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4.落ちる華

建国記念の祝賀夜会は、王城の大広間がこれでもかというほどの光で満たされていた。

天井高く吊られた巨大なシャンデリアは、幾層にも重なった水晶をきらめかせ、まるで空にもう一つ星空が浮かんでいるかのようだ。

――その入口で。

エリスは、完全に固まっていた。

「……む、無理です……帰りたいです……」

隣に立つ父、サントが小さく息を吐く。

「今さら何を言っている。招待状を受け取ったのはお前だろう」

「し、しかし……建国祝賀パーティーということは……王族・重臣・外交使節……つまり……標的が多すぎます……!」

「標的、ではない」

「毒、狙撃、落下物、爆破、誘拐、転倒事故……すべての可能性が……!」

「全部同時には起きん」

エリスは震える手で小さなメモ帳を取り出し、何かを確認する。

「……非常口、三箇所……柱、八本……シャンデリア、四基……落下可能重量……」

「やめろ、入る前から戦場にするな」

サントが半ば呆れながら肩を押すと、エリスはぎこちない足取りで一歩だけ前へ出た。

その瞬間――

「相変わらずだな、エリス」

低く、よく通る声。

びくり、とエリスの肩が跳ねる。

振り向いた先にいたのは、黒に近い濃紺の礼装を纏った青年。

この国の第一王位継承者――王太子その人だった。

エリスの顔色が、一瞬で青を通り越して白くなる。

「ひっ……!」

王太子は周囲の令嬢たちに向けていた柔らかな笑みを消し、わざとらしく一歩、距離を詰めた。

「どうした。俺の顔を見るたびに後ずさるのはやめろと言ったはずだ」

「お、王太子殿下……本日はご機嫌麗しゅ……」

「硬い」

さらに半歩近づく。

「もっと怯えろ。そっちの方が面白い」

「ひぃ……!」

完全に腰が引けたエリスを見て、王太子は満足そうに口元を緩めた。

その少し後方――

柱の影に立つ一人の騎士が、静かに視線だけを動かす。

サミュエル・ヴァルク。

今夜の警備任務に就いている彼は、エリスとの距離を正確に測りながら、きっちり五メートル後方に位置取っていた。

(……問題なし)

一瞬だけ、エリスの様子を確認する。

淡い緑のドレスが、広間の光を受けて柔らかく揺れていた。

派手な装飾はないが、落ち着いた色合いが彼女の白い肌と銀色の髪によく映えている。

大きく見開かれた瞳は不安げに揺れているものの、整った輪郭と透き通るような目元のせいで、遠目にもはっとするほど整った顔立ちだと分かる。

(……ああいう表情をしていなければ、普通に目を引く令嬢なんだが)

サミュエルは内心でそう思い、すぐに視線を外す。

それにしても――と、わずかに首を傾げた。

(またあの緑のドレスか)

夜会、屋敷、庭先。

これまで彼女を見かけた場面のほとんどで、同じ色合いのドレスを着ていた記憶がある。

貴族令嬢なら衣装を替えるのが普通のはずだが、なぜか彼女は頑なに緑を選ぶ。

(気に入っているのか……それとも、何か理由があるのか)

そこまで考えたところで、エリスの視線がぴたりと天井の一点に止まっていることに気づいた。

(……?)

サミュエルがわずかに眉を寄せた、その瞬間。

エリスの唇が、小さく震える。

「……あれ……?」

次の瞬間、彼女ははっとしたように顔色を変え、周囲を見回した。

「サ、サミュエルさん……!」

五メートル離れた位置から、必死に手を振る。

「上……! あの鎖……色が……違……」

その声と同時だった。

――ぎしり。

鈍い、嫌な音が広間に響く。

サミュエルの目が鋭く上を向く。

(まずい)

ほんの一瞬の遅れもなく、彼は王太子の肩を強く引いた。

「殿下、下がってください!」

「おっと――」

言い終えるより早く、シャンデリアの鎖が弾ける。

巨大な光の塊が、真下へと落下した。

悲鳴が広間に広がる。

その直前。

サミュエルは半歩踏み込み、王太子を背後へ押しやるようにして自ら前へ出た。

(間に合う――)

落下点を読み、姿勢を低く構える。

その瞬間、横から小さな声が飛び込んだ。

「い、いきます……!」

次の瞬間、どこからともなく現れた大きなトランクが、サミュエルの斜め前へ滑り込むように置かれる。

――ガァンッ!!

