主婦業に疲れて愚痴っていたら、突然高層マンションで完璧超人に養われることになったんだが?!
午前六時。
平岡茜は、けたたましく鳴るスマートフォンのアラームを止めると、重たい体を無理やり起こした。
眠い。
とにかく眠い。
昨夜も子供たちを寝かしつけているうちに、自分までそのまま眠ってしまった。
おかげで皿洗いも洗濯物の片付けも終わっていない。
だが、そんなことを考えている暇はなかった。
「翔子ー! 起きてー!」
寝室から声を張り上げながら、茜は台所へ向かう。
冷蔵庫を開け、子供たちの朝食を用意しながら水筒を洗う。
保育園用のおしぼり。
給食セット。
体操着。
小学校へ持っていく持ち物。
確認するものは山ほどある。
その最中、後ろから欠伸混じりの声が聞こえた。
「おはよ」
夫の和彦だった。
「おはよう」
茜は振り返りもせずに返事をする。
和彦はそのまま洗面所へ向かい、自分の支度を始める。
それを横目に見ながら、茜は内心でため息をついた。
水筒の準備でも。
おしぼりをバッグに入れるだけでも。
ほんの少し手伝ってくれたら助かるのに。
もちろん和彦だって仕事をしている。
疲れているのもわかる。
だから口には出さない。
出さないけれど。
(少しくらい、やってくれてもいいじゃん……)
そう思わずにはいられなかった。
ふと流し台を見る。
そこには昨夜の食器が積み重なっていた。
寝落ちしたせいで、そのままになっている。
ごちゃり、と積まれた皿の山。
(帰ったら、まずこれか……)
朝から気分が沈んだ。
茜は鏡の前に座り、急いでメイクを始める。
その時だった。
リビングからテレビの音が聞こえる。
嫌な予感がした。
「祐也!」
呼んでも返事がない。
茜は慌ててリビングを覗いた。
そこには案の定、テレビに夢中の息子の姿。
さらにその横では、起こしたはずの翔子が床で二度寝していた。
「翔子! 起きて!」
茜は体操着を取り出し、娘へ放る。
「今日はこれ着るの!」
「ママぁ……なんでたいそーぎなの?」
「運動会の練習だから!」
「はぁい……」
翔子は眠そうな声で返事をした。
茜は再びメイクへ戻る。
数分後。
なんとか身支度を終えた茜は、再びリビングへ向かった。
そして固まる。
祐也がまだ着替えていなかった。
朝ごはんも食べていない。
テレビだけはしっかり見ている。
「祐也!!」
思わず声が大きくなる。
「さっさと支度しなさいって言ってるでしょ!」
「わかってるって!」
「毎朝毎朝同じこと言わせないで!」
「わかってるってば!」
言い返される。
茜は唇を噛んだ。
(もう……)
(朝から怒りたくないのに……)
だが時計は待ってくれない。
子供たちにパンを食べさせる。
自分は戸棚にあった栄養補助食品を口へ放り込んだ。
味なんてほとんどわからない。
食べることより、時間の方が大事だった。
あっという間に出発の時間になる。
「出るよ!」
「はーい!」
「いこー!」
慌ただしく玄関へ向かう。
その途中で茜は気付いた。
「翔子! 髪結んでなかった!」
急いで娘の髪をひとつにまとめる。
その横では祐也がのんびり靴下を探していた。
「祐也!! 靴下!!」
「今履こうとしてたんだよ!」
その言葉にさらに苛立ちが募る。
だが言い返している時間はない。
「早く!」
そう急かしながら二人を車へ乗せた。
ようやく出発だ。
保育園へ向かう車の中。
祐也が突然言った。
「ママ! 日曜日晴れてたら公園行こうよ!」
「サッカーしよう!」
「はいはい。晴れてたらね」
「約束だからね!」
「わかったって」
適当に返事をする。
本当に聞いていたのかどうか、自分でもわからなかった。
保育園へ着く。
祐也は車から飛び降りると、そのまま全力で走り出した。
「ちょっと!」
茜は窓を開ける。
「走らない!」
「車気を付けて!」
「信号ちゃんと見てよ!」
「わかったーーー!!」
本当にわかったのだろうか。
毎朝のことながら心配だった。
続いて翔子を連れて保育園の玄関へ向かう。
「ママぁ」
「ん?」
「運動会、一番前で見てね?」
翔子はにこにこ笑いながら言った。
「翔ちゃん絶対一位取るから!」
「はいはい」
茜は笑う。
「ちゃんと見るよ」
「絶対だからね!」
「うん」
先生へ娘を預ける。
「お願いします」
「はい、お預かりします」
先生が微笑んだ。
「お気を付けて」
「ありがとうございます」
そう返事をした瞬間、茜は時計を見た。
血の気が引く。
「やばっ」
遅刻ギリギリだった。
慌てて車へ飛び乗る。
仕事へ向かうため、アクセルを踏み込んだ。
朝から、もう疲れていた。
午前八時。
始業時間ぴったりに職場へ駆け込んだ茜は、制服へ着替えるとすぐに仕事へ取り掛かった。
座る暇なんてない。
商品の補充。
電話対応。
接客。
伝票確認。
そして責任者業務。
気付けば時計の針は昼を回っていた。
「疲れたぁ……」
休憩室の椅子へ腰を下ろした瞬間、全身から力が抜ける。
「茜ちゃん、今日も忙しそうだったねー」
同僚のパートが笑いながら隣へ座った。
「もう朝からバタバタですよ」
「うちなんかさー」
別のパートが弁当の蓋を開けながら言う。
「旦那が本当に何もしないの!」
