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雨読み(あまよみ)の客

◆ 雨の桜風堂


 春の終わりに近づいたある午後、空は朝からゆっくりと灰色に沈んでいた。

 桜風堂のガラス戸には細い雨筋が伸び、時おり強まる風が店の上の風鈴を揺らす。


 ナツキはレジ脇の古い本を拭きながら、店先の景色を眺めた。

 傘の色が滲んで見えるほどの雨。

 こういう日は人通りも少なく、桜風堂はいっそう静けさに沈む。


「ナツキ、濡れた本は中に入れときな。湿気ると厄介だからね」


 奥の帳場で帳簿をつけていたお婆ちゃんが声をかけてくる。

 その声を聞くだけで、店の空気が少しあたたかくなるから不思議だ。


「うん、わかった」


 雨音と古時計の音が混ざり合う中。

 ふと、ガラス戸の向こうに小さな影が立っているのが見えた。


 白い傘。黒髪。

 背は低く、少し迷っているような気配。


 ガラス戸が静かに開いた。


「……こんにちは」


 入ってきたのは、中学生くらいの女の子だった。

 制服ではなく、紺色のカーディガンに淡い灰色のスカート。

 どこか濡れた気配をまとっていて、店に入ると同時に軽く頭を下げた。


「いらっしゃい。雨、強いねぇ」


 お婆ちゃんが柔らかく声を掛けると、女の子は少しだけ笑った。


「すみません……雨宿りさせてください」


「いいよ。ごゆっくり」


 ナツキはその横顔を見て、胸の奥がなぜかざわめいた。

 濡れた髪先から落ちる水滴、その目の奥の静かな影――

 何かを抱えている、そんな印象だった。



◆ 雨宿りの少女と、滲む記憶


 女の子は店内をゆっくり歩き、本棚の影で立ち止まった。

 雨音を聞きながら、背表紙を指でなぞる。


 ナツキは雑巾を置き、そっと声をかけた。


「何か探してるんですか?」


 彼女は少し考えてから答えた。


「……雨の日に、読みたくなる本って、ありますか?」


 雨の日に読みたくなる本。

 その問いに、ふっと心が動いた。


「うーん……。静かで、ゆっくりした話とか。詩集とかもいいかも」


 そう言うと、少女は小さく頷いた。


「そうですよね……。静かな本、好きです」


 雨の音に紛れて、その声は少し震えていた。


 そのとき――


「ナツキ、ちょっと紅茶淹れてあげな。身体、冷えてるだろうから」


 お婆ちゃんの声が奥から届いた。


「……あ、そんな、いいです」


「遠慮することないよ。うちの紅茶はサービスなんだ」


 少女は目を丸くし、ナツキの方を見た。

 その表情には、少しだけ迷いと、少しだけ期待が混じっていた。


「じゃあ……いただきます」


「座って待っててください」


 ナツキは給湯スペースに向かった。


 今日はアールグレイにした。

 雨の日は、柑橘の香りが気持ちをほどく気がして。


 茶葉に湯を注ぐと、ふわりと香りが立つ。

 雨に濡れた体がふっと緩むような、優しい香り。


 カップに注ぎ、そっと彼女の前へ。


「どうぞ」


 両手で受け取った少女は、湯気を見つめながら小さく息を吸った。


「……すごく、いい匂い」


「あったまるよ」


 ひとくち飲むと、彼女の肩がゆるりと下がった。


「……おいしい」


 その声は、雨の音に溶けてしまうほど小さかったけれど、

 確かに安らぎが宿っていた。


「学校、帰り?」


 ナツキが尋ねると、少女は少し迷ったあと、小さく首を横に振った。


「……今日は、行ってないんです」


 外の雨が強くなり、風鈴が鈍く揺れた。


「……なんとなく、行けなくて」


 少女の指先が、カップの縁をそっとなぞる。


「理由を、聞いてもいいかな?」


 彼女は答えなかった。

 ただ、窓の外の雨を見つめていた。