凄まじい衝撃音。

シャンデリアの一部が床に激突し、水晶が四方に飛び散る。

だが、直撃コースに入っていた破片は、エリスが押し出した鉄板入りトランクに弾かれ、サミュエルと王太子の足元へは届かなかった。

数秒。

広間は完全な静寂に包まれる。

サミュエルは姿勢を解き、後ろを振り返った。

王太子は無傷。

そして視線を横へ移すと――

トランクの影から、恐る恐る顔を出しているエリスの姿。

「だ、だ、大丈夫……でしょうか……」

震える声だった。

サミュエルは一瞬だけ目を丸くし、すぐに小さく息を吐く。

「……ええ。助かりました。」

そのすぐ横で、王太子がゆっくりと口元を吊り上げる。

「なるほど。」

王太子は砕けた水晶片を一瞥し、静かに周囲へ声をかけた。

「皆、落ち着いてください。怪我人はいませんか」

その落ち着いた声音に、ざわめいていた会場の空気がゆっくりと整っていく。

やがて王太子は、トランクを構えたまま固まっているエリスへ視線を向けた。

「そこのご令嬢」

エリスはびくりと肩を跳ねさせる。

「は、はい……」

「先ほどの落下を予見していたように見えましたが、何か異変に気づいておられましたか?」

いつもエリスに向けられるそれとは違う丁寧で柔らかな口調。だが、その視線だけは鋭い。

「い、いえ、その……鎖の色が、少し……違って見えまして……」

王太子は軽く頷いた。

「なるほど。ご報告、感謝します。結果として、非常に助かりました。」

周囲の貴族たちが感心したように小さくざわめく。

そのとき、王太子はほんの一瞬だけエリスに近づき――

周囲には聞こえない声で、低く囁いた。

「あとで詳しく聞かせてもらおう。」

エリスの背筋が一気に凍る。

王太子はすぐに距離を戻し、何事もなかったように騎士団へ向き直った。

「警備隊、天井設備の即時点検を。原因の調査も同時に進めてください。」

会場のざわめきが徐々に落ち着く中、騎士団の技術官たちは天井付近の調査を続けていた。

やがて、一人の騎士がサミュエルのもとへ歩み寄る。

「報告します。シャンデリアを支えていた鎖――工具による切断痕を確認しました」

「……確定か」

「はい。事故ではありません」

その言葉を、少し離れた位置で聞いていたエリスの肩がびくりと跳ねた。サミュエルが視線を向けると、彼女の顔色はすでに紙のように白い。

「……つまり……」

エリスの唇が小さく震える。

「や、やっぱり……暗殺……?」

エリスの頭の中では、すでに最悪の想定が高速で展開されている。

(シャンデリアが失敗……)

(次は毒……)

(会場封鎖……混乱……刺客侵入……)

(王太子殿下が負傷……報復……)

(王都封鎖……物資不足……)

(最後は……)

「……ひいいぃ……!」

小さく声が漏れる。

サミュエルは一瞬だけ目を細め、短く言った。

「落ち着いてください」

「む、無理です……」

「まだ何も起きていません」

「起きています……!もう起きています……!」

小さな声なのに妙に切実で、サミュエルは思わず口元をわずかに押さえた。

そのとき、別の騎士が追加報告を持ってくる。

「固定具の一部が事前に緩められていた形跡もあります。内部協力者の可能性も」

エリスが完全に固まった。

「……な、内部……」

ゆっくりと周囲を見回す。

豪奢な衣装の貴族たち、給仕、楽団員――

「……い、いまこの中に……」

声がかすれる。

「共犯が……?」

サミュエルは小さく息を吐いた。

「可能性の話です」

「一番怖い話です……!」

そのあまりにも真剣な反応に、彼は一瞬だけ視線を逸らし、肩をわずかに揺らした。

「……とにかく、しばらく警備が強化されます。危険はありませんよ。」

「さっき落ちてきました……!」

「……今は、です」

エリスは数秒黙り込んだあと、小さな声で呟く。

「……やっぱり……今日は……」

「はい?」

「帰ったら……庭の防衛設備……倍にします……」

サミュエルは、とうとう小さく笑った。

「それはやりすぎでは?」

エリスは真顔で首を横に振る。

「むしろ足りません……」

「……なぜなら……」

エリスは震える声のまま、必死に言葉を続けた。

「この規模の細工は……当日や前日では不可能です……」

「鎖の加工、固定具の弱体化、点検記録のすり替え……少なくとも数日前から準備されています……」

視線が不安そうに会場をさまよう。

「そして、王族が確実に集まる夜会の日を狙っている……」

小さく息を吸う。

「……つまり、成功率を上げるために、複数の手段を用意している可能性が高いです……」

サミュエルが静かに聞いている横で、エリスの声はさらに小さくなった。

「一度の失敗で終わるような作戦ではありません……」

「……これは、第一段階です……」

そう呟いた瞬間、改めて自分の想像の大きさに気づいたのか、エリスの顔色がさらに青くなる。

「……ど、どうしましょう……本格的に、闇の組織かもしれません……!?」

エリスは震える声のまま、思わず一歩後ずさる。

「あ、ああの、ごご、5メートル……」

その言葉に、すぐ横から落ち着いた声が返った。

「もう慣れてくれたのかと思ってました。」

サミュエルは、半歩だけ距離を取る。

「この状況で距離を気にする余裕があるなら、まだ大丈夫ですね」

「だ、大丈夫ではありません……!」

エリスは小さく首を振りながらも、ほんの少しだけ呼吸を整えた。

視界の端に、先ほどから変わらず立っているサミュエルの姿が入る。

(……でも)

(この人が、ここにいるなら……少しだけ……)

「……あ、あの」

「はい」

「……もう少しだけ……近くにいていただいても……いいです……」

言い終えた瞬間、自分で何を言ったのか気づいたのか、エリスの耳が真っ赤になる。

サミュエルは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。

「了解しました。規定距離、3メートルに変更ですね」

「さ、3メートルは近いです……!!!!」


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