「あー、それわかる!」
「食べて寝るだけなんだよ!」
「うちも!」
途端に休憩室が盛り上がった。
いつもの流れだ。
旦那への愚痴大会。
昼休憩の定番である。
「茜ちゃんとこは?」
「うち?」
茜は苦笑した。
「うちも似たようなもんですよ」
「でたー!」
「でもさ、平日休みの時にたまーに夜ご飯作ってくれたりはするんです」
「いいじゃん!」
「その後の片付けしないけど」
一瞬の沈黙。
そして。
「あーーー!!」
「それ腹立つやつ!」
「やれよ最後まで!」
「そうなんですよ!」
茜も思わず笑う。
「皿洗い終わった後にさ、遅れて皿出してくるんですよ」
「最悪!」
「皿一枚と箸一本くらい自分で洗えって思う」
「わかるーーーー!!」
爆笑が起きる。
愚痴なのに少しだけ楽しい。
皆、同じなのだ。
それが妙な安心感になっていた。
「あと靴下」
茜は続ける。
「脱ぎっぱなし」
「うわぁ」
「ペットボトル」
「うわぁ」
「飲んだらそのまま」
「うわぁぁぁ」
「でもさー」
隣のパートが笑う。
「たまにご飯作るだけまだマシだよ」
「うちは何もしないもん」
「確かに」
茜は頷いた。
少し考えてから、ぽつりと言う。
「まぁ……いないと困るけどね」
「あー」
「なんだかんだねぇ」
そんな会話をしているうちに休憩は終わる。
午後も忙しかった。
クレーム対応。
人員不足のフォロー。
書類処理。
気付けば定時だった。
茜はロッカーで着替えながら大きく息を吐く。
「はぁ……」
足が重い。
ふくらはぎが張っている。
肩も痛い。
今日は特に疲れた。
ようやく帰れる。
そう思った瞬間だった。
(あ)
思い出す。
冷蔵庫。
(何もなかったんだっけ……)
茜は目を閉じた。
今からスーパーへ行かなければならない。
夕飯の材料。
明日の朝食。
牛乳。
卵。
保育園へ持っていくものも確認しなければならない。
「はぁ……」
自然とため息が漏れた。
スーパーは夕方の客で混雑していた。
茜はカゴを片手に店内を歩く。
豚肉。
玉ねぎ。
牛乳。
食パン。
卵。
カゴの中が少しずつ埋まっていく。
だが心は重かった。
(なんなんだろうな……)
立ち止まる。
冷蔵ケースの前。
(私の人生)
仕事。
家事。
育児。
寝かしつけ。
寝落ち。
また朝。
そして仕事。
同じことの繰り返し。
昔好きだったゲームも。
アニメも。
漫画も。
気付けばほとんど触れていない。
時間がない。
気力もない。
(こんなはずじゃなかったのにな)
誰に言うでもなく思う。
結婚したことを後悔しているわけじゃない。
子供たちを愛していないわけでもない。
ただ。
疲れていた。
それだけだった。
茜は小さく笑う。
(いいよなぁ)
最近よく見かける異世界転生ものを思い出した。
(異世界)
公爵令嬢。
王子様。
執事。
イケメン。
豪邸。
優雅なお茶会。
仕事なし。
家事なし。
育児なし。
趣味やり放題。
(最高じゃん)
そんな人生。
一度くらい味わってみたい。
もちろん本気で思っているわけではない。
ただの現実逃避だ。
「はぁ……」
時計を見る。
十八時が近い。
茜の顔色が変わった。
「まずい」
保育園。
迎え。
延長料金。
急がなきゃ。
会計を済ませる。
買い物袋を抱える。
車へ乗り込む。
エンジンをかける。
疲れていても。
眠くても。
休めない。
子供たちが待っている。
急がなきゃ。
急がなきゃ。
アクセルを踏む。
夕暮れの道路を車が走る。
その時だった。
ふっと。
意識が揺れた。
朝早く起きたこと。
仕事で走り回ったこと。
責任者として頭を下げたこと。
足の痛み。
肩の重さ。
疲労が一気に押し寄せる。
「……っ」
視界が霞む。
まずい。
そう思った時にはもう遅かった。
目の前の景色が大きく揺れる。
ブレーキ。
悲鳴。
クラクション。
そして――。
激しい衝撃が茜を襲った。
世界が真っ白に染まる。
次の瞬間。
何も見えなくなった。
⸻
柔らかな香りがした。
どこか落ち着くような。
優しい匂い。
茜はゆっくりと瞼を開く。
「……ん……」
見慣れない天井だった。
真っ白で。
広くて。
高級ホテルのような空間。
「……え?」
体を起こす。
ふかふかのベッド。
大きな窓。
その向こうには都会の景色が広がっていた。
高い。
あまりにも高い。
まるで雲の上だった。
「なに……ここ……」
茜は呆然と呟く。
事故。
車。
衝撃。
確か――。
「っ!」
慌てて立ち上がる。
子供たち。
保育園。
迎え。
仕事。
スマホは。
バッグは。
車は。
何もない。
知らない部屋。
知らない景色。
知らない服。
「なにこれ……」
その時だった。
コンコン。
静かなノック音。
茜が振り返る。
「失礼します」
低く穏やかな声。
扉が開いた。
そして。
「……は?」
思わず声が漏れた。
男だった。
整った顔立ち。
少し長めの黒髪。
柔らかな眼差し。
すらりとした長身。
シャツの上からでも分かる広い肩。
細身に見えるのに、妙に存在感がある。
いや。
細身ではない。
動いた拍子に浮かぶ腕の筋肉や首筋のラインが、それを否定していた。
茜は一瞬だけ思った。
(え、イケメン……)
そしてすぐ我に返る。
(じゃなくて!!)
