あの【お城】に、どうしても行きたいんです
世の中には、不思議なことがあるものです。
中学2年の私は登下校のたびに気づいておりました。その西洋館は学校とは正反対の、ずっと向こうの山――襞のように重なった小高い中腹に、ポツンと一軒だけ建っているのです。
私はいつしか、そのお城のような立派な建物に、心を奪われるようになりました。
晴れた日は、田舎ではどこにでも見かける低山の連なりにすぎません。
ところが雨の降る日にだけ、その一軒家は姿を見せるです。まさか雨天の日にかぎり、異世界に足を踏み入れたわけでもないでしょうし……。
ただの西洋館ではないと思います。
正面玄関こそ小さいながら、本館はレンガ造りのヴィクトリアン様式(ネットで調べましたから、そのはずです)のがっしりした直方体です。切妻屋根は赤くて、たいへん景色に映えます。
いちばん特徴的なのは本館の右に、まるで物見櫓か尖塔みたいな円柱状の部分が張り出していることです。
凝った装飾の出窓が見えます。その円柱の屋根だけは、魔女のとんがり帽子みたいな奇妙な形をしているのです。
遠目にもわかります。まちがいなく人が住んでいると思うのです。
敷地で家人が佇んでいるのを見かけたり、煙突から煙(きっと室内には、すてきな暖炉があるはずです)が立ち昇っていたり、庇のついたテラスで洗濯物が風に揺れているのさえ眼にしたこともありません。
ですが、生活臭を感じるのです。空き家なんかじゃありません。
私にはすてきなお屋敷に映ります。
下校途中、私は傘をさすのも忘れ、つい見入ってしまうことも少なくありません。
しょせん私は団地住まいの子どもにすぎません。あんな西洋館で暮らせたら、天にも舞い上がる気持ちになるのではないでしょうか。
こんなにも憧れるのはいけないことでしょうか?
ひよっとして、自治体がいつの間にか建てた津波防災タワーの類でしょうか? 町から離れすぎたうえ、高台にあるため、万が一災害が発生したなら高齢者の足では行きかねるでしょう。避難所の立地としては適切ではない気がします。
あるいは、どこかの大学の研究施設か何か? そのわりにはデザインが凝りすぎのような気もしますが。
――いずれにしましても、雨の日だけに現れるのは説明がつきませんし、これだけ離れていては、確かめようがありません。
私は試しに土曜日、リュックサックにお弁当と水筒をつめて、【お城】めざして登ってみました。
もちろん雨の日を選んだのは言うまでもありません。カッパを着たまま山に分け入りました。
いくら14の女子一人では危険とはいえ、行かずにはいられなくなったのです。
ところが途中、目測を誤ったらしい。
目的の山の中腹のあたりに着いたと思ったのに、それらしき建物はおろか平らな敷地すら見当たらないのです。
杉林の中、頭一つ抜きん出た構造物なのに。単に行き違いになってしまったのでしょうか?
【お城】を見つけたくて仕方ありません。
そもそもです。――裾野から一軒家へ通じる道路は、どこをどう探しても見つからないのですから不可解です。
山の反対側から通じているでしょうか?
わざわざ麓から道なき道を歩き詰めて、家人があの自宅へ行き来しているとは思えない。常識的に考えて、里と容易にアクセスできるよう、繋がっていてもよさそうでしょう。
スマートフォンのGoogleマップで検索し、航空写真モードにしてみます。
やはり、というかなぜか映っていません。肝心の一軒家が見当たらないのです。赤い魔女のとんがり帽子の屋根は特徴的すぎるはずなのに……。
梅雨に入り、一日じゅうシトシトと降る日。
私は学校を休みました。本当に朝、頭痛がしたのです。【お城】のことを考えると、いてもたってもいられませんでした。
今度こそ別の山から、尾根伝いに進んでみました。
山に入る前から、ちゃんと【お城】を目印にして近づいていったつもりでした。
なのにふた山を越えたころ、大きな岩に視界をさえぎられ、回り込んだときには、【お城】の位置を見失ってしまったのです。
私はがむしゃらに藪漕ぎし、このあたりだろうと目星をつけた山の中腹にたどり着きました。
にもかかわらず、レンガ造りのヴィクトリアン様式の立方体と、魔女のとんがり帽子をかぶった尖塔を見つけられない。
悔しいのなんの。
唯一、手がかりらしき欠片を見つけました。
草むらに埋もれるようにして、いくつかの古びたレンガが転がっていたのです。あいにく基礎の部分すら見当たりませんでしたが。
やっぱりです。
この土地にはかつて、【お城】があったかもしれません。
いつしか朽ち果て、歴史の片隅に忘れ去られたのかも。それがなぜだか雨天にかぎり、私の眼には時空を超えて見えるのか?
