が俯いたまま、微動だにせず白状する。

 怜子も、柚那も、加奈子も悦子も私も、ただ鎮するのみ。

 怜治が、己の夢を語る。

「暗い小径だった。そこを延々と歩む無意味な夢。俺は怜子を求めていた」

 謝りたかった、と余りに小さな声が零れた。

「闇の中を歩みながら、怜子を求めるうちに、自分が誰なのか判らなくなった。いつの間にか目の前には怜子がいた。俺は思いの丈を語ったのだろう。そんな気がする。善く覚えていないんだ……。俺を見て、どんな顔をしていたのか判らないが、俺を、まだ受け入れたいと云うようなことを云っていた。そう、聞こえた。都合の善い幻聴かもな。善く、判らないが、俺は、俺でなくなった。怜子に、なっていた。否、怜子になっていたのではなく、怜子になったつもりだった。だから、側にいた怜子に、怜子にしてくれと――」

 辺りはしんとしていて、怜治の声は直接脳に響くかのよう。

 意識が薄れる。

 気を強く保たねば、中てられる。

「そう云う、夢を見ていた」

 もう――。

 何も云うことはない。

 怜治はついぞ停止した。

 理は、解かれた。

 その刹那――。

 戦慄が走る。

 私の目に、怜子の顔が映っていた。

 白伊豆が眉を顰める。

「――止せ。怜子さん。それは関係がない」


 白伊豆の声を聞きながら、私は怒気と悲哀の混濁に満ちた怜子の顔に見入っていた。嗚呼、なんと美しい。怜子は自分の髪に手を掛けた。


「嘘つき! 私より柚那の方が可愛いからッこんな私なんか、好きじゃなくなったのでしょうッ」

 怜治が遅くも早くもなく振り返る。

「止すんだ怜子さんッ」

 怜子が自分の髪の毛を引き抜いた。

 黒く長い髪はバサリと地に堕ち、

「髪の毛も無く、頬もこけ、生気も消えた女など、貴方にとっては無価値なのでしょう?」

 否、堕ちたそれは、鬘だったようだ。

 ――そうか。

 そう云うことか。

 頭に生えた雀の涙ほどの毛髪。

 魂の抜け殻。

 魄だ。

 鬼――だ。

 奇声を発して、怜子が駆け出した。

「まずいッ」

 白伊豆が怜治を強引に立たせる。

 怜治は力なく怜子を見据え、その表情はどこか儚げで――悦子が名を呼ぶも、怜子の耳にはもう入らぬ。

 突如、向かってくる怜子に何かがぶつかった。

 否、くっついたと云う表現が正しいか。

 それは怜子を強く、抱きしめているように見える。

「ゆ、ずな」

「姉さん!」

 ごめんなさい、と柚那の声が響いた。怖いくらいの余韻を残して。

 怜子は止まった。

 柚那の涙声。己の罪を認める時がきた。

「ごめんなさい、姉さん。私、本当に、酷いことを。取り返しのつかないことをしてしまったわ。羨ましかったの、姉さんと怜治さんが。凄く。ううぅ」

 後は、ただただ、少女の泣き声。

 妹柚那に抱かれたまま、怜子は怜治を見つめ続けた。

 善悪ではない。

 この場に蔓延る無数の感情、思惑に、善悪で量れる要素は一つとして存在しない。理由もない。

 そんな有り触れた言葉で説明をつけて善いことではない。

 私に判ったのは、其れだけだ。

 怜子の頬に一筋の涙が流れる。

 柚那は姉怜子から腕を解くと、こちらに身体を向けた。

 涙目ながら、凛々しく強い意志を持った少女が其処に居る。

 呪いが――解けたようだ。

 私が知る、女優賀来柚那の顔だ。

「ご迷惑を御掛けしましたわ」

 返事をする者は居ない。

「今後、私たちはその男と関与致しませぬ。もう――」

 呪いは解けました――と柚那は云った。

「私がこの件の元凶となったことは承知しております故、この場を借りて深くお詫び申し上げます」

 そう云って、柚那は道路の真ん中で土下座した。

 ドラマの演技でも稽古風景でもない心からの謝罪。

 顔を上げなさいと白伊豆が云う。

「女性が安易に土下座なんてするもんじゃあないよ。誠意は伝わった」

 柚那は暫く顔を上げなかった。怜子が背に手を添えると、少しして起き上がった。景皇に肩を支えられたままの怜治は、うわずった表情で賀来姉妹の方を見ていた。

 ふと気がつくと、さっきよりこの場が明るい。雰囲気の話ではなく、光量のことだ。見上げると、雲から出てきたお月様が、雑木林の隙間から顔を覗かせているではないか。こんなに明るくなるものか。

