花飾りの娘
池畔の屋敷に起こる小暗き怪異、美貌の母娘に取り憑く永き妄執。
奇異なる力を持つ探偵メドセアンが怪事に挑むハードボイルド怪奇ファンタジー!
部屋のすぐ外の階段が軋む音が聞こえた。俺はマテルバの胸をいじるのを止めて、長椅子から身を起こした。女は引き戻そうと首に手を回したが、俺は軽く接吻をして立ち上がった。彼女は不満げに唇を尖らせ、胸の釦を留めた。
「そんな顔をしないでくれ。久しぶりの客だったら、店賃も払えるかもしれない」
「どうかしらね。どこかで引っ掛けた女が恨み辛みを言いに来たんじゃないの」
足音が近づき、控えめに扉を叩く音がした。「どうぞ」というと女が入ってきた。
渋い銀茶の上下だが、生地は午後の鈍い日差しにちらちらと光っていた。値の張りそうな服だ。黒い波打つ髪を短めに切り、白い耳朶には銀の耳飾りが揺れている。腫れぼったい瞼と肉厚の唇が艶めかしい。歳は三十半ばといったところか。
マテルバは女の顔を一瞥すると「お家賃は来週までにお願いしますね」と言って、来客の脇をすり抜けるようにして出て行った。
「こちらがメドセアン探偵局でしょうか」
女は少しかすれた小さな声で言った。
「私がメドセアンです。どうぞお楽に」
俺は女に椅子を勧めた。丁度、湯が沸いたので、依頼人にリギナ茶を淹れた。マテルバが下の自分の店から持ってきたものだ。品は良いと言っていたが、多分売れ残りだろう。
女は薄赤いお茶を少しだけすすった。伏し目がちの黒い瞳は卓子の縁のあたりを彷徨っていた。
「その、こちらでは、少々変わったことでも引き受けてくださると聞きましたが」
俺はできるだけ柔らかい笑顔を作ってみた。よく女にあなたの目は笑ったことがないと言われるが、鏡を見ても自分ではわからない。
「失せ物、人捜し、その他、余所では引き受けないようなことでもお力になりますよ」
依頼人は顔を上げて潤んだ目で俺を見た。目の縁が赤いのは化粧のせいではないようだった。
「ご相談したいのは娘のことなのです」
「駆け落ちでもなさいましたか。何、すぐ連れ戻してごらんに入れますよ」
女は眉根にしわを寄せた。軽口に付き合うゆとりはないようだった。
「娘には、その、何かが取り憑いているのです」
「何か、と言いますと」
「それは……この世のものではない、何かです」
女はクリエーンと名乗った。一人娘——クリエルという名で十五になる——は二十日ほど前から様子がおかしくなったと彼女は言った。昼は自室に閉じこもり、夕刻から夜になると屋敷を抜け出し、周りの林や池のほとりをさまよい歩く。止めようとすると恐ろしい目つきでにらみ、叫び声を上げる。クリエーンの腕に歯を立てたこともあったという。織物商の夫は商談でティジャの方へ行っており、しばらく帰らないと彼女は言った。
「きっかけと思えることはありませんか」
依頼人は少しの間黙っていた。黒い双眸は白い卓布の刺繍の目でも数えているかのようだった。
「クリエーンさん、私はお力になりたいのですよ」
俺は茶碗にのばした彼女の手に触れようとした。クリエーンは手を引っ込めたが、わずかの間指先が俺の手の中に残った。それだけでもどんよりとした暗い気が感じられた。
「あの子の友だちが池に身を投げたのです。それから、様子がおかしくなりました」
クリエーンの白い指先はわずかに震えていた。俺は彼女が話すのを待った。
クリエルにはダムラージュという仲の良い娘がいた。南の市場で安物の首飾りや腕輪などを売っていた娘で、木彫りの小さな人形をクリエルが買い求めたのがきっかけで親しくつきあうようになったのだという。
クリエルは年頃の娘らしく占いや呪い——無論、恋の呪文だ——に関心があり、ダムラージュはそうしたことに詳しかった。亡くなった祖母が東部から来た占術師で、自分が作って売る細工物にも幸運を呼ぶ力が込められていると、彼女は言っていたらしい。
