Ver.フェルナン・アルバニア
僕は、姉が嫌いだ。
僕を見る目が、弟を見る姉のそれではない。生まれてこのかた姉を姉として敬う心を持てなかったのは僕のせいだけではないと確信できる。
姉が僕に向けてくる視線は、はっきり言って気持ち悪い。物心ついた頃には、物を見るような無機質な視線を向けられていた。でもそれだけなら、まだ良かった。弟として悲しい、寂しい、とは思っても、それだけで終われた。でも、そこにいつしか、別の感情が宿っていることに気付いたのは何歳の時だったか。
「フェル」
僕を呼ぶ声。媚びるような、でもどこか見下しているような。変に甘ったるく、まるで『弟』ではなく、『男』を意識しているような。実のところ、そうだと気づけたのは男女の性差を教えられた最近だけど、そう気づけるまでは、ただ、気持ち悪い視線だと思っていた。
まだ9歳程度の僕にさえ向けてくるその視線が、不快でたまらなかった。姉だって僕より一つ年上なだけで、色恋沙汰なんて世界には縁遠い筈なのに。そんなものに既に侵されている姉に嫌悪感すら覚えた。実の弟にそんなものを向ける姉の倫理観はどうなっているのか、考えたくもない。もちろん、兄様に対するものはもっと酷かった。
兄様はそれでも、妹だということで精一杯兄妹としての親愛を示そうと努力していた。それをあの姉は、ことごとく自分の都合の良いように受け取り、兄妹だからではなく、『女』として大事に扱われていると認識しているようだった。脳内でどんな変換が行われているのか知らないけど、兄様の努力は全く報われなかったというわけだ。
もう、あの姉に何も期待しない。身内や他家の貴族への態度も、本人は上手くやれてるつもりかもしれないけど、弟の僕から見ても、酷いものだった。マナーも貴族に必須の勉強も、本人に覚える気がないから身に付いていないし、立ち居振舞いなんて僕の方がまだ形になってるくらいだ。
教える家庭教師が悪かった訳じゃない。教わる気の無い姉が、次々に教師に難癖をつけてクビにしていたからだ。勿論、お父様はクビにされた家庭教師に、次の就職をきちんと用意していたけど。最終的には娘の不出来を諦めたのか、最低限のことを教える教師役を、兄様と、姉のお気に入りである顔の良い、兄様の友達でもある宰相の息子のクレイタス・ユーザ様に頼んでいた。
兄様よりは一つ年上で、第一王子と同い年でもう学園入りしているらしく、忙しいらしいのに、度々呼び出されて可哀想だと思った。兄様は14歳で、社交デビューこそしているものの、来年学園に入るために、自分の勉強もあるから、見切れない部分をクレイタス様に長期休暇や何がしかの用事がある時に頼んでいるらしい。
人に迷惑しか掛けられない姉に、失望するのも馬鹿らしい。失望なんて、期待してもいないのに出来るわけがないからね。
それよりも姉に対して一番憤りを感じるのは、姉の中の勝手なヒエラルキーに対してだった。格下の、僕達に仕えてくれている使用人の人達や、領地に住んでいる平民の人達は、身分社会で決められているから働いたり税金を納めて僕達を支えてくれているけれど、それに対する感謝を忘れてはいけない、とお父様から教えられた。僕達貴族が生活出来るのは、彼等が居るから。それを忘れたら、もうただの金喰い虫でしかない。
なのに、同じ教えをお父様から受けたにも関わらず、あの姉は。
お父様の前では、猫を被ることを覚えたみたいだった。一度、お父様の前で使用人に対しての態度を見られて怒られたらしい。でも、お父様の居ない時の姉は酷いという言葉では表しきれないものだった。
使用人に対しての呼び方も酷いものだけど、少し粗相をしただけで、折檻しようとする。(勿論、毎回兄様か執事が緊急に呼び出されて姉を必死に宥めていた)
姉の気に入らないことをしただけで、視界に入る度、嫌味や文句を言われて裏方の用事をする当番に回りたがる使用人が増えた。(それでも屋敷で働くのを辞めないのは、お父様やお母様の人徳のお陰だ)
一番酷かったのは、知り合いの子爵家の兄妹を引き取ったその後だった。
その兄妹を見て一番に目を引くのは、二人揃って豊かで見事な赤毛だ。神秘的な深緑の瞳も珍しいけれど、整った顔と相まって中々に目立つ兄妹だった。
何か理由があるらしく、うちで働くことになったみたいだけど、あの姉に、美男子の子爵家の兄の方を付けると、問題しか起こらないと判断した執事の英断により、子爵家の兄は兄様に、妹は僕の姉に付けられた。本当は別の仕事をしてもらいたいみたいだったけど、まさか子爵家の娘に下働きはさせられないし、僕に付けると話が出たときには姉が「ビッチがフェルに付くなんて!ふしだらよ!」と叫んでいた。どっちがビッチでふしだらだ。見事なブーメランでしかない。
そんな訳で姉付きになった彼女の扱いは、それはもう酷かった。