「ここどこですか!?」
男は驚いた様子もなく微笑んだ。
「おはようございます、茜さん」
「いや、おはようございますじゃなくて!」
「体調はいかがですか?」
「だから!」
茜の声が部屋に響く。
男は困ったように笑った。
そして。
「まずは朝食にしませんか」
そう言った。
「は?」
「お腹、空いていませんか」
「空いてるとかそういう問題じゃ――」
ぐう。
間の悪い音が鳴った。
茜は固まる。
男も固まる。
数秒後。
男は吹き出した。
茜は顔を真っ赤にした。
「……最悪」
「すみません」
全然申し訳なさそうじゃない。
少し笑っている。
「朝食をご用意しています」
「……」
「話はその後にしましょう」
茜はしばらく睨みつけていたが、結局負けた。
お腹は正直だった。
案内されたリビングは信じられないほど広かった。
窓一面に広がる景色。
高級そうな家具。
大きなソファ。
雑誌でしか見たことがないような空間。
「……うそでしょ」
茜は思わず呟いた。
テーブルには朝食が並んでいる。
焼きたてのパン。
サラダ。
スープ。
果物。
コーヒー。
まるでホテルの朝食だった。
「どうぞ」
男が椅子を引く。
自然な動作だった。
気取っていない。
ただ当たり前のように。
「……あなた誰なんですか」
茜が警戒しながら尋ねる。
男は少しだけ考えてから答えた。
「五十嵐蓮です」
「五十嵐さん」
「蓮で構いません」
「構います」
即答だった。
蓮は苦笑する。
「じゃあ五十嵐で」
「それでいいです」
茜はパンをちぎりながら睨む。
「で?」
「ここどこですか」
「茜さんの望んだ場所です」
「意味が分かりません」
「そうですよね」
蓮は穏やかに頷いた。
「簡単に言うと」
一度言葉を切る。
そして。
「ここでは仕事をしなくて大丈夫です」
「……は?」
「家事もしなくていい」
「……」
「育児もありません」
茜が固まる。
「好きなだけ寝てください」
「……」
「好きなだけゲームをして」
「……」
「好きなだけ漫画を読んで」
「……」
「好きなものを食べてください」
茜は黙り込んだ。
それは。
昨日スーパーで考えていたことだった。
誰にも言っていない。
誰にも。
なのに。
「なんで……」
蓮は優しく笑う。
「ずっと頑張っていましたから」
その言葉に。
茜はなぜか返事ができなかった。
食事を終えた茜は、大きなソファへ腰を下ろした。
柔らかい。
家のソファとはまるで違う。
というか比べること自体失礼な気がする。
茜の家にあるのは、子供たちが飛び跳ねた結果へたりきったソファだ。
座るたびに「ギッ」と音が鳴る。
こっちは違う。
体が沈み込む。
包み込まれる。
「……駄目になる」
思わず呟く。
「何がですか?」
後ろから声がした。
茜は肩を震わせる。
「うわっ!」
振り返る。
蓮がコーヒーを持って立っていた。
「びっくりした……」
「すみません」
そう言いながら自然にカップを差し出す。
茜は受け取った。
「ありがとうございます」
反射的に礼を言う。
そしてふと気付く。
(いや、なんで私普通にお礼言ってるの)
知らない男だ。
知らない場所だ。
本来なら警戒しなければならない。
なのに。
不思議と怖くなかった。
蓮はソファの向かいに腰を下ろす。
その動作でシャツの袖が少しだけ捲れた。
茜の視線が止まる。
(うわ)
腕。
思ったより太い。
細身だと思っていた。
でも違う。
余計な脂肪がないだけだ。
筋肉が綺麗についている。
しかも自然。
鍛えてます感がない。
(いやいやいや)
茜は慌てて視線を逸らした。
(何見てんの私)
三十五歳。
二児の母。
しっかりしろ。
そう思うのに。
ふと目が合う。
蓮が首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないです」
「そうですか」
笑う。
その笑顔がまた反則だった。
(くそ……)
茜はコーヒーを飲んだ。
落ち着け。
落ち着け自分。
だが心のどこかで認めざるを得ない。
(いや普通にカッコいいな……)
若い頃だったら危なかった。
確実に危なかった。
少女漫画ならとっくに落ちている。
だが今は違う。
子供の送り迎え。
学校行事。
保育園。
PTA。
光熱費。
そんな現実を知ってしまった。
だから少しだけ耐性がある。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「茜さん」
「はい」
「今日は何もしなくて大丈夫ですよ」
蓮は穏やかに言った。
「好きに過ごしてください」
「……何もしなくていいって」
茜は苦笑する。
「逆に困るんですけど」
「なぜです?」
「なぜって……」
茜は考える。
朝から夜まで。
ずっと何かをしていた。
仕事。
家事。
育児。
何もしない時間なんてなかった。
だから。
「わからないんです」
蓮が黙って聞いている。
「急に自由って言われても」
「……」
「何していいかわからない」
蓮は少しだけ目を細めた。
「では」
立ち上がる。
「一緒に探しましょうか」
「何を?」
「茜さんが好きだったものを」
その言葉に。
茜は一瞬だけ返事を失った。
好きだったもの。
昔はたくさんあった。
ゲームも。
