風の頁(ページ)
◆小さな古本屋
町の外れ――賑わう駅前から少し離れ、古い住宅が並ぶ細い路地をすこし曲がったところに、小さな古本屋がある。
店の名は 「桜風堂」。
かつては桜並木が続いていたことにちなんで、お婆ちゃんが若い頃につけた名前だ。
ガラス戸には、日に焼けた「古本」の文字。ゆらりと風鈴が揺れ、ゆるやかな音が響く。
この店で暮らし、手伝いをしているのが、僕。
ナツキ。高校二年生だ――
血のつながりはない。
けれど、お婆ちゃんの 桜井フミ に拾われた日からずっと、桜風堂は僕にとって帰る場所になっている。
◆ 紅茶の湯気と、静かな午後
夕方の光が傾きはじめた頃、扉の上の鈴がチリン、と鳴った。
「おや、ナツキちゃん。今日はいるかと思ってたよ」
入ってきたのは常連の 山田さん。
年金暮らしの穏やかな老人で、毎週決まった時間に哲学書を一冊買いに来る。
趣味で集めているらしく、読むよりも並べて眺めるのが好きなのだという。
「こんにちは、山田さん。今日は新しい本、入りましたよ」
僕は軽く会釈しながら、レジ横のワゴンに積んでいた新着本を示した。
山田さんは律儀に全部の背表紙を確認し、そのうちの一冊を手に取った。
「ふむ、これも面白そうじゃの。……あぁ、そうだ。今日はナツキちゃんの紅茶が飲みたくてねぇ」
目を細める山田さん。
その言葉に、どこかくすぐったい気持ちになる。
「はい。すぐお淹れしますね」
桜風堂の奥には、小さな給湯スペースがある。古い電気ポットと、棚に並んだ茶葉の瓶。
僕が紅茶を淹れるのが好きなのは、お婆ちゃんの影響だった。
茶葉のスプーンを静かにすくい、温めたポットに入れる。
お湯を注ぐと、ふわりと香りが立ちのぼった。
――アッサムの甘い香り。今日は天気が変わりやすかったから、山田さんにはこの落ち着く香りを。
蒸らす時間を計りながら、時計をちらりと見た。
外では風が吹き、風鈴がゆれる。
湯気が細く揺れる瞬間が、なんとなく好きだった。
三分たったら、ポットの蓋を開けて、そっと茶葉の色を確認する。
――ちょうど良い琥珀色だ。
「山田さん、どうぞ」
湯気をまとった湯呑みのようなティーカップを、そっと机に置く。
「ふぉっふぉ……相変わらず美しい色じゃなぁ。
ほんに、この紅茶が楽しみで生きておるようなもんよ」
山田さんは目を細めて、ゆっくり一口すする。
そして満足げに小さく息をついた。
「……ふむ。これこれ。この香りはね、心を落ち着けるんじゃよ。
家に持ち帰る本よりも、こっちの方が楽しみかもしれん」
「そんなこと言ったら、本が拗ねちゃいますよ」
僕が笑うと、山田さんも笑った。
このやり取りが、いつもの午後。
お婆ちゃんは帳簿をつけながら、「ナツキの紅茶は店の宝だよ」と冗談めかして言う。
僕も、こんな時間が好きだ。
だからこそ――
その日の異変は、ほんの小さな揺らぎから始まった。
◆ 知らない青年と、聞いたことのない本
夕方の少し店が静かになった頃。
ガラス戸の向こう側に、見慣れない影が立った。
コート姿の細身の青年。
年齢は……二十代半ばくらいだろうか。
ガラスを開けると、風が一緒に入り込み、青年の白いマフラーがふわりと揺れた。
「こんにちは」
どこか空気が澄んだ声だった。
誰もいない山の上で聞くような、静かな音色。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
青年はゆっくり、僕を見た。
目の奥が淡く光っているようにも見えて、少し緊張した。
「はい。探している本があるんです」
青年は言った。
「『風の頁』という本なのですが――ここならある気がして」
僕は困惑し、首をかしげた。
「……聞いたことがないですね。珍しいタイトルですね」
「珍しいですよ」
青年は静かに微笑む。
「けれど、この店には風が集まる。だから、きっと見つかるはずです」
その言葉は、まるで前から知っていたかのような口調だった。
棚を一つずつ確認する。
古い文学全集の並ぶ棚。
詩集のコーナー。
外国文学、創作、民話、郷土史。
店の奥の雑多な箱に入った古本まで、全部探してみる。
だが、どこにもない。
けれど青年は焦る素振りもなく、棚の間をゆっくり歩いて、まるで風を感じ取るようだった。
「……不思議な本ですね。どんな内容なんですか?」
青年は少し考えるように視線を上げ、それから答える。
「――まだ誰にも読まれていない、物語の本ですよ」
そして、青年はふと店の奥――普段は物置になっている方を見つめた。
「あちらに、ある気がします」
僕は青年が示す方へと歩いていった。
さっきまで何も感じなかったはずなのに――
誰かに呼ばれているような気配がした。
◆ 消えた壁と、開いた向こう側
古本屋の奥はふだん薄暗い。
段ボール箱や未整理の本が積まれ、小さな窓から光がわずかに差し込む程度だ。
だが、今日は違った。
奥に進むほど、奇妙な風が吹いていた。
どこから吹いているか分からない、乾いた風。
紙の匂いと混じり合って、不思議な気配を運んでくる。
段ボール箱をどけ、壁に近づいた。
