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二章_白石美波

 また彼は、そういう目をする。

 遅刻すれすれで飛び込んできた私を、加賀と辻野の声が出迎える。どうやらいつものように加賀が辻野に話題を過剰供給しているようだ。

 そしてそんな二人を見る城山の目。私は初めてあの目を見たとき、何かに激しく肩を突き飛ばされたような気がした。不自然にならないように、城山の肩をつついて注意を逸らす。

「おはよう。また私が最後かあ。」

「おはよう。白石さん、いつもぎりぎりだよね。」

 私は曖昧に笑う。今朝は特にバタバタだった。

 城山がふっと笑っておはようと言う。彼の周りには書類がいくつか積まれており、同期の中で一番多い。人事に聞いたところでは、城山は最も内定が早く、かなり忙しい部署の配属になったそうだ。取るべき資格、覚えるべき言葉、身につけるべき礼儀。彼はそんな忙しさの前触れをおくびにもださず、ただ淡々と新人の仕事を片付けている。

 私は城山の目が苦手だ。うまく説明出来ないが、不在を形にしたような眼差しを向けることがある。それはクリスマス明けにツリーが片付けられたスペースや、電話が切られたあとの受話器の音に近いかもしれない。そして彼の眼差しは、ある種の優しさとして、その空白を表現していた。


 前に彼に聞いたことがある。同期四人で初めて飲んだ日だ。会社の最寄りの安い居酒屋だった。彼のことを聞いたのに他意はなかった。たしか、同期の恋バナの話をしていたような気がする。私はさほど親しくなくても直球で物事を聞くタイプだし、そうすることで円滑になる役回りもあるのだと思う。たしか、

「城山くんって、彼女いるの?」

というようなことを聞いたのだ。その時彼はあまり話に加わっておらず、微笑んでばかりいたから、つい話を振ったのだ。彼はしばらく何も言わなかった。空っぽのジョッキに強烈についた水滴をしばらく眺めて、そして顔を上げた。

 その時に見た彼の瞳が、今も強烈に焼き付いている。

 彼は笑う途中みたいな中途半端な表情を浮かべ、「いないよ」とだけ言った。しかし普段眠たそうな瞳は、その時に限っては恐ろしく澄みきっていた。私は鳥肌が立った。それは底が照らされない井戸を覗き込んだ時の、心理的な凍えに似ていた。体が震えなくても、心が凍える時はある。ほかの二人はなんとも思わなかったらしく、加賀が意外意外と言って辻野に同意を求めている。私はもはや何も言うことが出来ず、加賀の話に曖昧に頷くしかなかった。


 それ以来、私は彼のことを意識せずにはいられなくなった。異性としてどうこう思うということではなく、ただ彼の人間性の根本が気になってしまうのだ。きっときっかけがあれば聞くことが出来ると思う。しかしそのきっかけはいつまでも保留されていて、私は一歩を踏み出せていない。何より、それには信頼関係が明らかに不足している。

 ふと顔を上げると、城山と目が合った。

「白石さん。いま少しいい?」

「うん。どうしたの?」

「明日の昼から、ベンダーのカンファレンスがあるんだ。年に一回しかない大規模なやつで、うちの会社からは僕と、あと先輩が一人行く予定だった。

 ただその先輩が、別の仕事でまだ出張先から帰れないらしいんだ。

 先輩からは、新人をもう一人代わりに連れていったらどうかと言われているんだけど、白石さんは参加出来る?」

「行けるよ。何時まで?」

「懇親会を含めて二十時まで。新人二人だから、最低限の挨拶さえすればあとは自由に帰っていいと言われてる。僕は最後まで残るから、白石さんは好きなタイミングで帰って大丈夫。」

