ストレス発散用サンドバッグ令嬢は死亡認定後に溺愛されました ~残った者どもの矛先は誰に向かうのか?~
『クズ』
それが屋敷における私の名前。
本来の名前で呼ばれる事も無く、ただただ溜まったストレスをぶつけられるだけの存在。それだけが私の許された生き方。
『無能』と扱われ、罵られ、鞭を打たれる。笑う事も泣く事も許されず、家族と同じテーブルについた記憶もない。
「貴女はわたしの姉なんかじゃないわ。精々無様を晒して楽しませてくださる? クズで無能な便宜上のお姉さま?」
そう言って私を嘲笑う妹。
同じ母から生まれた筈なのに、なにがここまで違うのだろう?
美しいと言われる容姿に恵まれた妹。才気あふれる頭脳を持ち、誰からも好かれる性格を持つ妹。
全てにおいて完璧な存在。それに比べて私は……何一つも彼女より優れてはいないらしい。持ってもいけないようだった。
誰かに蔑まれるだけがこの家での存在意義。
「何故貴様如きが! この俺の婚約相手なのだ!! 妹を出せ、貴様よりも美しく愛おしい妹をッ!!」
ある日、屋敷を訪れた貴族の方のお言葉。十歳は上に見えるその方はそのように喚くと、私の頬を殴りつけ、怒りのままに出ていった。
それっきり見かけた事もない。
後に、私を罵声を浴びせながら語った母の言葉によれば、あの貴族様は妹を一目見て恋をしたものの、全く相手にされてなかったらしく。それでもしつこく屋敷に婚約要請の手紙を出し、仕方なく変わりとして私を差し出す事となったが、私の事を気に入らずに婚約の話は無かった事になったらしい。
「あの程度の男からも相手にされないなんてっ、本当に私と同じ血が流れているのですか? 恥を知りなさい!」
母は私を罵った。
そんな母は一度、他の家に嫁いでいたが、そこの使用人と隠れて逢瀬を重ねていた事がばれて離縁された過去がある。その使用人との子が私だ。だから母も義父も妹も私を混じりの汚い子として扱う。
貴族と庶民の子は汚い。生きてるだけで恥だと言う。
やがて、妹の縁談が決まる。その相手はこの国の王子様、らしい。私は王子のお目を汚すからと一度も会う事を許されなかったので詳細は分からない。
正式な婚約が決まると、いよいよを以って出来損ないのクズなスペアは要らなくなった。
だから、僅かのお金が入った小袋を持たされ、無理やり追い出された。
学校に通う事も認められなかった私は学が無い。それでも必死になって見つけたのは宮廷での仕事だった。誰でも出来るという触れ込みで、二も無く飛びついた。それしかもう無かったからだ。
宮廷での仕事は掃除が主だった。が、私の妹が王子と婚約した事を妬まれ、貴族や庶民の使用人問わず恰好のストレスのはけ口にされた。口でも手でも足でも、あらゆる暴力に襲われる。
そういう意味では環境の変化は無かった。体も心も慣れていたから、何かを思う事も無かった。
使用人からは、混血という事もあり仕事を押し付けても構わないものとされ、本来の仕事以外の雑務をやらされ、その日のうちに出来なければ、また罵られる。
それでも生きる為には必死だった。やらなければ死ぬ。死ぬのは怖かった。
でも私の体は裏切った。通常の数倍程度の仕事に耐え切れず、倒れてしまった。
宮廷で倒れた事はすぐに屋敷の両親の耳に入った。戻され、恥をかいたと罵られ、殴られては蹴られ、妹からは唾を吐きつけられた。
これがせめて最後の仕事と母に耳元で怒鳴られた内容は、ある辺境に住む老貴族の元へと嫁ぐ事だった。
病魔に侵され、意識もはっきりしないその老人の元へ死ぬまでに嫁いで、その財産を手に入れろとの事だった。幸いにも老貴族は子が出来なかったらしい、との事だ。
馬車に揺られて辺境へ向かうその道中、突然に雨が降った。
そんな気配が無かったのに、まるで私が足を踏み入れたせいだと言わんばかりに雨が降り、やがて風と雷が荒れ狂う嵐となった。
それは、私が今まで生きてきた人生そのもののように思えた。
ふと思ったのは、死だった。
あんなに死ぬのが嫌だったのに、天にも嫌われたかと思うと、死ぬのも悪くないのかもしれないと思った。
私は目を閉じた。次の瞬間には嵐が馬車を直撃し、この体は宙を舞った。そう感じて意識は途絶える。
これが私の死。私が道中で死んだ知れば屋敷ではきっと、どこまでも親不孝なクズと両親は言うのだろう。
もういいわ……実際なにも出来なかった人生。ただ周りを不愉快にするだけのクズな人生。
「目が覚めたかい?」
誰の声だろう? 聞いた事の無い声色は、不思議と心地良かった。
意識が覚めていく。
死に損なったんだ。まともに死ぬ事も出来ないとは、これは確かに出来損ないだ。
私はベッドに寝かされていたようだ。初めてのベッド。
「どうやら元気……と、言っていいかは判断に悩むけれど。とりあえず、無事でよかった」
声が聞こえる。私の無事を確かめる声。そこに不快さを滲ませない声は初めて聞いた。
そちらへ振り向くと、そこにいたのは男性だった。
清潔な人。それでいて嫌らしさが無い人だった。これも初めて見る人種だ。
つやのある青い髪の男性。私に顔の良し悪しは分からないけれど、今まで出会った男性より見栄えが良く見える気がする。
見える? どういう事?
