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主婦業に疲れて愚痴っていたら、突然高層マンションで完璧超人に養われることになったんだが?!

作者: Su
掲載日:2026/07/12

午前六時。


 平岡茜は、けたたましく鳴るスマートフォンのアラームを止めると、重たい体を無理やり起こした。


 眠い。


 とにかく眠い。


 昨夜も子供たちを寝かしつけているうちに、自分までそのまま眠ってしまった。


 おかげで皿洗いも洗濯物の片付けも終わっていない。


 だが、そんなことを考えている暇はなかった。


「翔子ー! 起きてー!」


 寝室から声を張り上げながら、茜は台所へ向かう。


 冷蔵庫を開け、子供たちの朝食を用意しながら水筒を洗う。


 保育園用のおしぼり。


 給食セット。


 体操着。


 小学校へ持っていく持ち物。


 確認するものは山ほどある。


 その最中、後ろから欠伸混じりの声が聞こえた。


「おはよ」


 夫の和彦だった。


「おはよう」


 茜は振り返りもせずに返事をする。


 和彦はそのまま洗面所へ向かい、自分の支度を始める。


 それを横目に見ながら、茜は内心でため息をついた。


 水筒の準備でも。


 おしぼりをバッグに入れるだけでも。


 ほんの少し手伝ってくれたら助かるのに。


 もちろん和彦だって仕事をしている。


 疲れているのもわかる。


 だから口には出さない。


 出さないけれど。


(少しくらい、やってくれてもいいじゃん……)


 そう思わずにはいられなかった。


 ふと流し台を見る。


 そこには昨夜の食器が積み重なっていた。


 寝落ちしたせいで、そのままになっている。


 ごちゃり、と積まれた皿の山。


(帰ったら、まずこれか……)


 朝から気分が沈んだ。


 茜は鏡の前に座り、急いでメイクを始める。


 その時だった。


 リビングからテレビの音が聞こえる。


 嫌な予感がした。


「祐也!」


 呼んでも返事がない。


 茜は慌ててリビングを覗いた。


 そこには案の定、テレビに夢中の息子の姿。


 さらにその横では、起こしたはずの翔子が床で二度寝していた。


「翔子! 起きて!」


 茜は体操着を取り出し、娘へ放る。


「今日はこれ着るの!」


「ママぁ……なんでたいそーぎなの?」


「運動会の練習だから!」


「はぁい……」


 翔子は眠そうな声で返事をした。


 茜は再びメイクへ戻る。


 数分後。


 なんとか身支度を終えた茜は、再びリビングへ向かった。


 そして固まる。


 祐也がまだ着替えていなかった。


 朝ごはんも食べていない。


 テレビだけはしっかり見ている。


「祐也!!」


 思わず声が大きくなる。


「さっさと支度しなさいって言ってるでしょ!」


「わかってるって!」


「毎朝毎朝同じこと言わせないで!」


「わかってるってば!」


 言い返される。


 茜は唇を噛んだ。


(もう……)


(朝から怒りたくないのに……)


