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暗夢の怜  作者: 竜司
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 賀来柚那は中学時代の中頃まではファッションモデルとして同世代の人気を博していたが、保険のCMに中学生モデル多数と出演した際に他を圧倒する存在感で話題となり、高校入学までにドラマの脇役を務め、現在は『影の男達』と云う人気ドラマの準主役の座を射止める女優である。 

 そんな柚那には一つ上の姉がいる。

 名を怜子れいこと云う。

 怜子は一昨年にM女学院に入学した悦子の後輩である。悦子の所属する将棋部に入部した。実力はアマチュア五級くらいで五段の悦子を慕っているらしい。怜子と仲が良い悦子ならば妹の柚那と関係があってもなんら不思議ではない。

 柚那の背後から現れた怜子は――あの少女の幽霊に似ていた。

 長い髪はそのまま、そこから私を射抜く視線も。

 腰を抜かした私に驚いて、悦子は心配そうに私を介抱してくれた。善く判らない様子だったが柚那も駆け寄ってくれた。何とか立ち上がった私は無事であることを説き、上目遣いで怜子を見た。

 怜子は柚那の姉だが、余り似ているとは思えなかった。顔色が悪く目の下にできた隈が目立つ。頬が若干こけていて不健康そうである。見下すような視線が薄く開かれた目から私に突き刺さった。余り食べないのか、手足も細いようだ。何かの病気ではないのかと他人ながら心配になってくる。

 どうして姉妹でこんな所に居るのかと云うと、学校からの帰り道で普段は寄らぬマーケットに寄ってみたかったと云うだけのことらしい。今日は日曜なのに学校に何の用事なのかと悦子が聞けば、ちょっと、と曖昧な答えが返ってきた。二人とも制服だから一緒に行ったのだろう。

 何だか対称的な姉妹だと思った。

 妹は世間に名を馳せる有名人、姉は病的で暗く陰者に見えた。

 二人並んで立っていても、云われなければ姉妹だとは判断できぬ。

 立ち並ぶ二人は私と悦子を見て、そろそろ失礼致しますと頭を下げた。周囲も柚那に気がつき始めた。姉の方は悦子と一言二言交わしただけで俯き加減に後は無言であった。

 店から立ち去る二人の後ろ姿を眺めていると、何だか妹が姉を気遣うように歩いてるような気がした。

 私の気の所為だろうか。

 我々は買い物を済ませると日も傾いてきた都会の真っ只中をひたと歩いた。途中までは一緒だが、その内に別れねばならない。家まで送ろうかとも思ったが、迷惑なだけだろう。私は気が弱いからそう思ってしまう。しかし買い物袋の一つは否が応でも持つことにした。後で返すことを思えば気が重いが、それくらいやらねばさすがに男がすたる。普段は歩かぬ景色をぼんやり眺めながら、柚那の生い立ちや怜子との関係について聞いていた。

「――と云う訳だから、柚那さんとも交流があるんです、私」

「将棋部だったんだね、怜子さんは。悦っちゃんは強いもんな」

 当時中学生だった悦子と将棋を指したことがあるが、一方的に蹂躙された記憶が未だに残っている。町内大会などでも上位入賞が常らしい。

「林さんもお強いじゃないですか」

「偶ァに皮肉屋なのは兄譲りだな」

 悦子はあははと黄色い笑い声を出した。

「しかし、それにしても。あの賀来柚那に会うとは思ってもいなかったな」

「高校でも余り見ませんね。撮影などで忙しいんでしょう」

 柚那の姉、怜子について疑問が残る。怜子は異常なまでに体調が優れないように見えた。そのことについて聞いてみると、あぁそうですねと地に足が着かないような声音の返事をされた。

 何か隠している。

 それと――怜子を初めて見た時、私は先週の惨劇を思い起こした。

 何故だろうか。

 もしもあの夜中に出会った少女が幽霊などではなく……。

 否、根も葉もない。しかし、本能が既に、怜子を警戒している。

「林さん」

 悦子は私の名を呼ぶ。

「林さん、どうしてあの時、倒れたんですか」

「――非常に云い難いのだが」

 云い難くて云えなかった。

「私には、怜子ちゃんを見て吃驚されたように感じたんですが」

「そ、その通りだ」

 ちらりと悦子の顔色を窺った。困った横顔が見えた。

 覚悟を決めたように悦子は私の方を見た。

「実は、以前から相談を受けていたんです。怜子ちゃんから。怜治さんとのことについて」

 怜子と――怜治?

「その二人に関係が?」

「はい。私は、林さんも無関係ではないと思います。余り深い所までは教えられませんが、それでも林さんに話せることはあります。まず――怜子ちゃんは怜治さんと交際していました。しかしつい最近交際はストップし、二人は別れました。切り出したのは怜治さんです」

 何やら妙な話が始まった。

「馴れ初めについては私も知りませんから、それは置いておきます。で、林さんも懸念していると思いますが、私も、もしかしたらって思います。兄が林さんを加奈子ちゃんの家に連れて行ったのも、気に掛かります」