私は右目を凝らした。……見える。もう見えなくなったはずなのに。何故?
困惑する私に、その男性が声を掛けてくる。
「不思議かな? その目は傷ついた体と共に治療させてもらったよ。それとも余計なお世話だったかな?」
そう言われても、どうだろう? 正直なところ感謝すればいいのかは分からない。死を受け入れていたから、治った体を素直に喜ぶ事が出来なかった。
それでも一つ言える事があった。
「支払えるものがない。悪いけど、あなたのどのような期待にも応えられないと思う」
そう、お金が無い。治療にお金がいる。学の無い私でも分かる事だ。
それを聞いて、何が可笑しかったのか。男性は突然笑い出した。
「あははっ、面白いね君。ただ、期待に応えられないという事は無い。既に無くなっているんだ。その目の治療法は開発中の魔法でね? 人体での実験をまだ行っていなかった。そのデータを君は提供してくれたんだよ。そして実験は成功、君はこれからの様々な人々を救う立役者となったわけだ。金にも勝る価値がある。そう、今の君はね」
なるほど、実験の役に立ったのか。褒められたのは初めてだけど、言いようのない程胸がスゥっとした。
「そう……。こんな体でも役立ててくれてありがとう。じゃあ私行くわ。婚約しなければならないから」
「あの道の先にいた貴族は先ほど息を引き取ったよ。嵐の影響か、容体が悪化したみたいでね」
困った。行くところが無くなってしまった。両親は私が嫁ぐと同時に完全に籍を剥奪してしまったから屋敷にも戻れない。
……いや、どうせ死ぬ気になったのだからそこら辺で野垂れ死ねばいいのか。
「教えてくれてありがとう。じゃあ私はこれで」
「どこか一目のつかない所で命を絶つつもりかい? もし、君に罪悪感を覚える念があるなら、ここに住まないか? 今出て行かれると僕の寝覚めが悪いんだ」
罪悪感。それは私が生まれて来た事全てだ。生まれた事が罪だと言われ、生かしてもらってる事に感謝しろと言われてきた。そんな私が生まれて来なければと後悔しながら死ぬのは、確かに罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「それに、経過観察をしなければ十分なデータは取れない。君がデータを提供するなら、その報酬に部屋と服と食事を与えよう。悪くないと思うけど、どう?」
この人は一体何を言っているんだろう? そんな疑問は浮かぶけれど、何故か断る気にはならなかった。
「……わかったわ。お願い」
こうして、私の新しい生活が始まった。
数日が経った。
「うぅ、ん……」
朝、私は『自分の部屋』で目を覚ました。
慣れないベッド、毛布一枚だけじゃない寝床は気持ちが良すぎて気持ち悪い。
部屋の全ては私の物と言われた、でも使い方は分からない。
着た事のない綺麗な服に袖を通す。
ここにあるものは全て新しい、私の名前も。新しく貰った名前は「クーア」。
私の元々の名前は侮蔑の意味が込められていると言われた。知らなかった。
今の私には仕事が無い。掃除も洗濯も、私は客だからしなくていいと言われた。
だからといって、読み書きが出来ない私は本を読んで過ごす事も出来ない。
とりあえず、私は朝日が差し込む窓辺へと向かった。
『君は幸せを知っているかい?』
『………わからないわ』
あの男性――ケストルと言っていた――は、この大きなお屋敷の主らしい。貴族なんだろう。でも位は教えてもらってない。教えてもらっても、私は公爵以外を知らないし、それがどのくらい偉いのかも分からないけれど。
青く晴れた空を眺め、ぼーっとしていた頭を起こす。
「静か……」
初めてだろう。こんなにゆっくりとした朝は経験が無い。
ただ静かなだけならいくらでも、寂しいだけの時間だったけれど。
ここが私の帰る場所。そう言われてまだ実感は無い。
「……どうしよう」
これから先の予定なんて無い。
ケストル様は日々を思うように過ごしてくれればそれだけで助かると言っていたが、その過ごし方がわからない。何もしなくていい日なんて無かったから。
知識に無い事は出来ない。
この部屋にはキッチンも食材もあるけれど、料理を覚える事を許されなかったから作り方が分からない。
それでもお腹は空く。一度は私を裏切った体だけど、付き合わないと生きてはいけない。もう個人的な理由で死ねなくなったから。
「…………味がする」
料理は作れないけれど、何かを食べる事は出来る。
リフリジェレイターと呼ばれる物を冷やして保存出来る魔法具の中から、そのままでも食べられそうなものを取り出す。
これが何かは分からない。生まれてこのかた、固いパンと水以外の食べ物を口にした事が無いから。
でもきっと、味がするとはこういう事なんだと、なんとなく分かる。これが美味しいというものなのかは知らない。
ただ、今まで食べていたものと違うという事は確か、のはずだ。
食事を終えた私は部屋を出た。使い方の分からない道具に囲まれた部屋より、外に出て散歩をしていた方が時間を潰せると思ったから。
外に出ると広い廊下。いくつもの部屋が並んでいてどれが何の部屋かは分からない。
行先も無いから適当に歩く。この廊下にはゴミが見当たらない、掃除が行き届いているんだろう。
屋敷でも宮廷でも、ゴミを片付けるのは私の仕事だった。だから、汚れていない廊下を見るのは新鮮だ。
綺麗な道を眺めながらぼーっと歩いていると、途端、声が聞こえた。
「もし。……もし! 貴女ですわ貴女!」
気付いた。ここには私以外には、その女性しかいなかった。
廊下の分かれ道から呼びかけているのは、青く長い髪の女性。背は私と同じぐらいに見える。それと綺麗なドレスを着ていた。
「ごめんなさい」
とりあえず謝る。謝りさえすれば、良くて殴られ無いから。
「? 貴女、一体何を謝ってるんですの?」
「……?」
「いや、首を傾げられても困るのですけれど」
何故謝るのか? 初めての質問だ。だから何でそんな事を女性が聞いたのか分からなかった。
「えぇ……。まぁ良いでしょう。私はグリュスティ。この屋敷の主人、ケストルの妹よ」
「そう。私はクーア。よろしく」