漫画も。
アニメも。
休日に昼まで寝ることも。
でも。
いつからだろう。
好きだったものを思い出すより先に、
明日の予定を考えるようになったのは。
茜は窓の外を見る。
青空が広がっていた。
仕事の電話は鳴らない。
子供たちに呼ばれない。
夕飯も作らなくていい。
洗濯もしなくていい。
信じられないほど静かだった。
そしてその静けさに。
少しだけ。
本当に少しだけ。
救われている自分がいた。
その日。
茜は本当に何もしなかった。
昼まで寝た。
起きて。
ソファでごろごろして。
漫画を読んで。
映画を見て。
お腹が空いたら食べる。
眠くなったら寝る。
それだけ。
たったそれだけなのに。
気付けば夕方になっていた。
「嘘でしょ……」
茜は時計を見ながら呟く。
普段なら。
今頃は仕事を終え、スーパーへ向かい、保育園のお迎えに走り回っている時間だ。
なのに今日は違う。
誰も呼ばない。
誰も急かさない。
何も起こらない。
「天国かここ……」
ソファに沈みながら呟く。
「そうかもしれませんね」
後ろから声がした。
「うわっ!」
茜は飛び起きた。
「だから毎回びっくりするんですけど!?」
「すみません」
全然悪びれていない。
蓮は少しだけ笑っていた。
「夕食の準備ができました」
「夕食?」
「はい」
茜はダイニングへ向かう。
そして固まった。
「え……」
思わず声が漏れる。
テーブルいっぱいに料理が並んでいた。
ローストビーフ。
スープ。
サラダ。
魚料理。
デザート。
レストランのコース料理みたいだった。
「ちょっと待って」
茜は料理と蓮を見比べる。
「これ誰が作ったの?」
「私です」
「は?」
「私です」
「全部?」
「はい」
茜は絶句した。
そして次の瞬間。
「嘘でしょ」
思わず本音が出た。
「料理できるの?」
「できます」
「洗濯は?」
「できます」
「掃除は?」
「できます」
「裁縫は?」
「できます」
「え?」
茜は真顔になった。
「完璧超人?」
「そうでもありませんよ」
「いやそうでしょ」
茜は思わず笑った。
そして。
(いや待って)
と思う。
高身長。
イケメン。
料理できる。
掃除できる。
優しい。
金持ち。
何だこの男。
(現実にいたら絶対結婚してるでしょ)
そこまで考えて。
茜はハッとした。
(いやいやいやいや)
何考えてるんだ自分。
疲れてるのかもしれない。
たぶん疲れている。
きっと疲れている。
「茜さん?」
「なんでもないです」
茜は慌てて席に着いた。
蓮は小さく笑った。
その夜。
茜はベランダへ出た。
高層マンションの夜景が広がっている。
街の光。
遠くを走る車。
見たことのない景色。
綺麗だった。
あまりにも。
「寒くないですか」
後ろから声がする。
蓮だった。
手にはブランケット。
「ありがとうございます」
茜は受け取った。
肩へ掛ける。
温かい。
しばらく沈黙が続く。
不思議と気まずくはなかった。
街の光を眺める。
それだけで時間が過ぎていく。
「……不思議」
茜がぽつりと呟く。
「何がですか?」
「こんなに静かなの」
蓮は何も言わない。
「誰も呼ばないし」
「……」
「怒らなくていいし」
「……」
「急がなくていいし」
「……」
「すごく楽」
それは本音だった。
蓮は穏やかに微笑む。
「良かった」
茜も少し笑う。
だが。
次の瞬間。
ふと頭に浮かぶ。
祐也の顔。
『ママ! 日曜日晴れたらサッカーしよう!』
元気な声。
茜は目を瞬いた。
何故だろう。
急に思い出した。
「……今頃」
無意識に呟く。
「祐也たち、何してるかな」
蓮の表情がわずかに止まった。
本当に一瞬だけ。
「茜さん」
「ん?」
「考えなくていいんですよ」
優しい声だった。
だが。
どこか冷たく聞こえた。
茜は振り返る。
蓮は微笑んでいる。
いつも通り。
優しく。
穏やかに。
「忘れましょう」
茜は眉をひそめた。
「忘れる?」
「はい」
蓮は頷く。
「もう大丈夫ですから」
「……」
「何も心配しなくていい」
「……」
「ここでは幸せになれます」
その言葉に。
茜はなぜだか胸がざわついた。
幸せ。
確かにそうだ。
何も不自由はない。
理想みたいな生活だ。
なのに。
なぜだろう。
祐也の笑顔が頭から離れなかった。
『約束だからね!』
朝の声が蘇る。
茜は夜景から目を逸らした。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
⸻
それから何日が経ったのだろう。
茜には分からなかった。
この世界には時計もある。
朝も夜も来る。
食事もする。
眠くなれば眠る。
だが何故か、日付の感覚だけが曖昧だった。
茜は大きなソファに体を預けながら窓の外を眺める。
今日も静かだった。
あまりにも。
誰も呼ばない。
誰も泣かない。
誰も喧嘩しない。
誰も何も求めない。
最初は夢みたいだった。
仕事をしなくていい。
家事をしなくていい。
育児をしなくていい。
誰かのために動き続けなくていい。
人生で初めて味わう自由だった。
なのに。
最近になって胸の奥がざわつく。
何かが足りない。
何かを忘れている気がする。
「どうしましたか」
蓮だった。
茜は振り返る。
「……スマホ」
