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書きかけの栞

◆ 白い紙片


 桜風堂の午前は、紙と陽だまりの匂いがゆっくり混じり合いながら始まる。

 扉を開けた瞬間、棚の間に漂う静かな気配に、肩の力がふっと抜けた。

 休日の朝は、お婆ちゃんがひと足先に店内を整えていることが多い。


「おはよう、お婆ちゃん」


 古いレジ台の上で帳簿を広げていたお婆ちゃんと目が合った。


「おう、ナツキ。今日はえらく早いじゃないか」


「なんか、目が覚めちゃって」


「若いもんが早起きなんて、雨でも降るんじゃないかねぇ」


「外、晴れてるよ」


 軽口を交わしながらエプロンを結ぶと、お婆ちゃんは鼻で笑って作業に戻った。

 そのやり取りだけで、胸の奥がほっと温かくなる。

 

 桜風堂は、僕にとって帰る場所の匂いがするのだ。


 棚の整理に向かうと、一冊の古い単行本が目に入った。

 表紙は色あせ、ページの端に少し折り目がある。

 だけど、不思議と手に馴染むような優しい本だった。


 ふと、ページの間から何かが落ちた。


「あれ、栞……?」


 拾い上げると、それは驚くほど真っ白な栞だった。絵も文字もなにもない。紙の質は古いような、新しいような、不思議な感触。


 ――そのとき。


 白紙の中央に、墨のような文字が一行だけ、すうっと浮かび上がった。


『今日、桜風堂に訪ねてくる人がいる』


「……え?」


 さっきまでは、何も書かれていなかった。

 見間違いかと思ったが、黒い文字は確かにそこにある。


「お婆ちゃん……なんか、変なもの見つけた」


 お婆ちゃんは差し出した栞をじっと見つめて言った。


「ふん……また厄介なもん拾ったねぇ」


「また……?」


「世の中には、そういう変なもんがたまに紛れ込むんだよ。ここは特にね」


 栞を指でとんとんと叩き、


「けどまあ、あんまり気にすんな。未来なんて、知らんほうが気楽ってもんだ」


 そう言って笑った。


 その時、店の扉が静かに開いた。


「あの……桜風堂さんですよね」

 

 紺色のジャケットを着た、スラリと背の高い青年が入口に立っていた。


 

◆ 桐生透という青年


「はじめまして。……僕、桐生 透(きりゅう とおる)といいます」


 透さんは大学院で、民俗学を研究しているらしい。

 静かで落ち着いた声だが、少し緊張しているようだった。


「このあたりの伝承について研究しておりまして……昔の資料を探しています」


 ちらりと手の中の栞を見ると、再び黒い線がゆっくり生まれ始めた。


『彼は探しものの答えを、桜風堂で見つける』


 思わず、お婆ちゃんに目をやると、


「まあ、ゆっくり探すといいよ。紅茶でも飲みながらさ」


 そう言って、目で合図した。


「今日はどれにしようかな」

 

 紅茶の缶がずらりと並ぶ棚の前で少し迷ったあと、ダージリンのセカンドフラッシュを手に取った。

 蓋を開けると、ふわりと、陽射しみたいな明るい香りが立つ。

 柑橘とマスカテルの香りが混ざり合って、なんだか気持ちを明るくしてくれる。


 スプーンで茶葉をすくい、ポットへ落とした。

 乾いた葉がぱらり、と軽い音を立てる。


 沸かしたてのお湯をそっと注ぐ。

 細い湯の筋が茶葉に触れた瞬間、すぅ、と甘い香りがふくらみ、ぽん、と小さく弾けるように深みが増していく。


「この香りに合う茶菓子は……」


 先日、常連の山田さんから頂いたフルーツにしよう。


 キウイは柔らかいみどりの果肉を薄く切ると、酸味のある爽やかな香りが広がる。

 オレンジは濃厚な甘い香りとともに、切り口から瑞々しい透明な果汁があふれた。


 これを皿に並べるだけで、ぱっと華やかになった。


 ポットとカップ、そしてフルーツを乗せた皿をトレイにのせて運ぶと、透さんは目を丸くした。


「……とても良い香りだね。なんだか落ち着きます」


 一口すすると、ほっと柔らかな息が漏れた。


「……ほんとに、おいしい。フルーツにも合うんですね」

 