「ええご存じです。クーアさん、兄様のお付けになられた名前だと。……まあそのような事はどうでも。それより貴女、これからのご予定は?」
「無いわ。それが?」
「ではわたくしにお付き合いなさい。この家の事をろくに存じていない以上迷われるでしょうし、この優しさに感謝してもよろしくてよ!」
「そう、ありがとう」
「…………どうも調子が狂うわね。ま、いいでしょう。付いてらっしゃいな。案内して差し上げます」
「わかった。ありがとう」
「もうお礼は結構ですわ」
「…………」
「それでも、何か返事ぐらいもらえるかしら?」
「そう」
「……もういいですわ。さあ、行きますわよ。っとその前に、はい」
手を差し出された、これは何? わからないわ。
「もう、こうやって手と手を重ね合わせますの!」
そういうと彼女は私の手を取って自分の手を重ねた。
「これは?」
「握手も知らないんですのね。親しくなる為の始まりの合図ですわ」
◇◇◇
西の僻地からの嵐が到達したのは、宮廷。不思議な事に、この宮廷を中心に三日程嵐が続いていた。長続きする嵐に、宮廷の人間は貴族や使用人問わず苛ついて来ている。
何よりも苛つくのは、ストレス発散の矛先であった“クズ”が行方不明になった、という事。嵐に巻き込まれたらしく、おそらくは死亡が濃厚である。
その事に対して、始めは誰もが嘲笑を浮かべて喜んだものの、感情の押し付け先が居なくなったというのは思いの外鬱憤を溜めるもので、今では皆が不機嫌になっていた。
そんな時、一人の男が口を開いた。
「あの女はどこへ行ったのだ!? あの女のせいだというのは分かっておるだろう!!」
それは、誰に向けた言葉でもない。ただの独り言。
しかし誰もが思っていた事。
あの女が悪い。この嵐さえあの女のせいだ。
誰もがそのような事は無いと思っていても、苛立ちは正常な判断を奪い、あり得ない妄想をかき立てる。
そして起こるのは、ストレスの吐き出し先を追いやったのは誰か? という非生産的な議論。
「お前があの女をいじめ過ぎたせいだ! お前が代わりになれ!」
「あの汚らしい女に人一倍仕事を押し付けていたのは貴方ではありませんか?! 貴方こそ私の分も働きなさい!!」
“クズ”が居なければ代わりになる人間を探す。
ある意味では全員の心は一致していた。
宮廷内に波及する激情。その至る所では塵が積もり、払われる事も無い。
◇◇◇
グリュスティ様に案内されて屋敷を歩き回る。
途中で会ったメイドに挨拶をすると、何故か驚かれた。
「あら、クーアさん。おはようございます。お体の方はもう大丈夫ですか?」
「あなたは誰?」
「これは申し遅れました。私は当お屋敷でメイドをさせて頂いております、ファティーと申します」
「そう」
「はい、実を言うと重症で運び込まれた貴女を看病していたもので。経過を聞いてはいましたが、お元気な様子で何より」
「ちょっとファティー? わたくしに対して挨拶はありませんの?」
「あ、これはこれはグリュスティお嬢様。ごきげんよう」
「ごきげんようでは無くてね? 貴女、わたくしの方が立場は上なんですのよ?」
「いえ、お嬢様。挨拶なら今朝も含めていつもの事ですし、今はやはり怪我人の心配が先かと思いまして」
ここでは使用人は主人と会話が出来るんだ……。
向こうではそんな光景を見たことが無かった。一方的に命令だけをして終わり、それだけ。
ここは、変わった屋敷。
「貴女って人は、よそでは通じません事よ?」
「よそのお屋敷に務める予定もございませんので」
「全く……。まあいいわ。それで、クーアさん。ファティーは長年ここに仕えているから、お屋敷の中の事について聞きたい事があれば彼女に聞くとよろしいですわ」
「そう」
「はい。それでは何かありましたらご遠慮なく」
「ありがとう」
「……う~ん。クーアさんは随分とその、表情が乏しいというか」
「詳しい事情はまだ知らないけど、こういう子らしいから。何かあったら貴女、サポートしてあげなさい」
「承知致しました。……ところでお嬢様方はこれからどちらへ?」
「別にどこって決まってはいないけれど、そうねぇ……ではお庭にでも行ってみましょうか? 午前のティータイムでも楽しみましょう」
「了解いたしました。では、準備をして参りますのでこれにて」
「そう」
「ほら、行きますわよクーアさん」
「わかったわ」
「……やっぱり貴女、少し変わってるわね」
ところで、ティータイムって何? わからない。
庭へ案内されると、そこは色とりどりの花で溢れていた。知っている花は一つも無い。そもそも名前を知っている花なんて一つも無いけれど。
その中を歩く私達。周りには誰もいない。まるで貸し切りみたいだと思った。
庭の中央には丸いのテーブルと丸い屋根。
似たようなものは見たことがある。よくそのテーブルを拭いていた。
使っているところは見たことが無い。使用中は近づくなと言われていたから。
「さあ、お掛けなさいな」
「わかった」
「本当に、何を考えているのか分からないわね……」
椅子を引いて、腰掛ける。
するとすぐにさっきのメイド……ファティー様がやってきた。台車を引きながら。
その上にはカップやポットなど道具一式が載っている。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。只今用意いたしますので少々お待ち下さいませ」
「ええお願い。……クーアさん、当家のティータイムは他の貴族のお屋敷よりも優れた味を提供しておりますの。きっと貴女も感動で体が震える事間違いありませんわ」
「そう。でも、そういう経験が無いからわからない」
「そうですの? ならば尚の事、一度体験しておくべきでしょう。その身をもって当家の良さを知るのです。そしてその素晴らしさを全身に伝えるのです!」
「……? 何を言っているのかわからないわ」
「と、とにかく、まずは飲んでみて頂戴。ファティー」
「は、既にご用意は出来ております。クーアさん、どうぞ」
「わかったわ」
目の前に置かれたのは、湯気が立ち昇る液体の入ったカップと、それに刺されたスプーン。
これは、飲めば良いのだろうか?