「わかった。じゃあ午後は空けておくね。」

 そうは言っても、もともと新人に大した業務は与えられていない。業務で会社の外に飛び出すのは初めてで、私は少し楽しみになった。加賀が羨ましそうに声を上げる。

「え、いいなあ。俺も社外にくり出してみたかったわ。夕飯とか豪華なんだろうなあ。俺も連れてってくれよ〜」

 両足をバタつかせている加賀に城山は苦笑いを浮かべている。まるで子供だ。

「悪い。業務に関係ある人を優先したいらしいんだ。また別のカンファレンスの時に、加賀と業務が近ければ声かけるよ。」

「そうしてくれ〜」


 ふと、ポケットに入れた携帯が震える。開くまでもない。こんな時間に連絡してくるのは元彼くらいだ。私は心がさざなみ立つのをはっきりと感じた。彼は昨日まで、私のアパートに入り浸っていた。一つ下の大学四年生。振ってきたのは彼の方なのに、都合よく利用してくる彼を、私は振り払えないでいる。

 昨日の夜、私は彼ともめた。私自身がどうにか変わらなくてはと思い、意を決して彼に出て行くように言ったのだ。何かと都合をつけて居座る彼に、結局甘えている私が嫌で仕方がなかった。ようやく決心して話してみれば、彼は冷たい目をして、ものをひっくり返しながら自分の荷物をまとめ始めた。不機嫌は伝播するのだと分かっていたけど、結局私も我慢できず、そのあと彼とは夜が明けるくらいまでもめた。

きっと、今日家に帰ればもう彼はいないだろう。少なくとも、私が仕事に向かう時は、彼はまだソファで寝ていた。まとめた荷物を玄関に積み上げたまま。

 喧嘩に疲れ、奇妙な解放感に包まれていた私は、今や忍び寄ってくる孤独をひしひしと感じていた。今日帰れば、物音ひとつしない夜がやってくる。それはとても久しぶりのことで、私はそれが怖かった。私が望んだ結末のひとつのはずなのに、どうして怖くなるのだろう。

 城山が私に視線を投げたのが分かる。彼の視線には重みがあるのだ。彼に見られていると、たしかな視線の圧を感じる。私は三人に気づかれないようにいつもの笑顔を浮かべた。うん、いつもの明るいまとめ役の白石さんだ。

 私はこの同期がとても好きだったし、この空気を壊したくはなかった。みんながどう思っているのかは分からない。それでも、私は明るい人物であるという自分自身の印象を手放したくなかった。私は気持ちを切り替え、仕事に集中することにした。今日の昼休みは辻野と女子会だ。いつも通勤の時に通りすがる、気になっていたイタリアンに行こうと約束をしている。今は目の前の一つ一つの幸福と義務に向き合うことが、私にできる唯一のことだった。


 仕事が終わる。新人は等しく定時退社だ。城山はそうも言っていられる状況ではないらしいが、人事のお偉方の鶴の一声で強制帰宅になるらしい。ちなみに昼の女子会は定期開催になった。どうやら辻野とは仲良くなれそうだ。会社の人間関係が円滑であるに越したことはない。

私の家は会社から一時間かからない程度の、大学近くのアパートだ。元彼の影響もあって、引っ越さずに住み続けている。鍵を開けて、私はため息をついた。真っ暗な玄関のマットレスの上に、さよならとだけ書かれた手紙が置いてある。しかしその走り書きのような紙切れは、私に終わりの予感をもたらしてはくれなかった。そこにあるのは、またいつか彼が都合よく戻ってくるのではないかという奇妙な安心感と、もう関わりたくない拒否感だった。

私は明かりをつけ、冷蔵庫の食材を適当に炒めて食べた。ちょうど八時くらいだ。ささっと食器を片付け、コーヒーを淹れる。私しか座らなくなったやや広いソファーに座り、スマートフォンを開くと、同期のグループで加賀が飲み会を企画していた。彼もまた、元気であることを自らに課しているのだろうか。

加賀の提案に、城山は「金曜ならいつでも」とだけ返事をしていた。なんとなく彼のアイコンを押してみると、波一つ立っていない海の写真が設定されていた。まるで小学生が書いたような理想的な夕焼けと、理想的なオレンジの海だった。それは美しい鏡のような世界で、しばらくその写真に私は見入っていた。そしてふと我に返り、画面を閉じようとした時、手を滑らせてスマートフォンを落としてしまった。ケースをつけておいてよかった。フローリングに角をぶつけて硬い音を立てたそれを拾い上げて、鼓動が跳ね上がった。スマートフォンの画面は彼への発信を示していた。どうやら落とした時にボタンに触れてしまったらしい。大慌てで切ろうとした時、ステータスが通話状態になった。何を話せばいいのか分からないまま、端末を耳に当てる。