クリエルはしばしばダムラージュを屋敷に招いた。二人は近くの池のほとりをよく散策していた。ある夕刻、帰りが遅いのを心配したクリエーンが池に捜しに行くと、草の褥の上で二人は半裸で絡み合っていた。
クリエーンは二人を叱りつけ、二度と会わないように命じた。クリエルは部屋に閉じこもった。一度だけダムラージュが訪ねてきたが、クリエーンは追い返した。
何日かしてダムラージュらしき娘が池に身を投げるのを出入りの商人が目にした。商人は警邏を呼んだが、亡骸は上がらなかった。ダムラージュには身寄りがなかったようで、警邏隊は一通りの調べで事を済ませた。
クリエーンは娘にそのことを話さなかったし、部屋にこもっていた娘は知らないはずだったが、数日後、部屋から出てきたクリエルは様子がおかしくなっていたと彼女は言った。
「あの子はダムラージュに会いに行くと言ったのです。池のほとりでダムラージュが待っていると言うのです。止めようとするとものすごい目つきでにらみ、私のことを突き飛ばしました」
クリエーンは池へ向かった娘を追って行った。飛び込まれるのを恐れて声をかけられずにいると、娘は池の端に立って誰かに呼びかけるような声を出したが、クリエーンにはその言葉はわからなかった。クリエルは見えない誰かと言葉を交わしているような素振りを見せたが、しばらくすると踵を返して屋敷に戻って行ったのだという。
「幾度もそういうことがあったのですか」
「ええ、毎日。一度、池でダムラージュと話しているのか、と尋ねたことがあります。娘は、その、ひどく妙な、まるで私を嘲るかのような笑いを浮かべて、何も答えませんでした」
「あなたはお嬢さんがそのダムラージュという娘の亡霊に取り憑かれている、そうお考えなのですね」
わずかな間を置いて依頼人は答えた。
「そうではないかと思っています。私が……私がいけなかったのでしょうか。二人を引き離さなければ、こんなことには……」
クリエーンの頬を涙が流れ落ちた。
「ご自分を責めてはいけませんよ。発した言葉が人の心の中でどう響くか、間違いなく見通せる人間はいません」
依頼人は隠しから卵色の手巾を取り出し、涙を拭った。
「その亡霊の姿を見たり、声を聞いたりしたことはありますか。そういうものがいるとしての話ですが」
手巾で目元を押さえながら、女は答えた。「いいえ、それはありません。ただ、家の中に何かがいるような気配を感じたことはあります」
「ふむ、亡霊があなたを恨んでいるのなら、あなたの下に現れるはずです」
クリエーンは濡れた手巾を指先でいじりながら、自分を納得させるように黙って小さくうなずいた。
「まずはお嬢さんにお目にかかってみましょう。よろしいですか」
私は決まりの掛かりを彼女に告げ、依頼人はうつむいたまま「お願いします」と言った。うまくいけば、来週、店賃が払えるかもしれないし、マテルバの機嫌もよくなるかもしれない。
依頼人の屋敷はマッシュ街の外れで、あたりは木々に囲まれ小さな池もあった。少し歩けば人馬が行き交うオイスト通りだが、大都の喧騒は木立に遮られている。馬車の音に驚いて池から水鳥が飛び立った。
屋敷は板張りの山荘風のもので、周りの木立によく馴染んでいた。質素に見えるが、中に入ると、家具調度の類いには金が掛かっているのがわかった。夫君の商売は順調なのだろう。
客間の大窓からは赤や黄色に色づいた木々の向こうに池が見えた。女中が運んできたマシュウ茶をすすっているとクリエーンが入ってきた。
「迎えを寄越していただけるとは思いませんでしたよ。静かで良いところですね」