「お砂糖はご自由にお入れ下さい。個人的にはまず一口お飲み頂いた後に調整をなされた方がよろしいかと」
「砂糖ってどれ? 見たことが無いの、私」
「え?」
グリュスティ様が驚いた声を上げた。
何故だろう? そんなに変な事を言ったつもりはないのだけれども。
「クーアさん、まさかとは思うけれど、お紅茶をお召しになった事が?」
「聞いた事はあるわ」
「……そうなの。ならば普段どのようなものを口にしていたのかしら?」
「硬いパンと水」
「それだけ?」
「ええ」
グリュスティ様がまた驚いている。
一体何なのだろう?
ファティー様に視線を向けると、彼女はポットに手をかけたまま目を開いてこちらを見ていた。
何故? 私はただ質問に答えただけなのに。
「お嬢様、私は看病の際に彼女の体を見たのですが、あの年頃にしては異様に筋肉が無く、皮膚に骨が浮かんでおりました。……おそらく、酷い虐待を受け続けていたのかと。彼女のあの感情の乏しさにもそれで説明が付きます」
「成程ね。……クーアさん、わたくしは貴女にマナーも何も求めません。わたくしの優雅な作法を見て真似るだけでよろしいわ。完璧である必要は無いの。下手であろうと許す寛容さがわたくしにはあるのですから。だから、わたくしの言う通りにしていれば大丈夫」
「わかったわ」
そう答えると彼女は満足そうに頷き、液体の入ったカップに手を掛け、それを口に含んだ。
「ふぅ……。相変わらずファティーの入れるお茶は美味しいですわ」
「ありがとうございます」
「クーアさん、貴女もおやりなさい」
「……熱いわ。初めて熱い飲み物を飲んだ」
「……そ、そうですわね。わたくしも最初はそう思いました」
「お嬢様、おそらく彼女は冷たい水以外を与えられて来なかったのでしょう。その辺りも含めて教育が必要かと思われます」
「……貴女、ほんとうに苦労して来たのね」
「?」
「少々、無作法ではありますが口をカップに当ててふうと息を吹きつけるのもよろしいかと」
言われた通りカップを手に取り、息を吹きつけて口に含む。
瞬間的に思った事は……。
「味がする」
「クーアさん!」
いつの間に移動したのか、ファティー様は私の隣に移動すると肩に手を置いていた。
その顔はとっても悲しそうに見えた。
「よいのです! そう、『味がする』。今はそれ以上の感想など要りません! お嬢様、彼女は美味しいという表現すら知らされずに今日まで生きてきたのでしょう。その境遇を思えば涙無しには語れぬ物語。どうか、このファティーめをクーアさんの専属メイドにして頂けないでしょうか!?」
「な、何を勝手な事を言っていますの?! わたくしは認めませんわよ! それに、彼女にはこれからわたくしの手で着飾るという事も教えて上げなければならないの。国一番のわたくし程には成らなくとも、二番手の美しさを与えなければなりませんわ」
「お嬢様、ぜひともお供させて頂きます!」
「当然でしょう? 貴女はわたくしの専属、わたくしの成す事を一番にサポートする役目があるのだから。でもまずは、このお茶とお茶菓子の美味しさを伝えなくてはなりませんわ」
「もちろんでございます。このファティー、今日は一層の気合を入れてお手伝い致しますとも」
二人が何かを話している。でも、私には彼女達の言葉が理解出来ない。
なので、二人の会話を聞き流しながら目の前にあるお菓子を食べる事にした。
……困った、フォークってどう使えばいいの? 一人でしか食事をした事が無いから誰かが使っているのも見た事が無い。
「く、クーアさん? フォークというものは、そんな逆手に持つものではなくてよ?」
「そう。教えてくれてありがとう」
「大丈夫ですよクーアさん、このファティーめが指導をしてあげますから。……まったく、この方の保護者が許せません!」
結局、ファティー様に使い方を教えてもらいながら何とか食事を終えた。
食べ方はグリュスティ様の真似をしたけれど、慣れていないから手が震え続けた。
そんな私を見る彼女達の目は、とても優しかったと思う。
優しい目など知らないけれど。
その後はグリュスティ様の衣裳部屋へと連れていかれて、たくさんの服を見せられた。どれもこれもが綺麗な色をしている。私には縁の無いものばかりだ。
そして、私は今、鏡の前にいる。
そこに映るのは私。
今まで、こんなにじっくり自分の姿を見たことなんて無かった。
だって、見る必要が無かったもの。恰好はいつも端切れだらけのメイド服、破けたら自分で直さなければならないから。
髪は、掃除の邪魔だから伸びないよう同じように切っていた。いつも同じ切り方だから、鏡を見なくても出来るようになっていた。
鏡に映る私は生まれて初めて化粧をされて、着たこともないドレスを纏っていた。
「私じゃないみたい」
「これからは、これが自然となるのですわ。お化粧も着付けも、全てわたくし達が教えて差し上げます。……でも貴女はもっと食べる事を覚えるべきね。あまりにも細すぎて、どのような服も魅力を引き出せないもの」
「ご安心くださいお嬢様。私が責任を持ってメニューを考えさせていただきますので。胃に負担が掛からない物から少しずつ、様々なご飯がこの世にあるという事をクーアさんに知ってもらいましょう」
「ええ。……ところでクーアさん、貴女はおいくつなのかしら?」
「妹が二ヶ月前に誕生日を上げたから、多分十八」
「へぇ、妹さんがいらっしゃるのね。……多分?」
「彼女が私に二歳下なのは知っているから、多分十八」
「え、いえ。そうではなくて。ご自身の御年も性格に把握しておりませんの? 誕生日など祝われた事は?」
「無いわ」
私の答えを聞いた二人は、何故か固まってしまった。
一体何なのだろう?