「白伊豆さん――」

 柚那の声が、締め括りの一言を飾った。

「――有難う御座いました」

 全ての闇は暴かれ、呪いは解かれた。

 


 ――正午を過ぎた頃、私は白伊豆邸にて淹れてもらったウバ・ウヴァを舐めて暇を潰していた。

 私の正面には白伊豆の恋人、早乙女涼香さおとめすずかが神妙な表情で座っている。

 ウバ・ウヴァは余り口に合わなかったが、淹れてもらった本人を目の前にそのまま感想を云えるほど私の精神は図太くない。ウバ・ウヴァがどんな味なのかなど知らなかったものだから、飲んでみたいと云う冒険心が働いたのは事実だ。でも口に合わなかった――否、嫌いな味だった。善く考えれば紅茶など普段飲まないので、こうなる可能性は十分にあった。だがウバ・ウヴァで善いですかなどと問われれば、何だそれは興味が湧いてしまうのが普通であろう。私に落ち度はなかった筈だ。が、できることならさっさと残して帰りたかった。それができないからこうしてウバ・ウヴァをちろちろ舐めている。

 一向に減らない紅茶の積を見て、不思議だよねぇと涼香は微笑んだ。私はへぇだかううんだか唸って、白伊豆の帰宅を強く待ち望んだ。

 あれから――。

 私を含めた呪いを解かれし者たちはそれぞれの帰路に着いた。氏家兄妹は道中終始無言であった。私も気がつけば恐ろしいほどの睡魔に襲われていたらしく、眠くて話などする気になれなかった。話すことなどないのだけれども。あんなことがあった直後に来年は就活だけどどうしようと本気で悩み始める景皇はやはり馬鹿なのだろう。それ以上馬鹿を露見しないでくれと云いそうになったが、幸い眠くて口が開かなかった。白伊豆の運転する車に揺られていると、眠気は格段と増した。私がまだ意識を保っている内に景皇はいびきをかいて熟睡していた。

 白伊豆邸に着きリビングに上がると、私は倒れるようにして眠りに就いた。体力精神共に限界が来ていた。気がつくと制服姿の悦子が私を揺すっていた。起きてくださいと云われ時計を見ると、朝八時である。軽く朝食を頂いてから、悦子と一緒に家を出た。白伊豆と景皇は一足早く登校したようだ。火曜の講義は四限まであるのだが、臨時の休講が複数入り、なんと午前中で手持無沙汰となった。仕様がなく実家に帰ろうとすると、何食わぬ顔の白伊豆に捕まった。

 ――うちに寄って行け。

 ――忘れ物があるからな。

 どうやら忘れ物をしているらしい。何故先に登校した白伊豆がそんなことを知っているのか疑問であったが、余り深くは考えず一緒に下校した。白伊豆は買い物をしてから帰るらしかった。付き合うのが面倒だったので、先に帰って白伊豆邸の庭でぼんやり花を眺めていると、コンコンと窓を叩く涼香に発見された。ご無沙汰してますゥと頭を下げられ、いやぁどうもなどと間抜けな返事をしている内に中に入れさせてもらった。

 一応、来訪の目的を告げ、一緒になって白伊豆の云うところの忘れものとやらを探したのだが、見当たらないし、そもそも見当もつかない。物ではないのかもと云う厭な予感に見舞われた辺りで詮方なくなり、紅茶でも出しましょうと云うことになって今に至る。

 涼香が居たのは誤算だった。

 別に苦手な訳でも――否、前提として私は対人が不得手だが――嫌いな訳でもない。ただ二人きりになって何かを話す程の仲でないのは確かだ。だから白伊豆も悦子もいない、私と涼香の二人きりの状況と云うのは、それなりに胃に来るものがあった。半年くらいの付き合いであるが、十数回は会っているし、その度に申し訳程度の会話はする。しかしこの状況は稀である。二人きりで話すことなど、云ってしまえば一つもない。ましてや私のような冴えない要素の集合体みたいな男に一人来られたところで、扱いにくく面倒なモノが来たもんだと思われるだけだろう――と云った具合に、私の被害妄想は留まることを知らなかった。

 私は脅えたような目つきで涼香を見遣った。目が合うと、ふふっと彼女は笑った。

 涼香にとって私は、恐らく変な人に映っている。これは被害妄想ではなく、れっきとした事実である。と云うのも、何かにつけて涼香は私の行為を見て笑うのだ。馬鹿にしているようでもあるし、ただ面白く思っているようでもあるし、何より、実際に云われた事が幾度か在る。

 ――林さんって変な人だね。

 私は自分で思っている以上に変なのかも知れない。どこがどう変なのかは判らないが、さして興味のあることでもない。私はそういうことを云われた時は、薄ら笑いを浮かべて乗り切るようにしている。