「え?」
「スマホが欲しい」
自分でも意外だった。
あれほど鬱陶しかったのに。
職場からの連絡。
学校からのお知らせ。
保育園からの通知。
ママ友グループ。
鳴り続ける着信。
全部面倒だった。
全部嫌だった。
なのに今は。
少しだけ恋しかった。
蓮は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「少々お待ちください」
数分後。
茜の前にスマートフォンが置かれた。
「どうぞ」
茜は恐る恐る手に取る。
電源を入れる。
ホーム画面が映る。
通知。
ゼロ。
着信。
ゼロ。
LINE。
ゼロ。
メール。
ゼロ。
何もなかった。
本当に何も。
世界から切り離されたみたいだった。
茜はしばらく画面を見つめる。
そして。
ひとつのフォルダを見つけた。
【写真】
茜はそれを開いた。
最初に映ったのは。
祐也だった。
生まれた日の写真。
真っ赤な顔。
小さな手。
そして隣には。
ぎこちなく祐也を抱く和彦。
若かった。
今よりずっと。
茜は思わず笑った。
「ふふ……」
次の写真。
初めて立った日。
ブレブレの動画。
『立ったぁぁぁ!!』
自分の声。
『うそだろ!?』
和彦の声。
『すげぇ!!』
動画の中で祐也が得意げに笑っていた。
茜の目頭が熱くなる。
次。
ピーマン。
『やだぁぁぁぁ!!』
泣いている祐也。
『一口だけ! 一口だけだから!』
『やだぁぁぁ!!』
茜は吹き出した。
涙が滲む。
次。
運動会。
小さな体で一生懸命踊る姿。
次。
和彦の肩車。
高い高いと笑う祐也。
次。
翔子が生まれた日。
次。
兄妹で初めて並んで眠った日。
次。
祐也が持ち帰った母の日の絵。
「ママ描いた!」
そう言って見せてくれた紙。
丸い顔。
大きすぎる鼻。
ぐちゃぐちゃの髪。
正直まったく似ていなかった。
「変なの……」
茜は笑った。
そして泣いた。
「全然似てないじゃん」
涙が落ちる。
画面を濡らす。
「なのに……」
声が震える。
「捨てられなかったんだよね……」
次。
翔子。
オムツ姿のまま寝落ちしている。
口を半開きにして。
よだれまで垂らしている。
「こんなの普通消すでしょ……」
茜は笑う。
笑いながら泣く。
「でも消せなかった」
次。
風呂場の動画。
『あるこー♪』
和彦。
『あるこー♪』
祐也。
『きーーー♪』
翔子。
全員音程がバラバラだった。
何を歌っているのか分からない。
それなのに。
茜は画面を抱きしめる。
(戻りたい……)
涙が止まらなかった。
「茜さん」
蓮だった。
茜は顔を上げる。
蓮は静かにこちらを見ていた。
「考えなくていいんです」
穏やかな声だった。
「仕事のことも」
「……」
「学校のことも」
「……」
「保育園のことも」
「……」
「明日の献立も」
「……」
「家計のことも」
「……」
「何も」
茜は俯く。
蓮は続ける。
「ここでは働かなくていい」
「……うん」
「好きなだけ眠れます」
「うん」
「映画も見られます」
「うん」
「ゲームもできます」
「うん」
「好きな本も読めます」
「うん」
「家事もしなくていい」
「……うん」
「育児もしなくていい」
茜は目を閉じた。
「……うん」
全部本当だった。
全部。
茜が望んだものだった。
蓮は一歩近づく。
「それでも」
茜は顔を上げる。
蓮の声が少しだけ揺れた。
「それでも戻りたいんですか」
茜は答えられなかった。
だって。
全部本音だから。
休みたかった。
眠りたかった。
何も考えたくなかった。
一人になりたかった。
全部。
全部本当だった。
長い沈黙が落ちる。
やがて茜は小さく笑った。
泣きながら。
「私ね」
蓮は黙って聞いている。
「ずっと勘違いしてた」
茜は涙を拭う。
「自由になりたいんだと思ってた」
「……」
「仕事したくなくて」
「家事したくなくて」
「育児も疲れて」
「一人になりたいって思ってた」
全部本当だった。
今でも思う。
たまには全部投げ出したい。
何もしたくない。
誰にも呼ばれたくない。
「でも」
茜は胸に手を当てる。
「違った」
蓮の瞳が揺れる。
「私」
茜は笑った。
「休みたかっただけだった」
静寂が落ちる。
「失いたかったわけじゃなかった」
茜はスマホを抱き締めた。
「祐也のことも」
「翔子のことも」
「和彦のことも」
「全部」
涙が溢れる。
「全部、大事だった」
当たり前すぎて。
近すぎて。
見えなくなっていただけだった。
茜はゆっくり顔を上げる。
「帰らなきゃ」
その言葉が零れた瞬間。
部屋の景色が揺れた。
茜は息を呑む。
大きな窓の向こうに広がる夜景が歪む。
光が滲む。
床が波打つ。
まるで水面のように。
「なに……これ……」
茜は立ち上がった。
見慣れた高層マンションの部屋が少しずつ崩れていく。
壁が霞む。
天井が薄れていく。
世界そのものが消え始めていた。
茜は震える声で言った。
「蓮……」
蓮だけは静かだった。
何も驚いていない。
まるで最初から知っていたかのように。
「帰ろうとしているからです」
茜の胸が痛んだ。
「帰るって決めたから……?」
蓮は頷いた。
「この世界は茜さんのために存在しています」
「……」
「茜さんが必要としなくなれば終わります」
