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紙灯

◆ 風の鳴る夕暮れ


 桜風堂のガラス戸が、夕風を受けてかすかに揺れていた。

 薄橙の光が棚の背表紙に落ち、埃の粒が静かな軌道を描きながら舞っている。

 その日、僕は店の奥で古本の値付け作業をしていた。


 隣では、お婆ちゃんが帳簿を眺めている。

 いつもの夕方。いつもの静けさ。

 ただ、今日は風鈴の音がどこか落ち着かず、チリ……チリン……と不規則に揺れていた。


「今日は風が強いねぇ。雨が来るのかもしれんよ」


 お婆ちゃんの声に、顔を上げた。


「そうかも。湿気がちょっと重い気がするし……」


 そのとき。


 ガラガラ、と戸が開いた。


「ごめんくださーい……」


 入ってきたのは、背中の丸い中年の男性だった。

 古びた紙袋を抱えており、息を切らしている。


「桜風堂さんで……買い取ってもらえませんかねえ……」


「おやまあ。どうぞ、見せてごらん」


 お婆ちゃんが手を伸ばすと、男性は紙袋をそっと置いた。


 袋の中には古い手帳や文庫本に混じって――

 ひときわ目立つ、一枚の和紙が入っていた。


 和紙は折り目も破れもなく、なめらかに光を返している。

 その中央が、ほんのり明るく発光していた。


「これ……光ってる?」


「見えるかい?」


 お婆ちゃんが、ほんの少し驚いた目をした。


「え……見えないの?」


「わしには、ただの紙にしか見えないねぇ」


 男性は恐縮したように頭を下げた。


「実家の蔵を整理していたら出てきまして……。父のものなんですが、どう扱えばいいかわからず……」


 お婆ちゃんが和紙をそっと持ち上げた。


「買い取りは本だけなんだが……これはナツキ、あんたが見たいって顔してるねぇ?」


 僕は、はっと息を飲んだ。


 光っている――というより、

 紙の奥が、薄い灯火に照らされて揺れているようだった。

 暖炉の火でも、蝋燭の灯でもない。

 もっと静かな、胸の奥を照らすような光。


「……少しだけ、見てもいいですか?」


「持ってきな。変なもんじゃなさそうだしね」


 男性はお礼を言って店を出た。

 戸が閉まると同時に、風鈴がチリンと一度鳴った。


 ちいさな灯りが、指先を照らした。


 ――紙灯。

 そんな言葉が、ふと心に浮かんだ。


 

◆ 紅茶と、薄あかりの和紙


「ナツキ、あんた紅茶でも淹れな。落ち着いてないじゃろ」


「あ……うん」


 言われて気づいた。

 心臓が少し早く打っていた。


 桜風堂の奥の給湯スペースに入り、電気ポットに水を足す。

 茶葉の瓶がいくつも並び、その位置を指が覚えている。


「……今日はダージリンかな」


 深呼吸し、ふわりと茶葉の香りを嗅ぐ。

 香りは頭の中のざわつきを静かに溶かしてくれる。

 僕にとって紅茶を淹れる行為は、落ち着きを取り戻す儀式のようなものだった。


 お湯を注ぐと、ふわ、と茶葉が舞い、香りが広がる。

 ガラス越しに、和紙の微かな灯りが揺れているのが見えた。


(……なんだろう、あの光)


 蒸らしている間にも、視線が何度も和紙に向いてしまう。


 三分が経ち、ティーポットを持って戻った。


「はい、お婆ちゃん」


「ありがとね。さぁ、見てごらん」


 テーブルの上で、紙灯はかすかに揺れていた。

 紅茶の湯気に照らされると、和紙の繊維がきらりと光る。


「……音がきこえる」


「音?」


「ほら……なんか……小さい囁きみたいな……」


 耳を近づけると、紙の奥から微かな声が聞こえる。


 ――まだ……いえなかった……

 ――ことば……

 ――しめして……

 ――ほしい……


 朧な声。

 湿った、遠い記憶のような響き。


(言えなかった……言葉?)


 

◆ 灯りの中の文字


 僕はそっと指で紙に触れた。


 瞬間――

 和紙の表面に淡い光が走り、文字が浮かび上がった。


 それはまるで水面に映る影のように弱々しく、

 しかし確かに読める文字だった。


「……『ごめん』?」


 たった一言。

 それだけが光の文字として現れた。


「ナツキ。あんた……心当たりはあるかい?」


「え……いや、別に……誰かに謝りたかったことなんて……」


 言いかけて口を閉じる。


 本当にないのだろうか?

 胸の奥に溜まっていた重さが、文字に触れた瞬間わずかに疼いた。


「これはねぇ、言えなかった言葉を紙が吸い取ってくれるんだよ。昔、似たようなもんを見たことがある」


「そんなの……あるんだ」


「不思議な家には、不思議な紙もあるってこった」


 お婆ちゃんは微笑み、紅茶をすする。


「もう少し紙を持っててみな。何か出てくるかもしれんよ」


 紙灯を胸にそっと抱えるように持った。


 

◆ 風の通る夜


 その晩、紙灯を自室の机の上に置いた。

 蛍光灯を消すと、紙の灯りが部屋に淡く広がる。


 机に向かうと文字がさらに変化し、

 新たな言葉が揺れていた。


 ――たすけて

 ――さみしい

 ――こわい

 ――ひとりに……しないで


(……これ、僕の気持ち?)