「半ば分かっていた事とはいえ。…………お嬢様、これはかなり深刻な事かと。実の両親から姉妹でこれ程の差を付けらるとは。もう、あまり不用意な事はおっしゃらないようにお気をつけ下さい」
「わ、分かったわ。……クーアさん、ならば今度貴女の為にパーティーを開いて差し上げますわ。そこで貴女の誕生日を盛大に祝わいましょう」
「誕生パーティー? 誕生日にパーティーをするの?」
「……つかぬ事を聞きますけど、妹さんの誕生日に貴女は何を?」
「いつも通り物置で過ごしていたけれど」
そう答えると、ファティー様はまた頭を抱えて俯いてしまう。
何故? でも、一つだけ分かる事がある。
それは、この人達が私を喜ばせようとしてくれているという事。
なら、きっと嬉しい事なのだと思う。
嬉しい時は表情に出すものだと何処かで聞いた。
………………駄目、顔が上手く動かない。
「クーアさん? どうなさったの急に顔を引きつらせて?」
「お嬢様、あの表情はきっと未知の体験に対する一種の防衛本能がそうさせるのではないかと。であれば、我々は暖かく見守り、彼女の心の準備が出来るまで待ってあげるべきかと思われます」
「そ、それもそうですわね。……では、今日の所はお開きとしましょう。クーアさんの心の傷も癒えてはいませんし」
「…………そう」
何と言えばいいのか、上手く言葉が浮かばないわ。
◇◇◇
嵐の暗雲に包まれたその屋敷は、現「クーア」と名乗る少女が過ごしていた家。
もっと正確に言えば、クーアが住んでいた物置がある家であった。
現在屋敷では、役立たずの元「娘」が完全に居なくなった事に対する喜びと老貴族の元へ嫁げなかった元「娘」に対する腹立たしさがない交ぜになった夫人が、収まらぬ感情の起伏に苛立ちを覚えていた。
嬉しくても鞭を打ち、怒りに身を任せて鞭を打ってきた呼称“クズ”が居ない為、そのぶつけ先に頭を悩ませていた。
「あぁ、本当に困ったわ。このイラつきをどうすれば良いと言うのです!?」
「奥様、どうか落ち着いてください。先ほどから何度もそう申されております」
「落ち着けるのなら既にしています! ああ苛立たしい!! これも全てあのクズが居ないせいでしょう!」
自らの手で手放しておきながら余りにも身勝手だあるが、それを正す者はこの屋敷に一人と居ない。むしろ全員の共通の認識だったからだ。
あのクズが居なくなってせいせいする。あのクズが居なくなって腹が立つ。
矛盾する感情に疑問を持つ事も無く、身分の垣根を越えて感情を共有する。
だが、そこに親近感を覚えるわけでもない。……逆だ。
同じ感情に苛まれるからこそ、互いの苛立ちが募る。それもまた身分を越えていた。
悪感情の依存症が発奮するのに時間など……。
「もう貴女で結構。……黙って私に打たれなさい」
「お断りします」
「っ!!」
「私は貴方の奴隷ではありません。自分の意思を持ち、自分の考えで行動し、自分の言葉で話す。それが人間というものなのでしょう? だから私は自分の意見をはっきりと言います。奥様こそ見ていて苛立たしい。やはりあのクズの母親であられる事で」
「何ですって……っ! もう我慢なりません! 貴女には罰を与えます。私に逆らう事の愚かさを、骨の髄にまで叩き込んであげますわ」
「出来ますか? 所詮は蝶よ花よと甘やかされただらけの御身分で。おっとゴミという点でもまさに親子でした、ねッ!!」
「あ!? 貴女ッ!!!」
時間など掛からない。
本来、使用人が主人とその家族に手を上げるなどあってはならない、正しく許されざる行為である、それが正常の判断。問題なのは、その判断を出来る人間が誰一人として居ない事である。
主人だけでは無い。これは下剋上などでは無いからだ。
「貴様がムカつく!! 楯を突くな!!!」
「貴方こそ、いつまでも先輩面して気に入らないのよ!!!!」
崩壊は始まり、そして広がっていく。
遅効性の毒を浴びたのは、本当は遥か昔。
◇◇◇
「そうかい、今日は随分と楽しんだんだね」
「楽しい? ……そう、覚えたわ。お茶を飲んでドレスを着ると楽しいのね」
「それは非常に限定的だけど、ね。まぁいいさ、今はそれを楽しいと思えばいい」
その日の終わり、言いつけられていたケストル様への一日の報告にやってきた。
彼が楽しんだと言えば、そうなのだろう。私自身が思うよりも信用は出来る、はず。
「この屋敷の人間は、妹を含めて好きに使ってくれていい。みんなには僕の方から既に伝えてあるしね。それにグリュスティの方からも君の世話がしたいと言われているから。彼女は世話好きだから、君も甘えるといい。甘え方も教えて貰えるだろう」
「そう、わかったわ」
「ふふっ……」