 だが時計は待ってくれない。


 子供たちにパンを食べさせる。


 自分は戸棚にあった栄養補助食品を口へ放り込んだ。


 味なんてほとんどわからない。


 食べることより、時間の方が大事だった。


 あっという間に出発の時間になる。


「出るよ!」


「はーい!」


「いこー!」


 慌ただしく玄関へ向かう。


 その途中で茜は気付いた。


「翔子! 髪結んでなかった!」


 急いで娘の髪をひとつにまとめる。


 その横では祐也がのんびり靴下を探していた。


「祐也!! 靴下!!」


「今履こうとしてたんだよ!」


 その言葉にさらに苛立ちが募る。


 だが言い返している時間はない。


「早く!」


 そう急かしながら二人を車へ乗せた。


 ようやく出発だ。


 保育園へ向かう車の中。


 祐也が突然言った。


「ママ! 日曜日晴れてたら公園行こうよ!」


「サッカーしよう!」


「はいはい。晴れてたらね」


「約束だからね!」


「わかったって」


 適当に返事をする。


 本当に聞いていたのかどうか、自分でもわからなかった。


 保育園へ着く。


 祐也は車から飛び降りると、そのまま全力で走り出した。


「ちょっと!」


 茜は窓を開ける。


「走らない!」


「車気を付けて!」


「信号ちゃんと見てよ!」


「わかったーーー!!」


 本当にわかったのだろうか。


 毎朝のことながら心配だった。


 続いて翔子を連れて保育園の玄関へ向かう。


「ママぁ」


「ん?」


「運動会、一番前で見てね?」


 翔子はにこにこ笑いながら言った。


「翔ちゃん絶対一位取るから!」


「はいはい」


 茜は笑う。


「ちゃんと見るよ」


「絶対だからね!」


「うん」


 先生へ娘を預ける。


「お願いします」


「はい、お預かりします」


 先生が微笑んだ。


「お気を付けて」


「ありがとうございます」


 そう返事をした瞬間、茜は時計を見た。


 血の気が引く。


「やばっ」


 遅刻ギリギリだった。


 慌てて車へ飛び乗る。


 仕事へ向かうため、アクセルを踏み込んだ。


 朝から、もう疲れていた。


午前八時。


 始業時間ぴったりに職場へ駆け込んだ茜は、制服へ着替えるとすぐに仕事へ取り掛かった。


 座る暇なんてない。


 商品の補充。


 電話対応。


 接客。


 伝票確認。


 そして責任者業務。


 気付けば時計の針は昼を回っていた。


「疲れたぁ……」


 休憩室の椅子へ腰を下ろした瞬間、全身から力が抜ける。


「茜ちゃん、今日も忙しそうだったねー」


 同僚のパートが笑いながら隣へ座った。


「もう朝からバタバタですよ」


「うちなんかさー」


 別のパートが弁当の蓋を開けながら言う。


「旦那が本当に何もしないの!」


「あー、それわかる!」


「食べて寝るだけなんだよ!」


「うちも!」


 途端に休憩室が盛り上がった。


 いつもの流れだ。


 旦那への愚痴大会。


 昼休憩の定番である。


「茜ちゃんとこは?」


「うち?」


 茜は苦笑した。


「うちも似たようなもんですよ」


「でたー!」


「でもさ、平日休みの時にたまーに夜ご飯作ってくれたりはするんです」


「いいじゃん!」


「その後の片付けしないけど」


 一瞬の沈黙。


 そして。


「あーーー!!」


「それ腹立つやつ!」


「やれよ最後まで!」


「そうなんですよ!」


 茜も思わず笑う。


「皿洗い終わった後にさ、遅れて皿出してくるんですよ」


「最悪!」


「皿一枚と箸一本くらい自分で洗えって思う」


「わかるーーーー!!」


 爆笑が起きる。


 愚痴なのに少しだけ楽しい。


 皆、同じなのだ。


 それが妙な安心感になっていた。


「あと靴下」


 茜は続ける。


「脱ぎっぱなし」


「うわぁ」


「ペットボトル」


「うわぁ」


「飲んだらそのまま」


「うわぁぁぁ」


「でもさー」


 隣のパートが笑う。


「たまにご飯作るだけまだマシだよ」


「うちは何もしないもん」


「確かに」


 茜は頷いた。


 少し考えてから、ぽつりと言う。


「まぁ……いないと困るけどね」


「あー」


「なんだかんだねぇ」


 そんな会話をしているうちに休憩は終わる。


 午後も忙しかった。


 クレーム対応。


 人員不足のフォロー。


 書類処理。


 気付けば定時だった。


 茜はロッカーで着替えながら大きく息を吐く。


「はぁ……」


 足が重い。


 ふくらはぎが張っている。


 肩も痛い。


 今日は特に疲れた。


 ようやく帰れる。


 そう思った瞬間だった。


(あ)


 思い出す。


 冷蔵庫。


(何もなかったんだっけ……)


 茜は目を閉じた。


 今からスーパーへ行かなければならない。


 夕飯の材料。


 明日の朝食。


 牛乳。


 卵。


 保育園へ持っていくものも確認しなければならない。


「はぁ……」


 自然とため息が漏れた。


 スーパーは夕方の客で混雑していた。


 茜はカゴを片手に店内を歩く。


 豚肉。


 玉ねぎ。


 牛乳。


 食パン。


 卵。


 カゴの中が少しずつ埋まっていく。


 だが心は重かった。


(なんなんだろうな……)


 立ち止まる。


 冷蔵ケースの前。


(私の人生)


 仕事。


 家事。


 育児。


 寝かしつけ。


 寝落ち。


 また朝。


 そして仕事。


 同じことの繰り返し。


 昔好きだったゲームも。


 アニメも。


 漫画も。


 気付けばほとんど触れていない。


 時間がない。


 気力もない。


(こんなはずじゃなかったのにな)


 誰に言うでもなく思う。


 結婚したことを後悔しているわけじゃない。


 子供たちを愛していないわけでもない。


 ただ。


 疲れていた。


 それだけだった。


 茜は小さく笑う。


(いいよなぁ)


 最近よく見かける異世界転生ものを思い出した。


(異世界)


 公爵令嬢。


 王子様。


 執事。


 イケメン。


 豪邸。


 優雅なお茶会。


 仕事なし。


 家事なし。


 育児なし。


 趣味やり放題。


(最高じゃん)


 そんな人生。


 一度くらい味わってみたい。


 もちろん本気で思っているわけではない。


 ただの現実逃避だ。


「はぁ……」


 時計を見る。


 十八時が近い。


 茜の顔色が変わった。


「まずい」


 保育園。


 迎え。


 延長料金。


 急がなきゃ。


 会計を済ませる。


 買い物袋を抱える。


 車へ乗り込む。


 エンジンをかける。


 疲れていても。


 眠くても。


 休めない。


 子供たちが待っている。


 急がなきゃ。


 急がなきゃ。


 アクセルを踏む。


 夕暮れの道路を車が走る。


 その時だった。


 ふっと。


 意識が揺れた。


 朝早く起きたこと。


 仕事で走り回ったこと。


 責任者として頭を下げたこと。


 足の痛み。


 肩の重さ。


 疲労が一気に押し寄せる。


「……っ」


 視界が霞む。


 まずい。


 そう思った時にはもう遅かった。


 目の前の景色が大きく揺れる。


 ブレーキ。


 悲鳴。


 クラクション。


 そして――。


 激しい衝撃が茜を襲った。


 世界が真っ白に染まる。


 次の瞬間。


 何も見えなくなった。


⸻


柔らかな香りがした。


 どこか落ち着くような。


 優しい匂い。


 茜はゆっくりと瞼を開く。


「……ん……」


 見慣れない天井だった。


 真っ白で。


 広くて。


 高級ホテルのような空間。


「……え?」


 体を起こす。


 ふかふかのベッド。


 大きな窓。


 その向こうには都会の景色が広がっていた。


 高い。


 あまりにも高い。


 まるで雲の上だった。


「なに……ここ……」


 茜は呆然と呟く。


 事故。


 車。


 衝撃。


 確か――。


「っ!」


 慌てて立ち上がる。


 子供たち。


 保育園。


 迎え。


 仕事。


 スマホは。


 バッグは。


 車は。


 何もない。


 知らない部屋。


 知らない景色。


 知らない服。


「なにこれ……」


 その時だった。


 コンコン。


 静かなノック音。


 茜が振り返る。


「失礼します」


 低く穏やかな声。


 扉が開いた。


 そして。


「……は?」


 思わず声が漏れた。


 男だった。


 整った顔立ち。


 少し長めの黒髪。


 柔らかな眼差し。


 すらりとした長身。


 シャツの上からでも分かる広い肩。


 細身に見えるのに、妙に存在感がある。


 いや。


 細身ではない。


 動いた拍子に浮かぶ腕の筋肉や首筋のラインが、それを否定していた。


 茜は一瞬だけ思った。


(え、イケメン……)


 そしてすぐ我に返る。


(じゃなくて!!)


