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暗夢の怜  作者: 竜司
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 暗夢の怜




 ベルリンの壁が崩壊したらしい。

 ラジオから流れる声が淡々と告げた。

 その日――。

 その日、何となく気が向かないからと云う理由で大学へ行かず自室で酒を飲んでいた私にとって、崩壊と云う語感が与えた衝撃は計り知れない。

 柄にもなく酔っていた。

 地上が蒼くなり空が煤ける。

 用もなく夜中に散歩に出向いた。

 十一月初旬の更けた外気はやけに涼しく、否、冷たくて気持ちが善い。

 とぼとぼ。

 とぼとぼと孤独に暗路を歩む。

 生暖かい大きな軟体生物が私を横目で見て触手を絡ませてきている――そんな気がした。

 暗闇は居心地が善い。

 見上げると黒い雑木林が私を覆うようにして見ていた。ざわざわと風に揺れる闇。

 遠く離れた所で、犬の遠吠えが響いた。

 気がつけば厭に気味の悪い所に出ていた。

 左右が林に囲まれたこの場所は、冷気が立ち込めている。

 私は少しだけ不安に駆られた。

 まだ酔いは覚めていないのだけれども。

 がさっ。

 と音がした。音のした方を見ても、見えるのは黒い影だけだ。

 ――怜治さん。

 誰も居ない筈なのだが、確かに声を聞いた。

 此処は、何処なのだろう。

 見回すと白い光をぼんやりと落とす電燈が一つ二つと厭な感覚で佇んでいる。頼りない佇まいだ。

 電燈を見ていると変な気配を感じた。 

 振り向くと少女が居た。

 ――見つけたわよ。

 高いような低いような声。制服を着た少女。

 黒い髪を不気味に靡かせて身体をゆらゆらさせている。一緒になって周りの木々も揺れている。

 ゆさゆさ。

 ゆさゆさ。

 嗚呼。

 私は。

 怖くなった。

 視てはいけないモノを視ている。そう思って目を手で覆った。その格好に、だるまさんがころんだを連想した。

 ――もう離さない。

 ――逃がさないわ。

 変な声だった。

 人の声だと思えない。

 びきびきぎぎぎ

 すぐ近くの林で枝が折れたような音がした。

 鼓動が早まる。

 足が震える。

 指の隙間から、中指と薬指を一寸ちょっとだけ開いて、少女を視た。まだ揺れていた。しかしさっきとは違って、ぐらんっぐらんっと激しい揺れだった。ひっと声が漏れてしまった。

 少女は、長い髪が顔の前に簾のように掛かっていてその表情の一切が見てとれない。だが、ほんの僅かな隙間から覘く見開かれた大きな目が、じっと私を捉えているのは視えた。

 揺れながら私を視ていた。

 目が合ったようだ。

 時が止まる。

 ……気が付くと彼女の腕と私の腕が絡まっていた。驚愕の余り心臓に激痛が走った。精一杯振り払おうとすると、頭が真っ白になって叫んでいた。

 声は出ていなかったと思うが。

 グオオンと云う耳障りの悪い音を聞きながら体のあちこちに何かがぶつかる感触を覚えていた。かなりのスピードでぶつかっているようだ。

 世界が上に左に下に右にと揺れている。暗く激しい世界。怖くて目が開けられないし、何かが物凄い勢いでぶつかってきているので体の自由が利かない。

 もう嫌だ。

 私は走った。

 がむしゃらに走った。

 気がつくと一人だった。少女は、見当たらない。否、この闇だ。すぐ側で私を見ているかも知れない。

 鳥肌が立った。

 私は多急ぎで家に帰った。あちこちから手が伸びて私を捕えようとしていた。

 怖くて怖くてその日は震えながら眠った。布団の中で赤ん坊のように身体を丸める。

 ガタガタと震えていると気持ちが悪くなってきた。毛布から顔を出して恐る恐る天井を見る。

 じっと天井を見つめていると境がなくなり混濁の幻が私を包み込んだ。

 いつの間にか中学時代に戻っていた。おかしいなと気がついた時には、肩を叩かれ振り向くと真っ黒い髪を垂れ流した少女が数センチの所に立っていた。夢にまで出てきて私を苦しめるか。

 目が覚めると恥ずかしながらお漏らしをしていた。

 鏡を見ると、顔に擦り傷、膝に痣やらが残っていた。うつつだったか。

 傷に触れてみるとあの惨劇を思いだして総毛だった。鏡に何かが映ったような気がして腰を抜かした。

 また布団に戻って眠ることにした。

 最悪な日であった――。



 ベルリンの壁もとい私の精神が崩壊して暫くのこと――。

 埃を被った分厚い本を読む白伊豆隼人しらいずはやとが、窓際の太陽光で黄金色に照らされている。私は声を掛けようとしたが、もう少しその画を見ていたいと思い扉の近くで静かに佇んでいた。

 端正で中性的な顔が酷く美しい。

 まるで人形のようだと思った。

「それは本当か、せい

 此処は白伊豆邸、墨田区の一角に居を構える大きな屋敷である。

 大空襲を免れ戦前から立ち聳える白伊豆の祖父、白伊豆登美男しらいずとみおの遺産である。造りは古いが風情があり何より頑丈だ。木造にしか見えないが実は鉄筋なのだと云う。築四十年だがもう三十歳は若く見えるのが不思議である。手入れが善いのだろう。

 特に白伊豆の部屋などは現代風だ。そう広くはないが白い壁天井に囲まれこの屋敷の中では異質な空間だろう。過去に尋ねた際、詳しくは教えてくれなかったが白伊豆の趣味らしい。

「おい、靜。林靜潤はやしせいじゅんよ。何をぼうとしている」

 私は今日、一週間振りに惨劇のトラウマから立ち直り外出を試みた。あの少女の幽霊が私を付け狙っていると云う被害妄想を克服した訳ではないが、部屋に閉じ篭り続けるのも精神に悪い。私の一念発起は白伊豆邸への訪問と云う形で実現した。自分の力量では卸せない問題に直面した時、善く此処を訪れるのだ。

「何もせずに突っ立っていると余計に間抜けに見えるぞ。せめて来訪の目的くらい告げた賜え」

 白伊豆の私に対する態度は確かに憎たらしいものがある。だがこの男はそれを差し置いてでも頼りにしたいものだ。私の人生における唯一の成功はこの男と友人関係を築いていることだろう。