 気に掛かると云えば気に掛かる。それは私も同じだが、あくまでも気に掛かる程度のものだ。

 油断は禁物である。

 余りに先走ったことは云えたものではない。

「だから、何とも云えないのですが。でも気になる点が一つあるんです。不可解な点が」

「何だい」

「怜子ちゃんの家に、夜中、怜治さんがやってくるんです」

「はぁ?」

 間抜けな声が出てしまう。

「わ、別れた後の話だろう? 何の用で、否、付き合っていたとしても夜中に来るのは、その」

「非常識ですよね」

 夜中と聞いて不謹慎ながら妙に納得した。怜子の目の隈は酷かった。

 だが何故夜中に来る。そもそも何をしに来るのだ。

「夜中に怜治さんを部屋に迎え入れ、そこで何をしているのかと聞きましたが、怜子ちゃんは、何だか云い難い様子でした」

 私も言葉に窮した。

 厭な予感がする。

「ただ教えてくれたのは、怜治さんの様子がおかしいと云うことと、まだ怜子ちゃんのことを諦めきれていないようだとのことです」

「様子がおかしい? 諦めきれていないって、怜治君は自分から交際を断念したのではなかったか」

 悦子は唇に指を当て、思考の色を見せた。

 私は高校時代の記憶を掘り起こす。何事にも消極的で大人しかった怜治。色恋沙汰は当時一つも無かったと思われる。それだけに今回のケエスを分析するのが難しい。

「詳しくは教えてくれませんでした。私に何かをして欲しいと云う訳でもなかったです。林さんなら判ってくれますよね? これって、恋心なんです。怜子ちゃん、まだ怜治さんのことが好きなんです。私には打ち明けてくれました。話すだけでも心は多少、解放されるんです。でも、私ももやもやします。だから怜治さんと同期だった兄に相談したんです」

「白伊豆に――」

「兄は、最初は興味が無いみたいで、適当にあしらわれました。でも林さんが来てからどことなく顔つきが変わったような気がします。林さんから聞いた話で、何かに気がついたのかも」

「僕の話で?」

 私は白伊豆に――何を話した?

 悦子が私を見つめる。

「林さん、本当に覚えていませんか? 夜中に会った少女のこと。何かを云っていたんですよね? 顔も――思いだせませんか」

 ブオオとトラックがすぐ横を過ぎ去る。風が私と悦子に容赦なく吹きつけた。

 トラックが大通りを去る余韻を十分に聴いてから、私は何も覚えていないと白状した。悦子は目元を儚げにして、そうですか、と小さく応えた。

 そうだ、私は何も覚えていない。

 痛みと、暗闇と、恐怖。

 それだけを克明に体で覚えている。

 結局、私は役立たずだ。

 悦子に買い物袋を渡して別れた。帰宅する悦子の後姿を眺め、ぽりぽりと頬を掻いた。

 電車に乗る。

 私に絡み付いていた幾つもの不安要素は悦子の話を聞いて多少は解かれたような気はする。雰囲気は掴めた。だがぼんやりとした闇が未だ拭い切れぬ。

 そう云えば白伊豆も帰宅している頃だろう。

 奴は怜治の部屋で何をしていたのか。

 対面に座る白髭の男が新聞を広げて読んでいた。ベルリンの壁崩壊と大きく見出しが載っている。

 崩壊と云う言葉は嫌いだ。何だか怖くなる。秩序が無くなるようで厭になる。

 だがベルリンの壁に関して云えば、全くの逆で多くの幸せを生んだ崩壊であった。それでも――崩壊と云う文字は怖い。

 電車から降りて家路に着いた。

 理由もなく本屋に立ち寄った。

 初めて入る、こぢんまりとした本屋だった。店主は老人の手前に生きる細い親爺おやじだった。偶にこちらに視線を投げ掛けてくるのを視界の端で感知できた。入ったことをそれなりに後悔した。小学生が入ってきて店先に置いてあった少年誌を、彼にしては少々高い会計台に乗せる。こんにちはと云う挨拶を添えて。親爺も嬉しそうだった。多分、常連なのだろう。