「ここどこですか!?」


 男は驚いた様子もなく微笑んだ。


「おはようございます、茜さん」


「いや、おはようございますじゃなくて!」


「体調はいかがですか?」


「だから!」


 茜の声が部屋に響く。


 男は困ったように笑った。


 そして。


「まずは朝食にしませんか」


 そう言った。


「は?」


「お腹、空いていませんか」


「空いてるとかそういう問題じゃ――」


 ぐう。


 間の悪い音が鳴った。


 茜は固まる。


 男も固まる。


 数秒後。


 男は吹き出した。


 茜は顔を真っ赤にした。


「……最悪」


「すみません」


 全然申し訳なさそうじゃない。


 少し笑っている。


「朝食をご用意しています」


「……」


「話はその後にしましょう」


 茜はしばらく睨みつけていたが、結局負けた。


 お腹は正直だった。


 案内されたリビングは信じられないほど広かった。


 窓一面に広がる景色。


 高級そうな家具。


 大きなソファ。


 雑誌でしか見たことがないような空間。


「……うそでしょ」


 茜は思わず呟いた。


 テーブルには朝食が並んでいる。


 焼きたてのパン。


 サラダ。


 スープ。


 果物。


 コーヒー。


 まるでホテルの朝食だった。


「どうぞ」


 男が椅子を引く。


 自然な動作だった。


 気取っていない。


 ただ当たり前のように。


「……あなた誰なんですか」


 茜が警戒しながら尋ねる。


 男は少しだけ考えてから答えた。


「五十嵐蓮です」


「五十嵐さん」


「蓮で構いません」


「構います」


 即答だった。


 蓮は苦笑する。


「じゃあ五十嵐で」


「それでいいです」


 茜はパンをちぎりながら睨む。


「で?」


「ここどこですか」


「茜さんの望んだ場所です」


「意味が分かりません」


「そうですよね」


 蓮は穏やかに頷いた。


「簡単に言うと」


 一度言葉を切る。


 そして。


「ここでは仕事をしなくて大丈夫です」


「……は?」


「家事もしなくていい」


「……」


「育児もありません」


 茜が固まる。


「好きなだけ寝てください」


「……」


「好きなだけゲームをして」


「……」


「好きなだけ漫画を読んで」


「……」


「好きなものを食べてください」


 茜は黙り込んだ。


 それは。


 昨日スーパーで考えていたことだった。


 誰にも言っていない。


 誰にも。


 なのに。


「なんで……」


 蓮は優しく笑う。


「ずっと頑張っていましたから」


 その言葉に。


 茜はなぜか返事ができなかった。


食事を終えた茜は、大きなソファへ腰を下ろした。


 柔らかい。


 家のソファとはまるで違う。


 というか比べること自体失礼な気がする。


 茜の家にあるのは、子供たちが飛び跳ねた結果へたりきったソファだ。


 座るたびに「ギッ」と音が鳴る。


 こっちは違う。


 体が沈み込む。


 包み込まれる。


「……駄目になる」


 思わず呟く。


「何がですか?」


 後ろから声がした。


 茜は肩を震わせる。


「うわっ!」


 振り返る。


 蓮がコーヒーを持って立っていた。


「びっくりした……」


「すみません」


 そう言いながら自然にカップを差し出す。


 茜は受け取った。


「ありがとうございます」


 反射的に礼を言う。


 そしてふと気付く。


(いや、なんで私普通にお礼言ってるの)


 知らない男だ。


 知らない場所だ。


 本来なら警戒しなければならない。


 なのに。


 不思議と怖くなかった。


 蓮はソファの向かいに腰を下ろす。


 その動作でシャツの袖が少しだけ捲れた。


 茜の視線が止まる。


(うわ)


 腕。


 思ったより太い。


 細身だと思っていた。


 でも違う。


 余計な脂肪がないだけだ。


 筋肉が綺麗についている。


 しかも自然。


 鍛えてます感がない。


(いやいやいや)


 茜は慌てて視線を逸らした。


(何見てんの私)


 三十五歳。


 二児の母。


 しっかりしろ。


 そう思うのに。


 ふと目が合う。


 蓮が首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「な、なんでもないです」


「そうですか」


 笑う。


 その笑顔がまた反則だった。


(くそ……)


 茜はコーヒーを飲んだ。


 落ち着け。


 落ち着け自分。


 だが心のどこかで認めざるを得ない。


(いや普通にカッコいいな……)