「幽霊が出たんだ。友人が困っているのに本を読みながら聞くとは何事だ」

「僕は目的を告げろと云ったのだ。まだそれしか聞いてないよ」

 私の方など一瞥もせずぺらりと本の頁を捲り白伊豆は欠伸をした。この男が本を読みながら人の話を聞くのを得意とすることは高校時代から知っていたが、その態度に感心したことはない。

「君と世間話をするくらいなら本に没頭していた方が幾分有益なのだよ。それを君の為に意識を分散させ聞き耳立ててやっているのだから感謝して欲しいね」

 私はこの男に勝る面がひとつもないと自覚している。

 私は一週間前のことを思いだしながら、しどろもどろに説明した。しかし自分で云っていてだんだんと馬鹿馬鹿しくもなってきた。白伊豆は相変わらず本を読み続け私のことなど蚊帳の外だし、この話をしたところで一体何が如何どうなるのか。白伊豆といえども除霊は不可能だろうし、幽霊などと鼻で笑うのではなかろうか。

「君は誰かにそれを話したかっただけだ。ただ君のような根暗な人間にはそんな荒唐無稽な話を語ることができる相手が居ない。ゆえに此処へやってきた。違うかい」

 白伊豆がそう云うのだからそうなのだろう。白伊豆は音がしたから目を向けた、と云った具合の視線を寄越した。

「見た所、外傷を負っているな。被害届は出したか? その怪我なら警察も動いてくれるかも知れん」

「信じられないだろうが、僕はあれが人間だとは思えない。あんなに禍々しい空気を感じたのは生まれて初めてだ」

 白伊豆は本を読みながら、私の方は全く見ないで云う。

「幽霊だと思ったら、そのまま術中に嵌ることとなる。呪いにかかる」

「呪いだと?」

「呪いは簡単にかけることができるから厄介だ。今すぐ此処で君に呪いをかけることも僕には可能だ」

めろ白伊豆。御託ごたくは結構だ」

 白伊豆はハハッと笑った。私も御託だとは思っていない。この白伊豆と云う男は無意味なことを云わないのだ。

「御託なものか。なんなら呪いのかけ方も教えてやるぜ」

「そこまで云うならかけてみろよ」

 白伊豆は読んでいた本『ギルガメシュ叙事詩』を閉じた。そっとテエブルに置く。

 そしてここへきて恐らく初めて私をちゃんと見た。珍しそうな表情かおをして、昼行燈が居るなどと云うものだから、やかましいなと返しておいた。

「それでは呪いをかけよう」

 白伊豆は奇妙な形をした椅子から立ち上がり私に手を翳した。この男なら本当に呪いをかけてくるかもしれない。私が若干後悔したその時。

 お茶を持ってきました――。

 白伊豆の実妹、白伊豆悦子しらいずえつこが盆に茶を載せやって来た。

「何やら不吉な言葉が聞こえましたよ。呪いがどうとか。兄さん、そういうのは半分にして座ってちょうだい」

 ほらその手を下げてと悦子に促された白伊豆は、心ここにあらずと云った面持ちで素直に腰を下ろした。突然の華の入室に興が削がれたのだろうか。私は正直ほっとした。心の中で悦子に深く感謝した。

「久しぶりに林さんがうちまで来てくれたと云うのに、呪いをかけるとは何事かしら。聞けば不審者に暴行されたとか。丁重にしてあげてよ、兄さん」

 悦子はテエブルを拭きながら実兄を非難した。出迎えてくれた悦子には怪我について尋ねられ、既にあらすじは述べていた。純情乙女の手前、幽霊が出た助けてくれなどとは云えないものだから、不審者と云うことにしておいた。

「ふむ、確かに昼行燈に呪いをかけているほど僕は暇ではない。悦子、例の話はどうなった」

「はい、今日で大丈夫みたい」

 例の話、と白伊豆は云った。何だそれはと聞くと君には関係ないと一蹴された。

「私の友人の家にお化けが出るんです」

 代わりに悦子が教えてくれた。

「不思議な話ですけどね。林さんも前に一度お会いしたことがある人です。私と同じ高校の氏家加奈子うじいえかなこちゃん」

 はて、誰だったろうか。申し訳ない失念したと白状すると悦子はくすっと微笑んだ。黙っていても奇麗だが笑うとより光る。

「半年くらい前にこの家で兄さんたちの大学進学祝いをしましたでしょう。そのときに加奈子ちゃんも居ました。怜治れいじさんの妹さんですよ」

「あぁ、氏家怜治の妹か」

 氏家加奈子とは私や白伊豆と同門の氏家怜治の実妹である。しかし同じ高校を出たと云うだけで大した関わりはなかったから、氏家と聞いただけでは誰だか判らなかった。進学祝いの際には何人も来たが、怜治を呼んだのは妹同士の縁と単に実家が文京区と私と同じ地区だったからである。高校時代も殆ど会話をした覚えがない。私も人の事は云えないが、怜治は暗い性格の人物であったと記憶している。しかし加奈子の方は兄とは対称的で外交的で明るく元気だ。口調も悦子並みに丁寧だし当時の私は彼女に対し好印象を抱いていたと記憶する。

 その加奈子の住む家にお化けが出ると云う。

っちゃん、お化けって?」

「少女の霊だそうです」

 私は閉口した。

 一週間前の惨劇が脳裏に展開される。暗闇の中から覘く深い泥沼のような瞳……。

「悦子、お化けと云ったり霊と云ったりお前も忙しいな」

 私の動揺を余所に白伊豆は本棚を漁り始めた。

「お化けとはその字の如く化けていなければならない。たとえば蛇を殺したりすると、化けて出るぞなどと脅されるだろう。この場合、殺された蛇は本来の姿とは異なり例えば白い服でも着た女になって現れる訳だな。しかし霊は違う。霊と云う字の意味は神だったりこころだったりと様々だ。古代のエジプトでは死者は『死者の書』と共に埋葬された。死者が行くのは天の北にある暗黒の部分だとされる。そこで北極星のまわりの星とともに永遠の命を生きるのだ。アク――霊として。ピラミッド・テキストにはそう記されている」

「何だその、ピラミッド・テキストとは」

「初期の『死者の書』だ。死者が行くのは天の北にある暗黒の部分。これはどう考えてもこの地球上のことではない。この世ではないのだな。つまりあの世で永遠の命を生きるのが霊とされたのだ。古代インドの『リグ・ヴェーダ』などヴェーダ聖典にも似たようなことが書かれている。人間の死後に肉体を離れた霊魂は火神アグニなどの翼に乗り最高天ヤマの王国に辿り着くとされる」