俺はクリエルに会わせてもらえるかと訊いた。母親はうなずいたが、部屋から出てくるかどうかはわからないと言った。
クリエーンは二階の娘の部屋の扉を叩き、名を呼んだが返事はなかった。扉の下の床に水が染みたような跡が見えた。俺は扉の取っ手に手をかけた。鍵は掛かっていないようだった。
部屋の中は窓掛けが閉じられて薄暗かった。年頃の娘のものらしい甘い匂いがした。
奥の天蓋付きの寝台の上で、白い布がもぞもぞと蠢いていた。小さな喘ぎ声と猫が水を飲むような音が聞こえた。絨毯の上にも水が滴ったような跡があり、戸口から寝台へと続いていた。
「お楽しみのところ、すまないね」
俺は寝台に歩み寄り、蠢く白い敷布を取り払った。寝床では裸の娘が赤く上気した顔で身をくねらせていた。彼女と絡み合っていた灰色のぼんやりとしたものが俺の脇をすり抜けた。クリエーンの短い悲鳴が聞こえた。
俺は灰色の影を追おうとした。影は戸口でクリエーンと鉢合わせすると、急に輪郭をはっきりさせ、裸の女の後ろ姿になった。クリエーンは今度は長い悲鳴を上げた。女の姿になったものはすぐに形を失い、灰色の影となって廊下へと去った。失神して倒れた母親の体が俺の足を阻んだ。廊下に出るともう灰色のものの姿はなかった。水の跡だけが点々と残っていた。
部屋に戻るとクリエルはまだ朦朧とした様子で寝台に横たわっていた。母親によく似た美しい娘だった。乱れて広がった黒髪の上に白い小さな花が幾つか散らばっていた。俺は娘の裸体に敷布を掛けると、倒れているクリエーンの頬を軽く叩き、名を呼んだ。手を取るとひどく乱れた気が伝わってきた。混乱が過ぎて彼女の心象はうまく形にならなかったが、時折女の姿が現れては煙のように消えた。
うめき声とともにクリエーンは目を開いた。俺の姿を認めると、身を固くして自分の胸をかき抱いた。
「クリエル、クリエルは!」
「ご安心を。娘さんはまだ夢心地のようです」
クリエーンは寝台の方へ目をやり、顔を赤らめて頭を振った。
「何を見ました?」
俺の問いにまた彼女は首を横に振った。
「あれの顔を見たでしょう。私には後ろ姿しか見えなかったが、あなたは見たはずだ」
俺は彼女が立ち上がるのを助けて手を握った。先刻よりはずっとはっきり、女の顔が見えた。クリエルと同じくらいの年頃の娘のようだ。栗色の髪に明るい鳶色の瞳、雀斑、花を編んだ髪飾り、そうした心象が浮かんで消えた。
「あれは誰ですか?」
クリエーンはうつむき、頭を抱えた。
「ダムラージュよ、ダムラージュなの」
寝台から答えが聞こえた。クリエルが敷布で胸乳を隠して半身を起していた。
「ダムラージュは死んだのよ」
母親は苛立ったような声を出した。
「ダムラージュは死んだの」
クリエーンは娘の方を見ないまま繰り返し、泣き声になった。俺はクリエルに服を着るように言い、母親の肩を抱いて部屋の外へ連れ出した。何かが残した水の跡をたどるように俺とクリエーンは客間に戻った。
悲鳴を聞いたのか、女中が恐る恐る顔を出した。酒はあるかと聞くと、黙ってうなずき、ブゴム酒の瓶と小振りの酒杯を二つ運んできた。クリエーンは灰色のものとほとんど変らないような顔色で目をつぶっていた。俺は琥珀色の酒を二つの杯に注いだ。
「幾らかましな気分になるかもしれません」
クリエーンは答えなかった。俺はブゴムを一口飲んだ。いい酒だが甘過ぎた。
「こういうことも幾度も?」
彼女は曖昧な答えを返した。
「何かがいる感じは幾度か。ああ、でも何も見ていません」
「今日は見ましたね。あれは何ですか、いや、誰ですか。娘さんはダムラージュだと言いましたが、あなたにもそう見えましたか」
俺は彼女の手から伝わってきた女の姿を口にした。クリエーンは眉間にしわを寄せて俺を見た。
「あなた、何をしたの?」