茜は唇を噛む。
苦しかった。
胸が締め付けられる。
帰りたい。
帰らなきゃいけない。
そう思っているのに。
何故だろう。
この世界が消えるのが悲しかった。
蓮が消えるのが悲しかった。
「茜さん」
蓮が呼ぶ。
茜は顔を上げた。
蓮は少しだけ寂しそうに笑っていた。
「本当にそれでいいんですか」
茜は答えない。
蓮は続ける。
「仕事に追われて」
「……」
「家事に追われて」
「……」
「育児に追われて」
「……」
「毎日疲れて」
「……」
「眠ることすら満足にできなかった」
茜は目を伏せる。
全部本当だった。
全部。
「ここでは違います」
蓮は穏やかに言う。
「働かなくていい」
茜は黙る。
「好きなだけ眠れます」
茜は黙る。
「映画も見られます」
「……」
「ゲームもできます」
「……」
「好きな本も読めます」
「……」
「家事もしなくていい」
茜の指先が震えた。
「育児もしなくていい」
胸が痛んだ。
だが。
蓮は止まらない。
まるで茜を救うために必死なように。
「茜さん」
茜は顔を上げる。
蓮の瞳が揺れていた。
今までで初めて。
少しだけ。
苦しそうだった。
「それでも」
静かな声。
「それでも戻りたいんですか」
茜は目を閉じる。
頭の中に浮かぶ。
祐也。
翔子。
和彦。
騒がしい声。
散らかった部屋。
脱ぎっぱなしの靴下。
洗い忘れた皿。
ピーマンを嫌がる祐也。
運動会を楽しみにしていた翔子。
全部。
全部。
愛おしかった。
「……うん」
茜は答えた。
小さく。
でも確かに。
「戻りたい」
蓮は俯く。
長い沈黙が落ちた。
やがて。
蓮はゆっくりと顔を上げた。
「和彦さんなら」
茜の肩が震える。
「私がなれます」
茜は息を呑んだ。
「茜さんを大切にします」
「……」
「苦しませません」
「……」
「泣かせません」
「……」
「守ります」
茜は何も言えなかった。
蓮は続ける。
「家事もします」
「……」
「育児もします」
「……」
「茜さんを一人にしません」
その言葉は優しかった。
本当に。
どこまでも。
優しかった。
「子供が恋しいなら」
蓮は微笑む。
「ここで新しい家族を作ることもできます」
茜は目を閉じた。
もし。
独身だったら。
もし。
二十歳の頃だったら。
飛び付いていたかもしれない。
蓮は優しい。
強い。
頼れる。
理想そのものだ。
だけど。
違う。
違うのだ。
「蓮」
茜は涙を拭う。
そして小さく笑った。
「祐也じゃなきゃダメなの」
蓮が黙る。
「翔子じゃなきゃダメなの」
「……」
「和彦じゃなきゃダメなの」
茜は泣きながら笑う。
「だって」
声が震える。
「もう家族だから」
蓮は何も言わなかった。
ただ静かに立っていた。
長い沈黙。
やがて。
蓮はふっと笑った。
少しだけ。
寂しそうに。
でも優しく。
「そうですか」
茜の目から涙が溢れる。
「ごめん」
蓮は首を横に振った。
「謝らないでください」
そしてゆっくり近付く。
茜の前で立ち止まる。
そっと。
初めて茜の頭へ手を置いた。
温かかった。
驚くほど。
優しかった。
「茜さん」
茜は顔を上げる。
蓮は微笑んだ。
今までで一番。
優しく。
穏やかに。
「お疲れ様でした」
その一言で。
茜の涙腺は決壊した。
声を上げて泣いた。
子供みたいに。
みっともなく。
ぼろぼろと。
泣き続けた。
ずっと。
誰かに言ってほしかった。
その言葉を。
ただ。
その一言を。
世界はゆっくりと光に包まれていった。
⸻
光だった。
真っ白な光。
温かくて。
優しくて。
どこまでも静かな光。
茜はその中を歩いていた。
足元も見えない。
空もない。
地面もない。
ただ光だけが続いている。
不思議と怖くはなかった。
少しだけ寂しかった。
「蓮」
呼んでみる。
返事はない。
もう分かっていた。
蓮はいない。
あの世界も。
もうない。
それなのに。
胸の奥には不思議な温かさが残っていた。
『お疲れ様でした』
最後の言葉が蘇る。
茜は目を閉じた。
そして。
前へ進んだ。
その瞬間だった。
耳元で何かが聞こえた。
『……ね』
遠い。
とても遠い。
『……かね』
誰かが呼んでいる。
『茜……!!』
声が近付く。
茜はゆっくりと瞼を開いた。
眩しかった。
白い天井。
鼻につく消毒液の匂い。
機械の電子音。
見慣れないようで。
どこか見覚えのある景色。
病院だった。
「……」
声が出ない。
喉が渇いている。
体も重い。
まるで鉛みたいだった。
「茜……?」
震える声。
茜はゆっくり視線を向けた。
そこにいたのは。
和彦だった。
目が真っ赤だった。
髭も伸びている。
髪もぼさぼさ。
今にも倒れそうな顔をしていた。
「か……ず……」
掠れた声。
和彦の目が大きく見開かれる。
「茜……!」
次の瞬間。
和彦は顔を覆った。
肩が震えている。
泣いていた。
茜は呆然とする。
こんな和彦を見たことがなかった。
「よかった……」
掠れた声。
「よかった……」
何度も。
何度も。
同じ言葉を繰り返している。
茜の目から涙が零れた。
その時だった。
病室の扉が勢いよく開く。
「ママ!!」
聞き慣れた声。
茜は顔を上げる。
祐也だった。
そして。
「ママぁぁぁ!!」
翔子。
