第一話幸せになれる店
『大嘘つきの占い師』
第1話「幸せになれる店」
「ここは、幸せになれる店ですか?」
その夜、最初に扉を開けたのは、ひどく疲れた顔をした女性だった。
年齢は三十代半ばくらい。
濡れた傘をたたみ、店内を見回してから、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。占い師がいるって聞いたんですけど……」
「はい。俺です」
カウンターの奥にいた黒崎零が、静かに答えた。
女性は少し驚いたように目を見開いた。
「あなたが?」
「ええ。どうぞ、座ってください」
女性はカウンターの端に腰を下ろした。
店長が水を出す。
「ご注文はどうされますか?」
「……お酒は、飲めないんです」
「では、お水だけでも大丈夫ですよ」
零がそう言うと、女性は小さくうなずいた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて女性は、グラスを両手で包みながら口を開いた。
「私、幸せになれますか?」
零は彼女の顔を見た。
目の下には、濃い疲れが浮かんでいる。
「どうして、そう思ったんですか?」
「最近、何をしても上手くいかなくて……」
女性は、ゆっくり話し始めた。
仕事では失敗が続いている。
家に帰れば、夫とは会話がない。
子どもにまで気を遣わせている気がする。
「私がいないほうが、みんな幸せなんじゃないかって……」
その言葉を聞いた瞬間、零の表情が変わった。
「それは、誰かに言われたんですか?」
「……いいえ」
「では、あなた自身がそう思っているんですね」
女性はうつむいた。
「はい」
零は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「今日、ここへ来る前に、何か食べましたか?」
女性は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「朝から、何か食べましたか?」
「……たぶん、昼にパンを少し」
「それだけですか?」
女性は答えなかった。
零は店長に目を向けた。
「温かいものをお願いします」
「はい」
店長が厨房へ向かう。
女性は慌てて手を振った。
「いえ、そんな。お金は……」
「今日は、俺のおごりです」
「でも……」
「占いの前払いだと思ってください」
女性は困ったように笑った。
やがて、温かいスープと小さなパンが運ばれてきた。
女性は最初、遠慮していた。
しかし、一口食べると、張りつめていた表情が少しだけ緩んだ。
「……おいしい」
「それはよかったです」
「こんなにお腹が空いていたなんて、気づきませんでした」
「人は、疲れすぎると、自分の空腹にも気づけなくなることがありますから」
女性はスープを飲みながら、涙をこぼした。
「私、ずっと頑張ってきたんです」
「はい」
「家族のために、仕事のために。誰にも迷惑をかけないようにって……」
「はい」
「でも、頑張っても頑張っても、何もよくならなくて」
零は、彼女の言葉を遮らなかった。
「私、どうすればいいんでしょう」
零は少し考えた。
「明日、ひとつだけ、誰かに助けを求めてください」
「助けを?」
「ええ。家族でも、職場の人でも、友人でも構いません」
「でも、迷惑をかけるんじゃ……」
「助けを求めることと、迷惑をかけることは同じではありません」
零は穏やかに続けた。
「あなたが倒れてしまったら、周りの人はもっと心配するでしょう。だから、まずは自分を守るために、誰かに話してください」
女性は、しばらく黙っていた。
「……幸せになれますか?」
もう一度、彼女は尋ねた。
零は、いつものように微笑んだ。
「さあ。未来は見えませんから」
「占い師なのに?」
「俺は、大嘘つきだからね」
女性は、涙を拭いながら、少しだけ笑った。
「変な占い師ですね」
「よく言われます」
女性はスープを飲み終えた。
店を出る前、彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「明日、夫に話してみます。私が苦しいって」
「ええ。それが、最初の一歩です」
女性は扉の前で振り返った。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
零は、静かに笑った。
「またね」
女性が帰ったあと、店長がカウンターに戻ってきた。
「先生、あれは占いだったんですか?」
「さあ」
「さあって……」
「彼女が明日、誰かに助けを求められるかどうかは、俺にもわかりません」
零は空になったスープの器を見つめた。
「でも、今日より少しだけ、自分を大切にできたなら。それで十分だと思います」
店長は、しばらく黙っていた。
「先生は、未来が見えないんですか?」
「ええ」
「本当に?」
零は左腕の黒い時計に目を落とした。
止まったままの針。
誰にも知られない、ふたりだけの時間。
「本当に、見えません」
零はそう答えた。
そして、いつもの笑顔を浮かべる。
「俺は、大嘘つきだからね」
その夜、女性は家に帰ると、夫に言った。
「ねえ。少しだけ、話を聞いてほしいの」
夫は驚いた顔をした。
彼女は、ゆっくりと自分の苦しさを話し始めた。
すぐに何かが解決したわけではない。
夫も、どう答えればいいのかわからなかった。
それでも、彼女は初めて、自分の気持ちを隠さずに伝えた。
その夜から、何かが少しずつ変わり始めた。
幸せは、突然訪れるものではない。
誰かが魔法のように与えてくれるものでもない。
自分がもう一度、明日を選ぶこと。
その小さな選択の先に、幸せはあるのかもしれない。
零は、今日も誰かに嘘をつく。
「あなたは、幸せになれますよ」と。
本当は、未来なんて見えない。
それでも、誰かが明日を信じるために必要なら。
零は何度でも、大嘘をつく。
――つづく。