 その声は、どこか張りつめていたものがほどけるみたいに柔らかかった。


「オレンジは紅茶の香りを引き立てるし、キウイの酸味は後味がすっきりしますよ」


 テーブルの上に、紅茶の湯気とフルーツの色彩が静かに重なる。

 

「僕、こういう喫茶……いや、古本屋兼喫茶、初めてです」


「今じゃ、常連のほとんどがナツキの紅茶が目当てだけどね」


 お婆ちゃんにそう言われると、なんだか心の奥がくすぐったい。


 その時、ポケットの中に入れていた栞が微かに震えた。


 取り出して見ると、滲んだ墨が再び文字を形作る。

 それを見て透さんが言った。

 

「……その栞、ちょっと見せてもらえませんか」


 


◆ 栞が映す未来


「彼はなくした言葉を探している」


 透さんは栞に書かれた文字を声に出して読むと、かすかな苦笑を漏らした。


「なくした……言葉って?」


「僕、研究で書いた論文のデータを全部消しちゃったんです。

 大切な先行研究の引用メモとか、全部。

 それと同時に、自分の進む道が、ちょっとわからなくなってしまって」


 お婆ちゃんが、カウンター越しに優しい声で言った。


「失くしたものがあるなら、また探せばいいじゃないかい。桜風堂はね、探しものが見つかる店なんだよ」


 透さんはその言葉に、ほんの少し表情をゆるめた。


 一方、僕は栞を見ながら、胸の奥がざわついていた。


 この栞、未来を見せるだけじゃない……触れた人の迷いが映るんだ


 そしてまた文字が浮かぶ。


『彼はここで、もうひとつの真実を知る』


「もうひとつの真実……?」


 つぶやいた瞬間、栞の端がかすかに揺れた。


「ナツキ、ちょっと来てごらん」


 お婆ちゃんが示したのは、店の奥の古い引き出し。

 そこに一冊の古びたノートが入っていた。


「それ、昔ここに来てた大学院生が置いてった研究メモだよ。

 この辺りの昔話を集めていた子でね。

 途中で研究に行き詰まって、このノートだけ置いていった」


 ノートの表紙には、色褪せた文字でこう書かれていた。

 

『風が運んだ言葉の行方』


 それをパラパラとめくるなり、透さんは驚いた表情を浮かべた。

 

「……図、引用、考察――僕の研究テーマとほとんど一緒だ……まるで、失った言葉が戻ってきたみたいだ」


 透さんの声は震えていた。


「このノートの持ち主、覚えてますか?」


 お婆ちゃんは遠い目で記憶を探し、


「もう何十年も前だからねぇ、確か“カズ坊”って呼んでたのは覚えてるんだけど……」


「カズ坊……もしかして、一夫(かずお)ではないですか?」


 お婆ちゃんが手をポンとたたく。


「そうだよ! 一夫でカズ坊だ! 」


 その瞬間、栞がかすかに震え、文字がまた浮かび上がった。


『なくした言葉は、誰かの手の中に残る』


 透さんが静かに言った。

 

「……桐生 一夫(きりゅう かずお)。僕の父です」


 栞の白紙に、風の気配だけが残った。

 


◆ 書きかけのままで

 

「これ……いただいていいんですか?」


「もちろんさ。しかし、不思議なもんだねぇ……人の迷いってのは、時を越えて同じ場所に集まるらしいよ」


 透さんの目が、ほんの少し潤んだように見えた。


「……今日ここに来られて、本当によかった。

 研究、ちゃんともう一度やり直します」


「うん。迷ったらまた来な。……未来は書き直せないけど、選び直すことはできるよ」


 透さんはノートを抱えながら、戸口で深く頭を下げた。


 扉が閉まり、桜風堂の中に静けさが戻る。

 僕は手の中の栞を見た。今は、ただの白紙だ。


「……これ、どうすればいいかな」


「好きにしな。未来は書きかけのほうが、面白いってもんだよ」


 お婆ちゃんがそう言い、振り子時計の音がやさしく響いた。


 僕は栞を本の間にそっとはさんだ。

 そこに文字が浮かぶかどうかは、もう確かめない。


 書きかけのままでいい。

 たとえ迷子になってもいい。

 自分の未来は、自分で決めるのだから。


 


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