 私は村上春樹の『ノルウェイの森』上巻を購入した。

 本屋を出る。

 軽く吹く風が冷たい。

 本を鞄に仕舞い、手をポケットに突っ込んだ。

 私の目の前を男が通り過ぎた。

 ――あの感覚に似ていた。

 本を読んでいる際に、特別気になっている言葉が一瞬目に入るのだが、一体どの辺りに書かれていたかすぐに思いだせず、ぐるぐると目を配らせる感覚……。

 私は音の無くなった自分の世界から抜け出し、現実に帰還した。

 すぐに男を目で追う。追うも何も、まだ全然離れていない。後ろ姿に曾ての面影が――。

 気が付けたのは、彼が私を多い被す闇の根本を担う張本人だったからだろう。

 私は本能的に追い掛けた。本当は怖い気持ちもある。だが足が止まらなかった。

 謎を――暴きたい。

「――怜治君?」

 図々しく男の前に回り込み、息を吐きながら呼び掛けた。

 こんな偶然が在って堪るものか。しかし現実に起こっているのだからしょうがない。

 真っ黒なダウンジャケットを着込みベエジュのチノ・パンツを履いた男、氏家怜治は立ち止まった。

「怜治君だろう」

 私は興奮気味の声で尋ねた。背丈、容姿はあの頃のままだ。

 人一倍大人しく冷静だった怜治。余り他人と意思疎通を図らなかった怜治。白伊豆邸での進学祝い以来の再会である。

 怜治はまじまじと私の顔を見た。

 まさか忘れてしまっているのだろうか。

 私が不安を覚え、自己紹介しようとすると、怜治は笑顔になって林君かと云った。

「久しぶりじゃないか!」

 吃驚した顔で怜治は云った。

 元気だったかいと聞くと、怜治は少しの間を置いてああと応えた。

 私も自然と笑みが零れる。

 仲が良かった訳でもないが、こう云う再会は何故だか嬉しくなってくるものだ。

「俺も君もこの辺りに住んでいるのに、今まで鉢合わなかったのが不思議だな」

「そうだね。今日、怜治君の妹さんに会ったんだよ」

 云った側から私はしまったと思った。口が滑ってしまった。

 怜治はぽかんとした顔になった。

 私は慌てて弁解した。

「ええと、白伊豆って居ただろう。あの捻くれている男だよ。あいつとその妹の悦っちゃんと一緒に、君の家にお邪魔したんだ」

 それらしい云い訳が思い付かない。

「実は、相談を受けてね。君の家に、少女の幽霊が出ると聞いて。白伊豆の知人に実力者が居て、もし大事とあらばその人に連絡すると云う下見だったんだよ。僕と悦っちゃんは先に帰ったから判らないが、白伊豆はちゃんと視てくれたと思うよ」

 私は随分と嘘が下手なようだ。口が変な形になってうまく喋れなかったが、何とかここまでは伝えた。怜治は不思議そうな顔をしていたが、少女の幽霊と聞いて納得したようだった。

「その話は妹と父上から聞いてるよ。何でも幽霊を見たらしいよな。笑ってしまうよな。その方面に詳しい人に相談するとは聞いていたが、まさか白伊豆君が出てくるとは思わなかったぞ」

 そう云って怜治は軽く笑った。しかし台詞が妙に淡々としていて違和感を覚える。

 何だろうか。

「林君は白伊豆君と仲が善かったもんな。もしかして、その実力者の知人って……」

「はは、違う違う。僕は偶然その場に居合わせただけと云うか、まぁ、おまけみたいなもんだよ」

 この場は何とか治めることができたようだ。我々は下らない近況報告を交えながら歩いた。高校時代は暗くて近づき難い男だと思っていたが、こうして話してみると案外気が合うかも知れない。それもその筈、私も暗いと云う面に於いては同類なのだ。怜治が自分のことを暗いと思っているかは別にして、だ。

 落ち着いてから見る怜治の顔は少し疲れているようだった。怜治の通うS大学と云うのは相当の大学で、きっと勉学が厳しい。私がもし入学していればもっと疲れた顔になるだろう。疲れるで済めば善いが。

 我々は寂れた公園に到着した。この公園がそれぞれの帰路の分かれ道だ。

 別に長話することもない――怜治にとってはそういう再会の筈だ。

 もう日が落ちかけている。

 建物の影から橙色の光が一本の筋となって私の顔の半分を照らす。少し空を見ると鳥が音も聞こえないくらいの上空を飛んでいた。

 向こうの大通りを車の走る音が断続的に響いていた。

 怜治は公園の真ん中で立ち止まる私に不審を感じ取ったのか、同様に立ち止まった。

 私を見つめている。

 風が吹いた。

「男前になったね、怜治君」

「どうしたよ」

 怜治は鼻で笑った。

 実際、怜治は二枚目である。加奈子があの顔だから、別段不思議ではない。

 顔が小さく、白伊豆と同じく中性的な顔つきである。さすがに白伊豆ほどではないのだけれども。

「実は、先週、少女の幽霊を見たんだ。この公園からそう遠くない人気のない場所でね。制服を着ていた」

 怜治は沈黙してる。

 私も怜治の立場だったら、何を云っているんだこいつはと思うことだろう。幽霊などと本気で云っているのかと。だが体験してみなければ判らない恐怖があるのは確かだ。

「林君、それは不審者だと思うよ」

「夜中だったし、確かに不審者かも知れないね」

 怜治が目を細めた。

「夜中だったのか。何してたんだ」

「散歩だよ。歩いていたら突然、少女の幽霊が現れた」

「まぁ、君が無事で何よりだ。これ以上被害者を出さない為にも、警察に云うべきじゃないか。だってそれは多分、幽霊じゃないだろう。気が動転して幽霊だと思うことはあるかも知れないけどな。ところで何故こんな話を俺にするんだい」

 御尤ごもっともな疑問だろう。

 何故、何故、何故。

 何故。

 世の中は何故に溢れている気がする。

 そんなに理由を探して面白いか。

「自分でも判らない。どうして君にこんな話をしているのか」

 怜治は一度音に反応して後ろを見てから応えた。

「そんな時もあるさ。人間誰しもな、話すだけで気が楽なる。ただ謎なのは、久しぶりに会った俺にそんな話を普通するかってところだ。何かあるんじゃないか、隠してることが」

「否、ないよ。君の云う通りだよ、怜治君。僕は誰かに聞いて貰いたかっただけなんだ」

「そうかぃ」

 日が落ちた。もう夕闇が訪れる。太陽の在った方を見ると、若干の朱い雲が見えた。あそこへ生きている内に行ってみたいものだ。

「つまらない話をして済まない。じゃあまたな、加奈子ちゃんによろしく」

「ああ。ちょっと待ってくれ林君」

 怜治はポケットに手を入れたまま、身体を半分だけこっちに向けた。

「もし、事情があって警察に云えないのであれば、そして君がその不審者を退治しようと思っているのであれば、俺も一助になろう。こう見えて空手をやっていたのでな」

 通り魔は許し難いと怜治は呟いた。

「有難う、怜治君。頼もしいがその気持ちだけで十分だ」

 怜治はふっと笑みを零した。

 我々は別れの言葉を交わし、太陽の沈んだ蒼い街を別々の方向へ歩んで行く。

 怖ろしい一日だった。

 氏家宅での幽霊騒動、賀来姉妹との邂逅、怜治との再会。

 私は怜治が進んだ方を見遣った。もう建物やら木やらに隠れてしまい、彼の姿は視認できない。

 私には見破ることができなかった。

 頼みの綱はやはりあの男か。

 暴け、白伊豆。

 氏家の闇を――。



 ***



 朝の光は心地が善ゐな。

 筆も快調に進むと云ふものですな。


 暗夢の中、憎き者を見つけた。

 先日は突然だつたもので、脳が追ゐ付かなかつたが、もふ逃がさぬ。

 