何故彼は今笑ったのか? つい気になったから尋ねてみた。
「どうしたの?」
「いや、すまない。君の『そう』や『わかった』は色んな意味が込められているんだなと。自覚は無いだろうけど、その言葉だけで君が理解出来る気がするよ」
「貴方……不思議ね」
何故不思議と思ったのか、私自身、不思議だけれど。
「誉め言葉として受け取るよ。――――君に一つ教える事がある。教えるべきか、迷うところであったけど。君に対しては誠実であるべきだと妹にも言われてしまってね」
「何?」
「どうして君を助けられたか? そもそも此処が何処なのか? そして僕たちの素性。然程面白い話ではないけれど、……聞いてくれるかい?」
「構わないわ」
ケストル様は少しだけ躊躇いながらも、ゆっくりと口を開く。それはきっと私にとって必要な事なのだと、何故か確信出来たから。
「あの森に居たのは、何も君の事を知っていたからだとかそういう事じゃない。偶々君を救っただけに過ぎない。何故そこに居たのかだけど、元々、あの森の老貴族とは遠い親戚でね。とはいえ実際の面識はあの時だけなんだけど。その縁で訪れた帰りに君を見つけたに過ぎないんだ」
「そう……」
どこか、もったいぶったような言い方をしている気がする。あまり言いたいようには思えなかった。
「それでだね。ああ、……君だから言うが、此処は既に君が知っている国では無いんだ。僕は隣国の人間――――というより王子をさせてもらっている身なんだ」
「……? それが?」
「うん、予想通りの反応だな。本来なら無断で他国の、それも王子の身分でその国の領土に踏み入るのは国際問題だから」
「話さなければいいのね、わかった」
そう答えたら、何か困ったような顔をしている。
解答を間違えた?
「君が話すとは思えないからそこはいいんだ。辺境の老貴族が隣国の王家の血筋だとか、これもハッキリ言って知られてはマズい事なんだけど。問題なのはわざわざ訪れた理由なんだ。――あの国に異変が見られたのは今から十六年前だと言われている。その頃からこの国との関係に微かな摩擦が起き始めていた。最初は極小さい違和感だったらしいよ? 僕がそれを最初に知ったのは、この国の王様、つまるところ僕の父がある日家でこぼした愚痴からだった。『考えが合わなくなってきている』と、勿論相手の国の王の事さ」
一旦区切り、こちらの様子を窺っている。
続きを促しているのだと判断し、私は小さく首肯した。
「……ありがとう。それから数年かけて、少しずつ。本当に少しずつ関係が悪化していった。数日前には、開戦も止む無しと考えてしまう程に相手国が横暴になっていた。明らかにおかしい、一国の主の考えにしては先を見ていなさ過ぎると父は言っていた。あの国は昔、戦争で領土を広げていた好戦的な国ではあったけれど、それでも昨今は過激な行動や言動が目立っていたんだ。個人的にも興味が出て、父にも秘密に潜入を試みたのさ、僕は。あの貴族にも話を着けて、そこを足掛かりにするつもりだった。だが、急死した」
軽く、目を伏せながら呟いたケストル様。その意図は分からないけれど、きっとそこには触れない方がいい。そう思ったから、黙って聞いていた。
「体が悪いのは知っていた、だが急過ぎたんだ。それに、あの屋敷は埃が酷かったな。もう誰も仕えていないとは聞いていたが、それだけでは説明が着かない程に違和感を覚えた。もっと言えば、あの国に足を踏み入れた段階で背筋に寒気を感じて仕方が無かった。そのままそこに居てもしょうがないから、嵐が過ぎてから遺体を運ぶために屋敷を離れた。その途中で君が倒れていたんだよ」
「……そう」
「君を助けられたのは良かった。それだけはあの国に行って良かった事だと思う。君が色んな意味で疎いのも助かったよ。……その後の調査だが、残念ながら現在の状況は全く把握できていない。今あの国は中心にある王城に嵐が留まっている。どうしてそんな不自然な現象が発生してるのかは分からないが、近づこうにも出来ないんだ」
「どうして?」
「ん?」
「どうして拘るの? わからないならそれでいいじゃない」
「単純な興味かな、それだけといえばそれだけなんだけどね。ただ敷いて言うなら、君が生まれた国だから。だけどこれも理由としては弱いかもね」
私の生まれた国だから。それは一体どういう意味?
ケストル様の言っている事が、よく理解出来なかった。
理解する必要も無い、でも――。
何故かその言葉が、頭から離れなかった。
その日の夜、何故だか寝付けなかった私は、ぼんやりと窓から外を眺めていた。
ゆっくりと月を見るのは初めて。大きい。それ以外の感想は持てなかった。
だけど、その時だった。下を見ると何かが動いているように見えた。あれは?