 その横顔が、ひどく静かで、少しだけ孤独だった。



◆ 雨読みの書


 少女が紅茶を飲み終える頃、ふと目を落とした先に、古い木箱が置かれていることに気づいた。

 いつもは帳場の奥の棚にしまわれているものだ。


「……それ、なんですか?」


 少女が指した。


「これかい? 変わった本が入ってるんだよ」


 お婆ちゃんがそっと木箱を開くと、中には薄い水色の装丁の本があった。

 表紙には細い文字で、


『雨読みの書』


 とだけ書かれている。


 少女は息を呑んだ。


「……読んでも、いいんですか」


「読むのはタダだよ。気に入ったら、持っていきな」


 お婆ちゃんが笑う。


 少女は本を手に取り、ページを開いた。


 だが――


「あれ……?」


 ページには何も書かれていなかった。

 いや、白紙ではなく、すこしだけ何かが滲むように揺れている。


「これ……雨?」


 ページの上に、雨粒のようなインクの影が広がり、

 そこから細い文字が浮かびあがってくる。


 少女は息を呑んだ。


「……これ、私の……」


 ページに綴られていたのは、

 少女の心の奥にある景色だった。


 学校で、ふと胸が痛んだ朝のこと。

 友だちとの距離が気になってしまった放課後。

 帰り道の雨。

 自分の声が小さくなる瞬間。


「なんで……なんで、こんな……」


 少女の手が震えた。


「雨の日はね、人の気持ちがページに滲みやすいんだよ」


 お婆ちゃんが静かに言った。


「この本は、そういう本さ。

 誰かが胸に抱えてるものを、こっそり拾ってくれる」


「……いやだ。こんなこと、誰にも……」


 少女は唇をかみ、ページを見つめた。


 そして、ぽとりと。


 涙が、一粒、落ちた。


 その瞬間、ページの文字がふわりと光り、ゆっくりと消えていった。


「……あれ?」


「涙で洗われると、書かれた気持ちが軽くなるんだよ」


 お婆ちゃんの声が優しく響く。


「雨の日だけ、この本は開く。

 けれど、読んだ人の気持ちは、ここに置いていけるんだ」


 少女はもう一滴涙をこぼした。

 それは、悲しい涙というより――

 ずっと抱えていた重さがほどけた涙に見えた。



◆ 流れるもの、残るもの


 雨はまだ降り続いていたが、空は少しだけ明るくなっていた。

 少女は本を閉じ、静かに頭を下げた。


「……ありがとうございました」


「気をつけて帰りな」


 お婆ちゃんが言うと、少女は傘を手に取った。


「また来ても……いいですか」


 その問いに、ナツキは迷わず頷いた。


「もちろん。雨の日じゃなくても、いつでも」


 少女はほっとしたように微笑んだ。


「紅茶……すごくおいしかったです」


 そう言って店を出る頃、雨は細くなり、風鈴が優しく鳴った。


 ナツキはガラス戸の向こうで傘を開いた少女の姿を見送り、胸の奥がほんのりあたたかくなるのを感じた。


「やっぱり、雨の日は特別だねぇ」


 お婆ちゃんが呟く。


「ねえ、お婆ちゃん。あの『雨読みの書』って、ほんとに……?」


「さあねぇ。あたしにもよくわからないよ。でも、雨の日にはああなるんだ」


「ふしぎだな……」


「ふしぎなもんだよ。人の気持ちってのは、紙よりもよく滲むからねぇ」


 お婆ちゃんが笑い、ナツキも笑った。


 店内にはまだ紅茶の香りが残っていた。

 カップから立った湯気は、雨雲の向こうへ消えていくように、静かに揺れていた。


 雨は降り続いている。

 けれど、桜風堂の午後はどこか明るかった。


 ――雨が読むものと、人が読むもの。

 どちらにも、小さな物語が宿っている。

 

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