二人とも泣いていた。
目を真っ赤にして。
顔をぐしゃぐしゃにして。
茜の元へ駆け寄ってくる。
「ママぁぁぁ!!」
翔子がベッドへしがみつく。
祐也も必死に涙を堪えていた。
「……」
茜は言葉が出なかった。
ただ。
二人の頭を撫でる。
温かい。
本物だった。
「ただいま」
茜は泣きながら笑った。
「ママ……」
「おかえりぃぃぃぃ!!」
翔子が声を上げて泣く。
祐也も堪えきれず涙を零した。
茜は二人を抱き寄せた。
何度も。
何度も。
確かめるように。
抱き締めた。
帰ってきた。
本当に。
帰ってきたのだ。
――それから。
茜の回復は順調だった。
すぐに退院できるわけではなかったが、少しずつ体は動くようになっていった。
最初はベッドの上。
次は車椅子。
そしてリハビリ。
毎日少しずつ。
本当に少しずつ。
前へ進んだ。
その間。
家族は何度も病院へ来てくれた。
祐也は学校帰りに。
和彦は仕事終わりに。
そして翔子は。
義母に手を引かれてやって来た。
『ママー!』
病室へ入るなり駆け寄ってくる。
茜は思わず笑った。
『翔子』
『ママ、今日ね!』
椅子へ座る前から喋り始める。
保育園であったこと。
お友達のこと。
給食のこと。
運動会のこと。
話はあちこちへ飛ぶ。
茜は何度も頷いた。
途中で義母が苦笑する。
『ほら翔子、ママ疲れちゃうでしょ』
『だっていっぱい話したいもん!』
茜は首を横に振った。
『いいんです』
本当に。
全然疲れなかった。
それどころか。
病室が静かになると少し寂しかった。
ほとんど毎日。
顔を見せてくれた。
和彦は特別優しい言葉を掛けるわけでもなかった。
病室へ入ってくるなり、
『おう』
とだけ言う。
仕事帰りのスーツ姿で椅子へ座り。
今日あったことをぽつぽつ話して。
子供達の写真を見せて。
そして面会時間になると、
『じゃあな』
と帰っていく。
それだけだった。
それなのに。
気付けば茜は毎日その時間を待っていた。
⸻
運動会の日。
茜は病院のベッドにいた。
本当なら。
一番前で見る約束だった。
翔子と。
あの日の朝。
確かに約束した。
『絶対一位取るから!』
そう言っていた。
茜はスマホを握り締める。
画面の向こうでは運動会が始まっていた。
テレビ通話だった。
和彦が最前列でスマホを持っている。
『見えてる?』
茜は笑う。
『見えてる』
少し掠れた声だった。
やがて。
翔子の番が来る。
小さな体。
一生懸命走る姿。
転ばないように。
必死に前を向いて。
『ママー!!』
画面越しに手を振る。
『見てるー!?』
茜の視界が滲んだ。
『見てるよ』
翔子は満面の笑みで走り出した。
⸻
ある日。
リハビリへ向かう途中。
茜は担当の看護師に声を掛けられた。
『本当に良かったですね』
『え?』
『目が覚めて』
看護師は優しく笑った。
『ご主人、毎日来ていましたから』
茜は足を止める。
『毎日……?』
『ええ』
看護師は頷いた。
『お仕事帰りに必ず』
『……』
『面会時間ぎりぎりまでここにいましたよ』
茜は言葉を失った。
『お休みの日も来ていましたし』
『……』
『お子さん達の写真を見せたり』
『今日はこんなことがあったって話したり』
『ずっと話し掛けていました』
茜の胸が熱くなる。
『茜、今日は翔子がね』
『茜、祐也がね』
そんな声が。
聞こえてくる気がした。
看護師は少しだけ笑った。
『面会時間が終わっても、なかなか帰らなくて』
『……』
『いつも看護師長に怒られてたんですよ』
茜は思わず吹き出した。
そして。
少しだけ泣いた。
和彦らしい。
本当に。
馬鹿みたいに不器用で。
どうしようもなく。
優しい。
『きっと聞こえていたんじゃないですか?』
茜は思わず目を伏せた。
胸の奥がじんわりと痛む。
そして。
少しだけ温かかった。
⸻
運動会から数日後。
病室の窓から夕日が差し込んでいた。
茜はリハビリを終え、少し疲れた体をベッドへ預けていた。
ガラリ。
病室の扉が開く。
「おう」
和彦だった。
スーツ姿。
ネクタイは少し緩んでいる。
髪も少し乱れていた。
急いで来たのだろう。
以前より少し痩せて見えた。
「お疲れ」
茜が言う。
和彦は照れ臭そうに頭を掻いた。
「そっちこそ」
そう言いながら椅子へ腰掛ける。
茜は時計を見る。
まだ面会時間には少し早かった。
「仕事は?」
和彦はペットボトルを机へ置いた。
「あー」
少しだけ気まずそうな顔をする。
「今日は早退」
茜は目を瞬いた。
「え?」
「リハビリ見学できる日だったろ」
「……」
「ちょっとだけ抜けてきた」
茜は言葉を失う。
和彦は昔からそういうタイプではなかった。
学校行事には来る。
休日は子供と遊ぶ。
家族を大切にはしている。
でも。
仕事を抜けてまで何かをするタイプではなかった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない」
和彦は即答した。
「今めちゃくちゃ忙しい」
「じゃあなんで……」
茜がそう言うと。
和彦は少しだけ困った顔をした。
そして。
「見たかったから」
茜は固まる。
「……え?」
「歩くとこ」
和彦は視線を逸らした。
少しだけ照れ臭そうに。
「だって」