 胸がきゅ、と縮む。


 幼い頃の記憶がふとよみがえる。

 夜中にひとりで眠れなかったとき。

 誰かに呼んでほしかったとき。

 けれど遠慮して声をあげられず、泣きながら布団の端を握りしめていた。


「……こんな気持ち、……誰にも言ったことなかったのに」


 文字は指先に触れると、ふっと消えた。


 紙灯は静かに揺れ続ける。


 

◆ 本当の「ごめん」


 翌日、桜風堂では朝から雨が降っていた。

 店の前を行く傘の列を眺めながら、僕は紙灯を抱えてレジに立っていた。


「ナツキ。その紙、また光ってるよ」


「うん……なんか、ずっと気になって」


「気になるんじゃなくて、呼ばれてるんだよ。あんたの言葉にならん想いが」


 お婆ちゃんの声は、追い詰めるでもなく、ただ事実だけを告げるように静かだった。


 僕は少し迷ってから紙灯を店の奥へ持っていき、小さなテーブルに置いた。


「……ちゃんと向き合った方がいいのかな」


「そうだねぇ。紅茶でも飲んで、ゆっくりやりな」


 お婆ちゃんの声に背中を押され、給湯スペースへ向かった。


 今日の紅茶は……アッサムにしよう。

 心を落ち着ける甘い香りに包まれたくて。


 茶葉をすくう匙が微かに震えている。

 注ぐお湯が静かに茶葉を揺らし、濃い香りが広がった。


「ほれ、茶菓子も持っていきな」


 戻ると、お婆ちゃんが小皿を差し出した。

 爪楊枝の刺さった栗ようかんが、つやつやと二切れ並んでいる。


「紅茶と栗ようかん……?」


「食わず嫌いは良くないよ。なんて言うかほら、ほれ、あれだよ……マリー・アントワネット?」


 その言葉に、僕は思わず吹き出した。


「……マリアージュね」


「ああ、それそれ。同じようなもんじゃろ」


 お婆ちゃんは、くつくつと笑った。


 店内には、壁の振り子時計の音だけが規則正しく響いている。

 静かで、あたたかくて、何もかもゆるやかに沈んでいくような時間。


 ただ、目の前でほのかに光る和紙だけが、現実とは違う世界から持ち込まれたもののように見えた。


 胸の奥が、じわりと膨らんでくる。

 苦しいような、でもどこか懐かしいような感覚。


 ――ごめん。


 紙灯に映った文字が頭から離れなかった。


 

◆ 紙灯の告白


 店の奥に戻り、紅茶をテーブルに置くと、紙灯は強く光り出した。


 まるで伝えたいと叫んでいるように。


「わかったよ……話すよ」


 僕は紙灯に向かって、ゆっくり言葉をこぼした。


「……心のどこかで……ずっと不安だった」


 紙灯の光がまた揺れた。


「お婆ちゃんと出会って、一緒に住むことになって……すごく嬉しかったけど。

 反対に……また誰かに捨てられたらどうしようって……思ってたんだ」


 声が震えた。


「ほんとは……言いたかったんだ。ありがとうとか……そばにいたいとか……怖いとか……、でも言えなかった」


 紙灯の表面がゆっくりと開いたように見えて――

 そこに、新たな文字が現れた。


 ――もう

 ――ひとりじゃないよ


「……!」


 僕は息を飲んだ。


「これ……僕の気持ちじゃなくて……紙が……?」


「紙ってのはのう、その持ち主の心に寄り添うもんじゃよ」


 いつの間にか、お婆ちゃんが背後に立っていた。


「ナツキ。あんたはひとりじゃないよ。本当にね」


 その言葉は、紙灯の光よりも優しかった。


 

◆ 灯りが消えるとき


 紙灯は、その後数分かけてゆっくり光を弱めていった。

 まるで役目を終えたかのように。


「消えちゃうの……?」


「大丈夫。また必要な人のところへ行くんじゃろうよ」


 最後に紙灯が見せた文字は――


 ――ありがとう


 その言葉が消えると、和紙は普通の和紙に戻った。


 ただの紙。

 もう光ることも、声を発することもない。


 けれど、僕は胸の奥にぽっと灯る光を感じていた。


「……なんか、軽くなった」


「そりゃよかった。さ、紅茶が冷めちまうよ」


 カップを手に取り、二人して静かに笑い合った。


 雨はまだ降っていたが、桜風堂の中には柔らかな明かりが灯っていた。


 

◆ 紙に残る温もり


 その日の閉店後。

 僕は机に残った紙灯――いや、ただの和紙をじっと見つめていた。


 和紙には何の文字も残っていない。

 だが触れると、かすかに温度があるように思えた。


(また会えるのかな……)


 そんな風に思いながらも、

 紙灯が残した『ありがとう』という言葉は、柔らかな風のように吹き抜けていた。


「ナツキ、もう寝なさい。明日も店があるよ」


「うん」


 振り返ると、お婆ちゃんが優しく微笑んでいた。


「……ありがとう。ほんとに」


「どうしたの、急に」


「なんでもない。ただ……言いたかっただけ」


「ふふ。よく言えました」


 風鈴が、雨の夜に小さく鳴った。


 紙灯の灯りはもうなかったけれど、

 桜風堂には変わらず、温かい光が宿っていた。


 そして僕は、確かに知った。


 ――ひとりきりの夜を越えられる理由が、いつの間にか自分の中に育っていたことを。


 風がページをめくるように、静かに。

 物語は次の綴りへ向かって進んでいく。

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