 霊とお化けの違いなど気にしたことはない。

 この男はそういうところが面倒な男で、こっちがわきまえていないと驚く羽目になる。

 しかし北極星だのリグ・ヴェーダなどを暗唱できる白伊豆が不思議で堪らない。否、今に始まったことではないのだけれども。

 白伊豆は一冊手に取ると、ぱらぱらと捲り始めた。何やら画ばかりの本のようだ。

「しかしどの国でも霊はあの世に行くとされる訳ではない。例えば、日本。仏教、否、仏陀は無我を説きそもそも霊魂を否定している。ううん、云い過ぎかな。無我を霊魂がないことと同義には捉えられないかも知れんがね」

「霊魂とは何だ?」

「旧約聖書ではネフェシュと呼ばれる。これに聖なる霊が入り予言がなされると云う思想なのだ」

「霊魂に霊が入るのか?」

「僕だって専門家ではない。君は三魂七魄さんこんしちはくくらい聞いたことがあるだろう」

「何だって?」

 白伊豆はわざとらしく溜め息を吐き、できた妹に目配せした。

「悦子」

「はい。中国の民間思想でしょう。三魂は天魂、地魂、人魂。七魄は喜び、怒り、悲しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望のことよね」

 悦子も兄妹か。

「そうだ。三魂とはたましいなのだろう。天魂とは死後天に向かう魂。地魂とは地に向かう魂。人魂は墓場に残るのだ。やはり中国にも魂が天に向かう考えがあった訳だな。しかし残りの二つの魂はどうだ。地上にあるだろう。所謂これがこの世に残る幽霊の正体なのではないか」

 霊と霊魂は異なるもので魂の内二つが幽霊であると云っているのだろうか。

 善く理解できない。

 白伊豆の頁を捲る手が落ち着いた。

「幽霊とはお化けと違い生前の姿で現れるのだ。大体真夜中、丑三刻に現れる。午前二時か」

 午前二時。確かあれはそのくらいの時間だった筈だ。

 こんな話を聞いていると、だんだんと気分が悪くなってきた。

「霊と霊魂も違うのね」

「明確に区別しない思想も在るだろう。余り気にするな。死ぬ訳でもあるまい」

「霊と幽霊の違いは、あの世に居るかこの世に居るかの違いなのかしら」

「英語でghostとspiritと云う似たような意味の単語があるだろう。ghostは多く幽霊を意味する。spiritは霊なのだな。斉藤和英大辞典によればthe Ghost Story of Yotsuyaで四谷怪談を意味する。一方、spiritは反抗心や不屈の精神など、人間の精神的な作用を表す場合に使われるのだ。しかし化け物、つまりお化けを指す場合もghostを使うことがある」

 いずれにせよ――と白伊豆は本に目を落としながら続ける。

「日本でも西洋でも幽霊とは現世に未練や遺恨があるとされる。お化けとは区別されたい。これは鳥山石燕の描いた人魂ひとだまだ」

 白伊豆はテエブルに持っていた書物を置いた。開かれた頁に目を遣ると――民家の二階だろうか。そこから綿飴のような丸いものが尾を引いてふわふわと浮いている。一体、どこへ向かうのか。

「これはさっき君が話した中国民間思想における人魂と同じものなのかい」

「さぁ、知らない。しかし我々が想像したそれと石燕の描いた人魂は一致している。石燕が何をモチーフにこの画を描いたのかは判らないが、後で稲村一馬いなむらかずま先生に聞いておこう。彼なら知っているだろう」

 稲村一馬とは私や白伊豆が通うK大学の教授である。見た目からして齢六十くらいだろう。妖怪やら幽霊を語らせれば学内に右に出る者は居ない。関係のない講義にもこう云った話を交えるから辟易してしまうじじいである。

 白伊豆は更に頁を捲った。

「何だいこの書物は。画がいっぱい描いてあるね」

「無知だな君も。鳥山石燕と云ったら『画図百鬼夜行』だろうに。お、見つけたぞ」

 白伊豆が得意げな表情で私を見た。

 左上に幽霊と記されている。

 乱れた髪に三角の白い頭巾のようなものを付けた白装束を纏う女が描かれている。右手を上げているが何をしているのかは判らない。その表情からは女の心中が窺えない。

 私は、もういいと伝えた。

 余りその女を見ていたくなかった。

 白伊豆は残念そうに図画と叙事詩を本棚に仕舞うと、時計を見ながら云った。

「そろそろ時間だな。行くか」

 もう昼前である。

 窓の外で鳥がちゅんちゅんなどと鳴いている。

 昼飯でも食べに行くのだろうか。

「靜、君も来たらどうだ。加奈子さんの所へ」

 私はどうにも気が重くなった。



 ***



 不思議だ。

 私が私であつて私でなゐ感覚とは斯様の事か。

 あれは夢か現か。誠に判断し難ゐ。

 きつと夢なのだらふ。普段は致さぬ化粧を致し彼を探した。

 嗚呼。

 

 彼を見つけた。

 私の物にしたく手を出した。

 

 不思議か。

 

 暗ゐ道を彷徨ふ程に誰も彼も判らなくなつた。

 怖ゐ。

 厭だ。

 しかし夢から醒めれば私は明瞭に私であつた。嗚呼、何と、何と云う。

 善く覚ゑて居らぬ。


 彼女は何処へ行つたのだらふ。

 否、彼女は、違ふ。私が彼女の元から離れたのだ。


 ぢやあ、夢で現れた彼は誰なのかしら。

 私の姿を見て脅ゑてゐた、怜治。

 お前は、私が欲しゐのではなからふか。

 ことわりが崩れる。

 さて、眠らふ。

 眠ゐ。

 眠ゐ。



 ***



 氏家加奈子の話を要約するとこう云うことである。

 今から十九年前の昭和四十五年の冬、文京区のとある住宅街にて一人の少女が自殺した。

 噂に依れば学校での虐めが原因だと云う。与えられた勉強部屋で自殺した少女の家族は暫くしてその家を引っ越した。

 時を同じくして、稼ぎ頭の父親の会社が倒産し、借り家を追い出された氏家一家は途方に暮れていた。金も無ければ住む家も無い。

 生まれたばかりの長男怜治のこともある。事故物件と雖も、経済的な問題に照らし合わせれば新しい住処はそこ以外には考えられない。一家はその家に住むことを決めた。それから一年程で長女加奈子が生まれた。以来十八年間その家に住み続ける加奈子が、先日少女の幽霊を見たと云う訳で白伊豆兄妹が今日こんにち馳せ参じた次第である。

