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花暦(はなごよみ)の帳

◆ 静かな午後と、古い匂い


 その日の桜風堂は、春の雨上がりみたいにしっとりと静かだった。

 ガラス戸の外では、まだ地面に残った水滴がひかりを返している。

 店の奥では、お婆ちゃんが帳簿をぱたんと閉じて、ため息をついた。


「ナツキ、お茶の時間じゃないかね」


「え、さっき飲んだばかりじゃ……」


「飲みたい時がお茶の時間なんだよ」


 結局いつもこうなる。

 僕は苦笑しながら給湯スペースへ向かった。


 今日の紅茶は――

 春の香りがほしくて、ダージリンのファーストフラッシュ。

 茶葉をスプーンですくうと、青葉みたいな爽やかな香りがふわりと立つ。


 温めたポットにそっと茶葉を落とし、お湯を注いだ。

 細い蒸気が揺れ、その向こうでお婆ちゃんが声をかける。


「春の匂いがするねぇ。外はまだ少し寒いのに」


「でも、桜が咲き始めてるし……店の名前にぴったりの季節だよね」


「そりゃあ、うちは春になると元気になるんだよ」


 そんな他愛ない会話をしていると――

 チリン、とガラス戸の鈴が鳴いた。


 振り向くと、見慣れない上品な女性が立っていた。

 淡い藤色のコートを羽織り、白髪をきれいにまとめている。

 どこか花の香りのする人という印象だった。


「あら……芽衣(めい)さんじゃないかい。久しぶりだねぇ」


 お婆ちゃんの声が、ほんの少しだけトーンが高くなった。

 どうやら昔の知り合いらしい。


「フミさん、お変わりなく。少し……預かってほしいものがあってね」


「預かりもの?」


 芽衣と呼ばれた女性は、古い桐箱をそっと抱えていた。


 ふたを開けると――

 中には、古びた和紙の帳面が眠っていた。


「これは……花暦(はなごよみ)。季節の花を綴った、ちょっと変わったものなのよ」


 ふっと、干した花びらのような香りが流れた。


「フミさんにしか、頼めなくてね」


 お婆ちゃんは、じっとそれを見つめ、

 どこか懐かしそうに、そして心の奥が揺れるような表情をした。


「芽衣さん……あれから、もう五十年経つんだねぇ」


 僕は思わず息をのんだ。


 二人の間に流れる過去が、店の空気をひっそりと染めていくようだった。


 

◆ 花暦が映すもの


 桐箱から帳面を出すと、表紙には『花暦』という古い筆文字。

 紙は色あせているはずなのに、ほんのり花の香りがする。


「触ってもいいですか?」

 

「ええ、もちろんどうぞ」


 そっとページをめくると――

 季節の花が、絵巻のように鮮やかに描かれていた。

 春は桜に山吹、夏は藤、秋には萩、冬には椿。


 ページから淡い香りが立ちのぼり、

 鼻孔をくすぐると同時に、胸の奥を軽くノックするような気配があった。


「この帳面はね、触れた人の季節の記憶が映るんですよ」


 芽衣さんの声は、静かでやさしい。


「映る……って?」


「目に見えるわけじゃないけれどね。

 その人が忘れた季節、胸にしまった花の記憶が、ふっと思い出になるの」


 試しにページに指先を触れた瞬間――


 桜の香りが強くなり、幼い日の景色がふっと浮かんだ。

 母に背負われて見た満開の桜。

 ほのかな甘い香り。

 風の音と、優しい手の感触。


「……これ、僕の、昔の……」


「春の記憶だねぇ」


 フミばあちゃんが、どこか嬉しそうに笑った。


 芽衣さんは、しばらくページを見つめ、それから静かに言った。


「フミさん。あなたも……触れてみたら?」


 お婆ちゃんは少し迷ったが、そっとページに手を置いた。


 その瞬間――

 店の空気が、春の夕暮れのような柔らかな光に満たされた。


 お婆ちゃんは目を閉じ、ぽつりとつぶやいた。


「……あの時の……約束を、思い出すねぇ」


「やっぱり」


 芽衣さんの声には、微笑が混じっていた。


 

◆ 五十年前の春


「ナツキ、そこに座んな。話すから」


 いつもの気さくな口調で、湯気の立つカップを僕の前に置いた。


「今日は特別に、桜の花びらの砂糖漬けを浮かべてみたよ。甘すぎないやつね」


「うわ……きれいだね」


 淡いピンクの花びらが、ダージリンの表面を静かに揺れた。


「昔ね、あたしと芽衣さん……それにもう一人、仲間がいたんだよ。名前はね、(りょう)さんっていうんだ」


 芽衣さんもうなずく。


「三人で、春になると花見をしたり、俳句を作ったりね。

 花暦を作ろうって言い出したのは、涼さんだったわ」


「そうそう。ああいうのが好きな変わった男でねぇ」


 フミばあちゃんは目を細めた。


「ある春の日、涼さんが言ったのさ。

 花暦を作って、春が来るたび三人で見よう。 

 もし離れ離れになっても、季節が会わせてくれるからってねぇ」


 芽衣さんは桐箱を撫でる。


「でも……彼は旅に出たまま、帰ってこなかった。

 連絡も、いつの間にか途絶えて……」


 店に静寂が落ちる。


「それで、花暦だけが残ったんだね?」


「そういうこった」


 フミばあちゃんは、どこか照れたように笑った。


「でもねぇ……あたしはいつか涼さんとの約束を果たそうと思ってるんだよ。

 また三人で、春にこれを見ようってね」


 芽衣さんの目が優しく細くなる。


「だから……フミさんに預けにきたの。

 あなたの店なら、きっと忘れないと思って」


「まったく……相変わらず調子のいい人だよ、あんたは」


 二人はまるで五十年前に戻ったみたいに笑った。


 

◆ 花の記憶は、風に乗って


 夕方の光が店を染め、

 花暦のページがゆっくりと揺れた。


 桜のページから、ひとひらの香りがふわりと舞い上がり――

 僕の手の中に落ちる。


「……これ、どうして?」


「きっと、花暦が応えているんだよ」


 芽衣さんの声は静かだった。


「誰かが忘れた記憶を、誰かが受け取ることもあるの。

 季節は巡るし、思い出も巡るから」


 僕はそっとページを閉じた。

 その瞬間、胸の奥がふわっと温かくなる。


「……いつか、本当に三人でまた一緒に春を見られるといいね」


「そりゃあ……そうだねぇ」


 お婆ちゃんは、優しく目を細めた。


「でもねナツキ。

 季節ってのは、会えなくても届けてくれるんだよ。

 あたしらが忘れなきゃ、それで十分なんだ」


 風鈴がチリンと鳴り、桜風堂に春の風が通り抜けた。


 花暦の帳は、静かにそこにあった。

 まるで次の季節を待っているみたいに。

 

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