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四章_城山遥輝

 昼休みになった。そろそろセミナーに出発する準備をしなくてはならない。何より白石が今日のイベントに参加してくれるのは心強い。僕は上層階の喫煙ルームに向かった。今日はほとんど眠れていないし、午前中はやたらと眠かった。午後の集中を保つためにも、昼は食べないつもりだ。

 昼休みの前半ということもあり、喫煙ルームは貸し切りだった。少し酸化した煙の匂いが残っている。僕はあまり強いものは吸えないが、紙巻の細いタバコなら大丈夫だ。まだ吸い始めてから三ヶ月くらいで、結局は現実逃避のためだった。火をつけ、ゆっくり息を吸い込むと、肺の形が分かるような気がする。胸ポケットにしまっていた手紙を出して、読む。スズナからの手紙は暗唱できるほど読んだ。視線だけで紙に穴を空けるほどに、何度も読んだ。


 拝啓

 城山遥輝さま


 一度言ってみたいと思っていた言葉があります。

「この手紙を読んでいるころ、私はこの世にいないでしょう。」

 ようやく書けた達成感で、私はニヤニヤしてしまいます。側から見たら、私は本当に怪しい女です。

 私はこの手紙を、四国からの帰り道に書き始めました。初めは本当にメモ程度で、でもこれは清書です。もうちょっと言うと、清書の改良の改良の改良版です。結構書き直してるので、完成度は高いと思います。

 私の人生は、喩えるならホールケーキのようでした。他に適切な表現がなかったので仕方ありません。誕生日やクリスマス、ケーキの上に乗っていた金色のプラスチックの飾りが、私は好きでした。クリスマスだとそれは柊の葉っぱであったり、トナカイの飾りだったりしました。あの飾りって、ケーキより目立っているように思いませんか。まあ、ハルキが思わなくても、私にとってはそうなのです。

 私は今まで、あの目立つ飾りを目指して生きていたのだと思います。生き急いでいたのかもしれません。横からケーキを切り崩し、飾り目掛けて突っ走り、成人した時、私は気づきました。その飾りは無意味であったこと、生き急いでいた時間こそが主役であったことを。私はプラスチックの飾りを見詰めたまま、本当に大切な時間を押しのけて生きていたのです。

 人はそれを青春と言うのでしょうか。人生には無駄な時間が必要で、それを全力でするのが青春の形だと、私の周囲はそう言います。残念ながら、私はそうは思いませんでした。私はただ、自分に残っていた人生の資源を使い切ったと思いました。でも結局、そんなものはどちらでもいいのです。それからの私の人生は、ただの無駄な先延ばしであり、余白でした。

 どうして世の中の大人たちは、自らの人生がまだ旬であると思うのでしょうか。あるいはどこからか鮮度を調達するのが世渡り上手なのでしょうか。私にはわかりません。


 四国の海は本当に綺麗でした。スーツを着て行ったことを恥じるくらいに、あの夕焼けとさざ波の穏やかさは、見事なまでに私に無関心でした。そしてハルキのシャッター音が、私に始まりの予感をくれました。甲子園のサイレンほど大きくもなく、子守唄のように心地よいものでもなかったけど、波の音と聞き間違えそうなあのシャッター音は、私にもう一度と呼びかけているようでした。


 あの音が、スマートフォンの安っぽい電子音だったなら、私はこんなになることはなかった。


 どうして、あの時私たちは言葉を交わし、視線を絡めしまったのでしょうか。私はもう、壊れかけのシステムだったのです。噛み合わせの悪くなっている歯車を無理やり動かして、私は死ぬことを辞めました。

 もちろん私はハルキを責めているわけではありません。ハルキにはとても感謝しています。このことに関して、全てを先延ばしにしたのは私です。四国で出会ったばかりの私の人生の話に、ハルキはただ頷いてくれました。それに、ハルキの運転する車に乗っている時の私は本当に幸せだったのです。そのせいか私は久しぶりに、とても深く眠ってしまいました。秋の夜に冷やされた窓にもたれかかり、CDから流れる音楽に耳を傾けていたあの時間は、人生で一番幸せな瞬間でした。

 きっと、幸せに向かう時間の中にこそ幸福の本質があるのでしょう。それはまるで、世間が言う青春の構図のようです。ハルキ。私の青春はあの時間に凝縮されていました。私はものすごく苦労の道を選んだけど、あの瞬間に全て、報われてしまいました。だから私は、先に受け取ってしまったものを使い切るまで生きようと決めました。できることなら、もらったもののそのひと欠片くらいを、あなたに返せたらと思いました。