 紅茶を舐めるくらいしかすることがなく、やはりそうしていると白伊豆が帰ってきたようだ。遅いじゃないかと心の内で叱責するも、一人先走った私も悪いのであった。

 涼香はお帰りなさいと云って買い物袋を受け取ると、冷蔵庫を開けた。まだ付き合って半年程度の癖に随分と亭主関白である。白伊豆は私を見ると、あぁ昼行燈かと云った。そうだと応えると、上に来いと云われた。

 白伊豆に続き階段を昇る。

 まだ寝足りなくて、頭が少しぼうとする。白伊豆は普段から短眠なので、今日みたいな日も健康に過ごせるのだろう。

 私は何となく気になっていたことを聞いた。

「加奈子さんが見た少女の幽霊は――」

「怜治君だよ」

 白伊豆の部屋に着いた。

 入ってすぐ左は一面本棚で、右も本棚だ。正面にはお洒落な窓が付いていて、そこからカーテンに遮蔽された優しい太陽光が差している。窓のすぐ前に机のようなテエブルがあり、奥に奇妙な形をした椅子が在る。

 人形みたいに整った顔の男は、どかっとその椅子に座り、ふわぁーあと欠伸をしてから続けた。

「怜治君の日記には氏家宅にて少女の霊を見たとする記述があったのだ。妹に似ている気がしたなどと書いてもあったから、やはり怜治君なのだ」

「その時は怜子さんになりきっていたのでは? とすると妹と云うのは柚那さんを指しているのではないか」

「否、覚醒後に書いているのだ。目が覚めれば怜治君は怜治君なのだよ。しかし面白い書き方をする男でね。所々は成りきった表現も見られたのだな。ま、彼の筆心と云ったところか」 

 白伊豆は本棚をぼんやり見据えながら、ぽりぽりと後頭部を掻いた。気の抜けた顔をしても美麗は崩れない。

 まだ判らないことがある。

「どうして怜子さんは現れたのだ? まさか、毎回怜治君を尾行している訳ではあるまい」

「昨日だけ尾行したのだ。悦子が学校で予め促したのだよ。勝手なことをしたものだと思ったが、結果的にはあれで善かったのかも知れんな」

「もし怜子さんが来なかったら、どうしていた」

 別に――と白伊豆はつまらなそうに云う。

「怜治君が目を覚ませば、それだけで善かったんだよ。通行人を襲う通り魔は居なくなるのだからね。それに、怜子さんも夜中に起きている必要がなくなる。全ては収まるところに収まると云う読みだったんだが――」

「来てしまったからな。今回は喋ることも多かったんじゃないか」

「まぁな。とは云え、呪いを解かなきゃならん人数が増えただけだ」

 白伊豆にとっては造作もないことか。

「あぁそれと」

「まだあるのかよ、靜」

「君が僕にかけようとした呪いとは、どのようなものだったんだ?」

 それか、と白伊豆は変な椅子から立ち上がった。

「自分から忘れ物が何だったか思いだすとは偉いじゃないか」

「おいおい、忘れ物ってかけ忘れた呪いのことだったのかよ!」

 白伊豆は私に向けて手を翳した。

 窓から差し込む金色の光が、逆光になって白伊豆を薄暗く浮き上がらせる。

「さて、呪いをかけようか」

「乗り気ではないがな、この期に及んで止めろと云うつもりもないぜ――来い!」

 その時だった。

 失礼しますと云う声がして、涼香が盆に紅茶を載せやってきた。

「何やら不吉な言葉が聞こえたけど? やめてよね呪いだなんて怖いからサ。あ、今度はカンヤム・カンニャムだけど、これならお口に召すかな?」

 涼香は私を見て、白伊豆のような澄ました笑みを作った。

 呪術者は目を丸くして止まっていた。

 どうやら突然の華の入室に興が削がれたようである。

 当然のことながら、カンヤムなんたらと云う紅茶も私は知らなかった。



 **



 もふあれから数日が経とふか。

 私の中から一人の少女は未だ消ゑ去らぬものの、暗ゐ夢は、視なくなつた。


 しかし惨めであつたな。

 女子の制服を身に着け白伊豆君らと歩くのは少々恥ずかしゐものがあつたな。

 柚那と怜子も、頭を下げてさつさと行つて仕舞われたな。

 妹などが居るものだから、顔など向けられたものではなゐな。

 それでも歩くしかなかつたな。

 

 しかし、私の心に巣食ふ闇は取り払われた。

 嬉しゆふこと。

 

 さア、眠らふ。

 夢を視るのは、もふ厭ではなゐ。

 あれからと云ふもの、


 明るゐ夢を視るので御座ゐますな。


 **




                                                    (了)


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