 飾りにもならぬ分際ながら私も付いてきた。

 清々しい日曜の午後。

 我々三人は電車を乗り継ぎ待ち合わせ場所の飲食店内で加奈子と合流した。

 加奈子は私を見るや否や、お久しぶりです林さんと笑顔で挨拶してきた。私は舌が滑ったようで口籠ってしまい、美麗な兄妹に笑われた。半年前に一度会っただけなのに善く名前が出てきたものだ。事前に白伊豆等が私の存在を彼女に知らせるいとまはなかった筈だから、純粋に彼女の記憶力が優れていると云うことである。小さな出来事であったが私は彼女に好感を抱いた。

 昼食を摂りながら聞く加奈子の話に、私の隣に座る白伊豆はほうほうと相槌を打っていた。

 詭弁が得意なこの青年に除霊などはできない。仮に本当の幽霊騒ぎだと発覚した場合でも、いつもの調子で饒舌に乗せて加奈子を落とすだけだろう。

 私はドリアを頬張りながらそんなことを考え、対面に座る悦子と加奈子を見比べていた。こうして見ると二人とも美人の類ではあるが同類ではないようだ。悦子は活発でしっかり者、穢れの見当たらない純少女と云った雰囲気であるが、加奈子は少しませている。伸びた艶やかな髪が女を意識していた。善く見なければ気がつかないが化粧もしているようだ。白伊豆に向けられる加奈子の視線に情景の色が見え隠れしてるのは気の所為だろうか。

 ――夜中に目が覚めて、用を足そうと廊下に出たら、少女の幽霊が居たんです。

 加奈子は何とも云えない表情でそう云った。本当に何とも云えない表情だった。

 現実的に考えれば寝呆けていたで済ませられそうな話である。だが、父も見たんですと加奈子は云った。加奈子の父が少女の幽霊を目撃したのは加奈子と全く同じで、トイレに行こうとした時だったらしい。加奈子は少女の幽霊を見たことを家族に隠していたから、父の思い込みと云うことはないのだそうだ。

 ようよう寝呆けていたでは済みそうにない。しかし、加奈子や加奈子の父が少女の幽霊を見たのも、自殺した少女と云う背景が見せた幻覚とは考えられないか。私が指摘しようとすると、自殺した少女の存在を知ったのはこの話を家族に話した後なんですと付け加えられた。加奈子の話を聞いた父親の動揺は想像にかたくない。話す加奈子の顔色も決して善いものではない。私はいよいよ不気味に思い、ちらりと白伊豆の横顔を見遣った。

 白伊豆はいつもの澄ました表情だった。

 そう云えばと悦子が思いだしたように顔を上げた。

 ――そう云えば、その少女は制服を着ていたのよね、加奈子ちゃん。

 ――うん、そうよ。

 私は、ぶるっと短く震えた。

 もう一度白伊豆の方を見ると、彼は横目で私を見ていた。

 我々は飲食店を後にして氏家宅へと向かった。

 日差しは出ているのに空気は冷たく、私の足取りはどうにも覚束なかったと思う。

 私の変調を察知したのか、大丈夫ですかと悦子が気遣ってきた。大丈夫だよなどと応えている内に氏家宅に到着したのがついさっきのことだ。加奈子の艶のある黒くて長い髪がそよ風に揺れる。

「此処が私の住む家です」

 何処にでもありそうな普通の家に見えた。とりわけ怪しいオウラは漂っていない。

 白伊豆は薄く開いた目で氏家の住処を見つめていた。

 いざお邪魔しようかと云う時になって、後悔の念が押し寄せてきた。何が嬉しくて幽霊の出る家になど病み上がりで出向かなければならないのか。

 私は一度、否、何度も断った。

 加奈子と会うのも本当は嫌であった。どうせ私のことなど覚えていないだろうと思っていたし、はっきり云って他人も善いところだ。

 だいたいに於いて私のような日陰者が出しゃばるべきではない。

 私は対人が苦手だ。慣れ親しんでいる筈の白伊豆や悦子とも、時たま会話をしているだけで不穏な汗を流すことがある。初対面の人間など以ての外だ。

 部屋に閉じ篭っているのがお似合いなのだ。

 しかし、部屋でじっとし続けるのにも限界がある。自堕落な生活に強い罪悪感を覚えてしまう。ゆえに新しい一歩と思いなけなしの向上心を振り絞り外出するも、日の光に当たっただけで後悔する。道端を歩く他者の生気せいきてられて劣等感に溺れてしまう。ならばと夜も更けに更けた夜中の三時だか二時に小径こみちへ出陣するも、今度は幽霊に苛められた。私の精神はずたずなのだ。

 どうしようもなくなったので白伊豆邸へ赴くも、こんどは幽霊の出る家へ付いて来いとはむくわれない。私が何をしたと云うのだ。帰しておくれ。

 しかし、白伊豆はしつこかった。どうせ帰っても寝るだけなのだから来いと云う決まり文句まで浴びせらる始末。確かにその通りなのだけれども、悦子まで帰ろうとする私を執拗に引き留めるものだから、何かあるのではと疑った。何を企んでいる白伊豆と云ったが、阿呆めとだけ返された。

 私は阿呆なのだろう。

 でも、悦子は怖がっていた。

 ――林さんがいないと心寂しいです。

 悦子は嘘を吐くような乙女ではない。きっと本心なのだろう。だが幽霊が怖いと云うなら私も同じなので全く頼りにはならない。そう説明してみせたが、居るだけで善いですからと腕まで掴まれた。こうなっては引くに引けない。厭々ながら私も氏家宅へ同行することを決めたのだ。本当は帰りたくて年甲斐もなく泣きそうだったのだけれども。胃に物を入れたら吐き気は収まったが、幽霊の出る家に行きたくない気持ちに変化はなかった。しかし加奈子に笑顔で挨拶され、ここまで来て帰る訳にも行かなくなってしまった。やっぱり僕は帰る、と発表しようとする度に悦子の私の腕を掴む感触が思い起こされた。悦子の声が私の脳内に反響する。切ないような儚いような表情がこびり付く。もうどうにでもなれと云う気概で飲食店を出た訳だが、こうして付いて来てしまっているのが非常に申し訳ないばかりだ。