「……え?」
いつもはただの壁であるはずの場所に、見慣れない書棚が立っていた。
木材も古さも、桜風堂の棚と調和しすぎていて、昨日までそこになかったとは到底思えない。
だけど、この棚を見た覚えがない。
棚の中央に、一冊だけ、白く薄い本があった。
風もないのに、表紙が揺れる。
手を伸ばした瞬間――
ふっ、と棚全体が霞のようにほどけた。
いや、棚が消えたのではない。
棚の向こう側に、別の景色が現れた。
柔らかい土の匂い。
淡い光につつまれた森。
空には鳥でも雲でもなく、文字のような光が漂っていた。
「……ここ、どこ……?」
背後で、青年の声がした。
「ようこそ。物語の森へ」
振り返ると、青年だけが店側に立ち、境界をまたいでいない。
しかし青年の姿は、桜風堂の光にすら馴染んでいないように見える。
「あなたには読める力があるんです。だから、招かれた」
青年が近づくと、境界の向こう側の風が、僕の頬を通り抜けた。
その風は、紙をめくるような、優しい音をしていた。
「風の頁を探していたのは、あなた自身なのですよ、ナツキさん」
僕の心臓が跳ねた。
「僕……が?」
青年は静かに頷く。
「あなたはずっと自分の居場所の物語を探していた。
だから、この世界が応えたんです」
意味がよくわからない。
けれど森は、僕を拒まなかった。
「さあ。進んでみてください」
青年が手を差し出した。
だけど僕は、その手を取らずに自分の足で一歩踏み出した。
――その先が、どこへ続こうとも。
◆ 物語の森と、白い本
森の空は淡い青と金色が混じり、風が吹くたびに光が舞った。
落ち葉のように舞うのは、文字の粒。
誰かがまだ書いていない文章の種だと、青年は説明した。
「ここは、まだ形にならない物語が眠る場所。
人の心の隙間に生まれた物語が、ひっそりと芽吹きます」
「……本とか、話とかじゃなくて?」
「はい。言葉になる前の想いです」
森を進むにつれ、胸がざわつくのを感じた。
誰かの泣き声のような、笑い声のような、無数の音が重なって聞こえる。
しばらくすると、開けた場所に出た。
中心に、巨大な白い本が置かれている。
どのページも空白だが、風が吹くたびに、影のような文字が浮かび上がっては消える。
「これが――風の頁」
青年が囁いた。
「この本は、書き手を待っています。
あなたの中にある物語を、ここに記すために」
「僕が……書く?」
青年は首を縦にふった。
「ナツキさん。あなたはずっと迷っていたでしょう」
胸がどきんと苦しくなる。
「お婆ちゃんと出会った日のこと。
家族とは何かを考えてしまう夜のこと。
紅茶を淹れて誰かが喜んでくれる瞬間。
あなたが感じてきたすべてが、あなたの物語になる」
白い本に手を伸ばすと、風がそっと手のひらを包みこんだ。
書こうと思ったわけではない。
ただ、こみ上げてくるものがあった。
胸の奥に積もっていた感情――不安も、感謝も、孤独も、温もりも。
それらが一本の線になって、僕の手を動かした。
――ここにいていいと、教えてくれた場所。
――僕を見つけてくれた人。
――桜風堂の、誰かのための紅茶。
文字が光となって、白いページに吸い込まれていった。
ページが満ちていくほど、森が優しい光に包まれていく。
風が吹き上がり、ふわっと体が浮かぶような感覚がした。
「よくできました」
青年の声が響く。
「あなたの物語は、もう迷いません」
光が広がり――世界が白く染まった。
◆ 桜風堂の夕暮れにて
目を開けると、桜風堂の奥の床に座り込んでいた。
すべて夢だったのかと思ったが、手の中には薄い本がある。
表紙に刻まれた題名は――
『風の頁』
著:ナツキ
「ナツキ、どうしたの? ぼーっとして」
驚いて振り返ると、お婆ちゃんがそこにいた。
壁には、いつもの古ぼけた棚しかない。
あの森への入口は影も形もなかった。
「……お婆ちゃん」
かすれた声を出すと、お婆ちゃんは優しく笑った。
「また、風に吹かれてたのかい? 昔からあんたは、風と仲がいいんだから」
その言葉に、なんだか胸の奥が熱くなった。
店の外で風鈴が鳴り、夕陽がガラス戸を照らしている。
日常が静かに店に戻っていた。
僕はそっと本を開いた。
そこには、自分が書いた物語が確かに存在している。
お婆ちゃんが覗き込んで言った。
「おやおや、あんた……いつのまに作家さんになったのさ」
その笑い声は、風のように柔らかかった。
僕は深く息を吸った。
紅茶の香り。紙の匂い。夕暮れの光。
ここが、自分の居場所だという確かな実感が胸を満たす。
青年の姿は見当たらない。
けれど、不思議と寂しくなかった。
――きっとまた、物語が風に呼ばれたときに会える。
「お婆ちゃん、今日も紅茶淹れるよ。
なんだか……いつもより美味しくできそうな気がするんだ」
「そうかい。じゃあ、楽しみにしてるよ」
桜風堂の夕暮れ。
カップから立つ湯気が、ゆるやかに揺れた。
風がページをめくるように、静かに物語は続いていく。
前作のLibriaが重かったので、ほっこりするお話で一息入れたくなりました。