「少しだけ見えるんですよ、頭に思い浮かんだことが」
「気分が悪いわ。勝手に人の心の内を……」
「私のところに依頼に来たということは、そういう評判も知ってのことでしょう。ただの探偵なら他にもいますからね」
こういう問答には慣れていたが、気分がよくなるものでもない。
クリエーンは溜め息をついて、酒杯を手に取った。
「ラマカム、昔の私の……恋人に見えたわ」
「その人はもう亡くなっているんですね」
クリエーンは杯を干すと、自分で次の一杯を注いだ。
「そういう話を聞いたわ」
クリエーンは二杯目のブゴムを少しずつすすりながら話を続けた。
クリエーンはラマカムという娘とかつて恋仲になった。クリエルより少し年上の頃だったという。ラマカムはサブレス広場の見世物一座で絵札占いなどをしている娘だった。占い師と客として出会った二人は惹かれ合い——占いの通りに——結ばれたが、クリエーンには親の決めた婚約者がいた。
「この街では女同士、男同士がくっつくのもさして珍しいわけじゃない。親御さんはそういうことにうるさいお方で?」
家柄の違いとか商売の都合とか、そういう理由があり、逆らえなかったと彼女は言った。
蜜月の時は短く、ラマカムもまた他所の街へ巡業に行くことが決まり、二人は別れた。クリエーンは許婚と結婚し、娘が生まれた。夫は優しい男で、これまで平穏に暮らしてきたと彼女は言った。ラマカムと過ごした日々は、熱病に浮かされていたようなものだと思うようになったと彼女は言った。
「彼女が亡くなったという話は、別れて十年ほど経ってから聞いたわ。サブレス広場に見世物一座が来ていて、娘が行きたいというので連れて行ったのよ。ラマカムがいた一座とは別の一座だったけど、見覚えのある人形使いのお爺さんがいて、昔のことを少し話したら、この街を出て一年後くらいにラマカムは病で亡くなったと言ったわ」
その時はひどく悲しいとは思ったけれど、日々の暮らしの中にその気持ちは程なく埋もれていったとクリエーンは言った。
「クリエルがダムラージュを連れてきた時には、ラマカムのことを思い出して、心が波立つような感じがした。でも、そういう間柄かどうかはわからないし、ダムラージュはラマカムじゃない。余分な口を挟まず、二人を見守るつもりだったのよ」
「けれども別れさせたのでしょう。なぜです? あなたの親御さんと同じ理由ですか」
クリエーンは違うと言った。
幾度かダムラージュが家を訪れ、その姿を見るうちに、彼女が次第にラマカムに似ているように思えてきたと彼女は言った。くすんだ金茶色に見えた髪は栗色に近づき、濃い茶色だった瞳は明るい鳶色になり、いつの間にか頬には雀斑が浮かんでいたのだという。ある日、二人は池の側で摘んだ花で頭に花飾りをつけて戻ってきた。
「昔、私とラマカムも同じことをしていた。その時、花飾りをつけたダムラージュがラマカムに瓜二つに見えた」
それから少しして、二人の情交を目にしたクリエーンは言い知れぬ恐怖を感じ、娘がラマカムと付き合うことを禁じた。
「思い過ごしということはありませんか。大人になるにつれ、髪の色が濃くなることはままあることでしょう。花を摘んで髪に飾るなんて、誰でもすることだ」
クリエーンは強く首を横に振った。
「あれはラマカムよ。私の代わりにクリエルを連れに来たに違いないわ。黄泉の国か天つ国か、そういう遠いところへあの子を連れ去ろうとしているのよ」
彼女は杯にブゴムを注ごうとしたが、手が震えて卓子の上に酒がこぼれた。
「違うわ、あれはダムラージュよ。私に、私に会いに来ているのよ。邪魔をしないで」
客間の戸口にクリエルが立っていた。寝衣なのか、膝丈の白い服を着ている。先刻とは違って顔色は青白かった。
「クリエル、部屋へ戻りなさい。あれは……あれは恐ろしいものなのよ」