 きっと氏家宅に着けばびくびく脅えているのが関の山だろう。

 しかし――歩いている内に到着してしまった。

 ――此処が私の住む家です。

 加奈子が家の塀を背に妙に涼しげな顔でそう云った。

「どうした靜、芳しくないな。顔色が」

 白伊豆の素っ気ない声で現実に引き戻された。もう行くしかない。

 加奈子に誘導され我々は屋内に進入した。

 何の変哲もない玄関を通され、居間に入る。人の家に上がる時は大抵、独特の匂いが鼻につくものだ。この家はまるでバニラアイスのような香りがした。

「怜治君は居るのかい」

 白伊豆が尋ねる。

 居ませんねと加奈子は応えた。

「今日は大学の方たちと中野に遊びに行ったらしいです。今は家には、母が居るだけです」

 加奈子は廊下に向かっておかーさーんと呼び掛けた。私は居間を見渡す。鳩時計。窓。テレビジョン。ラジオ。テエブル。奥にはキッチン。

 悦子はやけに落ち着いているから、恐らく何度か来たことがあるのだろう。仲の善い友人らしいから、頻繁に訪れているのかも知れない。

「兄さん、どう」

 悦子は静かに兄の肩に触れた。白伊豆は右手を顎に当て、左手で右肘を支える格好で思惑の表情を見せていた。何を考えているのか知らないが、この男と雖も除霊は出来ぬ。出発前――何をしに氏家宅へ出向くのかと尋ねると、調べたいことがあると白伊豆は云っていた。幽霊に関することなのか、全く関係のないことなのか。ところで私は――何をしに来たのか。

「皆さん、どうぞ楽にしてください。母が来ますので」

 加奈子がキッチンの方から茶菓子を乗せた盆を持って出てきた。我々は促されるままにテエブル席に着いた。椅子は四つしかないので若干躊躇われた。

 菓子をぼりぼりと貪っていると、あらまぁいらっしゃいと声が聞こえた。

 振り返ると入口の所に背の低い年配の女性が立っている。娘の加奈子がお世話になっておりますと深くお辞儀をされた。否、このお辞儀は私に向けられたものではない。私はこの女性からすれば得体の知れない青年に映っているのだろう。やはり場違いな気がしてならない。愚妹ぐまいがいつもお世話になっていますと白伊豆が立ち上がった。悦子もこんばんはおばさんと云っている。私は軽く会釈するに留めた。加奈子の母は口籠りつつ本題に入った。

「それでその、今日は視て頂けるとのことを、えぇ娘から」

「はい。僕に任せてください」

 白伊豆が澄ました顔で引き受けた。悦子も立ち上がったので連動的に私も立ち上がった。その際にバランスを崩して倒れそうになった。

「まぁ大丈夫? お兄さん、気を付けてねぇ」

「だ、大丈夫です」

 私は精一杯に薄ら笑いを浮かべて騒々しく体勢を立て直した。

「林さん、具合が悪いなら此処で休んで下さって」

 加奈子が心配そうに私を見つめる。その瞳を見ていると押し潰されそうな感覚に陥った。やめてくれ。私を見つめないでくれ。

 無理しないでと加奈子が近寄る。一歩、二歩。嗚呼、そんなに私に近づかないでくれ。そんなに近くで私を見ないでくれ――。私なんかに気を遣わないでくれ。

 気がつけば下を向いていた。椅子に手を添えていなければふらふらとたおれそうであった。

「気に――中てられましたかねぇ」

 加奈子の母が善く判らないことを云った。

「どうした、靜」

「大丈夫だ」

「ならば僕を真っ直ぐに見てみろ。それが出来なけりゃ、君はここでリタイアだ」

 白伊豆の至って平坦な声が私を制御した。

 崩れ落ちそうになる膝に自然と力が入り、激しかった動機が治まる。まるで音が無くなったかのような感覚に陥ったが、私の脳内に麻薬的な物質が生成されたに過ぎない。私は落ち着いた。俯けていた顔を上げる。

 皆、私を見ていた。

 悦子と加奈子は心配そうな視線を寄越し、加奈子の母は何やら怖いものを見るような目で私を見ていた。

 白伊豆はつまらなそうに私を眺めていた。

 私はその目を見て安心した。

「できるじゃあないか。ではさっそく視てみよう」

「あ――はい。まずは私が初めに幽霊を見た所に案内しますね」

 加奈子が居間から出ていった。その後に続く悦子、母親。居間には私と白伊豆の二人となった。人形のような顔をした美青年は、静かに私の方に近づいてきた。

「君が一週間前に見たのは幽霊なんかではない」

「何?」

「恐らくその正体は案外身近な存在だ。まだ全てを掌握してはいないがね」

「何か知っているのか」

「君が見た少女は何を着ていた」

 記憶が正しければ制服である。何処の学校の制服かは判らないが。

「制服と云っていたな。どんな制服だったんだい」

「判らない。殆ど暗闇だった。ちっとも明るくない電燈で僅かに制服であることが確認できた程度だ」

「そうか、M女学院の制服ではなかったか」

「え?」

 白伊豆はこの事態――そもそも何が起きているのかすら私には判らないのだけれども――をどのレヴェルまで把握しているのだろう。

「君はあくまでこの件に関して部外者だ。しかし暴行を受けた以上は被害者だ。だから一部始終を見届ける権利はあるのだ」

 白伊豆が真面目な顔で不安にさせるようなことを云うので、頭がくらっとした。

「白伊豆、謎はいつ、いつ解けるのだ」

「謎? 謎などあるものか」

五月蠅うるさい。僕にとっては謎なのだ。判らない。怖い。だから教えてくれ」

「はは、まだだ。まだ役者は揃っていない。あと二人か三人必要だ」

 白伊豆の話は要領を得ない。常に一つ上の次元に立ってものを喋る男だから仕方がない。

「兄さん?」

 悦子が戻ってきた。

「まずはこの家にかかった呪いを解くぞ」

 の、ろい。

 呪いを解く?