 柚那が云つた。


「痛ゐ」「止めて」「貴女は誰なの」

 

 

 ***



 窓から差し込む朝日を、瞼の下で感じ取った。

 目が覚めたようだが、目は開けないでおく。

 そのまま閉じた瞳の中で今日見た夢の内容を反芻する。

 私が居たのは暗い小径だ。

 ただ延々と歩かされる異常につまらぬ夢。

 どうやらラジオを消さずに寝たらしく、歌が耳に入ってくる。小泉今日子の『学園天国』だ。一緒になって口ずさむと善い気分になれた。暗い夢のことなど考えたくもない。目を開けて一番に時計を見る。

 朝十時。

 階下に降りて母親が作り置きしておいてくれた遅めの朝食を頂く。テレビジョンの中の天気予報士が今日は夕方から雨でございますなどと云っていた。

 窓の外からは雨の気配など微塵も見せない日光が燦々と差し込んでくる。

 あんた洗濯物干してきてと母親に命ぜられた。私は生返事をして焼かれたパンを齧った。ざくっと齧った。

 食事を終えて洗濯物を庭に干してから、私は二階の自室に閉じ篭った。

 することがない。

 否、やるべきことは幾らでもある。

 午後からは大学の講義なのだ。一週間もさぼってしまっていたのだから、いい加減に登校しなければ単位が危うい。

 高い金を払って一体何をしに大学へ通っているのか。

 私がこう愚かなのは親が学費を払ってくれているからに他ならない。きっと自分の金で通うなら真剣に――否、違う。順序が逆だ。白伊豆も度々云うが、順序が大切なのだ。

 まず金を払うには、大学へ入って何かしたいことがなければならない。何となくと云うどうしようもない理由で大学になど通うべきではない。

 強い自己嫌悪に苛まれる。両親への申し訳なさも相まって、小鳥鳴く月曜の午前中からすこぶる憂鬱になった。

 選択肢は三つしかない。

 壱、己を嫌悪する環境から脱するために何か努力する。

 弐、今の自分を肯定して自己嫌悪を抹消する。

 参、このままうじうじと考え続ける。

 最悪の選択肢は参だ。それだけはよく判る。壱か弐だろう。以前、こんな話を景皇裕司けいこうゆうじと云う二年生の先輩と議論したことがある。景皇とは私や白伊豆と同じ大学へ通う理工学部の醜男だ。体が大きく太く、だらしない贅肉で補強されている。顔は吹き出物に犯されていて余り長く見ていると毒になる。私の場合、気分が悪くなる。

 景皇は、自分だったら迷わず弐を選択すると主張した。

 根拠を問うと、あの大男はぐっふっふと笑った筈だ。笑っただけでその後に言葉が続かないから馬鹿なのかと思った。否、景皇は馬鹿である。その点に関して疑う必要はない。高校時代も同じ学校に通っていたが、その頃から馬鹿だか阿呆だか間抜けだかは健在なのだ。試験の点数は別段普通であるが、言動に不審な点が多く目立つ。

 そんな阿呆がまさか国立大学に合格するとは思っていなかったから、私は面食らった。

 しかし紐解いてみれば単純なことだ。景皇は新華族の末裔である。明治二十二年、法により貴族制度は廃止されたが、今もなお根強くその意識は生き続けている。K大学の中枢には景皇家とコネクションのある人物が居座っているのだ。白伊豆はそう推理していた。

 家柄が善いのだ。

 この世は不公平である。

 己が愚かな理由を、親が悪いのか自分が悪いのかどちらなんだと考えていると、すぐに正午になってしまった。

 昼は外で食べようと思い、着替えてすぐに登校した。歩いていると顔に蠅がたかってきて非常に不愉快だった。駅に着いて電車を待っていると、人身事故で遅れが生じているとのアナウンスが流れた。