とぼとぼと帰路につきました。
むしょうにあれが何なのか、知りたい。
私は夜ごと、枕を涙で濡らしました。耳元でなぜか水の滴る音がこだまします。
なぜ【お城】に行けないのでしょうか?
両親に尋ねてみました。
二人ともおかしなものでも見る眼つきをよこし、お母さんなど、共働きで疲れて帰ってきたのに、変なことを聞かないで、と釘を刺す始末です。殺してやろうかと思いました。
学校でクラスのみんなに聞いて回っても、首を振るばかり。
どうやら不思議な【お城】に気づいているのは、私だけのようです。
みんな、頭がどうかしていると思います。
「あの【お城】に、どうしても行きたいんです」
職員室へ行き、担任の先生のみならず、ありとあらゆる教諭に聞いて回りました。
だけど、どの大人の反応も他と同様でした。
そのときの私の意気消沈たるや、無残なものだったと思います。
ひどく落胆した私の姿を見かねて、教頭先生からは、市役所へ行ってみろと助言をいただきました。
個人情報に関することは教えてくれないでしょうが、公的な建物なら所有者をはじめ、その用途、建築年、保存状況などの情報が得られるかもしれないとのことでした。もしや歴史的な遺構なら、文化財登録の有無も確認できるそうです。
とはいえ、あの【お城】はそんな古いものではないことは遠目にもわかります。
それがだめなら地元の図書館へ足を運んでみろとも言われました。あるいは地元の古老に会えとも。
私は足を棒にして各方面に回りました。
ですが、ことごとく空振りに終わったのです。風船から空気が抜けていくように、全身から力が萎んでいく思いでした。
誰もが、そんな建物は知らないとの一点張り。
むしろ私のことを、怪訝に見返す始末なのです。君は幻でも見たんだろと言いたげでした。
郷土史家のご老人など、夢見がちな年ごろだからな、と鼻で笑われたほどです。
「あれは幻なもんですか。雨の日だけに、ちゃんと現れるんだ。だって、この眼で見たんだもん……」
寝ても醒めても、【お城】のことばかり頭を占めています。
ついにある日、こんな夢を見ました。
【お城】のとんがり帽子のすぐ真下で出窓が見える、真正面のアングル。手の届きそうな位置に私は佇んでいるのです。
窓辺に、白いワンピース姿の少女が立っていました。
レースの細工のついた白いワンピースは、まるで汚れを知らぬよう。
髪の長い、同い年くらいのその娘の面差しは、まるでシルクでできたように眩しいほどです。
次の瞬間、おかしなことが起こりました。
出窓の向こう――つまり室内は、激しい雨漏りでもしているようなのです。
少女は全身ずぶ濡れになっています。髪がべったり顔に張り付き、ワンピースまで身体の内側が透けて見えるほど。
その艶めかしい姿は、あたかも水の精霊ウンディーネが地上に降り立ったかのようです。
身体じゅう雫を滴らせ、寂し気に唇を歪めています。
たまらず、私はこう叫んだと思います。
「どうやったらあなたのお屋敷に行けるの? 教えて!」
その少女は手招きして応えました。
にっこり微笑んだまま、細い指を漕ぐような手つきで私を誘っているのです。ゆっくりと、しなやかな手は同じ動作をくり返しました。
私はベッドから跳ね起きました。
頭を抱えずにはいられません。
重症だと思いました。
頭の中に水の滴る音が聞こえます。
ああ、憧れの【お城】へ行ってみたい。
行かずにはいられないの。
どうすればあの【お城】の少女に会えるのでしょうか。
会いたくて会いたくて仕方がありません。
ふと私は思いつきました。
否。少女はあの【お城】の住人ではないのかもしれません。むしろ【お城】に囚われているのではないか。
きっと悪しき何者かの手によって幽閉されているのかもしれません。だからこそ夢にまで現れ、懸命にシグナルをよこしてくるのです。
だとしたら、少女を救うべく、時の狭間に見え隠れする【お城】の秘密を暴かなくてはなりません。
【お城】に潜入し、必ずや彼女を取り戻すのです。
私の思考は、そればかり頭の中をグルグル占めるようになりました。
鏡に私自身を映しますと、眼の焦点が合っていません。
思い返せば、あの少女はどこか私とよく似ていました。私はあんなにきれいではありません。まるで私の理想像のような儚げな美をまとっているのです。
「あの少女と結ばれたい。だったら、あの【お城】に何が何でもたどり着かないと」
そしてあの人の花嫁になる。ならなければならない。
どなたか教えてください。もしご存じなら、私に情報を分けて欲しい。
どうしても私は、あの【お城】に行きたいんです。
あの娘と会いたい。
私はあの【お城】に、行きたいんです。
あの【お城】にどうしても、行きたいんです。
了