 白伊豆はくるりと私に背を向けると居間から出て行った。悦子が何か云いたげな顔をしていたが、私も無言で居間を出た。



「――ここで見ました。あの辺に居ましたね」

 加奈子の部屋を左に出ると、そのまま突き当りがトイレである。加奈子が少女の幽霊を見たのは部屋を出て右にある玄関の前だと云う。

 玄関との間には怜治の部屋を挟んでいるから目の前で見た訳ではなく、少女とは十数尺の距離があったらしい。少女は体の向きを変えている最中で、加奈子から見ると丁度こちらに振り向いたところだったと云う。

 加奈子は少女を見た瞬間、体が凍りつき動けなくなった。しかしこれ以上見てはいけないと心中で己に云い聞かせ、ゆっくりと後退あとずさりして布団に潜ったと云う。

 尿意など忘れてしまう程怖かったらしい。

 次に父ですが――と云って加奈子はトイレから出てすぐ左の部屋の前に立った。

「父も私と同じで、夜中にトイレに行く際に少女を見たそうです。少女が居たのは、そこ」

 加奈子が指差したのは加奈子の部屋と兄怜治の部屋の中間あたり。その辺りに背を向けて突っ立っていたと云う。加奈子の父も怖くなり、トイレに行くは止めて部屋に戻って布団を被ったらしい。

 白伊豆はふぅんと云ってもみあげを指でなぞっていた。

 話は終わった。

 判断材料はこれだけしかない。私であれば話を聞いても、そうですかで終わりそうなものだ。

「やっぱり自殺した子の霊なのかしらねぇ」

 加奈子の母が実に嫌そうな顔で抑揚を付けてそう云った。嫌悪で顔面が歪んでいる。私も当事者だったらこんな顔になっているかも知れない。

「あなたや怜治君は」

 白伊豆が云いかけると見てない見てないと加奈子の母が即答した。

「旦那とこの子だけなよねぇ。私の前にもそのうち出るのかしらね。あぁやだやだ」

「なる程。加奈子さん」

 白伊豆に突然名前を呼ばれた加奈子は、目を輝かせはいっと返事をした。

「少女の外見についてもう少し詳しく教えてくれないかな」

 加奈子は口元に手を当てがい斜め上を見る仕草をとった。思いだしているのだ。思いだしたくもないだろうに。

「黒くて長い髪……だったと思います。長いかどうか、断言はできないけど印象としては長かった気がします。顔は暗くて見えなかった……です。髪に隠れていたのかも。服装は、制服でした。背丈は、うーん、あんまり覚えてません。あとは、なんでしょう」

「判ったよ。ありがとう」

「あぁ怖い怖いあんたよく思いだせるわねほんとッ」

 加奈子の母が娘の肩を軽く叩いた。加奈子は小さく笑った。

 幽霊にも――と白伊豆が誰にともなく投げ掛ける。

「幽霊にも、幾つか分類があるのですよ」

「君は何でそんなこと知っているのだ」

「靜、君は辞典を眺めることを知らないのか」

 私とは生き方が違うようだ。

「結論から云うと、今回加奈子さんとお父さんが見た少女の幽霊は浮遊霊でしょうね」

 誰もその手の話に明るくないから反応がなかった。白伊豆はふっと吐き出すように笑みを作った。

「名前くらいは聞いたことがあるでしょう。長々とした説明はしたくないので簡単に済ませます。浮遊霊とはその字の如く浮遊している。何処彼処どこかしこにふわふわと現れるのです。特定の場所に縛られず出現するのですね」

「名は体を表すとはよく云ったものねぇ」

「そうですね。さて、お二人が目撃した少女が十九年前に自殺した少女の幽霊だと仮定しましょうか。するとそれは、浮遊霊ではなく地縛霊と捉えた方が説明がうまくいくのですね。地縛霊とは地に縛られる霊と書く。たとえば自殺した人の幽霊は自分が死んだことに気づかず、何度も自殺を繰り返すとされています。結果、自殺を行ったその地に縛られる。だから今回の場合、自殺した少女の幽霊は分類として地縛霊である方が自然なのですよ。だけど解せない点があります」

「自殺行為を見せていない?」

「その通りだ悦子。加奈子さんも、加奈子さんのお父さんも少女が振り向いたり突っ立っていたりするのを見ているだけ。自殺をしている状況を見ている訳ではない。つまりその地に縛られる必要のない幽霊、浮遊霊と考えるならば納得がいく」

「でも兄さん。二人ともこれから自殺行為に至ろうとする所を見ただけかも。つまり、もう少し長く見ていれば行為に及んだとは考えられない?」

「可能性としてはあり得るね、しかし低い可能性だ。加奈子さん、少女の自殺方法は知っているかい」

「首吊りだったかな確か」

 加奈子の代わりに母が素早く応えた。

「やはり首吊りでしたか」

 白伊豆はやや含みのある声で云った。否、わざとらしい云い方だと思った。長い付き合いの私だからそう感じ取れた。

「もしかして、あの部屋ではありませんか。少女が自殺を図った部屋は」

 白伊豆が指差したのは玄関を上がってすぐ左の怜治の部屋である。

 一瞬の間ができた。

 私は恐る恐る加奈子の母の顔を見た。

「そうです、そこです」

 加奈子が素っ頓狂な声で応える。加奈子の母は言葉が出ないようで、何食わぬ顔で白伊豆をめている。

 どういう絡繰からくりなのか。

 白伊豆のことだ。既に看破していた可能性が高い。

 一寸ちょっと失礼と白伊豆は怜治の部屋に進入した。戸は開いていたので躊躇は見られなかった。

 加奈子も続いた。

 白伊豆は怜治の部屋が少女の自殺した部屋だと云う情報をどこで入手したのだろう。まさかハッタリではあるまい。しかし可能性は零ではない。

 何やら部屋から声が漏れてきた。白伊豆と加奈子が話しているようだ。加奈子が部屋に入る時に微妙に戸を狭めたので聴こえ難い。

 不思議な子だと思ってたけど――と加奈子の母がこちらに顔を向けた。

「視えるんかい、隼人君は。それとも感じるほうなン?」

 悦子は苦笑いを浮かべた。

 視えはしないだろう。昔、白伊豆に聞いたことがある。幽霊を視たことはあるかと。ないと即答された。興味も無さげだった。

 ガラガラと戸が開かれ、中から加奈子が出てきた。一瞬、部屋の中央付近で佇む白伊豆の後ろ姿が見えたが、すぐに加奈子が戸を閉じたので何をしているのかは判らなかった。

 微かに紅潮した顔で加奈子が云う。

「今からこの部屋には、兄の部屋には入らないようにとのことです。対話をすると、隼人さんはおっしゃっていました」

「対話?」

 私は思わず口に出した。

「ええ」

 加奈子は、ええとしか云わなかった。

 そこに疑いの色は微塵もない。白伊豆を信じ切っている。否、信じ込まされたか。

 中で何を話したかは知らないが、あの男と安易に二人きりになってはならない。奴にとって人一人の既成概念を崩すことなど容易いのである。特に加奈子のような乙女なら尚更だ。