 平和な午後だ。

 滞りなく、久しぶりの登校は完了した。

 教室に着くと既に大多数の学生が席に着いていた。そろそろ講義が始まる時間だ。

 さて何処に座ろうかと教室の端を歩いていると、景皇が呆けた面で座っているのが見えた。彼はこの講義をとっていない。そもそもこの講義を理系の学生はとらない。

 私に気が付くと景皇は少しだけ顔を歪めた。歪めたいのはこちらだ。

「おはようゆうさん」

「やあ」

 景皇の隣に座ると、奥に白伊豆も座っていることが初めて確認できた。景皇の巨漢に細身の体は隠れていたのだ。

「遅いじゃないか昼行燈。まだ完治してないのかと思ったぞ」

 景皇の向こう側から声だけが届いてきた。

「もう大丈夫みたいだ。それより白伊豆」

 白伊豆は私を手で制した。巨漢の陰から手だけが出てきた。表情などは当然見えない。手しか見えない。

「靜、落ち着け。もうすぐ講義が始まる。それと――進展はあったぞ」

 手はそう云った。

 怜治の部屋で何かを見つけたと云うことか。

 昨日の怜治との再会もあり、私は心なしか高揚としていた。九十分の講義を受けている間も余り集中出来なかった。講義が終わると、我々は食堂へと赴いた。

「白伊豆! 進展とは何だ。怜治君の部屋で何を見つけたのだ」

「はは、ショーウインドウにへばり付く子供かよ。そんなに気になるか」

「気になるぜ。僕は無関係ではないんだろ? 教えてくれ白伊豆!」

「まぁ待て。今回は謎解き気分じゃ後悔するぜ。それに、全てを明かす場は設けてある。運が善ければ明日の朝には君の疑問は晴れていることだろうよ」

 食堂は空いていた。この前の開き時間が本来の昼食休憩の時間だからだ。月曜日は三人共四限の講義をとっていないので、この時間にゆっくりと食べるのが常である。

「それはつまり、この場で君が説明するのでは不足する要素があると云うことか」

「君に説明するには申し分ない手掛かりは掴んである。ただ僕は、一回で終わることは一回で終わらせたいのでね。君への説明も兼ねて、やらなきゃいけないことが幾つかあるのだ」

「それが明日の朝には終わる。なる程つまり……」

 夜中か。丑三刻。

「何をする気なんだ」

「あまり楽しいことじゃあないよ」

 四百円の焼き魚定食をトレイに載せ、私は席に戻った。景皇は竜田揚げ定食、白伊豆は野菜炒め定食だった。

 しかし歯痒い。

 目の前にはほぼ全てを知っているであろう男が居ると云うのに。暇そうにキャベツを噛んでいるのだから、今説明してくれてもばちは当たらないと思う。しかし黙っているのも落ち着かない。

「昨日、怜治君に会ったぜ」

 白伊豆はへぇと云った。大して驚いた様子もない。

「普通の好青年になっていたよ」

 怜子と交際し、自らその関係を断ち切り、しかして夜な夜な逢瀬を重ねる氏家怜治と云う人物。悦子に依れば、二人は互いを諦めきれていないようだ。そうすると構図が不鮮明だ。

 とにかもかくにも、怜治は怪しい。何が如何怪しいのかはさっぱりだけれども。

 否、怪しいと云えば怜子にも同じことが云える。

「焦るなよ。君にかかった呪いはちゃんと解いてやる」

 白伊豆が私の目を見て云った。

「呪いだって?」

「見事にかかっているぜ、君は」

「呪いって何だよ」

「君は幽霊を恐れて一週間も部屋に引き篭もっていた。呪いは成立している」

 確かにそうだが、そう云われてもピンとこない。

「何かに呪われるようなことをした覚えはない」

 白伊豆は前髪を弄りつつ、うーんと唸り人参を箸で掴むと、ひょいと口の中に放った。

「呪いと聞いて最初に浮かぶのは何だ、靜」

「負の感情」

「そうか。裕さんは?」

 景皇は口の中いっぱいに竜田揚げを咀嚼していたので、ごもごも云っただけだった。

 白伊豆はその様を見てすまないと軽く笑った。

「呪いってのは人が人に悪意を以って災厄を齎す行為と考えて善いだろう。まぁ、第九の呪いなんかは呪いをかける側が不鮮明で微妙だがね。それはさておき、物理的に殴る蹴るではなく精神的、霊的な方法を用いて災厄を齎すのが呪いと云うものだ。君も知ってそうなのは丑の刻参りとかだろう。ほら、夜中に釘を打って死ね死ねとやるやつだ」

「ああ、知ってる」

「呪いは怖いぞォ」

 景皇が目ん玉をひん剝いて述べた。白伊豆は冷めた笑みを作り、襟足をくりくりと捩じった。

「君に呪いをかけたのは君自身だよ」

 白伊豆はやけに澄ました顔だった。

 私は水を飲んだ。

 ずずッと立てた音がやけに――

 耳に残った。



 雨が降っている――

 ザアアア

 ザアアア

 外では滝のように雨が降っていた。

 布団の中で冷えを凌ぐ。

 雨が降ると途端に寒くなったものだ。

 なにも布団に入らないと凍える訳ではないが、足先がどうも冷たくなっていく予感がして、こりゃいかんと布団に入った。

 まるで――閉鎖されたかのようだ。

 否、初めから閉鎖されてはいる。この部屋の窓も、カアテンも、ドアも、口と云う口が閉まっているのだから。

 でも雨が降ったことで、余計に圧迫されたようである。雨が、水が外の空間を占めるからだ。絶えず降り落ちるからだ。

 ザアアアアアアアア

 ザアン

 ……台風でも来るのかい。

 波の音にも聞こえて、そう思った。

 私は天井を眺めている。

 雨が降る前に帰宅できて善かった。

 あれから――。

 昼食休憩を終えた私たちは五限の講義を受けてから帰宅した。

 帰り際の白伊豆の言葉が思い起こされる。

 ――おい靜。

 ――今日は夜中まで起きておけ。

 ――いいな、眠りこけるなよ。

 私は眠るのが好きだから、次の日が休みでもない限りは夜更かしなどしない。だから早めに仮眠でもとっておこうかと云う心理が働いて、こうして布団に入っている訳だ。だがまだそれ程の睡魔が訪れていない。眠ろうとしているのか、ちょっと寒さを凌いでいるだけなのか、どうしたいのか整理がついていない。ゆえに目覚まし時計をセットするべく手を伸ばすか、伸ばすまいかと煩悶していた。