「あれはダムラージュよ、お母様、私のダムラージュをとらないで」
クリエルは固い表情でそう言い、音を立てて扉を閉めた。
クリエーンはこめかみに手を当てて、すすり泣くような声を出した。
「こんなことが……昔のことなのよ、一時の戯れだったはずよ」
「あなたが悪いわけじゃない。ただ、恋情のもつれは時に尋常ではないことを引き起こす。そういうことです」
慰めになる言葉ではないかもしれないが、何か言う必要があった。
「あなたの昔のお相手は占いをしていたと言いましたね。何かその手のことで思い出すことはありませんか。つまり、魔術とか妖術とか言われる類いのことで」
ラマカムは絵札の他に水晶玉も使い、特別な香も焚いていたと彼女は言った。
「でも、そういうものは雰囲気を作るための玩具だと笑っていたわ。客をそういう気分にさせて、望んでいることを口にさせ、占いを信じさせるためのものだと。本当の魔術を行うには、相手の体の一部——髪の毛とか爪とか血とか——が必要だと言っていたわ」
「そういうものを彼女に渡したことはあるのですか」
クリエーンの顔は幾らか強張って見えた。
「髪を一房、最後に会った時にねだられて。思い出の縁にしたいと言われて……」
「他には?」
彼女は目を伏せて「ないわ」と言った。
「あなたが渡さなくても、相手がとっていったかもしれません。例えば、血とか」
クリエーンは顔を上げてもう一度言った。
「そんなことはないわ」
「あなたが覚えていないだけかもしれません」
俺は立ち上がり、彼女の側に寄った。クリエーンはこちらを怒りと恐れの入り混じった目で見上げ、椅子から腰を浮かせた。俺は彼女の額に指先を当て、押し戻した。
「ちょっと失礼しますよ」
俺は両手の指先をクリエーンのこめかみに当てた。女は「あっ」と一声出して、すぐに白目を剝いて気を失った。唇が半ば開いたままなのが、妙に艶めかしかった。
クリエーンは魚のように唇をぱくぱくと動かした。わずかな喘ぎ声が喉から漏れ出した。二つの女体が絡み合う様が頭に浮かび上がった。一人は黒髪に白い肌の娘、もう一人は栗色の髪に淡い褐色の肌の娘、二人は草むらに広げた毛布の上で滑らかな肌を重ね、接吻し、互いの肉を弄んでいた。
クリエーンの胸乳を吸っていたラマカムは次第に唇を下へと這わせ、薄毛に覆われた恋人の股間に顔を埋めた。幻視の中のクリエーンは一際大きな歓喜の声を上げ、椅子の上の彼女も大きく身を捩らせる。
やがて、クリエーンの口から悦楽の声とは違う鋭い声が聞こえた。ラマカムがクリエーンの股間から顔を上げると、濡れた唇に赤い滴が見えた。ラマカムは口に含んだわずかな恋人の血を指先ほどの小瓶に素早く流し込んだ。
幻の交わりは続き、痛みも失せたのか夢現つのクリエーンは体をのけ反らせたかと思うと、急にぐったりとした。俺は女のこめかみから手を放した。
髪の毛と血で何ができるのか。古の大魔道士セプトリマスは男の精がなくとも血の滴と肉の欠けらから女を孕ませて子を為したというが、一介の若い占い師にそんなことができるのだろうか。
ダムラージュの祖母が東部から来たという話が気になった。東部には未だに大きな力を持つ魔道士が存在し、戦にその力を振るうという。魔女の支配する街があるという話も聞いたことがあった。確かサレームだったろうか。
クリエーンは何も言っていなかったが、ラマカムの一座はどこからやって来たのだろうか。揺り起こして尋ねようと思ったが、その暇はなかった。
客間の窓から白い服の裾を揺らしてクリエルが小走りに池へと向かう姿が見えた。俺はまだ身を震わせているクリエーンを置いて屋敷から出た。
