8
それは卒業式の午後。
私は卒業証書の入った筒を持ったまま、電車に乗っていた。
あの日と同じ駅で降りて、ホームのベンチに座っていたら、ルリの顔が浮かんできた。
ルリに会いたい。あの優しい笑顔が見たい。あの甘い声が聞きたい。私がルリに会える場所はあそこしかない。
私は立ち上がると、ひと夏を過ごしたあの部屋に向かっていた。
このアパートのドアを叩くのは3年半ぶり。もしかしてもうここには住んでいないかもしれない。その確率のほうが高い。
しかし中から顔を出したのは、あの懐かしいナルだった。
「ハナちゃん?ホントに?」
ナルは驚いた顔で私を見て、嬉しそうに笑う。その笑顔も、ドアノブをつかんでいる大きな手も、あの頃のナルと何も変わっていなかった。
「びっくりした。なんだか大人っぽくなっちゃったなぁ……」
ナルがそう言って部屋のドアを大きく開ける。確かに私はあの頃より髪が伸びて、顔にはほんのり化粧もしていた。
「入っても、いいの?」
「もちろん」
ナルの言われるままに部屋に入る。懐かしい匂いが胸の中に溢れかえる。
「何も変わってないね」
「そうかな?」
ルリのお気に入りの色のカーテンも、部屋のわりに大きなテレビも、テーブルの上にごちゃごちゃ積み上げられた雑誌も、全部あの夏のままだ。
ただそこにルリだけがいない。ルリに会いたくて来たのに……ルリだけがここにいない。
いつまでも呆然と突っ立っていたら、ナルが押入れから紙袋を持ってきた。ルリが死んだあの日、あまりにも哀しすぎて、受け取ることができなかった私の水着。ナルはそれを
「忘れ物だよ」
と笑って、渡してくれた。そんなナルの笑顔に、私の胸が締め付けられる。
「ナルは寂しくないの?こんな、ルリの匂いだけが残っているような部屋にいて」
可哀そうなナル。ナルは死んだルリのことをどう思っているのだろう。ナルをこの部屋に残して、たった一人死んだルリのことを……そして私はなぜか、母のことを考えた。
この3年半、母は相変わらず男を連れ込んでいたけれど、決して再婚しようとはしなかった。そんな母を見て、18の私は思う。
母はもしかして、まだ父のことを愛しているのではないだろうか?父のことが忘れられなくて、寂しくて……だからいつもそばに誰かにいて欲しいと思っている。そんな気がするのだ。
ナルが黙って私を見ている。両手で紙袋を抱きしめて、私はつぶやく。
「ナル……もう一度、私を拾って?」
私は本当にルリに会いたかったのだろうか?私が本当に会いたかったのは……
ナルは何も言わなかった。ただ切ない目をして、私のことを見つめていた。