 セットすれば解決する。

 寝なくてもセットしておけば万全だが、寒くて布団から手を出すのが躊躇われる。それに時計を取るには少し身も乗り出さねばならぬ。すると身体まで冷気に晒される羽目となる。

 時計を取るか、取らないか。下らない煩悶だ。

 私は雨がこのまま明日の朝まで続くことを願っていた。

 そうすれば白伊豆に駆り出される心配もなくなるし、心なしか雨音は耳触りが善く、ぐっすり眠れそうなのだ……

 このまま朝まで眠ってしまったら、

 否ァ、大丈夫だろう。

 ザアア

 ザアアアアア

 ザアアアアアアアア……

 ほら、雨の音が、止むことはなさそうだ。

 誰も私を責めやしない。

 この雨だ。

 静かだ。雨の音は消えていないが静かだと思った。

 そんなもんだ。

「――見つけたわよ」

 私は目を開けた。

 いつの間にか部屋は、真っ暗だった。

 犬の遠吠えが聞こえた。家鳴り――だろうか。

 ガサガサ

 ガサガサベキベキ

 私は肉体を硬直させたまま、目玉だけをきょろきょろと動かした。

 様子がおかしい。

「――逃がさない」

 低い声が、脳に直接響いた。

 そして布団の中で何かが蠢いた。

 私の腹から胸にかけた辺りに、何かが――

 ぐいっと毛布が持ち上がり、二本の腕が私の顔の横にズンと堕ちた。

「怜治さん」

 至近距離で少女と目が合った。

 ――ちょっとぉ、起きてくンない?

 ――白伊豆さんから電話がきたンだけど。

 ――靜潤、起きなさいヨ。

「――」

 目が覚めた。母親が部屋のドアを開いて、私を見ていた。何寝ぼけてんのと云われた。

 どうやらいつの間にか眠っていたようだ。

 時計の針を見ると、夜の九時くらいだった。

 何か、嫌な夢を見た気がする。

 私は着替えてから階下に赴き、保留ボタンが押された電話の受話器を持った。

「もしもし」

「眠りこけるなと云ったろう」

 声音だけで寝起きを推測されたようだ。

「何だい」

「何だいじゃないよ。今日はうちに泊まれ。明日の登校も可能なように準備して来いよ」

「何ィ?」

「明日の朝ごはんも用意してやるから来いよ」

「あぁ……そうか」

 思いだした。

 この男は、何やら善からぬことを考えている。

 私にも参加しろと云っているのだ。

 鞄に教科書やらお菓子やらを詰めて、玄関に向かった。気をつけて行きなねと母が顔を向けてくれた。適当に返事をして戸を閉めた。鍵をしてくれと戸を閉めてから中に向かって呼び掛ける。要領が悪い。かちゃんと音がする。

 雨は止んでいた。

 嘘のように静かだ。

 私が夢の中で聞いていた雨音は、現実のそれか、それとも――。

 どっちでも構わん。

 電車に乗って墨田区まで揺れることとする。

 氏家宅へ赴いたこと、マーケットで賀来姉妹、その帰りに怜治と邂逅したことをぼんやり思いだしていると白伊豆邸の最寄駅に着いた。ここから数分歩く。人気も無くなってきたところで、見覚えのある後ろ姿を見た。

 景皇だった。どうやらこの男も、白伊豆邸への招待状を受け取ったようだ。

 何を企んでいる、白伊豆。

「おれァが奴ァ止める役だァナ。伊豆いずァそォ云ッてたぁナン」

 景皇は欠伸をしながらそんなことを云っていた。私は夜空を見上げた。暗い。星一つ出ていない。月も見えぬ。

 白伊豆邸へ到着した。

 呼び鈴を押して待っていると、悦子が出迎えた。今日はゆっくりしていってくださいねと微笑まれた。リビングへ通される。出てきた茶を飲んでいると、白伊豆も降りてきた。

 白伊豆は私と景皇を見て、被害者が増えたと報告した。悦子が静かに語り始めた。

「被害者は加奈子ちゃん。今日、学校で直接話を聞きました。昨夜のことです。正確には今日の午前二時半くらいです。M女学院の制服を着た黒髪の少女に暴行されたそうです」

「ふぁ、ハァ?」

 私は眉間に寄った皺の気持ちを代弁するかの如く奇声を発した。

 悦子は風呂に入った直後なのか、髪が少し濡れていた。昼に見るより色っぽく見える。兄さんが話した方が早いでしょう――と悦子は兄、白伊豆の方を見遣った。白伊豆は大きな椅子にエライ態度で腰掛けてコオラを飲んでいた。

「兄さん」

「うむ」

 あの後――と白伊豆は続けた。

「裕さんは知らないだろうが、まぁ、怜治君の部屋を物色した後、僕は加奈子さんに一つ頼みごとをした。用を終えて帰ろうとすると、どうしても話したいことがあると引き止められた。何かと問えば、隠していたことがあると彼女は云うのだな」

「え?」

「加奈子さんが見た幽霊が――怜治さん、と名を呼んでいたらしい。たまげるだろうな。加奈子さんは、兄が憑りつかれていると思った。まぁ自然な反応だな。加奈子さんの中では裏付けも出来上がっていた。怜治君が夜な夜な家を抜け出しているのを知っていたのだな。具体的にどう云う祟りか判らんが、夜中にこそこそ出ていくのはおかしいだろう。隠していたのは、僕を試していたと云う訳だ。本当に霊能力のようなモノを備えているならば、少女が自殺した部屋くらいは判るだろうと云う考えだね」