日が落ちるにはもう少し間があるはずだが、空はいつの間にか厚い雲に覆われていて、青みがかった薄闇が木立と草原を包んでいた。クリエルの白い姿はその中で踊っているように見えた。
腰のあたりまでのびた草をかき分けて進むと、白茶けた細い桟橋が池に突き出していた。すぐ側には半ば沈みかけた朽ちた小舟が見えた。彼女は桟橋の先端に立ち、薄黒い水面に顔を向けていた。
「クリエル!」
名前を呼んだが娘は振り返らなかった。水面から静かに何かが現れた。水は泡立ちもせず、波すらほとんど立たない。池から現れた灰色のものは深くうなだれた女のように見えた。濡れそぼった髪が垂れかかり、顔は見えなかった。衣裳の襞か、絡まった水草なのか、あるいは落ちかかった腐肉なのか、定かでないものがその身から幾筋も垂れ下がっていた。
「クリエーン、クリエーン」
それはくぐもった声で名を呼んだ。クリエルには自分の名のように聞こえているのだろうか。
「ダムラージュ、今、そこに行くわ」
彼女は桟橋の先へと足を踏みだそうとした。
「だめだ!」
俺は軋む桟橋を走って、揺れる娘の肩を後ろからつかんだ。突然、視界が明るくなった。明るい日差しを浴びて水面はきらめき、白や黄色、薄桃色の睡蓮が無数に咲いていた。花で飾られた小舟が浮かび、その上で金色の瞳の娘が微笑み、こちらに腕を差し伸べていた。頬には雀斑、髪には花飾り。
「クリエル、クリエル」
今度ははっきり娘の名前に聞こえた。クリエルは俺の腕の中で「放して!」と叫び、もがいた。
「お前が本当に欲しいのはこの娘じゃないだろう」
俺はクリエルのみぞおちに一突き入れた。娘は力なく頽れた。花に彩られた幻はかき消え、あたりを青黒い薄闇が覆った。灰色のものは怨嗟の声を上げて、水面を滑るように近づいてくる。骨がのぞく腕をこちらに差し出し、恋しい相手の名を呼ぶが、半ば崩れた唇ではそれが母親の名前なのか娘の名前なのか、判然としなかった。
俺は懐から短剣を抜き、横たわる娘の腕を取った。小指の先を切ると温かい血が流れ出した。桟橋から彼女の腕を突き出すようにすると、血の滴が一滴、二滴と暗い水面に落ちていった。
「これは誰の血だ? お前が欲しい娘のものではないはずだ。別の男の血が混じった、別の娘の血だ」
水面に滴った赤い血が一筋の細い流れとなって灰色のものの下へと達した。わずかな血の滴は灰色のものを下から上へと赤く染め上げた。赤黒く染まったそれは、ひどく悲しげな泣き声らしきものを発した。母親と娘、二人の名が重なり合って聞こえるようにも感じられた。それは泥の塊のようにぐずぐずと形をなくして水中に消えた。
「クリエル、クリエル」
娘の名を呼ぶクリエーンの声が聞こえた。
「来るな! そこで待っていろ!」
俺は正体のない娘を抱きかかえ、母親の立つ小道へと向かった。
あれが何だったのか、はっきりしたことはわからなかった。ラマカムは古の魔術に長けた何者かの助けを借りて、別れた恋人の〝娘〟を作ったのだろうか。ダムラージュの祖母というのは、ラマカムの母親だったのかもしれないが、十五年以上前の旅の見世物一座のことなど誰も覚えているはずはなかった。南の市場を訪ねてみても、ダムラージュの素性を知る者はいなかった。
クリエルはしばらく臥せっていたが、次第に部屋から出てくるようになった。クリエーンは池が見える大窓に分厚い窓掛けを掛けた。
俺は池から離れたところへできるだけ早く住まいを変えることをクリエーンに勧めた。あれが確かに滅んだのかどうかはわからない。妄執はそう簡単に消えるものではない。死者であろうと生者であろうと。水底に沈んだ記憶もまた浮かび上がる時があるかもしれない。
クリエーンは夫が戻ったらそう話してみると言った。一家が本当に引っ越したのかどうかは知らないが、その後、クリエーンが依頼に来ることはなかった。