そこで言葉を切る。
「四か月寝てたんだぞ」
茜は何も言えなかった。
和彦は苦笑する。
「見たいだろ」
その言葉に。
茜の胸が熱くなった。
思わず視線を落とす。
「……そっか」
和彦は話題を変えるようにペットボトルを開けた。
「そういや翔子な」
「うん」
「運動会の動画、もう十回くらい見てる」
茜は笑った。
「そんなに?」
「毎回」
和彦も笑う。
「ママ見てたもんね!って」
茜の目が潤む。
あの日。
病院のベッドから見た運動会を思い出した。
和彦は窓の外を見ながらぽつりと呟く。
「約束だったからな」
「……」
「茜の代わりに最前列で見るって」
茜は小さく笑った。
そして。
「ありがと」
和彦は首を傾げる。
「何が?」
「いろいろ」
和彦は少しだけ笑った。
「別に」
そう言ったあと。
何気ない調子で続ける。
「俺も必死だったし」
茜は顔を上げる。
和彦は窓の外を見ていた。
「最初マジで焦った」
「……」
「ご飯なんかまともに作れないし」
「……」
「洗濯したら翔子の服縮むし」
茜は吹き出した。
「なにそれ」
「本当だよ」
和彦も笑う。
「チャーハンなんか三回焦がした」
「三回?」
「三回」
茜は肩を震わせる。
笑いながら。
涙が滲んだ。
「祐也にさ」
和彦がぽつりと言う。
「ママならもっと上手いのにって言われた」
茜はとうとう声を上げて笑った。
「言いそう」
「だろ」
二人で笑う。
久しぶりだった。
こんな風に笑ったのは。
しばらくして。
和彦が小さく呟いた。
「でもさ」
茜は顔を上げる。
「茜がいないと駄目だな」
その言葉に。
茜は息を呑んだ。
和彦は照れ臭そうに頭を掻く。
「いや」
「子供らもそうだけど」
「俺も」
そこで言葉を切る。
「……大変だった」
茜は何も言えなかった。
ただ。
胸がいっぱいだった。
蓮は理想だった。
完璧だった。
優しかった。
何でもできた。
でも。
目の前にいるのは和彦だった。
靴下を脱ぎっぱなしにする。
ペットボトルも放置する。
料理も下手。
不器用。
全然完璧じゃない。
それでも。
この人は。
自分がいない間。
必死に家族を守ってくれたのだ。
茜はそっと笑った。
「和彦」
「ん?」
「ありがと」
和彦は少しだけ照れた顔をした。
そして。
「……おう」
それだけ答えた。
⸻
週末。
和彦から一枚の写真が送られてきた。
公園だった。
祐也がサッカーボールを蹴っている。
翔子がそれを追い掛けている。
そして。
二人を見ながら笑っている和彦。
茜はしばらく写真を見つめていた。
以前なら。
その写真を撮っていたのは自分だった。
気付けば。
和彦も写真の中にいる。
茜がいなかった四か月。
この人もまた。
必死に毎日を生きていたのだ。
茜は小さく笑った。
その後。
そっと写真を保存した。
⸻
――半年後。
「祐也!!」
茜の怒鳴り声が家中へ響く。
「靴下履けって言ってるでしょ!!」
「今履こうとしてたんだよ!!」
「毎朝同じこと言わせないで!!」
「わかってるって!!」
茜の額に青筋が浮かぶ。
その横では。
「ママぁー」
翔子がのんびり体操着を抱えている。
「たいそーぎどこー?」
「昨日出しとけって言ったでしょ!!」
「えへへー」
「笑って誤魔化すな!!」
さらに。
「茜ー」
和彦がリビングから顔を出した。
「ペットボトルここ置いとくね」
茜は固まる。
数秒。
沈黙。
「捨てろぉぉぉぉぉ!!!」
「はい」
和彦は素直に引っ込んだ。
祐也が笑う。
翔子も笑う。
茜も思わず吹き出した。
うるさい。
騒がしい。
忙しい。
面倒くさい。
毎日疲れる。
たぶん明日も疲れる。
来週も。
来月も。
きっと同じだ。
それでも。
茜は笑った。
窓から差し込む朝日を見上げる。
リビングには家族の声が響いていた。
温かくて。
騒がしくて。
どうしようもなく愛おしい。
「ほら」
茜は子供たちの背中を押した。
「遅刻するよ」
「はーい!」
「いってきまーす!」
慌ただしい朝が始まる。
いつもと同じ。
何も変わらない朝。
だけど茜は知っている。
この当たり前が。
どれほど幸せなことなのかを。
茜は小さく微笑んだ。
「ほら、行くよ!」
その声は。
とても優しかった。
――完――
この作品は、ふと思った疑問から生まれました。
最近は異世界転生ものが本当に多いですよね。
「もし今の記憶を持ったまま過去に戻れたら」
「もし異世界へ行けたら」
そんな想像を、一度くらいはしたことがあるのではないでしょうか。
では、すでに大切な家族がいて、幸せな家庭を築いている母親だったらどうだろう。
疲れている。
休みたい。
全部投げ出したい。
そう思うことはあっても、本当に今の人生を捨てたいと思うのだろうか。
そんな疑問から、この物語を書きました。
ちなみに作中に出てくる主婦の愚痴の数々は、実際に職場のパートさんたちから聞いた話が元になっています。
世の中のお母さん方、本当に毎日お疲れ様です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
もし茜の物語に少しでも共感していただけたなら、評価や感想をいただけると嬉しいです。
皆さまの応援が、次の物語を書く力になります。