 若い頃だったら危なかった。


 確実に危なかった。


 少女漫画ならとっくに落ちている。


 だが今は違う。


 子供の送り迎え。


 学校行事。


 保育園。


 PTA。


 光熱費。


 そんな現実を知ってしまった。


 だから少しだけ耐性がある。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


「茜さん」


「はい」


「今日は何もしなくて大丈夫ですよ」


 蓮は穏やかに言った。


「好きに過ごしてください」


「……何もしなくていいって」


 茜は苦笑する。


「逆に困るんですけど」


「なぜです?」


「なぜって……」


 茜は考える。


 朝から夜まで。


 ずっと何かをしていた。


 仕事。


 家事。


 育児。


 何もしない時間なんてなかった。


 だから。


「わからないんです」


 蓮が黙って聞いている。


「急に自由って言われても」


「……」


「何していいかわからない」


 蓮は少しだけ目を細めた。


「では」


 立ち上がる。


「一緒に探しましょうか」


「何を?」


「茜さんが好きだったものを」


 その言葉に。


 茜は一瞬だけ返事を失った。


 好きだったもの。


 昔はたくさんあった。


 ゲームも。


 漫画も。


 アニメも。


 休日に昼まで寝ることも。


 でも。


 いつからだろう。


 好きだったものを思い出すより先に、


 明日の予定を考えるようになったのは。


 茜は窓の外を見る。


 青空が広がっていた。


 仕事の電話は鳴らない。


 子供たちに呼ばれない。


 夕飯も作らなくていい。


 洗濯もしなくていい。


 信じられないほど静かだった。


 そしてその静けさに。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 救われている自分がいた。


その日。


 茜は本当に何もしなかった。


 昼まで寝た。


 起きて。


 ソファでごろごろして。


 漫画を読んで。


 映画を見て。


 お腹が空いたら食べる。


 眠くなったら寝る。


 それだけ。


 たったそれだけなのに。


 気付けば夕方になっていた。


「嘘でしょ……」


 茜は時計を見ながら呟く。


 普段なら。


 今頃は仕事を終え、スーパーへ向かい、保育園のお迎えに走り回っている時間だ。


 なのに今日は違う。


 誰も呼ばない。


 誰も急かさない。


 何も起こらない。


「天国かここ……」


 ソファに沈みながら呟く。


「そうかもしれませんね」


 後ろから声がした。


「うわっ!」


 茜は飛び起きた。


「だから毎回びっくりするんですけど!?」


「すみません」


 全然悪びれていない。


 蓮は少しだけ笑っていた。


「夕食の準備ができました」


「夕食?」


「はい」


 茜はダイニングへ向かう。


 そして固まった。


「え……」


 思わず声が漏れる。


 テーブルいっぱいに料理が並んでいた。


 ローストビーフ。


 スープ。


 サラダ。


 魚料理。


 デザート。


 レストランのコース料理みたいだった。


「ちょっと待って」


 茜は料理と蓮を見比べる。


「これ誰が作ったの?」


「私です」


「は?」


「私です」


「全部?」


「はい」


 茜は絶句した。


 そして次の瞬間。


「嘘でしょ」


 思わず本音が出た。


「料理できるの?」


「できます」


「洗濯は?」


「できます」


「掃除は?」


「できます」


「裁縫は?」


「できます」


「え?」


 茜は真顔になった。


「完璧超人?」


「そうでもありませんよ」


「いやそうでしょ」


 茜は思わず笑った。


 そして。


(いや待って)


 と思う。


 高身長。


 イケメン。


 料理できる。


 掃除できる。


 優しい。


 金持ち。


 何だこの男。


(現実にいたら絶対結婚してるでしょ)


 そこまで考えて。


 茜はハッとした。


(いやいやいやいや)