「やぁー怖い怖い! やめてよもぅあたしは買い物行くよッ」

 加奈子の母がバタバタと慌ただしく居間に消えた。手にはバッグ、顔にはマスクを付けて現れると、そそくさと玄関に降り立ち靴を履いた。

「お母さん、心配は要らないって隼人さんが」

「嫌よあたしゃ幽霊なんて呼ばれちゃ敵わないよッ。加奈子、あんたは家に居なさい。隼人君に何かあったら大変だから」

 娘の言葉など何処吹く風。加奈子の母は逃げた。

 加奈子は申し訳なさそうな顔をしている。私には加奈子の気持ちも、加奈子の母の気持ちも善く判った。悪いのは幽霊と対話をするなどと云い出した白伊豆なのだ。そんな顔をすることはない。

 私は怜治の部屋の戸に耳を当てた。

「あ、林さん。中を覗かないようにと、隼人さんが」

「大丈夫。音を聞くだけだよ」

 私は耳を済ました。ゴゴゴと聞こえた。音は永続的に、暗く冷たく、私の鼓膜に伝わってくる。これは部屋の中から聞こえる音ではない。この家そのもののこえだ。

「あ、悦っちゃん。隼人さんがね、先に帰って夕飯の御菜おかずを買っておいて欲しいって」

「時間がかかるの?」

「ううん、長くても二十分くらいだって」

「そうなの」

 実に怪しい。

 白伊豆は何を考えているのだ。

「悦っちゃん、帰るのかい」

「そうですね。この場は兄に任せるのが賢明かな」

 確かに私や悦子が居てもどうにもならない状況だ。幽霊と話す男には付き合っていられん。

「僕も一緒に行こう」

 悦子がえっと声を出した。

「女性を一人で歩かせられないだろう」

 私も一緒になって靴を履く。

 悦子は口元に手を遣りくすりと笑った。

「まだ昼間ですよ? それに――」

「意外と大胆なんですね、林さん。女の子を一人きりにさせたくないなら、私のことも失念なさらないで下さって?」

 悦子を遮る流麗な口調。振り向くと何やら意味有りげに微笑む加奈子が私を見下ろしていた。

「――結構です。悦っちゃんを頼みますね。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 加奈子はケロッとした顔でお辞儀をした。そして可愛らしく手を振って居間へと姿を消した。

 私は何故か赤面した。

「またね加奈子ちゃーん」

 居間からはーいと云う声が聞こえてきた。どこか弾んだ返事である。状況は妙だが白伊豆と二人きりになれることに小躍りしているのだろう。

「じゃあ行きましょうか。林さん」

 悦子に続き、私は氏家宅から一歩外に出た。失礼しましたと中に向かって挨拶を一つ置いてきた。果たして加奈子の耳に届くだろうか。

 日光が――私を、悦子を照らす。冷たい風が吹いている。

 私の目の前を烏が飛び過ぎ、氏家宅の塀に止まった。烏はグァムグァムと鳴いた。

 不気味だった。

 曲がり角まで歩いた所で、私は振り返った。まだあの烏が居座っている。首がクリクリと動いていた。

「どうしました?」

 悦子の声が背中をざわざわと撫でる。

 烏と目が合った気がした。



 ***



 如何して暗ゐのだ。

 私が彼を求める時に限つて世界は暗闇に犯されてゐる。

 仕方がなく気をつけて闇の中を歩んだ。


 ちゃっ。


 嗚呼、彼女は私を嫌つてゐるだらふか。

 善悪では量れぬ。

 私が悪ゐか彼女が悪ゐかなど判らぬ。

 否、私が悪ゐな。


 此れは――。

 私への天罰なのだ。

 そふ思ふと得心がゆく。

 触れてはならぬ快楽。禁忌の欲望。

 私は罪深ゐ。


 だから可笑しな夢を見る。闇の中を孤独に歩む夢を見る。

 私は彼が愛おしゐ。

 彼の部屋まで行つて彼を探した。

 誰も居ない。

 代わりに少女の霊を視た。

 何故だがふと、妹に善く似てゐると思つた。



 ***



「白伊豆は何を調べているのかね」

 寒気漂う晴天の午後。

 立ち並ぶ家々に囲まれたそう広くない道路を踏み、私は云ってみた。

 こうして二人きりで歩むのも数か月振りである。今年の夏以来だ。あの時は謎の怪老人に隠されしこの世のタブウを垣間見た。

 私がこれから見ようとしているものは何なのだろう。

 悦子を一瞥すると、何やら云い淀んでいる。

 知らないのか、それとも口止めされているのか。

「林さんになら、云っても善いのかな」

「怜治君の部屋で、何かを探しているのだろう」

「……はい。兄は、怜治さんについて調べています。ただ、私にもそれが何なのかは判りません」

「今回の幽霊騒ぎと関係あること?」

「恐らくは」

 暫く歩くと大通りに出た。車が右に左に過ぎ去って行く。道沿いに行けば大型マーケットが在るらしい。

 歩いていると少し喉が渇いた。

 どうも最近は運動が不足している。

 それに電車内は熱が篭っていて息苦しかった。喉が渇いても仕方がないと云うものだ。

「それにしても、善かったんですか? 林さん」

 悦子が振り向いた。横顔をぼんやりと眺めていたものだから、焦燥した。悦子の澄んだ瞳と私の淀んだ瞳が通じ合った。

「え、何がだい」

「怪我もされてるようですし、家も逆方向ですから」

「あぁ、そう、だね」

 怪我は殆ど治っているが、家に帰るにはまた電車に乗らなければならない。確かに手間だ。だが悦子のようなうら若き乙女とはそう滅多に歩けるものではない。私も精根から枯れ果てた訳ではない。だがそれ以上に私を帰そうとしないのは、筆舌に尽くせぬ(わかだま)りや不気味に蔓延る不安感である。

