風鈴草紙
◆ 夏を知らせる音
梅雨明けの知らせが出たその日、桜風堂の前の坂道には、朝から強い陽射しが降り注いでいた。
けれど店の軒先は、風がゆるやかに通り抜け、外よりいくぶん涼しい。
開店準備を終えたナツキは、軒先の風鈴に目をやった。
小さなガラス玉。
澄んだ水色の中で、うっすらと白い雲の模様が揺れている。
「……きれいだなぁ」
指先でそっと触れると、風鈴はか細い声で鳴いた。
その瞬間、背後からお婆ちゃんの声がした。
「おや? その風鈴、覚えてるかい?」
「え、覚えてる……?」
「アンタがまだ小さかった頃だよ。夏休みの前の日にね、拾ってきたガラス玉で一緒に作ったんだよ」
ナツキは目をぱちぱちさせた。
そんな記憶……あったような、ないような。
「ほら。ここ、ちょっとだけ歪んでるだろう?」
「ほんとだ……」
「アンタが、まん丸がいいのになんて泣くからさ、お婆ちゃん困ったの覚えてるよ」
「……そんなことあったんだ」
笑いながら話すお婆ちゃんの横顔を見ていると、胸の奥に淡い風が吹いたような気がした。
ちりん――。
風鈴が、さっきよりもほんの少し大きな声で鳴いた。
その音を合図にするように、桜風堂のガラス戸が開いた。
◆ 風鈴を探す客
「すみません、こちら、風鈴の本はありますか?」
入ってきたのは、白いシャツを着た青年だった。
汗をうっすらにじませている。外を歩いてきたばかりのようだ。
「風鈴の……本、ですか?」
「ええ。できれば古いものがあれば」
青年は店内を見回しながら言った。
桜風堂には季節ものの棚がある。ナツキはそこへ案内しようとしたが、ふと気になって聞き返した。
「どうして風鈴の?」
「え……ああ、その……音を、探しているんです」
音を探している――。
その言葉には、湿り気と、とても繊細な響きがあった。
「昔、妹が家にいた頃、決まって夏になると風鈴を吊るしていて……。あの音が帰ってくると夏になるんだって、嬉しそうに言うんです」
青年の視線はどこか遠くに向いていた。
「でも、その風鈴、もう壊れてしまって。……別々に暮らすようになってから、音だけが急に消えてしまったような気がして」
言葉は淡々としているのに、そこにある想いは深かった。
ナツキは棚から、数冊の本を選んだ。
風鈴の歴史、各地の風鈴の音色を記録した本、さらには風鈴の作り方の本。
「よかったら、ゆっくり見てみてください」
「ありがとうございます」
青年は本を抱え、椅子のある窓際へ歩いていった。
外の夏光が、彼の肩に白く落ちていた。
◆ 紅茶と、やわらかな音
ナツキはレジ横の扇風機を弱に回しながら、ふと思い出したように言った。
「……あ、ちょうどアイスティーを作ってたんです。よかったら飲みますか?」
「いいんですか?」
「はい。暑いですし、よかったらどうぞ」
ナツキが奥の給湯スペースへ向かうと、お婆ちゃんが笑って言った。
「今日はアールグレイだよ。さっきナツキが、夏はこっちの香りが似合うってねぇ」
「お婆ちゃん……」
ナツキは苦笑しながら、すでに冷蔵庫で冷えていたポットを取り出した。
冷えたアールグレイは、ガラス越しにほんのり琥珀色を帯びている。
タンブラーに氷をいっぱい入れると、
カラン……カララン……
涼やかな音が響いた。
そこへアイスティーをそっと注ぐ。
細かな気泡が一瞬だけ立ち、アールグレイ特有のベルガモットの香りが、夏の空気の中で静かに広がっていく。
「どうぞ。甘さは控えめにしてますけど、シロップもあります」
青年は受け取り、氷が揺れる音を聞きながら一口すすった。
「……すごく、いい香りですね」
「夏は温かいお茶より、こういう香りのほうが落ち着くんです。
風鈴の音とも相性いい気がして」
青年はグラス越しに風鈴を見上げた。
ちりん、と風がひと鳴りすると、氷もかすかに揺れて、ちいさな音が、風鈴の音色に溶けていった。
青年が少し躊躇うように口を開いた。
「……妹がね、よく、お兄ちゃんのいれた紅茶って、なんか落ち着くって言ってくれたんです。だから、こういう匂いを嗅ぐと……懐かしくて」
ナツキはそっと目を細めた。
「音も、香りも、気持ちを連れてくるんですね」
「……はい。ほんとに」
青年は窓の外を眺めながら、かすかに笑った。
その横で、風鈴が一度、かすれた声で鳴った。
◆ 風鈴の記憶
「この本……買わせてもらえますか?」
青年が選んだのは、風鈴づくりの本だった。
「作ってみるんですか?」
「はい。妹に……渡せたらいいなと思って」
青年は、少し照れたように笑い、目を伏せたまま続けた。
「妹、ちょっと変わってたんです。
夏休みの音はね、蝉じゃなくて風鈴なんだよって言い張っていて。
台風で割れてしまったときは……あの子、本気で泣いてました」
「……大事だったんですね、その音」
「はい。僕よりずっと繊細で、すぐ泣くくせに……妙に意地っ張りで」
青年は、ゆっくりとカウンターの木目を指でなぞりながら言葉を紡いだ。
「小学生の頃なんですけどね。
あの子、夏の自由研究で『風鈴の音は何色か』っていうテーマを選んで……」
「え、色?」
「そうなんです。僕にはさっぱりわからなかったんですけど、
朝は薄い青、昼は透明、夕方は桃色なんだよって、得意げに」
青年は懐かしそうに微笑んだ。
「僕、からかわれてるのかと思って、そんなわけあるかって言ったら、
あの子、机に顔を伏せてわんわん泣いて……母にこっぴどく叱られました」
その記憶を話す声は、恥ずかしさと照れと、どこか温度のある優しさが混ざっていた。
「結局、研究はちゃんとまとめてたんですよ。
『風鈴の音は、人の気持ちで色が変わる』って。
先生に褒められて、僕に見せびらかしに来ました」
「かわいいですね」
「……ほんと、そうですね。
でも、僕にはあの子が見てた色が最後まで見えなかった」
青年の声が少し震えていた。
「だから……今度こそ、ちゃんと見たいんです。
自分で作った風鈴の音を聞いて、あの子が言っていた色が、僕にもわかるのかどうか」
ナツキは包み終えた本を、そっと手渡した。
「きっと、見えますよ。
……だって、その風鈴には、もうお兄さんの想いが入ってますから」
青年は驚いたように目を瞬き、それから小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。また……来てもいいですか?」
「もちろん。風鈴の音ができたら、聞かせてください」
桜風堂を出た青年は、強い夏の光を受けながら振り返った。
「音って、不思議ですね。鳴らなくなると、誰かの気配まで消えてしまうようで。
でも、思い出すと……すぐ側に戻ってくる」
その言葉を残し、ゆっくりと坂道を下りていった。
その背中が遠ざかるのを見送りながら、ナツキは思わず軒先の風鈴を見上げた。
ちり……ん。
さっきとは違う、少し深い音が鳴った気がした。
――音には、色があるのかもしれない。
青年の妹が見た色。
青年がこれから探す色。
そして、桜風堂に残された、夏の記憶の色。
風鈴の音は、静かに、淡く、店内の空気の奥へ溶けていった。