「彼女に頼んだことってのが気になるぜ。と云うかだな、どうして怜治君の部屋が少女の自殺した部屋だと判ったのだ」

 これがあったから加奈子は白伊豆の力を信用したと云う理屈である。

 私は顔の半分を手の平で押し潰しながら質問をぶつけた。少しアドレナリンが分泌され始めたようだ。

「怜治君が夜中に外出するのを見つけたら、僕にこっそり連絡するようにと頼んだのだ。自殺した少女の部屋を知っていたのは、事前に調べたからだ。当時、加奈子さんの家を担当していた不動産屋を探して、少女が自殺を行った部屋は何処かと聞いたのだ。大した仕組みではない。そう顔を赤くするな」

「そうだったのか。それで――」

「僕に連絡せずに、加奈子さんは怜治君を尾行した」

「え?」

 白伊豆は悦子ォ飯を用意してくれと声を掛けた。

 悦子は、はいと返事をしてキッチンの方へ向かった。

「――加奈子さんは、怜治君が賀来さんの家に入っていくところまで見ている。ちなみに、怜治君は家を出る時も自室の窓から出て、賀来さんの家に入る時も窓からだ。彼らは誰にも気付かれぬよう密会している」

 不思議だ――。

 既に別れた筈の二人が、夜中に何をしていると云うのだ。そんなことをしなくても、縁を戻して昼間に堂々と遊べば善かろうに。恋愛経験皆無の私には判らぬ論理が働いているのであろうか。

「よくもまぁ尾行したものだな」

「僕たちが訪問したのもある。触発されたんだろう。――怜治君が賀来さんの家に入ってから十数分、加奈子さんは辛抱強く監視を続けた。が、窓は閉まっていて内側にはカーテンが掛かっているらしく中の様子は外からでは判らない。いつ出てくるのか想像もつかないし何より寒かったから、加奈子さんは怜治君が出てくるのを見届けることなくその場を去った。だが、自販機を見つけ暖かい飲み物を飲んでいる内に、もう少しだけ待ってみようと云う気持ちになった。帰ってきた道をまた戻って、つまり怜子さんの家の方へ再度赴いたのだな。するとその途中の人気のない道で、M女学院の制服を着た少女と鉢合った。暗闇とは云え、見慣れた高校の制服を間違えることはない。以前に家の中で見た少女の幽霊を想起したようで、怜子さんは恐怖に駆られた」

「腑に落ちないな。暗闇の中で制服を見分けることができたなら、何故家の中で見た幽霊の制服を判別できなかったのか」

「家の中では少女が居ること自体おかしい。加奈子さんには妹も姉も居ないからな。制服がどこの高校のものだなんて考えるいとまも無いのだよ。だけれども、外ではどうかな。夜中とは雖も、制服を着た少女くらい居てもそれ程おかしなことではない。そこになけなしの電燈光でも当たっていれば、どこの高校の制服かくらいは考える余地が生まれだろうよ」

「ううん、そうなのかね」

 白伊豆は私を一瞥した。

「案の定――と云おうか。少女は襲い掛かってくるのだな。加奈子さんは数発ぶたれたところで倒れ込んだ。すると攻撃は止み、顔を上げると少女は消えていた。何処だと探すと、ふらふらと歩いてゆく後ろ姿が認められた。加奈子さんは恐ろしくなって家に逃げ帰った。怪我はしていないようで善かったよ」

 丑三刻に出て、通行人に暴行する制服少女……。

 私が出会った幽霊と同じだろうか。

 用意ができました、と悦子の声が耳に入った。白伊豆の話に夢中で気がつかなかったが、食卓には幾つもの料理が置かれていた。並んだカレエやら何やらを見て、思わずわぁと声が出た。美味そうだ。食卓のすぐ上にある照明の所為もあるだろうが、本当に輝いて見えた。僕と悦子の特製カレエだと白伊豆が心なしか自慢げな顔で云った。

 男だけ三人で喰う学食とは違って、此処は場所も落ち着いているし、うら若き乙女も居る。

 白伊豆兄妹特製のカレエは美味かった。エビのぷりぷりとした感触が絶品である。

 いただきますと云った側から新華族の末裔は咳き込んだ。胸を叩いて苦しそうにしている。見境なくがっつくからだ。私は静かに味わった。

 ところで――。

「なぁ、そろそろ教えてくれても善いんじゃないかい。君は何を調べていたんだよ、人の部屋で」

「君は知りたがりだなァ、靜」

「もしかして後で披露する材料だったかい」

「珍しく察しが善いな。その通りだ。僕が中々云わない時は、そういうもんだと思っておくことだな」

「ふ、いい加減に判ってきたさ」

 下らぬ雑談を交わしていると、十五分もしないで並んだ食器は全て空になってしまった。景皇は満面の笑みでもっと食べたいと云っていた。もう二杯食べたじゃないですかと悦子が苦笑した。