 先週遭遇した少女の幽霊、氏家宅に現れる十九年前に自殺した少女の幽霊。

 まるで底なしの沼に嵌ったようだ。このままでは帰れない。

 あの男が私を氏家宅へ誘ったのには必ず理由がある。

 ある筈だ。

「やはりまだ気に掛かるね」

 悦子はぽかんとした。

「加奈子ちゃんの家に出た幽霊は、僕が会った幽霊と関係しているのかね」

「え?」

「先週、夜中に散歩をしている僕を襲ったのは、制服を着た少女だったんだよ」

「しょ、えっ少女?」

 悦子は目を真ん丸にして私を見た。

「うん。その話をしてすぐ、加奈子ちゃんの家に一緒に来いと白伊豆が云うからさ。しかも家に出る幽霊は制服を着た少女と云うじゃないか。白伊豆のすることだ。偶然だとは思えない」

 悦子はこめかみ辺りに指を持っていき、そうだったんですかと顔を(しか)めた。

「どこの制服かは」

「判らない」

「そう、ですか。何で暴行されたんですか?」

「判、らない」

 確かに、幽霊に暴行されたと云う話は私も聞いたことがない。しかし、そもそもあれは暴行だったのだろうか。私は確かに怪我をした。だが目を瞑って防衛に徹していたから、何が何だか判っていないと云うのが本音だ。

 何かを――あの時、酔っていたから記憶が曖昧だ――見落としているのか。

 少女は何かを――。

「何も云ってこなかったんですか?」

 少女は何かを云っていた。

 だが何を云っていたかは、

「思いだせない。でも何か云っていたね」

 記憶の引き出しに手を掛ける。しかし取っ手に触れる度にそこが溶けてしまうから、要領が悪い。

 悦子の顔を盗み見るとまるで苦虫でも噛んだような表情がそこにはあった。何故そんな顔をするのか判らなかったが、乙女な分可愛らしくも見える。

 あの惨劇の情景が脳裏に浮かんでは消える。

 話を変えたい。

「悦っちゃん。そう云えば、何で三魂七魄について知っていたんだい。普通は知らないだろう」

 悦子も先程の話題を振り払うかのように、ああと云った。

「四年くらい前に『霊幻道士』と云う映画が上映されたでしょう。あの映画にキョンシーという中国の妖怪が出てくるんです。とても面白かったから、キョンシーについて調べました。そこから遡っていって、三魂七魄に辿り着いたの」

「あれか。大層に人気があったね。僕も観たことがある」

殭屍キョンシー、日本語の音読みできょうしと読みます。動く死体です。魂がなく魄だけの存在なんです」

 魂のない抜け殻か。

「魄と云う字はへんが真っ白の白、部首が鬼。つまり白骨死体です。でもキョンシーは白骨死体ではないですよね」

 不思議ですねと悦子は淡白な笑みを零した。

 鬼と云う字は死体と云う意味があるのか。

「鬼と云う字は白骨死体の象形文字です。頭に少し毛が残っている白骨死体」

「毛?」

「毛です。頭にちょこんと毛が生えているでしょう。鬼と云う文字は」

 云った直後に悦子はしまったと云う顔をした。

「ん? どうした」

 マーケットに到着した。店先に男爵薯だんしゃくいもやら蜜柑やらが並べてある。話しながら歩けばあっと云う間であった。悦子は何でもないですと云った。氏家宅に忘れ物でもしたのだろうか。

 何となく林檎を手に取ってみた。

 品定めをする悦子の後ろを居ないも同然に付いて行く。買い物かごくらい持つべきか。否、私がしゃしゃり出るよう状況でもない。申し出たところで悦子なら遠慮するだろう。

 豆腐、人参、ナス、胡瓜がかごに入った。食材から料理を予想しようと思ったが無理だった。そもそも私に料理の才はない。

 暫しの無言。

 私は食材選びをする悦子の様を背後から眺めるだけの存在と化していた。居るだけで喋りもしないし手伝いもしないのだから、やはり付いて来たのは間違いだったのかも知れない。まるで背後霊のようではないか。否、背後霊と云うのは守護霊の一種だと聞き齧ったことがある。つまり私よりは仕事をする訳だ。

 詮方せんかたなくどうでもいいことを考えていると、ぴたっと悦子のが止まった。

 俯き加減で歩いていたものだから、もう少しでぶつかるところだった。

 私は顔を上げた。

「――え」

 思考よりも。

 感情よりも。

 先に声が出た。

 私の視線は真っ直ぐに一人の少女を捉えている。

 その少女を中心に視界の枠が若干歪んだような錯覚を覚えた。ぼやけた。

 此処は――。

 大型マーケットだ。その筈だ。

 しかしこの場に余りに不釣り合いな、相応しくない存在が然として其処に在る。

 あれは、あの少女は。

「ああ――」

 悦子がそろりそろりと近づいて声を掛けた。

 私が眼鏡でも掛けていようものなら、横からちょいと持ち上げ顔を突き出していることだろう。

 M女学院に今年入学したことはラジオで聞いて知っていた。

「あ、悦子さん? お久し振りです。姉がお世話になっております」

 深々と頭を下げ、凛々しく垢抜けない声で挨拶をした少女――女優、賀来柚那かくゆずなと悦子の肩越しに目が合った。

 テレビジョンの中の者、同じ世界には生きていない者。

 特別に美麗な容姿だとは思わないが、姿勢よく保たれた華奢な身体、そして立ち上る大物のオウラ、凛とした表情が年下とは思わせない風格に満ち満ちている。

 柚那は私から視線を逸らすとにこっと笑い悦子と談笑し始めた。

 ドラマで見る彼女の表情、声、仕草が自然と思い浮かんだ。有名人を目の前にすることなど初めての経験であったから――しかも大物だ――私は言葉にならない声を小さく漏らし、その場に立ち往生していた。

 悦子が柚那と楽しそうに話している。現実から一歩、遠ざかったような感覚に陥った。

 切り取られた非現実的な情景に突如として亀裂が入る。

 柚那の背後に黒い影を視た。

 ゆらっと。

 ずずっと。

 それは姿を現した。

 柚那の背後から隙間を縫ったように出てきたのは、見覚えのある少女――。

 黒く長い髪。制服。

 髪の隙間から覘く目が、ぎょろりと私を睨み付ける。

「ひぃ」 

 私はその場にへたり込み、膝の古傷に疼きを覚えた。


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