そう思ってじっと見ていると、それは段々と大きくなっていく。
……違う、近づいてきている。これは――人だ。
それは、私とあまり変わらないくらいの女の子。知っている、そうよく覚えている。妹だ。名前を呼ぶ事も許されなかった私の妹。
嫌な感覚に襲われた、一瞬で首筋が寒くなるような……。
部屋の外へと駆け出していた。
◇◇◇
「どこ? ねぇどこなのクズ。返事しなさいよクズのお姉さま」
やっと突き止めた。まさか隣国に逃げ込んでいるなんて思わなかった。ここが誰の御屋敷か知らないけれど。
このわたしの手を煩わせたのだから、たっぷりとお仕置きをして差し上げなきゃ。
邪魔な玄関の扉を無造作に焼いて壊して、中へと進みました。
気に入らない、何この玄関? 悪趣味な煌びやかさ、目障りだわ!
杖を振るって振るって、とにかく焼いて刻んで押しつぶして――そしてそしてそして!!
はぁ、ちょっとスッキリしたわ。ほんのちょっぴりですけれど。
聞こえてくる足音が、ひとーつふたーつみーっつ………………ああっ! うっとうしい!!!
「賊が侵入したぞ!」
「玄関の方だ!急げ!!」
うるさいわね、まったく。折角いい気分だったのに台無しだわ。
お姉さまの居場所を聞かないといけないのに、まあいいわ、こんなところにいる方々は皆殺しにしてしまえばいいのですから。
やって来ては吹き飛ばされていく兵士達。
まるで羽虫みたいで鬱陶しくてたまらない。
「何故、ここにいるの?」
懐かしい声が聞こえる。
「お久しぶり、クズ。随分と綺麗な服を着せて貰っていますのね。……あなたにそんなものが似合うと思って? ムカつくわ」
久しぶりに見たクズの姿、いつも同じぼろ切れを着ていたのに。いつも肌を汚していたのに。
今の姿は目障りな程に小奇麗にしていて、本当にむかついたわ。
「貴女は王子と婚約してお城に住んでいたはず、どうしてここに?」
「王子? ああ、あのすぐに壊れたおもちゃの事ね。全く拍子抜けでしたわ、少し痛めつけた程度でみっともなくわめき散らして。挙句の果てには片目を潰しただけで、汚い悲鳴を上げたのよ? クズのあなたでも声一つあげなかったのに。つまらなかった、本当に」
思い出しただけでもイライラしてくる。せっかくの端正な顔立ちを簡単に崩して、涙に涎を垂らして、汚らしくて仕方がなかった。あまりに簡単に壊れちゃったから、飽きて処分して差し上げました。持ち主として責任は取らないと、ね。
「王子様だけじゃない、城の人間は大臣も騎士も王様だって、みーんな簡単に死んでしまったわ。あなたを生んだお母さまに至っては、メイドに殺される程度でしたの。それを知った時は思わず笑ってしまいました」
その時、お父さまは庭師に殺されていた。あんなに醜く歪んだ顔をされたのは初めて見ました。面白かったけれどいつまでも見られたものじゃなかった、だって飽きは来るんですもの。
他のおもちゃを探したけれど、おもちゃどうして勝手に殺し合って結局わたし一人。
「つまらなかったわ、みんな簡単に死んで。それで思いましたの、周りの人間は全員あなた以下でしか無かった。どんなに痛めつけても絶対に壊れないおもちゃ、必死に探したのよ? けど不思議なのは、どんなに汚らわしくても姉妹なのねわたし達、ここにたどり着くことが出来たんですもの」
「……何が言いたいの?」
「わたしの元へ戻りなさいなクズのお姉さま。あなたじゃないと長く楽しめそうに無いの、それに気づいたから……今度は大事に痛めつけてあげますわ」
わたしはクズに向かって手を伸ばした。
クズの顔、その目。いつの間にか潰したはずの目も元に戻っていて、きっとこのクズはどんな傷でも治す事が出来るのだと確信しました。これ以上ないおもちゃ。
「さぁ……」
「いい加減になさったらどうなの?!」
耳障りな声、それが玄関に響いてきた。
品の良さそうな顔、立ち振る舞い。そして自分に対して絶対の自信を持っていそうな態度。
何もかもが許しがたい、見ているだけではらわたが煮えくり返りそう。
「どなたかしら? 今姉妹で大事なお話をしているの、部外者が口を挟まないで」
「部外者ですって!? わたくしはこの屋敷のものです! 勝手に入ってきて暴れ回ってるあなたの狼藉を看過出来ませんわ! ねぇ兄様?」
その少女の問いかけた先を見れば、美しい顔をした男性がいた。どこかで見たような……。
「僕はこの屋敷の主だよお嬢さん。綺麗な淑女の来訪は基本的に歓迎している我が家だけれど、流石にこうも好き勝手にされては否が応でも対応せざるを得ないよ」
「あらごめんなさい、わたしはクズのお姉さまを迎えに来ただけなのですわ? ……そうだわ、あなた達が匿っていたのね?」
「それが? 今は僕の客人なんだ、いくら実の姉妹でも屋敷の人間に無断で連れ去ろうなんてマナーがなっていないと思わないかいレディー?」
その立ち振る舞い、まるで舞台の上で観客の視線を独り占めする主演役者のように堂々と優雅に。
綺麗な方。……壊してあげたくなるわね!
