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三章_白石美波

 駅に着くなり、私は笑ってしまった。距離が開いていたので、幸い彼には気づかれなかった。城山は駅の明かりに照らされて、車のわきにぼーっと立っていた。その横にあるのは、パステルイエローの、可愛らしい軽自動車だ。どう考えても彼のイメージにまるで合わない。それに、フロントライトがまん丸で、車体もビートルのリメイクのような形状をしている。とても可愛いが、横に立っている城山とのアンバランスが凄まじかった。私は表情を改めて彼に話しかける。

「こんばんは。」

「こんばんは。早かったね。明日も仕事だし、ちゃっちゃと行こうか。」

 そして彼は助手席の方に回り込むと、エスコートするように扉を開けて私を座らせた。わずかに消臭剤の匂いがする。知らなかったが、もしかしたら彼はタバコを吸うのかもしれない。やがて城山が運転席に乗り込み、車を出発させた。私はまず礼を言う、

「ありがとう。城山くん。」

「いえいえ。」

「流星群なんて、ちゃんと見たことはないかも。」

「僕も都会以外で見るのは初めてだよ。この辺りは地面が明るすぎるから、どうしても運に左右されてしまう。夜を明るくするための街灯が、見えないものを作ってしまうなんて皮肉だと僕は思う。常に何かを得ようとすることと何かを失うのはトレードオフだ。」

 彼が前を向いたまま言う。それ以上なにも言わず、何も聞いてこなかった。スピーカーからは女性ボーカルの邦楽が、絞った音量で流れている。不思議と心地のいい沈黙だった、どうしてだか、いつもの城山のあの怖い眼差しも、今は全く感じられなかった。いくら気になったとしても、きっと彼自身のことは聞くべきではないのだろう。それはこの前の飲み会で強く実感したことだ。しかし、いつもと違う彼の雰囲気に、私は思わず尋ねてしまった。

「城山くんは、何かを失ったの?」

 彼は何も言わなかった。ほんの少しだけスピーカーの音楽の音が小さくなったような気がした。すれ違う道路標識は首都高のインターチェンジを示している。首都高への坂道を上る。車がギアを変えて、坂道を力強く上っていく。ETCをくぐり、あの人工的な通過のアナウンスが流れた後、彼はようやく口を開いた。

「僕が失ったものは、何もないと思う。でも、」

 そこで彼は空白を作った。彼は前を向いたまま少し悲しげに笑っていた。それはあの居酒屋で見た笑顔とよく似ていて、私は見ているのが少し辛かった。車が高速道路に入る。連続的な街灯に、彼の横顔が繰り返し照らされる。

「僕に近づく人は、僕に様々なものをくれる。でも、最後にはそれを持って行ってしまうんだ。だから、元々僕が持っていたものは何一つ損なわれてはいない。ただ、なくなってしまった空白を見て悲しくなるだけだ。」

「城山くんがあげたものはどうなるの?」

「僕は何一つとして誰かに何かを与えたことはない。誰かに向けた善意も好意も、全ては僕自身を満たすためだけに使っている。」

 それでは、今こうして私を気遣ってくれているのはなんなのか。私は少し苛ついていた。城山は、優しくなることを過度に恐れている。自らに偽善者のレッテルを貼り、全て情けは人の為ならずで納得しようとする。いうならば、加害者妄想が強いということなのかもしれない。私は話題を変えた。

「この車はどこに向かっているの?」

「群馬の富岡市の近くにある荒船山だよ。少し遠いけど、僕が知る中でもっとも星が美しく見える場所だ。」

 車のナビは関越自動車道の道を示していた。操作してみると、群馬と長野の県境のようだ。ここからおよそ二時間と少しかかるらしい。到着予定時刻は十時二十分だ。途中の休憩時間を考えると十一時にならないくらいだろうか。