 何考えてるんだ自分。


 疲れてるのかもしれない。


 たぶん疲れている。


 きっと疲れている。


「茜さん?」


「なんでもないです」


 茜は慌てて席に着いた。


 蓮は小さく笑った。


 その夜。


 茜はベランダへ出た。


 高層マンションの夜景が広がっている。


 街の光。


 遠くを走る車。


 見たことのない景色。


 綺麗だった。


 あまりにも。


「寒くないですか」


 後ろから声がする。


 蓮だった。


 手にはブランケット。


「ありがとうございます」


 茜は受け取った。


 肩へ掛ける。


 温かい。


 しばらく沈黙が続く。


 不思議と気まずくはなかった。


 街の光を眺める。


 それだけで時間が過ぎていく。


「……不思議」


 茜がぽつりと呟く。


「何がですか?」


「こんなに静かなの」


 蓮は何も言わない。


「誰も呼ばないし」


「……」


「怒らなくていいし」


「……」


「急がなくていいし」


「……」


「すごく楽」


 それは本音だった。


 蓮は穏やかに微笑む。


「良かった」


 茜も少し笑う。


 だが。


 次の瞬間。


 ふと頭に浮かぶ。


 祐也の顔。


『ママ! 日曜日晴れたらサッカーしよう!』


 元気な声。


 茜は目を瞬いた。


 何故だろう。


 急に思い出した。


「……今頃」


 無意識に呟く。


「祐也たち、何してるかな」


 蓮の表情がわずかに止まった。


 本当に一瞬だけ。


「茜さん」


「ん?」


「考えなくていいんですよ」


 優しい声だった。


 だが。


 どこか冷たく聞こえた。


 茜は振り返る。


 蓮は微笑んでいる。


 いつも通り。


 優しく。


 穏やかに。


「忘れましょう」


 茜は眉をひそめた。


「忘れる?」


「はい」


 蓮は頷く。


「もう大丈夫ですから」


「……」


「何も心配しなくていい」


「……」


「ここでは幸せになれます」


 その言葉に。


 茜はなぜだか胸がざわついた。


 幸せ。


 確かにそうだ。


 何も不自由はない。


 理想みたいな生活だ。


 なのに。


 なぜだろう。


 祐也の笑顔が頭から離れなかった。


『約束だからね!』


 朝の声が蘇る。


 茜は夜景から目を逸らした。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


⸻


それから何日が経ったのだろう。


 茜には分からなかった。


 この世界には時計もある。


 朝も夜も来る。


 食事もする。


 眠くなれば眠る。


 だが何故か、日付の感覚だけが曖昧だった。


 茜は大きなソファに体を預けながら窓の外を眺める。


 今日も静かだった。


 あまりにも。


 誰も呼ばない。


 誰も泣かない。


 誰も喧嘩しない。


 誰も何も求めない。


 最初は夢みたいだった。


 仕事をしなくていい。


 家事をしなくていい。


 育児をしなくていい。


 誰かのために動き続けなくていい。


 人生で初めて味わう自由だった。


 なのに。


 最近になって胸の奥がざわつく。


 何かが足りない。


 何かを忘れている気がする。


「どうしましたか」


 蓮だった。


 茜は振り返る。


「……スマホ」


「え?」


「スマホが欲しい」


 自分でも意外だった。


 あれほど鬱陶しかったのに。


 職場からの連絡。


 学校からのお知らせ。


 保育園からの通知。


 ママ友グループ。


 鳴り続ける着信。


 全部面倒だった。


 全部嫌だった。


 なのに今は。


 少しだけ恋しかった。


 蓮は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「少々お待ちください」


 数分後。


 茜の前にスマートフォンが置かれた。


「どうぞ」


 茜は恐る恐る手に取る。


 電源を入れる。


 ホーム画面が映る。


 通知。


 ゼロ。


 着信。


 ゼロ。


 LINE。


 ゼロ。


 メール。


 ゼロ。


 何もなかった。


 本当に何も。


 世界から切り離されたみたいだった。


 茜はしばらく画面を見つめる。


 そして。


 ひとつのフォルダを見つけた。


【写真】


 茜はそれを開いた。


 最初に映ったのは。


 祐也だった。


 生まれた日の写真。


 真っ赤な顔。


 小さな手。


 そして隣には。


 ぎこちなく祐也を抱く和彦。


 若かった。


 今よりずっと。


 茜は思わず笑った。


「ふふ……」


 次の写真。


 初めて立った日。


 ブレブレの動画。


『立ったぁぁぁ!!』


 自分の声。


『うそだろ!?』


 和彦の声。


『すげぇ!!』


 動画の中で祐也が得意げに笑っていた。


 茜の目頭が熱くなる。


 次。


 ピーマン。


『やだぁぁぁぁ!!』


 泣いている祐也。


『一口だけ! 一口だけだから!』


『やだぁぁぁ!!』


 茜は吹き出した。


 涙が滲む。


 次。


 運動会。


 小さな体で一生懸命踊る姿。


 次。


 和彦の肩車。


 高い高いと笑う祐也。


 次。


 翔子が生まれた日。


 次。


 兄妹で初めて並んで眠った日。


 次。


 祐也が持ち帰った母の日の絵。


「ママ描いた!」


 そう言って見せてくれた紙。


 丸い顔。


 大きすぎる鼻。


 ぐちゃぐちゃの髪。


 正直まったく似ていなかった。


「変なの……」


 茜は笑った。


 そして泣いた。


「全然似てないじゃん」


 涙が落ちる。


 画面を濡らす。


「なのに……」


 声が震える。


「捨てられなかったんだよね……」


 次。


 翔子。


 オムツ姿のまま寝落ちしている。


 口を半開きにして。


 よだれまで垂らしている。


「こんなの普通消すでしょ……」


 茜は笑う。


 笑いながら泣く。


「でも消せなかった」


 次。


 風呂場の動画。


『あるこー♪』


 和彦。


『あるこー♪』


 祐也。


『きーーー♪』


 翔子。


 全員音程がバラバラだった。


 何を歌っているのか分からない。


 それなのに。


 茜は画面を抱きしめる。


(戻りたい……)