「クズ、あなたはここでは随分と可愛がられているようね? だったら、今のあなたのご主人様をわたしが壊したらどうなるのかしら?」
「何?」
素早く魔法の風を纏ったわたしは、その美丈夫の背後に回ってご尊顔に杖を突き付けてあげました。
「これは……素直に油断したと認めるべきかな」
「! ……離しなさい」
「へぇ、クズ。あなたってそんな顔も出来たんですのね」
僅か、知らない人間からすれば何も変わっていないレベルで眉間に皺を寄せるクズ。
まるで知らない顔。わたしの知らないクズの表情を引き出したこの男。……腹が立つ。
「別に人質のつもりもないわ、だって最後にはみんな片付けてしまうんですもの」
「兄様!? あなた、よくもわたくしの兄を!!」
「負傷者の方は全て避難させました! お嬢様も、ここは危険ですのでどうかお下がりを!!」
いつの間にかメイド姿の女も出て来て、益々獲物が増えてしまったわ。
「あなたはどうするの? このままわたしに新しいご主人様を殺されるのを黙って見ているのかしら?」
「…………」
挑発のつもりではあった。
でもまさか、兵士の落とした拳銃を拾ってわたしに向けてくるなんて。
今まで歯向かおうなんてしなかったくせに……………………っ。
「何のつもり? それでわたしを撃つのですか?」
「離しなさい……。撃つわ、私は」
「ッ! いい加減にしなさいよっ。それほどこの男が大事だって言いたいの?! たかだか数日優しくしてもらっただけの男の方が……!」
「私は……」
目を伏せた。この表情も見たことが無い!
「撃ちなさいクーアさん! わたくしが許可します!」
「お嬢様!? ですがそれではお坊ちゃまが!」
「この程度の試練も乗り越えられないでは我が家の跡取りとして相応しくありませんわ! わたくしの兄ならばクーアさんを信じなさい兄様!!」
「これは、我が妹ながら中々無茶な注文だな。……いや、覚悟はもう出来ているんだけどね。撃つといいクーア。仮に僕に当たったって文句を言うつもりは無いさ」
麗しい兄妹愛のつもり? 反吐が出る、何が兄妹愛! 何が……ッ! クーアだ!!
「名前なんていらないでしょうあなたにッ! ただいつものようになぶり者にされていればいい!! いつまでもわたしだけの……!!」
「…………そう」
――ごめんなさい。
そう聞こえたと思ったら、次の瞬間にはわたしの左目が尋常でない熱を発していた。
「がぁぁぁああああああ!!! い゛だい゛ぃ……!!!!」
熱い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!
「好き勝手してくれたね。悪いけど、彼女に止めを刺させるわけにはいかない。――君にとっては不本意かもね」
手放した男は、懐から何かを取り出した。そこまで見えて、わたしは少しずつ……………………。
◇◇◇
すべて終わった。
ケストル様が妹を拳銃で撃って、彼女は死んだ。
肩の力が抜けていく、自分じゃどうしようもなく、銃が手から零れ落ちた。
「クーアさん!? 大丈夫ですか?」
ファティー様が駆け寄って来る。私は何も答えられず、ただ彼女の顔を見つめる事しか出来なかった。不意に体が温かいもので包まれる。
抱きしめられていたと気づくのに遅れてしまった。
「……どうして?」
「いいのです。もう終わりました。でもそれは、貴女の妹君の命を奪った結果。例え貴女自身が何も分からなくても、心に何の傷も負わないはずがありません。涙を流せない貴女の為にこうさせて下さい」
「そう……」
私は目を閉じた。
すると誰かが私の髪を撫でているのに気づいた。
「クーアさん、貴女はよく頑張りましたわ。流石は親友!!」
「親友?」
「そう! もう貴女はこの家の人間でわたくしの友! だから励まして差し上げますの。よく頑張りました!」
「……そう、わかったわ」
上手く言葉が浮かばないけれど、哀しいのか嬉しいのか分からないけれど、きっとこの感情は『ありがとう』だと思う。
「クーア、君はもう休んでいいのさ」
ケストル様の言葉が胸の奥に響いた、そんな気がした。
あれから数日経った。
私の住んでいた国は嵐が消え去り調査が再開した。
王家の人間が殺し合いの末に死亡、一部貴族も同じく。国民はみんな混乱しているらしい。
私には良く分からないけど、大変な事なのだろう。
ケストル様の部屋に呼び出された。
「やあクーア。今となってはもう形式のものでしかないけど、その後の目の状態は問題無いかな?」
「ええ、今もあなたの顔が良く見えるわ」
「ふふ、そうかそうか。……君はどうする? このままこの屋敷に住んでもいいし、何処かへ旅に出ても止めるつもりは無いさ」
「わからないわ。……でも、ここの暮らしは知らない事ばかりだから。この間は私の為にパーティーを開いてくれた、マナーを知らないからキチンと楽しめたかわからないけど」
「うん、それで?」
「覚える事が多くて、でも覚える事はきっと嫌いじゃない。そう思えるようになったわ。だから……」
「ここを出て行っていいのかわからない、かな? だったら、ここに居ればいい。君が何処かに行きたいなら、僕が好きなだけ連れってってあげるさ。だから……」
ケストル様は近づいてきて私の手を取り、そして、私の目をのぞき込んで来た。
「君に幸せを教えたい。これから先もずっと、君の傍で」
「? ……どういう事?」
「うぅん……これは強敵だなぁ。ま、ともかくさ。この間の君の気高さが堪らなくてね、いつまでも君を好きでいたくなったのさ」
「そう。よくわからないけど、わかったわ」
「はは、ははははは! これは大変だな、僕も。じゃあよろしく頼むよクーア」
私の手を一旦放したケストル様が、また手を差し出してきた。
このやり取りは知っている。この屋敷に来てから知った事。
「こちらこそ、よろしく」
握手。親しくなる為の始まりの合図。