 次第に昔話に花が咲き始め、時間はだらだらと流れてゆく。

 気がつけば十一時半を回っていた。

 白伊豆は立ち上がって云う。

「もし、今日もまた怜治君が夜中に外出するようであれば、加奈子さんから連絡がくる手筈だが、彼が今夜も外出する確証はない」

 今宵――闇は暴かれるのか。

 怜子、柚那、怜治、加奈子。

 四人を軸に展開されるこの騒動に、私は巻き込まれた存在に過ぎない。

 しかし、どうしても結末を知りたい。

 だがそもそも何が起こっているのか、未だに判らない。

 私も加奈子も物理的なダメエジを負ったが、目立った被害はそのくらいだ。

 白伊豆は私の心を見透かしたのか、肩に手を置いて、背後からぐいっと顔を近づけた。そして一言、囁いた。

「怖いか」

 どちらかと云えば、怖い。

 一週間前の忌まわしき出来事。あれは人の仕業ではない。相手は――

「相手は人間なのか」

 白伊豆は私の問いには応えず、リビングから去った。

 とんとん、と階段を昇ってゆく音がする。

 思いだしてはならない。

 崩れてしまう。

 私の精神がまた崩壊してしまう。

 カアペットの上で寝そべっている景皇の方を、なんとなく見遣った。景皇は持参した漫画を読んでいた。悦子はテレビジョンに見入っている。四角く縁どられた電子画面には、柚那が居た。

 これから何を視ることになるのか、彼らは判っていない。認識が足りていなければ、私のように後悔することとなろう。

 白伊豆が戻ってきた。

 私を見てふんと鼻を鳴らした。

「日常生活の中で不思議な出来事を見聞きすること。それが超能力信仰の最も強力な源だ。これは社会心理学者のギロビッチの言葉だ」

 と難しいことを云った。

「不思議な現象を信じてしまう一番の原因は、それを体験することだと云っている訳だな。体験とは知覚過程、記憶過程、思考過程を経た認知処理を完了して成立する。だが人の語る体験とは必ずしも現象を正しくそのままには反映していない。人間の認知システムには歪みがあるのだ」

「何の話だ」

「人には目やら鼻やら感覚器官がある訳だが、その中でもとりわけ目立った働きをするのが視覚である。我々は外界からの情報を絶え間なくその脳みそに刷り込んでいるが、受け取っている情報の約八割以上は目から入る」

 目は大切なのだなと景皇が一人で頷いた。白伊豆は続ける。

「人によって見えている世界は違う。ドイツの生理学者ヘルムホルツは、知覚は感覚情報のパターンから無意識的な推論を行った結果であると述べた。つまりトップダウン処理のことだ」

「何だそれは。もっと判り易く説明しろ」

「君は心理学の講義中に何をしていたのだね。講義の復習だ。善く聞いておけよ昼行燈――」

 白伊豆は冷蔵庫からコオラを出してしゅわあとコップに注いだ。僕にもくれと私は威張った。

「ん? 君はこんなものを飲むのかい」

「コオラは好きだ」

「何でコーラだと思った」

 白伊豆は私のコップに黒い液体を注ぎながら澄ました顔で云った。

「何でって、それは君、コオラじゃないか」

「それだよ、靜。君は無意識的に推論しているのだ。この黒い液体をコーラだと思い込んでいる。その小さな脳みそに詰まったスキーマが、これを視覚情報と聴覚情報のみでコーラだと認識させたのだ」

「スキイマとは何だ」

「個人が経験を通して形成する外部環境に対する総合知識のことだ。君は過去に幾度もコーラを飲んできたな。その際に、コーラとはどう云う物かを、視覚的、味覚的、触覚的、聴覚的、嗅覚的に記憶してきたのだ。そして君の脳内にコーラとはこう云うものなのだと認識が為される。スキーマの完成だ。君は見ただけでも、注いだ時の音だけでも、それはコーラだと無意識的に推論するようになった。これは石油なのに」

 そう云って白伊豆は石油を飲んだ。

「推論が行われない認識方法はボトムアップと呼ばれている。感覚器官が読み取った情報のみで徐々に認識を完成させる方法だ。人は無意識にトップダウンとボトムアップ両方を絶えず作用させ外界からの刺激をうまく処理している。ただね、素晴らしい機能なのだが、トップダウンの方には落とし穴がある」

 私も真似して飲んでみた。石油はコオラの味がした。

「例えば黒い点で構成された雑な絵を見せられたら、これは何だと思うだろう。一頻ひとしきり悩んだ挙句、亀が池で鯉と一緒に泳いでいるところだなんて云う結論を出す訳だな。すると、これは麒麟が木の実を齧っているところなんですと出題者が教える訳だ。そう云われてみれば確かにそう見えてきた。一緒にやった人に何に見えたか聞いてみると、初めは狸が転げているかと思ったのだが、そうかこれは確かに麒麟だよななどと口をすっぽかして云うではないか」

 人それぞれ、推論結果が異なった。

「スキイマが違った?」

 そうだ、と云って白伊豆は石油を飲み干した。

「スキーマはあてにならない推論を導き出す可能性を秘めているのだ。事実とは異なる結果を脳に認識させる」

 あの夜――。

 私は、何を見たのだ。

 何を聴いたのだ。

 何に、触れたのだ。

 白伊豆は云うだけ云って二階へ消えた。

 時計の針が回る。三人でババ抜きなどして遊んでいると、二時になろうかと云う刻限になった。

 景皇の眠そうな顔を見ていると、私も少し疲れてきた。

 プルルルルルル――

 電話が鳴った。

 全員、顔を上げた。緊張が走る。

「もしもし。加奈子さんか」

 ちょうど降りて来ていた白伊豆が対応する。

 そうか、判った、などと云っている。

 遂に――始まるのか。

 白伊豆は受話器を置き、こちらも見ないで、

「行くぞ」

 と云った。


 





 


 


 

 

 



  


 

 

 





 

 


 

  

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