優秀な兄のハイルとことごとく比べられて貶められて。(決して彼女が無能な訳ではない。姉が理不尽に命令したことが出来なかっただけで叱責されていた。)
兄様や僕と挨拶しただけで誘惑しただの色目を使っただの難癖を付けられて責められていた。(自分の事を棚に上げているところが一番に醜悪だ)
しかもそれを兄様や執事、僕が庇おうものなら、さらにエスカレートして裏で見えないところで行われるので、黙認して、後からフォローに回るしか出来ないところが腹立たしい。
一度、彼女に対する暴言を流石に見咎めた兄様が姉に注意したことがあった。その次の日、彼女の腰まで豊かに伸びていた髪が肩下程まで切られていた。兄様達は彼女に問い詰めたらしいけど、彼女は顔色を真っ青にしながらも否定したので、証拠もなく、姉を弾劾することは出来なかった。あの時、姉の陰湿さに僕達は戦慄した。証拠を残さないこともさることながら、彼女に一体どんな口止めを行ったのか。それ以来、さらに表だって彼女の味方をできる者が居なくなってしまい、姉はさらに調子に乗っていた。
そんな、どうしようもない姉が。血が繋がっていることを認識したくない程嫌悪し、忌避している姉が。
とうとう、やらかした。
正直、疑いようもない。あの姉なら、やらかしかねないと思う。対象が断トツ絶世の美形と言われる第二王子という点だけは、腑に落ちないところもあったけど、ヴィルト様は生まれのあの問題もあるから、あの脳内イカレ回路の姉なら何らかの僕達には想像もつかない理由で、排そうとしたのだと納得は出来た。
殿下が狙われたあの時、最後まで守りきれれば家だけは罪を免れたかもしれない。でも、殿下は呪いの魔法を受けてしまった。しかも、犯人の自供で姉の罪は確定だ。逃れられるはずもなく、兄様も僕もアルバニア公爵家の終わりを悟った。
逃げる?そんなこと、出来る筈がない。公爵家の誇りを最後まで保つなら、逃げないこと一択しか残されていない。兄様も僕も、こんな状況ならそう思うように育てられてきたし、そう思える自分に誇りを持っている。
お優しい殿下は、それでも姉の罪はまだ確定ではない、と人払いをして、秘密裏に罪を問おうとされたけど。僕達兄弟には、時間の無駄としか思えなかった。
そんな時の、執事からの報告。
姉の、記憶喪失だって?
何を今更馬鹿なことを。そんな上辺だけの嘘で罪を免れられると思っているのかあの姉は。アルバニア公爵家の誇りも無く、そんな戯れ言を口にする姉はどんなに愚かなのか。一度鏡で自分を見てみればいい。面差しこそお父様に似て兄妹皆整ってはいるものの、あの姉だけは、内面の醜悪さが滲み出ているのが丸分かりだ。
人の表面しか見ない人間なら、騙されるだろう。黙っていればただの美少女だ。でも、内面を知れば、姉の味方なんて誰も居ない。
居ない、と思っていた。
今日、この日まで。
目の前の光景が、信じられない。
人払いをして、殿下と兄様と共に姉を、姉の罪を問い詰めていた。案の定、姉は記憶喪失だから分からない、としらを切ろうとしていた。
演技力は中々のものだった。流石というか何というか、普段の姉を知らなければ信じてしまいそうな程に。でもあのトンデモ方向に頭の回る姉なら、記憶喪失のふりなど、朝飯前だろう。
僕は、いや僕達兄弟は騙されたりしない。
そう、思っていたけど、殿下の「ひとまず、昼食にしようか」との一言で人払いを解禁したその後。
まさにそのタイミングが分かっていたかのように大広間の扉から小走りで入ってきて、姉の元に心配そうに駆けつけたのは、あの子爵家の兄妹の妹、カリーナだった。
殿下は何の気無しにその光景を見ていらっしゃったけど、僕達兄弟の驚きは筆舌に尽くしがたいものだった。
だってあのカリーナだ。姉に散々いびられ、詰られ、髪を切られ(あるいは切る要因となっただけだとしても、どちらにしろ原因は姉だ)、良い感情など持つはずもないというのに。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
心底姉を労るように言葉を紡ぐその様子に、嘘は全く見えず。
「大丈夫よ。ありがとう、カリーナ」
言葉を返す姉も、それを当たり前に受け止めて。
まるで、普通の令嬢と侍女のように。
しかも、それだけではなかった。
他の使用人達が大広間に手際よく用意した昼食を前に、姉は。
「ありがとう。いただきます」
礼を言った!挨拶をした!?
天変地異の前触れかもしれない。
いつも「遅いわね!私はお腹減ってるのよ!」とか「こんな粗末な食事を食べさせる気!?私を餓死させる気ね!」など、文句しか言わないあの姉が!
―――まるで普通の人間のようだ。
驚きすぎて、思わず声に出てしまっていたらしい。
「私は普通の人間よ!?」
悲鳴が聞こえた。