「帰りの時間大丈夫かな。明日も仕事だけど。」

「その点は心配しなくていいよ。最悪休んでしまえばいい。」

 明日のセミナーを誘ってきたのは彼なのに、あまりに無責任な返事に笑ってしまう。

「そんなことしたら、学生気分が抜けてないって怒られちゃうよ。」

「そんなの怒らせておけばいいんだ。元々あのイベントに参加するように言ってきた上司が来れないんだし、僕らが行ってたところでちょっとした遠足にしかならない。」

「城山くんって、もっと真面目なんだと思ってた。」

「そんなことはない。僕は適当に生きているだけだよ。それに実際、僕らが休んだところで特に弊害はない。あんなもの、行かなくたって会社は勝手に回ってる。」

彼は少し楽しそうだった。夜の高速道路はたしかにワクワクする。なんだかいけないことをしている気分だ。だから私も、つい浮かれてしまう。

「じゃあ私も休んじゃおうかな。せっかくの流星群を、できるだけ長く見ていたいし。」

「そうだね。僕もそう思うよ。それと、関越道に入ったら適当なサービスエリアで休憩を取るから、それまで寝てて。」

「私、助手席では寝ない主義なんだけどな。」

「そっか。じゃあ少し話をしよう。夜は誰しも一人の時間だから、こうして誰かと声で繋がっていると、とても心が落ち着くよ。」

 そして私たちはありとあらゆる話をした。それは学生時代の同級生にも話していないような、私自身の話であり、彼自身の話であった。やがて私は昨日まで言葉を交わしていた元彼の話もした。

「それは確かに、つらいものだと思う。」

「私は、どうしたらいいと思う?」

 城山は気難しい顔を浮かべていた。彼の中ではきっと、いくつもの言葉が浮かんでは取捨選択されているのだろう。彼は言葉を選ぶようにゆっくりと言った。

「僕は、この世で最もいらないものは言葉だと思う。」

「どういうこと?」

「僕は沈黙が好きなんだ。そして、それと同じくらいに人にお節介を焼くのも好きだ。だから、僕はこの手の話になるとつい、自分の思ったことを話したくなってしまう。それはある人によってはアドバイスのように聞こえるし、ある人にとっては知ったかぶりに聞こえるものだと思う。だから、僕は極力自分の言葉というものを削ってきたし、これからもそうしていくつもりだ。だから、僕は聞き手に適していない。」

「私はそうは思わないけど。城山くんの意見を聞かせてほしい。だって、これはそういう時間でしょう?」

 彼はしばらく黙っていたがやがて、分かったとだけ言って少し沈黙した。いくつかの逡巡のあと、彼は話し始めた。

「きっと、白石さんの元彼さんは、もう言葉もいらない白石さんがとても居心地のいい存在になっていたんだと思う。でも結局、それは自分勝手な話だし、積み重ねるべき言葉もあったはずなんだ。互いが互いの空白を埋め続けるのは、確かに楽な関係だけど、とても破滅的だ。だから、白石さんが自分なりのけじめをつけたのは、正しいことだと僕は思う、」

「たとえそれがつらくても?」

「つらくない決断なんてない。もしそれが、初めからつらくない選択肢なら、それは決断と呼べるものじゃない。」

「つらくない選択は決断ではない。」

「少なくとも僕はそう思っているよ。」

 そう言って彼はウインカーを出した。サービスエリアに入るようだ。車は左折してゆっくりと減速し、比較的空いた駐車場に滑り込んだ。


 深夜のサービスエリアを嫌いな人間はいるのだろうか。寝静まった空気の中でもひっきりなしに行き交う車や、ずらりと並べられた自販機の明かり、そしてヘッドライトだけが示す視界。少なくとも私は深夜のサービスエリアが好きだ。きっと、城山もそうだと思う。私たちは車を降りて、レストランや土産物がありそうな建物の方へ向かう。途中、城山が高速道路特有のカップ型の自販機の前で立ち止まる。

「結構寒いし、何か飲む?」

「じゃあ、ココアがいいな。」

「おっけい。」

 彼はホットココアのボタンを押した。金額表示のパネルが、完成までの秒数に切り替わる。あと三十秒だ。

「城山くんが最近した決断ってある?」

「強いて挙げるなら、忘れることに肯定的になること。」

「何を?」

 彼はしばらく何も言わなかった。代わりに、軽快な音と共にでてきたココアを私に渡して、苦笑して言った。

「僕の彼女は、半年前に自殺したんだ。」

 あるいはそれは、悲しみに溢れた笑みなのかもしれなかった。


 それから目的地に着くまで、彼は夜の高速道路を見つめながら、自分のことを話してくれた。四国で出会ったスーツの女性。互いに旅行中で、旅から帰ってからも家が近く、付き合いが続いたこと。やがて彼女が自殺したこと。そしてつい最近に手紙が届いたこと。その手紙は国際メールで、台湾から送られていたこと。

「僕はスズナが台湾に行っていたことを全く知らなかった。でもスズナは、その国際メールが届くまでに死ぬと決めていたのだと思う。普通、国際メールが台湾から日本に郵送されるのは約一週間かかるけど、この手紙は日付が指定された特殊な郵送方式になっていた。だから半年くらい経って、僕は彼女の言葉を、本音を聞いた。」