 私はその欠片をあなたに返すことが出来たでしょうか。四国から戻って、私たちは何度も出掛けましたね。その思い出全部、私はハルキから受け取ってばかりでした。いつもあなたが企画して連れ出してくれることに、私は甘えていたのだと思います。でも私は、ハルキが連れ出してくれる場所がどこであっても、ハルキがいるならどこでもよかったのです。早春の箱根、真夏の鎌倉、晩夏の京都、秋の山形。どれもこれも、ハルキからの贈り物です。


 ねえ、ハルキ。あなたは


 僕はそこで読むのをやめた。この手紙はとても長くて、そしてどうしようもなく悲しい。これ以上は午後の仕事に差し支えてしまう。もうこれを読んでも涙は出ない。でも、涙にならない苦しみもあるのだ。感情にはもちろん大きさがあり、それぞれの色がある。でも、色のない感情の渦ほど、人を混乱させるものもまた存在しない。

 僕は、まだ半分以上残っている手紙を折りたたむ。この手紙の折り返しには、こう書いてある。


『ねえ、ハルキ、あなたは怒っていますか?』


 僕は手紙を丁寧にしまい、扉を乱暴に閉めて喫煙所をあとにした。

 オフィスに戻ると、机に突っ伏している白石と、失礼ながらその外見には似合わない手作り弁当を広げている加賀がいた。辻野は昼食に行っているのか、今はいない。隣で同じ姿勢になるのは少し気が引けたが、耐えかねて僕も突っ伏した。限界というほど眠くはないが、午後に退屈なセミナーなんて寝る予感しかしない。残り三十分、少しでも休んでおこうと、僕は目を閉じた。

 ところで、微妙な姿勢で寝ると悪夢を見やすいと聞く。だからこれは悪夢なのかもしれない。とにかく、僕はその時、スズナの夢を見た。とても短い夢だったから、実際には寝ていたというよりも、微睡んでいたという方が正しいかもしれない。

 その夢の中で、僕らは旅をしていた。実際には行ったことのない幻の街だ。そこはアメリカの乾き切った砂漠のように、ゴツゴツとした赤い岩が点在していた。僕らは見たこともないボロボロのアメ車に乗って、見たことのない景色の中を走っていた。その砂漠はどこまでも続く夜の中にあって、空には昨日見たのと全く同じ、春の夜空が広がっていた。助手席の彼女が、あの懐かしい声で言う。

「これは夢だね。」

「うん。これは夢だ。明晰夢みたいなものだ。」

 そう。これは明晰夢だった。夢の中のスズナさえ、この夢の中では現実的だった。現実的な非現実の存在だった。僕は少し悲しくなる。夢の中の悲しさというのはむしろ現実的だった。現実で思い返すものよりもずっと深く心を刺すなんて皮肉な話だ。外を流れる景色はずっと変わらない夜の岩砂漠で、星は狂ったように咲き乱れていた。全てが非現実的で、悲しみとスズナの存在だけが際立って現実的だった。スズナ、と僕は呟く。スズナが首をかしげる。

「どうして君は死んだんだろう。」

「言ったはずだよ。それは必要なことだったの。誰がなんと言おうと、いずれは延長できなくなるものなんだよ。いずれ終わってしまうことは避けられなかったし、それが偶然、あのタイミングだっただけ。四国で出会ったときに、あなたはそれを知ったはず。」

「僕には止められないものだった。」

「そう。それは()()()()()止められないものだった。それは延命を続ける脳死のように、ただ引き延ばしをしているだけ。すればするほど、それはその価値を失っていく。手紙にも書いたように、私はその延命にあなたを巻き込んでしまった。もう謝罪なんていらないと思うから言わないけど、私はあなたに許されなくても仕方ないことをしたの。夢の中で話す今でさえ、あなたは視界がおかしくなりそうなほどの悲しみを感じている。」

「でも僕は、君と関わるべきじゃなかったと思うつもりはない。」

「でも実際、あなたは私を止められなかったことを悔やんでいる。そうでしょう?」

 僕は黙った。そして無意識に口を固く結んでいたことに気づいて、無理やり口を開く。

「僕は────」

 夢はそこで終わった。



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