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おにいちゃん

作者: 南澤久佳


育毛剤…と書いてある。


早朝の洗面台、鏡が張られた正面、流しの縁に、濁って若干黄色みがかった、何とも言えない、敢えて言うなら汚らしいとしか言いようのない液体の入った瓶が置いてあった。さらに「育毛剤」と書かれたラベルが貼られている。怪しい。何が怪しいって、ラベルがどう見てもチラシの裏であること、セロテープで貼られていること、俺はまだぴっちぴちの二十代であること、一人暮らしであること。

オヤジが見事なバーコード頭なので将来への不安は膨大なものだが、それでもまだ自分には縁遠い話だと考えている。

ビンの大きさは手のひらサイズ。キャップは黒。ラベルをはがすと、裏面には赤と青の二色刷りで「あなたの家を売ってください」「○○(現住所の地名だ)の土地を探しています」などと書いてあった。どう考えても、六畳一間の安月給単身サラリーマンかニートかフリーター御用達の安普請アパートに入ってくるチラシじゃない。ついでにいうとトイレは共用で一階と二階にひとつずつあって男女の区別はもちろんなく、このアパートには男しか住んでいない。そんなことより育毛剤だ。

いたずらと考えるのが自然だが、こんないたずらをするのは誰だろう?息子の将来を案じた母親か、で、あったとしても、なぜ息子の意識がない内にこっそりとおいていく必要があるのか。そして、どう見てもお手製なのはなぜなのか。海よりも深い母の愛をもってすれば、一万とか二万とかする育毛剤の一つや二つは寄越すのではないのだろうか。そんな金があるならその金額でカップラーメンを買ってくださいお母様。というわけで母親説却下。

ラベルをよくよく観察してみる。

土地売却希望の裏面に勢いよくはみ出た油性インキ。表書きの乱雑な文字は、男か、字が異常に下手な女子か。前者の可能性の方がまあ、高いだろう。

男友達の悪ふざけとしては、考えられなくもないパターンだ。そうなるとビンの中身もなかなかにえぐいことになっていそうで、ここは素直に水に流すべきだろう。いついかなる方法で設置されたのかは後でいい。俺は、男同士の友情の固さを試されるのも好きじゃなければ、なにより、危ない橋を渡るのを嫌う男であった。

あらかじめ蛇口を解放して水を流してから、キャップを外して中身を洗面台にぶちまけた。危惧していた異臭はなかった。

「なんだったんだ」

念入りにキャップと瓶も洗浄し、分別してゴミ袋に。一件落着。そこまでして、ようやく思い出した。

「ああ、あー…そっか」

昨日あいつが泊まりに来て酒飲んで酔ってネットでお手製育毛剤の記事見て家で作って…うわ、なんにも面白くない。で、あいつはどこだ?

どうしてここまで持ってきたのかはわからないが、「あいつ」は地主の息子でボンボンで、大学進学のお祝いに親から一軒家をもらって悠々自適の生活をしているのに一人じゃ一軒家は寂しいからといってよく上がり込んでくる、はた迷惑な友人だった。だからまあ、土地売却のチラシはあいつのものだろう。

洗面所から出て、リビング兼AVルーム兼寝床兼いろいろ兼ねてる六畳間にもどれば、ぐっしゃぐしゃの金髪頭が全裸で転がっていた。こいつの脱ぎグセ、なんとかなんないか。

「おうい、風邪ひくぞ。もうひいてるか?」

しゃがんで、声をかけてみる。

「もうひいた…」

しゃがれた声が返ってきて、溜息をついた。よく見れば鼻の頭が赤い。金髪頭の額を叩いて、押入れから布団を引っ張り出す。窓際に押しやられていた衣服をおぼつかない手つきで引き寄せ、着込み始める背中を横目に、スニーカーに足を突っ込んだ。

「どこいくの、おれ、かぜひいてるのに」

「ポカリとか、風邪薬とか、ねえから」

「ああ、ありがと…」

部屋を出て、鍵を閉めて、一番近いドラッグストアへと向かう坂道を登る途中、「おかんみたい」と、いつだか同級生に言われた言葉を思い出した。小学校、中学校、高校と、なぜだか幼児みたいな男になつかれて、面倒を見ていることが多かった。兄弟はいなかったが、俺は、同世代の男の面倒を見るのがそれほど苦痛ではなかった。おかんと言われるのは本意ではないが。


必要なものを買い込んで、帰宅すると、金髪頭は布団の中で震えていた。

綿のお城の中から頭だけを引きずり出して、冷えぴたを貼って、首にタオルを巻いてから元の場所に還してやる。台所に立って、ネギと生姜と豚肉が入った雑炊をつくった。

「おかあさん…」

「お母さんじゃない」

お盆はないので先週のジャンプの裏表紙の上に、一人用の土鍋に入った雑炊をおいて差し出すと、金髪頭は泣きそうな目で俺に頭を下げた。鼻をすすりながら、レンゲで雑炊をすする。二十歳を超えたっていうのに、小学生みたいだ。女に言わせると、男はいくつになったって子供なんだとか、聞いたことがあったような。

「おまえ、弟とかいないのに、なんでこんなに面倒見がいいかなあ…そんなだから、俺みたいのに付きまとわれて、気の毒よねえ…」

「俺の弟、死んだんだ」

ずるずるに鼻水を垂らしながら雑炊をかっこんでいる金髪に、なぜだかつるっとバラしてしまった。

「幼稚園のときにさ、川に落ちて。スッゲーあっけなかった」

「同い年で、双子だった」

「喧嘩ばっかして、死ねって何度も言ってたけど」

「ほんとに、あんなに簡単に死ぬなんて思わなかった」

ぼそ、ぼそっと俺が話すのを、金髪は目をまんまるくして、黙って聞いて、その間、空のレンゲが宙を何度も上下していた。ここで、食っていいのかな、みたいな。食っていいよ。冷めるだろうが。

「食っていいよ」

「あ、うん…」

レンゲが雑炊を掬って、ブルブル震えている口の中に吸い込まれていく。こんなふうに、弟の面倒を見たことなんかなかった。母親に面倒を見られてばかりいる、幼児とガキとの中間くらいの、男でも人間でも獣でもないくらいの歳に、あっけなく逝ってしまった弟。いつも、いつでも思い出してるわけじゃないし、気にしているつもりもないのだけれど、不意に、浮かび上がってくるのは、弟が、俺を、一人生き残ってのうのうと暮らしている兄を、恨めしいと思っているからなのだろうか。

「おまえさ、」

雑炊をすっかり食い終わった金髪が、とてもゆっくり、言葉を選びながら、こぼした。

「いいお兄ちゃんだな」

「はなみず、きたねえ」

ティッシュで鼻を拭ってやると、「やっぱりオカンかな」と、金髪はあっさり前言撤回した。

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