「その手紙にはなんて書いてあったの?」

「特に特別なことは書いてなかった。スズナが死ぬ理由と、僕へのちょっとした感謝だけ。台湾の様子なんて一切書かれていなかった。」

「そうだったんだ。」

 気づくと周囲は真っ暗になっていた。この辺りには一切街灯がないらしい。ただ車のライトが照らす道だけが、ここが山道であることを示していた。

「僕としては五ヶ月というこの歳月は、もうあまり記憶に残っていないんだ。ただひたすらに長かった実感と、振り返ったときの空虚さだけがある。僕はこの時間を、ただひたすら自分への慰めに使ってしまった。そしてようやく、少しずつ周囲の物事が目に留まるようになってきたんだ。」

「その矢先に、この手紙が来たのね。」

「そう。別にまた傷ついたとか、そういうことじゃない。でも傷がそこにあったという事実を思い出すだけでつらくなることもある。またしばらく、スズナを忘れられない夜を越えなくちゃいけない。」

「そして夜は一人の時間でもある。」

「その通り。人間は夜しか、まともに考えることの出来ない生き物だから。特に僕自身はそうなのだと思う。」

 そして彼は苦笑いした。実際には顔は暗くてよく見えないので、気配だが、笑ったような気がする。車が止まり、彼がハンドブレーキを上げた。

「着いたよ。今日はよく見えそうだ。」

 私は十分に暗闇に慣れた目で外に出る。城山が助手席に回り込んで扉を閉めてくれた。パタンという軽特有の軽い音が鳴る。私はゆっくりと空を見上げた。

 そこには現実味のない、絵のような星空が広がっていた。星にも色があるのだと、私は初めて実感した。流星群なんてなくても、この星空だけで十分な主役だった。実際、城山が流星群を理由にしなくても、この星空だけで私は満足したと思う。彼の方を見ると、彼もまた、抜け殻のように空を見つめていた。やがて彼は視線を下ろし、車のトランクを開けた。中には脚立と一眼カメラが入っていた。カメラには大砲のようなレンズがついていて、まるで主役を乗っ取っているかのようだった。城山が手慣れた動きでそれらをセットする。心なしか、仕事のときよりテキパキしていて楽しそうだ。

「私、星空の撮影なんて初めて見る気がする。」

「あまり見ない方がいいよ。液晶の明かりで瞳孔が閉じてしまうから。」

 城山の言い方はとても優しかった。私はカメラの横に立ち、レンズと同じ、流星群の方角を見上げた。

 それから私たちは、車の後ろの扉を上げて座った。城山の軽自動車には色々なものが積まれていた。大きめの毛布や、下に敷くクッション、そしてキャンプ用の一口のガスコンロ。彼はどこからともなく取り出した牛乳を温めてホットミルクにしてくれた。正直、サービスエリアで飲んだココアの何倍も美味しかった。

 私たちは同じ毛布にくるまって、流星群探しに没頭した。彼は本当に一人で見に来るつもりだったらしく、コップも毛布も一つしかなかった。寒くて顔を毛布に埋めると、太陽の匂いと、ほんのわずかな柔軟剤の香りがする。ふかふかで、二人包んでも十分な大きさで、栗色が素敵な毛布だ。

 最終的に私たちは二時間、星を見続けた。ちなみに私は十五個、城山は九個の流星を見つけた。ただ、城山は何度かカメラの様子を見に行って見逃していたから、私の方が有利だったかもしれない。片付けを手伝おうとして立ち上がると、外の冷気が一気に包み込んでくる。私は改めて毛布の偉大さを感じながら、城山に駆け寄った。

「どれを運べばいい?」

「じゃあ、コンロ類をお願いできるかな。ビニール袋に包んでトランクに入れておいてくれればいいから。」

「わかった。パパっとやっちゃうね。」

 駆け寄った時の城山は、この山に来る前より少しだけ元気になっているように見えた。もしかしたらいい写真が撮れたのかもしれない。しかしそれとは別に、会社でも飲み会でも全然感じられなかった、活力のようなものが少しだけ見てとれた。コンロを片付け、城山もカメラをトランクにしまう。私たちは車に乗り込んだ。

「今日はこんな山奥まで付き合ってくれてありがとう。とても素敵な夜になった。」

「私こそ、突然お邪魔したのに運転も任せきりでごめん。誘ってくれて本当に嬉しかったよ。ありがとう。」

「どういたしまして。」

 車にエンジンがかかる。点灯した時計は午前一時を指していた。朝の私は起きられるだろうか。でも、昨日の朝ような憂鬱とした感情は、もう今の私から消え失せていた。

 私はまさに今流れたであろう、見逃した流星たちに少し申し訳なく思いながら、その山を下りた。

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