 涙が止まらなかった。


「茜さん」


 蓮だった。


 茜は顔を上げる。


 蓮は静かにこちらを見ていた。


「考えなくていいんです」


 穏やかな声だった。


「仕事のことも」


「……」


「学校のことも」


「……」


「保育園のことも」


「……」


「明日の献立も」


「……」


「家計のことも」


「……」


「何も」


 茜は俯く。


 蓮は続ける。


「ここでは働かなくていい」


「……うん」


「好きなだけ眠れます」


「うん」


「映画も見られます」


「うん」


「ゲームもできます」


「うん」


「好きな本も読めます」


「うん」


「家事もしなくていい」


「……うん」


「育児もしなくていい」


 茜は目を閉じた。


「……うん」


 全部本当だった。


 全部。


 茜が望んだものだった。


 蓮は一歩近づく。


「それでも」


 茜は顔を上げる。


 蓮の声が少しだけ揺れた。


「それでも戻りたいんですか」


 茜は答えられなかった。


 だって。


 全部本音だから。


 休みたかった。


 眠りたかった。


 何も考えたくなかった。


 一人になりたかった。


 全部。


 全部本当だった。


 長い沈黙が落ちる。


 やがて茜は小さく笑った。


 泣きながら。


「私ね」


 蓮は黙って聞いている。


「ずっと勘違いしてた」


 茜は涙を拭う。


「自由になりたいんだと思ってた」


「……」


「仕事したくなくて」


「家事したくなくて」


「育児も疲れて」


「一人になりたいって思ってた」


 全部本当だった。


 今でも思う。


 たまには全部投げ出したい。


 何もしたくない。


 誰にも呼ばれたくない。


「でも」


 茜は胸に手を当てる。


「違った」


 蓮の瞳が揺れる。


「私」


 茜は笑った。


「休みたかっただけだった」


 静寂が落ちる。


「失いたかったわけじゃなかった」


 茜はスマホを抱き締めた。


「祐也のことも」


「翔子のことも」


「和彦のことも」


「全部」


 涙が溢れる。


「全部、大事だった」


 当たり前すぎて。


 近すぎて。


 見えなくなっていただけだった。


 茜はゆっくり顔を上げる。


「帰らなきゃ」


 その言葉が零れた瞬間。


 部屋の景色が揺れた。


 茜は息を呑む。


 大きな窓の向こうに広がる夜景が歪む。


 光が滲む。


 床が波打つ。


 まるで水面のように。


「なに……これ……」


 茜は立ち上がった。


 見慣れた高層マンションの部屋が少しずつ崩れていく。


 壁が霞む。


 天井が薄れていく。


 世界そのものが消え始めていた。


 茜は震える声で言った。


「蓮……」


 蓮だけは静かだった。


 何も驚いていない。


 まるで最初から知っていたかのように。


「帰ろうとしているからです」


 茜の胸が痛んだ。


「帰るって決めたから……?」


 蓮は頷いた。


「この世界は茜さんのために存在しています」


「……」


「茜さんが必要としなくなれば終わります」


 茜は唇を噛む。


 苦しかった。


 胸が締め付けられる。


 帰りたい。


 帰らなきゃいけない。


 そう思っているのに。


 何故だろう。


 この世界が消えるのが悲しかった。


 蓮が消えるのが悲しかった。


「茜さん」


 蓮が呼ぶ。


 茜は顔を上げた。


 蓮は少しだけ寂しそうに笑っていた。


「本当にそれでいいんですか」


 茜は答えない。


 蓮は続ける。


「仕事に追われて」


「……」


「家事に追われて」


「……」


「育児に追われて」


「……」


「毎日疲れて」


「……」


「眠ることすら満足にできなかった」


 茜は目を伏せる。


 全部本当だった。


 全部。


「ここでは違います」


 蓮は穏やかに言う。


「働かなくていい」


 茜は黙る。


「好きなだけ眠れます」


 茜は黙る。


「映画も見られます」


「……」


「ゲームもできます」


「……」


「好きな本も読めます」


「……」


「家事もしなくていい」


 茜の指先が震えた。


「育児もしなくていい」


 胸が痛んだ。


 だが。


 蓮は止まらない。


 まるで茜を救うために必死なように。


「茜さん」


 茜は顔を上げる。


 蓮の瞳が揺れていた。


 今までで初めて。


 少しだけ。


 苦しそうだった。


「それでも」


 静かな声。


「それでも戻りたいんですか」


 茜は目を閉じる。


 頭の中に浮かぶ。


 祐也。


 翔子。


 和彦。


 騒がしい声。


 散らかった部屋。


 脱ぎっぱなしの靴下。


 洗い忘れた皿。


 ピーマンを嫌がる祐也。


 運動会を楽しみにしていた翔子。


 全部。


 全部。


 愛おしかった。


「……うん」


 茜は答えた。


 小さく。


 でも確かに。


「戻りたい」


 蓮は俯く。


 長い沈黙が落ちた。


 やがて。


 蓮はゆっくりと顔を上げた。


「和彦さんなら」


 茜の肩が震える。


「私がなれます」


 茜は息を呑んだ。


「茜さんを大切にします」


「……」


「苦しませません」


「……」


「泣かせません」


「……」


「守ります」


 茜は何も言えなかった。


 蓮は続ける。


「家事もします」


「……」


「育児もします」


「……」


「茜さんを一人にしません」


 その言葉は優しかった。


 本当に。


 どこまでも。


 優しかった。


「子供が恋しいなら」


 蓮は微笑む。


「ここで新しい家族を作ることもできます」


 茜は目を閉じた。


 もし。


 独身だったら。


 もし。


 二十歳の頃だったら。


 飛び付いていたかもしれない。


 蓮は優しい。


 強い。


 頼れる。


 理想そのものだ。


 だけど。


 違う。


 違うのだ。


「蓮」


 茜は涙を拭う。


 そして小さく笑った。


「祐也じゃなきゃダメなの」


 蓮が黙る。


「翔子じゃなきゃダメなの」


「……」


「和彦じゃなきゃダメなの」


 茜は泣きながら笑う。


「だって」


 声が震える。


「もう家族だから」


 蓮は何も言わなかった。


 ただ静かに立っていた。


 長い沈黙。


 やがて。


 蓮はふっと笑った。


 少しだけ。


 寂しそうに。


 でも優しく。


「そうですか」


 茜の目から涙が溢れる。


「ごめん」


 蓮は首を横に振った。


「謝らないでください」


 そしてゆっくり近付く。


 茜の前で立ち止まる。


 そっと。


 初めて茜の頭へ手を置いた。


 温かかった。


 驚くほど。


 優しかった。


「茜さん」


 茜は顔を上げる。


 蓮は微笑んだ。


 今までで一番。


 優しく。


 穏やかに。


「お疲れ様でした」


 その一言で。


 茜の涙腺は決壊した。


 声を上げて泣いた。


 子供みたいに。


 みっともなく。


 ぼろぼろと。


 泣き続けた。


 ずっと。


 誰かに言ってほしかった。


 その言葉を。


 ただ。