「こんばんは。」

彼が言った。低すぎず、しかしとても落ち着いた声だ。電話越しではまるで別人のような声になる人がいる。彼はまさにその典型だろう。目を合わせた時のあの怖さが、電話になるとない。私は狐につままれた心地で彼に答える。

「こんばんは。ごめんね、こんな時間に。」

「いや、今ちょうど本を読みきったところなんだ。本から顔を上げた時に話せる相手がいるのは幸せなことだと僕は思う。」

彼は独特の言い回しをする。そしてその意味を考えると、つい本題を忘れてしまう。

「ありがとう。なんの本を読んでいたの?」

「頭上の地球を見上げて暮らす人達の生活だよ。SFみたいなものだ。」

「その本は読んで幸せになれるお話だった?」

「それは少し難しい。幸せの定義は人それぞれ、なんて言うつもりはないけど、僕はせめて、フィクションの中では安っぽい幸せを配り歩いてほしいと思う。この本はとても現実的で、救われないことが多すぎる。それに夜に読むには、ちょっと感傷的だ。」

「そうなんだ。現実的なSFっていう感想だけで、私はその本に興味が湧くよ。」

そして夜という言葉で我に返る。

「あ、ごめん。実はこれ、間違ってかけてしまったんだ。スマートフォンを落とした時に発信してしまったみたいで。」

スマートフォンがわずかに沈黙する。彼のいる場所はとても静かなのか、雑音が全くしなかった。さらに言えば彼の存在すら伝わってこなかった。やがて彼は口を開く。

「そうだったのか。それならよかった。夜の電話は好きだけど、受け取るのは少し怖い。」

「かけるのは良くても?」

「そう。かけるのは構わない。でも受け取るのは苦手だ。それは少なからず悲劇的な予感がする。だから、白石さんが大事なくて良かった。」

「ありがとう。私は」

大丈夫と言おうとしたはずなのに、私の言葉は空中に消えた。言葉の代わりに馬鹿みたいに涙が出てきた。私は城山に悟られまいと呼吸をとめ、そのまま電話を切った。そして潜水を終えた海女のように、息を思い切り吸い込んで泣いた。


どのくらいかは分からないが、そこから小一時間ほど泣いたと思う。どうして涙が出たのかもあまり分からない。彼がいなくなった悲しみか、城山の声の不思議な安定感のせいか、とにかく分からない。私は洗面台の前に立ち、散々になった自分の顔を見た。まぶたは腫れ、瞳は充血し、鼻をすすっている女がそこにいた。あまりのひどさに笑ってしまいそうになる。


リビングに戻り、スマートフォンが鳴動していることに気づいた。城山からの電話だ。さっき私の方から一方的に切ってしまったのだ。私は申し訳なさを覚えつつ、電話を取った。

「こんばんは。」

さっきと全く同じ声音、語句が聞こえてきて、私はクスりとしてしまった。

「さっきは切っちゃってごめんね。しかも私からかけたのに。」

「気にしなくていいよ。そんなことより、もう大丈夫になった?」

「うん、たぶん。部屋の中にいても塞ぎ込んじゃいそうだし、散歩でもするよ。」

「そうか。ところで、今日は流星群の極大日だよ。」

「そうなんだ。でも東京は明るすぎるよね。」

「今から見に行くけど、白石さんも行く?」

え?という間もなく、スマートフォンが通知で震える。城山の個人トークだ。開くと、彼の現在地が載っていた。というか、私の最寄り駅だ。

「前の飲み会で送ったときの駅って、ここで合ってたよね?」

なぜか不安そうに聞いてくる城山の声に笑いそうになる。もう何が何だかわからない。

「うん。合ってる。それと、私も行く。」

城山は「分かった」とだけ言って電話を切った。先ほどまでの悲しみと同じくらい、私はワクワクしていた。

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