 その一言を。


 世界はゆっくりと光に包まれていった。



⸻



光だった。


 真っ白な光。


 温かくて。


 優しくて。


 どこまでも静かな光。


 茜はその中を歩いていた。


 足元も見えない。


 空もない。


 地面もない。


 ただ光だけが続いている。


 不思議と怖くはなかった。


 少しだけ寂しかった。


「蓮」


 呼んでみる。


 返事はない。


 もう分かっていた。


 蓮はいない。


 あの世界も。


 もうない。


 それなのに。


 胸の奥には不思議な温かさが残っていた。


『お疲れ様でした』


 最後の言葉が蘇る。


 茜は目を閉じた。


 そして。


 前へ進んだ。


 その瞬間だった。


 耳元で何かが聞こえた。


『……ね』


 遠い。


 とても遠い。


『……かね』


 誰かが呼んでいる。


『茜……!!』


 声が近付く。


 茜はゆっくりと瞼を開いた。


 眩しかった。


 白い天井。


 鼻につく消毒液の匂い。


 機械の電子音。


 見慣れないようで。


 どこか見覚えのある景色。


 病院だった。


「……」


 声が出ない。


 喉が渇いている。


 体も重い。


 まるで鉛みたいだった。


「茜……?」


 震える声。


 茜はゆっくり視線を向けた。


 そこにいたのは。


 和彦だった。


 目が真っ赤だった。


 髭も伸びている。


 髪もぼさぼさ。


 今にも倒れそうな顔をしていた。


「か……ず……」


 掠れた声。


 和彦の目が大きく見開かれる。


「茜……!」


 次の瞬間。


 和彦は顔を覆った。


 肩が震えている。


 泣いていた。


 茜は呆然とする。


 こんな和彦を見たことがなかった。


「よかった……」


 掠れた声。


「よかった……」


 何度も。


 何度も。


 同じ言葉を繰り返している。


 茜の目から涙が零れた。


 その時だった。


 病室の扉が勢いよく開く。


「ママ!!」


 聞き慣れた声。


 茜は顔を上げる。


 祐也だった。


 そして。


「ママぁぁぁ!!」


 翔子。


 二人とも泣いていた。


 目を真っ赤にして。


 顔をぐしゃぐしゃにして。


 茜の元へ駆け寄ってくる。


「ママぁぁぁ!!」


 翔子がベッドへしがみつく。


 祐也も必死に涙を堪えていた。


「……」


 茜は言葉が出なかった。


 ただ。


 二人の頭を撫でる。


 温かい。


 本物だった。


「ただいま」


 茜は泣きながら笑った。


「ママ……」


「おかえりぃぃぃぃ!!」


 翔子が声を上げて泣く。


 祐也も堪えきれず涙を零した。


 茜は二人を抱き寄せた。


 何度も。


 何度も。


 確かめるように。


 抱き締めた。


 帰ってきた。


 本当に。


 帰ってきたのだ。


 ――それから。


 茜の回復は順調だった。


 すぐに退院できるわけではなかったが、少しずつ体は動くようになっていった。


 最初はベッドの上。


 次は車椅子。


 そしてリハビリ。


 毎日少しずつ。


 本当に少しずつ。


 前へ進んだ。


その間。


 家族は何度も病院へ来てくれた。


 祐也は学校帰りに。


 和彦は仕事終わりに。


 そして翔子は。


 義母に手を引かれてやって来た。


『ママー!』


 病室へ入るなり駆け寄ってくる。


 茜は思わず笑った。


『翔子』


『ママ、今日ね!』


 椅子へ座る前から喋り始める。


 保育園であったこと。


 お友達のこと。


 給食のこと。


 運動会のこと。


 話はあちこちへ飛ぶ。


 茜は何度も頷いた。


 途中で義母が苦笑する。


『ほら翔子、ママ疲れちゃうでしょ』


『だっていっぱい話したいもん!』


 茜は首を横に振った。


『いいんです』


 本当に。


 全然疲れなかった。


 それどころか。


 病室が静かになると少し寂しかった。


 ほとんど毎日。


 顔を見せてくれた。


 和彦は特別優しい言葉を掛けるわけでもなかった。


 病室へ入ってくるなり、


『おう』


 とだけ言う。


 仕事帰りのスーツ姿で椅子へ座り。


 今日あったことをぽつぽつ話して。


 子供達の写真を見せて。


 そして面会時間になると、


『じゃあな』


 と帰っていく。


 それだけだった。


 それなのに。


 気付けば茜は毎日その時間を待っていた。


⸻


 運動会の日。


 茜は病院のベッドにいた。


 本当なら。


 一番前で見る約束だった。


 翔子と。


 あの日の朝。


 確かに約束した。


『絶対一位取るから!』


 そう言っていた。


 茜はスマホを握り締める。


 画面の向こうでは運動会が始まっていた。


 テレビ通話だった。


 和彦が最前列でスマホを持っている。


『見えてる?』


 茜は笑う。


『見えてる』


 少し掠れた声だった。


 やがて。


 翔子の番が来る。


 小さな体。


 一生懸命走る姿。


 転ばないように。


 必死に前を向いて。


『ママー!!』


 画面越しに手を振る。


『見てるー!?』


 茜の視界が滲んだ。


『見てるよ』


 翔子は満面の笑みで走り出した。


⸻


 ある日。


 リハビリへ向かう途中。


 茜は担当の看護師に声を掛けられた。


『本当に良かったですね』


『え?』


『目が覚めて』


 看護師は優しく笑った。


『ご主人、毎日来ていましたから』


 茜は足を止める。


『毎日……?』


『ええ』


 看護師は頷いた。


『お仕事帰りに必ず』


『……』


『面会時間ぎりぎりまでここにいましたよ』


 茜は言葉を失った。


『お休みの日も来ていましたし』


『……』


『お子さん達の写真を見せたり』


『今日はこんなことがあったって話したり』


『ずっと話し掛けていました』


 茜の胸が熱くなる。


『茜、今日は翔子がね』


『茜、祐也がね』


 そんな声が。


 聞こえてくる気がした。


 看護師は少しだけ笑った。


『面会時間が終わっても、なかなか帰らなくて』


『……』


『いつも看護師長に怒られてたんですよ』


 茜は思わず吹き出した。


 そして。


 少しだけ泣いた。


 和彦らしい。


 本当に。


 馬鹿みたいに不器用で。


 どうしようもなく。


 優しい。


『きっと聞こえていたんじゃないですか?』


 茜は思わず目を伏せた。


 胸の奥がじんわりと痛む。


 そして。


 少しだけ温かかった。


⸻


 運動会から数日後。


 病室の窓から夕日が差し込んでいた。


 茜はリハビリを終え、少し疲れた体をベッドへ預けていた。


 ガラリ。


 病室の扉が開く。


 「おう」


 和彦だった。


 スーツ姿。


 ネクタイは少し緩んでいる。


 髪も少し乱れていた。


 急いで来たのだろう。


 以前より少し痩せて見えた。


「お疲れ」


 茜が言う。


 和彦は照れ臭そうに頭を掻いた。


「そっちこそ」


 そう言いながら椅子へ腰掛ける。


 茜は時計を見る。


 まだ面会時間には少し早かった。


「仕事は?」


 和彦はペットボトルを机へ置いた。


「あー」


 少しだけ気まずそうな顔をする。


「今日は早退」


 茜は目を瞬いた。


「え?」


「リハビリ見学できる日だったろ」


「……」


「ちょっとだけ抜けてきた」


 茜は言葉を失う。


 和彦は昔からそういうタイプではなかった。


 学校行事には来る。


 休日は子供と遊ぶ。


 家族を大切にはしている。


 でも。


 仕事を抜けてまで何かをするタイプではなかった。


「大丈夫なの?」


「大丈夫じゃない」


 和彦は即答した。


「今めちゃくちゃ忙しい」


「じゃあなんで……」


 茜がそう言うと。


 和彦は少しだけ困った顔をした。


 そして。


「見たかったから」


 茜は固まる。


「……え?」


「歩くとこ」


 和彦は視線を逸らした。


 少しだけ照れ臭そうに。


「だって」


 そこで言葉を切る。


「四か月寝てたんだぞ」


 茜は何も言えなかった。


 和彦は苦笑する。


「見たいだろ」


 その言葉に。


 茜の胸が熱くなった。


 思わず視線を落とす。


「……そっか」


 和彦は話題を変えるようにペットボトルを開けた。


「そういや翔子な」


「うん」


「運動会の動画、もう十回くらい見てる」


 茜は笑った。


「そんなに?」


「毎回」


 和彦も笑う。


「ママ見てたもんね!って」


 茜の目が潤む。


 あの日。


 病院のベッドから見た運動会を思い出した。


 和彦は窓の外を見ながらぽつりと呟く。


「約束だったからな」


「……」


「茜の代わりに最前列で見るって」


 茜は小さく笑った。


 そして。


「ありがと」


 和彦は首を傾げる。


「何が?」


「いろいろ」


 和彦は少しだけ笑った。


「別に」


 そう言ったあと。


 何気ない調子で続ける。


「俺も必死だったし」


 茜は顔を上げる。


 和彦は窓の外を見ていた。


「最初マジで焦った」


「……」


「ご飯なんかまともに作れないし」


「……」


「洗濯したら翔子の服縮むし」


 茜は吹き出した。


「なにそれ」


「本当だよ」


 和彦も笑う。


「チャーハンなんか三回焦がした」


「三回?」


「三回」


 茜は肩を震わせる。


 笑いながら。


 涙が滲んだ。


「祐也にさ」


 和彦がぽつりと言う。


「ママならもっと上手いのにって言われた」


 茜はとうとう声を上げて笑った。


「言いそう」


「だろ」


 二人で笑う。


 久しぶりだった。


 こんな風に笑ったのは。


 しばらくして。


 和彦が小さく呟いた。


「でもさ」


 茜は顔を上げる。


「茜がいないと駄目だな」


 その言葉に。


 茜は息を呑んだ。


 和彦は照れ臭そうに頭を掻く。


「いや」


「子供らもそうだけど」


「俺も」


 そこで言葉を切る。


「……大変だった」


 茜は何も言えなかった。


 ただ。


 胸がいっぱいだった。


 蓮は理想だった。


 完璧だった。


 優しかった。


 何でもできた。


 でも。


 目の前にいるのは和彦だった。


 靴下を脱ぎっぱなしにする。


 ペットボトルも放置する。


 料理も下手。


 不器用。


 全然完璧じゃない。


 それでも。


 この人は。


 自分がいない間。


 必死に家族を守ってくれたのだ。


 茜はそっと笑った。


「和彦」


「ん?」


「ありがと」


 和彦は少しだけ照れた顔をした。


 そして。


「……おう」


 それだけ答えた。


⸻


 週末。


 和彦から一枚の写真が送られてきた。


 公園だった。


 祐也がサッカーボールを蹴っている。


 翔子がそれを追い掛けている。


 そして。


 二人を見ながら笑っている和彦。


 茜はしばらく写真を見つめていた。


 以前なら。


 その写真を撮っていたのは自分だった。


 気付けば。


 和彦も写真の中にいる。


 茜がいなかった四か月。


 この人もまた。


 必死に毎日を生きていたのだ。


 茜は小さく笑った。


 その後。


 そっと写真を保存した。


⸻


――半年後。


「祐也!!」


 茜の怒鳴り声が家中へ響く。


「靴下履けって言ってるでしょ!!」


「今履こうとしてたんだよ!!」


「毎朝同じこと言わせないで!!」


「わかってるって!!」


 茜の額に青筋が浮かぶ。


 その横では。


「ママぁー」


 翔子がのんびり体操着を抱えている。


「たいそーぎどこー?」


「昨日出しとけって言ったでしょ!!」


「えへへー」


「笑って誤魔化すな!!」


 さらに。


「茜ー」


 和彦がリビングから顔を出した。


「ペットボトルここ置いとくね」


 茜は固まる。


 数秒。


 沈黙。


「捨てろぉぉぉぉぉ!!!」


「はい」


 和彦は素直に引っ込んだ。


 祐也が笑う。


 翔子も笑う。


 茜も思わず吹き出した。


 うるさい。


 騒がしい。


 忙しい。


 面倒くさい。


 毎日疲れる。


 たぶん明日も疲れる。


 来週も。


 来月も。


 きっと同じだ。


 それでも。


 茜は笑った。


 窓から差し込む朝日を見上げる。


 リビングには家族の声が響いていた。


 温かくて。


 騒がしくて。


 どうしようもなく愛おしい。


「ほら」


 茜は子供たちの背中を押した。


「遅刻するよ」


「はーい!」


「いってきまーす!」


 慌ただしい朝が始まる。


 いつもと同じ。


 何も変わらない朝。


 だけど茜は知っている。


 この当たり前が。


 どれほど幸せなことなのかを。


 茜は小さく微笑んだ。


「ほら、行くよ!」


 その声は。


 とても優しかった。



 ――完――



この作品は、ふと思った疑問から生まれました。


最近は異世界転生ものが本当に多いですよね。


「もし今の記憶を持ったまま過去に戻れたら」

「もし異世界へ行けたら」


そんな想像を、一度くらいはしたことがあるのではないでしょうか。


では、すでに大切な家族がいて、幸せな家庭を築いている母親だったらどうだろう。


疲れている。

休みたい。

全部投げ出したい。


そう思うことはあっても、本当に今の人生を捨てたいと思うのだろうか。


そんな疑問から、この物語を書きました。


ちなみに作中に出てくる主婦の愚痴の数々は、実際に職場のパートさんたちから聞いた話が元になっています。


世の中のお母さん方、本当に毎日お疲れ様です。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


もし茜の物語に少しでも共感していただけたなら、評価や感想をいただけると嬉しいです。


皆さまの応援が、次の物語を書く力になります。




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― 新着の感想 ―
忙しさに飲み込まれ、限界まで追い詰められた時、不意に何もしなくても良くなるという展開に、救いと怖さの両方を感じました 当たり前にあるものは失ってから気付くものですよね 静かに心に残る物語だと思いました
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